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3.生姜焼きの週末
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水曜日。
今週は定例の部長会議がある。
悠汰が指定の座席に座ると向かいの机の端の方には、義孝が座ってパソコンを操作しているのが見える。
――やっぱスーツ、似合うな…
ちらりと盗み見た瞬間、そんなことが頭に浮かぶ。
この前から少しでも暇ができると井上のことを意識してしまって仕方がない。
しかし。
自分は本当に義孝に恋してるんだろうか。
高校生の時の義孝が忘れられなくて、引っ張られてるだけじゃないんだろうか。
そもそも自分は、男性を好きになるのだろうか?
それは好意と同時に現れる疑問だった。
井上が上司に呼ばれたのか、顔を上げる。その顔つきに、胸の奥の方に温かな何かがこみ上げる。
――好きな人
井上の姿を実際に見て、その呼称はとてもしっくりきた。
ちらりと井上が、こちらを見た気がした。
――!!
慌てて目をそらす。
ドキンと跳ねた心臓の余韻を感じながら、手慰みに資料を数ページめくる。
――僕、どんだけ好きなの……
はー、とため息をつく。
「えー、では定刻となりましたので―――」
司会者が定型文を喋り始めた。
悠汰はその声に耳を傾け、真面目な顔を作って資料に目を向けた。
※
会議後、悠汰が休憩スペースに飲み物を買いに行くと義孝がいた。
「おつかれ、井上」
「おう」
あくまで友人だ、と意識して振る舞う悠汰。
「あっ、それ美味しいよね。この前飲んだ」
義孝がボタンを押したボトルコーヒーを見て三沢が言った。
「そうなのか?初めて飲む」
ガタン、と落ちたボトル。
義孝が手を突っ込んで取り出す。
小銭を入れながら悠汰が続ける。
「値段の割に量もあっていいよ。……てか井上、ブラック無糖なんだね。大人……」
「あー、ミルクだけなら入れることもあるけど、基本コーヒーに砂糖入れない。三沢、ブラック無理なの?」
「うーん、飲めなくはないんだけど。砂糖とミルクが入ってたほうが好きかなー」
二人でそれぞれボトルを持ちながら談笑する。
「ふーん。それはそれで、まろやかで……――」
通路の方を向いていた義孝が急に言葉を止めた。
悠汰も目をやると、女性社員が二人で喋りながら歩いてくるのが見えた。何やらこちらを見ているようにも見える。
「井上?」
「悪い、戻らねぇと」
そう言うと義孝はそそくさとその場を離れてしまった。
――人前で馴れ馴れしすぎたかな……
悠汰はそう思いながらペットボトルのキャップをひねった。
※
――思わず避けてしまった。
人気のない廊下で立ち止まった義孝。
もう十数年も前のことが、昨日の事のように浮かんでくる。
『お前、アイツと仲良くしてんだろ』
『井上は悪い人じゃないよ』
中学校の時、自分が教室に入ろうとしたら、中から声が聞こえてきた。
『やめとけよ。知ってるか?アイツ――』
耳打ちしているのか、その先の声は聞こえなかった。
ガラ、とドアを引いて教室に入ると、友達は一瞬怖いものでも見るような顔をしたあと、申し訳無さそうな顔をして俯いた。
『ハハッ、行こうぜ』
絡んでいた男子生徒たちが教室を出ていく。
『なあ、なにを――』
『……ごめん』
義孝の声は遮られ、友達は教室を出て行ってしまった。
次の日からその友達が声をかけてくることはなく、義孝と顔を合わせるたび、苦い顔で目を逸らした。
義孝にとっては、別にそれが初めてではなかった。
ただ、仲の良かった友達にそんな顔をさせていることが、申し訳なかった。
そんなことが続くうちに、だんだん他の人の前で仲良くしているのを見せることや、人と仲良くなることすら嫌になった。
――こんな感覚、忘れてたのに
「絶対、変に思われた……」
義孝は気をそらすように少し頭を振り、オフィスに向かって歩き始めた。
※
ガチャ
「お邪魔しまーす……」
「おー。どうぞー。もうすぐできる」
土曜日、悠汰は約束の時間通りに義孝の家に到着した。
「迷わなかった?」
義孝が悠汰に問う。
「スマホ見て来たから大丈夫だった。結構住宅街だね、こっちの方」
「うん、住みやすい」
「あ、井上……これ。食後にでもどうかなって思って」
紙袋を手渡してくる悠汰。
「もし今日食べなかったら置いていってもいいし、いらなかったら持って帰るし」
もらった紙袋を見ると、どこかのケーキ屋お手製の包装、というような包みが2つ。
「デザートにでも食べるか。食後にコーヒー淹れるよ」
その時、炊飯器の完了ブザーが鳴った。
「もうすぐできるから、もう少し待ってて」
「わかった。手だけ洗ってくるよ」
「洗面所、そっちな」
義孝は手で方向を指さしてキッチンの影に消えた。
「わー、生姜焼き?僕好きなんだよね!」
椅子に座りながら悠汰がテンションの高い声で言う。
「お前のほど手が込んだものじゃなくてすまん……」
湯気の上がるご飯が入ったお茶碗を2つ、汁物の手前に置く。
