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第5章 カリギュラの枷鎖
1.罪人のしるし
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裸で独り残されてもふとんがかけられていたぶんだけ、まだ救いはあるはず。
自分に云い聞かせながら時間を見るとまだ四時で、あと三時間くらい眠っても出勤するには余裕があった。土曜日、紫己は基本休みで、出社するとしても遅くでかまわず、だから朝食はのんびりと用意できる。けれど、眠れない。
紫己と会ってからのことをたどって反すうしてみた。文句のつけようがない恋人と、素っ気ない同居人と、どちらが本当の紫己なのか、答えは出ない。もしくは、朱実が前者だと思いたがっているから答えに詰まる。
紫己が起きてきたのは六時をすぎた頃だった。
朱実は目を閉じて眠ったふりをしながら神経を尖らせ、リビングに入ってきた紫己の気配を窺った。数歩、足音が聞こえたあと立ち止まり、紫己は何をしているのか気配が消え、朱実はやがて目を開けた。
すると、朱実が目を向ける寸前、紫己はすでにリビングを出ていこうとしていて、その顔を見ることはかなわなかった。
耳をすますと、パウダールームにいったのだろう、ドアは開けっぱなしなのか、棚を漁る音、そして蛇口から水の出る音が続いた。
朱実は音を立てないように起きて、ベッドルームに向かう。
歩くさなか、紫己が放ったしるしが体内からこぼれてきて腿の内側を這い落ちる。
紫己が無防備に慾を放つのは、朱実が避妊していると知っていて、なお且つそれを疑っていないということだ。もしくは、妊娠してもかまわないのか。
半年まえ、妊娠していないとわかったときに見せた表情は、朱実が感じたとおり安堵でなかったとしたらなんだったのか。もし、残念だという気持ちであったなら、紫己は、飽きっぽいという自覚なしで安易な判断をしていたことになる。そもそもがだらしなくて、朱実が紫己の人となりを見誤っていただけかもしれず。実際に、桔平は紫己のことを飽きっぽいと朱実に忠告した。紫己が桔平のことを忠告したのと同じで、朱実はただそれを認めたがらないで無視したのだ。
すべて朱実が勝手に偶像をつくりだして、紫己に当てはめているにすぎない。それなのに、偶像じゃないという裏づけができないか、探してしまう。
いまやふたりの関係はぎくしゃくしていて、ましてや朱実は桔平に穢された。
昨夜、朱実を抱いて快楽の果てへとたどり着く時間をカウントしたのは、無理やりだったという証拠を欲したせいだろうか。ただ、紫己は朱実と桔平の有様に遭遇したとき、頭ごなしに朱実を疑うことはしなかった。単に、CB10を介して会話を聞いていたせいとも理由がつく。
朱実を疑わないことも、朱実を抱いたことも、救いかもしれない。少なくとも、抱かれたことで桔平の痕跡は朱実の躰からなくなり、どん底から紫己は救いだしてくれた。
反して、続きをやればいいと残酷だったり、素っ気なくしたり、距離を置こうとしているのも確かだ。あるいは、もっとストレートに朱実を切り捨てたがっている。紫己がどうしたいのか見当もつかない。
血縁関係もなく友人でもなく、シェアという曖昧なことから同棲は始まった。嫉妬という言葉を持ちだして、シェアという以上に近づきたがったのは紫己のほうだった。
なんの問題もなく、むしろそれを幸せで怖いと思うほどうまくいっていたのに、朱実が愛していると告白したことがそれを壊した。紫己が朱実に求めるものはなんなのか、もしくは何も求めていないから、愛しているなんていう感情が煩わしいのか。
考えれば考えるほど、理由は見つからず、わからなくなっていく。
朱実はクローゼットに入って紫己のしるしを拭うと下着を身に着けた。服は迷うまえに、いちばんに目についたカットソーとショートパンツを引きだしから取りだす。
迷うほど服は増えた。迷ってしまうのは、以前は選択するほど持っていなかったからだ。季節の変わり目である春先と一カ月まえに、紫己が、おれのためだ、と云ってまとめ買いをしてくれた。
ほかにも、この家にある朱実のものはほとんどが紫己が買ったものだ。朱実自身の持ち物といえば、いますぐにでも出ていけるほどわずかしかない。
朱実が来てから増えたチェストと、服のかかったハンガーが並ぶ一区画と、ひととおり眺めてクローゼットを出た。
ちょうどベッドルームに入ってきた紫己が、朱実を見て唐突に足を止める。
いるとは思っていなかった、そんなしぐさに見え、やはりここに立ち入ってほしくなかったのだと朱実は察した。
「ごめんなさい」
紫己の眉間にしわが寄る。何か云うかと待ったが、紫己は目を逸らして歩きだし、朱実の横をすり抜けてクローゼットに入っていく。朱実は振り返りながら後ろ姿を目で追った。
「ムラサキ……わたし、出ていったほうがいい?」
とたん、ぴたりと足を止めた紫己がゆっくりと振り向く。
その眼差しは突き刺さってくるようだ。それが杭なら朱実を吹き飛ばしながら躰にのめりこんで、背後の壁に磔にされているかもしれなかった。
「おれから逃げる気か」
「そうじゃなくて! だからムラサキに訊いてる」
そう訴えながらも紫己から脅すように問い返されて、朱実はすでに答えを得ていた。朱実がいなくなることは紫己の本意とは違っている。
それなら、どうしたいの?
