無題のドキュメント

夏目有也

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34. 何もない部屋

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 そこは何もない部屋だった。生傷と痣だらけの幼い幽霊くんは四畳半の隅っこで膝を抱えてうずくまっている。彼にとっては、この四畳半が世界のすべてだった。
 幽霊くんの父親はツナ缶の工場勤めで、ツナ缶だけは押し入れに大量にあった。食べることを許されたものはツナ缶しかないから、誇張でも冗談でもなく幽霊くんの身体はツナ缶でできていた。
 四畳半の中央では、ポルノ雑誌を凝視しながら幽霊くんの父親が自慰をしていた。幼い息子が同じ四畳半にいることなど、まるで意に介さない様子だった。病気を疑うような過度な遅漏である彼は、射精のときまで何時間でもしごいていた。
 カビが亀頭と包皮に感染したことにより、幽霊くんの父親はカンジタ亀頭包皮炎という性病に冒されていた。亀頭と包皮が発赤し腫れて、亀頭包皮の皮膚が縦に裂けて血が滲み、痛みにより自慰が困難になりつつあった。亀頭は手淫しゅいんによる摩擦で、赤く腫れていた。摩擦による擦過傷さっかしょうに近いヒリヒリとするペニスの痛みに耐えながら自慰する姿は、快楽とは程遠い荒行のように見える。痛みにより射精に至らない頻度は、日に日に上がり、最終的には射精はおろか自慰もままならなくなった。
 ネットもない時代で情報も少なく、経済的な理由で泌尿器科にかかれない彼は、我流の治療として氷でペニスを冷やしてみたり、白湯をかけてみたりしたが、当然のように一向に治る気配はなかった。アルコールをかけたときはとてもみた。その沁みる痛みが、カビを殺しているように感じ我慢して耐えたが、病状は悪化した。

 父親は幽霊くんがまるで存在しないものとして生活を営んでいた。喋りかけることもなく、目が合うこともない。そして、父親は息子にとてもひどいことをした。
 父親は映画監督崩れのサディスティックな精神異常者だった。便所の壁には、彼の趣味でいくつかの映画のポスターと、ベイカー・アレンの「The Tattoo Baby」のコピーが飾られていた。彼はベイカー・アレンを心酔する愛好者だった。
 幽霊くんは痛みを思考する言葉もなく感じていた。他にやることなんてなかったから、その痛みをひたすらに観察していた。

 大人になった幽霊くんは、古惚けた焼肉屋の裏にいて、七輪で炭を焼いて育てている。その炎を観察していると、過去の記憶が朧げに意識をかすめ、左腕のケロイド痕が疼く。七輪を観察するそんな幽霊くんを、片想いする焼肉屋の乙女が観察する。
 その日の営業終了後に、幽霊くんはいつものように中華そば屋に入り、お湯に醤油を混ぜただけのようなまずいらぁめんを啜っていた。
 後頭部の髪を鷲掴みされたと気づいた直後には、丼が割れる音とともに、湯気がゆらゆら立つ熱々のらぁめんに勢いよく顔面を押し付けられた。庵による真夜中の奇襲劇の第二幕だった。
 庵は追い討ちの一撃を狙撃手のように狙っていると、自らの後頭部の髪も鷲掴みされていることに気づく。幽霊くんがらぁめん屋のカウンターに突っ伏すような態勢のまま、関節を外したように右手だけ後方に伸ばし、庵の後頭部の髪を鷲掴みにしていた。庵は背筋に渾身の力を込めて踏ん張るが、幽霊くんの右腕一本に力負けして顔面をカウンターに強打する。怯んだ庵の下半身を目掛けて、幽霊くんはタックルを仕掛ける。上半身だけ置いていかれるような勢いで、扉を破壊しながららぁめん屋の店外へと押し出されて、そのまま滑らかに馬乗りされる。幽霊くんの剛毛な髪にはらぁめんの麺が絡み、鳴門が髪飾りを真似るようにくっついていた。
 幽霊くんは「あんまりがっかりさせないでくれ」と言ってから、気絶するまで庵を殴った。それから、らぁめん代だけ庵の財布から抜き、その場を立ち去った。

 寝起きの唾液を集めて煮詰めたみたいな強烈な臭いで庵は目を醒ます。覚醒を強制する気付け薬となりうる唾液臭だった。脳がゆれるような最悪な頭痛が襲う。朦朧とする意識で、個人売春のワンコインばばぁがフェラチオをしてきていることを知る。歯がないばばぁの甘噛みフェラだった。個人売春のワンコインばばぁは、庵の覚醒を知ると、手際よく自らの女性器に生理現象で朝勃ちした庵の男性器をにゅるりと滑り込ませた。庵の童貞は個人売春のワンコインばばぁの逆レイプで奪われた。それから獣のように低音で喘ぎながら滑稽な上下運動をする。庵は身をよじるようにして、ばばぁから逃れようとする。
「ゴムなしでいいのよ!中に出していいのよ!痛いこと以外なら何してもいいのよ!性病はないのよ!わたしは高級娼婦だったのよ!舐めたから金払え!挿れたから金払え!」とばばぁが喚く。
 遠くのほうで、紙袋を頭から被った東南アジア系の男による異国語での叫びが聞こえる。まるで拷問にあっているような切迫した叫びだった。異国語に混じり、「I am a slave! (私は奴隷だ!)」という英語での叫びも響く。
 その叫びをトリガーとするように、片想いする焼肉屋の乙女がどこからともなく現れ、野犬にそうするようにしっしっと個人売春のワンコインばばぁを追い払おうとする。ばばぁはこれまた野犬のように、じっと乙女を見ながら後ずさりする。
「あ、あ、あっち行け!」と乙女が難発のどもりを乗り越えて裏返った大声で言い放ち、五百円玉を投げつけると、ばばぁはそれを拾ってからそこから立ち去った。
 片想いする焼肉屋の乙女は庵と目が合うと、ぺこりという擬音が現実世界でもうっかり鳴ってしまうようなお辞儀をして、その擬音を恥じるようにすたこらと足早にその場を離れていった。
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