君と暮らす事になる365日

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やっぱり一本後の電車は色々違うなあ、と得した気分になりながら、依里は仕事に向かった。途中の大通りの電子公告に、見慣れた顔を発見しても、一瞬素通りしかけた程度にである。

「……あいついつの間に料理本作ったわけ」

依里は広告の中身が、イケメンシェフの一皮むけた料理! 家庭料理だってここまで変わる! といった感じのタイトルであるため、家庭向けの、それなりに料理をする人向けの、美味しい物を作るための本なのだろう、と判断した。
なんでも、電子書籍では数百万ヒットのセラー本らしい。
あいつに人に説明する能力あったかなあ……だがそう言う時はきっと、仕事仲間たちが助けてくれているのだろう。
通訳が必要な相手に取材など、カメラマンも編集も校正も、さぞかし大変だっただろう……
大匙山盛り、の山盛りの加減が、料理によって微細に違う、と言ったのはたしか、あいつの下の弟である。兄ちゃんの作るラーメンがおいしすぎるから、おれも大学に入って一人暮らししてる時作りたい、って言って、美味しいが極められなかった弟だ。
ちなみにその弟、学園祭の際に、ラーメン店をサークルで行い、結果そのサークルは百万単位の利益をあげたそうだ。
彼の友人たちは、彼がラーメン屋さんを経営すると思っていたそうだが、実際に彼が目指したのは農家である。
実家を継いだ形である。兄ちゃんたちが後を継がないなら、この大きな畑を何に使うんだよ! という立派な心掛けからの行動だとか、ばあちゃんたちの野菜がおいしすぎたから、その味を途絶えさせたくなくてだとか、噂は色々流れたものだ。
そして彼は元気に毎日、野菜をセリにかけているそうだ。
さてそんな弟持ちのあいつは、料理によって大匙山盛りの基準が異なる変人であるため、それを再現するには0.01単位のグラムが計量できる計量器が必要である。
だがそんな物一般家庭にはないから、そのあたりはどうしたんだろう……
本を買わないとは思っている物の、依里はそんな事が少しだけ気になった。
そしてそのまま電車、バス、と乗り継いでいき、会社の入っているビルに入った時だ。

「ちょっと環さん! どういう事よ!!!」

依里はだしぬけに声をかけられて、かなり強引に腕を掴まれた。
腕を掴まれて、反射的に肘鉄を打たなくなったのは、依里が大人になった証拠である。中学時代だったら肘鉄が入り、次に相手の出方次第で、踵落としくらいは決めていた。
面倒だな、誰だよ、なんて思いながら振り返ると、そこにはやつれた顔の井上が立っていた。
もう井上さんと呼びかけるのも嫌になる、仕事押し付けウーマンである。
部署ももう違うし、関わったりしないと思っていたのに。

「……なんです、井上さん」

「何で私じゃなくて、あなたが営業課の補佐に配属されたのよ! あなたみたいに仕事がいつまでたっても終わらない人よりも、定時に仕事を全て終われる優秀なわたしの方がふさわしいでしょ!」

め ん ど く せ え。

そんな事を心底思った。それ以外に何を思えというのだ? あんた私にどれだけ仕事押し付けてきたって思ってんだよ。私の残業はほとんど、他人が定時ぎりぎりに押しつけてきた仕事をさばくためだからな?
色々言いたい事があったわけだが、それをここでぶちまけるのは大人じゃないな、と依里は判断したため、勤めて冷静に言った。何しろここには人目が多い。相手が非常識だと、ここで色々な人に目撃者になってもらおうではないか。

「配属が変わるのは、私の一存で決まる事ではありません。色々な方が見て判断する事ですので、井上さんの仕事ぶりが評価されれば、井上さんもそうなるのでは?」

文句があるなら私じゃなくて上にいえ、と言外に匂わせた依里は、そんな言葉さえ、気に食わないらしい井上が手を振りかぶったため、これは叩かれた方がより一層被害者になれるな、と思った。
そのため受け身をとる準備をして、その拳だか平手打ちだかを受け止めようとした時だ。

「何をしているんだ!」

鋭い声が二人に投げかけられ、依里の前にそこそこいいスーツの背中が割って入った。
残念、と一瞬思ったのだが、その彼……柳川だ……が井上に言う。

「いきなり暴力なんて何を考えているんです!」

「そこの女が生意気な事を言ったのが悪いのよ!」

「あなたの方が失礼な事を言っていた、と守衛から聞いていますよ。環さんが出来が悪い? 仕事が遅い? あなた方が環さんに寄ってたかって仕事を押し付けて帰っていたからでしょう。そう言った事が何も気付かれないで、いつまでもまかり通ると思っていたんですか?」

柳川が冷静に言うからか、井上は赤くなったり青くなったりしながらも

「その……えっと……」

と言っている。イケメンでエリートで力の差がある男だから、色々な手段に出られないのだろう。……腕っぷしだけだったら、自分も井上程度に負ける事はないのだが、そんなの井上は知らないのだろう……知らないって危険だ。
なんて柳川に庇われながら思っていたわけだが、柳川がさらに言う。

「あなた方総務課の社員が行っていた事は、証言証拠がそろい次第、処分に掛けられる事になっています」

「なんでよ! 私たち何も悪い事してないわよ!」

「一人の女性社員に仕事を山のように押しつけて、ゆうゆうと遊び歩く社員など、この会社にはあまりいてほしくありませんからね」

「訴えてやる!」

「どうぞどうぞ、証拠があるのでしたら、ご自由に。証拠をねつ造した場合の処分は、今よりはるかに重くなる事も視野に入れての選択肢でしたら、構いませんよ」

井上はわなわな震えて、足音高く去って行った。
そこで柳川が、依里を見やった。

「大丈夫ですか、まさか昨日の今日でこうなるとは」

「女性の嫉妬はどう動くかわからないものですからね……、それにしてもありがとうございます、あのままだったら暴力を振るわれていました」

「あなたが怪我をしなくてよかったですよ。井上さんは爪も飾っていますから、きっと結構な切り傷になったと思いますし」

ずれた会話だな、と思いながらも、始業時間が近付いている。
依里は頭を下げて、柳川に言った。

「色々ありがとうございます、それでは仕事がありますので」

「そうですね、では、今日はお昼をご一緒しませんか?」

「私今日は、用意があるので……」

「では社食でお会いしましょう、あなたには聞きたい事がいくつかありますので」

柳川はそう言って、さわやかな笑顔を見せて去って行った。
去って行かれてもな……誰かと会社で食べる事滅多にないから、何話せばいいかわからないんだが……と思いつつも、依里も急ぎ足で、営業補佐の仕事場に向った。

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