武蔵野酒乱日記

朝霞瑞穂

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俺は中年酒乱

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「へえ、ここって霧が多いところからこの朝霞という地名になったのかと思っていたが、やんごとなき方の名前から取っていたんだ」と、おれは感心した。

 教えてくれたのはこのスナック「奈美」の常連である吉村氏。俺の酒友である。書籍の編集者をしているとかで、知的な感じがする男だ。
「奈美」はカウンター席とテーブル席が2卓のこぢんまりとした店だ。住まいの近場にあるのでちょくちょく寄っている。
「私もそう思っていたわ」と、スナックのママ。ちなみにママの名前は「奈美」ではない。先代の後を継いだのだという。
「そのまま地名にするには恐れ多いということで、同じ音の漢字で一文字変えたんだがそれが霞という字なんだ」

 吉村氏が言うには、当市朝霞市の中心部はかつて膝折宿というなんか嫌な名前の宿場町だった。なんでも足利義政のお抱え絵師の馬がその付近で走行中足を骨折して死んだ、というのがその名の由来なのだという。さらにふんだりけったりなのが、その絵師は盗賊に襲われ、命からがらその町に逃げ込んだという悲惨なエピソード。なんでそれを町の名にする。東武東上線の朝霞駅も元は膝折という駅名だったとか。

 そうそう、なんで膝折から朝霞の名になったかというと、その由来がゴルフ場にあるのだという。名門ゴルフ場「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉という秘境にある膝折村への移籍がきっかけとなり、村名を改称、昭和7年5月1日、朝霞町が誕生した。その名の改称にあたって、膝折の名があまりに不吉だということで、当時「東京ゴルフ倶楽部」の名誉会長であった朝香宮殿下の名をいただき、朝霞となったのだ。
「しかし吉村さんは何んでも詳しいですね。郷土史にも詳しいとは」吉村氏は俺より年上なのでいつもさん付けだ。
「まあこの町ではネイティブの地元民だからな」
「それに引き換え俺は20年ばかり前、東京から埼玉に移民してきたばかりの新参者というわけか」みたいなところでこの話題は立ち消え。なにか別の話題で盛り上がった。

 次の朝、十何年か住んでいる団地で目を覚ます。
 スナックで吉村氏と朝霞市の名の由来を話した記憶はあるがそれ以降はぶっ飛んでいる。楽しかったという感情だけは残っているが、内容を覚えてないのがもったいない。そこまで飲むのを毎回反省はする。自己嫌悪に陥る。不幸中の幸といえるが二日酔いの症状はない。

 若い頃、都心部で飲んで駅前の広場の地べたで目が覚めたことがあった。その時、ホームレスと思しき男性から何か缶のコーヒーをもらったことを覚えている。
 60にならんとする今、流石にそんな飲み方はしない。外で飲むにしても歩いて5分の「奈美」か。そのスナックも、今回はインフェクションでの規制で久しぶりだった。「奈美」は埼玉県インフェクション防止対策協力金なんとかやってきたとママがいってたな。

 酒で記憶をなくしてばかりだ。年に数度は渋谷とかで旧友数人と年に何回かは飲むのだが、毎回記憶を無くして会話の内容が残らない。せっかく旧交を暖めているというのに何やってんだ俺は。毎日の家飲みでも記憶を無くして朝を迎える。外で飲んでもとりあえずウチには帰っている。しかし外でもウチでも記憶をなくす。

 その旧友の一人に、凄まじい酒の逸話がある。ある時その旧友は道端の草むらで寝ていた。無論酔い潰れてだ。目が覚めてここはどこだと混乱して道の中へ走り出した。そこに運悪く車が走ってきて跳ねられた。旧友に車が背後から激突、旧友は宙を舞いボンネットを越え後頭部からフロントガラスに飛び込んだ。フロントガラスは大破。運転手は驚愕しただろう。しかし旧友は無傷だったそうだ。酒のマジックか。

 俺も酒で問題行動を起こすのはたまにあるのだが、何とか酒の上での笑い話で済んできた。いや、今の時代それも許されなくなってくるだろう。酒で逮捕されたり、行き倒れて凍死するのは嫌だ。昭和の時代「酒の武勇伝」なんてことばがあったが、許されなくなる時代になっていくんじゃないか。喫煙がそうだ。昔は職場の机に灰皿があり、空間はタバコの煙で満たされていた。今では考えられないことだ。今はパチンコ屋ですら吸えなくなっている。
 
 昭和51年に作られた俺の住まいであるこの団地。東武東上線朝霞台駅および武蔵野線北朝霞駅から徒歩5分。15階建。大友克洋氏の漫画「童夢」の舞台となった団地に似ている。そこが我々の住まいだ。我々というのは、この部屋のもう一人の住人、明美がいるからだ。
 明美は、前は東武東上線鶴ヶ島駅付近の一人暮らしの叔母のマンションの一室を借りて住んでいた。何でも、いずれ叔母にマンションを譲ってやると言われたからだというが、何かあったのか「もう耐えられない」と言って俺の住む団地の部屋に転がり込んできた。

