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11. 世界で最も嫌われた画家
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車椅子の老犬は祖父の部屋で死んだ。10歳の庵はその死体を丹念に観察し、絵に描き起こしていた。「生きてるってことは、あたたかくてやわらかいってことなんだね」と絵を描き終えた10歳の庵が言った。
記憶を保持できない祖父は、愛犬が死んでしまったことをすっかり忘れてしまった。そして、やがて愛犬のことすら忘れてしまった。
老衰であり安らかな死に際でしたと、全身白の使用人のひとりが言っていた。その使用人の左眼は義眼だった。
その使用人が義眼となったのは、数年前のことだった。彼が長期休暇から戻ると、一見して眼に違和感があった。左眼の滑らかな動きは損なわれていて、父が訊くと義眼となったことを告白したそうだ。怪我なのか病気なのか、長期休暇は手術のためのものだったのかなど、彼は何も言わなかった。その長期休暇が明けてから、彼の業務は庵と私の身の回りの世話が主となり、稀に祖父の介護も手伝っているようだった。家族と接する機会も増え、言葉を交わすことも多くなった。ただ、散髪を毎夜しているのかと思うほど神経質なまでに整った髪と、その義眼に観察されるような感覚が苦手で、他の使用人と同様に私は彼とも仲良くなることはなかった。
祖父はその絵画の性質上、かつて悪魔と呼ばれていた。世界で最も嫌われた画家だった。「Overdose」という題名のドキュメンタリーで、39歳だった彼の個展が撮影されていた。
そのドキュメンタリーの中で、肥満な女性が似合わないドレスを身に纏い、個展の会場を闊歩していた。
「Are you proud of your son, Baker Allen? (あなたの息子であるベイカー・アレンを誇りに思っていますか?)」と撮影者の女性が質問する。
「Why not? (もちろんよ)」と肥満な女性が訛りの強い英語で答える。
「What do you think about his controversial drawings? (彼の物議を醸している絵画についてどう思いますか?)」
「To be perfectly honest with you, I don’t like his drawings. Just too much. (正直に言うと、彼の絵画は好きではないわ。やりすぎのように思う)」
「How do you raise your son?(どのようにあなたの息子を育てたんですか?)」
「Not special. (特別なことはなにも)」
「You didn’t even raise him, right? (あなたは彼を育ててないでしょう?)」
「Sorry what? (なに?)」
行き着いたのはある新作絵画の前だった。その絵画は、「Salty and Fishy」という題名だった。
彼女は絵画に自分自身を見た。思春期には美しさを追い求めていた。老年期には醜さを避け続けた。直視できなかった醜さの塊を、キャンバスに殴りつけたような絵画だった。その羞恥がいくつもの眼球に鑑賞されている。
彼女はその場で泣き崩れた。嘔吐して朝食をぶちまける。朝食に麺類を食べたらしい。
「Too much. This is too much.」
ベイカー・アレンはその吐瀉物をガラスケースで囲み、そのケースに署名をして、「The Breakfast」という題名の作品として、個展に展示した。それが物議を醸し、個展は中止された。中止された個展をドキュメンタリーで撮影した。撮影されたドキュメンタリーはその性質により発売禁止となった。発売禁止となったドキュメンタリーは流出して愛好者によって熱狂的に受け入れられた。熱狂的に受け入れられたドキュメンタリーを、一部の愛好者は芸術家としての彼の最高傑作と呼んだ。
朦朧とした老人は、世界で最も嫌われた画家だった。「Overdose」というドキュメンタリーの撮影中に、彼は車に轢かれ、頸髄を損傷した。C5と診断され、下半身の機能が損なわれた。両腕とも掌を上にして、肘を曲げる程度の機能に制限された。右手の握力はかろうじて残存していたが、左手の握力は皆無に等しく、利き手である左手で絵筆を握ることも叶わなくなった。人間として生きているが、画家としては死んでいた。
包帯でひた隠しにされた祖父の左腕を、庵と一緒に覗き見たことがあった。左腕の皮はすべて剥がれていた。ピンク色の肉が露出し、血が滲んでいた。