その疑問を発することはなく、朱実は紫己を見守った。
紫己もまた朱実の本意を見通そうとしているのかもしれない。じっと視線が注がれる。
「逆らうな」
ひと言云い渡して紫己はクローゼットの奥に行った。
ぷるっと躰がわなないたのは安堵のせいか、真逆の怖さのせいか。
出ていく、と自分の意思として云えなかったのは、自分の意思ではなかったから。そして、自分の意思では逃げないと紫己に約束したから――と、そうしたときのことを思いだしながら、朱実はなぜそう約束をしたかったのか、きっかけとなった進武が教えた言葉をも思いだした。
なぜ、紫己が変わったのか。いや、過去にあった何かが紫己を縛っているのだ。朱実がそうであるように。最初に話したときから、紫己とは近い場所にいる気がしていた。
紫己を知りたい。その気持ちがよりくっきりとした欲求になった。
レガーロで仕事をしている間、少し暇になれば紫己のことを考える、とそんな繰り返しで時間はすぎた。睡眠不足もあったのに失敗しなかったのは、すっかりレガーロの仕事が定着しているからだろう。朱実は、ちょっとした安堵を覚え、これからの紫己と自分のことを考えながら帰途についた。
朝、朱実が出かけるときはまだ家にいた紫己だったが、あとから出社でもしていたのか、マンションのエントランスまで帰り着くと、後ろから追ってきたように現れて驚かされた。
おかえりなさい、と云った言葉に、ああ、と短い返事がきた。それだけでも朱実はほっとする。
部屋に帰って、真っ先に風呂に入るよう云われたときは、やはりがっかりした。大抵は一緒にいると入浴も同時にすませていたのに、告白のとき以来ぷっつりと途絶えている。
湯に浸かりながら、またふたりのことを考えてみたけれど、寝不足のせいか頭の動きが鈍くてあきらめた。そのかわり、いい思い出ばかりをたどってみた。虚しくて、泣きだしそうなくらい戻りたいと思った。
バスルームから出ると、ベッドルームに入ってもかまわないのか判断がつかなくて、朱実はまずリビングに行った。帰ったときは気がまわらなかったが、ソファを見ると、そこに畳んで置いていたふとんはない。
「ごはんは食べてきた?」
ベッドルームのドアから現れた紫己が、近づきながら問いかけた。
その声は変わるまえのトーンに近くて、朱実はほっとしながらうなずく。
「ムラサキは?」
「食べた」
「寒くないな?」
「もう七月だし、クーラーもちょうどいいから」
おかしな質問に朱実は首をかしげた。
ちょうど目のまえに立った紫己は、朱実の右肩へと左手を上げるとバスローブをつかんだ。昨日と同じだ、と思ったとたん紫己の右手はベルトをほどいてバスローブを下におろした。
「寒い?」
紫己は再び同じことを聞いて、一方で朱実は頭が働かず反射的に首を横に振る。
「来て」
紫己に手を引かれて歩きだすと、脚がこわばって何もないところでつっかかりそうになる。体勢を整えているうちにベッドルームに連れていかれた。
奥に進むと、紫己に合わせてベッドの傍で立ち止まる。ベッド脇には見慣れないものがあった。
ソファか、それともベッドか、もしくは巨大なクッションか。
「ムラサキ……」
呼びかけているうちに紫己はかがみ、するとじゃらじゃらと金属音が立った。
訳がわからず唖然としているうちに、朱実の足首に細い金属の輪っかが取りつけられて、暗証番号式の南京錠で施錠される。輪っかには鎖がついていてベッドの短い脚に繋がっている。
紫己はゆっくりと立ちあがった。
