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一章
マキノ先生の植物講義
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「あらためて――こんばんは。マキノさん。……いま、大丈夫?」
「こんばん、は。マキノさん」
『こんばんは、フーガさん。カノンさん。大丈夫ですよ。
お手数をお掛けして申し訳ありません。』
「いやいや、時間をずらさせてもらったのはこちらだしな」
さて、時刻は現実午後9時。
マキノさんとの示し合わせた時刻ぴったり。
俺もカノンも問題なくこの世界に戻り、予定通りマキノさんへのコールを行った。
脱出ポッドに再び、マキノさんのホログラムが浮かび上がる。
初期装備のままだが――なんだろう、不思議とマキノさんには革の服が似合う。
フィールドワークスタイルの学者先生といったところだ。
『先ほどは伝えそびれたのですが――カノンさん、装いが変わりましたね。
よくお似合いです。……この世界ではそういうのもありなんですね』
「あっ、あの……ありがとう、ござい、ますっ。
フーガくんと、つくり、ました」
「できることはなんでもありだと思うぞ。ただの持論だけど。
マキノさんもなにか作ってみたらどうだ? ……白衣とか」
『はは。似合うように見えますか?
現実だとあんまり着る機会はないのですが……。
こちらでの姿に似合うようならば、着てみてもいいかもしれませんね」
便利そうですし、と続けるマキノさん。
なぜ白衣を勧めたかって、りんねるのイメージでね。
あの人は『犬』でのフィールドワーク中、インナースーツの上に白衣とかいうけっこうイカれ……イカしたスタイルしてたから、りんねるの後輩であるというマキノさんもそっちの方向に進むのかと、ちょっと妙な期待をしている。
白衣だけってわけじゃなくて、ポシェットとか鞄とか引っかけまくってたけど。
いや、でもあれは単にりんねるがずぼらだっただけだよなぁ……。
マキノさんは、もっとしっかりした装備で調査を行いそうだ。
「……ん、挨拶はこのあたりにしておこうか。
そこそこリアルも遅いし、後ろに響いちゃまずいよな」
今日は土曜日、世間的には休日ではあるけれど。
マキノさんは研究職っぽいし、土日とかあんまり関係なさそう。
『ああ、雑事は先ほど片づけてきたので大丈夫ですよ。
先輩も相変わらず音信不通ですし、しばらくは気ままにやるつもりです』
やっぱり苦労してそうだなぁ……。
「え、と。夜の過ごし方、だった?」
『ええ、初期装備にライトのような光源もないようですし、どうしたものかと』
「というか、カノン。その辺、チュートリアルではやらなかったのか?」
この世界での夜の過ごし方とか、チュートリアルで説明があってもおかしくなさそうだけど。
「その辺は、なかった、かな?
技能については、ほとんど、なかったと思う」
「チュートリアル先生、けっこうスパルタだな」
「技能、いっぱいあるし、きりがない、かも?」
「そりゃそうか。一から十まで教えられたらつまんないしな」
『ふふ。少々耳が痛いですね』
「ああいや、ごめん。マキノさん。
徐々に慣れていけばいい他の要素に比べて、夜は喫緊の問題だろうし」
というわけで。
マキノさんに、【夜目】の技能のことや、この世界の夜が長いこと、夜の間も活動時間として使えることなどを掻い摘んで伝える。
「……というわけで、まずは【夜目】取ったほうがいいかもしれん。
もしも暗闇のなかでやることがないなら、夜涼みでもどうだ?
いまのところそれほど寒くはないし、30分くらい外にいれば【夜目】取れると思う」
「外で、寝ても、いい?」
「流石に未開惑星で初手野宿はハードル高いのでは……」
不用心を通り越して、もはや泰然自若だよ。
『なるほど、言われて見れば……納得すること頻りですね。
あとで少し夜歩きなどしてこようかと思います』
【夜目】の重要性については、マキノさんにもうまく伝えられたようだ。
あれがあるとないとでは文字通り世界が変わるからな。
俺も前作ではじめて【夜目】取ったとき「うぇぇ、こんなんあるんかい」みたいな反応したな……。
『それに、一日の長さは正直盲点でしたね。
てっきりこの座標の緯度が高いせいで昼が長いのかと』
「自転周期が違うってのは、世界設定としてはけっこう珍しいよな」
「ほかのゲームだと、みじかいほうが多い、かも」
「3時間くらいで1日が終わるやつな」
そうすれば1回2~3時間のプレイ時間中に、ゲーム内では1日のほとんどの時間帯を味わえるからな。
このゲームのデザインコンセプトとは噛み合わないが、そちらのデザインにも利点がある。
『言われてみればたしかに、日時計を立てればわかることでした。
……いや、なんというか。この世界、やはりよく練られていますね。
現実と同じような理屈がそのあたりまで通用するというのは、驚きです』
いつかのような言葉とともに、そう得心を返す。
たしかにこの世界は、「ゲームだから」で済ませることが少ないように作ってあると思う。
「その辺はけっこうこだわってるみたいだな」
「ん、服とか、すごい、よかった」
「そうそう、マキノさんもぜひ作ってみると――あっ、そうだ」
そこで、ふと思い立つ。
以前から気になっていたこと……トウヒモドキの正体について、マキノさんに訊ねるいい機会では?
『おや、なんでしょう?』
「そちらのお時間大丈夫なら、ちょっと聞いてもいいかな。
……マキノさんの拠点の周囲に、針葉樹が生えてるだろ?
