無題のドキュメント

夏目有也

文字の大きさ
24 / 53

24. シナプスの電気信号で感電する

しおりを挟む
 絵狂えぐるいの彼は、最高の絵画へとにじり寄ろうとする。何へにじり寄っているのかすらわからないまま。
 15歳のいおりはあらゆる絵画コンクールにて最優秀賞を総なめにしていき、完全に無双していた。メディアが餌に群がるこいのように彼に押し寄せた。彼の儚げな美しさと灰色がかった異国情緒ある瞳は、ある一定の女性たちを虜にする妖力を有し、彼の意思とは関係なく惜しげもない話題性を世間に提供した。はえの複眼のようなマスコミのカメラ群のフラッシュが焚かれる度に、彼の皮膚がじゅっと焼かれるようだった。危うい状況だった。彼の奇人ぶりが露呈するのは、時間の問題だった。とんでもなく繊細な均衡で、この状況は成り立っていた。

 15歳にして彼は、二科展にかてんの内閣総理大臣賞を受賞する。大多数に神童と評される一方で、忖度による受賞だという意見も少なからずあった。世界的な画家である祖父の絶対的な影響力や、画塾の塾長、藝大の客員教授、美術評論家、美術館の館長など、美術界で様々な肩書きを有する父の得体の知れない権力のおかげでの受賞と主張する者もいた。その癖のある美しさから話題性のある庵に内閣総理大臣賞を与えることで、二科展を主催する日本美術家団体である二科会にかかいが芸術の宣伝活動をしているという意見もあった。芸術の啓蒙のために、彼を広告塔にしていると誰かが言った。次世代の芸術界を担うスターを仕立てあげようと躍起になっていると。そういう意見を持つ人間は、まるでそういうルールがあるかのように、決まって二科展の審査基準について疑問の声を上げた。
 上述のような意見に対する感想を、記者に尋ねられたとき、庵は淡々と答えた。
「好き好んで血を引いたわけじゃないし、好き好んでこの顔に生まれたわけでもない。血や顔じゃなくて、絵を見て欲しい」
 それから取ってつけたように、麻の糸で口元を縫いつけられたような笑顔を浮かべる。悪魔的な微笑だ。彼の端正な顔は、笑うことにより熱され溶けるように崩れる。以前の無表情のほうが私は好きだった。それは家族だからわかるのかもしれないけど、無表情といえども微細な表情はあって、それを読み取る余地はあった。でもそれが、不穏な笑顔に埋もれて、私にはもうわからなくなってしまった。

 15歳の彼が絵画の他に没頭したのは、瞑想と英語と暴力だった。
 彼は瞑想しまくる。起床後も、朝食時も、登校時も、昼休みも、放課後も、下校時も、夕食時も、就寝時も、所構わず隙あらば瞑想をしていた。呼吸は意識と無意識の狭間だ。その呼吸に集中する。「瞑想は抗鬱作用がある」と後に自殺した彼は言った。

「絵に言語は関係ない。それは海を越える」というのは彼の格言かくげんだが、その思想に反して彼は英語の学習を欠かさなかった。映画を英語字幕で見たり、その台詞を復唱したり、iPhone の言語を英語にしたり、彼の部屋で英語での独り言をぼそぼそ呟いていたりと、意味があるのかよくわからない方法も含めて彼はよく学んでいた。その努力の甲斐もあり、ネイティブには及ばぬもののノンネイティブとして十二分な流暢さで英語を喋ることができた。
 ただ、英語を喋れるからといって、彼のコミュニケーション能力が向上するわけではなかった。
「Your pronunciation is awesome. Your grammar is also great. But sorry. I can’t understand what you're saying. (あなたの発音は素晴らしい。あなたの文法も素晴らしい。ただ、ごめんなさい。あなたが何を言っているのかわからない)」とネイティブの英語話者に庵が言われているのを聞いたことがある。

 彼は全身を襲う慢性痛に苦しめられるようになる。外傷もなく、神経系の異常もないことから、医者からは心因性疼痛しんいんせいとうつうであると診断された。心因性疼痛に対して、消炎鎮痛剤の効果はあまりに乏しい。さらに精神科医は心因性疼痛に効果が見込める抗鬱薬を処方するのを渋った。
「抗鬱薬には依存性がある。それなしでは生きていけない人間になるには、君はまだ若すぎる」と精神科医は言った。今考えると、それは目先の経済的な利益に囚われず、患者のことを想った正義感に基づく判断だったのだと思う。ただ、庵の短すぎる人生の顛末てんまつを考えたとき、この精神科医の判断が正しいものだったかどうかについては、よくわからない。
 慢性痛は悪化の一途を辿る。その痛みについて彼は、「シナプスの電気信号で感電する」と表現し、深刻なときには身動きすらままならないほどだった。痛みにもがくのすら痛い。もだえる彼を見て、私の中で「才能への代償」という言葉が浮かんでは沈んだ。