「……ムラサキ……」
戸惑った朱実を見下ろして、紫己は感情のこもらない、薄らとした笑みを浮かべた。
「朱実にはこれが似合う」
それはどういう意味だろう。
「今日から朱実のベッドはこれだ」
まるでペットだと思った。それとも、待機と命ぜられてデスクの隅で静かにしているCB10並みのロボットか。
砂のなかに埋もれて、身動きを一つすればかすかに砂が崩れる。そんな感覚を繰り返すうちに朱実の意識は急浮上して目が覚めた。
ベッドが揺れたことを感覚で捉え、目を開けると床に立った紫己が視界に入った。ベッド脇の低いソファに寝そべった朱実からは紫己の肩から上しか見えない。
紫己が朱実にペットであることを望んでいるとして、紫己が起きたとたんに朱実が目を覚ましたことを知ったら喜ぶだろうか――などと思ってしまうと、自分がこの扱いに慣れかけていることに気づく。
朱実は躰を起こした。
「ムラサキ、朝ごはん……」
「自分でできる。休みなら寝てろ」
裸の後ろ姿を見せたまま振り返りもせず、紫己は素っ気なく放つとクローゼットに向かった。
朱実が従順だからといって喜んだ気配はまったくない。冷ややかでも素っ気なくても、朱実にはそれでちょうどよかった。半年間はあまりに幸せで怖かった。いまは紫己が一緒にいることを望んで、そうできるのなら、それで充分だ。
それに、愛想はなくてもやさしさはまだ見える。寝てろ、とついさっき云ったこともそうだ。その理由が痛めつけたことの反動でも、朱実のことを考えているのはわかる。やさしさは朱実が都合よく捉えているだけだと云われようが、自分がそう思っていればいいことだ。
もっとも、そう思っていなければやっていられないという自己防衛のためにそう思うようにしているのかもしれない。
痛めつけたといっても本当に傷つけたわけではない。快楽を押しつけるだけ押しつけるという、紫己主導のすぎたセックスが朱実の体力も意識も奪ってしまう。昨夜もそうで、朱実はいつの間にか眠っていた。
気が向いたときにだけやってくる。朱実が眠るソファはそんなペット、もしくは奴隷の囲い部屋みたいになっている。一方で、そこは聖地であるかのように、紫己だけベッドに戻っていることにさみしさは覚える。
けれど、躰を重ねたときは朝まで裸でいるというのが常だったが、こうなったいまも眠る間は朱実と同じように裸のままということが共有できていると感じる。人から見たらなんの因果関係も見いだせないだろうが、ささやかなことでも同じということが朱実にとっては安心できて、ちょっとうれしいとさえ思う。
朱実は再びソファに横になった。薄いふとんを肩まで引き寄せる。ビーズソファは自在に形を変えて、寝そべると抱かれているようで、独り寝のさみしさが少し紛れる。紫己と眠るより独り寝の期間のほうが段違いで長いのに、居心地の良さには簡単に慣れてしまうものなのだ。
目をつむって紫己の気配をたどっていると、パウダールームからリビングへとしばらく消えたあと足音が近づいてきた。
朱実は頭をもたげ、肘をついて躰を起こした。紫己がかがんだかと思うと、トレイがソファの横に置かれた。見ると、コーヒーとトースト、そしてハムエッグにポテトサラダが添えられている。
「ありがとう」
朝食というよりは、餌だと感じるのは朱実の思いすごしだろうか。あまつさえ、ここにトレイが置かれたのは即ち、紫己は鎖を解かないで出かけるのだ。
「午後、グランドケアに行く」
紫己は唐突に云った。
「……おばあちゃんのとこ?」