俺たちの拠点の周囲にも同じのが生えてて、それを使っていろいろ作ったりしたんだが――
この針葉樹について、なにかわからないか?」
「たぶん、トウヒ、みたい?」
「……ってカノンは言ってるんだけど、正直植物に詳しくなくてな。
マキノさんなら、なにかわかるんじゃないかと」
りんねるの後輩的な意味で。
『おっと、カノンさん、たいへん鋭いですね。
まだわたしも、調査の途中なのですが――
この世界では、分析装置のおかげで、非常に詳細なデータが取れますからね。
現状の見立てでよければ、お話しできることはあるかと思います』
おっと、これはマキノ先生の解説が聞けるかもしれない。
もしそうなら、非常に助かる。
「それは嬉しいな。よければ、少し教えてくれないか」
「おねがい、しますっ」
『では、僭越ながら、現状でお伝えできる範囲でお話ししますね』
マキノ先生の植物講義、はっじまっるよー。謹聴。
*────
コホン、と一度喉の調子を整えて、マキノさんが語り出す。
『この周囲の樹林帯に生えているのは、その外見、成分において、
現実世界で『ドイツトウヒ』と呼ばれる樹木にかなり近いものです』
「おっ、カノンすごいな。トウヒで当たってたみたいだぞ」
「でも、どいつ? とう?」
『ふふ、カノンさん。それは一つの核心をつく疑問ですが――
そもそも、トウヒとはどういった意味を持つ名前か、お二人はご存知ですか』
「……まったくご存じない。すまん」
「……わたしも、あの、すいません」
圧倒的無学。
でも、頭皮とか逃避の意味ではないと思います。
『ああ、ごめんなさい。ついいつもの癖――コホン。失礼しました。
ええと、トウヒとはそもそも「唐」、もろこしですね。
そのヒノキと書いて「唐檜」と書きます。
この場合の唐とは「異国の」とか、その程度の意味です』
マキノさんは教える側の人間か。
学生に戻った気分で聞くとするか。でもため口は続けるぞ。
「ん、じゃあトウヒってヒノキなのか」
『いえ、そちらもまた少々回りくどい歴史がありまして。
かつてこのトウヒは、木材としてヒノキの代わりに用いられていたため、
「ヒノキの代わりになる、異国風の見た目の木」という意味でトウヒと呼ばれるようになったのですね』
「ん、じゃあ、ヒノキじゃ、ない?」
『ええ、その通りです。カノンさん。
一般的にヒノキはヒノキ科ヒノキ属の針葉樹を指してこれを言いますが、
トウヒはマツ科トウヒ属の針葉樹を言います。
つまりトウヒとは、名前に反して松の仲間なんですね』
「へえぇ」
思わず頭の中で「へぇ」と鳴るボタンを5回ほど押す。
あと15回は押せる。
「マツ……あっ、だからピネンなのか?」
『フーガさんたちも既に分析装置で分析を行われたようですね。
ものを知ろうとするにあたって、まずは自分で調べてみる。
もっとも基本にしてなかなか身につかない、素晴らしい姿勢だと思います』
「ははは……ほとんどわからんかったけど……」
「ピネンと、リモネン、くらいだった……」
カタカナモジレツの暴力に屈した俺たちだ。
つよんは覚えてるぞ。名前だけ。
『それらがわかるだけでも十分な教養をお持ちかと。
それで――この周囲一帯に生えている針葉樹ですが、
トウヒの中でもドイツトウヒ、あるいはヨーロッパトウヒと呼ばれる種の性状に近しいです。
本来トウヒはマツの中でもエゾマツの変種。
そのため一部のアジア地域のみ、国内ではその名の通り北海道に分布していますが――
ドイツトウヒはヨーロッパが原産で、分布も欧州が中心。
そしてトウヒとは少々性状が異なります。
この周囲に生える針葉樹は、そちらのドイツトウヒに近しいというわけですね』
ふむ、つまりトウヒモドキはマツの仲間で、現実の品種としてはドイツトウヒに近いと。
……っていうか、えっ、マキノさん。
この辺の知識、もしかして空で出てくるの?
現実に戻ったときに調べたんだよな? そうだと言ってくれ。
知識量に差があり過ぎて既に心が折れそうだ。
「ドイツトウヒって、どんな、木?」
『クリスマスツリーとしても見かけることがあるので、わたしたちにも馴染みがある木ですよ。
背が高い針葉樹で、葉っぱの形状は――いえ、このあたりは実際に現実で見て頂いた方が早いかもしれませんね。
日当たりを好み、非常に葉量が多いのも特徴です。
根張りは強くないので少々倒れやすく、大雪にも強くありません。
寒冷に強く、公害ガスなどに弱いため、ヨーロッパの山林を中心に広く分布しています』
「そう聞くと、確かにこのあたりの針葉樹と似てる……のかな?」
そういや倒れてたよな、トウヒモドキ。
あれはいまだに原因がよくわからんが、樹木自体の根張りの弱さも原因だったのか。
植物の世界は深い。
先ほどから押し続けているへぇボタンがそろそろ壊れそう。
『はい。……ですが、いまお伝えしたのは似ている部分ですね。
この世界は独自の生態系をシミュレートしているということですので、
この周囲に生えているのも当然、ドイツトウヒではないでしょう。
違う点としては、まず葉の柔らかさですね。
現実のドイツトウヒはひし形の断面でやや硬いですが、
この周囲のものは断面が楕円に近く、また明らかに柔らかいです。
また、ドイツトウヒは自然の成木は50mほどに達するほどですが、
このあたりの樹々は成木でもせいぜい10mのようです。
また、ドイツトウヒは本来球果と呼ばれる、松ぼっくりのような木の実をつけるのですが、
この周囲の地表の腐葉土の中に球果は見られませんでした。
結実期からどれほど経つのかは不明ですが、その残骸すら見られないとなると、
もしかするとこの樹木は球果をつくらない、まったく異なる――』
ぷしゅー。
隣を見ると、カノンさんもぷしゅーしている。
「ま、マキノさん。……申し訳ないが、ちょっと止まって貰っていいか。
そろそろ容量がいっぱいいっぱいだ」
「すごい、調べてる、ます?」
『――はっ!? も、申し訳ありません、フーガさん、カノンさん。
ちょっと熱が入ってしまって……』
この人、間違いなくりんねるの同類だ。
俺はいま、それを確信したぞ。
『――ええと、では。このあたりにしておきますね。
畢竟、資源としての利用価値も高い、人の暮らしを支える樹木になりうるでしょう。
あとは、このあたりの地形環境に関する推測を掻い摘んでお伝えします。
この樹の性質上、おそらくこのあたりは一年を通して比較的寒冷な気候でしょう。
ヨーロッパ地域の山林地帯、それが近しいかと。
恐らくこのあたりでは大雪は降りません。この樹では耐えられそうにありませんから。
また、樹皮が齧られたような形跡がないため、
食害を成すような獣はこのあたりに生息していないかと思われます。
……と、今のところお話しできることはこれくらいでしょうか』
「ありがとうございました。マキノ先生」
「すごかった。ありがと、う」
思わずホログラムに向かって頭を下げる。
すげえな本職(たぶん)。
同じものを見ているはずなのに、情報の引き出し方が段違いだ。
一種類の樹を見るだけでこの地の気象や生態系までわかるのか。
ぱないの。
『いや、熱心に聞いてもらえたのでつい。一方的に話してしまって』
「そんなこと、ない。……面白かった、です」
「ああ、すげぇ面白かった。
それにしても、ここまで詳しく聞かされると。
トウヒモドキなんて呼んでた俺たちが悲しくなってくるな」
「マツ、だった」
トウヒっぽいからトウヒモドキと呼んでいたのに、実際はトウヒじゃない……あれ、結局トウヒモドキという呼称で正しいのか?