 明美と知り合ったのは10何年か前。ちょうど父親が亡くなったころだ。俺たちは花のバブル世代の同世代。若い頃にダブルインカムノーキッズ、略してディンクスなんてことばが流行ったがそんな感じだ。結婚はしていない。二人とも住民票的には世帯主だ。二人とも収入はあるが、家計を一緒にするということはない。だから内縁とも違うかな。

 朝食は明美と一緒に作る。俺はコーヒーと卵料理の係だ。平日は目玉焼きを作るのだが、明美は黄身がきちんと固まっていないと気が済まず、俺は、黄身はトロトロがいい。そこで時間差で卵をフライパンに投入するテクニックがいる。長年やってるので慣れたものだ。明美はサラダとヨーグルトとパン類を揃える。俺はバンが苦手でもっぱらオールブランなどのシリアルとかオートミル。「鳥の餌みたいね」とは明美の弁。これが二人の朝食。そして通勤。俺が先に出る。なぜか明美は毎朝万歳をして送ってくれる。

 地元は、武蔵野線の北朝霞駅、東武東上線の朝霞台駅の両駅が乗り換え駅となる地で、便利な土地柄だ。乗り換えには雨にもぬれずその距離1分もかからない。
 半面、通勤途中にある新秋津駅・西武池袋線秋津駅間で乗り換えとなるんだがそれがもう不便。せまい公道を7~8分歩いて乗換する。これは東京圏の駅間乗り換えでも首位に入るくらいの長距離とか。
 秋津駅に向かう道は、朝日の逆光の中わらわらとやってくる人の群れでまるでゾンビ映画のようだ。
 そこでは毎日5万人もの人が行き交い、風雨にもさらされる。車道歩道の区別もなく往来する人であふれ、車がろくにとおれない。人流の中を自動車や自転車が人と接触しそうになりながらノロノロと動いている。通行人どうしで肩がぶつかってケンカになっている場面を何回か見かけた。
 この乗換問題の改善を目指し国土交通省関東運輸局が主体となり「秋津駅・新秋津駅の乗り換え利便性向上検討会」というものが作られ色んな案が検討されたという。秋津駅・新秋津の駅のホームをつなぐ直通通路の計画もあったようだが、地元商店街の反対もあり、頓挫したとか。
 駅間を結ぶルートはいくつかあり、俺の使うルートの観測範囲内には立ち飲み屋さんが4軒あはる。そのうち秋津駅前の店は緊急事態宣言や蔓延防止の最中も営業を敢行しており、賑わっていた。なんか怖かった。ほかの3軒はインフェクション下での規制期間中営業自粛しており、そのうちの1軒は、すべての規制が解除されても飲み屋は再開せず、唐揚げなど総菜の店頭販売のみになっていた。 

 会社からの帰りにはそんな秋津の立ち飲み屋さんに引っかかりたくなるが、常連が多そうで気後れして入ったことがない。明美も飲む方なので、ここ十年はもっぱら家飲みである。外で飲むのは、規制解除されるタイミングをついて出かける近場のスナック「奈美」くらいか。
 秋津駅のホームには、埼玉県と東京都の県境があり、右足を東京、左足を埼玉におきながら電車を待つことができる。
 10年前に転職してからずっと武蔵野線と西武池袋線を使っている。
 武蔵野線。沿線の鉄塔の写真を掲載した小説があったな。あれはアニメーション「新世紀エヴァンゲリオン」の影響があっなのかな。読んでないけど。武蔵野線の車窓からの風景を見るのも転職以来だからもう10年になるか。朝の通勤のお気に入りは左側の窓からの風景で、晴れてる時は富士山も見ることができる。

 などと、一日の仕事を終えた会社の帰りの電車でつらつら考える。毎日の買い物は俺がしているので、明美にショートメールで本日の買い物を聞く。買い物は大概朝食の素材。「レタスとゴマドレ、トマトをよろしく」と、返事。
 本日の買い物とともに家飲みのつまみを買うためスーパーに寄ってから団地に帰る。明美は明美で自分のつまみとなる食べ物を買って帰る。俺はインフェクションにより時差出勤をしている。規制が解けてもそのまま時差出勤は続いている。会社は平均年齢が60以上。デジタルトランスフォーメーションどころかパソコンを使えるのが俺だけのため、リモートワークなど縁遠い。朝は5時台に出て、早めに退社する。家に帰り着くのは夕方6時前。

