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一章
安堵と、
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そうして俺は――亀裂の外に出た。
ザァァァァァ――――
ここは……入ってきたのと同じ場所。
拠点の真南の、亀裂の場所。
カオリマツの樹林、依然として降り頻る雨。
すっかり冷えきった頬を撫でる――冷たい空気。
外界の空気、だ。
(……なんとか、出て来られた、か……)
……いやぁ、焦った、焦った。
入ったはいいけど、出るときのことはあんまり考えてなかった。
内部が無数に枝分かれしていたら、たぶん詰んでたな。
訂正。詰んでたかもしれんな。
枝分かれに備えて、入り口近くにアリアドネの糸でも結んでおくんだった。
閉鎖空間かつ暗闇の中で迷子とか、いくらなんでも発狂しかねない。
丸一日も経てば、自殺ボタンに手を伸ばしたくなっていただろう。
いやでも、丸一日経ったら水不足で死ぬのも目前だよな。
やっぱり自殺ボタンは押さなくてもいいかもしれん。
もはや意地だ。俺は自ら死を選ぶくらいなら世界に殺されるのを選ぶ。
……この言い方だと、かっこ悪い奴みたいだな。執念が足りんぞ。
現実の時刻は――23:28。
入った時刻は21:56だったと記憶しているから……
だいたい1時間半くらいで出て来られたのか。
体感3時間くらい経ってたような気もする。
……完全な暗闇の中だと、時間感覚が麻痺してしまう。
精神が崩壊する前に出て来られてなによりだ。
(……ふぅ)
いやしかし――なんとか、うまくできたな。
心の中で、安堵の溜息を一つ吐く。
視界のまったく効かない探索は、『犬』以来ほとんど覚えがない。
4年も経って、すっかりその辺の感覚が錆び付いてるかと思っていたが――
(……案外、忘れないもんだな)
意外とはやく勘を取り戻すことができた。
極限状態の感覚は、けっこう深く脳に刻まれているものらしい。
今回は【危機感知】に【聴力強化】と、自分の力だけじゃないブーストも掛けていったから、思ったよりもやりやすかったのも大きい。
亀裂の中に入ってしまえば雨音も遠くて、ものすごい静かだったのもありがたい。
なにかしらの生き物に襲われることもなかった。
それを考えれば、今回の暗闇探索は、割とイージーモードだったのかもしれない。
……しかし結局、カノンはどっちに反応したんだろう。
この亀裂の先にあったものか、それとも。
この亀裂の中にあったものか。
普通に考えれば中にあったものなんだけど……あれ、かなり脇道を進んだ先にあったからな。
亀裂の入り口付近から覗き込んで、その気配を捉えられたとは到底思えない。
となると、亀裂の先にあったものになるのだが――
(……。)
……うん、そちらの方が、いろいろと納得できる。
亀裂を覗き込んだ時のカノンの仕草、カノンの言葉。
そのすべてが、一本の線で繋がる。
それどころか、俺がずっと奇妙に思っていた、最近のカノンの振る舞いにも。
……それは、望ましいことだと思う。
カノンは変わっていないと思っていたけど。
ちゃんと変わっていた。強くなっていた。
それを強さと言っていいのかはわからないが。
いまのカノンは、それを自分で選び取ったのだから。
「……けっこう時間食っちゃったな」
さっきは1時間半くらいで済んだとか思っていたが、本来帰るつもりだった時刻よりは大幅に遅れている。
この亀裂の調査に思った以上の時間が取られたせいだ。
まさか亀裂の先だけではなく亀裂の中も調査する必要があるとは思わなかった。
先だけなら、たぶん30分も掛からなかったと思うのだが……。
ええい、目的は果たしたのだ、さっさと帰ろう。
べちゃべちゃに濡れている衣服は……着るか。
抱えて持つ方が面倒くさい。
ブーツもグローブもぐちゃぐちゃだが仕方ない。
ここから拠点まで、あと20分ほどは歩かなければならないのだ。
ザァァァァァアアアアアア――――
(あー……うるさい)
鋭敏になった聴覚に、無遠慮に入り込んでくる数多の騒音。
地面をバラバラと打つ雨音が、耳朶に突き刺さる。
今クラクションでも鳴らされたら、俺の聴覚は容易く破壊されるだろう。
雷とかも勘弁したいところだ。
周囲で10kg分ほど花崗岩の塊を見繕い、革袋の中に放り込む。
ずしりと肩にかかる重さ。手で抱えて持つにはかなり重い。
だが肩に掛けてしまえば、意外と持つことができる。
どこかの民族は、頭の上に水瓶を載せて運ぶらしい。
昔の日本人だって、一俵60kgの米俵を複数背負って運んだだろう。
彼らのやり方を真似すれば、俺にもできない道理はない。
いざ、拠点へ帰還っ!