もうよくわからなくなってきた。
『いえ、トウヒモドキという名称は非常に的を射ているのでは?』
「えっ」
トウヒっぽいから、という程度の浅すぎる命名なんだが、それでいいのか?
『雑草という名前の草はない、というのは非常に感銘を受ける言葉です。
植物には、本来名前などありませんから。
すべては人間が与えた仮の名。
ゆえに人間がそこに見出した意味こそが、その植物の名前なのです。
カノンさんたちが『トウヒのようだ』と思ったその瞬間から、
この樹はトウヒモドキという名前を得るのです。
あとは、その名前を相応しいと思う人が多ければ、それが一般的な名称として扱われていくでしょう。
トウヒがヒノキでないのに唐檜と呼ばれるようになったのと同じように』
「なんか、すごい」
「そこまで深い話になるとは……」
マキノさんの講座取りたいんだけど、一般教養科目でどっかで開講してない?
学外生として聴講させて頂きたい。
『……とはいえ、学術名としてはそうはいかないのが悩みどころですね。
偉大な先人が、より正しい分類が行えるように道を整えてくださったのですから、
わたしたちはそれに則ることで、より正しい分類が行えるよう努めたいものです』
マキノさんが言うのは、きっとりんねるのあやかり元の人のことだろう。
偉大な先人を持つと、後発はその威光に目がくらみそうになる。
『無論、学術名などというのは日常において大した意味を持ちません。
ですので、トウヒモドキでよいのでは?
わたしたちがこの星で、またトウヒモドキと呼びたくなるような別の樹を発見するまでは、
トウヒモドキの名称はこの針葉樹単体を指す名として問題ないでしょう』
マキノさんはそう言ってくれる。
トウヒモドキと言う名前でも、決して不正解というわけではないのだと。
……でも、もっといい名前があるんじゃないかと思う。
だって、よりにもよってトウヒモドキって。
トウヒじゃなくてヒノキじゃなくてマツでモドキでって意味わからんくない?
「結局おまえなんなの」ってならない?
「いや、でも、流石になあ。
……ほら、茸とか虫とかでも、すごいことになってるのあるじゃないか。
ニセとかモドキとかダマシみたいな。あれ、明らかに分かりづらいんだよな」
「とげあり、とげなし、とげとげ、とか?」
俺もそれ、なんか聞いたことあるな。
結局とげがあるのかとげがないのかどっちなんだおまえ。
『わたしの知っているその手の名前の中で一番わかりにくいと思うのは
ニセクロホシテントウゴミムシダマシ、ですかね』
「なんて?」
なんて?
『甲虫目、カブトムシ亜目、ゴミムシダマシ科、キノコゴミムシダマシ亜科の甲虫です。
テントウムシみたいなかわいい虫なのですが、
クロホシテントウゴミムシダマシという虫が既にいて、
それとは紋様が違うのでこんなことになったみたいですね』
「テントウムシですらないんかい」
「なにも、わからない……」
そもそもゴミムシダマシ・イズ・なに。
テントウムシとはどう違うの。
『わたしもあまりにわけがわからなさすぎて、思わず分類を覚えてしまいました』
いや、そのりくつはおかしい。
『ですので、トウヒモドキという名称が好ましくないと感じるのはわたしにもわかります。
この場合、トウヒとどこがちがうのかを名称に含めるとよいかもしれませんね。
あるいは、ドイツトウヒがドイツマツとも呼ばれるように、
いっそマツであることを打ち出してもよいでしょう。
この星で生まれたこの樹は決してトウヒではないのでしょうから、
トウヒの名前にあやかる必要は、必ずしもないのかもしれません』
「なるほどなぁ」
確かにな。
トウヒモドキ、という名称では、トウヒに似ているがトウヒではないということしか伝わらない。
どこがどう違うのか、ということがなにも伝わってこないのだ。
その差異をこそ名前に含めるべき、というのは、なるほど確からしい。
『フーガさんたちから見て、この樹の特徴……印象に残ったことはなにかありますか?』
マキノさんがそんな風に問いかけてくる。
「と言っても、トウヒとの違いなんてわからんからな」
「う、ん。いい香りの精油が採れる、ってことくらい?」
「ぶっちゃけそこしか印象にないよな」
『おや、それでいいではありませんか。
確かにこの樹は、ピネンやリモネンといった成分を多く含むようです。
ゆえに香りが強い、これは他の樹木と比べて差異ある部分と言えるでしょう』
「え、と。なら、……『カオリマツ』、とか?」
味シメジかな?
