無題のドキュメント

夏目有也

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42. 盛り塩

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 それは盛り塩だった。拘束された幽霊くんは、眼前にあるその綺麗な円錐の塩を見つめる。15歳のいおりは、ヘラと円錐の器具で盛り塩を器用にいくつも作っていく。それらは幽霊くんの周りに円を描くように並べられる。神道の儀式めいた円の中心で、へし折られた左腕の感覚を手探りで求める。骨折の感覚はあるが、痛み (=不快な感覚体験) とは思わなかった。ただその痛みと思しき感覚を咀嚼せず丸呑みするようにそのまま受け入れる。
「左腕は本当に痛くないの?」と庵が訊く。
「痛くない」と幽霊くんが答える。
「強がりじゃなくて?」
「強がりじゃない」
「先天的に?」
「ごめん、何それ?」
「あ、ごめん。生まれたときから?」
「違う。子供のときから。ある日そうなった」
「どうして?」
「ずっと痛みについて考えてたんだ。いつもどこか痛かったし、何もすることがなかったから。それで痛みがわからなくなった」
「きっかけはあったの?」
「あったよ」
「聞かせておくれ」
 そう促されて、幽霊くんは彼の父親について語り始める。
「父親は狂っていた。生まれつき脳みそが欠けていた。同じ家で暮らしていたけど、俺の存在を認識していないように見えた。見られることも、喋りかけられることもなかった。幽霊として生きるようだった」
 刺青が彫られた幽霊くんの左腕の皮膚は、歪に盛り上がっていた。

 彼の父親は何の前触れもなく、彼を認識するようになることがある。それから、ぼろの玩具で遊ぶように虐待をする。奴のリミッターは馬鹿になっていた。加虐趣味が度を越していた。
 幽霊くんの父親は精神病院に長きにわたり入院していた。その野獣のような凶暴性につき、身体拘束され薬漬けにされた。薬漬けでぶっ壊された彼は、植物のように大人しくなった。その植物のような状態は数ヶ月観察され、精神病の主治医は寛解かんかいした可能性があると診断した。それは間違いなく誤診だった。父親は薬でぶっ壊されて、その生来の凶暴さを一時的に失っていたにすぎない。それが誤診である可能性について、主治医は認識していた。脳をいじくるロボトミーでしか、きっと彼を治すことはできない。しかし、日本特有の長期入院を問題視している上層部からの圧力もあり、主治医の判断で彼は半強制的に退院させられた。治療など意味を成さず、世界から追放/隔離されて、一生を精神病院で過ごしたほうが世のためになる、純粋なバケモノを社会に還した。
 放り出された彼は、捨て猫が拾われるようにある女性と同棲することになる。その女性は無戸籍者であり、ひとりでは部屋を借りることすらできなかった。彼女が無戸籍となったのは、彼女の母親が出生届を提出しなかったからだった。彼女はたとえ幽霊くんの父親のような精神異常者でも、戸籍がある者を必要としていた。父親も真っ当な生活を送ることができなかったため、彼女を必要としていた。彼らは共依存して共存していた。
 父親は性欲異常者であり、病的な遅漏だった。痛がる彼女を省みないほとんどレイプのような性生活で望まれず身篭ったのが、幽霊くんだった。無戸籍者からは無戸籍者が生まれる。無戸籍者は結婚をすることができない。未婚の場合、子供は母親の戸籍に登録される。つまり、彼女の戸籍がないため、子供である幽霊くんも無戸籍となる。無戸籍は遺伝する。
 退院から数年が経過し、幽霊くんが生まれてから、父親は薬漬けの影響から回復しつつあった。彼においての回復とは、その凶暴性が再現することを意味した。家庭内暴力は母親に向けられ、それに耐えかねた彼女は幽霊くんを置き去りにして失踪した。

