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6 荒療治

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「起きてください」


体が揺さぶられ、ゆっくり意識が浮上する。
息を止めていた肺が、一気に空気を吸い込んでむせた。


「げほっ、ごほっ!」

「大丈夫ですか?」

「うん……」


涙で滲む視界に、翡翠の瞳が映りこむ。
こちらをじっと見つめるアルの手には……灰かき棒があった。


「ねぇ、それやめてって言わなかった?」


暖炉の傍にあった灰かき棒。
彼は私を揺り起こすのにそれを使っているらしかった。


「ベッドの王女殿下に手を触れるわけにはいきませんので。他にはナイフくらいしかないんですが、そちらがご希望でしたか?」

「永眠するじゃないの」

「ちゃんと柄の方でやりますよ」

「どっちにしろ棒でつつかれてる図は変わらないじゃない!」

「ああ、そういえば子供がたまにそんな感じで道端の死んだ虫をひっくり返したり」

「黙って」

「黙ります」


髪をぐしゃりとかき上げながら体を起こす。
心臓がバクバク言っているままだ。


「お水ちょうだい」

「………」


無言でグラスを差し出された。


「虫の話をしないなら喋ってもいいわよ」

「虫がお嫌いなんですね」

「好きじゃないけど、さっきのはそれ以前の問題だったわよね」


デリカシーって言葉を知らないんだろうか。


「そういえばイベリス姫はうなされている時、いつも息を止めていますね」

「そうなのよね」

「やっぱりあの時の夢を?」

「あの時?どの時のことを言ってるのか分かんないけど、私はまた寝るから、うなされてたらよろしく」

「灰かき棒でいいんですか?」

「……ナイフよりはマシだわ」

「そうですか」


アルは気の無さそうな返事をして、またドアの傍に下がっていった。







何だかんだで、アルが来てから一週間が経った。
時々カトレアに出くわしてまた嫌味を言われる他は、これと言った事件は起きていない。
元に戻るための情報も得られていないままだ。
図書館に魔法に関する本はあるけれど、人の魂や人格を入れ替えるようなものの記述は見当たらなかった。
やっぱり魔法って言うと火や水を出すようなものばかりのようで。
『もしあったとしても禁術では?』というアルの言葉を受けて禁書庫を開けてもらおうとしたけれど、許可が下りなかった。
完全にとん挫している。


「そもそもイベリス姫はあまり魔法が得意ではないと聞いていますが」

「そうね、簡単な回復魔法しか使えないわ」

「もし魂を入れ替える魔法があったとしてもかなり高度ですよ。イベリス姫が実行するのは不可能でしょう」

「魔方陣を使った可能性もあるじゃない」


独特の図形を描いた魔方陣。
魔法を補助するその図を使えば、その人の力量を超えた魔法を発動することができる。
あとは、自分以外の魔法使いに頼んだか。


「そういえば、アルも魔法が使えるのよね。若返りの魔法なんてすごく高度なんでしょう?」

「まあ、そうですね。前世ではこの手の才能はからっきしでしたが、今の体はそこそこ魔法を扱えるようなので……宝の持ち腐れになってはと、幼いころから訓練しています。おかげで魔力の制御はそれなりに得意になりました。おかげで師匠の魔法を受け継ぐこともできています」

「魔力の量も多いの?」

「いえ、それはそんなに。ですのであまり強力な魔法は使えませんが、使い方次第ではなかなか有用です」


そう、幼い顔で言う。
この容姿はアルの鍛錬の賜物。
イベリスも魔力は多くなくて簡単な回復魔法しか使えないけど、アルのように訓練していたらもっといろいろ出来たのかもしれない。
私が体を借りている間に少しだけでも訓練してあげようかな。
そうしたら身を守ることにつながるかも。


「私もアルを見習わないとね」

「そんなことは初めて言われましたね」

「だって努力家じゃない?」

「それも初めて言われました。イベリス姫は変わっていますね」

「アルほどじゃないわよ……」


そう軽口をたたきながら、いつも通りの道を歩く。
今日は雨だ。
雨は好きじゃない。
もともとの私は別にそこまで嫌いでも無かったはずなのに、イベリスが嫌いだったのか、今日は酷く気分が落ち込んだ。
雨の音を聞くだけで、気分が悪くなってくる。
もしかしたら気圧の変化に弱い体質なのかもしれない。
本当は今日も部屋を出たく無かったけれど、時間がないのだから一日も無駄にはできないと気力を奮い立たせてここに来ている。