「ああ」
いままでも紫己が祖母を訪問していることはあった。ただ、朱実は会話のなかで知るだけであって、こんなふうに行くと告げられたことはない。
今日は平日で、紫己はあたりまえに仕事だ。一方で、朱実は一日休みであること、用意された食事が一食分ということ、その二つに紫己の用事を絡み合わせれば、一つしか答えは出ない。
「一緒に行っていい?」
期待しているだろうことを訊ねた瞬間、紫己は思いつめたように朱実を凝視した。それはしばらく続いて、思い違いだったかもしれないと朱実が取り消そうとした矢先、やっと紫己は口を開いた。
「迎えにくる」
端的に応じた紫己は、朱実が、はい、とうなずいたときにはもう背中を向けていて、行ってくるとも云わないで出ていった。
玄関のドアが閉まる音を聞き遂げてから、朱実は立ちあがる。パウダールームに向かった。左足を一歩出すたびに鎖が擦れる軽い金属音が追ってくる。
足首に取りつけられた鎖は、ペットに使う首輪のように繋ぎとめるためではなく、まるで罪人だと標す拘束具のようだ。朱実だからそう感じるのか、それを受け入れるのは自分にふさわしいという後ろめたさがあるからなのか。
鎖は長くて、ベッドルームのなかだけではなくパウダールームまで行くにも余裕がある。LDKの部屋もキッチンまでは届かないが、リビングのソファまでは問題ない。
朝になれば解放されて仕事に行けるし、夜も紫己が帰ってくるまで繋がれることはなく、不自由を感じることはない。
監禁をするのではなく、ただ繋ぐことになんらかの意味がある。朱実はそんなふうに察しながら、なぜそうするのか理由はつかめていない。
紫己のことを知りたいという欲求はまだ口にできていないけれど、思いがけず今日は紫己がそれを提供した。
紫己は両親の話をしない。もしかしたら、紫己の肉親は祖母だけかもしれない。少なくともずっと連絡が取れているのは、朱実が把握しているかぎり祖母一人だった。
自分に云い聞かせながら時間を見るとまだ四時で、あと三時間くらい眠っても出勤するには余裕があった。土曜日、紫己は基本休みで、出社するとしても遅くでかまわず、だから朝食はのんびりと用意できる。けれど、眠れない。
紫己と会ってからのことをたどって反すうしてみた。文句のつけようがない恋人と、素っ気ない同居人と、どちらが本当の紫己なのか、答えは出ない。もしくは、朱実が前者だと思いたがっているから答えに詰まる。
紫己が起きてきたのは六時をすぎた頃だった。
朱実は目を閉じて眠ったふりをしながら神経を尖らせ、リビングに入ってきた紫己の気配を窺った。数歩、足音が聞こえたあと立ち止まり、紫己は何をしているのか気配が消え、朱実はやがて目を開けた。
すると、朱実が目を向ける寸前、紫己はすでにリビングを出ていこうとしていて、その顔を見ることはかなわなかった。
耳をすますと、パウダールームにいったのだろう、ドアは開けっぱなしなのか、棚を漁る音、そして蛇口から水の出る音が続いた。
朱実は音を立てないように起きて、ベッドルームに向かう。
歩くさなか、紫己が放ったしるしが体内からこぼれてきて腿の内側を這い落ちる。
紫己が無防備に慾を放つのは、朱実が避妊していると知っていて、なお且つそれを疑っていないということだ。もしくは、妊娠してもかまわないのか。