「自分の肉が焼ける臭いを嗅いだことはあるか?」と拘束された幽霊くんは庵に向かい問う。
「ないよ」と庵が答える。
「どれだけ洗っても、俺の肉が焼ける臭いが、鼻の奥に染みついてとれない。牛タンを焼くときの臭いに似てる。赤白く熱されたバールで父親に左腕を焼かれた。ヒビが入った眼鏡越しに見えるあの眼は未だに覚えている。人間が楽園をつくるとしたら、その隅に小さな地獄をつくると思わないか?」
「そう思うよ」
「あれ、なんの話だっけ?」
「痛みを忘れたきっかけだよ」
「ああ、そうだった」
 父親はリミッターがイカれて際限なく自慰をする上に、病的な遅漏だった。そんな奴が性病に冒され、ナニは痛みで使い物にならなくなっていた。やがて父親は痛みで自慰すらままらない状態になった。

 ある夜、父親は何時になく上機嫌だった。ヒビが入った眼鏡越しに目を細め、生皮が張り付いたような笑顔を湛えていた。父親は皮を丁寧に剥くみたいに息子を裸にしていく。幽霊くんは機嫌を損ねないように無抵抗のまま全裸になる。父親は掌で幽霊くんの睾丸を優しく包み込む。ゆらしたりさすったりして穏やかみ弄ぶ。細やかな刺激に、芯が入るようにペニスの硬度が増す。
 ふやけたナッツは潰され、渇いたバナナは捥がれた。あれほどの痛みを体験したことはなかった。一晩、その痛みを観察して、彼は考え抜いた。そしてふと気づくと、痛みを忘れていた。痛みを忘れた途端、あれほど大きく見えていた父親が、ひどく小さく見えた。気づけば、彼は父親と同じくらいの背丈になっていた。
 彼にケロイド痕をつけたバールを隠し持ち、いつでも父親を殺せるようにしていた。そこから逃げるには、父親が持っている手錠の鍵を奪うしかなかった。

 翌朝、父親の自慰が久しぶりに成功して、痛みに顔を醜く歪めながらも射精に辿り着こうとしていた。彼はバールを手に父親の背後に回り、射精と同時に重みのあるバールで脳天を殴りつけた。頭蓋がへこむのがバールを通してわかった。父親は上から赤い血と下から白い精液を垂れ流しながら、その場に倒れた。
「父殺しだね」
「寝たときに襲いたくはなかった。一瞬でも、痛みをわかってほしかった。その後、父親から鍵を奪い、手錠を外した。父親は血を流しながら、身体が痙攣していた。それからいびきをかいていた。今になって思うと、そのいびきは気絶した人間から鳴る音だった。バールで殴ってからすぐに逃げ出したから、父親が死んだのかどうかはわからない。しばらく歩いて、吸い込まれるみたいに辿り着いたのが『腸』だった。そこで死にかけの俺を拾ってくれたのが、あの古惚けた焼肉屋の老夫婦だった。彼らは飯と家と職を与えてくれた。膿んだ股間の手当をしてくれた。銭湯に連れて行ってくれた。彼らの言葉もわからない。微笑みかけられるわけでもない。ただタダ働きの都合のいい奴を探していただけかもしれない。愛なんてものはないのかもしれない。それでも構わない。ただ、俺はあの老夫婦に感謝している。これからもあの焼肉屋で働かせてもらいたいし、『腸の掃除』もしなきゃいけない。拾われた命だから、拾った人のために使いたい」

 庵の右眼から一滴の涙が流れた。ただ左眼の穴ぼこには涙腺がなく、一滴の涙すら流れることはなかった。
「その不出来な愛のドラマは一体なんだ?それは誰に媚びてるんだ?娯楽として感動させたいのか?あんまりがっかりさせないでくれよ、このビフィズス菌野郎」と穴ぼこが言う。
「この穴ぼこに、小さな悪魔が寄生したのかもしれない」と庵が言う。
「芸術の悪魔さ」
「脳汁ぶしゅぶしゅ、脳の溝からスポンジみたいに、脳汁ぶしゅぶしゅ」
「塩も食い過ぎれば毒となり死ぬ。ここにある塩は致死量だよ。体重1kgあたり、塩は0.5~5g で致死量になる。中国では塩は毒として自殺に使われたりするみたいだよ。体重は70kgくらいだよね?それでざっくり計算した。致死量よりほんのちょっと少なめの塩を今からガバージュする。塩責めだ」
「ちょっとしょっぱいかも」
「臓物にがつんと来る」
「腸内環境正常化はもうできないかもね」
「塩でこの男のけがれをはらってやれ」
「ビフィズス菌くん、次の健康診断で血圧に気をつけてね」