……。
おっも……いし。
ずぶぬれで、気持ち悪いし……。
*────
雨の樹林帯を歩き続けること約20分。
ようやく、カノンの脱出ポッドまで戻ってきた。
マップの光点を見ればよいので、帰路を迷うことはない。
迷うことはなかった、が――
「うだぁぁぁ――疲れたぁぁ……」
いや、疲れた。
亀裂の探索で精神をすり減らした後、今度は20kgの荷重を背負っての雨中行軍だ。
疲れない方がおかしい。俺は従軍兵士ではなく貧弱な現代人だぞ。
それでもなんとか歩き切れたのは、たぶん【運搬】先輩のお力添えあってのことだろう。
これならいっそ【石工術】を外して【旅歩き】をつけてきた方がよかったかもしれない。
でも石工術のアシスト感覚も掴んでおきたかったんだ。
技能スロット拡張したい……拡張したくない……?
今作では6つに増えたりしない?
どこかのイベントかなんかで増えてくれないかねぇ……。
そうして、脱出ポッドの前面に回り込み、
――脱出ポッドの入り口付近のランプが、緑色に点灯しているのを見る。
(――……っやばっ!!)
それは、脱出ポッドの中に、プレイヤーがいることを示すサイン。
この脱出ポッドの中に入ることができるプレイヤーは、二人しかいない。
俺か、カノンだ。
つまり、カノンがいるということだ。
カノンが、この世界に戻ってきているということだ。
……くそっ、やらかしたっ!
亀裂の探索に集中しすぎて、戻るのがかなり遅くなってしまった。
俺がこの脱出ポッドを出てから、……どれくらいだ。
たしかこの世界にダイブインしたのは、20時30分前後だったよな。
現在時刻は――23:49を示している。
かれこれもう3時間ほど経過しているということだ。
カノンが戻ってきた早さによっては、かなり待たせてしまっている可能性がある。
脱出ポッドのハッチを、コンコンと叩く。
そして、声を掛ける。
「カノンっ、ただいまっ!」
……。
ハッチの向こうで、なにやら物音がする。
やはり、カノンは戻ってきているようだ。
そうしてゆっくりと、脱出ポッドのハッチが開かれ――
「おかえりっ、フーガくんっ」
花咲くような笑顔で俺を迎える、カノンの姿を見た。
*────
――安堵。
今感じているものは、ただひとえにそれに尽きる。
カノンのおかえりにただいまを返し、一度ハッチを閉めてもらう。
濡れ鼠だし、今回も洗浄室側から入ろう。
ずぶ濡れの衣服に、石材の入った革袋も同様だ。
洗浄室で身体を乾かしながら、先ほどのカノンの様子を思い返す。
体調不良という感じは、しなかった。
なにか不安を感じているということも、なさそうだった。
あまり待たせてはいなかったのだろうか。
それならよいのだけれど。
摩耗した精神と身体が、洗浄室で禊がれる。
……やっぱりありがたいな、洗浄室は。
雨に濡れて帰ってくるたび、このありがたみを感じることになるだろう。
風呂に入るたびに気持ちいいと感じるのと同じように、この感謝の念は絶えそうにない。
そうして洗浄室の扉を開け、脱出ポッドの中へ。
「……お待たせ、カノン」
「んっ、お疲れさま。フーガくんっ」
弾むような声で、言葉を掛けてくれるカノンの姿を見て、再びの安堵。
どうやら俺は思っていた以上に、カノンのことを心配していたらしい。
それとも、あの亀裂の暗闇の中で精神をやつしたからだろうか。
元気そうなカノンの姿に、びっくりするほどの安堵を覚える自分がいる。
「岩石資源を補充しようと思って岩場まで行ってきたんだが。
……いやぁ。降られた降られた。ずぶ濡れだよ」
「んっ。お疲れさま。その革袋の中に、入ってる、の?」
「そうそう、20kg分くらいはあるぞぉ」
革袋から出して、採ってきた岩石を圧縮ストレージの中に安置する。
これでまたしばらくは、岩石系の資源に困ることはないだろう。
「ここから南の岩場で取ってきた、花崗岩?」
「そうそう。あと、例の岩塩入りの玄武岩もあるぞ」
圧縮ストレージを閉める。
そうして、乾かしたレザーコートを衣類スタンドへ掛ける。
――ふぅ、これでようやく、ひと段落だな。
「ここからちょっと、距離があるところ、だよね」
「んっ、まぁ確かにそこそこあるな」
「だいぶ急いだ、かんじ?」
「ん?」
……急いだ?
