夢のまた夢

月居契斗

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夢のまた夢 2

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「達樹、お疲れ様」
 一日の授業がすべて終わって帰り支度を整えていた達樹は、背後からかけられた声に振り向いた。
 立っていたのは藤村で、彼は相変わらず爽やかな微笑を浮かべている。平日はほとんどバイトのシフトを入れているはずの藤村だが、今日は急いでいる様子がない。
「今日はバイトない日だったっけ?」
「うん。先週末、急に都合が悪くなっちゃった人の代打をしたから今日は代わりに休みでいいよって言われたんだ。達樹も今日はシフト入ってなかったよね?」
 シフトの話をしたかどうか達樹自身さえ忘れていたというのに藤村の記憶力には驚くばかりだ。
「よく覚えてたな…」
「ずっと達樹とデートするチャンスを狙ってたから」
「でっ…!」
 達樹はさらりと告げられた言葉に頬を赤くし、誰かに聞かれてはいないかと冷や冷やしながら辺りを伺う。
 授業から解放されたことでざわつく教室の中に自分達を気にしている存在がないことを確かめてから達樹は気恥ずかしさを誤魔化すように藤村を睨んだが、残念ながらまったく効果はなかった。
 大学入学直後に親しくなってからずっと自分を特別扱いしてくれていた藤村と先日うっかり恋人になってしまったことに対しての後悔はないものの、告白よりも先に身体の関係を結んでしまったことを思い出すと達樹の耳は燃えたように熱くなる。
 それでなくとも藤村からのあからさまな特別扱いを怪しむ友人にからかわれ続けてきたのに、本当に『ただの友人』ではなくなったという事実が伴ってしまえば誤魔化す態度はますますぎこちなくなった。
 良く言えば素直な達樹は嘘があまり得意ではない。
 藤村からの露骨なほどの特別扱いは嬉しさよりも恥ずかしさが大きいし、既に一線さえ越えてしまった二人の関係が誰かにバレやしないかと、冷や汗が浮かぶことも少なくなかった。今はまだ同性の友人同士のじゃれ合いとして受け入れられているが、偏見の目を向けられるかもしれない不安は常に達樹の脳裏にある。
 どちらかの部屋に二人きりでいる時なら達樹も人目を気にせず甘えられるとわかっているのだから、せめて大学にいる間だけは健全な友人同士に見えるように振る舞ってほしいと願ってしまうのは我が儘だろうか。
「…で、どこに行くんだよ?」
「雪之丞の餌を買いにペットショップに行こうかなって」
「それはデートって言わないだろ…」
 声を潜めて呟いた達樹はため息をついた。最初からそう言ってくれれば同行すると即答できたのに。
「達樹って本当に動物好きだよね。…そういうところ、すごく可愛い」
「っ…!」
 顔を近付けた藤村に耳元で囁かれ、達樹は再び赤面した。こうなるとわかっていてやるのだから本当にタチが悪い。達樹は顔を赤くしたまま眉を吊り上げて藤村にきつい視線を向けてみるが、それでも藤村はただ笑みを深くするだけで怯むことはなかった。
 機嫌を損ねた達樹は足音も荒く教室を出る。当然、藤村はすぐに追いかけてきた。
「お前、俺にだけ性格悪いよな…」
「苛めたくなるくらい達樹のことが好きってことだよ」
 並んで歩きながら横目で睨むが、やはり藤村は少しも動じない。
 普段は同性からの受けも良い藤村が本当はこんなに意地悪だなんて、きっと自分以外の人間は知らないだろう。ただ、ほんの少しだけそれを嬉しいと思ってしまうのは惚れた弱みというやつかもしれない。
「好きな子ほど苛めたいだなんて小学生男子じゃないんだからさ…」
「あ、そっか、そうかもしれない。僕がすることで達樹が赤くなったり怒ったりするのを見るのって、結構ぐっと来るんだよね。僕のことを意識してくれてるんだ、嬉しいなって。実際の小学生時代は一度もこんなこと思ったことなかったけど、今ならわかるな」
「ほんっと性格悪い!」
 どうやら自分はとんでもない相手を恋人にしてしまったらしい。
 しかし今さら友人に戻ることも藤村のことを嫌いになることもできないし、そもそも達樹の自慰行為を盗み見たくて部屋にカメラを仕掛けたと教えられた上で藤村からの告白を受け入れたのは自分だと、達樹は諦めの境地で息を吐き出した。
 予定どおり雪之丞の餌を買い、帰りがけに見つけたワゴンショップのクレープで機嫌を直した達樹は、そのままの流れで藤村の住む部屋へと足を踏み入れた。
 藤村の部屋はいつ来てもきちんと整頓されている。
 部屋に他人を入れるのが苦手だと聞いていたため、藤村と親しくなってすぐの頃は彼の部屋を訪れることに酷く緊張していた達樹も両手の指でも足りないくらい訪問回数を重ねたおかげですっかり気楽に寛げるようになった。
 それに見た目も仕草も愛らしい雪之丞と触れ合えるという誘惑も、藤村の部屋を頻繁に訪れる要因になっている。
 雪之丞は達樹が個人的に買ったハムスター用のビスケットを気に入ってくれるだろうか。小さな手でビスケットを持つ雪之丞を想像すると思わず頬が緩んでしまう。
「雪之丞ただいまー、って、ちょ…ッん!」
 玄関ドアが閉まりきるよりも早く抱き竦められて驚いた達樹の声が藤村の唇に飲み込まれる。制止する間もなく舌を吸い上げられると、藤村によって教え込まれた甘やかな刺激に背中が震えた。
「ま、って藤、ぅむ…っ」
「待たない。やっと二人きりになれたんだから独り占めさせてよ」
 口早に告げた藤村は達樹に反論の暇を与えず、情熱的なキスを何度も繰り返す。
 二人の舌が絡んで濡れた音を立てるが、ここはまだ玄関だ。ドアの向こう側に音や声が漏れ出てしまわないかと気が気じゃない。
 恋人になってから知ったことなのだが藤村は意外とキス魔で、達樹と二人きりになろうものなら場所を気にせずキスしようとしてくる。
 大学内でも繰り広げられる贔屓と言いたくなるほどあからさまな特別扱いならまだギリギリ仲が良すぎる友人の範囲内として見てもらえるが、万が一にでもキスしているところを見られたらさすがにアウトだ。
 大学にいる間にキスしたら別れると宣言したおかげで大学内ではおとなしくなった藤村は、その反動からか達樹を部屋に連れ込むとしつこいくらいキスをしてくるようになった。最近になって達樹がバイトをはじめたことも藤村のしつこさに拍車をかけているようだ。週末は二人で過ごせるようにとシフトを入れないようにしているのだが、藤村はそれだけでは足りないらしい。
「達樹…」
 欲望を隠しもしない生々しい熱を孕んだ声で呼ばれてしまえば、達樹はもう白旗を上げるしかない。
 二人揃ってもどかしく靴を転がし、キスを繰り返しながらベッドへと倒れ込むと、すかさず覆い被さってきた藤村の手でズボンを下着ごと剥ぎ取られた。藤村の唇が達樹の首筋を這い、鎖骨を軽く吸い上げてから胸へと辿り着く。
「っ、ん、ぁ…っ」
 乳首を舌先で弄られると途端に達樹の声は甘く蕩けた。
 一人で処理する時でさえ性的な刺激によって声が出てしまうことがコンプレックスで、それは今でも変わらないのに、藤村は達樹に声を出させようと無駄に張り切る。今だって口を押さえようとする達樹の手は藤村によってやんわりと拘束された。
「声出るのが嫌なんだって言っただろ」
「僕しか聞いてないよ」
 当たり前だ、こんな死にたくなるほど恥ずかしくて甘く蕩けた声なんて藤村以外に聞かせるわけがない。
 けれどそれを告げる前に達樹は再びキスで口を塞がれ、藤村の唾液で濡れた乳首を指で捏ねられた。大袈裟なくらいに背中が跳ねる。
「その反応、すごく可愛い」
「ぁ、ン…っ、や、そこ、ばっか…!」
「達樹はここを弄られると気持ち良すぎるから、つい嫌だって言っちゃうんだよね」
「ひぃ…ッ」
 やや強く摘まれた乳首から電流のような刺激が走り、下半身に直撃する。遮るものが何もないせいで、そこがはしたなく反応してしまっているのは丸わかりだ。
 藤村が達樹の下腹部を見て熱っぽく笑う気配を感じたけれど、目を開けることなんてできなかった。少しでも気を抜くと飛び出してしまいそうになる反論と甘ったるい悲鳴を一緒くたに飲み込む。
「口でしてあげようか?」
