無題のドキュメント

夏目有也

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20. 地殻に潜むマントルまがいの熱

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 彼の絵画へのパッションは異次元だった。それはまるで地殻に潜むマントルまがいの熱だった。肉体的な体力がぜろになってぶっ倒れるまで、泥臭く何時間でも描き続けた。普通の生活を営むことを放棄して、風呂にも入らずアトリエにこもり、泥臭く何日でも描き続けた。
 骨と筋肉を繋ぐ腱と、腱を包みそれが滑らかに動くよう支える滑車となる腱鞘けんしょうが擦れ合う腱鞘炎の痛みに耐えながらも、いおりの描く手が止まることはなかった。
  食は絵のためのかて。眠りは絵のための休息。学びは絵のための知識。絵のために食い、絵のために寝て、絵のために学び、絵のために生きる。彼にとって、それこそが美しく生きるということだったのかもしれない。

 11歳の私は10歳の庵が絵画を描く姿をよく鑑賞していた。幼い私は、小さな鑑賞者だった。私は彼が絵画と対峙する様を、美しさと解釈していた。
 木製のパレットにチューブから油絵の具を絞る。しなるペイティングナイフで粘度が出るまで顔料と油を丹念に練り上げる。豚毛ぶたげの筆で練られた油絵の具で濃淡をつけながら下地となる色をキャンバスにのせていく。パレット上部にカラフルな油絵の具をチューブから出す。油壺にペインティングオイルと揮発性油のテレピンを混ぜ合わせる。パレット下部で油壺のオイルと複数の油絵の具を使い混色していく。補色を混ぜ合わせることで色の彩度を抑える。

 左手以外に神経が通っていないみたいに、口を半開きにして、鼬毛ゆうもうの12号平筆ひらふでで「肉塊の球体」を描く。
 絵画にのめり込んで、その絵画の一部となるほど創作に集中する。絵画世界との接点である鼬毛の筆先から絵へと飲み込まれる姿を幻視する。指、手、肘、顔、頭、肩、首、胸、腹、腰、脚。その順序でゆっくりと絵画へとのめり込む。まるでかえるが蛇に丸呑みされるように。

「肉塊の球体」は、父が塾長を務める画塾に掲載されることになった。10歳の庵が塾生の少年と青年と、その絵を眺めながら会話をしていた。夏の暑い日で、扇風機のだるような羽音が聞こえていた。
少年A「庵くんは絵が上手いよね」
庵少年「うん、上手い」
少年A「この絵はどうやって描いたの?」
庵少年「ナイフと筆で描いた」
少年A「うん、それはそうなんだろうけど。ほら、もっとこうなんていうのかな」
庵少年「?」
青年I「技術的なことを具体的に訊いてるんだよ」
庵少年「ああ。スカンブルで血管の緑を描いてから、肌を描いたんだよ。グレーズでは表現できない肉体の裏側の表現をしてみたかった。古典的な技法だけど。肉体を描くには、構造を理解する必要がある。筋肉を理解して、関節を理解して、内臓を理解して、骨を理解する必要がある。どこがどう動けば、どの筋が張り、どこに陰影ができるのか。関節の可動域を超えていないか」
少年A「やっぱり上手いなぁ」
庵少年「うん、上手い」
青年I「うーん、上手いかなぁ」
庵少年「うん、上手いよ」
少年A「うん、あんまり自分で上手いって言わないもんだけどね。自信がすごいね」
庵少年「自信なんてない。この絵は上手いけど、それ以上でも以下でもない。これは芸術じゃない。心をゆさぶる新しい何かが欠けてる」
青年I「そうだね。掴みきれない。なんか惜しいんだよなぁ。何を表現したいの?テーマって何?何がしたいの?わけわかんないものを描けば、天才っぽいって思ってるんじゃないの?」
庵少年「何を表現したかなんて、言葉にできるんだったら、絵にする必要ないじゃん」
青年I「骨格とか内臓を勉強して、肉の塊を描く意味がわかんない。骨を描かないなら、骨について勉強する必要なんてない。合理的じゃない」
庵少年「裸体の男をちゃんとイメージして、骨を抜いて、内臓を搔きだしてから、その筋肉を球体にしなきゃならないんだよ。27kgの肉塊の球体。骨や内臓を抜くっていう過程がないとだめだよ。創作にどれだけ現実味を持たせるかが大切なんだよ。だから、筋肉むきむきの男をイメージする。その男の背骨を抜く。鎖骨を抜く。骨盤を抜く。そんなふうに、想像していくことで現実味を帯びていく。フィクションに説得力が出る」
青年I「この絵には、既視感しかない。どこかで見たモチーフに、どこかで見た技法。あまり自惚うぬぼれないほうがいい。君が評価されているわけじゃない。君の血が評価されてるだけだよ」
 浪人の末に藝大の入試に合格できなかった青年I は、「はい、論破ー。」という捨て台詞を残し、その場を去った。それから彼は画塾へ来ることはなかった。

