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第三章 花の卷 嵐の前の静けさ
3-29 からくり屋敷
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細い裏路地を抜け、俺は雑貨屋《ルーナストック》の裏口へと辿り着いた。
雪がしんしんと降る夜。足元には木箱や壊れかけの荷車、使い古された麻袋が無造作に積み上げられ、その上には分厚い雪がこんもりと積もっている。街灯の届かぬこの場所には、光源らしきものは何一つない。外気の冷たさと静寂が、肌を刺すようにまとわりついていた。
「消防法違反だな、こりゃ。罰金三十万円ってとこか?」
後ろからついてきた松尾が、雪に埋もれた木箱をつま先で軽く蹴りながら、乾いた声で言う。くだらない冗談に、俺は答える気も起きなかった。
無言のまま、雪を払いながら荷物の山を慎重に乗り越える。靴底が木箱の縁を滑りそうになったが、なんとか体勢を保った。足を止めると、目の前には古びた木の扉。そこには鉄製のノッカー――それが今夜の“鍵”だ。
あらかじめトルヴァルドと取り決めておいた合図を思い出す。
モールス信号で――「MIKATA(ミカタ)」。
――トン、トト、トン、トン、トン、トトト。
正確な長短を意識しながらノッカーを叩く。これは単なる合図ではない。“この世界に地球人の知識と技術が蔓延しているからこそ”必要なセキュリティ対策だ。たとえば「SOS」などという誰もが知る信号では、模倣や偽装の危険性が高すぎる。
最後の音を打ち終えた直後――
カチン、と重い金属の外れる音がした。
やがて、扉の隙間から微かに暖かな光が漏れ、小さな提灯を手にしたシーリスが顔を覗かせ、片手で合図するように俺を招いた。
だが、彼女の視線が俺の背後へと移ったとたん、わずかにその表情が曇る。
……カピバラ姿の松尾を目にした瞬間、「なんでお前も来てるの?」とでも言いたげな困惑の色が、その目に浮かんだ。とはいえ、すぐに表情を切り替え、何事もなかったかのように口元を引き結ぶ。
俺と松尾が扉をくぐると、シーリスは無言のまま内側から太い鍵を回し、扉をしっかりと施錠した。
雪と闇に閉ざされた外とは対照的に、扉の向こうにはわずかながら温もりを感じる空気が漂っていた。
俺たちは短い通路を抜け、突き当たりの壁の前に立った。一見するとただの行き止まり――だが、シーリスは迷いなく壁の一部を探り、何もないように見える場所にそっと手を当てる。
そして、わずかに力を込めて押し込んだ。
――ギギギギギ……
金属歯車が軋む音とともに、目の前の壁がゆっくりと右へとずれていく。そこに現れたのは、ほんの数時間前に俺たちが訪れたばかりの雑貨屋ホールだった。
松尾が感嘆の声を漏らす。
「こりゃまるで甲賀のからくり屋敷だな。これ作ったご両親、忍者か何かか? あるいは……あれだ、007。ショーン・コネリーのやつ。白黒の時代の、渋いスパイ映画――」
こいつが真っ先に思い浮かべるのが、まさかの初代ボンドとはな。せめてピアース・ブロスナンにしろよ、と俺は内心でツッコミを入れる。
もちろん、シーリスにそんな地球のネタが通じるはずもない。彼女は僅かに眉をひそめ、つまらなそうに言った。
「普通の田舎商人だと思うけど?」
それでこの会話は終わった。
俺たちはそのまま隠し通路を抜けてホールへと足を踏み入れる。シーリスがもう一度、壁の隅に手を伸ばして何かを押し込むと、さっき開いた隠し通路がガガガ……という重い音とともに、棚のような什器で再び閉じられた。
何事もなかったかのように見えるその様子は、まるで最初から動く仕掛けなど存在しなかったかのような自然さだ。
大広間は、明かりのない闇に包まれていた。頼れるのは、シーリスが手にした小さな提灯の仄かな灯りだけ。
その灯りに照らされたカウンターの奥――。
