青いオム・ファタル

落汰花

文字の大きさ
上 下
2 / 5

2.傾城の青

しおりを挟む
「俺はついに加湿器買っちまったよ。やっぱりこの時期は乾燥で喉がやられてきつくてよ、声もどんどん荒れていってひどいもんだ」
 と、語るのはソープランドのオーナーである松原まつばらさん。白髪混じりの濃い髭面が特徴的だ。
「あんたの声は元々しわがれてて酷いわよ。アタシはルフェームの美容液ね。奮発しちゃったわ」
 と、語るのはニューハーフバーのキャストであるリエコさん。ふわふわと束ねられた紫の髪が特徴的だ。
「どれだけ整地したってそんだけ濃い化粧塗りたくったら荒れるだろ? 必要なのかそれ?」
「分かってないわね、荒れるからこその整地だし整地しないと化粧が乗らなくなっていくのよ……っていうか整地って呼ぶのやめてくれる!?」
「まぁまぁ、ふたりとも。そうだな、生ハムの原木かな。奮発しちゃったよ」
 と、語るのは風俗ライターである老沼おいぬまさん。いつも派手なアロハシャツを着ているのが特徴的だ。
「ああ、そういえば、原木が家にあると強気になれるって一時期流行ってましたね。俺はスーツですね。気に入ってたのが、だいぶ擦れてきたんで」
 と、語るのは天原組舎弟頭補佐の千種ちぐささん。スキンヘッドの強面が特徴的だ。
 いずれも、透が営む夜カフェの常連である。
 彼らはこの街の夜を稼ぎ場にしているということだけが共通点だ。それでもそれぞれ仕事前後やオフの日にこの店に訪れて顔を合わせれば、小気味よく他愛のないトークを繰り広げる。本日最初のトークテーマは「最近買った一番高いもの」らしい。
「それがそのスーツ? 地味ねぇ」
「シンプルって言ってください。こう言うのが結局一番汎用性があるんですよ」
「その安定思考がもうヤクザらしくないわァ」
「ヤクザってスーツと柄シャツ合わせるイメージあるけど、千種さんはしてないよなぁ。頭丸めていかつい顔してなければサラリーマンに見えないこともない」
「ははっ、たしかに。老沼さんの方が派手な格好してるよなぁ」
「派手っていうか、チンピラよ。そのアロハは。いかにも安っぽいし」
「こういうのは値段じゃなくて、好みか好みじゃないかが大事だろ」
「それで、一色くんは?」
 松原さんにそう振られ、ナポリタンを炒めていた透は「そうですね」と少し思案して答えた。
「強力粉一〇キログラムとか」
 すると、周囲からしらーっとした目が向けらられる。
「それは仕事道具でしょ」
 と、松原さん。
「道具っていうのもなんだかあれだけど。たしかに一色くんが焼いたパンは美味しいけれど。そうじゃなくてさぁ。もっと趣味的なことだよ」
 と、老沼さん。
「そうよ。ほらなんかないの? ちょっといいマグカップを買ったとか。プロジェクターを買ったとか」
 と、リエコさん。
「駄目ですよ。こいつ、食とか芸術とかに関心はあるけれど、基本的に食べれればいい、見れればいいみたいなところあるんで」
 と、千種さん。
「あらでもお店の食器はきちんとおしゃれじゃない」
「それは親父にどやされでもしたんじゃないんですか……なぁ、透」
「お察しの通りです」
 そうだったのね、とリエコさんは笑い、千種さんは肩を竦めた。
「あ、でも、次点ありますよ」
「一応聞いてみようか」
「絵西町のカフェで食べたケーキセット。あれは結構いいお値段でした。それに見合う味でした」
 カフェ巡りは透の趣味だし、これはわりと悪くない回答なのではないかと思った。しかし、四人はまたもや首を捻った。
「一色くん、今度俺とゴルフでも行く? 店の女の子も誘うよ」
「いかにもな親父趣味ねぇ」
「じゃあ最近出来たばかりのバニークラブは? ちょうど取材しに行こうと思ってたし、一色くんもどう?」
「それも透にはあんまり響かないと思いますけど」
「うーん、どちらもご遠慮させていただきます」
「お待たせしました」と松原さんと老沼さんにナポリタンを提供する。それからさっさとフライパンをさげて、新たなフライパンをコンロに乗せる。バターを引いて、溶いた卵を落とし、ふんわりとオムレツを作っていく。リエコさんからの注文で彼女のお気に入りである。しれを提供すると同時に、オーブンが鳴って、グラタンの完成を知らせた。こちらは千種さんの注文だ。この時期限定のさつまいもグラタンを彼の前に差し出す。