 さあて家飲みだ。
「会社の倉庫が新座にあるんでバスで行ってるんだが、膝折っていうバス停があるんだ。スナックで聞いたんだがそもそも朝霞市の元の地名は膝折村っていうんだってな。なんかまがまがしい地名だな」
 俺は吉村から聞いたネタを冷凍庫で冷やしたジョッキでストロングゼロをやりながら明美に披露した。
 俺は東北育ちで18の時上京、品川に住んでいた。この地埼玉に来たのは20年前という新参者。明美は埼玉の奥地鶴ヶ島育ちで埼玉はホームグラウンド。そんな埼玉ネイティブ人にちょっと聞いてみたくなったのだ。
「前に私がいた鶴ヶ島市にも脚折町という地名があるよ、脚が折れると書いてすねおり。なんでもヤマトタケルの東征の時、人馬が足を折った地という事にちなんでいるとか。膝折とともにこれらは一対としてあったそうね」「なんか運命的だな。しかし埼玉ってそんなに足や膝が折れるような土地柄なのか」「大袈裟よね」「富士見市には水子という地名もあるよ。東武東上線のみずほ台の駅名も最初は「水子駅」という名前で考えられていたようなの」「語感が似ているが……。重い地名だな」「水子と言っても流された子供のことじゃなく、湧水が出たからみたい」

 ストロングゼロを飲み終わると俺は2リットルペットボトル入り焼酎をグラスに半分くらい注ぎ、炭酸水で割って飲みだす。夜9時くらいまで杯を重ね、次第に泥酔してうとうと。時差出勤のせいかアルコール量は増えているだろう。「布団で寝てよね」と、明美の声を受け、俺はよろよろとトイレに向かい用を足して寝床に向かった。
 
  ✳︎
「ジャズバー『停車場』ってあるだろ。ジャズの生ライブやってる」と、吉村氏。例によってスナック「奈美」での夜。氏はハイボールをやっている。スナックのママは、お任せのおつまみを作っている。俺と吉村氏が「いちいち注文するのが面倒くさい」「そうだな」と言ったところからら、常連の俺達には適当につまみを準備してくれるようになった。
「朝霞台駅からおりてすぐにある古びたビルに入ってるやつでしょ。バス停の時刻表みたいな案内板がたってますよね」俺はお通しのナッツをつまみ、ジム・ビームのロックをやりながら答える。「ジャズとかなんか朝霞みたいな埼玉の地方都市にはあわないような。横浜みたいな街のイメージかな、ジャズのライブなんて」

 朝霞市にはロードサイドっぽい回転ずし、ファミレス、家電量販店、チェーンのコーヒー店みたいなのが似合う、と勝手に個人的には思っている。「停車場」の入る古びたビルにはレトロな純喫茶が入っており、一度行ったことがある。実にいい雰囲気の店だった。用件がスマホのバッテリーの交換だったことが残念。調べたらその喫茶店でバッテリーの交換もやっているとのことで、依頼したことがあるのだ。少しの時間しか立ち寄ってないが、いい雰囲気の風格のある店で、朝霞の地にはそぐわないかもしれない。ごめん朝霞。

「そうでもないぞ。実は朝霞は日本のジャズ普及の地と呼ばれていたんだ。朝霞市の栄町には現存する店としては日本初となる『ジャズ喫茶海』がある」吉村氏はカシューナッツを口に放り込んで言った。
「それは意外過ぎる、嘘でしょう」俺は飲む手が止まった。
「朝霞には戦後、米軍占領下の時代米軍基地キャンプ・ドレイクがあったからなんだが……。朝霞市にあった米軍基地返還後は、横浜のアメリカ海軍住宅跡地という設定で、あぶない刑事シリーズのロケで結講使われていたんだな。戦後の朝霞には横浜の雰囲気があったんだよ。基地の名残として。それどころか戦後アメリカ統治下においては朝霞は『日本の上海』と言われていたんだぞ」
「上海というと進んだおしゃれなイメージがあるな。埼玉と上海はどうもあまり、マッチしないような。ジム・ビームおかわり」
「いや、かつての上海は魔都と呼ばれたように犯罪と欲望が渦巻く混沌とした都市だったんだ。朝鮮戦争の時の時、朝霞のキャンプ・ドレイクには休暇に返ってきたアメリカ兵がたくさんいた。戦争は兵士の心を病ませてしまう。それが暴力沙汰や、売春の横行などに反映してして、基地周辺の町の治安が悪化した。半面、米兵相手のジャズバー、ビヤホール、キャバレーなどで朝霞は栄えたんだ。そこから埼玉の上海。そういわれたんだとおもう。上海には不平等条約により、20カ国以上の人間が治外法権を持つ外国人居留地があった。それが魔都と呼ばれるような不法が横行することにつながった。戦争、そして異文化が交流するところには混沌がうまれるのさ。ママ、俺もハイボールおかわり」