半年まえ、妊娠していないとわかったときに見せた表情は、朱実が感じたとおり安堵でなかったとしたらなんだったのか。もし、残念だという気持ちであったなら、紫己は、飽きっぽいという自覚なしで安易な判断をしていたことになる。そもそもがだらしなくて、朱実が紫己の人となりを見誤っていただけかもしれず。実際に、桔平は紫己のことを飽きっぽいと朱実に忠告した。紫己が桔平のことを忠告したのと同じで、朱実はただそれを認めたがらないで無視したのだ。
すべて朱実が勝手に偶像をつくりだして、紫己に当てはめているにすぎない。それなのに、偶像じゃないという裏づけができないか、探してしまう。
いまやふたりの関係はぎくしゃくしていて、ましてや朱実は桔平に穢された。
昨夜、朱実を抱いて快楽の果てへとたどり着く時間をカウントしたのは、無理やりだったという証拠を欲したせいだろうか。ただ、紫己は朱実と桔平の有様に遭遇したとき、頭ごなしに朱実を疑うことはしなかった。単に、CB10を介して会話を聞いていたせいとも理由がつく。
朱実を疑わないことも、朱実を抱いたことも、救いかもしれない。少なくとも、抱かれたことで桔平の痕跡は朱実の躰からなくなり、どん底から紫己は救いだしてくれた。
反して、続きをやればいいと残酷だったり、素っ気なくしたり、距離を置こうとしているのも確かだ。あるいは、もっとストレートに朱実を切り捨てたがっている。紫己がどうしたいのか見当もつかない。
血縁関係もなく友人でもなく、シェアという曖昧なことから同棲は始まった。嫉妬という言葉を持ちだして、シェアという以上に近づきたがったのは紫己のほうだった。
なんの問題もなく、むしろそれを幸せで怖いと思うほどうまくいっていたのに、朱実が愛していると告白したことがそれを壊した。紫己が朱実に求めるものはなんなのか、もしくは何も求めていないから、愛しているなんていう感情が煩わしいのか。
考えれば考えるほど、理由は見つからず、わからなくなっていく。
朱実はクローゼットに入って紫己のしるしを拭うと下着を身に着けた。服は迷うまえに、いちばんに目についたカットソーとショートパンツを引きだしから取りだす。
迷うほど服は増えた。迷ってしまうのは、以前は選択するほど持っていなかったからだ。季節の変わり目である春先と一カ月まえに、紫己が、おれのためだ、と云ってまとめ買いをしてくれた。
ほかにも、この家にある朱実のものはほとんどが紫己が買ったものだ。朱実自身の持ち物といえば、いますぐにでも出ていけるほどわずかしかない。
朱実が来てから増えたチェストと、服のかかったハンガーが並ぶ一区画と、ひととおり眺めてクローゼットを出た。
ちょうどベッドルームに入ってきた紫己が、朱実を見て唐突に足を止める。
いるとは思っていなかった、そんなしぐさに見え、やはりここに立ち入ってほしくなかったのだと朱実は察した。
「ごめんなさい」
紫己の眉間にしわが寄る。何か云うかと待ったが、紫己は目を逸らして歩きだし、朱実の横をすり抜けてクローゼットに入っていく。朱実は振り返りながら後ろ姿を目で追った。
「ムラサキ……わたし、出ていったほうがいい?」
とたん、ぴたりと足を止めた紫己がゆっくりと振り向く。
その眼差しは突き刺さってくるようだ。それが杭なら朱実を吹き飛ばしながら躰にのめりこんで、背後の壁に磔にされているかもしれなかった。
「おれから逃げる気か」
「そうじゃなくて! だからムラサキに訊いてる」
そう訴えながらも紫己から脅すように問い返されて、朱実はすでに答えを得ていた。朱実がいなくなることは紫己の本意とは違っている。
それなら、どうしたいの?