「いやいや!何言ってんの!生姜焼きだって大変だよ、ご馳走してもらえるのめちゃくちゃ嬉しいです」
ペコリと頭を下げる悠汰。
義孝が正しい反応がわからないといった顔をして席につく。
「ま、食べるか」
「うん!」
いただきます、と二人が各々手を合わせる。
悠汰が生姜焼きにかぶりついて一口、追いかけるように炊きたてのご飯を一口、口に入れる。
「熱っ……」
「ハハっ、炊きたてだからな」
口を抑える悠汰を見て義孝が笑う。
「……でもすごい美味しい!生姜効いてるしお肉柔らかい……!」
驚いた顔で感想を述べる悠汰。
「……うん、いい感じ。ま、味見したから知ってるんだけど」
「作る人の特権だね」
悠汰が笑う。
キャベツの隣、レタスを敷いてその上においてある、丸いアイスのような風貌のそれに箸を伸ばす。
――何だろ……
白っぽい何かにまばらのオレンジ色が散りばめられていた。
一口食べると――
「……!ポテトサラダか、これ!うま!」
「あー、じゃがいもをよく潰してあるから普通のポテトサラダよりなめらかになってるかも」
「なるほどね、オレンジのは人参?」
「そう。細かく切って電子レンジで加熱して混ぜてある。玉ねぎも同じように入れてあるよ」
「玉ねぎかー、入ってるかなとは思った。いい仕事してるね」
「だろ?」
義孝が口角を上げながら答えた。
悠汰が再び生姜焼きを口にする。
「これ、タレもすごく美味しいよ」
「んー……?生姜の絞り汁最後にかけてるからか?」
「あぁ、だから生姜の香りがしっかりするんだ。肉も厚いのに箸で切れる……焼き方も何かあるの?」
悠汰も料理が好きなので会話が弾む。
「火が強いと身が締まるから、あんまり強すぎないようにしてる」
義孝が説明しながら生姜焼きを箸で切ってご飯に乗せる。
説明が更に続く。
「生姜が入ってるからそもそも肉が柔らかいし、気にしないでもいいのかもしれないけどなー」
義孝が自身をじっと見ていた悠汰に気づいた。
「……何かついてる?」
「いや?何も。手が込んでるなぁーって」
「人様に出すんだしこれくらい」
悠汰も食べるご飯だから手間を割いたと言われているようで、悠汰は嬉しかった。
「フフっ。ありがとう」
「ん……」
照れているのか曖昧な返事の義孝。
義孝は気を逸らすように、ご飯の上に載せた生姜焼きをその下のご飯と一緒に口に入れる。
すると、あれ、といった顔で箸で掴み取ったそこを見た。
今度はポテトサラダを一口、吟味するように食べた。
もぐもぐと口を動かしながらじっとポテトサラダを見ている義孝。
悠汰がそれに気づいて声をかける。
「どうしたの?なにか入ってた?」
「いや、なんか……味見したときはもっと味気なかったのに、さっきより美味しい気がして」
「あぁ、それは……」
――一緒に食べてるからだと思うよ
と言葉は浮かぶのに、ストレートに言うのは恥ずかしい。
悠汰が、言葉を探して続けた。
「……時間が経って熟成したんじゃない?」
「……お前それマジで言ってんの?」
井上が怪訝そうな顔で聞きかえす。
「さぁ、どうでしょう?」
フフッと笑う悠汰は何やら楽しげだった。
――嬉しいな
――僕とご飯食べるの、楽しいんだ
悠汰は胸が暖かくなるのを感じた。
「井上はどこで料理覚えたの?」
「あー……覚えたってか……昔の彼女の家で――」
「彼女の家……同棲してたとか?」
思いもよらぬワードにこっそり驚く悠汰。
「いやしてねぇよ。高校のときだしな」
「……?」
――高校の時、彼女と家で料理……?
「彼女の家族とも仲良くさせてもらってて……彼女が料理好きだったから、一緒によく作った」
「なるほどねー」
――塾で僕が見たときには、彼女さんとはどうなってたんだろう……
「……で、彼女のお母さんが色々教えてくれたり、かな。それが最初で、あとはやってるうちに」
「ふーん……いいね、楽しそう」
「おう、楽しかった」
儚い顔で笑う義孝
それ以上彼女の話は広がらなかった。
――てっきり"一人暮らし始めてから"とか言うかと思ったのに……
お茶を一口飲む悠汰
――彼女……
あの金曜日の義孝の言葉が思い出される。
『女は……抱かない』
――どういうことだろう。今エッチの相手は男みたいだから、男が対象なんだと思ってたけど……両方いける人か、もしくは彼女が居たことはあるけどあとから男が対象だと気づいた?
お茶をゆっくりと置いた悠汰は、箸でポテトサラダを一口分とりわけ、キャベツと一緒に口に運んだ。
――もし"本命は女の子だけ"とかだったら、僕が恋人になれる可能性ってすごく低いよね……まぁ、友達のままでいるつもりだから関係ないといえば関係ないんだけど……
目の前では、特に何も気づいていない義孝が美味しそう生姜焼きを頬張っていた。
――そういえば今付き合ってる人いるのかな。いや、あんなに奔放にやってて許す恋人なんている?でももしかしたらすごく寛容な人とか……
考えただけで胸がツーンと苦しくなる。
ふと悠汰が前に目をやると、義孝が野菜を口に運んだところだった。
――今なら、彼女の話が出たし聞くのもアリ……?