「ぃ、嫌…! それは絶対にやだ!」
 やや顔を蒼褪めさせてまで嫌がる達樹は咄嗟に目を開け、既に自分の下半身に顔を近付けている藤村の髪を引っ張った。
 もちろん口でされるのはすごく気持ち良い。藤村の口内は熱くて湿っていて、強く吸い上げられるとすぐに射精感に襲われ、恥ずかしくてたまらないのに高い声が勝手に口から溢れてしまう。しかし、いくら恋人と言えども同性のそんなところを口に含むなんて嫌じゃないのだろうか。
「どうして? 口でされるの気持ち良いでしょ?」
「でも、嫌だ…」
「何か理由でもあるの?」
「…恥ずかしいから」
 恥ずかしいのは間違ってない。けれど自分ばかりされるのは悔しいし、何となく申し訳ないからとは言えず、達樹は眉尻を下げて曖昧に言葉を濁した。
「僕は恥ずかしがってても声が止められない達樹を見るのが好きなんだけどな」
「めちゃくちゃ変態くさい」
「そのくらい達樹に魅力があるってことだよ。それよりも、ね? こっちに集中してよ」
「ひゃあッ」
 前を強く握り込まれ、嫌だと言う隙もなく藤村の舌で先端を撫で上げられて、達樹の声はひっくり返った。
 まだ風呂にも入っていないのにと非難の目を向けるが、自分のそんなところを口で愛撫している藤村の顔をまともに見てしまい羞恥が募っただけだった。
「や、だ! 嫌だってば藤村!」
「そんなに嫌?」
「嫌!」
 あまりにも嫌がったからか顔を離してくれた藤村を押し退けた達樹は膝を立てて引き寄せ、シャツを引っ張って股間を隠す。
 そんな達樹の膝頭に藤村がそっと唇を押し付けた。経験の差なのか意識の差なのか、こういう仕草が妙に似合うのが腹立たしいのに心臓は素直に高鳴る。
「なら、達樹も僕にしてみる?」
「は、ぁ…?」
「口でされるのが恥ずかしいって達樹の気持ち、僕もされる側になったらわかるかなって」
 達樹は思わず目をまん丸にした。とんでもないことを言われてしまったと頭皮にまで血の気が上る。
 しかし一方で、頭の隅の冷静な意識が「これはチャンスじゃないか」と囁いた。
 もう幾度も抱かれているのに、達樹はいつも藤村から奉仕されるばかりで自ら進んで藤村の身体に触れたことはない。もちろんそれは受け入れる側の負担のほうが大きいからこそなのだが、達樹からの積極性を一度も求められたことがないのも不安の種のひとつだった。
 藤村からの提案はあまりにも突飛で衝撃的だったけれど、達樹は困惑を顔に貼り付けたまま、長い沈黙のあと小さく頷いた。
「……する」
「え、本当に?」
「俺だって男だ、やる時はやるんだからな…っ」
 身体を起こした達樹はベッドに浅く座らせた藤村の足元に座り込んだ。
 耳の奥で鼓動が大きな音を立てている。未知の行為に酷く緊張しているのはわかっているけれど、ここで引き下がっては負けだと達樹は怯みそうになる自分を叱咤した。
「無理しなくてもいいのに」
「別に無理ってわけじゃない」
 こんなところで負けず嫌いな性格を発揮しなくてもいいのにと自分で自分を罵る声を心の中だけに留め、達樹は恐る恐る藤村のズボンのウエストを緩める。既に藤村自身が少し反応しているのを下着越しに見つけ、今から自分がすることを想像してごくりと唾を飲み込んだ。
「本当に無理しなくてもいいんだよ?」
 そう言いながらも、藤村の手は期待しているかのように達樹の頭を撫でている。
 達樹は腹を括って下着をずらし、生まれて初めて他人の性器に触れた。修学旅行などで同性の裸を見る機会はあったが、こんなふうに性的な反応をしているところを肉眼で直視するのは本当に初めてだ。
 いつも藤村がどうしていたかを思い出しながら顔を近付け、そっと舌を伸ばす。舌先が触れたが嫌悪感はなかった。こっそりと安堵しつつ恥ずかしさを堪えて二度、三度と舌を這わせてみても、味覚的な嫌悪感も特にない。
「…案外、平気っぽい」
 薄く目を開けて、自分の唾液で濡れて艶を持った先端を確かめる。不思議なことに嫌悪感を抱くどころか、ふっくらと丸い先端を愛しいとさえ思った。
(俺、ちゃんと藤村のこと好きなんだな)
 思い切って先端を口に含むと藤村が微かに息を詰めた。手で支えている部分も硬度を増す。
 普段は爽やかで人当たりの良い藤村の反応が嬉しくて、達樹は口に含んだ先端に丁寧に舌を這わせた。拙い口淫でも藤村の性器は熱と硬さを増していく。舌を大きく動かすと、頭を撫でてくれる手が微かに震えた。
「気持ちいいよ、達樹」
 頭上から降ってくる藤村の声は熱を帯びている。達樹の髪を撫でる手のひらも熱くなっていて、静かに往復する動きはまるで褒められているようだ。
 先端から滲み出る体液の味も気にならないし、いつもこれと同じことを藤村がしてくれていることを思い出すと興奮すら覚えた。熱くて硬くて、それでいてどことなく柔らかさを残した肉の塊は不思議な感触だが、自分を相手にしてこうなっているという事実は否応なく達樹を昂らせる。
 最初は恐る恐る様子を探るように動いていた達樹の舌は、いつの間にか大きく大胆になっていた。
「達樹、もうそろそろ出そうだから…」
 口を離すように促されても従わず、根元まで全部を口に納めるのはさすがに無理だったが、達樹はできる限り深く咥えてたどたどしく舌と首を動かした。
「離してくれないと達樹の口に出しちゃうよ?」
 いつものからかうような調子の声色に欲望が隠れているのを聞き逃さなかった達樹は、口に出して構わないと言葉で伝える代わりに、引き剥がされてしまわないよう藤村の膝をしっかりと掴む。
「本当に口に出すよ?」
 僅かに余裕をなくした問いかけに頷く。藤村は口で受け止めてくれることが多いし、自分だって同じことをしてみたい。
 大きく開きっぱなしの顎は痺れているように軋むけれど、口でされる側がどれほど恥ずかしい気分を味わわされるのか思い知らせたいという悪戯めいた考えから、達樹はますます強く藤村の膝を掴んだ。そこまでするとやっと藤村は達樹の決意を察したらしい。
 不慣れでぎこちない動きを助けるように達樹の髪を撫でていた藤村の手が動きを止め、頭に添えられた指先に力が篭った。ゆっくりと引き寄せられて、それまでよりも少しだけ深く咥えさせられる。達樹は反射的にえずきそうになったが必死に堪えて喉を開いた。
「ん、んむ…」
 それでも藤村は達樹の喉を無理矢理突くなんてことはしなかった。
 鼻でしか呼吸できないせいで息が苦しいことには間違いないが、自身の快楽を追うよりも達樹に負担をかけまいと気を配る恋人に感心する。
 彼のそういう部分が好きなのだと思いながら、達樹はなるべく舌を広く押し付けたまま首を前後させる。飲み込みきれなかった唾液と藤村の先走りが混ざり合って達樹の顎を伝い落ちた。
(俺…こんな恥ずかしいことしてるのに、勃ってる…)
 達樹は口淫の刺激を途切れさせないように懸命に愛撫を続けつつ、肌寒い季節になり厚さを増したシャツの裾を引っ張って太ももの間で存在を主張する自分自身を密かに隠した。
 目敏い藤村に気付かれてしまわないかと心配になる一方で、他人の――しかも同性の性器を口に入れているだけなのに反応しているなんてはしたないと思う反面、相手が恋人だからこそ興奮しているのだと自覚して無意識に安堵した。耳に届くいやらしい水音は自分の欲望の証でもあると考えると興奮はますます強くなった。
 そこでふと、このまま口に出してもらうにしても自分はどうすればいいのかと疑問が浮かんだ。
 もちろん出してもらえるまで咥え続けていればいいのだろうが、どこまで口に入れていればいいのだろう。深く咥えた今の状態で出されたら噎せそうだし、かと言って咥える位置を浅くしたら刺激が足りないかもしれない。
 困り果てた達樹が窺うように視線を上げると、眉間に力を入れた藤村と目が合った。
「出すよ、達樹…っ」
 少しの余裕もない切羽詰った声を聞いた達樹は慌てて喉を塞ぐように舌の位置を変える。
 直後、口に中に体液が吐き出された。思っていたよりも勢いが良くて、舌で受け止めなければ噎せていただろう。
 舌に当たる体液の感触は形容しがたいものだったが、やはり相手が藤村だと思うとそれほど強い抵抗感は生まれなかった。
 口内から藤村が抜かれたと思うと、その代わりにティッシュが差し出される。