その茶々を入れるとカノンがしゅんとしそうなので、口には出さないが。
『ええ、呼称として相応しい名前だと思います。
あるいは学術名として定められるときには、同じ属の樹木の中でこの樹を区別するために、
「香りのある」という意味のhalansなんていうラテン語が添えられるかもしれません。
このあたりは、単なる一例になってしまいますけどね』
実際には研究を積み重ねて、より正しい名称が議論されていくでしょう、
と、マキノさんは結ぶ。
植物の名前って面白いな。
学術上の名前でなくとも、単なる俗称一つに、人間がその樹木をどう見ているのかという意味が込められている。
俺がその木をトウヒモドキと呼べば、その樹を「なんかトウヒじゃない奴」としてのみ見ることになるし、カオリマツと呼べば、その樹を「香りのいい精油の取れるマツの仲間」として見ることになるだろう。
同じ木を指しているのに、情報の豊かさが段違いだ。
やはり名前は言霊。命名はおざなりに行うべきではないな。
マキノさんやりんねるの前で分かったような気になるのはあまりにも烏滸がましいけれど。
その一端には触れられた……のかな?
「ありがとう、マキノさん。じゃあ、これからこの周囲の針葉樹のことは『カオリマツ』と呼ぼうか」
「ん、なんか、いい匂い、しそう」
それマツタケの香りじゃない?
香松竹、味占地じゃない?
『ええ、今後はわたしもそう呼ばせて頂きます。
この呼称が相応しくないと感じるようなことがあれば、またあらためて名前をつけましょう。
生きとし生ける植物に、名前などないのですから』
それは、彼のあやかり元の人が言ったこととは正反対のように聞こえるけれど。
ここまでの話を聞いた俺たちは、その本質は同じなのだとわかった。
雑草という名の草はない。
つまり草に歴史あり、だ。
それは草の歴史であり、ひいては人と草の歴史なのだ。
*────
その後も、いくつかの雑談を挟みつつ。
「――っと、いつの間にかすごい話し込んじゃったけど、時間大丈夫、マキノさん?」
「わっ、もう、十時、過ぎてる」
『もう寝るばかりですから大丈夫ですよ。
こちらこそ、この世界の夜について教えて頂くばかりか、
面白いお話をさせて頂き、ありがとうございました』
「そりゃこっちのセリフだ。マキノさんに逢えてよかったよ」
「ん、ありがとう。マキノさん」
俺たちがそう言うと、マキノさんはふいに、なにかに感じ入るように黙り込む。
『……先輩が、わたしをこの世界に誘った理由が、
今回あらためて分かった気がします。
仮想世界ゆえに生まれる面白い植物がたくさんあるから、だと思っていましたが……』
「その心は?」
『わたしたちの現実にある植物は、既にその多くが発見されていますから。
あとはそれらをより深く研究し、よりわかりやすく分類する。
そのことに注力するようになっています。
それもたいへん遣り甲斐のある仕事ですが――』
「です、が?」
『カノンさんがカオリマツという名前をはじめて呼んだ時、
ああ、なるほど。植物の名前とは、こういうことなのだ、と。
その場に立ち会って、どこか感慨深いものがありました。
そしてこの感慨は、これから見つかるすべての植物について同様にあるのだな、と。
機械論的に分類し続けているだけではわからないヒトと植物の関係、
植物の名前が内包する歴史、のようなものに、少しだけ触れられた気がします』
「……俺には、ちょっと難しいかもしれん」
「ん、わたし、そんなに、深い意味、込められて、ない、かも」
『いえ、だからこそ、ですよ。
トウヒという名がそうであるように、名前というのは、
その名が指し示すものの本質を一直線に捉えていることなど稀なのです。
それでも名前は、その指し示す対象のすべてを担うようになっていく。
トウヒという言葉はもはや、異国の檜という意味合いをほとんど失っているでしょう。
それでもトウヒという名は、トウヒという植物のすべてなんです』
りんねるモードに入ったマキノさん。
……植物分類学、でいいのかな?
この世界でも、彼はその本領を発揮していくのかもしれない。
彼もまたガチ勢であったか。
『……失礼しました。いや、らしくない。
この年で、まだまだ未知の植物に出逢い、無数の名づけを見届けられる。
そう考えると、ゲームという世界の持つ広がりと深さにびっくりします。
学生たちがのめり込むのも、無理はないですね……』
「いや、たぶんそいつらは叱っていいと思うぞ」
ゲームにハマるのはいいとして講義はちゃんと受けろよ。
俺は『犬』にハマってるときもちゃんと受けてたぞ。
……単位数ギリギリだったけど。
「今日はもう遅いけど、今後も気楽にコールしてくれ。
【夜目】みたいにわかりづらいのもあるし」
「わからなかったら人に聞く、のがいい?」
「自分で調べてもわからなさそうなゲーム的な部分は、特にな」
『ありがとうございます。フーガさん、カノンさん。 ……では、また』
「おう、またな」
「ありがとう、ございました」
そう言って、軽い会釈に加え、手を振ってくれるマキノさん。
新たな一面を見て、また一つ、マキノさんと仲良くなれた気がするな。
しばらくそうしていると、彼はもう一つ会釈をし、今度は彼の方からコールを切る。
そうして、脱出ポッドはしばらくぶりに、穏やかな静寂に包まれた。
*────
「カオリマツ、か」
「聞いて、よかった、ね?」
「おう、めっちゃ勉強になったぞ」
知識という意味でもそうだが、それ以上にものの見方についてだ。
名前の意味。
命名の意味。
植物の名前。
植物の歴史。
いやぁ、深いな植物の世界。
トウヒすら知らんかった身としては身につまされる思いだ。
「……今日は、このあたりに、しておく?」
カノンは少し眠そうに見える。
退屈だったようには見えなかったし、単純に頭使ったからだろうな。
俺も、なんというか、今なら気持ちよく眠れそうな気がする。
「そうしよっか。現実に戻って、ドイツトウヒ調べてみたい」
「あ、わたしも、トウヒ、調べる、かな?」
「これでカオリマツとまったく違ったら、もうなにも信じられない……」
「ん、ふふっ」
そうして、心地よい疲労感と共に、俺たちはこの世界を後にする。
世界を深める。
それが、学問の持つ可能性の一つなのだろう。
「こんばん、は。マキノさん」
『こんばんは、フーガさん。カノンさん。大丈夫ですよ。
お手数をお掛けして申し訳ありません。』
「いやいや、時間をずらさせてもらったのはこちらだしな」
さて、時刻は現実午後9時。
マキノさんとの示し合わせた時刻ぴったり。
俺もカノンも問題なくこの世界に戻り、予定通りマキノさんへのコールを行った。
脱出ポッドに再び、マキノさんのホログラムが浮かび上がる。
初期装備のままだが――なんだろう、不思議とマキノさんには革の服が似合う。
フィールドワークスタイルの学者先生といったところだ。
『先ほどは伝えそびれたのですが――カノンさん、装いが変わりましたね。
よくお似合いです。……この世界ではそういうのもありなんですね』
「あっ、あの……ありがとう、ござい、ますっ。
フーガくんと、つくり、ました」
「できることはなんでもありだと思うぞ。ただの持論だけど。
マキノさんもなにか作ってみたらどうだ? ……白衣とか」
『はは。似合うように見えますか?