いや、別に急いだ記憶などない。
むしろのんびりと歩きすぎたくらいだ。
「戻ってくるの、早かったから」
「そうかな?」
カノンは俺がいつから出かけていたのかわからないから、そう思うのかな。
3時間近くかかっているから、早かったということはない。
「んっ。でも、早めに戻ってきてくれて、嬉しい」
「……おう。俺も、カノンを待たせなくてよかったよ」
カノンがいつ頃こちらに戻ってきたのかはわからないが、あまり待たせなくて済んだらしい。
それならよかった。悠長に亀裂の調査とかしてたからな。
……そういえば、亀裂を調べてきたこと、カノンに話すべきかな。
話すべきだろうな。
「どうしても気になったんだ。黙って調べに行ってごめん」と素直に言えばいいだけだ。
それは、できるだけ早いほうが良いだろう。
そんな決心をひそかに固めていた俺に、カノンがはにかんで問いかける。
「それで、フーガくんっ。――今日は、なにする?」
……。
――ん?
「フーガくん、早めに戻ってきてくれたから。
まだ、けっこう、遊べる時間、ある、よね」
……。
――は?
「明日もおしごとなら、あんまり遅くまでは、ダメだけど。
昨日くらいの時間までなら、だいじょうぶ?」
……まて。
――なんだって?
「か――カノン?」
声が、震えてしまう。
脳が、ちりちりする。
……なんだ。
――なんだ、これは。
思考が痺れる。
頭がくらくらする。
なにが起こっているのか理解できない。
なにを言っているのかが理解できない。
こちらに微笑むカノン。
楽しそうにするカノン。
……カノン。
――カノ、ン?
だいぶ急いだ、かんじ?
戻ってくるの、早かったから?
まだ、けっこう、遊べる時間、ある?
昨日くらいの時間までなら、だいじょうぶ?
昨日って、何時頃にダイブアウトしたっけ?
「――もう、日が変わる、ぞ?」
後悔した。
その言葉さえ口に出さなければ。
魔法が解けることなどなかったのに。
「……えっ?」
いまの時刻を確認した彼女の表情が、
「……あ、れ……? わた、し……?」
凍り付くことなどなかったのに。
「――ッ! カノン、落ち着け」
目の前で、固まってしまった少女。
その唇は、心なしか青い。
その顔色は、心なしか白い。
外から戻ってきて、脱出ポッドの明かりに照らされて。
たまたま、そう見えるのだと思っていた。
暗順応した俺の目が、色を歪めて見ているのだと。
……だが。
――そうでないと、したら?
「あれ……? なん、で……?」
「カノン、大丈夫。大丈夫だ――」
俺が戻ってくるのが早かった?
どうして、カノンはそう思ったんだ。
そう思える根拠はなんだ。
簡単だ。
彼女が、俺が出ていった大まかな時刻を知っているからだ。
だが、それは直接見たわけではないはずだ。
俺が現実世界で、カノンにメッセージを送った時刻。20:34。
その時間が、彼女の知る基準点。
少なくともその時間よりは後に、俺はこの世界へダイブインし、外出した。
そのあとで、カノンがこの世界に来た。
そのあとで、戻ってきた俺を迎えた時刻。23:49。
だから、
『戻ってくるの、早かったから』
その台詞は、おかしい。
その台詞が正しくなるのは、俺が20:34からそれほど遠くない時刻に、この脱出ポッドに戻ってきたときのみ。
あれから3時間も経っている今、その台詞が出てくるのは、おかしい。
だが、彼女の中ではおかしくなかった。
それは、なぜだ?
彼女は、いったいいつから、この世界に戻ってきていた?
「ふ、ふーが、くんっ、わたし、わたっ、わたし――」
「カノ――」
駄目だ。
彼女は、いま、壊れかけている。
思わずその小さな身体に、手を伸ばし――
――バシュンッ!!
