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自己顕示欲
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自己顕示欲が全く無い人というのは存在しないと思う。どんなに控えめな人物であっても、当人が意識しているかどうかは別にして、多かれ少なかれ自己顕示欲はある。
その方法は様々である。私のように思ったことを文章に書きだして読んでもらいたいというのもその一つ。私のだ分をここに書いたところで金になるわけではないけれど、それでも誰かが読んでくれるというだけで満足なのである。
自己顕示力の中には、犯罪になるものも存在する。今問題になっているのは職場や客として入った店で問題行動を撮影し、アップしたりするものである。盗撮映像をアップしたりするものも含めることができるかもしれない。
犯罪ではなくても、注目を集める映像を取るために命を掛けたり、撮影に夢中になるあまり命を落とす人までいる。それだけのリスクを冒しても自己顕示力の魅力の方が上回るのである。
もっとも、映像をネットにアップするということそのものが自己顕示力そのものである。その中には問題になるものもあり、その一部が法に触れたり危険であるにすぎない。
常識的に考えて衣服を着用しているべき場所で裸になったり水着姿になったりする行為も自己顕示力のなせることであろう。違法ではないにしても、路上で露出の多い服装でいれば注目されることは想像できるから、そういう行動も自己顕示力の一種といえる。
女性に限らないが、「自分のカラダを他の人に見てほしい」と考える人は一定の割合でいることは確実である。その手段はいくつかあると思うが、美術モデルは姿勢を崩さない状態を長時間保たなければならないことを考えればかなりの「重労働」であるし、そういう仕事はどこでもいつでも、というわけにはいかない。もちろん、知名度が高いモデルは別であるが、知名度を上げる前に相当の苦労をしているはずである。
もちろん内心そう思っているとしても、実行する人は限られるだろう。家族は職場、学校などに知れ渡ったら多くの場合「何事も無かったように」とはいかなくなる。それはどのような形であれ考えられることだからである。
ついでに書くと、「露出の多い水着」というのは、水泳をする目的ならばどう考えても合理的とは思えない。これは女性用だけではなく、男性用もそうである。ごく一部の例外を除き男性用はパンツというのが当然のようになっているが、本来は男女問わずウェットスーツのように全身を包むものの方が合理的なはずである。特に女性用のビキニやタンキニ、男性用のパンツタイプというのは尿意や便意をもよおしてトイレに駆け込んだ時に脱ぐのが楽という以上の意味を見出せない。特に「スクール水着」の場合男子用はパンツに限定されていることがほとんどだが、男性(男児を含む)は羞恥心など無いというのはとんだ間違いで、男性でも恥ずかしいと思う人は少なからずいるはずである。男性であれば上半身を晒すことを強制していいなどということにはならない。
歴史的にみて、女性だけが胸を隠すというのは西洋独自の習慣である。遺跡にブラジャーと思われる水着の女性が描かれているらしい。フラ(一般的にはフラダンスというが、フラだけで踊る意味を含む)では女性はブラジャーを着用しているが、明らかに西洋文化の影響によるものである。既に他でも書き込んだが、日本の海女も本来褌一つで仕事をしていたのであり、当然のことながら上半身を隠したりはしていなかった。今でも上半身裸で生活する部族は男女問わず胸を隠したりしていない。
プールや水泳場で水着姿の女性が勝手に撮影されたりすることが問題になったりするが、他人を本人の許可なく撮影することは、男女、服装を問わずやってはいけないのである。ニュース番組などでそういうところばかり切り取って放送されるから、「それ以外なら撮影してかまわない」と思い込む人が現れる。
公衆の場でスカートの中を撮影されたり、見知らぬ人に触られたりすることは嫌がるのが普通であるから、好意的に受け入れたり積極的にさせたりする行為も自己顕示力ということができる。当然ながら公衆の場でこういうことをさせることはさせた方も犯罪になる。そのような映像をネットなどにアップした場合も同様である。