現実だとあんまり着る機会はないのですが……。
こちらでの姿に似合うようならば、着てみてもいいかもしれませんね」
便利そうですし、と続けるマキノさん。
なぜ白衣を勧めたかって、りんねるのイメージでね。
あの人は『犬』でのフィールドワーク中、インナースーツの上に白衣とかいうけっこうイカれ……イカしたスタイルしてたから、りんねるの後輩であるというマキノさんもそっちの方向に進むのかと、ちょっと妙な期待をしている。
白衣だけってわけじゃなくて、ポシェットとか鞄とか引っかけまくってたけど。
いや、でもあれは単にりんねるがずぼらだっただけだよなぁ……。
マキノさんは、もっとしっかりした装備で調査を行いそうだ。
「……ん、挨拶はこのあたりにしておこうか。
そこそこリアルも遅いし、後ろに響いちゃまずいよな」
今日は土曜日、世間的には休日ではあるけれど。
マキノさんは研究職っぽいし、土日とかあんまり関係なさそう。
『ああ、雑事は先ほど片づけてきたので大丈夫ですよ。
先輩も相変わらず音信不通ですし、しばらくは気ままにやるつもりです』
やっぱり苦労してそうだなぁ……。
「え、と。夜の過ごし方、だった?」
『ええ、初期装備にライトのような光源もないようですし、どうしたものかと』
「というか、カノン。その辺、チュートリアルではやらなかったのか?」
この世界での夜の過ごし方とか、チュートリアルで説明があってもおかしくなさそうだけど。
「その辺は、なかった、かな?
技能については、ほとんど、なかったと思う」
「チュートリアル先生、けっこうスパルタだな」
「技能、いっぱいあるし、きりがない、かも?」
「そりゃそうか。一から十まで教えられたらつまんないしな」
『ふふ。少々耳が痛いですね』
「ああいや、ごめん。マキノさん。
徐々に慣れていけばいい他の要素に比べて、夜は喫緊の問題だろうし」
というわけで。
マキノさんに、【夜目】の技能のことや、この世界の夜が長いこと、夜の間も活動時間として使えることなどを掻い摘んで伝える。
「……というわけで、まずは【夜目】取ったほうがいいかもしれん。
もしも暗闇のなかでやることがないなら、夜涼みでもどうだ?
いまのところそれほど寒くはないし、30分くらい外にいれば【夜目】取れると思う」
「外で、寝ても、いい?」
「流石に未開惑星で初手野宿はハードル高いのでは……」
不用心を通り越して、もはや泰然自若だよ。
『なるほど、言われて見れば……納得すること頻りですね。
あとで少し夜歩きなどしてこようかと思います』
【夜目】の重要性については、マキノさんにもうまく伝えられたようだ。
あれがあるとないとでは文字通り世界が変わるからな。
俺も前作ではじめて【夜目】取ったとき「うぇぇ、こんなんあるんかい」みたいな反応したな……。
『それに、一日の長さは正直盲点でしたね。
てっきりこの座標の緯度が高いせいで昼が長いのかと』
「自転周期が違うってのは、世界設定としてはけっこう珍しいよな」
「ほかのゲームだと、みじかいほうが多い、かも」
「3時間くらいで1日が終わるやつな」
そうすれば1回2~3時間のプレイ時間中に、ゲーム内では1日のほとんどの時間帯を味わえるからな。
このゲームのデザインコンセプトとは噛み合わないが、そちらのデザインにも利点がある。
『言われてみればたしかに、日時計を立てればわかることでした。
……いや、なんというか。この世界、やはりよく練られていますね。
現実と同じような理屈がそのあたりまで通用するというのは、驚きです』
いつかのような言葉とともに、そう得心を返す。
たしかにこの世界は、「ゲームだから」で済ませることが少ないように作ってあると思う。
「その辺はけっこうこだわってるみたいだな」
「ん、服とか、すごい、よかった」
「そうそう、マキノさんもぜひ作ってみると――あっ、そうだ」
そこで、ふと思い立つ。
以前から気になっていたこと……トウヒモドキの正体について、マキノさんに訊ねるいい機会では?
『おや、なんでしょう?』
「そちらのお時間大丈夫なら、ちょっと聞いてもいいかな。
……マキノさんの拠点の周囲に、針葉樹が生えてるだろ?
