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第2章 不可視の類似
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いまさら傘の中に入っても手遅れなのに、エントランスの軒下に行くまで響生は環和が濡れないように大判の傘を傾けていた。
「すぐ風呂に行け」
環和はさきに家の中に入らされ、響生の、逆らうことは許さないと云わんばかりの口調があとを追ってくる。振り仰ぎながら向かい合うと、響生は片手を上げて太い親指の腹で環和の目の下を撫でる。
「そのまえにタオルがほしい……」
「いいから行けと云ってる」
反対の目も同じようにしながら響生はさえぎった。
環和は自分の足もとを見下ろした。スカートからはぽたぽたと雫が落ち、ちょっとの間に水たまりができている。濡れたストッキングは気持ち悪いし、ヒールの爪先には水が溜まっている感覚がある。
「びちゃびちゃなんだけど」
「聞こえなかったのか」
響生は口を閉ざせといわんばかりにぴしゃりと放った。
環和はつんと顎を上げる。
「わたしは拭き掃除なんてする気ないから」
根本にやさしさがあるとしても頭ごなしの云い方には我慢できない。腹立ちまぎれに云い返してヒールを脱ぐと、環和は足跡をつけながら二階に上がった。
リビングに入って、バスルームではなくまずソファのところに行く。濡れきったレザーのトートバッグはクラッチバッグみたいに二つ折りできるから、幸いにして中身は濡れていない。ひっくり返して中身をソファに散らかしたあと、バッグは部屋の隅に置いたゴミ箱に突っこんだ。
次にはベッドルームに行き、窓際の椅子を見やった。案の定、パジャマがわりのTシャツが無造作に引っかかっている。この短い付き合いの間につかんだ響生の習性の一つだ。環和はそれをつかんで廊下に出るとバスルームに向かった。
ドアを開けてから後ろを振り返ると、水滴が道標のように繋がっている。そして、廊下のさきのリビングから響生がこっちを見ていることに気づいた。
「何をするつもりだったんだ」
響生はおそらく“道標”がわざとつけられたことを知っている。けれどを咎めることなくスーパーの袋を掲げた。不機嫌な刺はちょっとくらい引っこんだのだろうか、ため息まじりだ。
「親子丼か肉じゃがを作るつもり。どっちがいいか、考えてて」
環和はそう云って、よけいなことをするなと却下されないうちに、「ヘンゼルとグレーテルのように迷わないし、足跡は消してていいから」と続けた。
暗に掃除してとほのめかして、環和は響生の反応を見ないままバスルームに入った。
濡れた服を脱ぐのはひと苦労だった。さすがに服はバッグのようにゴミ箱に捨てるわけにはいかない。洗濯機の中に放りこんだ。
洗面台の鏡に映る自分に目が行くと、濡れねずみとはまさにこのことだと思う。目が、先天的メラニン欠乏疾患のハツカネズミのように赤くなっている。
雨に紛れて自分では気づかなかったけれど、エントランスでの響生のしぐさを思えば、泣きそうどころか知らず知らずのうちに環和は泣いていたのかもしれない。
これくらいのことで子供みたいだと呆れながらため息をつき、それについては考えないようにした。
結局はまた頭からシャワーを浴びなければならず、早く全身を乾かしたくて、泡立てるのもそこそこにして軽く洗い流してすませた。
響生のTシャツは腿の半ばくらいまである。ふたりきりですごすには充分だ。
そういえば、もうスタジオにはだれもいないのだろうか。
髪を乾かしながら、来客の駐車スペースに車があったかどうか、スタジオ内から声がしたかどうか、思い返してもその部分の記憶はシャットアウトされている。
ある程度、髪が乾いてくると、躰からも湿り気が抜けていく。洗面台の引き出しを開けると、環和が置きっぱなしにしていたヘアゴムを取りだした。とりあえず結んでおけば、乾ききっていないことも気にならない。
ここに来るたびに、歯ブラシから始まってメイク道具だったりシャンプーだったり、環和のものが増えていく。響生はもちろん気づいているはずが無頓着だ。裏を返せば、青田恵に限らず、ほかの女性にも付き合うたびに自由にさせているのかもしれないという疑惑が湧く。ジ・エンドのその後は、恵のものしか残らないのだ。
そんな響生のつれなさをなじる権利は環和にはない。友樹が云ったように、環和が押しかけているのであって、響生が誘っているわけではないから。
それでも腹が立つ。いや、それよりは焦燥じみた、嫌な気分になる。簡単に云うなら、きっと“嫉妬”だ。
環和はリビングに行きながら、廊下に水滴が残っていないと気づいた。リビングに行けば、ソファの周りのフローリングも濡れた形跡がない。
響生は、と見渡すと階段のほうから足音がして、それはだんだんと近づいてくる。
「腹減った。どっちか早いほうにしてくれ」
出しゃばるなと云わないどころか、まるでいつもそうしているように響生は云う。
「じゃあ……親子丼」
かすかに首をひねり、響生は肩をそびやかした。
「シャワー浴びてくる」
会話になっているのか否か、まったくの他人同士では間を省略するようなこんな会話はきっとできない。