「達樹、ほら、早くここに吐き出して」
 どことなく焦っているような早口は珍しい。
 達樹はいつも余裕のある態度をする恋人をもっと焦らせてやりたくなって、体液の味を気にしないように努めて飲み込んだ。口内で舌を扱いてわざと唾液を出し、絡み付くような味と一緒に何度か嚥下する。
 驚きを隠せない表情をしっかりと目に焼き付けた達樹は、悪戯を成功させた幼子みたいな表情で笑った。藤村のこの顔が見たかったのだ。
「俺だって、このくらいやれるんだからな」
 受け取ったティッシュで口元を拭いながら言うと、数秒遅れで破顔した藤村の膝の上に引き上げられた。自分のほうが少し目線が上になる体勢が妙に気恥ずかしくなった達樹の頬は熱を持つ。
「達樹ってば、本当に可愛いんだから」
 今の振る舞いのどこが可愛いのだろうか。恋人の感性がよくわからない。
 しかし元より達樹の自慰行為が見たいという理由で部屋に隠しカメラを仕掛けるような男だ、少しくらい感性がズレていてもおかしくないかと達樹は自分を強引に納得させる。
「僕も達樹のことを気持ち良くしてあげたいんだけど、いい?」
 聞いておきながら、藤村は達樹の返事も待たずに素早く体勢を変えて達樹をベッドの上に転がした。
 一枚だけ残されたままだったシャツを脱がされると肌を隠すものは何もない。達樹が慌てて手で股間を隠すよりも、藤村の視線がそこを見るほうが早かった。
「達樹、僕のを口でしながら興奮してたの?」
「そういうのは言わなくていいって…」
「ごめんごめん。恥ずかしがり屋の達樹ががんばってくれたのが嬉しくて浮かれてるんだよ」
 そんなふうに言われると憎めないじゃないか。達樹は小さく唸りながら股間を隠す手から力を抜く。
 すかさず藤村は達樹の両の手のひらに自分の手のひらを重ねてきた。指を絡められると、そこから甘ったるさが全身に広がっていく気がした。
「ねえ、達樹は前と後ろ、どっちで気持ち良くなりたい?」
 とんでもない質問を投げかけてくる恋人が憎たらしい。浮かれる方向が間違っていると指摘してやりたいが、達樹の口からはやはり羞恥の唸り声しか漏れなかった。
「両方一緒にしてあげようか?」
「そッ、それはダメ!」
「どうして?」
「どうしてって、そんなの…」
「気持ち良くなりすぎちゃうから?」
「わかってるんなら聞くな!」
 照れ隠しで吠える達樹の唇に触れるだけのキスが降ってくる。鼻や額や頬にも軽く押し付けられては移動する唇は、地面の上を飛び跳ねて移動するスズメみたいだ。
 口での奉仕は死ぬほど恥ずかしかったけれど藤村がこれほど喜んでくれたのだから、やって良かったと思ってもいいかもしれない。
 むずむずと口元を緩ませた達樹は自分から手を伸ばして藤村の頬に触れ、唇へのキスを催促した。が、ついさっきの自分の行動を瞬時に思い出して顔を背ける。ついでに手のひらで口を覆った。
 その仕草で達樹の言わんとしていることを察した藤村は、緩く笑んで達樹の手の甲に唇を押し付ける。
「そんなの気にしないからキスさせてよ」
「うう…」
 あんなことをした直後なのに本当に良いのかと視線だけで再確認するものの藤村の笑みは崩れない。
 早々に根負けした達樹は、口を覆い隠していた手を躊躇いがちに外した。すぐに唇同士が触れ、深く重なって、舌が絡まる卑猥な濡れた音が鼓膜を震わせる。
 最初はあんなに恥ずかしかった深いキスも、毎日飽きるほど繰り返されればさすがに慣れる。
 藤村の唇が達樹の首筋を這い、意図を持って吸い付いた。
「…見えるところには付けるなよな」
「うん、わかってるよ」
 胸から腹にかけてを撫でられながら首と鎖骨の境目辺りを強く吸われる。小さく鋭い痛みに勝手に背中が反ると、その隙間に藤村の腕が差し込まれた。こうされると逃げる余地は欠片もなくなってしまう。
「ぅ、あ…ッ」
 達樹が反射的に痛みから逃れようと藤村の肩を押すが、びくともしない。それどころかますます藤村の腕の拘束は強くなり、二つ、三つと痛みと共に赤い跡が増えていくばかりだ。
 独占欲の強さからか藤村は達樹にキスマークを残したがる。放っておけば際限なく全身に付けられてしまいかねないし、一度だけあまりにも際どい位置に付けられたせいで冷や冷やしたこともあった。このくらいで止めておかないとまずいことになる。
「藤村っ、ちょ、おいこらッ、付けすぎだってば!」
「あとひとつだけ…それで終わりにするから」
 そんなふうに興奮を滲ませた声を出されたら受け入れるしかない。
 達樹は大きく身体を震わせて、最後のひとつだからと念入りに吸い上げる藤村の肩に爪を立てた。
(大学では「藤村君っていつも爽やかだよね~」なんて女子に騒がれてるのに、実際は俺なんかにこんなに夢中になってるなんてな…)
 達樹の身体中に愛撫を施している藤村には普段の落ち着いた雰囲気など微塵もなかった。
 彼がこんなふうになっている事実に湧き上がるのは紛れもなく優越感で、それと同じくらい愛しさを膨らませた達樹は甘ったるい声を漏らす口を手で押さえながら、あとひとつだけという約束を守れない恋人に苦笑を漏らした。
「明日は授業あるから、手加減だけはマジでしてくれよな」
「…努力はするよ」
 なんとも不安しかない返事だったが、達樹はもう拒む言葉を紡ぐことなく唇を緩ませた。



      ***



 お互いにシフトを入れない約束にしている土曜日の昼下がり。
 前夜からの雨はまだ止んでおらず外は薄暗く静かで、つい先日までの残暑とは打って変わって今日は冬かと言いたくなるくらい寒い。
 数日前に配信されたばかりの映画を見る予定で藤村の部屋を訪れた達樹は、藤村がコーヒーの用意をしてくれている間にタブレットを操作して目当てのタイトルを探した。雨の日のデートの定番と言えばやはり映画鑑賞だ。
 達樹が準備を整え終えたタイミングで藤村がテーブルに二人分のコーヒーとドーナツを幾つか乗せた皿を置いた。
「お待たせ。どうぞ」
「ありがと」
 粉砂糖やチョコレートで彩られたドーナツは、時間を置くと湿気を吸っておいしくなくなってしまうからと藤村が午前中にバイト先のカフェまで行って買って来てくれたものだ。
 雨が降る中わざわざ出かけてくれた恋人に感謝の笑みを向けた達樹は、藤村が座ったことを確認してから映画を再生させると早速ドーナツに齧り付く。
「あ、うまい」
「良かった。店長にも伝えておくよ」
 サイズは大きめだが、ふんわりと柔らかい触感のおかげで食べやすい。一瞬にして映画の序盤よりもドーナツに夢中になった達樹はあっという間に一個目を食べ終わり、間髪入れず二個目のドーナツに手を伸ばす。
 合間に良い香りのコーヒーに口を付けながら視線を向けた映画では、自称何でも屋の冴えない見た目の主人公が不可思議な現象の起こる家の調査を依頼されたところだった。
 苦手なホラー要素があるせいで一人では絶対に見たくない、というか見ることができない。けれど話題になった作品ということもあって、好奇心に負けた達樹は遠慮なく藤村を巻き込んだ。
 空に夜の気配が広がった頃、廃墟然とした民家の前に主人公の運転するボロい車が止まる。緩みきったブレーキの音がますます不安感を煽った。
 だらしなく無精髭を生やした主人公は不安そうな表情のわりにはしっかりとした足取りで支柱が傾いでいる門を抜け、今にも蝶番が外れそうなドアの鍵穴に古めかしい鍵を差し込んだ。人の手が入らなくなって久しいらしい民家は、どんなにゆっくりと足を進めても盛大に床板を軋ませる。
(…なんか、あのAVっぽい、かも)
 脳裏を過ぎるのは以前この部屋の留守を預かった際に一人で見たAVだ。その後、藤村と一緒に見ることにもなったのだが何やかんやあって結局まともに内容を見ていない。『何やかんや』の部分を思い出してしまった達樹の頬はじわりと温度を上げる。
 逸れた達樹の意識を引き戻すかのようにテレビから不恰好な悲鳴が迸った。何事だと目を向けると、主人公の男は民家のベッドルームでいるはずのない女性と遭遇したらしく恐怖と驚愕と混乱の雄叫びを上げていた。
 この先の展開を予想してしまった達樹は目を泳がせ、早くも冬用のラグが敷かれた床の上を尻で移動して藤村の肩に張り付いた。