「20年住んだ俺には何もないように見えていたが、朝霞にもそんな重い歴史があったんだな。平凡なベッドタウンかと思っていたが、かつては光と影のコントラストの強い街だったんだ」アルコールで煮しまりはじめた俺の脳は、吉村氏の濃い話を受け止めきれなくなり、わかったようなわからぬようなセリフをつぶやいた。でも俺はジム・ビームさらにおかわりするんだな。そして今日のおつまみのまず第1弾。ここでは乾きものだけでなく、ちょっとした一品をだしてくれる。きようは「白子のバターソテー」か。ふむ、ウイスキーにもあうが、ここは日本酒にチェンジするか……。
「朝霞も沖縄と同じ基地問題を抱えていた街だったんだよ。まだ一部、日本に返還されてない地域さえある」

 吉村氏は俺より少し年齢は上だから60はとうに過ぎているはず。それでもしらけ世代。米軍占領下の時代なんか知る由もないだろう。
「実は、俺の父親はアメリカ統治下の時代米軍基地で働いていたんだ。親父の話をよく聞いてたよ」
 と、吉村氏の父親の話を聞くうちに俺の脳が生き絶えてきたような気がする。それはそうと美味いなこの白子。「これふぐのじゃないよね」「そんな高いの出せないわ、マダラよ」と、ママ。そして暗転。
 
 次の日、また俺は後悔と自己嫌悪。吉村氏の話はもっと続いていて興味深かったかもしれないのに、後半ぶっとんでいる。なんか吉村氏に失礼なことはしていなかっただろうか。心配になった。氏にショートメールを送ってみる。返事。「トラブルなんて何もなくずっと話をして、普通に帰ったぞ」とのこと。今月は何回酒で記憶をなくした。今に始まったことではないが。

 酒の場ではトラブルがつきものだ。俺は経験的にそれを避けるための作法を作っている。世間でも言われていることだが、酒の場では、宗教、政治イデオロギー、野球の話はしないことだ。一度、「奈美」で、吉村氏と仏教の話をしていたら、居合わせた見知らぬ客が「親鸞聖人が」と割り込んできたことがあった。酒の場では知らない客と話すのも面白く酒場での醍醐味だ。しかしその時は一向一揆にまで話題がさかのぼり、博識の吉村氏が応戦。俺は置いてきぼりを食い、ママも話を仕切れず、一晩中浄土真宗の論戦が交わされたことがあり閉口したことがあった。そんなこともあり俺はマイルールを作ったのだ。
 
 俺はかつて休肝日を作っていた。
 もう3年前になるのか。
 2019年12月、原因不明のインフェクションが発生した頃。その時も酒で記憶を無くしてばかりだと不安になっていた。少し調べると記憶を無くすのはアルコール依存症の症状でもあるとのこと。
 アルコール依存症専門の病院はあるようだが、依存症の場合、断酒が必要になるとのことで俺は気後れし、休肝日外来のような都合の良いものはないかと調べ始めた。朝霞台・北朝霞駅が近接する付近にもいくつか心療内科があった。土曜やってるようなので行ってみようと考えた。

 そして土曜日。駅前に向かうが、依存症と言われるのが不安でクリニックのビルまで足を踏み出せない。駅前をうろうろする。「もう11時か」ふと、ちょい飲みを売りにしているチェーン店の中華屋が目に入る。「一杯ひっかけてその勢いでクリニックに出張るか」
 今にして思うと異常な思考だ。酒で悩んでいるのに酒を飲んで医療機関に向かうなんて。しかしその時の俺は不安をなくすため、その店でホッピーセットを頼んだ。頭がハッピーセットになっていたんだと思う。ホッピー自体はノンアルコール飲料だが、焼酎をそれで割って飲むもの。庶民が高額なビールになかなか手を出せないところから開発されたようだ。ホッピー一本で焼酎をおかわりしながら3回くらいで割って飲むのが基本で、おかわりの焼酎のことをナカという。俺はナカを5回重ねて頼んてすっかりできあがった。できあがったといったが、酒を飲んでできあがるとはどんな状態なんだろう。ともかく俺は酒で勢いをつけ、心療内科に突進した。馬鹿だね。その心療内科は、駅前の居酒屋やクリニックが入るビルの上階にあった。俺はエレベーターに飛び乗りドアが開くのを待った。開いた。真っ赤な顔をしていたであろう俺は中に入ろうとすると……。なんだこの待合室の人数は。怖くなるほど人がたくさんいた。窓口で言われたのは「予約で当分一杯です」
 俺はとぼとぼと帰りについた。
 団地に帰り、ネットのアルコール依存症スクリーニングテストを試してみる。結果は「依存症の恐れがあるので医療機関に相談しろ」とのこと。まあこういうネットのテストだと大袈裟に結果を出すものだろう。