そうして、カノンは、俺の目の前で、
――この世界から消失した。
ザァァァァァ――――
ここは……入ってきたのと同じ場所。
拠点の真南の、亀裂の場所。
カオリマツの樹林、依然として降り頻る雨。
すっかり冷えきった頬を撫でる――冷たい空気。
外界の空気、だ。
(……なんとか、出て来られた、か……)
……いやぁ、焦った、焦った。
入ったはいいけど、出るときのことはあんまり考えてなかった。
内部が無数に枝分かれしていたら、たぶん詰んでたな。
訂正。詰んでたかもしれんな。
枝分かれに備えて、入り口近くにアリアドネの糸でも結んでおくんだった。
閉鎖空間かつ暗闇の中で迷子とか、いくらなんでも発狂しかねない。
丸一日も経てば、自殺ボタンに手を伸ばしたくなっていただろう。
いやでも、丸一日経ったら水不足で死ぬのも目前だよな。
やっぱり自殺ボタンは押さなくてもいいかもしれん。
もはや意地だ。俺は自ら死を選ぶくらいなら世界に殺されるのを選ぶ。
……この言い方だと、かっこ悪い奴みたいだな。執念が足りんぞ。
現実の時刻は――23:28。
入った時刻は21:56だったと記憶しているから……
だいたい1時間半くらいで出て来られたのか。
体感3時間くらい経ってたような気もする。
……完全な暗闇の中だと、時間感覚が麻痺してしまう。
精神が崩壊する前に出て来られてなによりだ。
(……ふぅ)
いやしかし――なんとか、うまくできたな。
心の中で、安堵の溜息を一つ吐く。
視界のまったく効かない探索は、『犬』以来ほとんど覚えがない。
4年も経って、すっかりその辺の感覚が錆び付いてるかと思っていたが――
(……案外、忘れないもんだな)
意外とはやく勘を取り戻すことができた。
極限状態の感覚は、けっこう深く脳に刻まれているものらしい。
今回は【危機感知】に【聴力強化】と、自分の力だけじゃないブーストも掛けていったから、思ったよりもやりやすかったのも大きい。
亀裂の中に入ってしまえば雨音も遠くて、ものすごい静かだったのもありがたい。
なにかしらの生き物に襲われることもなかった。
それを考えれば、今回の暗闇探索は、割とイージーモードだったのかもしれない。
……しかし結局、カノンはどっちに反応したんだろう。
この亀裂の先にあったものか、それとも。
この亀裂の中にあったものか。
普通に考えれば中にあったものなんだけど……あれ、かなり脇道を進んだ先にあったからな。
亀裂の入り口付近から覗き込んで、その気配を捉えられたとは到底思えない。
となると、亀裂の先にあったものになるのだが――
(……。)
……うん、そちらの方が、いろいろと納得できる。
亀裂を覗き込んだ時のカノンの仕草、カノンの言葉。
そのすべてが、一本の線で繋がる。
それどころか、俺がずっと奇妙に思っていた、最近のカノンの振る舞いにも。
……それは、望ましいことだと思う。
カノンは変わっていないと思っていたけど。
ちゃんと変わっていた。強くなっていた。
それを強さと言っていいのかはわからないが。
いまのカノンは、それを自分で選び取ったのだから。
「……けっこう時間食っちゃったな」
さっきは1時間半くらいで済んだとか思っていたが、本来帰るつもりだった時刻よりは大幅に遅れている。
この亀裂の調査に思った以上の時間が取られたせいだ。
まさか亀裂の先だけではなく亀裂の中も調査する必要があるとは思わなかった。
先だけなら、たぶん30分も掛からなかったと思うのだが……。
ええい、目的は果たしたのだ、さっさと帰ろう。
べちゃべちゃに濡れている衣服は……着るか。
抱えて持つ方が面倒くさい。
ブーツもグローブもぐちゃぐちゃだが仕方ない。
ここから拠点まで、あと20分ほどは歩かなければならないのだ。
ザァァァァァアアアアアア――――
(あー……うるさい)
鋭敏になった聴覚に、無遠慮に入り込んでくる数多の騒音。
地面をバラバラと打つ雨音が、耳朶に突き刺さる。
今クラクションでも鳴らされたら、俺の聴覚は容易く破壊されるだろう。
雷とかも勘弁したいところだ。
周囲で10kg分ほど花崗岩の塊を見繕い、革袋の中に放り込む。
ずしりと肩にかかる重さ。手で抱えて持つにはかなり重い。
だが肩に掛けてしまえば、意外と持つことができる。
どこかの民族は、頭の上に水瓶を載せて運ぶらしい。
昔の日本人だって、一俵60kgの米俵を複数背負って運んだだろう。
彼らのやり方を真似すれば、俺にもできない道理はない。
いざ、拠点へ帰還っ!