 藤村は達樹がホラー系の作品を苦手としていることを知っているし、自分に激甘な恋人なら盾の代わりにすることくらい快く許してくれるはずだと言い訳した達樹の耳に控えめな笑い声が届く。
 肩越しに振り向いた藤村の視線は案の定くすぐったくなりそうなほどの甘さを滲ませていた。
「この映画、何となく前に達樹と見たAVを思い出すね」
 自分でもそう思っていたせいで答えに窮した。
 藤村と恋人になる切っ掛け…というよりも藤村に抱かれる切っ掛けになったAVの内容と、ついでに自分が二週間も見続けた夢を思い出してしまった達樹は赤くなった顔を隠すために藤村の肩に額を押し付けた。
 そういえば留守を預かっていた間に卑猥な夢を見続けていたことは白状したけれど、詳しい内容はほとんど話していない。聞きたがっている気配は察しているが必死に気付かないふりをし続けているのは、話したらそれと同じことをされるのが容易に想像できるからだ。
 達樹は様々な感情を唸ることで表現した。
「続き、見る?」
「…見る」
 何だか藤村に遊ばれているような気がしなくもないが中断するのは悔しい。伏せていた顔を上げると、すかさず身体を捻った藤村に顎を掬われた。
「口の横に砂糖付いてるよ」
 指摘されて自分で拭うよりも先に達樹の唇の端を舐めた藤村の舌は当たり前のように達樹の口の中に侵入してくる。
 油断も隙もない。やっぱり藤村はキス魔だ。
 そう思いながらも達樹は砂糖の甘さを纏った舌に自分からも舌を伸ばした。藤村の手のひらが首の後ろを支えてくれることに胸がときめく。
 特別扱いされていることは付き合う前からはっきりと感じていたが、こうして恋人になってからはさらに顕著になった。誰かにバレるのではないかと冷や冷やする場面は多々あるけれど、きっぱりとやめてほしいと言えないのだから自分も相当だと心の中で苦笑する。
 テレビから派手な物音が流れたことで我にかえった達樹は、藤村の胸を懸命に押して舌が溶けそうなほど長いキスを途切れさせた。
 今日は二人で映画を見て過ごすつもりだったのに、このままではまったく目的が果たせない。既に藤村は映画よりも達樹に意識を向けている。
「藤村、今は映画見たいから…」
 元より今日は泊まっていく予定なのだから、そういうことをするのは夜になってからでいいじゃないか。夜までにはちゃんと心の準備をしておくから。
 言外に含ませた考えを汲み取ってくれた藤村は肩を竦めてから画面へと目を戻した。
 達樹も流しっぱなしの映画に視線を戻すが、キスだけで熱を持ってしまった下半身のほうが気になりすぎるせいであまり集中できず、いつもなら呼吸が止まりそうなくらい怖いと思うシーンもちっとも怖く感じない。
 しかし結局ほとんど集中できないうちに画面にはエンドロールが延々と流れはじめる。
 別の意味で気疲れした達樹は僅かに残しておいたドーナツを頬張り、ほっとする甘さを充分に堪能してからコーヒーを飲み干した。
 夜になるまではなるべくそういう雰囲気にならないようにと考えた達樹は思い付いたことを吟味することなく口にした。
「今度、藤村のバイト先に行ってみようかな」
 藤村がバイトしているのは大人っぽいお洒落な佇まいのカフェで、達樹のバイト先からも程近い場所にある。
 カフェの制服を見事に着こなしているだろう恋人の姿を見たいがために、実は今まで何度かわざと店の前を通ってただの通りすがりを装って覗いてみたりしたのだが、タイミングが悪いのか何なのかバイトに勤しんでいる藤村の姿をはっきりと見たことはない。
 密かな下心を隠した達樹の提案を聞いた藤村は喜色満面といった具合に表情を明るくした。
「来てくれるならドーナツでもケーキでも、達樹の好きなものを何でも奢るよ」



 そんな会話をしてからちょうど一週間後の土曜日、達樹は一人で藤村のバイト先を訪れた。
 本来なら土日はシフトを入れないのだが、どうしても人手が足りないからと頼まれて断れなかったのだと、カフェデートを楽しみにしていたらしい藤村は残念そうに眉を下げていた。
 藤村には申し訳ないが、達樹にとってはバイト中の恋人をじっくりと観察できるチャンスだ。
 道沿いにテラス席を設けているカフェは遠目でもダークブラウンの内装が大人っぽいと思っていたが、夜はバーになると聞いて納得する。
 あまりにもカジュアルな自分の服装に情けなくなりつつドアに手をかけた。
 ドアベルが軽快な音を立てると、達樹の来店に素早く気付いた藤村はギャルソンエプロンの裾を僅かにひらめかせて近寄ってきて、テラス席が望める室内の比較的あたたかい席へと案内してくれた。
 いかにもカフェ店員らしい白いシャツに黒いベストとモスグリーンの細身のネクタイ、小さく天命が刺繍された黒色のギャルソンエプロンはやはり藤村によく似合っている。藤村はまだ未成年だが、しっとりと落ち着いた店の雰囲気に馴染んでいるように思えた。
「食べたいものが決まったら呼んでね」
「わかった」
 先日のやり取りのあと達樹は自分だってバイトをしているのだから奢らなくてもいいと言ったのだが、藤村は奢ると言って聞かなかった。こうなると藤村は絶対に譲らない。当然と言ってしまうのも悔しいけれど先に根負けしたのは達樹のほうだった。
(ほんと、俺の彼氏は我が儘だなぁ)
 勝手に緩みそうになる頬を濃いココア色のメニュー表で隠した達樹は、こっそり店内の他の席を窺う。確信は持てないが藤村を目当てにしていると思われる女性客がちらほらと見受けられた。そうだろうと深く納得する気持ちと、おもしろくないと感じる気持ちとが入り混じる。
 やや複雑な気分のまま達樹が投げかけた視線を受け止めたのは、もちろん藤村だ。
「決まった?」
「うん。今月のおすすめってとこに書いてある栗とクルミのドーナツとコーヒーにする」
「コーヒーはブレンドでいい?」
「それでいいよ」
 知ったかぶりで頷いてみせたが、達樹はまだそこまでコーヒーに詳しくない。藤村は特別感を抱かせる微笑を残して、注文を通すために厨房のほうへ引っ込んだ。
 十分ほどで銀色のトレイを持った笑顔の藤村が達樹の座る席へとやって来る。
「お待たせ。栗とクルミのドーナツとブレンドコーヒー。あと、これは冬に向けたドーナツの試作品。店長がサービスするから感想を聞かせてほしいって」
「いいのか?」
「僕が達樹にためにドーナツを買って帰ってるのを知ってるからね。スイーツ好きな男性客の意見も聞きたいから、ぜひどうぞ、だそうだよ」
「そっか、なら遠慮なく」
 達樹は顔も知らない店長からの好意をありがたく受け取ることにした。
 試作品のドーナツはホワイトチョコの上にドライストロベリーとクラッシュピスタチオ、それから大粒のアラザンが無造作なようでバランス良く散りばめられている。
「このドーナツ、クリスマスリースみたいだな」
 何気なくそう言うと藤村も頷いた。
「もうすぐクリスマスシーズンだし、いっそその路線にしてもいいかもね」
 藤村の言葉に頷きながら達樹は手にしていたドーナツを齧った。しっとりした生地は少しビターなココア風味で、酸味のあるドライストロベリーとピスタチオの触感と相性が良い。
 達樹にとってスイーツは見た目が綺麗だったり可愛かったりと見た目でも楽しめる素晴らしい存在だ。『スイーツ男子』を気取るつもりはないけれど、デコレーションを施されたスイーツにはどうしても惹かれてしまう。
 一口目を咀嚼しながら顔を輝かせる達樹を見た藤村が小さく笑った。
「前から思ってたんだけど、達樹っておいしいって思ってるのがすぐに顔に出るよね」
「えっ、そうか?」
「まあね。他の人が見てもわかりやすいって言うんじゃないかな」
「なんかそれ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど…」
「いいじゃない。素直なのは長所だよ」
 優しく微笑まれながらそんなことを言われたら、ますます頬が熱くなってしまう。咄嗟に達樹はコーヒーカップで口元を隠した。
「達樹の意見は店長に伝えておくよ。他に何かあったらいつでも呼んでくれていいし、気にせずゆっくりしていってね」
「ああ」