プロのアスリートや芸能人というのは親によって無理やりさせれられた子役などを除き、自己顕示力が特に強い人たちであることは間違いないだろう。常に観客やスタッフに囲まれ、世間一般に自分の姿や時には私生活が晒される可能性もあるわけだから、それくらいでなければやっていけない。
特に、(美術モデルを含む)ヌードモデルや、ストリッパー、(騙されて出演させられた場合などを除く)アダルトビデオ出演者などは「全裸」を晒すわけだから、全身が自己顕示力といっても間違いではない。もちろん報酬が目的ということもあるだろうが、それだけなら他にいくらでも手段はあり、ごく一部を除き報酬もそれほど高くは無いことを考えれば「見られることに快感を覚える」性格なことは確かである。全裸になるわけではないが、ボディビルダーなども近いものがある。筋骨隆々な彫刻の多くが全裸であることを考えれば、本音では全裸を見てもらいたいと思っているボディビルダーもいるかもしれない。そう考えると、この二つの職業はまるで違うようで実は極めて似通っているともいえる。
もちろん、アダルトビデオ出演者(大半は女性であろう)の中には高収入を得ている者もいる。これを持って「金目当て」などと考えるのはとんでもないことで、どんな業界であってもトップクラスは高収入を得ているものである。日本人女性の1/200とか1/400が経験者だというデータから、その割合はいかに低いかということは容易に想像がつく。もちろん、拘束時間当たりの収入はトップクラスでなくても同年輩の女性よりは高いであろうが、大半は副業や単発、短期間の出演ということを考えれば、周囲、特に家族や同僚などにばれるリスクと天秤にかければ到底割に合うものではない。ごく一部の例外を除き、周囲に公表していることはほぼ無いからである。「すべての職業に貴賎は無い」というのは建前にすぎず、ほとんどの人は本音としては(たとえ副業可の職場であったとしても)従業員や家族がそのような「仕事」をすることを容認していない。
女性の場合は、裸になるというのは注目を集める一番簡単な手段でもある。無名のアイドル、タレントであっても、週刊誌にヌード写真を掲載しただけで広く名前を知られるようになる。言い換えると、話題作りのために裸になるということは「最終兵器」を使ってしまうのと同じで、それ以上は何もできることは無くなってしまう。マイナスイメージの傾向があるのはそれが理由でもあろう。
もちろん、女性芸能人が裸になるのは自らの意志とは限らない。事務所からの要求、圧力などでそうせざるを得ない場合もあるだろう。かつて桃井かおりが言ったことがあるが、
「カメラの前で裸になるような仕事は、本当にやりたいのでなければやるべきではない」
という考えこそ正しいと思っている。それくらいの覚悟でやったのであれば後悔することはないだろうが、金に釣られてやったとか、話題作りなどの理由でやったのであれば、その後の人生に禍根を残すことになりかねないからである。契約にもよるだろうが、権利を本人が持っていない場合(大半がそうであろうと思われる)、脱ぐ仕事とは全く無関係な分野で知名度が上がったり、芸能界を引退して一般人として生活していても、映像が掘り出されて現在の生活に影響が出る可能性も無いとは言い切れない。特にほとんどのアダルトビデオ女優などは活動期間はごく僅かで「一般人」に戻ってからの方がはるかに長いはずだが、家族や知人、職場に隠している場合はその後の人生を「ばれるかもしれない」とおびえながら生活することになりかねないからである。デジタル映像化された今では違法を含めて完全なコピーが繰り返され、一度公開されたものを消し去ることは不可能である。
桃井かおりがこの発言をしたのは私の記憶に間違いなければ1990年頃のことである。当時はインターネットも無ければデジタル映像も無かった。素人がアダルトビデオやヌード写真撮影に応じた映像が漏れる確率は今とは比較にならないくらい低かったのは間違いない。それでも身内などにばれたこともあったようだが、多くは出演者本人の油断によるものであろう。