響生は環和を上から下までひととおり眺めたあと、バスルームに向かった。つかの間の視線は、環和の存在をあらためて認知したような――もっと云えば、いままでよりも近づいたような気がした。
「すぐ風呂に行け」
環和はさきに家の中に入らされ、響生の、逆らうことは許さないと云わんばかりの口調があとを追ってくる。振り仰ぎながら向かい合うと、響生は片手を上げて太い親指の腹で環和の目の下を撫でる。
「そのまえにタオルがほしい……」
「いいから行けと云ってる」
反対の目も同じようにしながら響生はさえぎった。
環和は自分の足もとを見下ろした。スカートからはぽたぽたと雫が落ち、ちょっとの間に水たまりができている。濡れたストッキングは気持ち悪いし、ヒールの爪先には水が溜まっている感覚がある。
「びちゃびちゃなんだけど」
「聞こえなかったのか」
響生は口を閉ざせといわんばかりにぴしゃりと放った。
環和はつんと顎を上げる。
「わたしは拭き掃除なんてする気ないから」
根本にやさしさがあるとしても頭ごなしの云い方には我慢できない。腹立ちまぎれに云い返してヒールを脱ぐと、環和は足跡をつけながら二階に上がった。
リビングに入って、バスルームではなくまずソファのところに行く。濡れきったレザーのトートバッグはクラッチバッグみたいに二つ折りできるから、幸いにして中身は濡れていない。ひっくり返して中身をソファに散らかしたあと、バッグは部屋の隅に置いたゴミ箱に突っこんだ。
次にはベッドルームに行き、窓際の椅子を見やった。案の定、パジャマがわりのTシャツが無造作に引っかかっている。この短い付き合いの間につかんだ響生の習性の一つだ。環和はそれをつかんで廊下に出るとバスルームに向かった。
ドアを開けてから後ろを振り返ると、水滴が道標のように繋がっている。そして、廊下のさきのリビングから響生がこっちを見ていることに気づいた。
「何をするつもりだったんだ」
響生はおそらく“道標”がわざとつけられたことを知っている。けれどを咎めることなくスーパーの袋を掲げた。不機嫌な刺はちょっとくらい引っこんだのだろうか、ため息まじりだ。
「親子丼か肉じゃがを作るつもり。どっちがいいか、考えてて」
環和はそう云って、よけいなことをするなと却下されないうちに、「ヘンゼルとグレーテルのように迷わないし、足跡は消してていいから」と続けた。
暗に掃除してとほのめかして、環和は響生の反応を見ないままバスルームに入った。
濡れた服を脱ぐのはひと苦労だった。さすがに服はバッグのようにゴミ箱に捨てるわけにはいかない。洗濯機の中に放りこんだ。
洗面台の鏡に映る自分に目が行くと、濡れねずみとはまさにこのことだと思う。目が、先天的メラニン欠乏疾患のハツカネズミのように赤くなっている。
雨に紛れて自分では気づかなかったけれど、エントランスでの響生のしぐさを思えば、泣きそうどころか知らず知らずのうちに環和は泣いていたのかもしれない。
これくらいのことで子供みたいだと呆れながらため息をつき、それについては考えないようにした。
結局はまた頭からシャワーを浴びなければならず、早く全身を乾かしたくて、泡立てるのもそこそこにして軽く洗い流してすませた。
響生のTシャツは腿の半ばくらいまである。ふたりきりですごすには充分だ。
そういえば、もうスタジオにはだれもいないのだろうか。
髪を乾かしながら、来客の駐車スペースに車があったかどうか、スタジオ内から声がしたかどうか、思い返してもその部分の記憶はシャットアウトされている。
ある程度、髪が乾いてくると、躰からも湿り気が抜けていく。洗面台の引き出しを開けると、環和が置きっぱなしにしていたヘアゴムを取りだした。とりあえず結んでおけば、乾ききっていないことも気にならない。
ここに来るたびに、歯ブラシから始まってメイク道具だったりシャンプーだったり、環和のものが増えていく。響生はもちろん気づいているはずが無頓着だ。裏を返せば、青田恵に限らず、ほかの女性にも付き合うたびに自由にさせているのかもしれないという疑惑が湧く。ジ・エンドのその後は、恵のものしか残らないのだ。
そんな響生のつれなさをなじる権利は環和にはない。友樹が云ったように、環和が押しかけているのであって、響生が誘っているわけではないから。
それでも腹が立つ。いや、それよりは焦燥じみた、嫌な気分になる。簡単に云うなら、きっと“嫉妬”だ。
環和はリビングに行きながら、廊下に水滴が残っていないと気づいた。リビングに行けば、ソファの周りのフローリングも濡れた形跡がない。
響生は、と見渡すと階段のほうから足音がして、それはだんだんと近づいてくる。
「腹減った。どっちか早いほうにしてくれ」
出しゃばるなと云わないどころか、まるでいつもそうしているように響生は云う。
「じゃあ……親子丼」
かすかに首をひねり、響生は肩をそびやかした。
「シャワー浴びてくる」
会話になっているのか否か、まったくの他人同士では間を省略するようなこんな会話はきっとできない。
響生は環和を上から下までひととおり眺めたあと、バスルームに向かった。つかの間の視線は、環和の存在をあらためて認知したような――もっと云えば、いままでよりも近づいたような気がした。
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