その疑問を発することはなく、朱実は紫己を見守った。
紫己もまた朱実の本意を見通そうとしているのかもしれない。じっと視線が注がれる。
「逆らうな」
ひと言云い渡して紫己はクローゼットの奥に行った。
ぷるっと躰がわなないたのは安堵のせいか、真逆の怖さのせいか。
出ていく、と自分の意思として云えなかったのは、自分の意思ではなかったから。そして、自分の意思では逃げないと紫己に約束したから――と、そうしたときのことを思いだしながら、朱実はなぜそう約束をしたかったのか、きっかけとなった進武が教えた言葉をも思いだした。
なぜ、紫己が変わったのか。いや、過去にあった何かが紫己を縛っているのだ。朱実がそうであるように。最初に話したときから、紫己とは近い場所にいる気がしていた。
紫己を知りたい。その気持ちがよりくっきりとした欲求になった。
レガーロで仕事をしている間、少し暇になれば紫己のことを考える、とそんな繰り返しで時間はすぎた。睡眠不足もあったのに失敗しなかったのは、すっかりレガーロの仕事が定着しているからだろう。朱実は、ちょっとした安堵を覚え、これからの紫己と自分のことを考えながら帰途についた。
朝、朱実が出かけるときはまだ家にいた紫己だったが、あとから出社でもしていたのか、マンションのエントランスまで帰り着くと、後ろから追ってきたように現れて驚かされた。
おかえりなさい、と云った言葉に、ああ、と短い返事がきた。それだけでも朱実はほっとする。
部屋に帰って、真っ先に風呂に入るよう云われたときは、やはりがっかりした。大抵は一緒にいると入浴も同時にすませていたのに、告白のとき以来ぷっつりと途絶えている。
湯に浸かりながら、またふたりのことを考えてみたけれど、寝不足のせいか頭の動きが鈍くてあきらめた。そのかわり、いい思い出ばかりをたどってみた。虚しくて、泣きだしそうなくらい戻りたいと思った。
バスルームから出ると、ベッドルームに入ってもかまわないのか判断がつかなくて、朱実はまずリビングに行った。帰ったときは気がまわらなかったが、ソファを見ると、そこに畳んで置いていたふとんはない。
「ごはんは食べてきた?」
ベッドルームのドアから現れた紫己が、近づきながら問いかけた。
その声は変わるまえのトーンに近くて、朱実はほっとしながらうなずく。
「ムラサキは?」
「食べた」
「寒くないな?」
「もう七月だし、クーラーもちょうどいいから」
おかしな質問に朱実は首をかしげた。
ちょうど目のまえに立った紫己は、朱実の右肩へと左手を上げるとバスローブをつかんだ。昨日と同じだ、と思ったとたん紫己の右手はベルトをほどいてバスローブを下におろした。
「寒い?」
紫己は再び同じことを聞いて、一方で朱実は頭が働かず反射的に首を横に振る。
「来て」
紫己に手を引かれて歩きだすと、脚がこわばって何もないところでつっかかりそうになる。体勢を整えているうちにベッドルームに連れていかれた。
奥に進むと、紫己に合わせてベッドの傍で立ち止まる。ベッド脇には見慣れないものがあった。
ソファか、それともベッドか、もしくは巨大なクッションか。
「ムラサキ……」
呼びかけているうちに紫己はかがみ、するとじゃらじゃらと金属音が立った。
訳がわからず唖然としているうちに、朱実の足首に細い金属の輪っかが取りつけられて、暗証番号式の南京錠で施錠される。輪っかには鎖がついていてベッドの短い脚に繋がっている。
紫己はゆっくりと立ちあがった。
「……ムラサキ……」
戸惑った朱実を見下ろして、紫己は感情のこもらない、薄らとした笑みを浮かべた。
「朱実にはこれが似合う」
それはどういう意味だろう。
「今日から朱実のベッドはこれだ」
まるでペットだと思った。それとも、待機と命ぜられてデスクの隅で静かにしているCB10並みのロボットか。
砂のなかに埋もれて、身動きを一つすればかすかに砂が崩れる。そんな感覚を繰り返すうちに朱実の意識は急浮上して目が覚めた。
ベッドが揺れたことを感覚で捉え、目を開けると床に立った紫己が視界に入った。ベッド脇の低いソファに寝そべった朱実からは紫己の肩から上しか見えない。
紫己が朱実にペットであることを望んでいるとして、紫己が起きたとたんに朱実が目を覚ましたことを知ったら喜ぶだろうか――などと思ってしまうと、自分がこの扱いに慣れかけていることに気づく。
朱実は躰を起こした。
「ムラサキ、朝ごはん……」
「自分でできる。休みなら寝てろ」
裸の後ろ姿を見せたまま振り返りもせず、紫己は素っ気なく放つとクローゼットに向かった。
