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『春の妖精』

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 女の子は、自分が寝泊まりしている宿に男の子を連れて行った。中は薄暗く、お腹の底をざわざわとさせる甘い香りが充満している。一階のロビーには、紗で区切られた小部屋が幾つかあり、奥からくぐもった話し声や忍び笑いが聞こえてくる。人の姿が見えない分、男の子は、妙な居心地の悪さを感じたが、女の子を気遣って、気にしていないフリをした。
 女の子に支えられながら階段を上っていると、ある階で部屋に入っていく女と目が合った。女は、気怠げな表情で二人を眺めていたが、男の子の視線に気付くと、さっと肩掛けを引き上げて露出した肩を隠した。それに気付いた女の子が軽く会釈をする。部屋の中から、どうした、という男の声が聞こえ、女は、今、とだけ答えて扉の中に姿を消した。今にも消えてしまいそうなほど力のない声だった。
 女の子の部屋は、十平米にも満たない空間に暖炉と簡易ベッドが置いてある。女の子は、男の子をベッドに座らせると、部屋から出て行き、どこからか持ってきた火種を暖炉にくべて、鍋に雪を入れた。そして、部屋の隅に置いてある小さな収納箱から傷薬と包帯を取り出し、男の子の隣に腰を掛ける。傷を負った箇所を確かめながら、男の子に話しかけた。

「あたしは、ロゼッタ。ロゼでいいよ。あんたの名前は?」

 少し間を置いて、トタラ、と男の子が答えると、ロゼが意外そうに男の子の目を見上げた。この地域ではあまり聞かない名前だったからだ。

「ここよりずっと南方にある大樹の名前なんだって。
 おれは見たことないけど、長寿で神聖な樹なんだぞって、死んだおとうが言ってた」

「お母さんは?」

 男の子が首を振る。兄妹は何人かいたが、皆散り散りになって今ではお互いどうしているかも解らないという。

「そう……あたしと同じね。少し安心した」

 鍋の中で溶けた雪が水蒸気となって、乾燥した部屋を潤していく。トタラの傷の手当をしながらロゼが続けた。

「あたしの名前は、お母さんがつけてくれたんだ。強く気高く美しく、生きていけるようにって。名前負けしてるよね」

「それを言ったらおれだって」

 二人は、顔を見合わせて笑った。傷の手当を終えると、鍋で沸騰している水に乾物を入れてスープを作り、二人で分けて飲んだ。二人とも朝から何も食べていなかったので余計に空腹を感じたが、そんなことは気にならないほど暖かく居心地良く感じていた。似たような境遇だからだろうか、二人は今日初めて会ったにも関わらず、お互いに安心感と親近感を抱いていた。
「帰るところがないなら、今晩はここに泊まればいいよ。ずっとってわけにはいかないけど、夜ってロクなこと考えないから。明日のことは明日考えればいい」
 暖炉に薪をくべながらロゼが言った。何も話してはいなかったが、薄々とトタラの事情を察していたようだ。身の置き所に困っていたトタラは、少し身を縮めながら頷いた。

「きみは、おれより年下に見えるけど、本当はいくつなの?」

「あんたは?」

「十三」

「なんだ、あたしも十三よ。……今年の春がきたらね」

 春がきたら、その言葉に一瞬二人は言葉をなくした。薪が一際音を立てて弾けた。
 春がくれば、とロゼが呟く。ロゼの青い瞳の中で、薪の火がゆらゆらと踊っていた。

「春がくれば、ブナ林で花が摘める。そしたら、もうこんなことしなくていい」

 町から少し歩いたところに、大きなブナ林が広がっている。農家の近くにあるので、トタラも薪を拾いにアンソニーと一緒によく足を運んだ。アンソニーのことを思い出すと胸が痛んだが、ロゼのいうとおり、今は何も考えずに眠ることにした。明日のことは明日考えればいい。
 春がくれば、とトタラは心の中で繰り返し呟いた。春がくれば自分はどうするのだろう。カルグのところへは、もう戻れない。今頃きっと、カンカンに怒っている筈だ。
 その夜、二人は硬いベッドの上で、兄妹のように身を寄せ合って眠った。


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