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第二章 竜の卷 脱出
2-24 母親
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足を踏み入れた瞬間、まず目に飛び込んできたのは、部屋の中央に鎮座する石造りの暖炉だった。耳に心地よい薪の弾ける音と共に、揺らめく炎が粗い木の壁に踊る影を描き出す。暖炉の上には鉄製の鍋が吊るされ、野菜とハーブの香りが漂うスープがコトコトと煮込まれている。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、冷えた体にじんわりと染み渡るような安堵感が広がった。生活のすべてが息づいている、簡素な十畳ほどの空間。床は固めた土に藁が敷かれ、足元にわずかな柔らかさを添えている。だが、入り口近くにはなぜか現代のゴム製マットが置かれ、泥だらけの靴を拭うのに使われている。どうやらこの世界では「便利な布」としか認識されていないらしい。
壁には木製の棚が据え付けられ、陶器の皿や木のスプーン、無骨な手製の鉄のナイフが並ぶ。棚の一角には編み籠が積まれ、干したハーブやリンゴの輪切りが吊るされている。棚の下には、子どもが描いたと思しき木炭の落書きが残り、花や馬の素朴な絵が微笑ましい彩りを添えている。部屋の隅には、藁と毛布でできた簡素な寝床が整えられ、ざっくりとした羊毛の毛布が、温もりを湛えたまま丁寧に畳まれている。だが、そのそばには色あせたピンク色の現代のクッションが一つ転がり、異世界の雰囲気と微妙にちぐはぐだ。
中央には木のテーブルがあり、表面には鍛冶道具の跡やナイフで彫られた小さな模様が刻まれている。テーブルの上には木製のボウルと、なぜかプラスチックのコップが無造作に置かれている。テーブルの周りには頑丈だが無骨な木の椅子が三つ並び、一つは子ども用に少し小さめで、背もたれの小さな花の彫刻が、ひっそりと親の愛情を物語っている。
窓は一つだけ、木の枠に羊皮紙が張られた簡素なものだ。窓辺にはバルンの妻が育てている小さなハーブの鉢が並び、タイムとローズマリーの香りがほのかに漂う。だが、鉢の一つはなぜか現代のプラスチック製で、ひび割れた陶器の鉢と並んで異様な存在感を放っている。
異世界と現代の文化が混在する、不思議な日常の縮図だった。
「フレイア、お客だ。出てきてくれ。」
バルンが壁のスイッチをカチリと入れると、ごっつい天井の梁から吊り下げられた伝統的な電球がパッと光を放ち、部屋全体を明るく照らした。温かみのある光が、室内に漂うハーブの香りをより際立たせる。
肩まで伸びる金髪をゆるく束ねた、30代半ばの女性が地下室の階段を駆け上がってきた。エプロン姿で、薄い褐色の肌には笑い皺が刻まれ、青い瞳は温かくも鋭い。フレイア――バルンの妻らしい――彼女の顔が一瞬で喜びに輝く。「和歌子ちゃん! クリスティーンの慈悲よ、生きててよかった!」
彼女は新久に駆け寄り、力強く抱きしめた。だが、すぐに表情が曇る。「でも、ここにいて大丈夫なの? ギルドの仲間たちが必死に探してたわよ。団長が夜逃げだとか何とか……」
新久は苦笑いを浮かべた。「ありがとう、フレイアおばさま! 私は大丈夫だよ!」
フレイアの視線が俺たちに移り、瑚依の姿でふと止まる。彼女の顔が心配そうに歪んだ。「まあ、大変……! 何があったの? こんな可愛い子が、顔中ボロボロじゃない! 誰にいじめられたの!?」
瑚依はフレイアの優しい視線に照れくさそうに頬を掻き、「え、えっと……大丈夫です、ただ、ちょっと転んだだけで……」と小さな声で答えた。擦り傷と涙痕を隠すように、髪をいじりながら目を逸らす。
フレイアはゆっくりと瑚依に近づいた。彼女の目は、まるで我が子を見つめるような温かさに満ちている。瑚依は反射的に一歩後ずさり、肩をすくめて怯えたように視線を落とした。知らない人に近づかれることに、まだ抵抗があるようだ。彼女の手がスカートの端をぎゅっと握り、かすかに震えている。
「大丈夫、じっとしてて。」フレイアは穏やかにそう言うと、腰の麻布のエプロンから布を引き抜いた。農作業で少し硬くなった指先が目立つその手は、温かそうに瑚依の頬に伸び、泥と血で汚れた傷跡を丁寧に拭い始めた。瑚依はびくっと身をこわばらせたが、フレイアの柔らかな動きに抗えず、目を閉じてじっと耐えた。
「ほら、綺麗になった。せっかくの可愛い顔がもったいないからね。」フレイアは満足げに微笑み、瑚依の頬を軽く撫でた。その声は純粋な好意と、母親のような温もりに満ちている。
瑚依の目が突然うるみ、次の瞬間、頬を涙がボロボロと流れ落ちた。無理もない。飛行機の墜落、親しい人の行方不明、強盗団に拉致されかけた恐怖、墓守の兵士や飛竜との遭遇――そしてようやくたどり着いた町でチンピラに絡まれるなんて、呪われたとしか思えない不運の連続だ。現代日本では考えられない非日常の試練を、瑚依はずっと耐え抜いてきたのだ。
「大丈夫、もう大丈夫よ。怖かったよね……」