 これまで試しに酒なしで寝たことがあり、その時は寝付けなくて、朝方うとうとしてスマホの目覚まし音で起き、睡眠不足となった。そんなことで休肝日には睡眠薬が必要だと感じていた。睡眠薬は医師の処方箋が無くては手に入らない。
 ネット検索でようやく予約できる医療機関を探し当てた。もうアルコール依存症に対処できるか関係なく睡眠薬を処方してくれるところならどこでもよかった。練馬区の職場近くにあるようだ。最近開業したばかりで、患者の数が少ないみたいで、電話して即、予約が取れた。なんだかごきげんな名前のクリニックだった。

 2020年1月16日、日本で初のインフェクション確認のニュース。この時は、後々歴史の教科書に残るような大ごとになるとは俺は思ってなかった。
 同年1月25日より、練馬区にある、ごきげんな名前の心療内科のクリニックに、休肝日の相談ということで通いだした。そこのクリニックは一応アルコール依存症にも対処しているとのことで、スクリーニングテストを行ってくれた。結果「依存症ではないが、一歩手前ですね」と先生にいわれる。
「酒がないと不眠になるので、休肝日のために睡眠薬が欲しいんですが、薬の害、例えば依存などは出ませんか」と聞いてみると「確かに睡眠薬は依存性がありますが、アルコールの害に比べたら薬の害なんて少ないですよ。アルコールを控えるのに薬を使った方がいいですよ」とのこと。
 先生と相談し週に2回の休肝日を設定。それをもとに、睡眠薬を処方してもらった。
 
 酒を飲むと記憶がくなり、あっという間に時間が経つ。反面、休肝日は夜が長い。酒を飲まないと長い夜を持て余す。所在ない。ただ、本を読むのは捗る。酒を飲みながらだと内容を忘れていることが多い。
 同じマンガを繰り返し読めるのでコスパがいい……のか。飲酒の時間は行き過ぎると人生から消えて、時間をすり潰してしまう。
 休肝日の長い夜を有効に活用する策を考える。本を読むのは好きなので無論本も読むが、休肝日ならではの特別感があるもの。
 その時は、俺は色々考えてウクレレを始めることにしたんだった。
「自分、テクノとかプログレとかが好きだったんじゃないの。何でウクレレなの」と、明美が疑問を呈する。ギターやシンセサイザーはハードルが高いとも言えず「俺は牧伸二のファンだ」といい、アマゾンでウクレレと教本のセットを購入。
「やんなっちやった節」をマスターするのが当面の目標だった。しかしこれ、歌詞というかネタが1500以上あるんだな……。

 同年2月5日、インフェクションを起こしたクルーズ客船「ダイヤモンド・プリンセス号」。
 このころ、スーパーやドラッグストアなどからトイレットペーパーがなくなり始めた。買いだめが始まったのだ。日本人はなぜか事あるごとにトイレットペーパーを買いだめする性質があるようだ。今回はデマがきっかけとなって日本中で始まり、あっという間に店頭からトイレットペーパーが消えた。さらにメディアが店頭での品切れを報道したことにより集団パニック状況が起きたと聞く。オイルショックの時買いだめしたトイレットペーパーのストックが残っていて助かったというツイートを見た。おれが小学生の頃のトイレットペーパーか。

 2020年2月29日、ごきげんな名のクリニック再訪。診察後、医師に「クリニック近辺でトイレットぺーパーを売っているところないですかね」と聞いてみる。俺の住まい周辺のあらゆる店頭からトイレットペーパーが消えていたからだ。クリニックの最寄り駅である高野台駅周辺を探すがどこにも無かった。

 明美にはいつも不織布のマスクの面裏の間違いを指摘されていたが、間違えずに装着できるようになった頃、俺はウクレレのコードをいくつかおぼえて弾き語りができるようになっていった。3つ4つコードを覚えれば結構弾ける曲ってあるんだな。明美は休肝日毎に嫌な顔もせず聴いてくれたものだ。

 2020年4月7日から5月6日まで埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県及び福岡県の区域においてインフェクション規制発出。この時「ほっしゅつ」ってことば、はじめて聞いた。スマホの仮名漢字変換でも変換できない。

 4月 16 日、インフェクション規制は全都道府県とされた。この頃には俺はイルカの「なごり雪」の弾き語りをマスターした。
 ウクレレでコードを押さえられるようになって気がついたが、「なごり雪」とビートルズの「レットイットビー」ってほぼ同じコード進行なんだな。印象はまるで違うが。ここら辺が音楽というものの妙味なのかな。

 当時はトイレットペーパーがない、マスクがない、消毒液がない、という小市民的危機に陥る時はあった。が、日常的には休肝日にウクレレを弾き淡々と過ごした。しかし未来から振り返れば、これは大規模インフェクショとして人類史に残る出来事なんだろうな。渦中の人間にとってはそれほどの実感はない。が、志村けん氏が亡くなった時は驚いた。
 宣言のため外で飲むことも無くなった。