「……今は、付き合ってる人とかいるの?」
もぐもぐと咀嚼し、飲み込んでから答える義孝。
「……?いねぇよ?」
心の中でよかった、とホッとする悠汰
――それが知れただけで十分
「誰かと付き合う気ねぇし」
――え
パッと顔を上げると、何食わぬ顔でおかずに箸を伸ばしている義孝
「な……」
――理由なんて、友達の僕には関係ないことだ。
すぐそこまで出かかった言葉を飲み込む。
――それにせっかくのお呼ばれだ、変なこと聞くのはやめよう
悠汰は目の前の昼食に意識を戻した。
※
「いい香り……」
悠汰が流しで洗い物をしながら、漂うコーヒーの香りに感想を述べた。
「挽きたてじゃなくてすまねえな」
「いやいや。レギュラーコーヒーなんだから十分でしょ」
二人共ご飯を完食し、悠汰が持ってきた焼き菓子でも食べようという話になった。
先週手伝ってもらったこともあり、義孝がコーヒーを入れる間に悠汰が皿洗いを申し出たので、二人でキッチンで分担作業だ。
義孝が、コーヒーが下のガラスポットに落ちるのを見つつたまにお湯を注ぐ。
――様になるなぁ……
皿についた泡を流しながら悠汰が横目で盗み見る。
悠汰は洗い物が終わると、手を拭いて流しに腰を預けながら義孝の方を向いた。
ふと、首元に目が行った。
――あれ、首……今日は赤くない。
手首に目をやると、健康的な肌色をしている。
――昨日は、優しい人だったのかな
胸が苦しくなる。
それを追い払うように一度咳払いした悠汰。
「コップか何か、出す?」
そう言って、キョロキョロと食器棚を探す。
「そのへんにマグカップがあるからに出して」
義孝が指差した戸棚を開けると、マグカップが2つ、伏せておいてあった。
――そいえば僕の部屋は、マグカップ1つしかないな……もう一個買おうかな
2つ両手に取り、義孝がコーヒーを淹れている横に持っていく。
その時ヴー、ヴーとスマホの振動が聞こえてきた。
どうやら電話らしい。
義孝のスマホはカウンターにおいてあるが、画面は点いていなかった。
「僕か」
悠汰が椅子の背に引っ掛けてあったカバンを漁る。
スマホの表示を見た悠汰。
「……ごめん、ちょっと」
「おう」
――お母さんか、どうしたんだろう。
悠汰は、もしもし?と言いながら廊下の方に出ていった。
※
コーヒーが落ちる音が部屋に静かに響く。
十分量コーヒーが入ったと判断した義孝が薬缶をコンロに戻したところで、悠汰が戻ってきた。
「ごめん井上、母を病院に送っていかなきゃいけなくなっちゃって」
悠汰が申し訳無さそうに言う。
「お母さん、どうかしたのか?」
「なんかぎっくり腰みたい。たまになるんだよねー……また急に物持ったりしたんだろうな」
「そっか……」
深刻そうな声色の義孝に悠汰が明るく注釈をつける。
「あぁそんな、軽いやつみたいだから。病院も自分で運転できるけど、妊娠してる妹が送っていくって聞かないから、じゃあ僕に行かせればいいって話になったみたいで」
しょうがない人たちだ、とでもいうように笑う悠汰の顔は、家庭的な暖かさがにじみ出ている。
カバンを肩にかけ、忘れ物がないか見回す悠汰。
「妹さんいたんだ」
玄関に向かいながら義孝が聞いた。
「うん、二個下。いつの間にか彼氏つくってあっという間に結婚したよ」
「そっか……」
悠汰が靴を履いて義孝に向き直った。
「ごめんね、せっかくお呼ばれしたのに」
「全然。お母さん、お大事にな」
「ありがとう。あのお菓子美味しいから、よかったら食べて。じゃ」
バタン、とドアが閉まる。
足音が遠ざかっていく。
義孝はドアの鍵を閉め、リビングに戻った。
端に立ったまま室内を見渡す。
――なんか、静かだな
二杯分入れてしまったコーヒーを、悠汰が出したカップのひとつに注ぐ。
席に座って焼き菓子を一つ手に取り、ビニールを割いて開ける。
一口かじるとしっとりとした食感の生地に、洋酒漬けのドライフルーツが入っている。
「うま……」
コーヒーを啜り、フーと息をついた。
先程まで悠汰が座っていたその空席を眺める。
――美味しそうに食べてたな
思い出すだけで胸が温かくなる。
――こんななら、友達もいいもんだな
義孝は少し冷めたコーヒーをもう一口飲んだ。
※
「お母さん、買い物とか行っといた方がいい?」
病院から戻り、一息ついたところで悠汰は母親に問うた。
母親の診断はやはりぎっくり腰で、湿布を処方されて帰ってきた。
「あーそれは大丈夫よ、ありがとうね。未咲が匠さんと来るって言うから、頼んだの」
「あー、結局来るのか」
「もうすぐ産休でこっちにくるから、ついでに荷物も持ってくるって」
「ふーん……」
しっかり者の旦那、匠も一緒ならということで母が折れたのだろうな、と悠汰は思った。
未咲は実家から車でそう遠くないところに住んでいるが、出産前後は実家に戻って来る予定だ。
匠も育休を取って一緒に来るそうなので、未咲の産休が始まる来月半ばから少しの間、この家ももっと賑やかになる。
「悠汰、夕御飯はどうするの?今日は出前でもとるから食べていったら?」
「んー、そうだね……食べていこうかな」
