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01 悪くない
しおりを挟む朝。
アネット・デュラックは、目を覚ました。
薄暗い視界に見えるのが「知らない天井」ではなく「知らない壁紙」なのは、横を向いてベッドに転がっているからだ。
寝床がどこであっても、左を下にして眠る習慣は変わらないらしい。
「…………」
腰までシーツを被った体はランジェリーだけを纏っている。
横になった剥き出しの肩が視界の端に入る。寒々しい。
実際には寒くない。
観光シーズンの七月、王国南沿岸部の港湾都市が寒い筈はない。
ここは世界有数のマリンリゾート、サン=ブロワーズだ。
段々と意識がハッキリしてきたアネットは、そろりと上半身を浮かせた。首を回して背後を窺う。
精悍な寝顔が、こちらを向いていた。太く男性らしい鎖骨を晒している事から少なくとも上半身裸なのは分かる。腰から下はシーツで見えない。
潮に焼け、少し荒っぽい肌質には成熟した「海の男」特有の色気が漂う。
寝息も何も聞こえない。静かだ。アネットと共有中のシーツが、彼の呼吸に合わせて上下していなければ「大きな水死体」と勘違いするところだ。
「テオ」と名乗った彼。愛称だろう。
本名を知らない男性と一夜を共にした。
昨日までピュアだったボディに変化が生じている。こう、腰が重い。
自分に呆れながらも、アネットは開き直っていた。
――人間、ヤれば出来るのね。
王都ではそこそこの優等生をしていたのに、大胆な事をしたものだ。
バスルームの鏡の中に見慣れた金髪碧眼の娘がいる。
普段と変わらない顔つきを確認して、アネットは安心した。強い酒を飲んだ割には体調は悪くなく、肌荒れも目の充血も見られない。何よりだ。
シャワーを浴びて服を身に着け、寝室に引き返す。
一夜の相手ことテオが、ベッドの上に座り込んでいた。
ん、とアネットを見る。
「早起きだな」
どうも、と言って肩を軽く上下させたアネットは、ベッドの先にあるバルコニー窓へと足を進めた。
分厚いカーテンを掴んで開くと、朝靄に包まれた港と海が一望出来た。
高級ホテルは全室オーシャンビューと決まっている。
コーヒーテーブルから椅子を一脚引っ張り寄せて、窓辺に置いて座る。良い景色を眺めながら歯磨きをする。
背後で「……中々マイペースだな」とテオが呟き、空いたバスルームに向かった。
彼はイケてる重低音ボイスをしている、とアネットは歯ブラシをしゃこしゃこと動かしながら思った。
アネットの歯磨きと適当なヘアメイクが終わる頃、テオはきっちりと身支度を終えて戻って来た。
凛々しい姿を目の当たりにして、アネットは改めて彼という人物を認識した。
――海軍将官。
階級章の知識などなくても制服を飾る金糸使いから、大まかな三区分で士官を見分ける事は出来る。
昨晩、テオは「二十四だ」と言っていた。二十代の若者が将官を冠するなど普通有り得ない。
貴族の出身に違いない。早いスタートを切り、実戦と実績に恵まれ、出世コースに乗った。
――住む世界が違う。
半ば惚けているアネットを見て、テオは僅かに首を傾げた。
マロン(茶色)の短髪が朝日に煌めく。切れ長の双眸は神秘的な紺碧だ。
「どうした、アネット。腹が減ったのか」
「ああ、ええ。そうですね」
ここにいる自分が酷く場違いに思えてきて、アネットは椅子に座ったままそそくさと爪先で自分の靴を探った。我ながらおおちゃくだ。
ルームシューズから華奢なストラップサンダルに履き替える。
徐にテオが歩み寄り、アネットの前で体を沈み込ませた。
ラグに片膝を突き、アネットの足に両の手を伸ばす。
「俺が」
ストラップの留め具に長い指がかかる。
アネットは少し身体を固くした。
「――、ご親切にどうも」
長身を屈めた窮屈な姿勢の彼は、チラリとだけアネットを上目遣いにした。
アネットの膝の高さに頭がある所為で、大きな犬のように見える。
低く静かな声が告げた。
「人形のような脚だ」
フックタイプのストラップを留め終えた彼は、アネットの足首を軽く掴むと、ゆっくりと摩った。
「君はとても魅力的だ」
脛の辺りに彼の吐息があたり、アネットは背筋をぞくりとさせた。
彼は、テオフィル・ジュール・ド・ラセーニュと名乗った。
ラセーニュ侯爵領と言えば、リゾートの北西に隣接する鉄鋼業の盛んな土地だ。世界トップクラスの高性能艦艇搭載エンジンの開発でも知られる。
「所詮は次男だ」と素っ気なく言う名門出のテオ改めテオフィルは、ルームサービスで朝食を手配してくれた。
ダイニングルームに移動した二人は、食卓で向かい合う。色彩豊かな食材は南沿岸部ならでは。王都で同じ食材を揃えようものなら、とんでもない金額になる。
――この部屋は一泊おいくらだろう。
考えない方が良い。どうせアネットには支払えない。目の前の彼が「割り勘で」などとケチ臭い事を言う筈はないので、有難く奢られる。
チーズの香るクロック・マダムを一口大に切り分けて、頬張る。
感動が口いっぱいに広がった。
「嘘みたいに美味しいですねコレ」
「普通だと思うがな」
「テオフィル様は、」
「テオでいい」
「では間を取ってテオ様は、」
「ん、今何と何の間を取った」
「テオ様は、南部の美味しい物を沢山食べてこられたんでしょうね」
「スルーか。まあいい。確かに俺は南部で生まれ育ち、食い物に困った事はない。アネットは王都の出身だったな」
「生まれも育ちも王都ですが、――嘘みたいに美味しいですねコレ」
「……良かったな」
本当に良かった。来て早々豪華な食事にありつけた。
リゾート暮らし二日目。衝撃の展開にはなったけれど滑り出しは悪くない。
食後、アネットは「ところで」とテオフィルに再度念押しした。
「テオ様はご結婚もご婚約もされてない、という事で間違いないですね?」
テオフィルは「無論だ」と首でもしっかり同意した。
彼の答えに、アネットは満足した。
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