宮沢りえの写真集出版後しばらくの間は、
「ヌードは芸術である」
という風潮が一般的になり、芸能人はもちろんのこと一般人もごく普通にテレビなどで公表していた時代だった。老若問わず(但し当時は中高年女性を馬鹿にする風潮があったこともあり、若い女性がほとんどだったのも確か)ごく軽いつもりで裸になり、公共の電波や印刷物に発表することが多かった。男性の例はあまり聞かない。発表したが最後インターネットで世界中に広まる時代が来るとは思ってもいなかったのだろう。
アダルトビデオ女優は(職業としての)俳優ではない。もちろん例外はあるが、ほとんどは演劇の経験も無ければ下積みも無い。(本物の)俳優は出演した作品が裸やエロを売りにするものであっても、演技についてまるきりの素人がいきなり主役に登用されることはあり得ない。スカウトやコンテストなどで賞をとったことがきっかけでいきなり主役になる場合でも所属プロダクションや劇団で時間をかけて演技指導を受け、その上でドラマや映画などに登用されているが、アダルトビデオ作品の多くは素人っぽさの方が歓迎されることが多く、作品としても大きく異なる。
言うまでも無いことだが、たとえ女性であっても子供(概ね小学生以下)の場合は、自己顕示欲を満たすために裸になろうとするはずはない。かつての日本では股間をそのまま映すことはタブー視されていたにもかかわらず、男女問わず陰毛が生えるまでは問題ないとされていた。成人であれば自分の意志と判断で決めることができるが、子供の場合は大人の指示に従うことしかできないから、本人が希望して裸になったわけではない。「裸になった」のではなく、「裸にされた」のである。親の許可は得ていたのだろうが、本人の意思など得ていたかどうかわかったものではないし、たとえ得ていたとしても子供が法律上有効な契約を結ぶことができないように、判断する力などありはしないから意味が無い。今でこそ子供に対する虐待が問題視されるようになったが、かつての日本ではいかに子供の人権など無視されてきたかが分かる。
私がいま執筆している(降りて来たときしか書かない(書けない)ので間隔が随分空いているが)はこの時代を背景にしているので、当時の価値観で大人と子供の関係を描いている。
その方法は様々である。私のように思ったことを文章に書きだして読んでもらいたいというのもその一つ。私のだ分をここに書いたところで金になるわけではないけれど、それでも誰かが読んでくれるというだけで満足なのである。
自己顕示力の中には、犯罪になるものも存在する。今問題になっているのは職場や客として入った店で問題行動を撮影し、アップしたりするものである。盗撮映像をアップしたりするものも含めることができるかもしれない。
犯罪ではなくても、注目を集める映像を取るために命を掛けたり、撮影に夢中になるあまり命を落とす人までいる。それだけのリスクを冒しても自己顕示力の魅力の方が上回るのである。
もっとも、映像をネットにアップするということそのものが自己顕示力そのものである。その中には問題になるものもあり、その一部が法に触れたり危険であるにすぎない。
常識的に考えて衣服を着用しているべき場所で裸になったり水着姿になったりする行為も自己顕示力のなせることであろう。違法ではないにしても、路上で露出の多い服装でいれば注目されることは想像できるから、そういう行動も自己顕示力の一種といえる。
女性に限らないが、「自分のカラダを他の人に見てほしい」と考える人は一定の割合でいることは確実である。その手段はいくつかあると思うが、美術モデルは姿勢を崩さない状態を長時間保たなければならないことを考えればかなりの「重労働」であるし、そういう仕事はどこでもいつでも、というわけにはいかない。もちろん、知名度が高いモデルは別であるが、知名度を上げる前に相当の苦労をしているはずである。
もちろん内心そう思っているとしても、実行する人は限られるだろう。家族は職場、学校などに知れ渡ったら多くの場合「何事も無かったように」とはいかなくなる。それはどのような形であれ考えられることだからである。