用がないなら義孝の部屋でコーヒーをいただきたかったが、今から再びお邪魔するのも変な話だ。
加えて、未咲が夫を連れて来るとはいえ、母が動けないので家の勝手がわかる人が少ないのが心許ない。
どうせ夕食のことはなにも考えていなかったためちょうどいいと考えることにした。
「あ、お母さん、次の病院は……?」
たまたま壁にかかったカレンダーが目に入り、悠汰が思い付くまま母に問う。
「あぁ、来週はお父さん帰ってくるから」
悠汰の父は単身赴任で月一くらいで帰ってくる。
『次の診察は来週』『それには父が行く』という二つ込みの回答を受け取る悠汰。
「じゃ、僕いなくても大丈夫だね」
そう悠汰が返事をしたとき、また別の人物の声が玄関の方から響いてきた。
「ただいまー!」
「こんにちはー」
ガチャ、と居間のドアが空いてお腹の大きな女性と男性が入ってきた。
悠汰の妹、未咲とその夫、匠だ。
「未咲!匠さんも!元気だった?」
未咲は妊娠して八ヶ月、もう大分お腹が大きくなっている。
「元気元気~。ごめんねお兄ちゃん、匠さんと行けばよかったってあとから気づいた!」
元気よくしゃべる未咲の隣でペコリと匠が挨拶している。
「気にしないでいいよ。それは匠さんがやりづらいでしょ、僕が出れるときは出るよ」
「いえいえ僕は――」
「そうよそんな義母嫌よねぇ」
少し離れたところでソファに座っていた母親が口を挟む。
「……まぁどうしてもしょうがないときはお願いするかも」
悠汰が申し訳なさそうに眉をひそめる。
「はい、もちろん!」
「じゃお茶でも入れるわね」
母が立とうとしたところで匠が慌てて止める。
「あぁお義母さん、お茶くらい自分でできますので……」
「そう?あ、そっちの棚に――」
母親と匠がやり取りしているのを横目に、未咲が話しかけてきた。
「お兄ちゃん、今日用事あったんじゃないの?」
母親から聞いたのだろうか。
変に気を使わせたくないので適当に濁す。
「あぁうん、まぁ」
「私と匠さんいるから戻っても大丈夫だよ?」
「あー、大丈夫。もう終わったから」
「……」
未咲がまじまじと悠汰を見ている。
「な…何…?」
「……彼女?付き合ってんの?」
彼女ではないが、付き合いたいという願望はある人だ。
悠汰の心臓がドキリと跳ねて身体が固まる。
しかし、あくまで『友人』でいなければ。
「……違う違う、会社の友達。昼一緒だった」
「へー、何食べてきたの?美味しいとこなら教えてよ」
「いや、友達のうちでご馳走になった」
「え、作ってもらったの!?すご」
「うん、うまかった」
そう答える悠汰の顔を見た未咲がさらなる質問を繰り出そうとした。
「お兄ちゃん、その人のこ――」
「悠汰ー、未咲ー、出前何にする?」
母親がチラシを見ながら声をかけてきた。
母親の隣に匠もいたのでこっちに来て相談しようということだろう。
「はーい。ほら行くぞ」
そう言って悠汰が場を離れる。
「はーい……」
未咲の今ひとつ納得のいっていない声色について、悠汰は特に気に留めなかった。
※
その日の夜。
風呂から上がった悠汰は自室ベッドに寝転がりながら、今日の昼のことを思い出していた。
――井上の部屋、めっちゃきれいだったな。きれいというか、ものがない、か
ほぼ無意識でスマホを手にとって画面をつける。
通知がいくつか表示されている。
その一つに『井上義孝』の文字
ドキン、と心臓が跳ねる。
タップすると程なくチャット画面が開かれた。
『お菓子、美味かった。ありがとう』
『お母さんは大丈夫だったか?』
――お邪魔させてもらったのは僕の方なのに……しかも中座しちゃったし
悠汰が返信を打ち込む。
『こちらこそ、ご馳走さまでした!
ちゃんとお礼も言わずに失礼してごめん。
生姜焼き、めっちゃ美味しかった!』
『母も大丈夫だったよ。ありがとう』
メッセージの直後に、お辞儀をしている犬のスタンプを送る。
3秒くらいで既読がついた。
また心臓が跳ねる。
そのまま画面を見ていると、笑顔でgoodの手をしている猫のスタンプが送られてきた。
「ふふっ」
予想外のスタンプに思わず声が漏れる。
なんとなく上にスクロールして以前の会話を見返す。
とは言っても、二人とも必要最低限しかやり取りをしないのですぐ最初に到達した。
――あ
その少ないやり取りではどの会話も、右側の自分の吹き出しから始まっていた。
しかし今の会話は義孝から始まっている。
じんわりと口角が上がる。
――ヤバ……それだけで嬉しいとか僕……だいぶ重症かも
悠汰は、画面をオフにしてため息をついた。
「はー……」
――しつこくなんないようにしないと。あんまり好きになりすぎると辛いね、きっと
今日はコーヒーも飲めず帰ってしまったが、変なこと言う前に別れられて良かったかも、とも思う。
――でも、見るたびに好きだなって思っちゃうんだよなー
『付き合う気ねぇし』
義孝の一言が思い出される。
冷や水を浴びたように熱が一気に冷める。
――あれ、どういう意味なんだろう。昔の彼女のトラウマとか?恋愛は面倒臭いとか?