悪魔であったという罪により、神様の罰によって描くことを禁じられているようだった。悪魔だった頃、彼の左腕にはタトゥーが彫られていた。全身タトゥーの嬰児が擬態した彫り物だった。その墨の絵は、左腕の皮と共に削ぎ落とされていた。
記憶を保持できない祖父は、愛犬が死んでしまったことをすっかり忘れてしまった。そして、やがて愛犬のことすら忘れてしまった。
老衰であり安らかな死に際でしたと、全身白の使用人のひとりが言っていた。その使用人の左眼は義眼だった。
その使用人が義眼となったのは、数年前のことだった。彼が長期休暇から戻ると、一見して眼に違和感があった。左眼の滑らかな動きは損なわれていて、父が訊くと義眼となったことを告白したそうだ。怪我なのか病気なのか、長期休暇は手術のためのものだったのかなど、彼は何も言わなかった。その長期休暇が明けてから、彼の業務は庵と私の身の回りの世話が主となり、稀に祖父の介護も手伝っているようだった。家族と接する機会も増え、言葉を交わすことも多くなった。ただ、散髪を毎夜しているのかと思うほど神経質なまでに整った髪と、その義眼に観察されるような感覚が苦手で、他の使用人と同様に私は彼とも仲良くなることはなかった。
祖父はその絵画の性質上、かつて悪魔と呼ばれていた。世界で最も嫌われた画家だった。「Overdose」という題名のドキュメンタリーで、39歳だった彼の個展が撮影されていた。
そのドキュメンタリーの中で、肥満な女性が似合わないドレスを身に纏い、個展の会場を闊歩していた。
「Are you proud of your son, Baker Allen? (あなたの息子であるベイカー・アレンを誇りに思っていますか?)」と撮影者の女性が質問する。
「Why not? (もちろんよ)」と肥満な女性が訛りの強い英語で答える。
「What do you think about his controversial drawings? (彼の物議を醸している絵画についてどう思いますか?)」
「To be perfectly honest with you, I don’t like his drawings. Just too much. (正直に言うと、彼の絵画は好きではないわ。やりすぎのように思う)」
「How do you raise your son?(どのようにあなたの息子を育てたんですか?)」
「Not special. (特別なことはなにも)」
「You didn’t even raise him, right? (あなたは彼を育ててないでしょう?)」
「Sorry what? (なに?)」
行き着いたのはある新作絵画の前だった。その絵画は、「Salty and Fishy」という題名だった。
彼女は絵画に自分自身を見た。思春期には美しさを追い求めていた。老年期には醜さを避け続けた。直視できなかった醜さの塊を、キャンバスに殴りつけたような絵画だった。その羞恥がいくつもの眼球に鑑賞されている。
彼女はその場で泣き崩れた。嘔吐して朝食をぶちまける。朝食に麺類を食べたらしい。
「Too much. This is too much.」
ベイカー・アレンはその吐瀉物をガラスケースで囲み、そのケースに署名をして、「The Breakfast」という題名の作品として、個展に展示した。それが物議を醸し、個展は中止された。中止された個展をドキュメンタリーで撮影した。撮影されたドキュメンタリーはその性質により発売禁止となった。発売禁止となったドキュメンタリーは流出して愛好者によって熱狂的に受け入れられた。熱狂的に受け入れられたドキュメンタリーを、一部の愛好者は芸術家としての彼の最高傑作と呼んだ。
朦朧とした老人は、世界で最も嫌われた画家だった。「Overdose」というドキュメンタリーの撮影中に、彼は車に轢かれ、頸髄を損傷した。C5と診断され、下半身の機能が損なわれた。両腕とも掌を上にして、肘を曲げる程度の機能に制限された。右手の握力はかろうじて残存していたが、左手の握力は皆無に等しく、利き手である左手で絵筆を握ることも叶わなくなった。人間として生きているが、画家としては死んでいた。
包帯でひた隠しにされた祖父の左腕を、庵と一緒に覗き見たことがあった。左腕の皮はすべて剥がれていた。ピンク色の肉が露出し、血が滲んでいた。
悪魔であったという罪により、神様の罰によって描くことを禁じられているようだった。悪魔だった頃、彼の左腕にはタトゥーが彫られていた。全身タトゥーの嬰児が擬態した彫り物だった。その墨の絵は、左腕の皮と共に削ぎ落とされていた。
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