朱実が従順だからといって喜んだ気配はまったくない。冷ややかでも素っ気なくても、朱実にはそれでちょうどよかった。半年間はあまりに幸せで怖かった。いまは紫己が一緒にいることを望んで、そうできるのなら、それで充分だ。
それに、愛想はなくてもやさしさはまだ見える。寝てろ、とついさっき云ったこともそうだ。その理由が痛めつけたことの反動でも、朱実のことを考えているのはわかる。やさしさは朱実が都合よく捉えているだけだと云われようが、自分がそう思っていればいいことだ。
もっとも、そう思っていなければやっていられないという自己防衛のためにそう思うようにしているのかもしれない。
痛めつけたといっても本当に傷つけたわけではない。快楽を押しつけるだけ押しつけるという、紫己主導のすぎたセックスが朱実の体力も意識も奪ってしまう。昨夜もそうで、朱実はいつの間にか眠っていた。
気が向いたときにだけやってくる。朱実が眠るソファはそんなペット、もしくは奴隷の囲い部屋みたいになっている。一方で、そこは聖地であるかのように、紫己だけベッドに戻っていることにさみしさは覚える。
けれど、躰を重ねたときは朝まで裸でいるというのが常だったが、こうなったいまも眠る間は朱実と同じように裸のままということが共有できていると感じる。人から見たらなんの因果関係も見いだせないだろうが、ささやかなことでも同じということが朱実にとっては安心できて、ちょっとうれしいとさえ思う。
朱実は再びソファに横になった。薄いふとんを肩まで引き寄せる。ビーズソファは自在に形を変えて、寝そべると抱かれているようで、独り寝のさみしさが少し紛れる。紫己と眠るより独り寝の期間のほうが段違いで長いのに、居心地の良さには簡単に慣れてしまうものなのだ。
目をつむって紫己の気配をたどっていると、パウダールームからリビングへとしばらく消えたあと足音が近づいてきた。
朱実は頭をもたげ、肘をついて躰を起こした。紫己がかがんだかと思うと、トレイがソファの横に置かれた。見ると、コーヒーとトースト、そしてハムエッグにポテトサラダが添えられている。
「ありがとう」
朝食というよりは、餌だと感じるのは朱実の思いすごしだろうか。あまつさえ、ここにトレイが置かれたのは即ち、紫己は鎖を解かないで出かけるのだ。
「午後、グランドケアに行く」
紫己は唐突に云った。
「……おばあちゃんのとこ?」
「ああ」
いままでも紫己が祖母を訪問していることはあった。ただ、朱実は会話のなかで知るだけであって、こんなふうに行くと告げられたことはない。
今日は平日で、紫己はあたりまえに仕事だ。一方で、朱実は一日休みであること、用意された食事が一食分ということ、その二つに紫己の用事を絡み合わせれば、一つしか答えは出ない。
「一緒に行っていい?」
期待しているだろうことを訊ねた瞬間、紫己は思いつめたように朱実を凝視した。それはしばらく続いて、思い違いだったかもしれないと朱実が取り消そうとした矢先、やっと紫己は口を開いた。
「迎えにくる」
端的に応じた紫己は、朱実が、はい、とうなずいたときにはもう背中を向けていて、行ってくるとも云わないで出ていった。
玄関のドアが閉まる音を聞き遂げてから、朱実は立ちあがる。パウダールームに向かった。左足を一歩出すたびに鎖が擦れる軽い金属音が追ってくる。
足首に取りつけられた鎖は、ペットに使う首輪のように繋ぎとめるためではなく、まるで罪人だと標す拘束具のようだ。朱実だからそう感じるのか、それを受け入れるのは自分にふさわしいという後ろめたさがあるからなのか。
鎖は長くて、ベッドルームのなかだけではなくパウダールームまで行くにも余裕がある。LDKの部屋もキッチンまでは届かないが、リビングのソファまでは問題ない。
朝になれば解放されて仕事に行けるし、夜も紫己が帰ってくるまで繋がれることはなく、不自由を感じることはない。
監禁をするのではなく、ただ繋ぐことになんらかの意味がある。朱実はそんなふうに察しながら、なぜそうするのか理由はつかめていない。
紫己のことを知りたいという欲求はまだ口にできていないけれど、思いがけず今日は紫己がそれを提供した。
紫己は両親の話をしない。もしかしたら、紫己の肉親は祖母だけかもしれない。少なくともずっと連絡が取れているのは、朱実が把握しているかぎり祖母一人だった。
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