――とにかく、井上の近くにいたかったら、やっぱり気持ちがバレたらダメな気がする……
「そんなの無理かも……」
はー、と再びため息をついた悠汰。
スマホに充電ケーブルを挿し、布団をかぶった。
今週は定例の部長会議がある。
悠汰が指定の座席に座ると向かいの机の端の方には、義孝が座ってパソコンを操作しているのが見える。
――やっぱスーツ、似合うな…
ちらりと盗み見た瞬間、そんなことが頭に浮かぶ。
この前から少しでも暇ができると井上のことを意識してしまって仕方がない。
しかし。
自分は本当に義孝に恋してるんだろうか。
高校生の時の義孝が忘れられなくて、引っ張られてるだけじゃないんだろうか。
そもそも自分は、男性を好きになるのだろうか?
それは好意と同時に現れる疑問だった。
井上が上司に呼ばれたのか、顔を上げる。その顔つきに、胸の奥の方に温かな何かがこみ上げる。
――好きな人
井上の姿を実際に見て、その呼称はとてもしっくりきた。
ちらりと井上が、こちらを見た気がした。
――!!
慌てて目をそらす。
ドキンと跳ねた心臓の余韻を感じながら、手慰みに資料を数ページめくる。
――僕、どんだけ好きなの……
はー、とため息をつく。
「えー、では定刻となりましたので―――」
司会者が定型文を喋り始めた。
悠汰はその声に耳を傾け、真面目な顔を作って資料に目を向けた。
※
会議後、悠汰が休憩スペースに飲み物を買いに行くと義孝がいた。
「おつかれ、井上」
「おう」
あくまで友人だ、と意識して振る舞う悠汰。
「あっ、それ美味しいよね。この前飲んだ」
義孝がボタンを押したボトルコーヒーを見て三沢が言った。
「そうなのか?初めて飲む」
ガタン、と落ちたボトル。
義孝が手を突っ込んで取り出す。
小銭を入れながら悠汰が続ける。
「値段の割に量もあっていいよ。……てか井上、ブラック無糖なんだね。大人……」
「あー、ミルクだけなら入れることもあるけど、基本コーヒーに砂糖入れない。三沢、ブラック無理なの?」
「うーん、飲めなくはないんだけど。砂糖とミルクが入ってたほうが好きかなー」
二人でそれぞれボトルを持ちながら談笑する。
「ふーん。それはそれで、まろやかで……――」
通路の方を向いていた義孝が急に言葉を止めた。
悠汰も目をやると、女性社員が二人で喋りながら歩いてくるのが見えた。何やらこちらを見ているようにも見える。
「井上?」
「悪い、戻らねぇと」
そう言うと義孝はそそくさとその場を離れてしまった。
――人前で馴れ馴れしすぎたかな……
悠汰はそう思いながらペットボトルのキャップをひねった。
※
――思わず避けてしまった。
人気のない廊下で立ち止まった義孝。
もう十数年も前のことが、昨日の事のように浮かんでくる。
『お前、アイツと仲良くしてんだろ』
『井上は悪い人じゃないよ』
中学校の時、自分が教室に入ろうとしたら、中から声が聞こえてきた。
『やめとけよ。知ってるか?アイツ――』
耳打ちしているのか、その先の声は聞こえなかった。
ガラ、とドアを引いて教室に入ると、友達は一瞬怖いものでも見るような顔をしたあと、申し訳無さそうな顔をして俯いた。
『ハハッ、行こうぜ』
絡んでいた男子生徒たちが教室を出ていく。
『なあ、なにを――』
『……ごめん』
義孝の声は遮られ、友達は教室を出て行ってしまった。
次の日からその友達が声をかけてくることはなく、義孝と顔を合わせるたび、苦い顔で目を逸らした。
義孝にとっては、別にそれが初めてではなかった。
ただ、仲の良かった友達にそんな顔をさせていることが、申し訳なかった。
そんなことが続くうちに、だんだん他の人の前で仲良くしているのを見せることや、人と仲良くなることすら嫌になった。
――こんな感覚、忘れてたのに
「絶対、変に思われた……」
義孝は気をそらすように少し頭を振り、オフィスに向かって歩き始めた。
※
ガチャ
「お邪魔しまーす……」
「おー。どうぞー。もうすぐできる」
土曜日、悠汰は約束の時間通りに義孝の家に到着した。
「迷わなかった?」
義孝が悠汰に問う。
「スマホ見て来たから大丈夫だった。結構住宅街だね、こっちの方」
「うん、住みやすい」
「あ、井上……これ。食後にでもどうかなって思って」
紙袋を手渡してくる悠汰。
「もし今日食べなかったら置いていってもいいし、いらなかったら持って帰るし」
もらった紙袋を見ると、どこかのケーキ屋お手製の包装、というような包みが2つ。
「デザートにでも食べるか。食後にコーヒー淹れるよ」
その時、炊飯器の完了ブザーが鳴った。
「もうすぐできるから、もう少し待ってて」
「わかった。手だけ洗ってくるよ」
「洗面所、そっちな」
義孝は手で方向を指さしてキッチンの影に消えた。
「わー、生姜焼き?僕好きなんだよね!」
椅子に座りながら悠汰がテンションの高い声で言う。
「お前のほど手が込んだものじゃなくてすまん……」
湯気の上がるご飯が入ったお茶碗を2つ、汁物の手前に置く。