 東京で都知事が都市閉鎖するなんてデマも飛び交った。おれは会社の人間から聞いた。「都庁関連の知り合いから聞いたんで間違いない」と言ってたが人騒がせな。今の日本の法律ではそんな人権制限はできないだろう。強権的な国家では人権を制限するような方策を実施しているところもある。日本では日本人の多くが持つ性格がインフェクション対策に生きたようだ。都市閉鎖もせずに、2022年6月段階でインフェクション致死率の低さで日本はOECD首位となった。国民の大半が協力する。周りへの同調。日本人は社会的な圧力によく従う。

 インフェクション規制で県を跨ぐ移動に自粛を求められクリニックへの通院も断念。これは酒飲みの言い訳だな。時差ではあるが出勤はしているし。そんなことで休肝日はなし崩しにやめてしまい、毎日酒を飲むようになった。「やんなっちゃった節」をマスターしたこともあり、その達成感で休肝日の友であったウクレレも手に取ることがなくなつた。
 これが前回の休肝日の顛末である。
 
   ✳︎
 インフェクション規制を理由にこじつけてクリニックに行かなくなった。俺はまた毎晩飲むようになった。量も増えた。
 改善したいと言い訳のようにアルコール依存症関連の本も読んだ。吾妻ひでお氏の「アル中日記」。中島らも氏の「今夜、すべてのパーて」。前の旦那さんを亡くした西原理恵子氏の著書。等々。依存症に警鐘を鳴らす本なのだが、それを酒を飲みながら読む俺はやはり馬鹿だ。

 そうしていつもの就寝時間の午後9時に寝る。明美におやすみをいい、自分の寝床に。明美とはいつしか別々の部屋で寝るようになった。俺の「イビキがうるさい」んだと。俺は酒を飲むと寝つきはいいんだ、でも午前1時くらいにいつもにが覚める。そこから眠れずムクリと起きだし酒を一杯だけやり、いや、物足りなくなる。寝るためにイヤホンで音楽聴きく。平日なら明日の仕事を危ぶんで、なんとかして寝る努力するんだが。今日は金曜。いやもう土曜日になったか。もう平日ではないということで、一杯では終わらず漫画を見ながら二杯三杯。飲んでも飲んでも酔えない時もある。そうするとカラスの鳴き声が聞こえ、外が白みはじめる。もう一杯、もう4時やんけ。寝るかどうか迷う。
 そしてインフェクションの規制も解けた現在。
 
 飲んでも酔えない時もあれば、完全無欠の酔っ払いになることもある。
 そいつは突然やってきた。そいつにとっては突然ではなく日常業務の一環なんだろう。俺はいつものように気持ちよく晩酌をしていた。

 玄関のチャイムがなる。このチャイムは滅多には鳴らない。しかも寝ようとした矢先だ。酔いのせいか腹が立った。もう寝る時間だぞ。誰がこの神聖な時間に侵入してきたのだ。
 こんなに遅く、といっても世間様より寝る時間が早いのだが、それはそれ、自分の生理時間からするとその訪問者に非常識さを感じ、玄関に向かった。

 そこには好青年がいた。

「テレビの受信料のことなんですが」好青年はそういった。もう夜も更けて9時じゃないか。なんか特定商取引法かなんかでセールスの時間って制限があるんじゃないのか。俺は好青年にそういった。なんだかよく分からないことを好青年は言った。よく分からないのは俺が飲んでたアルコールのせいか。よくわからないまま対応して、俺は、この好青年はひょっとしたら詐欺業者ではないかと思う、思い込んだ。俺はスマホで好青年の言動を動画で撮影して記録しようとした。詐欺だったら大変だからな。

 好青年は「やめてください、やめてくださーい」といって早足で逃げ出す。む、これは本当に詐欺業者では。俺はとっさに好青年をおいかけた。俺は心底酔っ払っていた。

 撮影しながら好青年に話しかける。「こんな9時過ぎに訪問してお金の話をするのはおかしいのではないか」怒鳴り声に近かったように思う「詐欺ならそんな仕事はやめなさい」俺は好青年の後をつけまわした。やつは団地を出た。俺はさらに追いかけた。俺は裸足のままだった。それでも奴を追い、団地の回りを巡りながら叫んだ「きちんとした仕事につきなさあい」

 好青年は、早歩きから小走りに加速した。

 逃げる対象をおいかけるのは、人類が狩をしていた時代の本能の名残か分からんが、ともかく俺は腹を立て追いかけ続けた。恐怖にかられたろう好青年はコンビニに飛び込みトイレに避難した。それを見た俺はとふと我に帰った。俺は裸足の上、下着のパンツで外に出ていたのか。パジャマがわりのTシャツは着ていたものの、下はトランクス一丁。トランクスでよかった。ブリーフだったら深川通り魔殺人事件の川俣軍司だ。