俺たちの拠点の周囲にも同じのが生えてて、それを使っていろいろ作ったりしたんだが――
この針葉樹について、なにかわからないか?」
「たぶん、トウヒ、みたい?」
「……ってカノンは言ってるんだけど、正直植物に詳しくなくてな。
マキノさんなら、なにかわかるんじゃないかと」
りんねるの後輩的な意味で。
『おっと、カノンさん、たいへん鋭いですね。
まだわたしも、調査の途中なのですが――
この世界では、分析装置のおかげで、非常に詳細なデータが取れますからね。
現状の見立てでよければ、お話しできることはあるかと思います』
おっと、これはマキノ先生の解説が聞けるかもしれない。
もしそうなら、非常に助かる。
「それは嬉しいな。よければ、少し教えてくれないか」
「おねがい、しますっ」
『では、僭越ながら、現状でお伝えできる範囲でお話ししますね』
マキノ先生の植物講義、はっじまっるよー。謹聴。
*────
コホン、と一度喉の調子を整えて、マキノさんが語り出す。
『この周囲の樹林帯に生えているのは、その外見、成分において、
現実世界で『ドイツトウヒ』と呼ばれる樹木にかなり近いものです』
「おっ、カノンすごいな。トウヒで当たってたみたいだぞ」
「でも、どいつ? とう?」
『ふふ、カノンさん。それは一つの核心をつく疑問ですが――
そもそも、トウヒとはどういった意味を持つ名前か、お二人はご存知ですか』
「……まったくご存じない。すまん」
「……わたしも、あの、すいません」
圧倒的無学。
でも、頭皮とか逃避の意味ではないと思います。
『ああ、ごめんなさい。ついいつもの癖――コホン。失礼しました。
ええと、トウヒとはそもそも「唐」、もろこしですね。
そのヒノキと書いて「唐檜」と書きます。
この場合の唐とは「異国の」とか、その程度の意味です』
マキノさんは教える側の人間か。
学生に戻った気分で聞くとするか。でもため口は続けるぞ。
「ん、じゃあトウヒってヒノキなのか」
『いえ、そちらもまた少々回りくどい歴史がありまして。
かつてこのトウヒは、木材としてヒノキの代わりに用いられていたため、
「ヒノキの代わりになる、異国風の見た目の木」という意味でトウヒと呼ばれるようになったのですね』
「ん、じゃあ、ヒノキじゃ、ない?」
『ええ、その通りです。カノンさん。
一般的にヒノキはヒノキ科ヒノキ属の針葉樹を指してこれを言いますが、
トウヒはマツ科トウヒ属の針葉樹を言います。
つまりトウヒとは、名前に反して松の仲間なんですね』
「へえぇ」
思わず頭の中で「へぇ」と鳴るボタンを5回ほど押す。
あと15回は押せる。
「マツ……あっ、だからピネンなのか?」
『フーガさんたちも既に分析装置で分析を行われたようですね。
ものを知ろうとするにあたって、まずは自分で調べてみる。
もっとも基本にしてなかなか身につかない、素晴らしい姿勢だと思います』
「ははは……ほとんどわからんかったけど……」
「ピネンと、リモネン、くらいだった……」
カタカナモジレツの暴力に屈した俺たちだ。
つよんは覚えてるぞ。名前だけ。
『それらがわかるだけでも十分な教養をお持ちかと。
それで――この周囲一帯に生えている針葉樹ですが、
トウヒの中でもドイツトウヒ、あるいはヨーロッパトウヒと呼ばれる種の性状に近しいです。
本来トウヒはマツの中でもエゾマツの変種。
そのため一部のアジア地域のみ、国内ではその名の通り北海道に分布していますが――
ドイツトウヒはヨーロッパが原産で、分布も欧州が中心。
そしてトウヒとは少々性状が異なります。
この周囲に生える針葉樹は、そちらのドイツトウヒに近しいというわけですね』
ふむ、つまりトウヒモドキはマツの仲間で、現実の品種としてはドイツトウヒに近いと。
……っていうか、えっ、マキノさん。
この辺の知識、もしかして空で出てくるの?
現実に戻ったときに調べたんだよな? そうだと言ってくれ。
知識量に差があり過ぎて既に心が折れそうだ。
「ドイツトウヒって、どんな、木?」
『クリスマスツリーとしても見かけることがあるので、わたしたちにも馴染みがある木ですよ。
背が高い針葉樹で、葉っぱの形状は――いえ、このあたりは実際に現実で見て頂いた方が早いかもしれませんね。
日当たりを好み、非常に葉量が多いのも特徴です。
根張りは強くないので少々倒れやすく、大雪にも強くありません。
寒冷に強く、公害ガスなどに弱いため、ヨーロッパの山林を中心に広く分布しています』
「そう聞くと、確かにこのあたりの針葉樹と似てる……のかな?」
そういや倒れてたよな、トウヒモドキ。
あれはいまだに原因がよくわからんが、樹木自体の根張りの弱さも原因だったのか。
植物の世界は深い。
先ほどから押し続けているへぇボタンがそろそろ壊れそう。
『はい。……ですが、いまお伝えしたのは似ている部分ですね。
この世界は独自の生態系をシミュレートしているということですので、
この周囲に生えているのも当然、ドイツトウヒではないでしょう。
違う点としては、まず葉の柔らかさですね。
現実のドイツトウヒはひし形の断面でやや硬いですが、
この周囲のものは断面が楕円に近く、また明らかに柔らかいです。
また、ドイツトウヒは自然の成木は50mほどに達するほどですが、
このあたりの樹々は成木でもせいぜい10mのようです。
また、ドイツトウヒは本来球果と呼ばれる、松ぼっくりのような木の実をつけるのですが、
この周囲の地表の腐葉土の中に球果は見られませんでした。
結実期からどれほど経つのかは不明ですが、その残骸すら見られないとなると、
もしかするとこの樹木は球果をつくらない、まったく異なる――』
ぷしゅー。
隣を見ると、カノンさんもぷしゅーしている。
「ま、マキノさん。……申し訳ないが、ちょっと止まって貰っていいか。
そろそろ容量がいっぱいいっぱいだ」
「すごい、調べてる、ます?」
『――はっ!? も、申し訳ありません、フーガさん、カノンさん。
ちょっと熱が入ってしまって……』
この人、間違いなくりんねるの同類だ。
俺はいま、それを確信したぞ。
『――ええと、では。このあたりにしておきますね。
畢竟、資源としての利用価値も高い、人の暮らしを支える樹木になりうるでしょう。
あとは、このあたりの地形環境に関する推測を掻い摘んでお伝えします。
この樹の性質上、おそらくこのあたりは一年を通して比較的寒冷な気候でしょう。
ヨーロッパ地域の山林地帯、それが近しいかと。
恐らくこのあたりでは大雪は降りません。この樹では耐えられそうにありませんから。
また、樹皮が齧られたような形跡がないため、
食害を成すような獣はこのあたりに生息していないかと思われます。
……と、今のところお話しできることはこれくらいでしょうか』
「ありがとうございました。マキノ先生」
「すごかった。ありがと、う」
思わずホログラムに向かって頭を下げる。
すげえな本職(たぶん)。
同じものを見ているはずなのに、情報の引き出し方が段違いだ。
一種類の樹を見るだけでこの地の気象や生態系までわかるのか。
ぱないの。
『いや、熱心に聞いてもらえたのでつい。一方的に話してしまって』
「そんなこと、ない。……面白かった、です」
「ああ、すげぇ面白かった。
それにしても、ここまで詳しく聞かされると。
トウヒモドキなんて呼んでた俺たちが悲しくなってくるな」
「マツ、だった」
トウヒっぽいからトウヒモドキと呼んでいたのに、実際はトウヒじゃない……あれ、結局トウヒモドキという呼称で正しいのか?