「いやいや!何言ってんの!生姜焼きだって大変だよ、ご馳走してもらえるのめちゃくちゃ嬉しいです」
ペコリと頭を下げる悠汰。
義孝が正しい反応がわからないといった顔をして席につく。
「ま、食べるか」
「うん!」
いただきます、と二人が各々手を合わせる。
悠汰が生姜焼きにかぶりついて一口、追いかけるように炊きたてのご飯を一口、口に入れる。
「熱っ……」
「ハハっ、炊きたてだからな」
口を抑える悠汰を見て義孝が笑う。
「……でもすごい美味しい!生姜効いてるしお肉柔らかい……!」
驚いた顔で感想を述べる悠汰。
「……うん、いい感じ。ま、味見したから知ってるんだけど」
「作る人の特権だね」
悠汰が笑う。
キャベツの隣、レタスを敷いてその上においてある、丸いアイスのような風貌のそれに箸を伸ばす。
――何だろ……
白っぽい何かにまばらのオレンジ色が散りばめられていた。
一口食べると――
「……!ポテトサラダか、これ!うま!」
「あー、じゃがいもをよく潰してあるから普通のポテトサラダよりなめらかになってるかも」
「なるほどね、オレンジのは人参?」
「そう。細かく切って電子レンジで加熱して混ぜてある。玉ねぎも同じように入れてあるよ」
「玉ねぎかー、入ってるかなとは思った。いい仕事してるね」
「だろ?」
義孝が口角を上げながら答えた。
悠汰が再び生姜焼きを口にする。
「これ、タレもすごく美味しいよ」
「んー……?生姜の絞り汁最後にかけてるからか?」
「あぁ、だから生姜の香りがしっかりするんだ。肉も厚いのに箸で切れる……焼き方も何かあるの?」
悠汰も料理が好きなので会話が弾む。
「火が強いと身が締まるから、あんまり強すぎないようにしてる」
義孝が説明しながら生姜焼きを箸で切ってご飯に乗せる。
説明が更に続く。
「生姜が入ってるからそもそも肉が柔らかいし、気にしないでもいいのかもしれないけどなー」
義孝が自身をじっと見ていた悠汰に気づいた。
「……何かついてる?」
「いや?何も。手が込んでるなぁーって」
「人様に出すんだしこれくらい」
悠汰も食べるご飯だから手間を割いたと言われているようで、悠汰は嬉しかった。
「フフっ。ありがとう」
「ん……」
照れているのか曖昧な返事の義孝。
義孝は気を逸らすように、ご飯の上に載せた生姜焼きをその下のご飯と一緒に口に入れる。
すると、あれ、といった顔で箸で掴み取ったそこを見た。
今度はポテトサラダを一口、吟味するように食べた。
もぐもぐと口を動かしながらじっとポテトサラダを見ている義孝。
悠汰がそれに気づいて声をかける。
「どうしたの?なにか入ってた?」
「いや、なんか……味見したときはもっと味気なかったのに、さっきより美味しい気がして」
「あぁ、それは……」
――一緒に食べてるからだと思うよ
と言葉は浮かぶのに、ストレートに言うのは恥ずかしい。
悠汰が、言葉を探して続けた。
「……時間が経って熟成したんじゃない?」
「……お前それマジで言ってんの?」
井上が怪訝そうな顔で聞きかえす。
「さぁ、どうでしょう?」
フフッと笑う悠汰は何やら楽しげだった。
――嬉しいな
――僕とご飯食べるの、楽しいんだ
悠汰は胸が暖かくなるのを感じた。
「井上はどこで料理覚えたの?」
「あー……覚えたってか……昔の彼女の家で――」
「彼女の家……同棲してたとか?」
思いもよらぬワードにこっそり驚く悠汰。
「いやしてねぇよ。高校のときだしな」
「……?」
――高校の時、彼女と家で料理……?
「彼女の家族とも仲良くさせてもらってて……彼女が料理好きだったから、一緒によく作った」
「なるほどねー」
――塾で僕が見たときには、彼女さんとはどうなってたんだろう……
「……で、彼女のお母さんが色々教えてくれたり、かな。それが最初で、あとはやってるうちに」
「ふーん……いいね、楽しそう」
「おう、楽しかった」
儚い顔で笑う義孝
それ以上彼女の話は広がらなかった。
――てっきり"一人暮らし始めてから"とか言うかと思ったのに……
お茶を一口飲む悠汰
――彼女……
あの金曜日の義孝の言葉が思い出される。
『女は……抱かない』
――どういうことだろう。今エッチの相手は男みたいだから、男が対象なんだと思ってたけど……両方いける人か、もしくは彼女が居たことはあるけどあとから男が対象だと気づいた?
お茶をゆっくりと置いた悠汰は、箸でポテトサラダを一口分とりわけ、キャベツと一緒に口に運んだ。
――もし"本命は女の子だけ"とかだったら、僕が恋人になれる可能性ってすごく低いよね……まぁ、友達のままでいるつもりだから関係ないといえば関係ないんだけど……
目の前では、特に何も気づいていない義孝が美味しそう生姜焼きを頬張っていた。
――そういえば今付き合ってる人いるのかな。いや、あんなに奔放にやってて許す恋人なんている?でももしかしたらすごく寛容な人とか……
考えただけで胸がツーンと苦しくなる。
ふと悠汰が前に目をやると、義孝が野菜を口に運んだところだった。
――今なら、彼女の話が出たし聞くのもアリ……?