 いずれにしろ通報されてもおかしくない出来事だ。警察が来たら俺は連行されていたかもしれない。これはやっちまった。

 ペタペタと裸足で団地の部屋に戻ると明美が俺を探しに出ていたようで、部屋の前で出くわした。バツが悪い。
 調べたら、その好青年の会社に委託していた団体は深夜早朝訪問しても良いという特権があったらしい。すまなかった。好青年。

 暁美にさんざん絞られ、また酔っ払ったとはいえ住居周辺においてパンツ姿で好青年を説教しながら追いかけ回した事実。それが俺を人生最悪の鬱状態に引き込んだ。俺はもうだめだ。
 
   ✳︎
 酒は歴史や文化をまとったドラッグ、薬物なんだろうな。そう頭ではわかっちゃいるが、飲んでは突飛もないことをついやっちまう。
 酒を飲んで寝ることを「酔い潰れる」という言葉がある。潰れるように寝てしまうことだが、それは人生の時間を潰していることでもある。人生に長く生きているとは忘れてしまいたいこともある。故河島英五氏のそんな歌もあったな。故中島らもの氏の小説「今夜、すべてのバーで」の巻頭に小話みたいなのがあった。アフォリズムというのかな。こういうやつ。
 
「「なぜそんなに酒を飲むのだ」
「忘れるためさ」
「何を忘れたいのだ」
「……。忘れたよ、そんなことは」
 (古代エジプトの小話)」
 
 「今夜、すべてのバーで」にあったが、職人さんが、普段は手が震えているのに作業始めるときに酒をグイッとやると止まって名人芸を見せるというエピソード。水島新司氏のの漫画「あぶさん」でもあったな。バッターボックスに立つときバットへ酒しぶきをかける。震える手が酒で止まり、長打を見せてくれる。
 手がぶるぶる震えるのはアルコール依存症の象徴みたいなものだが、昭和ではあれが名人の姿として描かれていたんだ。

 俺は手こそ震えないが、休肝日を作る前は、夕方になると胃酸が逆流して、吐き気でよくえづいていたものだ。休肝日を作り、それがなくなった。しかし休肝日が頓挫し、前より酒量が増えたせいか酒の影響で寝込むほどになった。休肝日以前、休日に昼酒をした後、昼寝をすると気持ち悪くなることがあった。

 日曜日の今日、久々にやってしまった。

 昼間、明美と一緒にサイゼリアでワインとともにランチ。ただ、出かける前に、焼酎の炭酸割りを飲んだ。

 インフェクションきせいの時は外食してなかったが、蔓延防止法の時、たまに外食してたが、飲食店が酒を出せないということで、物足りないので仕方なく、家で一杯ひっかけてから出かけていた。規制がなくなってもそれが悪い癖として残った。
 ランチから帰ってフーテンの寅さんの映画を見ているうちに寝てしまった。それが悪かったようだ。

「夕ご飯作るよ」

 明美に言われて体を持ち上げるがどうも不調だ。

「一人分だけ作ろう。俺は食えない」今日は野菜入りのソース焼きそばを予定していた。

「何やってんの。ならこれでいいわ」明美は少々機嫌が悪くなり、取り置きのシーフードヌードルを作るために、お湯を沸かした。

 明美がシーフードヌードルを啜っている時俺は居間で寝転がっていた。体が異様にだるい。食欲がない。

「今日は早めに寝る」俺は寝床に向かい、電気を消し早々に布団に入った。

「何やってんのよ」居間から明美の声。
 こんなにだるいのは初めてだ。吐き気もなく頭痛もなくひたすらだるい。アルコールのせいなのだろうか。
 眠るための音楽をいくつか聴いたが眠れない。

 明美が髪を乾かす音。

 まだ眠れない。隣の部屋のラジオの音が止んだ。明美は、日曜日の夜からは長年ファンをしている歌手のやってるラジオを聴いてから寝る。

 明美は寝たらしい。体は不調だがなんとなく酒を欲し台所へ。アルコール9パーセントの酎ハイの缶とグラスを持ち寝床へ。飲んでいたら体調がみるみる回復。迎え酒の理屈みたいなものだろうか。アルコールで中枢神経系が抑制されて神経が鈍るため、症状が抑えられるように感じるという。症状の原因であるアセトアルデヒドは減るどころか、新たな飲酒で増えるため、後でもっと酷い目に遭うやつだ。明日が怖い。俺は、手は震えないものの名人の域に達してきたのだろうか。

 続くアルコールのトラブル。

 それに加えて健康診断の血液検査の結果が出た。これまで肝臓の容態の悪さを示すγGDPの数値だけは正常だった。それに希望を持ちさんざん飲んできたのだ。しかし今回の数値は医療機関に相談しろというような数値だった。

 こうなるとアルコールを制限しなくてはならないと感じる。しかし断酒に踏み切るのは相変わらず覚悟が足りなかった。また休肝日設定するしかない。週に二日だと毎日飲酒から3割くらいアルコールを制限出来る勘定だ。最近では依存症は断酒だけではなく減酒という考え方も出てきたようだ。俺は都合の良い理屈を考え始めた。