 仕事に戻る恋人の後ろ姿を見送った達樹は胸に満ちる甘ったるさを中和するようにコーヒーを飲んだ。少し前までは甘いカフェオレしか飲めなかったのに、アメリカンなら砂糖なしでも飲めるようになったのは藤村の影響だ。
 カフェ独特のざわめきは心地良くて長居をしたくなる。店内に流れているのが音量を下げたポップスではなく緩やかなテンポのクラシックなのも居心地の良さを増している理由かもしれない。
 追加で注文したコーヒーのおかわりを運んできた藤村は、コーヒーカップの他にもうひとつ運んできたものを達樹の手元へ置いた。
「十九時に上がれるから、部屋で待ってて」
 藤村はそれだけを言い残して他のテーブルへ行ってしまった。その後ろ姿を見送る達樹の頬はじわじわと熱を上げる。
 手元に残されたのは藤村の部屋の鍵だった。見覚えのあるキーホルダーが付いているし、以前それを預かったこともあるから間違えるわけがない。
 明日は達樹も藤村もシフトを入れていないことも合わせて考えると、置かれた鍵の意味に心臓が跳ね上がる。また半日ほどベッドの中で過ごすことになるかもしれないと思いながらも、達樹は銀色の鍵を手の中に握り込んだ。
 働く恋人の姿をたっぷりと楽しんだ達樹はようやくカフェを出た。一時間以上も二杯のコーヒーで粘っていたのを少し恥ずかしく思いつつ、宣言どおり奢ってもらったお礼も兼ねて夕食を作っておこうと思い付いた達樹は急ぎ足で自分の部屋へと帰り、昨日のうちに用意しておいた着替えを詰めた鞄を掴んで部屋を出る。
 途中、スーパーマーケットに立ち寄った達樹は足りない食材に紛れさせるようにして避妊具を買った。最近このスーパーマーケットにもセルフレジが設置された。おかげで必要以上に恥ずかしい思いをしなくても済むようになって非常に助かっている。
 達樹は友人だった頃とは違う意味で心臓を高鳴らせながら藤村の部屋の玄関ドアに鍵を差し込んだ。
「よし、やるか」
 藤村ほど料理は得意ではないけれど、煮込み料理なら多少の安心感はある。
 ふとハヤシライスにはニンジンを入れるべきかどうか悩んだが、持って来てしまったのだから使わないのも勿体無いと思って入れることに決めた。
 厚めに剥いたニンジンの皮を雪之丞にお裾分けするために遮音用の布を捲ると、珍しく起きていた雪之丞はせっせと毛繕いをしていた。ケージを覗き込んだ達樹に気付いた雪之丞が黒い瞳で見上げてくる。軽く首を傾げる仕草がたまらなく可愛くて、一瞬で頬を緩ませた達樹はニンジンの皮をそっと餌入れに入れてキッチンへ戻る。
 すべての具材を切り終えれば、あとは全部纏めて軽く炒めてからルウと一緒に煮込むだけだ。
 藤村のいない部屋で手持ち無沙汰になってしまうのが何となく気まずくて、動いていないと落ち着かない。
 煮立ちはじめた鍋の様子を気にしながらベランダの洗濯物を手早く取り込んで、丁寧に畳んで仕分ける。タオル類を風呂場へ運ぶついでに風呂掃除もして、いつでも湯張りができるようにしておいた。
 それからベッドの下の救急箱を引っ張り出して中身を確認した達樹は、呆れの色の強いため息を漏らした。
「やっぱり買い足してないし…」
 医薬品や絆創膏によって救急箱の端に追いやられた薄っぺらいパッケージはひとつしか残っていない。
 初めて藤村とセックスをしたあと妙に腹の具合を悪くした達樹は、腹の不調の原因を知ると恥を忍んで避妊具を着けてくれと訴えた。
 普段は聞き分けの良い恋人は、何故かその時だけは素直に首を縦に振らなかった。着けないと腹を壊すのだと言っても「終わったらすぐに僕が後始末してあげるから」と平然と返される。
 そんな問答をした直後、避妊具を切らしたからという理由で着けないでセックスをして、達樹はやはり腹を壊した。さすがに責任を感じたのか藤村は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたけれど、相変わらず避妊具を買い足す頻度は低迷したままだ。
 仕方なくこうして達樹がせっせと買い足しているのだが、自分に使われるための避妊具を自分で買い足すという行為は羞恥心を大いに刺激する。だからと言って藤村に後始末をされるのはもっと恥ずかしい。
 唇を尖らせた達樹は幾分かの憎らしさを込めて、買ってきたばかりの避妊具を箱ごと救急箱に押し込んだ。
 ハムスターケージから微かな物音が聞こえる。達樹がこっそり近付いて布を捲ると、雪之丞がニンジンの皮をもりもりと頬張っていた。
「雪之丞は可愛いなぁ」
 ニンジンの皮を掴む小さな手、忙しなく動く口、くりくりした黒い目、白っぽい毛並み、搗きたてのお餅みたいに柔らかいおなか、毛に埋もれてほとんど見えない短い尻尾。何もかもが可愛らしい。
 ほんわかとした気持ちになりながらしばらく見つめていると、腹が満ちたのか雪之丞は小ぢんまりした巣箱へと戻っていった。
 途端に室内が静まり返ってしまうと途端に落ち着かない気分がぶり返す。
 せめて何か音があればとテレビを点けた達樹は、適当なニュース番組を流し見しながら鍋の様子を確認する。ルウはしっかり溶けていて、具材にも良い具合に味がしみているようだ。
 とうとう完全にやることがなくなってしまった。
 常に整えられている藤村の部屋は掃除のし甲斐もない。それに整理整頓は料理よりも苦手だ。
 クッションを抱えて行儀悪くベッドに転がりながらテレビを見ているうちに達樹はいつの間にか眠っていた。
 けたたましい雷の音で目を覚ました達樹は、大きな雨粒が容赦なく狭いベランダに振り込んでいるのを見て飛び起きた。部屋の電気を点けて時刻を確かめると、間もなく十九時になろうとしている。
「洗濯物、早めに取り込んでおいて良かったな」
 独り言に重なるように携帯電話が着信音を響かせた。バイトが終わったという藤村からのメッセージを確認し、手短に「お疲れ様。気を付けて帰ってこいよ」とだけ返しておく。
 あのカフェからこの部屋まで急ぎ足でも十五分ほどかかる。その間に湯張りを済ませておけば、たぶん濡れて帰って来る恋人に風邪を引かせずに済むだろう。雨足が弱まるのを店で待つ可能性もあったが、あの藤村がそうするとはあまり思えなかった。
 長いようで短い十五分をあちこち動き回って過ごした達樹は部屋に鳴り響いた呼び鈴を聞き付けて急いで玄関へと向かった。もちろんバスタオルを持つのも忘れない。
「ただいま」
 開けたドアの向こうに立っていた恋人は息を切らし、予想よりも遥かに酷く濡れていた。髪の先から絶えず大粒の雫が落ちている。
 達樹は慌ててバスタオルで藤村の頭を包み込んだ。
「おかえり。っていうか、雨が弱くなるまで店で待ってれば良かったのに。こんなにびしょ濡れになったら風邪引くかもしれないだろ?」
「店長にもそう言われたんだけど、達樹が待っててくれてるって思ったら一秒でも早く帰りたくて、どうしても我慢できなかったんだ」
 歯が浮く台詞とはきっとこういう台詞のことを言うのだ。
 しかし本当に藤村が心底からそう思ってくれているとわかって、達樹の頬は勝手に熱くなった。
「…あのさ、ドーナツとコーヒー奢ってくれたお礼にと思って晩ごはん作っておいたんだ。すぐにあたためるから、藤村は先に風呂入ってこいよ」
 されるがまま髪を拭かれている藤村はまるでおとなしい大型犬みたいだ。
 あらかたの水分が取り去られると、彼はくすぐったそうな表情をしてから、濡れて冷えた指先で控えめに達樹の頬に触れた。
 唇の表面が軽く触れ合うだけの子供っぽいキスにも達樹の胸はきゅうっと音を立てる。
「前に留守番を頼んだ時もそうだったけど、達樹って新妻みたいなことしてくれるよね。ふりふりエプロン用意しておくから、今度はそれを着て出迎えてよ」
「発想がオヤジくさい」
「そうかな?」
「もう、いいからさっさと風呂に行けってば!」
 わざとらしく呆れ顔を作った達樹は藤村を風呂場に追いやった。
「あいつの趣味って時々ちょっとマニアックだよな…」
 頬の熱を冷ましながら鍋を掻き混ぜていた達樹は、この部屋で見続けた淫夢は自分ではなく藤村の趣味が反映されていたのかもしれないと思い付いた。一番最初に見た夢は間違いなくAVの影響を受けていたが、それ以降に見た夢は達樹ではなく藤村の趣味を反映していたのではないだろうか。
(っつーか、むしろ最初っから全部藤村の趣味じゃん!)