そこには、緊張した面持ちのトルヴァルドが、箒を上下逆に握りしめたまま、左右をそわそわと見回していた。
そんな兄の様子に、シーリスは小さくため息をつき、やや気だるげな口調で言った。
「……トルヴァルド、人、連れてきたよ」
「お、おお、おかえり……って、だから何度言ったらわかるんだ!“兄さん”って呼べって! 本名で呼ぶな!」
声をひそめながらも、トルヴァルドはいつも通りの調子で妹に文句をつける。兄妹喧嘩は相変わらずのようだった。
「私たちはこれから二階に上がるけど、念のため階段は引き上げておくから。夜の見張りは……ごめんね、あなたとそのモフモフの相棒に任せるわ。大丈夫でしょ?」
トルヴァルドには目もくれず、シーリスは俺たちに淡々と状況を説明する。
「階段まで隠せるのかよ!? やっぱり甲賀のからくり屋敷か、ここは……」
松尾が小声で再び感嘆の声を漏らしたが、誰にも相手にされなかった。
シーリスは俺に提灯が必要かと手振りで訊ねてきたが、俺は首を横に振る。余計な光は、足音より先に存在を知らせてしまう。闇に馴染んでいた方が安全だ。
それを理解したように彼女は頷き、兄の肩を軽く叩くと、そのまま上階へと押しやる。
階段の根元には、固定用の金属の留め具があった。シーリスがそれを外すと、木製の階段はガタリと音を立て、まるで移動式のハシゴのように上方へと引き上げられた。
二人が二階に上がった直後、トルヴァルドが再び顔を覗かせ、声を潜めて叫んだ。
「頼む! もし戦うことになっても、できるだけ外でやってくれ! 俺の店、壊さないでくれよ!」
俺は肩をすくめた。
「保証はできないが……努力はしてみるよ」
何か言い返そうとしたトルヴァルドだったが、すかさずシーリスに襟を引っ張られ、背後へと引き戻された。文句を言う声が微かに聞こえたが、彼女は涼しい顔で俺に投げキスを一つよこし、そして階段口の蓋を閉じる。
カチリ。
その瞬間、一階と二階の世界は完全に隔てられた。
闇と静寂が支配する空間。俺と松尾だけが残された。
――こうして、長い夜が幕を開けた。
雪がしんしんと降る夜。足元には木箱や壊れかけの荷車、使い古された麻袋が無造作に積み上げられ、その上には分厚い雪がこんもりと積もっている。街灯の届かぬこの場所には、光源らしきものは何一つない。外気の冷たさと静寂が、肌を刺すようにまとわりついていた。
「消防法違反だな、こりゃ。罰金三十万円ってとこか?」
後ろからついてきた松尾が、雪に埋もれた木箱をつま先で軽く蹴りながら、乾いた声で言う。くだらない冗談に、俺は答える気も起きなかった。
無言のまま、雪を払いながら荷物の山を慎重に乗り越える。靴底が木箱の縁を滑りそうになったが、なんとか体勢を保った。足を止めると、目の前には古びた木の扉。そこには鉄製のノッカー――それが今夜の“鍵”だ。
あらかじめトルヴァルドと取り決めておいた合図を思い出す。
モールス信号で――「MIKATA(ミカタ)」。
――トン、トト、トン、トン、トン、トトト。
正確な長短を意識しながらノッカーを叩く。これは単なる合図ではない。“この世界に地球人の知識と技術が蔓延しているからこそ”必要なセキュリティ対策だ。たとえば「SOS」などという誰もが知る信号では、模倣や偽装の危険性が高すぎる。
最後の音を打ち終えた直後――
カチン、と重い金属の外れる音がした。
やがて、扉の隙間から微かに暖かな光が漏れ、小さな提灯を手にしたシーリスが顔を覗かせ、片手で合図するように俺を招いた。
だが、彼女の視線が俺の背後へと移ったとたん、わずかにその表情が曇る。
……カピバラ姿の松尾を目にした瞬間、「なんでお前も来てるの?」とでも言いたげな困惑の色が、その目に浮かんだ。とはいえ、すぐに表情を切り替え、何事もなかったかのように口元を引き結ぶ。
俺と松尾が扉をくぐると、シーリスは無言のまま内側から太い鍵を回し、扉をしっかりと施錠した。