ついでに書くと、「露出の多い水着」というのは、水泳をする目的ならばどう考えても合理的とは思えない。これは女性用だけではなく、男性用もそうである。ごく一部の例外を除き男性用はパンツというのが当然のようになっているが、本来は男女問わずウェットスーツのように全身を包むものの方が合理的なはずである。特に女性用のビキニやタンキニ、男性用のパンツタイプというのは尿意や便意をもよおしてトイレに駆け込んだ時に脱ぐのが楽という以上の意味を見出せない。特に「スクール水着」の場合男子用はパンツに限定されていることがほとんどだが、男性(男児を含む)は羞恥心など無いというのはとんだ間違いで、男性でも恥ずかしいと思う人は少なからずいるはずである。男性であれば上半身を晒すことを強制していいなどということにはならない。
歴史的にみて、女性だけが胸を隠すというのは西洋独自の習慣である。遺跡にブラジャーと思われる水着の女性が描かれているらしい。フラ(一般的にはフラダンスというが、フラだけで踊る意味を含む)では女性はブラジャーを着用しているが、明らかに西洋文化の影響によるものである。既に他でも書き込んだが、日本の海女も本来褌一つで仕事をしていたのであり、当然のことながら上半身を隠したりはしていなかった。今でも上半身裸で生活する部族は男女問わず胸を隠したりしていない。
プールや水泳場で水着姿の女性が勝手に撮影されたりすることが問題になったりするが、他人を本人の許可なく撮影することは、男女、服装を問わずやってはいけないのである。ニュース番組などでそういうところばかり切り取って放送されるから、「それ以外なら撮影してかまわない」と思い込む人が現れる。
公衆の場でスカートの中を撮影されたり、見知らぬ人に触られたりすることは嫌がるのが普通であるから、好意的に受け入れたり積極的にさせたりする行為も自己顕示力ということができる。当然ながら公衆の場でこういうことをさせることはさせた方も犯罪になる。そのような映像をネットなどにアップした場合も同様である。
プロのアスリートや芸能人というのは親によって無理やりさせれられた子役などを除き、自己顕示力が特に強い人たちであることは間違いないだろう。常に観客やスタッフに囲まれ、世間一般に自分の姿や時には私生活が晒される可能性もあるわけだから、それくらいでなければやっていけない。
特に、(美術モデルを含む)ヌードモデルや、ストリッパー、(騙されて出演させられた場合などを除く)アダルトビデオ出演者などは「全裸」を晒すわけだから、全身が自己顕示力といっても間違いではない。もちろん報酬が目的ということもあるだろうが、それだけなら他にいくらでも手段はあり、ごく一部を除き報酬もそれほど高くは無いことを考えれば「見られることに快感を覚える」性格なことは確かである。全裸になるわけではないが、ボディビルダーなども近いものがある。筋骨隆々な彫刻の多くが全裸であることを考えれば、本音では全裸を見てもらいたいと思っているボディビルダーもいるかもしれない。そう考えると、この二つの職業はまるで違うようで実は極めて似通っているともいえる。
もちろん、アダルトビデオ出演者(大半は女性であろう)の中には高収入を得ている者もいる。これを持って「金目当て」などと考えるのはとんでもないことで、どんな業界であってもトップクラスは高収入を得ているものである。日本人女性の1/200とか1/400が経験者だというデータから、その割合はいかに低いかということは容易に想像がつく。もちろん、拘束時間当たりの収入はトップクラスでなくても同年輩の女性よりは高いであろうが、大半は副業や単発、短期間の出演ということを考えれば、周囲、特に家族や同僚などにばれるリスクと天秤にかければ到底割に合うものではない。ごく一部の例外を除き、周囲に公表していることはほぼ無いからである。「すべての職業に貴賎は無い」というのは建前にすぎず、ほとんどの人は本音としては(たとえ副業可の職場であったとしても)従業員や家族がそのような「仕事」をすることを容認していない。
女性の場合は、裸になるというのは注目を集める一番簡単な手段でもある。無名のアイドル、タレントであっても、週刊誌にヌード写真を掲載しただけで広く名前を知られるようになる。言い換えると、話題作りのために裸になるということは「最終兵器」を使ってしまうのと同じで、それ以上は何もできることは無くなってしまう。マイナスイメージの傾向があるのはそれが理由でもあろう。
