記憶の先に復讐を

秋草

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第一章

貴族の疑念

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 王子の様子がおかしい。そう感じたのは、チェスを始めてそう経たないうちだった。いつもであれば仕事の愚痴でも溢しながら澄ました微笑みで迷いのない一手を打ってくるのだが、今日は考え込む時間が長い。チェスの手を考えているほかに、何か気がかりなことがあるのだろう。その証拠、とでも言おうか、たまに扉の方に目をやりそわそわとしている。

「どうなさいました? 次、殿下の番ですよ」

 日が完全に沈み、手元を照らすのが部屋のランタンばかりになった頃。ついに考え事の方に没頭し始めた王子に声をかければ、王子は伏せていた目だけをこちらに向け、口元にいつもの微笑みを浮かべた。

「うん?……いや、なんでもない」
「何もないことはないでしょう。貴方が人前で考え事など珍しい」

 たとえ親友だと公言している俺の前でも、そうそうないことだ。頭の回転が早く決断も早いこの人には、時間をかけて思い悩むことなど殆どないのだから。……それがどうしたことか。これでは、そう、まるで恋人が亡くなった時のようだ。
 まあ、そんなことは言えるはずもなく、軽口を叩いて親友らしい言葉を交わしていたら終いには「まあ、そんなに気にするな。」などと言われてしまった。
いや、気にするだろう、それを言われたら余計に。
 こうなったら少し探りを、と考えたところで扉が開き、明日は嵐かと思うような、感情の見える顔をしたフィスが姿を現した。

「ご歓談中申し訳ございません、殿下。お伝えしたいことが」
「目が、覚めたのか」

 目が覚めた? 一体誰のことを言っている? 国王夫妻の体調不良など全く聞いていないし、目覚めを待たなくてはならないような来客の話も全く知らない。となれば、意識不明だった誰かを保護しているとしか考えられないか。

「すまないが、今日はここまでにしよう。明日は午前から軍議だったな、よろしく頼むぞ、アドレイ」
「ええ、それはもちろん。それよりも、一体誰が目覚めたと?」
「詳しいことは今度話す。ではな」

……色々と気になりすぎて今日は眠れる気がしないのだが、明日の軍議は寝ないでいられるだろうか。


**********


「ふぁあ……」
「おっと、随分と大あくびですね。よく軍議を澄まし顔のまま乗り越えられたものです」
「父上が正面にいては気が抜けないに決まっているだろう。ったく、昼休みはたっぷり寝させてもらうから起こすなよ」

 眠れぬ夜を過ごした後の、耐えがたいほどに強烈な睡魔。真正面が父上でなければ軍議も即寝だっただろう。感謝します、父上。

「ゲイル、たしか午後は王宮で…………」
「軍事費運用に関する報告書が上がってきていますので、それをまとめてお父上にお届けする業務になるかと」
「やはりな、最悪だ」

 ここに来てデスクワークだ。これは神か王が俺に寝ていいと言っているに違いない。よし、仕事をしながら寝てやろう。そんなことを考えた、その直後。

「お昼休憩で睡魔退散とならなかった場合に備えて、コーヒーと紅茶を樽でご用意しますね」
「馬鹿かお前やめろ」

 睡眠を邪魔されたくない体質なのか、俺は紅茶やコーヒーを二、三杯飲んだだけで気分が悪くなる。それを知っているはずのこの男、俺の眠気を殺すための冗談かと思っていたら一度だけ本当に樽でコーヒーを用意してきたことがあるのだ。あの日は結局、一晩眠れず気分も優れずで最悪な思いをした。そんな思いをしてまでなぜ樽分を飲みきったかは……まあ、コーヒー豆自体に罪はないからだ。

「午後の仕事が終わったら、今日はたとえ王子に呼ばれようとも帰るからな」
「かしこまりました」

 とはいえ……こういう日に限って急用が発生するのが世の常、そして大抵それは王子からの呼び出しである、が……。


 この日、いつもなら早く帰ろうと必死になっている俺を揶揄うように発せられる王子からの命令は、何もなく終わった。沈みかけてもいない夕陽を眺めての帰路というのは、久しぶりだが拍子抜けであまりすっきりはしないものだった。

 一体王子は、何を隠しているのだろう。
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