 大学でもバイト先でも人当たりが良くて爽やかなイケメンで通っているのに中身がこんなにも変態だなんて勿体無い。
 雰囲気に流されて抱かれて告白されて受け入れて、恋人になってしまってからは溶けるかと思うくらい甘やかされていることで忘れがちだが、藤村は達樹の自慰行為を盗み見るために部屋にカメラを仕掛けたという前科がある。冷静に考えたらちょっと気持ち悪い…かもしれない。
 しかし彼の本性というか性癖を知っても達樹は藤村を嫌いになれないし、嫌いになるような要素だとも思わない。むしろ友人として付き合っていた頃からそこまで好かれていたのかと考えて胸をときめかせる自分のほうがどうかしている。
 達樹自身はいたってノーマルであって変な趣味や嗜好は一切なかったはずなのに、今となってはそれも少し曖昧だ。
(で、でも俺は縛られたりしたいとか変なことは望んでないしっ!)
 達樹自身はそう思っている。
 だが、もしも本当に藤村がそういう特殊な行為をしたいと求めてきたら、きっと自分は狼狽えて憎まれ口を叩きながらも最終的には拒みきれず、藤村がしたいならと受け入れてしまうだろうと薄々気付いている。
 頭の中をぐるぐると回り続ける卑猥な妄想を追い払うように、達樹は一向に熱の下がらない頬を服の袖で擦った。
 達樹の気分が落ち着く頃には鍋の中身もしっかりと煮立ち、気を取り直してサラダを小鉢に盛り付け、ドレッシングを冷蔵庫から出し、棚からは皿を取り出す。
 こうしていると本当に新妻のようだ。
 思い出してしまって再び頬を熱くした達樹の背後に裸足の足音が近付いてきた。
 湯上りの火照った腕に後ろから緩く抱き締められ、湿り気を帯びた唇がくすぐるように耳に触れてくる。性感を刺激しない戯れみたいなキスだった。恋愛をメインテーマにしたマンガやドラマじみたことさえ嫌味なく似合うのが少し悔しいし、過敏すぎるくらい一瞬で速度を上げた自分の心臓の音を自覚してしまったのも悔しい。
 けれど悔しさよりも何倍も大きく込み上げたのは、藤村のことが泣きたくなるくらい好きだという気持ちだった。
 達樹は首だけで振り向いて、珍しく自分から藤村の唇にキスをした。
 何やらとてつもなく感激したらしい藤村の腕に力が篭って少し苦しいほどだったけれど、達樹は少しも顔に出さずに不自由な動きで食事の準備を続ける。
「今日は何を作ってくれたの?」
「ハヤシライス。めちゃくちゃ適当に作ったけど、ルウを使ってるから失敗はしてないと思う」
「達樹はいつもそう言うけど、料理がどうしても苦手ってわけじゃないのに」
「藤村ほどうまく作れないからだっての。前に作ってくれたハンバーグ、毎日でも食べたいって思ったくらいうまかったしさ…」
「あれはレシピどおりに作っただけだよ。むしろ僕は達樹が作ってくれる料理のほうが好きだな。愛情が篭ってるから世界で一番おいしいと思う」
「お前、ほんと…そういうところだぞ」
 もう何を言っても無駄だと察した達樹は頬を赤らめ、背中に藤村を貼り付けたまま食事の準備を整えた。
 テーブルに並べるだけになったタイミングでやっと達樹から離れた藤村は率先して皿をテーブルに運んでくれる。照れ隠しで顔を顰めつつ、達樹も湯気を立ち上らせる皿を前にして微笑む藤村の向かいに座った。
(きっとこういうのを幸せって言うんだろうな)
 まるで願いごとをする時のような気持ちで、達樹は手のひらを合わせた。


 達樹が食器を洗う横で藤村がコーヒーを淹れる。
 もう何度も繰り返してすっかり見慣れたはずの光景なのに、蒸気と共に立ち上る芳香を胸いっぱいに吸い込んだ瞬間の幸福感は色褪せない。
 テーブルの向かい側で優しく微笑む恋人と一緒に淹れたてのコーヒーを味わえるなんて最高の贅沢だ。
「そういえば、ドーナツだけじゃなくてコーヒー豆も店で買ってたんだな」
「うん、店長のこだわりのブレンドだそうだよ。飲みやすいでしょ?」
 湯気が揺らめくカップを持ち上げて目元を緩める藤村の問いかけに達樹は力強く頷いた。
「甘くしたほうが好きなのは変わらないけど、インスタントじゃ物足りないなんて思うようになったのは確実に藤村のせいだからな」
「じゃあもっとうまく淹れられるように練習して、僕の淹れたコーヒーがないと一日がはじまらないって達樹に言ってもらえるくらいになろうかな」
「あはは! 藤村が淹れたコーヒーで一日がはじまるなら、だったら俺、ここに住まなきゃいけないな」
 達樹が笑いながら零した一言に藤村の手が止まる。
 何かあったのかと顔を上げると、妙に真剣な顔付きの藤村と正面から視線がぶつかった。
「達樹、あのさ…達樹さえ良ければ、僕と一緒にここに住まない?」
 藤村と出会ってから既に一年近いが、今まで一度も聞いたことがない硬い声だった。
 彼の言う「一緒に住む」ということが友人同士のルームシェアではないことくらいすぐに理解できたし、嘘や冗談ではないことだって緊張を含んだ表情を見ればわかる。
 一緒に住もうと言われて嬉しくないわけではない。いつかそうなれたら楽しいだろうなと達樹だって考えたことがある。けれどどうしたことか即答できずに、達樹は目を瞬かせた。
 それは藤村が他人を部屋に入れるのを心底苦手に思っていることを知っていたからだ。
 誰に対しても優しく気さくで穏やかな態度を崩さない藤村が持っている唯一の人間臭い欠点とも言えそうなその部分を、達樹は彼の一番近くでずっと見ていた。本当に藤村は、この部屋に達樹以外の人間を入れたことがない。
 もちろん何かの業者だとか生活する上で必要な最低限の出入りは仕方がないが、大学やバイト先で藤村と親しげに振る舞っていた相手でさえも、この部屋に近付いた気配は一度たりともなかった。
 いっそ頑ななまでにそこだけは絶対に譲らなかった藤村が、達樹だけは部屋に入れても良いと思ったのだと、それは達樹のことが恋愛としての意味で好きで、達樹という人間が自分にとって特別だからだとはっきり告げてきた時の声が鮮明に甦る。
 過去と現在を行き来して目まぐるしく回転する達樹の思考回路を見透かしたかのように藤村は続けて口を開いた。
「遊びに来るのと一緒に暮らすのでは全然違うし、いろいろと合わないところが出てきても当然だと思う。けど元々通ってる大学は同じなんだし、達樹のバイト先はここからでも近いから利便性も悪くないよね? 達樹もわかってると思うけど、この部屋に入れてもいいって思えたのは本当に達樹だけなんだ。恋人になってからは今まで以上に達樹が部屋に来てくれるのが嬉しくて、だからこそ週末だけじゃ足りないって思うようにもなったんだよ」
 いつの間にか達樹はテーブルを回り込んだ藤村に手を握られていた。
 少し冷えた指先と彼らしくない早口が緊張のせいだとわかって、つられた達樹もじわじわと緊張していく。髪の毛の先にまで血液が流れ込んで火照っているかのような心地だった。
「それに今日だって、達樹に出迎えてもらえたのが本当に嬉しくて、こういうのを幸せって言うんだろうなって思ったんだ。もしも達樹と一緒に住めたら毎日が幸せなんだろうなって。突然こんなことを言って驚かせたとは思うけど、僕は本気だよ」
 心臓が耳元にまで上ってきたのではないかと思うほど鼓動がうるさいのに、不思議なくらい藤村の言葉だけは鮮明に達樹の鼓膜と心を震わせる。
 未だに不自由なままの言葉の代わりに手のひらを返して藤村の手を握り返す。たったそれだけで彼があんまりにも嬉しそうに笑うから、達樹はますます今の自分の気持ちをうまく表現することができなくなった。
 どんな言葉にすれば自分の想いは正しく伝わるだろう。冷静さを保っているつもりだが、考えるほどにわけがわからなくなっていく。
 ようやく声を絞り出せるようになったのは随分と時間が流れてからだった。
「あの、俺…今日みたいな雑な料理しかできないし、寝起きも良くないし寒がりだし、結構めんどくさい性格だって自覚もあるし、一緒にいて楽になることなんてないと思うけど…」
「特別に何かしてほしくて一緒に住みたいって言ったわけじゃないよ。それに、達樹が言うめんどくさい性格も含めた達樹の全部が、いつだって僕には可愛くてたまらないんだ。僕は達樹におかえりって言われたいし、僕も達樹におかえりって言いたい。もっとわかりやすく正直に言えば、大学とバイト以外の達樹を誰にも邪魔されずに独り占めしたい。前に言ったでしょ、独占欲が強いって」