 彼が慢性痛への麻酔としたのが、暴力だった。戦闘に身を置いているときには、アドレナリンでぶち上がって、痛みを忘れることができる。幼い頃から父についてボクシングに触れていた彼は、喧嘩が強かった。いつか他人を殺してしまいそうなほど、暴力嗜好にどっぷりと肩まで浸かっていた。

 絵画のための時間を削って、瞑想や英語や暴力にてがったのではない。彼はそれらのために睡眠を削った。短眠者ショートスリーパーとなった彼は、睡眠を犠牲にして、より多くの時間を獲得した。私はそれが羨ましかった。そんな時間があれば、私も遊びつつ勉強もできると思っていた。だが、それは違った。彼はただただ人生を凝縮した。全力で疾走する短距離走みたいな人生だった。

 彼の英語を聞いた匿名の誰かが「外人はいいよな。最初から英語が喋れて」と言った。混血に対する偏見だった。嫉妬からくる小物を小物たらしめるような言い分だった。庵の努力も知らずに発された軽率な発言だった。そんな感想を16歳の私が考えるともなく考えていると、庵がその匿名の誰かの目の前に立ちはだかり見下ろしていた。彼は大抵の人間を物理的に見下ろせるほど、背丈が伸びていた。運動誘発喘息うんどうゆうはつぜんそくは時折起こったが、薬の服用により改善傾向にあり、何より経験の積み重ねによって、喘息と上手く付き合うことができるようになり、強度の高い運動もこなせるようになっていた。仮に運動誘発喘息が起こっても、西部劇のガンマン顔負けの早業で、短時間作用性β2刺激薬を吸引し、発作を鎮静ちんせいさせていた。また、父の影響でボクシングや筋トレにも励み、しなやかな筋肉を身にまとうようになった。無口なふたりがひょっとして憲法第38条1項の黙秘権でも行使しているのかと疑うほど黙々と筋肉をいじめぬく姿は、何だか可笑しかった。それから背丈と同じように前髪も伸びていて、灰色がかった瞳を隠していた。

「お前らみたいな変態が猟奇殺人とかするんだろ。変態ってキモいし、ガチで社会にとって有害だから、目障りだし消えてくんない?なんだよ。何見てんだよ。こっち見んな。変態がうつる」と匿名の誰かが威勢よく言ってから、ぎゃははははははははと下品に笑った。面白いということを強制するような大袈裟な笑いだった。変態って感染するんだろうか。飛沫感染だろうか、空気感染だろうか。それとも、その精神を媒介にして感染するのだろうか。変態パンデミック。私はそんなことを考えてから、まずいなと思ったときにはもう遅かった。
 彼の右腕は弓のように後方にしなり、限界まで力が蓄えられる。右腕は弛緩しかんしており、無駄な力みはなかった。放たれた右の拳は、匿名の誰かの鳩尾みぞおちを射るように喰い込んだ。骨というよろいがない鳩尾に、強烈すぎる腹パン一撃をかました。拳がめりめりと内臓を押しのけて、裏側にある背骨を掴むほどの勢いだった。匿名の誰かは、天敵が襲来した団子虫のように地面で丸まる。全く呼吸ができていないようだった。団子虫の触手を掴むように、庵は左手でうずくまる匿名の誰かの髪を鷲掴みして、腹が天を仰ぐようにひっくり返す。髪の毛が毛根から根こそぎ持っていかれるような、ぶちぶちという音を聞いた気がした。
 匿名の誰かはぐじゅぐじゅに泣いていて、顔面がとても不細工に見えた。その顔面は団子虫のそれに似ていた。団子虫がどんな顔か知らないけど。
 庵に情け容赦なんてものは皆無なのだろう。隙が生まれた鳩尾を的にして、再び右の拳を振り下ろす。拳は正確無比かつ無慈悲に的を射る。匿名の誰かの体は、鳩尾を支点に頭と脚が跳ね上がる。私にはそれが、アルファベットの V みたいに見えた。
 匿名の誰かっていうのはわかりづらいので、これから彼女を少女Vと表記することにしよう。そう、何がまずかったって、この匿名の誰かが女の子だったっていうのがまずかった。
 彼女は自らが女であるということを盾に高を括っていた。どうせ殴ることなんてできないと。肉体的な劣等以外、単細胞な男など恐るるに足らないと。唯一であり決定的な誤算が、この男に社会通念は全く通用しないということだった。彼は彼女のその慢心をへし折った。
「殴りたくなったから殴った」と後に彼は言った。彼を肉体的に凌駕し、抑止力となりうるのは、私の身の周りでは父である宇佐美周しかいなくなっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

処理中です...