 休肝日を再開するとなると不眠対策がいる。睡眠薬が欲しい。

 俺はまたまた心療内科を探し始めた。練馬区のごきげんな名前のクリニックには前回中断して、それきりなのでバツが悪くて行けない。ネットで予約できるシステムがあるところは、すでにみんな埋まっていて取れず。あちこち足を運んでみたが、既存の患者の予約をこなすのが精一杯のところばかりだ。既存の患者が多すぎて初診受け付けができないクリニックもあった。我が国の心療内科はこうも需要があるのか。普通の内科にも行ってみたが、カテゴリーが違うらしく追い返された。

 クリニックではなく入院施設のある病院をあたってみた。そうするとある精神科の病院が週に2回外来を受け付けているようだ。しかも結構近くにある、いわゆる精神病院。休肝日目的では大袈裟か。電話してみると、不眠なら受け付けてくれるという。土曜日は午前中だけの診察だが、特に予約の必要はないとのこと。心療内科は激混みで、精神科の病院はすいている。精神科というと抵抗があるんだろうか。

 俺は土曜日朝一でシンプルな名前の精神病院に向かった。団地から歩いて10分くらいか。心療内科のクリニックのように混雑してるかと思い早めに来たのだが、待合室には俺ともう一人の二人だけだった。待合室には入院している方々が書いた書画や作った作品などが展示されてしてある。

 受診を待っていると、入院患者のレクリエーションなのだろうか、合唱が聞こえてくる。あの素晴らしい愛をもう一度。懐メロがタンバリンのリズムに合わせ聞こえてくる。入院患者さんの年齢層に合わせたものなのだろうか。

 すぐに名前を呼ばれて診察室に入る。年配の先生だ。ここではアルコール依存症のスクリーニングはしないようだ。少し問診。先生は「本物のアルコール依存症なら、専門の病院を紹介しなければならないが、現状そこまでではない」という。

 不眠対策に薬を出してもらった。前に行ってた、ごきげんな名前のクリニックではジアゼバムという薬を睡眠薬として出してもらっていたが、ジアゼバムは安定剤とのことで、この精神病院ではそれに加えて睡眠薬のサイレースというのを処方してもらった。ジアゼバムはアルコールを飲まない時の不安を抑える目的。サイレースは眠るため。処方箋をもらって外の薬局で購入したするのではなく、院内で出してもらうシステムのようだ。薬は30日分だせるとのことで、休肝日は週2回だからだいぶ長い期間の分量だ。大体3か月分くらいか。

 ジアゼバムは1970年代のアメリカの抗不安薬市場を席巻した薬で、ピークの7978年には23億錠が消費されたという。アメリカは不安の国だったんだな。当時のロックミュージシャンはこのジアゼバムをはじめとするクスリとアルコールの併用と乱用で短命の人が多かった。その影響だろうが、ブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス・ジム・モリソンらが同じ27歳で死亡している。27クラブという言葉があるくらいだ。エリザベス・テイラーや、エルビス・プレスリーも愛用していた。テイラーは79歳の時心不全で亡くなったが、睡眠薬と鎮痛剤を常用、中毒だったことを告白している。アルコール依存症でもあった。エルビスが亡くなったのは42歳の時。検視が行われた時、体内からはジアゼバムの他、10種類以上の向精神薬が検出されたという。過失によるオーバードーズと言われていたが、後に意図的な自殺であった事がわかった。ローリングストーンズの曲「マザーズ・リトル・ヘルパー」にもジアゼバムは登場している。

 これらの情報は医師に聞いたのではなく、自分で調べた。説師からの説明は薬の説明は無かったのだが、ヤバそうな。薬を出してくれる薬剤師らしきスタッフに聞くと、アルコールとともに服用すると大変なことになるみたいだ。 

 筒井康隆氏の著書「創作の極意と掟」によれば、ショート・ショートの名手と知られている故星新一氏はアルコール類と睡眠薬の併用で倒れ、寝たきりになったとあった。

 睡眠薬やアルコール依存症のエピソードがある創作者には若くして「故」がついていることが多いなあ。
 本来の薬効の他に、酒を飲んだらアウトになる薬として心理的ストッパーとして働いてくれるかもしれない。
 俺はそんな剣呑な薬を大量に抱えて団地に戻った。
 さて、これから休肝日の時は、酒がない長い時間と向き合わなくてはならない。どうしたものか。
 

   ✳︎
 酒のない休肝日には、酩酊していない時間と向き合わなくてはならない。
 つらいこと。いやなこと。生々しい現実とそのまま向き合う事になる。
 しかし俺はもう60になる。あと何年寿命が残ってる。このまま酒で時間を潰していっていいものか。

 こんどはうまくやるぞ。休肝日。

 
 
 
 
 
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