 庵は幽霊くんの口を抉じ開け、イマラチオするようにパイプをねじ込む。ガムテープで口の隙間を塞ぐ。そして、パイプを介して致死量に近い塩を口へと詰めていく。
 塩味が味蕾みらいを襲う。吐きたくても吐くことはできない。口一杯の砂を噛むような食感がする。よだれが足りずに塩は液化しない。海水を濃縮したような塩の泥が辛うじて喉を通る。塩の過剰摂取により嘔吐をするが、その吐瀉物もガムテープで吐き出すことができない。そして、逆流した塩化ナトリウム濃度の極めて高い嘔吐物をまた嚥下えんかする。
 砂漠をあてもなく彷徨さまよい歩くような口渇感こうかつかんがある。異常の警鐘を鳴らすように身体が発熱する。脳をミキサーで攪拌かくはんされるような感覚が襲う。意識が遥か向こうに遠のいていく。
 これほどの塩は毒であるとわかった。この毒は、食塩中毒により人間を殺すこともできることも理解した。痛み以外に、こんな地獄があるとは予想だにしなかった。
 血液中の塩分濃度が急上昇する。高Na血症と血漿けっしょう浸透圧の急上昇に付随して、細胞が脱水する。脳と心臓と肺に、深刻なダメージが加わる。

 致死量に近い塩を嚥下しきって、塩の拷問が終わる。幽霊くんは明くる早朝にリアカーで運ばれ、可燃ごみの日に生ごみとして「腸」のごみ捨て場に棄てられた。
 身体が塩を体外へ排出しようと、腹にポンプでもあるのかと思うほど嘔吐と下痢が酷かった。喉が異様に渇く。ごみ捨て場から這うようにして、近くの水道まで辿り着く。蛇口を捻り、水をひたすらに飲み続けた。水を飲んでは、塩を吐くのを、胃が空になるまで愚直に繰り返す。最後にはほぼ真水の嘔吐と下痢をした。

「腸」付近で幽霊くんを探していた片想いする古惚けた焼肉屋の乙女が、真冬に蛇口からの水を浴びながら倒れている彼を発見する。古惚けた焼肉屋は、幽霊くんの不在で休業を余儀なくされていた。彼の仕事量をこなすには、少なく見積もっても新たに三人は雇い入れなけばならないような状況だった。彼女は休業で空いた時間を、ほとんどすべて幽霊くんの捜索に費やしていた。言葉は通じずとも、片想いする古惚けた焼き肉屋の老夫婦は捜索にとてもよく協力してくれた。

 嗚咽して子供みたいに泣きじゃくりながら、彼女は彼に駆け寄り、生きていることを確かめると、えんえん泣きながら抱きしめた。胸が小さいと思われるかもしれないと一瞬考えたが、そんなことはどうでもよくなった。真冬にびしょ濡れな彼を少しでも暖めたかった。
「あなたにもう会えないんじゃないかって、とても怖かった」と片想いする古惚けた焼肉屋の乙女はひくひく泣きながら言った。
「ごめん」と幽霊くんが言う。
「ほんとだよ。すごく心配した。焼肉屋のお爺ちゃんとお婆ちゃんもすごく心配して、一緒に探してくれてたよ。아들って言ってた。あなたのことを息子みたく思ってるみたい」
「そうか、ありがとう。あゝ、なんて美しい日なんだろう」と言って幽霊くんは彼女の顔をまじまじと見つめる。「あんたって可愛い顔してたんだな」
「繧ュ繝・繝ウ豁サ縺ォ縺輔○繧区ー励°?」と乙女は文字化けしたような言葉を発し、赤面症のせいもあり顔が真っ赤になった。鼻が折れているからか、顔の赤みを鼻から絞り出すように鼻血も垂れた。
「そんなに抱きつかれると痛いかも」
 古惚けた焼肉屋の乙女の抱擁で、幽霊くんはへし折られた左腕に微かな痛みらしきものを感じていることに、自らの言葉によって気づく。こうして泥沼の報復合戦が幕を閉じた。
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