「いやぁ、千草さんがこの時期になるといつも頼むそれ、すごい美味しそうに見えるんだよね」
「頼めばいいじゃないですか」
「でも僕は一色くんのナポリタンの虜になっちゃってるから」
「リエコさん、ここのところいつもオムレツだけだけど、足りるの? これから出勤だろ」
「あら心配してくれるなんて珍しい。最近糖質抜いてんのよ」
「ああ年齢に伴って脂肪が」
「表に出なさい」
「ごめんなさい」
 いつも通りの軽妙なやり取りに耳を傾けつつ、新たな客の気配もないから後片付けを進めていく。
 と、フライパンを洗い終えたところで、きぃ、と軋んだ音がした。
 耳馴染んだそれは、自宅階へのドアの音。現れたのは、今朝に拾った青年とも少年とも呼び難い幼気を持った猫のような男の子。
 彼は店内を見渡す。客人たちは水を打ったように静かになる。透が洗い物をする音だけが響く。
 男の子はぱちぱちと目を瞬かせ、最後に透を見た。
「俺を拾ってくれたのはお兄さん?」
「うん」
「どうもありがとう」
「どういたしまして」
「えっと、ここはお店?」
「カフェ」
「カフェ」
「夜に営業してるね。ずっと寝てたしお腹空いたでしょ。何か食べる?」
「いいの。ありがとう」
「そこの席座って……って、裸足じゃん。冷たいでしょ」
 透は彼の横を通り抜け、自宅から適当な靴下と靴を持ってきた。
 それを男の子に渡そうとしたとき、
「そ、そいつ」
 と、松原さんが彼を指さした。
「なんでそいつがここに?」
「なに、アンタ知り合いなの」
「いや、だってそいつ、傾城のあおだろ」
 その場のほとんど全員がぱちりと瞬いた。瞬かなかったのは、松原さんと男の子だけだった。いや男の子に至ってはむしろ笑顔を浮かべている。
「なんかそれ、最近言われるなぁ。でも、もっと長い感じで語感がいいのもあったよね。えっとたしか、……ケイセイケイコクヤリマンビッチ、だっけ」
 幼い顔から飛び出したとんでもないワードに、リエコさんが瞳を眇めた。
「あー、分かったわ。女のヒモしながらその彼氏を誑しこむっていうアレね」
「え、なに、どういうこと」
「ライターやってんのになんでそんなに情報に疎いの? だから年中安っぽいアロハしか着れないのよ」
「だからこれは値段じゃなくて好みか好みじゃないかの問題だって!」
「一色くん、そいつ、どこで拾ったの」
「朝、そこのゴミ捨て場で」
「じゃあ、そいつに聞けば分かるんじゃない、多分」
 松原さんの言葉を受けて、皆が男の子に視線を向ける。透もにっこりとした男の子を見る。
「どうしてあんなところにいたのか、聞いてもいい?」
 透が尋ねると、男の子はひとつ瞬いて、頷いた。
「俺昨夜までケンタくんの家にいたんだけど、そこにミホちゃんがやってきて。怒ったミホちゃんに外に引っ張り出されて、ぼこぼこに殴られて。途中から記憶ないけど、お兄さんがゴミ箱で俺を拾ったっていうなら、多分そこらへんに放られたんじゃないかな」
「ってことは、もともとミホちゃんの家にいたけれど、その彼氏かなんかのケンタくんとやらを誑し込んで痴情のもつれをおこさせたってところか」
「おじさん、名探偵?」
 男の子はぱちぱちと拍手をしながら、でも、と続けた。
「俺から誘ったわけじゃないけどね。俺はただ、ミホちゃんがいない時にミホちゃんの家に来たケンタくんが俺のことを抱きたいって言うから、いいよって言っただけだよ」
 男の子は平然と言ってのける。客人たちはなんともいえない顔を浮かべる。透はそれよりも、殴られたと言う方が気になっていた。頬と額にいくつかついていた生傷は一応手当し絆創膏を貼った。だが、殴られてもいたとは。顔に腫れ見当たらなかったから、殴られたのは体だろうか。いくら女の子の力といえど気を失うほど殴られたとなると、放っておくのはよくないだろう。
「体、痛くないの?」
「痛いよ」
 そのわりにはさらっとした口調で、拍子抜ける。
「えっと、手当しようか?」
「一色くんなんでそんなに世話焼こうとしてんの? 今すぐ追い出した方がいいよそいつ。俺この店が潰れたりしたら嫌だよ」
「店が潰れるって、それはまた穏やかじゃないな」