フレイアは瑚依の小さな肩を引き寄せ、母親のような包容力でぎゅっと抱きしめた。瑚依はその懐に顔を埋め、くすんと声を漏らしながら、堰を切ったように泣き始めた。今まで必死に抑えていた感情が、ようやく解放された瞬間だった。フレイアの粗いエプロンの感触と、ハーブの香りが混じる温もりが、瑚依の心を静かに解きほぐしていく。
初対面の瑚依に、何も聞かずこんなことができるなんて、強い女だ。
怨霊となってしまった美津子も、運命が少し違えば、こんな風に誰かを抱きしめられたかもしれない。
俺は思わず懐のソウルストーンを握りしめた。
壁には木製の棚が据え付けられ、陶器の皿や木のスプーン、無骨な手製の鉄のナイフが並ぶ。棚の一角には編み籠が積まれ、干したハーブやリンゴの輪切りが吊るされている。棚の下には、子どもが描いたと思しき木炭の落書きが残り、花や馬の素朴な絵が微笑ましい彩りを添えている。部屋の隅には、藁と毛布でできた簡素な寝床が整えられ、ざっくりとした羊毛の毛布が、温もりを湛えたまま丁寧に畳まれている。だが、そのそばには色あせたピンク色の現代のクッションが一つ転がり、異世界の雰囲気と微妙にちぐはぐだ。
中央には木のテーブルがあり、表面には鍛冶道具の跡やナイフで彫られた小さな模様が刻まれている。テーブルの上には木製のボウルと、なぜかプラスチックのコップが無造作に置かれている。テーブルの周りには頑丈だが無骨な木の椅子が三つ並び、一つは子ども用に少し小さめで、背もたれの小さな花の彫刻が、ひっそりと親の愛情を物語っている。
窓は一つだけ、木の枠に羊皮紙が張られた簡素なものだ。窓辺にはバルンの妻が育てている小さなハーブの鉢が並び、タイムとローズマリーの香りがほのかに漂う。だが、鉢の一つはなぜか現代のプラスチック製で、ひび割れた陶器の鉢と並んで異様な存在感を放っている。
異世界と現代の文化が混在する、不思議な日常の縮図だった。
「フレイア、お客だ。出てきてくれ。」
バルンが壁のスイッチをカチリと入れると、ごっつい天井の梁から吊り下げられた伝統的な電球がパッと光を放ち、部屋全体を明るく照らした。温かみのある光が、室内に漂うハーブの香りをより際立たせる。
肩まで伸びる金髪をゆるく束ねた、30代半ばの女性が地下室の階段を駆け上がってきた。エプロン姿で、薄い褐色の肌には笑い皺が刻まれ、青い瞳は温かくも鋭い。フレイア――バルンの妻らしい――彼女の顔が一瞬で喜びに輝く。「和歌子ちゃん! クリスティーンの慈悲よ、生きててよかった!」
彼女は新久に駆け寄り、力強く抱きしめた。だが、すぐに表情が曇る。「でも、ここにいて大丈夫なの? ギルドの仲間たちが必死に探してたわよ。団長が夜逃げだとか何とか……」
新久は苦笑いを浮かべた。「ありがとう、フレイアおばさま! 私は大丈夫だよ!」
フレイアの視線が俺たちに移り、瑚依の姿でふと止まる。彼女の顔が心配そうに歪んだ。「まあ、大変……! 何があったの? こんな可愛い子が、顔中ボロボロじゃない! 誰にいじめられたの!?」
瑚依はフレイアの優しい視線に照れくさそうに頬を掻き、「え、えっと……大丈夫です、ただ、ちょっと転んだだけで……」と小さな声で答えた。擦り傷と涙痕を隠すように、髪をいじりながら目を逸らす。
フレイアはゆっくりと瑚依に近づいた。彼女の目は、まるで我が子を見つめるような温かさに満ちている。瑚依は反射的に一歩後ずさり、肩をすくめて怯えたように視線を落とした。知らない人に近づかれることに、まだ抵抗があるようだ。彼女の手がスカートの端をぎゅっと握り、かすかに震えている。
「大丈夫、じっとしてて。」フレイアは穏やかにそう言うと、腰の麻布のエプロンから布を引き抜いた。農作業で少し硬くなった指先が目立つその手は、温かそうに瑚依の頬に伸び、泥と血で汚れた傷跡を丁寧に拭い始めた。瑚依はびくっと身をこわばらせたが、フレイアの柔らかな動きに抗えず、目を閉じてじっと耐えた。
「ほら、綺麗になった。せっかくの可愛い顔がもったいないからね。」フレイアは満足げに微笑み、瑚依の頬を軽く撫でた。その声は純粋な好意と、母親のような温もりに満ちている。
瑚依の目が突然うるみ、次の瞬間、頬を涙がボロボロと流れ落ちた。無理もない。飛行機の墜落、親しい人の行方不明、強盗団に拉致されかけた恐怖、墓守の兵士や飛竜との遭遇――そしてようやくたどり着いた町でチンピラに絡まれるなんて、呪われたとしか思えない不運の連続だ。現代日本では考えられない非日常の試練を、瑚依はずっと耐え抜いてきたのだ。
「大丈夫、もう大丈夫よ。怖かったよね……」
フレイアは瑚依の小さな肩を引き寄せ、母親のような包容力でぎゅっと抱きしめた。瑚依はその懐に顔を埋め、くすんと声を漏らしながら、堰を切ったように泣き始めた。今まで必死に抑えていた感情が、ようやく解放された瞬間だった。フレイアの粗いエプロンの感触と、ハーブの香りが混じる温もりが、瑚依の心を静かに解きほぐしていく。
初対面の瑚依に、何も聞かずこんなことができるなんて、強い女だ。
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俺は思わず懐のソウルストーンを握りしめた。
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