「……今は、付き合ってる人とかいるの?」
もぐもぐと咀嚼し、飲み込んでから答える義孝。
「……?いねぇよ?」
心の中でよかった、とホッとする悠汰
――それが知れただけで十分
「誰かと付き合う気ねぇし」
――え
パッと顔を上げると、何食わぬ顔でおかずに箸を伸ばしている義孝
「な……」
――理由なんて、友達の僕には関係ないことだ。
すぐそこまで出かかった言葉を飲み込む。
――それにせっかくのお呼ばれだ、変なこと聞くのはやめよう
悠汰は目の前の昼食に意識を戻した。
※
「いい香り……」
悠汰が流しで洗い物をしながら、漂うコーヒーの香りに感想を述べた。
「挽きたてじゃなくてすまねえな」
「いやいや。レギュラーコーヒーなんだから十分でしょ」
二人共ご飯を完食し、悠汰が持ってきた焼き菓子でも食べようという話になった。
先週手伝ってもらったこともあり、義孝がコーヒーを入れる間に悠汰が皿洗いを申し出たので、二人でキッチンで分担作業だ。
義孝が、コーヒーが下のガラスポットに落ちるのを見つつたまにお湯を注ぐ。
――様になるなぁ……
皿についた泡を流しながら悠汰が横目で盗み見る。
悠汰は洗い物が終わると、手を拭いて流しに腰を預けながら義孝の方を向いた。
ふと、首元に目が行った。
――あれ、首……今日は赤くない。
手首に目をやると、健康的な肌色をしている。
――昨日は、優しい人だったのかな
胸が苦しくなる。
それを追い払うように一度咳払いした悠汰。
「コップか何か、出す?」
そう言って、キョロキョロと食器棚を探す。
「そのへんにマグカップがあるからに出して」
義孝が指差した戸棚を開けると、マグカップが2つ、伏せておいてあった。
――そいえば僕の部屋は、マグカップ1つしかないな……もう一個買おうかな
2つ両手に取り、義孝がコーヒーを淹れている横に持っていく。
その時ヴー、ヴーとスマホの振動が聞こえてきた。
どうやら電話らしい。
義孝のスマホはカウンターにおいてあるが、画面は点いていなかった。
「僕か」
悠汰が椅子の背に引っ掛けてあったカバンを漁る。
スマホの表示を見た悠汰。
「……ごめん、ちょっと」
「おう」
――お母さんか、どうしたんだろう。
悠汰は、もしもし?と言いながら廊下の方に出ていった。
※
コーヒーが落ちる音が部屋に静かに響く。
十分量コーヒーが入ったと判断した義孝が薬缶をコンロに戻したところで、悠汰が戻ってきた。
「ごめん井上、母を病院に送っていかなきゃいけなくなっちゃって」
悠汰が申し訳無さそうに言う。
「お母さん、どうかしたのか?」
「なんかぎっくり腰みたい。たまになるんだよねー……また急に物持ったりしたんだろうな」
「そっか……」
深刻そうな声色の義孝に悠汰が明るく注釈をつける。
「あぁそんな、軽いやつみたいだから。病院も自分で運転できるけど、妊娠してる妹が送っていくって聞かないから、じゃあ僕に行かせればいいって話になったみたいで」
しょうがない人たちだ、とでもいうように笑う悠汰の顔は、家庭的な暖かさがにじみ出ている。
カバンを肩にかけ、忘れ物がないか見回す悠汰。
「妹さんいたんだ」
玄関に向かいながら義孝が聞いた。
「うん、二個下。いつの間にか彼氏つくってあっという間に結婚したよ」
「そっか……」
悠汰が靴を履いて義孝に向き直った。
「ごめんね、せっかくお呼ばれしたのに」
「全然。お母さん、お大事にな」
「ありがとう。あのお菓子美味しいから、よかったら食べて。じゃ」
バタン、とドアが閉まる。
足音が遠ざかっていく。
義孝はドアの鍵を閉め、リビングに戻った。
端に立ったまま室内を見渡す。
――なんか、静かだな
二杯分入れてしまったコーヒーを、悠汰が出したカップのひとつに注ぐ。
席に座って焼き菓子を一つ手に取り、ビニールを割いて開ける。
一口かじるとしっとりとした食感の生地に、洋酒漬けのドライフルーツが入っている。
「うま……」
コーヒーを啜り、フーと息をついた。
先程まで悠汰が座っていたその空席を眺める。
――美味しそうに食べてたな
思い出すだけで胸が温かくなる。
――こんななら、友達もいいもんだな
義孝は少し冷めたコーヒーをもう一口飲んだ。
※
「お母さん、買い物とか行っといた方がいい?」
病院から戻り、一息ついたところで悠汰は母親に問うた。
母親の診断はやはりぎっくり腰で、湿布を処方されて帰ってきた。
「あーそれは大丈夫よ、ありがとうね。未咲が匠さんと来るって言うから、頼んだの」
「あー、結局来るのか」
「もうすぐ産休でこっちにくるから、ついでに荷物も持ってくるって」
「ふーん……」
しっかり者の旦那、匠も一緒ならということで母が折れたのだろうな、と悠汰は思った。
未咲は実家から車でそう遠くないところに住んでいるが、出産前後は実家に戻って来る予定だ。
匠も育休を取って一緒に来るそうなので、未咲の産休が始まる来月半ばから少しの間、この家ももっと賑やかになる。
「悠汰、夕御飯はどうするの?今日は出前でもとるから食べていったら?」
「んー、そうだね……食べていこうかな」
用がないなら義孝の部屋でコーヒーをいただきたかったが、今から再びお邪魔するのも変な話だ。