「あー…まあ、それは日頃から感じてるけど」
 藤村と過ごした日々を思い返せば、それは多大な実感を伴って納得できた。
 本人も自覚しているのだろう、苦笑を浮かべた藤村が達樹の手を握り締める指先に力を込める。
「だからさ…こんな僕のことが嫌じゃなければ、もっと達樹を独り占めさせてほしい。これからもずっと」
 真剣な眼差しの恋人からこんなことを言われてときめかないはずがない。
 達樹は首まで真っ赤に染め上げて、やはりうまく回らない頭と言葉の代わりに、小さく小さく頷いた。
「……俺で、良ければ」
「っ、やった…!」
 子供のようにはしゃいだ声と共に抱き締められ、外でまだ降り続いている雨のように顔中にキスをされる。
 くすぐったくてたまらないのに、やめてほしいだなんてほんの少しも頭に浮かばない。
「好きだよ、達樹」
「お、れも…好き、だ」
 もごもごと応えながら藤村の背中に腕を回すと途端に視界がぐるりと回った。
 ラグが敷いてあるおかげで痛くはなかったが、何事だと視線を向けた達樹はぎょっとする。興奮が極限に達しているらしい藤村はいつになく目をぎらつかせていた。
「達樹ってば本当にどこまで可愛いの? 大好きだよ。ううん、愛してる」
「ん、ちょ、んふ…っ」
 熱烈なキスは絶え間なく繰り返され、言葉を発する隙もなく息ごと舌を吸われる。敏感な粘膜同士を擦り合わせることで生まれた刺激は、いとも容易く達樹の身体を昂らせた。
 必死に吸い込んだ空気はコーヒーの香りを纏っていて頭の芯がくらくらする。
 性急な手付きでシャツが捲り上げられて、熱く濡れた舌が胸に這う。藤村の手ですっかり性感帯に変えられてしまった乳首を吸わた達樹は頭を振って身悶えた。
「ぁ、んんっ」
 声が出てしまうのはどうしても恥ずかしい。
 達樹が恥ずかしがるほど余計に藤村が燃えるのもわかっているけれど、恥ずかしいと感じるのは既に本能的なものだ。
 全身を燃やすような羞恥に目を潤ませながら、達樹は無心で自分の胸に吸い付いている藤村の頭を捕まえた。
「お、俺はまだ風呂入ってないから!」
「気にならないよ。むしろ達樹の肌の匂いがして興奮する」
「だから、変態くさいこと言うなってば…っ」
 執拗に乳首を責められて背中が反る。これではまるで自分から押し付けているみたいではないか。
 そう思うのに吐き出す息は甘さを増して、コンプレックスである声を押し殺そうとする理性さえもあっという間にどこか遠くへ追いやられる。肌を暴かれ、悦楽の火が身体のあちこちを火照らせ、同時に込み上げる羞恥心がよりいっそう性的な興奮を煽り立てた。
「ひ、ぁあっ」
 一気に与えられる強すぎる快感から逃げるように身を捩ってうつ伏せになるが、それはただ藤村の手助けになってしまったらしい。器用に下着ごとズボンをずり下げられて尻が露出する。ウエスト部分を下げただけでズボン自体は達樹の脚に絡んだままなのがまたマニアックだ。
 達樹は藤村がベッドの下に手を伸ばすのを見つけて居たたまれない気分になりながらズボンが絡まる膝を引き寄せて股間を隠し、ついでに両手で真っ赤に染まった顔を覆った。
(たぶん、すぐバレるだろうな…)
 視覚を遮って聴覚が鋭敏になっている分、聞き取った音から想像した映像を脳裏に再生してしまう。
「これを買ってきたってことは、達樹も期待してたって思っていいんだよね?」
「…ノーコメント」
 そんなに嬉しそうな声で聞かれても意地でも答えてやるものか。
 一番外側のビニールが剥がされる音、次いで箱が開けられて中身を探る音が聞こえる。連なったパッケージのひとつが切り離される音を聞いて肩が跳ねた。
 恥ずかしいのに、やはりやめろとは言えない。この先の行為で得られる快楽を知ってしまった身体はあまりにも正直だ。
 藤村は微かに笑い、剥き出しになった達樹の腰に唇で触れた。
「ごめん、まだ少し冷たいかも」
「っ…!」
 言葉のとおり冷たいローションの感触に思わず大きく身体を跳ね上げた達樹は指の隙間から恨めしく藤村を見た。
「…冷たい」
「うん、ごめんね。でもすぐに馴染むから」
 あやすような声色だが藤村は少しも悪びれていない。達樹は臍を曲げかけてそっぽを向いた。
 憎まれ口を叩いてしまうのは恋人とのセックスが嫌だからではなくて、今はまだ理性を投げ出しきれていなくて素直になれないからだ。
「は、んぅ…う」
 ローションで濡れた藤村の指が狭い隙間を這い進んでくる。
 膝下でもたつくズボンのせいで思うように足を開けず、擦られている感覚がいつもより強い。それは男に抱かれるという事実をまざまざと達樹に突き付ける。
 そんな趣味はないはずなのに強引に奥を開かれる刺激がたまらなくて、明け透けな声が漏れてしまうのを恐れた達樹は目元を覆っていた手のひらで自分の口を押さえた。
「んっ、ひ!」
 弱いところを強く押され、押さえたはずの口から高い声が溢れた。
 声が出てしまうのが嫌なのだと何度も言っているのに、優しいくせに強情な恋人は達樹の声を引き出そうと躍起になる。
 生理的な涙が滲んだ目で睨んでみても、むしろ藤村は逆に興奮したようで、達樹の弱い場所を執拗に指で押した。
「ゃ、だ…って、言ってる、だろっ!」
「僕は聞きたいんだよ。気持ち良くてたまらないって感じてる達樹の声、すごく可愛いから」
「ぁう…っ」
 抵抗さえできないまま腰だけを上げる体勢にされて、ますます奥へと指を突き立てられる。
 ローションのおかげでスムーズな出し入れに痛みはなく、達樹は喉を引き攣らせながら冬用の毛足の長いラグに爪を立てて縋り付いた。
「ぁ、う…藤村…っ」
「ん?」
「ズボン、もどかしい…」
 身も蓋もなく喘がせたいなら早く理性を奪ってくれればいいのに、ズボンが絡まったままでは奥まで広げてもらえなくて、物足りなくてもどかしくてじれったくて、だからついつい憎まれ口を叩いてしまうのだ。
 それにどうせなら藤村と一緒に気持ち良くなりたい。
「もっと…藤村のことが欲しい、から…意地悪すんなよ」
 言っている間に急に切なくなって鼻の奥がつんと痛む。
 それでも気丈なふりで肩越しに振り返ると、達樹の腰を掴んでいる藤村の指に力が入った。
「手加減できなくなりそうなんだけど許してくれる?」
「…いつもほとんどしてないだろ」
「そんなこともないけど、今日だけは本当に加減できないから…ごめんね。先に謝っておくから怒らないでね」
 切羽詰った様子の藤村は物騒なことを言いながら達樹の希望どおりズボンを取り去り、そのままシャツまで脱がせて達樹を裸にしてしまう。
 いつになく荒っぽい所作に達樹はさっきまでの勢いをすっかりなくした。
 藤村はどんな時も、それがセックスの最中だろうと達樹を気遣うことを忘れない恋人の鑑のような男だった。半日以上ベッドから出してもらえないこともあったけれど、愛されているからこそだと思えば許せたし、そういう強引な一面だって達樹からすれば魅力のひとつだ。
 見た目のままの爽やかなだけの男ではないことは充分すぎるくらい知っていたが、今の藤村は今まで達樹が見て来た藤村とは違う。
「ふ、藤村…?」
「本当にどうしても我慢できないくらい嫌だったら教えて。そうじゃなければ止められないから。僕を煽った責任、ちゃんと取ってよね」
 興奮に息を荒げた彼は本当に獣のようだった。男と言うよりも、雄と言うほうがしっくりくる。
(あ、これ、変なスイッチ押しちゃったかも…)
 ほんのり後悔したけれど、こんな藤村を見られたことが嬉しいと思っている自分もいることを自覚した達樹はそれ以上何も言わずに、求められるまま下がっていた腰を上げ直した。
 指を食い締めた後孔をじっくりと見つめられている。
 羞恥心に焼かれた身体が熱くて、これから自分がどんなふうに抱かれてしまうのかわからなくて、期待と不安が淫靡な興奮を煽り立てた。
 奥を慣らしていた指が引き抜かれ、代わりに熱い塊を押し付けられて背筋が震える。藤村によって奥の奥まで隙間なく満たされる快感を教え込まれた身体が浅ましく疼いた。もうこれ以上焦らさないで、早く中に入ってきてほしいと口走ってしまいそうだ。
 素直に口にできない懇願を視線で訴えるために視線を巡らせた次の瞬間、とろりと蕩けていた達樹の目が見開かれる。