少年A「きっと嫉妬だよ。知識もひけらかしたかったんだろうしね。気にしなくていいよ」
庵少年「ん?そうなの?」
少年A「気づかなかったの?」
庵少年「うん、あんまり。既視感があるっていうのは、その通りだと思う。絵を描くという時点で、もう何かの真似だけどね。真似をしなければ、デッサンの一線いっせんすら描けない」
少年A「?」
庵少年「僕はいつか最高の絵画を描いてみたいんだ。それでそれを見てみたい。それが陽の感情でも、負の感情でも、心をゆさぶる絵画を描いてみたい」
少年A「そっか」
庵少年「そだよ」
 庵は扇風機の首振りを止める。それから、扇風機を抱きしめるようにして風を独占する。
少年A「画塾をやめることになった」
庵少年「そうなの?なんかになりたいっていつか言ってなかったっけ?」
少年A「うん、絵の修復士ね。父親が修復士だから」
庵少年「そう、それ。いつ?」
少年A「塾長にはもう言ってある。今日が最後だよ」
庵少年「そうなんだね」
少年A「僕は地域の絵画コンクールで優勝したことがある。天才とか呼ばれたよ。でも今になって考えてみると、何もわかっていない人たちが何も考えず無責任に言ってたんだろうね。画塾に通うようになって、君に出会って、才能に埋もれた。息もできないほどだった。それで気づいたんだ。僕はパンピーだって。手遅れになる前に、早く気づけてよかった。僕も最初は芸術家になりたかった。でも、無自覚だろうけど、画塾で君に叩きのめされて、父親がやってる修復士に夢を起動修正したんだ。手が届かないから、その手のやり場に困って、身近なものに手を伸ばすみたいにね。でも、修復士もだめみたい。僕は色弱しきじゃくだったんだ。君と僕の見ている世界は、違う色をしている。修復士にすらなれそうにないからやめる」
庵少年「そっか。じゃあ、バイバイ」
少年A「・・・君は絵画馬鹿だよね。本当に。絵のことしか考えてない。僕は君みたいにはなれない。なりたくもない。もし絵画がなくなったら、君はどう生きていくの?」
庵少年「わからない。ねえ、僕たちはずっと友達だよね?」
少年A「絵をもうやらないのに、なんで君とずっと友達でいなきゃいけないんだよ」
 庵少年はなぜか、麻の糸で口角を縫いつけられてしまったような笑顔をしていた。

 その絵には、27kgの肉塊の球体が描かれていた。骨を抜き、内臓を掻き出して、圧縮された筋肉の塊。肉と肉の境から、血が滴る。筋肉は皮膚に覆われている。目をらすと、皮膚を突き破り、臑毛すねげらしきものが生えている箇所がある。その表現には、グロテスクなまでに過剰なリアリズムと現実を超越した生々しさがあった。
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