宮を出てすぐの渡り廊下。
いつも通るこの場所にも少し降り込んでいるのを見て、これは傘が必要だろうかと足を止めた。
それを見計らったかのように、アルが口を開く。


「いい加減、意味のない図書室通いはやめませんか?」


確かにもう何日も通って、成果は出ていない。
付き合わされるアルも嫌気がさしているのだろうか。


「でも、他に手がかりが無いし……」

「本当に?」

「本当にって……」


どうしたのかと振り返ると、アルは眉を下げて不思議そうな、それでいて困ったような、そんな顔で私を見ていた。


「何?」

「……忘れているだけにしては、不自然ですから、忘れたふりをしているんだと思いますが」

「何よ」


胸がざわざわする。
……雨だからだろうか。
頭が痛い。
これ以上アルの言葉を聞きたくなくて、大股で歩き出した。


「いいから行くわよ!」

「いいえ。実りの無い行動に付き合うのは流石に飽きてきました。今日は僕に付き合ってもらいましょう」


ぐいっと、腕を引かれる。


「ちょ、ちょっと……」


体躯に似合わない強い力だ。
子供だから力が弱いとトラインは言っていた。
だけど最近ようやく散歩という名の運動をしだしたばかりのイベリスは、その力にも勝てないらしい。


「まっ……どこに行くのよ!」


アルは私の腕を引きながら、濡れるのも構わず建物の外へと足を進めた。


「ちょっと、傘!」

「いりませんよ」


私はいる!
しかし私の抗議なんて痛くも痒くも無いというように、アルは歩調を少しも緩めない。
迷いない足取りは建物の裏に周り、茂みを分け入っていく。
体がじっとり雨にぬれ、葉っぱがあちこちにへばりついた。
……ああ、気持ち悪い。
異常なほどその感触に、吐き気を覚える。

すでに五分は歩いているが、誰ともすれ違っていない。
アルが時々不自然に道を変えるのは、人目を避けていたのだろうか。
凄いスキルだ。
そう思っていたところで急にどこかへナイフを投げた。


「今の何?」

「お気になさらず。邪魔な虫が居たので片付けただけです」


まさかまた暗殺者?
いやいやまさかね。
こんな片手間にやっつけられたら流石に気の毒だろう。
きっと本当に虫だったんだ。
放置しておくと危険な毒虫とか。


「そんな虫がいる中に王女を引っ張り出すのはどうかと思うんだけど!」

「必要なことですのでお許しください」


許しを乞う気など全くなさそうな声でそんなことを言う。
これは簡単には止まってくれなさそうだ。
髪にまで葉っぱを絡みつかせながら茂みを抜けた。
マーヤに後で怒られるなぁ……
それがよほど憂鬱なのか、妙に心拍数が上がっている気がする。

そうして歩いた先。
見えてきたのは、ただの壁だ。
高くそびえる城壁。
そりゃそうだ。
侵入者を避けるため、城はぐるりと壁に囲まれている。
当たり前の光景だ。
それなのに、私の心臓はずっと嫌な鳴り方をしていた。
……嫌なのは、マーヤに怒られることじゃない?
この場所が嫌なんだと、なんとなく察した。


「ね、ねぇ」


これ以上行きたくないと腕を引っ張っても、相変わらずびくともしない。
そのままアルは、壁を沿うように歩き出す。


「アル!」

「はい」

「どこに行くの、ってば!」

「城壁の向こうに行きます」

「何それ、何も無いわよ!」

「何もない?違いますよね」


アルが私の方を振り返る。


「この壁の向こうには、湖があるじゃないですか」

「湖って……」

「知ってますよね?」

「そりゃ、もちろん知ってるけど……」


そう、この城は湖畔に聳えていた。
湖に対しては高い城壁を構え、常に見張りが立っているので、こちらから侵入しようとする者はまずいない。
おかげで、湖以外の場所へ騎士たちを多く配置できるようになっている。

確かに、青の湖と呼ばれるその場所は美しい。
生まれた時から見慣れているイベリスも、大好きな景色だった。
……大好きなはずなのに、ここに来ると嫌な感じがする。
それが何故なのかは……知らない。