加えて、未咲が夫を連れて来るとはいえ、母が動けないので家の勝手がわかる人が少ないのが心許ない。
どうせ夕食のことはなにも考えていなかったためちょうどいいと考えることにした。
「あ、お母さん、次の病院は……?」
たまたま壁にかかったカレンダーが目に入り、悠汰が思い付くまま母に問う。
「あぁ、来週はお父さん帰ってくるから」
悠汰の父は単身赴任で月一くらいで帰ってくる。
『次の診察は来週』『それには父が行く』という二つ込みの回答を受け取る悠汰。
「じゃ、僕いなくても大丈夫だね」
そう悠汰が返事をしたとき、また別の人物の声が玄関の方から響いてきた。
「ただいまー!」
「こんにちはー」
ガチャ、と居間のドアが空いてお腹の大きな女性と男性が入ってきた。
悠汰の妹、未咲とその夫、匠だ。
「未咲!匠さんも!元気だった?」
未咲は妊娠して八ヶ月、もう大分お腹が大きくなっている。
「元気元気~。ごめんねお兄ちゃん、匠さんと行けばよかったってあとから気づいた!」
元気よくしゃべる未咲の隣でペコリと匠が挨拶している。
「気にしないでいいよ。それは匠さんがやりづらいでしょ、僕が出れるときは出るよ」
「いえいえ僕は――」
「そうよそんな義母嫌よねぇ」
少し離れたところでソファに座っていた母親が口を挟む。
「……まぁどうしてもしょうがないときはお願いするかも」
悠汰が申し訳なさそうに眉をひそめる。
「はい、もちろん!」
「じゃお茶でも入れるわね」
母が立とうとしたところで匠が慌てて止める。
「あぁお義母さん、お茶くらい自分でできますので……」
「そう?あ、そっちの棚に――」
母親と匠がやり取りしているのを横目に、未咲が話しかけてきた。
「お兄ちゃん、今日用事あったんじゃないの?」
母親から聞いたのだろうか。
変に気を使わせたくないので適当に濁す。
「あぁうん、まぁ」
「私と匠さんいるから戻っても大丈夫だよ?」
「あー、大丈夫。もう終わったから」
「……」
未咲がまじまじと悠汰を見ている。
「な…何…?」
「……彼女?付き合ってんの?」
彼女ではないが、付き合いたいという願望はある人だ。
悠汰の心臓がドキリと跳ねて身体が固まる。
しかし、あくまで『友人』でいなければ。
「……違う違う、会社の友達。昼一緒だった」
「へー、何食べてきたの?美味しいとこなら教えてよ」
「いや、友達のうちでご馳走になった」
「え、作ってもらったの!?すご」
「うん、うまかった」
そう答える悠汰の顔を見た未咲がさらなる質問を繰り出そうとした。
「お兄ちゃん、その人のこ――」
「悠汰ー、未咲ー、出前何にする?」
母親がチラシを見ながら声をかけてきた。
母親の隣に匠もいたのでこっちに来て相談しようということだろう。
「はーい。ほら行くぞ」
そう言って悠汰が場を離れる。
「はーい……」
未咲の今ひとつ納得のいっていない声色について、悠汰は特に気に留めなかった。
※
その日の夜。
風呂から上がった悠汰は自室ベッドに寝転がりながら、今日の昼のことを思い出していた。
――井上の部屋、めっちゃきれいだったな。きれいというか、ものがない、か
ほぼ無意識でスマホを手にとって画面をつける。
通知がいくつか表示されている。
その一つに『井上義孝』の文字
ドキン、と心臓が跳ねる。
タップすると程なくチャット画面が開かれた。
『お菓子、美味かった。ありがとう』
『お母さんは大丈夫だったか?』
――お邪魔させてもらったのは僕の方なのに……しかも中座しちゃったし
悠汰が返信を打ち込む。
『こちらこそ、ご馳走さまでした!
ちゃんとお礼も言わずに失礼してごめん。
生姜焼き、めっちゃ美味しかった!』
『母も大丈夫だったよ。ありがとう』
メッセージの直後に、お辞儀をしている犬のスタンプを送る。
3秒くらいで既読がついた。
また心臓が跳ねる。
そのまま画面を見ていると、笑顔でgoodの手をしている猫のスタンプが送られてきた。
「ふふっ」
予想外のスタンプに思わず声が漏れる。
なんとなく上にスクロールして以前の会話を見返す。
とは言っても、二人とも必要最低限しかやり取りをしないのですぐ最初に到達した。
――あ
その少ないやり取りではどの会話も、右側の自分の吹き出しから始まっていた。
しかし今の会話は義孝から始まっている。
じんわりと口角が上がる。
――ヤバ……それだけで嬉しいとか僕……だいぶ重症かも
悠汰は、画面をオフにしてため息をついた。
「はー……」
――しつこくなんないようにしないと。あんまり好きになりすぎると辛いね、きっと
今日はコーヒーも飲めず帰ってしまったが、変なこと言う前に別れられて良かったかも、とも思う。
――でも、見るたびに好きだなって思っちゃうんだよなー
『付き合う気ねぇし』
義孝の一言が思い出される。
冷や水を浴びたように熱が一気に冷める。
――あれ、どういう意味なんだろう。昔の彼女のトラウマとか?恋愛は面倒臭いとか?
――とにかく、井上の近くにいたかったら、やっぱり気持ちがバレたらダメな気がする……
「そんなの無理かも……」
はー、と再びため息をついた悠汰。
スマホに充電ケーブルを挿し、布団をかぶった。
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