「こいつが働いてたキャバとかクラブ全部、人間関係がめちゃくちゃになってんだよ。俺の古馴染みの店も被害くらったって言ってた。噂によればひどいところじゃあ警察沙汰が起きて営業停止になったところもある」
「わぁ、それはまた……」
「傾城傾国とはよく言ったものだね」と老沼さんが苦笑した。
 老沼さんと一緒で透もこれまで彼の噂を聞いたことはなかった。彼について知っているのは葬儀で見かけたときの喪服姿と笑顔だけだった。西四辻会の関係者かと持っていたが、しかし、今の彼はこの街で悪名高い存在となっているらしい。本当にヒモはやっていたと、その相手の恋人と寝たと、彼は自ら認めたけれど、それでも、聞く限りだと彼だけが悪いようにも感じない。店の人間関係がめちゃくちゃになった、というのも、同じく彼だけが悪いものとは限らないのではないかと思う。なのに、ここまで堂々と詰られ拒まれるのがなんだか少しもやっとした——やっぱりそれを指摘する気にはならないけれど、いつも通りの偽善的な心ではあるけれど。
「心配しなくてももう出ていくから、大丈夫だよ」
 男の子はそう言って、透に靴と靴下を押し返した。
「これも、痛いのも大丈夫。慣れてるから。ありがとうね、お兄さん」
「あとこれも。ありがとう」と男の子は頬の絆創膏を指して笑った。それから出口へと向かって行こうとする彼の手を、透は反射的に繋ぎ止めていた。彼はそれを不思議に見つめた。
「どこか行くあてでもあるの」
 男の子は首を横に振った。
「でも行く場所がなくなるのはいつものことだから。いつも通り、またふらふらしようかなって」
「うちに住む?」
「は?」
 客人たちの四つの声が重なった。男の子は何も発さないままぱちりと瞳を瞬かせた。透自身も少し驚いていた。思うよりも先に言葉が出た。けれど、訂正する気は起きなかった。
「ちょ、ちょっと、一色くん!? 何言ってるの!?」
「アンタなに早速籠絡されてんのよ!? 目覚しなさい!」
「籠絡はされてないしちゃんと目は覚めてますよ。ただ一部屋くらいなら余ってるし、食事は一人分より二人分作った方が美味しくなるでしょう。それに仕事のお手伝いしてくれる人ほしいなぁってちょうど思ってたんで。住み込みアルバイトみたいな感じでどうかなって思って」
「お兄さんよく、お人よしって言われない?」
 男の子が透をまっすぐ見据えて言う。
「あんまり言われたことないよ」
「その人たちが言ってたみたいにお店潰れちゃうかもしれないよ」
「そうなったらオーナーである俺の力不足だと思うよ」
「やっぱりお人よしって言われない?」
 男の子の問いかけにもう一度「あんまり言われたことないかな」と答えたら、男の子はにっこりと笑った。
「お兄さん、なんか、面白いね」
「それはどうも?」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
 その答えに、透は心のどこかがほっとしたように感じた。それから「じゃあ、これ、ちゃんと履いて」と靴と靴下をもう一度渡せば、男の子は今度は受け取ってくれた。
「君、名前は?」
「青。お兄さんの名前は、えっと、一色くん?」
「一色でも、透でもどっちでもいいよ」
「うーん、とーりくんの方がしっくりくるかな」
「じゃあそれで」
「ちょ、ちょっと、透ちゃん、本当にいいわけ……?」
 そう言うリエコさんの顔には心配がありありと浮かんでいた。他の三人もなんともいえない顔を浮かべている。本人を前にして悪評を語り合うのには少しもやを覚えたけれど、それでもこの人たちが、口がちょっぴり悪く正直すぎるところがあるけれど、根はやさしいことも知っている。
「大丈夫ですよ。それより、ほら、料理冷めちゃいますよ」
 促せば、皆、それはまずい、と言うように揃って料理に目を向けた。それでいて青の存在がまだ気になっているようなそぶりは見せたが、それでも食欲には勝てなかったのか、それとも透が切り上げたからひとまずは受け入れてくれたのか、それぞれ食器を手に取り食事を再開した。
 透は青を一番端の席に座るように促すと、さくっとできるサンドイッチと本日のスープであるコーンポタージュの用意をした。
しおりを挟む

処理中です...