「なんで、湖なんかに連れてくるのよ……」


私の問いかけにアルは足を止め、こちらを振り返った。


「別の世界のお嬢さん、貴女がイベリス姫の体に入ったのはいつですか?」

「え……」


思わぬ問いを返されて、言葉を失う。
しかし私のその反応を知っていたかのように、翡翠が微笑む。


「十日ほど前、ですよね?」

「なんで」

「貴女はそれくらいの時期に、城壁へ来ていますから」


そう言いながらその場にあった切り株を足場にして、すぐ側の城壁をトントン叩く。
ここが目的の場所だったのか。
アルが叩いているのは私の身長ほどの高さの場所だ。
まるでそこを叩くために切り株が用意されているかのような配置。
叩かれた石が一つ、少しずつ奥にずれていく。
かなりの重さがあるはずなのに、いとも簡単に。


「まさか」


三十秒もしないうちに、石が向こう側へ落ちた。
しかし何も音がしない。
石の大きさは幅五十センチ、高さは三十センチくらい。
厚みは一メートル近くあるはずだ。
普通なら音がする。
アルが何かしたんだろうか。
重い石を動かせることといい、風の魔法で補助しているのかもしれない。
それにしても……我が城が誇る城壁の一部が、ジェンガみたいに外されるなんて。


「……城壁に、穴が」

「知る人ぞ知る穴場です」

「面白くないわ、それ」

「それで、思い出しました?」


私のツッコミを完全にスルーして、アルはそう続ける。


「思い出す……って」


何のことだかわからない。
ただただ、頭が痛い。
気持ち悪い。


「ダメですか、では荒療治になりますよ?」


アルがそう言った次の瞬間、体がふわりと浮かんだ。


「ひえ!?何!?」

「浮かせてます」

「それはわかるわよ!何するの!?」

「分かりませんか?」


分かるわけないじゃないの!
おそらく魔法だ。
でもこんなことをされた記憶はイベリスにも無い。
風の魔法は物を浮かせられるとはいえ、制御が難しいのであまり使わないはずだ。
物を投げる時に加速させるとか、多少荒っぽい使い方の方が向いていると聞く。
軽い物ならともかく、人間まで浮かせるなんていうのは、制御に長けているというアルならではなのだろう。

生まれて初めての感覚に身を縮こまらせた。
同じようにアルも体を浮かせ、人一人通れる程度の城壁の穴へと体をゆっくり滑らせていく。
私の体も魔法で無理やりそこを通り抜けさせられた。
眼下に広がるのは雨粒に歪む広い水面。
いつもの色は、アルの目にも似た、透き通った、どこまでも青い色のはず。
しかし雨雲にさらされた水面は暗い鈍色で、巨大な生き物が口を開けているようにも見えた。
……怖い。


「貴女は元に戻りたいと言いました。イベリス姫が魔法を使って二人を入れ替えたのだと。それを戻すための方法を探したいと」

「それが、何……」

「それならまず最初にここに来るべきです。だけど貴女はあれ以来一度もここに来ていない。入れ替わる鍵がここにないと思っているというよりは、忘れたかのように。いや、だけど忘れているなら忘れているで、貴女の行動は不自然でした」

「だから、何が!」


聞いちゃいけない、そう思うのに問いかけが口をつく。
アルの目が、私を見据えた。


「どうして、入れ替わる直前にイベリス姫が何をしていたのか調べようとしないんです?」


寒いのだろうか。
体が震える。


「マーヤは言っていました。イベリス姫はを発端にした数日間のことを忘れていると。だけどそれ以前のイベリス姫の記憶は貴女にあるんですよね。カトレア姫のことをあれだけ話せたんですから。だったら、記憶が数日抜けていることも、自分が入れ替わったのがその間であることもわかっているはずです。だけど貴女は、誰にもその時のことを聞いていない」

「アル……」

「マーヤ達には好都合だったでしょう。話しにくいでしょうから。だけど貴女は違う。真相を知りたいなら、聞くべきでした」

「だって、聞いたりしたら……入れ替わりがばれて怪しまれて……」

「本当に?そう思いますか?ショックで記憶を失っているだけだと、今も周りが思っているのに。聞くのがそんなに不自然なことだと?元に戻りたいと願っているなら、多少のリスクを負ってでも聞くものです。でも貴女はそうしなかった」


いつの間にか耳を押さえていた。
そんな私を、憐れむように見ながら。
アルは何か掴んでいたものを手放すように、手を開いた。
その瞬間、ずっと頼りない何かに支えられていた体が傾ぐ。
一瞬の浮遊感と、体の中身を上空へ置き去りにするような落下感。
ドレスがめくれあがり、髪の毛が浮かび、声にならない叫びは頭上に流れていく。
咄嗟に伸ばした手は誰にも掴まれない。
見上げた先には……


「どうして」


その目は、綺麗な翡翠だった。
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