もちろん、女性芸能人が裸になるのは自らの意志とは限らない。事務所からの要求、圧力などでそうせざるを得ない場合もあるだろう。かつて桃井かおりが言ったことがあるが、
「カメラの前で裸になるような仕事は、本当にやりたいのでなければやるべきではない」
という考えこそ正しいと思っている。それくらいの覚悟でやったのであれば後悔することはないだろうが、金に釣られてやったとか、話題作りなどの理由でやったのであれば、その後の人生に禍根を残すことになりかねないからである。契約にもよるだろうが、権利を本人が持っていない場合(大半がそうであろうと思われる)、脱ぐ仕事とは全く無関係な分野で知名度が上がったり、芸能界を引退して一般人として生活していても、映像が掘り出されて現在の生活に影響が出る可能性も無いとは言い切れない。特にほとんどのアダルトビデオ女優などは活動期間はごく僅かで「一般人」に戻ってからの方がはるかに長いはずだが、家族や知人、職場に隠している場合はその後の人生を「ばれるかもしれない」とおびえながら生活することになりかねないからである。デジタル映像化された今では違法を含めて完全なコピーが繰り返され、一度公開されたものを消し去ることは不可能である。
桃井かおりがこの発言をしたのは私の記憶に間違いなければ1990年頃のことである。当時はインターネットも無ければデジタル映像も無かった。素人がアダルトビデオやヌード写真撮影に応じた映像が漏れる確率は今とは比較にならないくらい低かったのは間違いない。それでも身内などにばれたこともあったようだが、多くは出演者本人の油断によるものであろう。
宮沢りえの写真集出版後しばらくの間は、
「ヌードは芸術である」
という風潮が一般的になり、芸能人はもちろんのこと一般人もごく普通にテレビなどで公表していた時代だった。老若問わず(但し当時は中高年女性を馬鹿にする風潮があったこともあり、若い女性がほとんどだったのも確か)ごく軽いつもりで裸になり、公共の電波や印刷物に発表することが多かった。男性の例はあまり聞かない。発表したが最後インターネットで世界中に広まる時代が来るとは思ってもいなかったのだろう。
アダルトビデオ女優は(職業としての)俳優ではない。もちろん例外はあるが、ほとんどは演劇の経験も無ければ下積みも無い。(本物の)俳優は出演した作品が裸やエロを売りにするものであっても、演技についてまるきりの素人がいきなり主役に登用されることはあり得ない。スカウトやコンテストなどで賞をとったことがきっかけでいきなり主役になる場合でも所属プロダクションや劇団で時間をかけて演技指導を受け、その上でドラマや映画などに登用されているが、アダルトビデオ作品の多くは素人っぽさの方が歓迎されることが多く、作品としても大きく異なる。
言うまでも無いことだが、たとえ女性であっても子供(概ね小学生以下)の場合は、自己顕示欲を満たすために裸になろうとするはずはない。かつての日本では股間をそのまま映すことはタブー視されていたにもかかわらず、男女問わず陰毛が生えるまでは問題ないとされていた。成人であれば自分の意志と判断で決めることができるが、子供の場合は大人の指示に従うことしかできないから、本人が希望して裸になったわけではない。「裸になった」のではなく、「裸にされた」のである。親の許可は得ていたのだろうが、本人の意思など得ていたかどうかわかったものではないし、たとえ得ていたとしても子供が法律上有効な契約を結ぶことができないように、判断する力などありはしないから意味が無い。今でこそ子供に対する虐待が問題視されるようになったが、かつての日本ではいかに子供の人権など無視されてきたかが分かる。
私がいま執筆している(降りて来たときしか書かない(書けない)ので間隔が随分空いているが)はこの時代を背景にしているので、当時の価値観で大人と子供の関係を描いている。
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