……。
おっも……いし。
ずぶぬれで、気持ち悪いし……。
*────
雨の樹林帯を歩き続けること約20分。
ようやく、カノンの脱出ポッドまで戻ってきた。
マップの光点を見ればよいので、帰路を迷うことはない。
迷うことはなかった、が――
「うだぁぁぁ――疲れたぁぁ……」
いや、疲れた。
亀裂の探索で精神をすり減らした後、今度は20kgの荷重を背負っての雨中行軍だ。
疲れない方がおかしい。俺は従軍兵士ではなく貧弱な現代人だぞ。
それでもなんとか歩き切れたのは、たぶん【運搬】先輩のお力添えあってのことだろう。
これならいっそ【石工術】を外して【旅歩き】をつけてきた方がよかったかもしれない。
でも石工術のアシスト感覚も掴んでおきたかったんだ。
技能スロット拡張したい……拡張したくない……?
今作では6つに増えたりしない?
どこかのイベントかなんかで増えてくれないかねぇ……。
そうして、脱出ポッドの前面に回り込み、
――脱出ポッドの入り口付近のランプが、緑色に点灯しているのを見る。
(――……っやばっ!!)
それは、脱出ポッドの中に、プレイヤーがいることを示すサイン。
この脱出ポッドの中に入ることができるプレイヤーは、二人しかいない。
俺か、カノンだ。
つまり、カノンがいるということだ。
カノンが、この世界に戻ってきているということだ。
……くそっ、やらかしたっ!
亀裂の探索に集中しすぎて、戻るのがかなり遅くなってしまった。
俺がこの脱出ポッドを出てから、……どれくらいだ。
たしかこの世界にダイブインしたのは、20時30分前後だったよな。
現在時刻は――23:49を示している。
かれこれもう3時間ほど経過しているということだ。
カノンが戻ってきた早さによっては、かなり待たせてしまっている可能性がある。
脱出ポッドのハッチを、コンコンと叩く。
そして、声を掛ける。
「カノンっ、ただいまっ!」
……。
ハッチの向こうで、なにやら物音がする。
やはり、カノンは戻ってきているようだ。
そうしてゆっくりと、脱出ポッドのハッチが開かれ――
「おかえりっ、フーガくんっ」
花咲くような笑顔で俺を迎える、カノンの姿を見た。
*────
――安堵。
今感じているものは、ただひとえにそれに尽きる。
カノンのおかえりにただいまを返し、一度ハッチを閉めてもらう。
濡れ鼠だし、今回も洗浄室側から入ろう。
ずぶ濡れの衣服に、石材の入った革袋も同様だ。
洗浄室で身体を乾かしながら、先ほどのカノンの様子を思い返す。
体調不良という感じは、しなかった。
なにか不安を感じているということも、なさそうだった。
あまり待たせてはいなかったのだろうか。
それならよいのだけれど。
摩耗した精神と身体が、洗浄室で禊がれる。
……やっぱりありがたいな、洗浄室は。
雨に濡れて帰ってくるたび、このありがたみを感じることになるだろう。
風呂に入るたびに気持ちいいと感じるのと同じように、この感謝の念は絶えそうにない。
そうして洗浄室の扉を開け、脱出ポッドの中へ。
「……お待たせ、カノン」
「んっ、お疲れさま。フーガくんっ」
弾むような声で、言葉を掛けてくれるカノンの姿を見て、再びの安堵。
どうやら俺は思っていた以上に、カノンのことを心配していたらしい。
それとも、あの亀裂の暗闇の中で精神をやつしたからだろうか。
元気そうなカノンの姿に、びっくりするほどの安堵を覚える自分がいる。
「岩石資源を補充しようと思って岩場まで行ってきたんだが。
……いやぁ。降られた降られた。ずぶ濡れだよ」
「んっ。お疲れさま。その革袋の中に、入ってる、の?」
「そうそう、20kg分くらいはあるぞぉ」
革袋から出して、採ってきた岩石を圧縮ストレージの中に安置する。
これでまたしばらくは、岩石系の資源に困ることはないだろう。
「ここから南の岩場で取ってきた、花崗岩?」
「そうそう。あと、例の岩塩入りの玄武岩もあるぞ」
圧縮ストレージを閉める。
そうして、乾かしたレザーコートを衣類スタンドへ掛ける。
――ふぅ、これでようやく、ひと段落だな。
「ここからちょっと、距離があるところ、だよね」
「んっ、まぁ確かにそこそこあるな」
「だいぶ急いだ、かんじ?」
「ん?」
……急いだ?