もうよくわからなくなってきた。
『いえ、トウヒモドキという名称は非常に的を射ているのでは?』
「えっ」
トウヒっぽいから、という程度の浅すぎる命名なんだが、それでいいのか?
『雑草という名前の草はない、というのは非常に感銘を受ける言葉です。
植物には、本来名前などありませんから。
すべては人間が与えた仮の名。
ゆえに人間がそこに見出した意味こそが、その植物の名前なのです。
カノンさんたちが『トウヒのようだ』と思ったその瞬間から、
この樹はトウヒモドキという名前を得るのです。
あとは、その名前を相応しいと思う人が多ければ、それが一般的な名称として扱われていくでしょう。
トウヒがヒノキでないのに唐檜と呼ばれるようになったのと同じように』
「なんか、すごい」
「そこまで深い話になるとは……」
マキノさんの講座取りたいんだけど、一般教養科目でどっかで開講してない?
学外生として聴講させて頂きたい。
『……とはいえ、学術名としてはそうはいかないのが悩みどころですね。
偉大な先人が、より正しい分類が行えるように道を整えてくださったのですから、
わたしたちはそれに則ることで、より正しい分類が行えるよう努めたいものです』
マキノさんが言うのは、きっとりんねるのあやかり元の人のことだろう。
偉大な先人を持つと、後発はその威光に目がくらみそうになる。
『無論、学術名などというのは日常において大した意味を持ちません。
ですので、トウヒモドキでよいのでは?
わたしたちがこの星で、またトウヒモドキと呼びたくなるような別の樹を発見するまでは、
トウヒモドキの名称はこの針葉樹単体を指す名として問題ないでしょう』
マキノさんはそう言ってくれる。
トウヒモドキと言う名前でも、決して不正解というわけではないのだと。
……でも、もっといい名前があるんじゃないかと思う。
だって、よりにもよってトウヒモドキって。
トウヒじゃなくてヒノキじゃなくてマツでモドキでって意味わからんくない?
「結局おまえなんなの」ってならない?
「いや、でも、流石になあ。
……ほら、茸とか虫とかでも、すごいことになってるのあるじゃないか。
ニセとかモドキとかダマシみたいな。あれ、明らかに分かりづらいんだよな」
「とげあり、とげなし、とげとげ、とか?」
俺もそれ、なんか聞いたことあるな。
結局とげがあるのかとげがないのかどっちなんだおまえ。
『わたしの知っているその手の名前の中で一番わかりにくいと思うのは
ニセクロホシテントウゴミムシダマシ、ですかね』
「なんて?」
なんて?
『甲虫目、カブトムシ亜目、ゴミムシダマシ科、キノコゴミムシダマシ亜科の甲虫です。
テントウムシみたいなかわいい虫なのですが、
クロホシテントウゴミムシダマシという虫が既にいて、
それとは紋様が違うのでこんなことになったみたいですね』
「テントウムシですらないんかい」
「なにも、わからない……」
そもそもゴミムシダマシ・イズ・なに。
テントウムシとはどう違うの。
『わたしもあまりにわけがわからなさすぎて、思わず分類を覚えてしまいました』
いや、そのりくつはおかしい。
『ですので、トウヒモドキという名称が好ましくないと感じるのはわたしにもわかります。
この場合、トウヒとどこがちがうのかを名称に含めるとよいかもしれませんね。
あるいは、ドイツトウヒがドイツマツとも呼ばれるように、
いっそマツであることを打ち出してもよいでしょう。
この星で生まれたこの樹は決してトウヒではないのでしょうから、
トウヒの名前にあやかる必要は、必ずしもないのかもしれません』
「なるほどなぁ」
確かにな。
トウヒモドキ、という名称では、トウヒに似ているがトウヒではないということしか伝わらない。
どこがどう違うのか、ということがなにも伝わってこないのだ。
その差異をこそ名前に含めるべき、というのは、なるほど確からしい。
『フーガさんたちから見て、この樹の特徴……印象に残ったことはなにかありますか?』
マキノさんがそんな風に問いかけてくる。
「と言っても、トウヒとの違いなんてわからんからな」
「う、ん。いい香りの精油が採れる、ってことくらい?」
「ぶっちゃけそこしか印象にないよな」
『おや、それでいいではありませんか。
確かにこの樹は、ピネンやリモネンといった成分を多く含むようです。
ゆえに香りが強い、これは他の樹木と比べて差異ある部分と言えるでしょう』
「え、と。なら、……『カオリマツ』、とか?」
味シメジかな?