雪と闇に閉ざされた外とは対照的に、扉の向こうにはわずかながら温もりを感じる空気が漂っていた。
俺たちは短い通路を抜け、突き当たりの壁の前に立った。一見するとただの行き止まり――だが、シーリスは迷いなく壁の一部を探り、何もないように見える場所にそっと手を当てる。
そして、わずかに力を込めて押し込んだ。
――ギギギギギ……
金属歯車が軋む音とともに、目の前の壁がゆっくりと右へとずれていく。そこに現れたのは、ほんの数時間前に俺たちが訪れたばかりの雑貨屋ホールだった。
松尾が感嘆の声を漏らす。
「こりゃまるで甲賀のからくり屋敷だな。これ作ったご両親、忍者か何かか? あるいは……あれだ、007。ショーン・コネリーのやつ。白黒の時代の、渋いスパイ映画――」
こいつが真っ先に思い浮かべるのが、まさかの初代ボンドとはな。せめてピアース・ブロスナンにしろよ、と俺は内心でツッコミを入れる。
もちろん、シーリスにそんな地球のネタが通じるはずもない。彼女は僅かに眉をひそめ、つまらなそうに言った。
「普通の田舎商人だと思うけど?」
それでこの会話は終わった。
俺たちはそのまま隠し通路を抜けてホールへと足を踏み入れる。シーリスがもう一度、壁の隅に手を伸ばして何かを押し込むと、さっき開いた隠し通路がガガガ……という重い音とともに、棚のような什器で再び閉じられた。
何事もなかったかのように見えるその様子は、まるで最初から動く仕掛けなど存在しなかったかのような自然さだ。
大広間は、明かりのない闇に包まれていた。頼れるのは、シーリスが手にした小さな提灯の仄かな灯りだけ。
その灯りに照らされたカウンターの奥――。
そこには、緊張した面持ちのトルヴァルドが、箒を上下逆に握りしめたまま、左右をそわそわと見回していた。
そんな兄の様子に、シーリスは小さくため息をつき、やや気だるげな口調で言った。
「……トルヴァルド、人、連れてきたよ」
「お、おお、おかえり……って、だから何度言ったらわかるんだ!“兄さん”って呼べって! 本名で呼ぶな!」
声をひそめながらも、トルヴァルドはいつも通りの調子で妹に文句をつける。兄妹喧嘩は相変わらずのようだった。
「私たちはこれから二階に上がるけど、念のため階段は引き上げておくから。夜の見張りは……ごめんね、あなたとそのモフモフの相棒に任せるわ。大丈夫でしょ?」
トルヴァルドには目もくれず、シーリスは俺たちに淡々と状況を説明する。
「階段まで隠せるのかよ!? やっぱり甲賀のからくり屋敷か、ここは……」
松尾が小声で再び感嘆の声を漏らしたが、誰にも相手にされなかった。
シーリスは俺に提灯が必要かと手振りで訊ねてきたが、俺は首を横に振る。余計な光は、足音より先に存在を知らせてしまう。闇に馴染んでいた方が安全だ。
それを理解したように彼女は頷き、兄の肩を軽く叩くと、そのまま上階へと押しやる。
階段の根元には、固定用の金属の留め具があった。シーリスがそれを外すと、木製の階段はガタリと音を立て、まるで移動式のハシゴのように上方へと引き上げられた。
二人が二階に上がった直後、トルヴァルドが再び顔を覗かせ、声を潜めて叫んだ。
「頼む! もし戦うことになっても、できるだけ外でやってくれ! 俺の店、壊さないでくれよ!」
俺は肩をすくめた。
「保証はできないが……努力はしてみるよ」
何か言い返そうとしたトルヴァルドだったが、すかさずシーリスに襟を引っ張られ、背後へと引き戻された。文句を言う声が微かに聞こえたが、彼女は涼しい顔で俺に投げキスを一つよこし、そして階段口の蓋を閉じる。
カチリ。
その瞬間、一階と二階の世界は完全に隔てられた。
闇と静寂が支配する空間。俺と松尾だけが残された。
――こうして、長い夜が幕を開けた。
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