いや、別に急いだ記憶などない。
むしろのんびりと歩きすぎたくらいだ。
「戻ってくるの、早かったから」
「そうかな?」
カノンは俺がいつから出かけていたのかわからないから、そう思うのかな。
3時間近くかかっているから、早かったということはない。
「んっ。でも、早めに戻ってきてくれて、嬉しい」
「……おう。俺も、カノンを待たせなくてよかったよ」
カノンがいつ頃こちらに戻ってきたのかはわからないが、あまり待たせなくて済んだらしい。
それならよかった。悠長に亀裂の調査とかしてたからな。
……そういえば、亀裂を調べてきたこと、カノンに話すべきかな。
話すべきだろうな。
「どうしても気になったんだ。黙って調べに行ってごめん」と素直に言えばいいだけだ。
それは、できるだけ早いほうが良いだろう。
そんな決心をひそかに固めていた俺に、カノンがはにかんで問いかける。
「それで、フーガくんっ。――今日は、なにする?」
……。
――ん?
「フーガくん、早めに戻ってきてくれたから。
まだ、けっこう、遊べる時間、ある、よね」
……。
――は?
「明日もおしごとなら、あんまり遅くまでは、ダメだけど。
昨日くらいの時間までなら、だいじょうぶ?」
……まて。
――なんだって?
「か――カノン?」
声が、震えてしまう。
脳が、ちりちりする。
……なんだ。
――なんだ、これは。
思考が痺れる。
頭がくらくらする。
なにが起こっているのか理解できない。
なにを言っているのかが理解できない。
こちらに微笑むカノン。
楽しそうにするカノン。
……カノン。
――カノ、ン?
だいぶ急いだ、かんじ?
戻ってくるの、早かったから?
まだ、けっこう、遊べる時間、ある?
昨日くらいの時間までなら、だいじょうぶ?
昨日って、何時頃にダイブアウトしたっけ?
「――もう、日が変わる、ぞ?」
後悔した。
その言葉さえ口に出さなければ。
魔法が解けることなどなかったのに。
「……えっ?」
いまの時刻を確認した彼女の表情が、
「……あ、れ……? わた、し……?」
凍り付くことなどなかったのに。
「――ッ! カノン、落ち着け」
目の前で、固まってしまった少女。
その唇は、心なしか青い。
その顔色は、心なしか白い。
外から戻ってきて、脱出ポッドの明かりに照らされて。
たまたま、そう見えるのだと思っていた。
暗順応した俺の目が、色を歪めて見ているのだと。
……だが。
――そうでないと、したら?
「あれ……? なん、で……?」
「カノン、大丈夫。大丈夫だ――」
俺が戻ってくるのが早かった?
どうして、カノンはそう思ったんだ。
そう思える根拠はなんだ。
簡単だ。
彼女が、俺が出ていった大まかな時刻を知っているからだ。
だが、それは直接見たわけではないはずだ。
俺が現実世界で、カノンにメッセージを送った時刻。20:34。
その時間が、彼女の知る基準点。
少なくともその時間よりは後に、俺はこの世界へダイブインし、外出した。
そのあとで、カノンがこの世界に来た。
そのあとで、戻ってきた俺を迎えた時刻。23:49。
だから、
『戻ってくるの、早かったから』
その台詞は、おかしい。
その台詞が正しくなるのは、俺が20:34からそれほど遠くない時刻に、この脱出ポッドに戻ってきたときのみ。
あれから3時間も経っている今、その台詞が出てくるのは、おかしい。
だが、彼女の中ではおかしくなかった。
それは、なぜだ?
彼女は、いったいいつから、この世界に戻ってきていた?
「ふ、ふーが、くんっ、わたし、わたっ、わたし――」
「カノ――」
駄目だ。
彼女は、いま、壊れかけている。
思わずその小さな身体に、手を伸ばし――
――バシュンッ!!
そうして、カノンは、俺の目の前で、
――この世界から消失した。
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機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
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