その茶々を入れるとカノンがしゅんとしそうなので、口には出さないが。
『ええ、呼称として相応しい名前だと思います。
あるいは学術名として定められるときには、同じ属の樹木の中でこの樹を区別するために、
「香りのある」という意味のhalansなんていうラテン語が添えられるかもしれません。
このあたりは、単なる一例になってしまいますけどね』
実際には研究を積み重ねて、より正しい名称が議論されていくでしょう、
と、マキノさんは結ぶ。
植物の名前って面白いな。
学術上の名前でなくとも、単なる俗称一つに、人間がその樹木をどう見ているのかという意味が込められている。
俺がその木をトウヒモドキと呼べば、その樹を「なんかトウヒじゃない奴」としてのみ見ることになるし、カオリマツと呼べば、その樹を「香りのいい精油の取れるマツの仲間」として見ることになるだろう。
同じ木を指しているのに、情報の豊かさが段違いだ。
やはり名前は言霊。命名はおざなりに行うべきではないな。
マキノさんやりんねるの前で分かったような気になるのはあまりにも烏滸がましいけれど。
その一端には触れられた……のかな?
「ありがとう、マキノさん。じゃあ、これからこの周囲の針葉樹のことは『カオリマツ』と呼ぼうか」
「ん、なんか、いい匂い、しそう」
それマツタケの香りじゃない?
香松竹、味占地じゃない?
『ええ、今後はわたしもそう呼ばせて頂きます。
この呼称が相応しくないと感じるようなことがあれば、またあらためて名前をつけましょう。
生きとし生ける植物に、名前などないのですから』
それは、彼のあやかり元の人が言ったこととは正反対のように聞こえるけれど。
ここまでの話を聞いた俺たちは、その本質は同じなのだとわかった。
雑草という名の草はない。
つまり草に歴史あり、だ。
それは草の歴史であり、ひいては人と草の歴史なのだ。
*────
その後も、いくつかの雑談を挟みつつ。
「――っと、いつの間にかすごい話し込んじゃったけど、時間大丈夫、マキノさん?」
「わっ、もう、十時、過ぎてる」
『もう寝るばかりですから大丈夫ですよ。
こちらこそ、この世界の夜について教えて頂くばかりか、
面白いお話をさせて頂き、ありがとうございました』
「そりゃこっちのセリフだ。マキノさんに逢えてよかったよ」
「ん、ありがとう。マキノさん」
俺たちがそう言うと、マキノさんはふいに、なにかに感じ入るように黙り込む。
『……先輩が、わたしをこの世界に誘った理由が、
今回あらためて分かった気がします。
仮想世界ゆえに生まれる面白い植物がたくさんあるから、だと思っていましたが……』
「その心は?」
『わたしたちの現実にある植物は、既にその多くが発見されていますから。
あとはそれらをより深く研究し、よりわかりやすく分類する。
そのことに注力するようになっています。
それもたいへん遣り甲斐のある仕事ですが――』
「です、が?」
『カノンさんがカオリマツという名前をはじめて呼んだ時、
ああ、なるほど。植物の名前とは、こういうことなのだ、と。
その場に立ち会って、どこか感慨深いものがありました。
そしてこの感慨は、これから見つかるすべての植物について同様にあるのだな、と。
機械論的に分類し続けているだけではわからないヒトと植物の関係、
植物の名前が内包する歴史、のようなものに、少しだけ触れられた気がします』
「……俺には、ちょっと難しいかもしれん」
「ん、わたし、そんなに、深い意味、込められて、ない、かも」
『いえ、だからこそ、ですよ。
トウヒという名がそうであるように、名前というのは、
その名が指し示すものの本質を一直線に捉えていることなど稀なのです。
それでも名前は、その指し示す対象のすべてを担うようになっていく。
トウヒという言葉はもはや、異国の檜という意味合いをほとんど失っているでしょう。
それでもトウヒという名は、トウヒという植物のすべてなんです』
りんねるモードに入ったマキノさん。
……植物分類学、でいいのかな?
この世界でも、彼はその本領を発揮していくのかもしれない。
彼もまたガチ勢であったか。
『……失礼しました。いや、らしくない。
この年で、まだまだ未知の植物に出逢い、無数の名づけを見届けられる。
そう考えると、ゲームという世界の持つ広がりと深さにびっくりします。
学生たちがのめり込むのも、無理はないですね……』
「いや、たぶんそいつらは叱っていいと思うぞ」
ゲームにハマるのはいいとして講義はちゃんと受けろよ。
俺は『犬』にハマってるときもちゃんと受けてたぞ。
……単位数ギリギリだったけど。
「今日はもう遅いけど、今後も気楽にコールしてくれ。
【夜目】みたいにわかりづらいのもあるし」
「わからなかったら人に聞く、のがいい?」
「自分で調べてもわからなさそうなゲーム的な部分は、特にな」
『ありがとうございます。フーガさん、カノンさん。 ……では、また』
「おう、またな」
「ありがとう、ございました」
そう言って、軽い会釈に加え、手を振ってくれるマキノさん。
新たな一面を見て、また一つ、マキノさんと仲良くなれた気がするな。
しばらくそうしていると、彼はもう一つ会釈をし、今度は彼の方からコールを切る。
そうして、脱出ポッドはしばらくぶりに、穏やかな静寂に包まれた。
*────
「カオリマツ、か」
「聞いて、よかった、ね?」
「おう、めっちゃ勉強になったぞ」
知識という意味でもそうだが、それ以上にものの見方についてだ。
名前の意味。
命名の意味。
植物の名前。
植物の歴史。
いやぁ、深いな植物の世界。
トウヒすら知らんかった身としては身につまされる思いだ。
「……今日は、このあたりに、しておく?」
カノンは少し眠そうに見える。
退屈だったようには見えなかったし、単純に頭使ったからだろうな。
俺も、なんというか、今なら気持ちよく眠れそうな気がする。
「そうしよっか。現実に戻って、ドイツトウヒ調べてみたい」
「あ、わたしも、トウヒ、調べる、かな?」
「これでカオリマツとまったく違ったら、もうなにも信じられない……」
「ん、ふふっ」
そうして、心地よい疲労感と共に、俺たちはこの世界を後にする。
世界を深める。
それが、学問の持つ可能性の一つなのだろう。
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