「ちょ、ゴム! 着けろって言ってるだろ!」
 避妊具のパッケージは封を切られていない状態で床の上に放置されていて、それを見つけた達樹が思わず声を荒げるのも仕方がないことだった。
「藤村なら間違いなく世話してくれるのはわかってるけど、腹を壊す俺の身にもなってみろ! 着けないなら今日はしないからな!」
「…わかったよ。でもローションのせいで指が滑ってうまく開けられないから、代わりに達樹が開けてくれる?」
 困ったような口調のくせに、まったく逆の表情を浮かべている藤村が憎らしい。今日は恥ずかしいことの連続だ。
 達樹は差し出されたパッケージを火照った指で引き裂き、取り出しやすいように中身を少し押し出しながら突き返す。ローションのせいで生々しく光る藤村の指が避妊具を摘まんで引き抜いていったのを確認すると急いで視線を戻した。さすがに装着しているところまでは見ていられない。
「入れるよ」
 微かに頷いて応えた達樹の項に触れるだけのキスがひとつ。それを合図にして、硬い感触が達樹の後孔を押し広げて侵入してきた。
 受身側のセックスはもう何度もしているのに、この瞬間だけはどうしても身体が強張ってしまう。
 質量のある熱はゆっくりと進んできて、達樹の一番奥までを満たして止まった。背後で静かに息を吐く気配を感じる。
「入った…?」
「うん。達樹の奥まで入ってるよ」
「ん、ぁ…あっ」
 緩く腰を揺すられると腰から背中を快楽の痺れが走った。声が勝手に達樹の喉から零れ出る。
 ゆっくりと引かれた腰が同じ速度で戻ってくるのも、奥を押し上げるように動かれるのもたまらない。
 やはり今日の藤村はいつもより意地悪だ。動物の交尾みたいな体勢でいることにも羞恥心を駆り立てられる。
 この体勢は、藤村が引いて戻ってくる時に弱いところを強めに擦られてしまうから好きじゃない。必死にしがみ付く相手がラグというのも嫌だ。
「ぅ、ん…藤村、ぁ」
「どうかした?」
 達樹の訴えを聞いてくれるつもりはあるようだが藤村は腰の動きを止めない。おかげで突き上げられるたびに言葉ではなく蕩けた声が漏れてしまって、ちっとも話が進まなくて、達樹は腰を掴んでいる藤村の手をやや強めに叩いた。
「今日の達樹は我が儘だね。そういうところもすごく可愛いから、もっと我が儘になってよ」
「あっ、ン! も、いい、から話、聞けって!」
 そこまで言うとようやく藤村は動きを止めた。
 どちらも呼吸が乱れている。汗だって全身に滲んでいて、曲げている肘や膝の辺りは今にも滴りそうなほどだ。
 達樹は一旦唾を飲んで喉を潤し、意地悪な恋人を振り返る。
「う、後ろからなの、嫌なんだけど…」
 言ってからいよいよ本格的に恥ずかしくなって慌てて顔を伏せた達樹の背中に藤村が覆い被さった。
「本当に達樹ってば可愛すぎるよ…僕をどうしたいの?」
「俺を可愛いなんて言うのはお前だけだって」
「僕だけじゃないと嫌だな」
 笑う声が項を掠めて、それからそこにキスの感触が小さく落とされた。キス魔な恋人からはことあるごとにキスをされているが、達樹は未だに慣れなくてむず痒い気分になる。
 背中に重なっていた体温が離れたかと思うと肩を反転させられ、つられて腰が捻れて藤村を受け入れたままの場所に圧がかかる。体勢が苦しくて小さく唸ると、藤村は甲斐甲斐しく手を添えて達樹が仰向けになるのを補助した。
 以前よりも体が柔らかくなった気がするが、だとしたらそれは絶対に藤村のせいだ。
「痛くなかった?」
「…痛くはなかったけど、抜いたほうが楽だっただろ」
「無理。達樹の中、すっごく気持ちいいから抜きたくない。ずっとこのまま抱いていたいくらいだよ」
「ずっとはさすがに勘弁してくれ」
 達樹は苦笑を浮かべながら唇に降ってくるキスを受け止めた。
「寒くない?」
「平気。ていうか既に真っ裸にしといて今さら聞くなよな」
 エアコンを点けているおかげもあって寒さは感じないし、互いの肌が触れ合っている部分があたたかくて心地良い。
「それに…今からもっと熱くなることするんだろ?」
「っ、今のは完全に達樹が悪いよ…!」
 達樹の首筋に顔を伏せた藤村は何かを堪えるように幾度か深呼吸を繰り返して、やがて静かにゆっくりと顔を上げた。完全に雄の目付きで見下ろされているのに腹の奥がじわりと甘く痺れる。
 わざと恋人を煽った自覚のある達樹は、明日は半日どころか一日中ベッドから出られないことを覚悟した。
 いつもは爽やかで優しくて気遣いを忘れない藤村の荒っぽい一面に鼓動の高鳴りが止まらない。それにこういうちょっと強引なシチュエーションもたまになら悪くはないと思う。あくまでたまになら、だが。
 体勢を変える間も入れたままだった藤村の性器が引き、完全に抜けてしまう寸前で動きが逆向きに変わる。一気に奥までを満たされた達樹の背中がラグから浮いた。腰から頭の中心まで一直線に快感が貫いて、咄嗟に手で口を覆わなければあられもない喘ぎ声を上げてしまうところだった。
(いや、ちょっとこれ、まずいんじゃ…?)
 口を押さえていた手が引き剥がされてラグに押し付けられる。
 開いた膝の間に居座っている藤村は達樹を見下ろして微笑を浮かべているが、その目がちっとも笑っていないのが恐ろしい。必要以上に煽りすぎたようだと気付いてももう遅かった。
「んッひ、ぃあ! て、かげ、んんーっ!」
「できないって言ったでしょ? ちゃんと最後まで付き合ってもらうからね」
 力強く奥を突き上げられた達樹の喉からは悲鳴に近い嬌声が迸る。
 息を整える余裕さえも与えられないままはじまった律動で視界が小刻みに揺れる。汗で湿った肌と肌がぶつかる音と、掻き混ぜられるローションの音が生々しく部屋に響いた。
「んぁあ、あッ! そ、こ強い、ぁうっ、強すぎる、って…!」
「いつもより乱暴にしてごめんね。でも達樹、ちゃんと気持ちいいって顔してるよ。可愛い声もいっぱい出ちゃってるね」
「ヒぅ、うっぁ! 言うな、ってば…ぁ!」
 溢れてしまう声を止めようと唇を噛んでも、揺さぶられるたびに喉から勝手に溢れてしまう。抑えたくても両手は未だに押さえ付けられたままで、そもそも藤村は達樹の手を解放する気はなさそうだ。
「可愛い、達樹…好きだよ」
 背骨が折れそうなほど強く抱き締められて苦しいのに、それを上回る悦びが込み上げて、達樹は唇を噛みながら何度も頷いた。
「達樹も言ってよ、僕のことが好きだって」
 懇願するみたいな声色に囁かれ、いつの間にか閉じていた目を開ける。
 真上にある顔は飢えたような表情を浮かべていて、まるでそれが甘露であるかのように達樹の目尻から零れた快楽の涙を吸い取った。
 腹の奥を突き上げる動きはいつもより激しく強いままなのに、飽きることなく繰り返されるキスは溶けそうなほど甘い。その落差に達樹の理性はついに崩れた。
「っす、き…」
 達樹はようやく解放された腕で恋人の背中を掻き抱き、近付いた耳に想いを吹き込む。
「好きだ…藤村のこと、っ、好き…」
「…うん、僕も好きだよ。達樹が好きだ」
「んぅ、ぁ、あっぁ!」
 腹の奥を押し上げられると勝手に声が溢れて、絞り出すみたいに背中が仰け反った。敏感な粘膜を満遍なく擦られるたびに頭の先にまで痺れが走り抜けていく。たまらずに閉じた目蓋の裏には眩く白い火花が散る。
 もう充分すぎるほど奥にいるのに、藤村はさらに達樹の奥へと踏み込もうと腰を押し付けてきた。
「んん、ぁ…あ、そんな奥まで…っ」
 達樹が上げた声は悲鳴に近かったけれど苦痛の色は微塵も含まれておらず、強すぎる快感から逃げようと藤村の肩を押す手も快楽にふやけきっていて、押すというよりも縋っているだけだった。
 自分の口から溢れて止まらない嬌声を恥ずかしいと思う余裕さえなく、もう何をされても気持ちいいと感じてしまう。窓ガラスを叩く雨の音も達樹の耳には届いていなかった。
「好きだよ、達樹っ」
「ぁ、っん、ぅん…お、っれも…!」
 ちゃんと伝えたいのに自分の声が邪魔をする。
 言葉で応える代わりに達樹は腕を伸ばして、独占欲が強くて時々驚くほど我が儘になる恋人の背中を強く強く抱き締めた。



      *END*
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