南シナからの風は呻きとなり響き

夏目有也

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1104号室

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 超大型台風が通過した後、天狗荘の傍にあった祠が消えた。生前に母がいつも祈っていた祠が、まるで最初からそこに何もなかったかのように跡形もなく消えていた。
 新聞やニュースでは、超大型台風の突風により天狗荘が半壊したことになっていた。そのため、問題なく火災保険で保険金が降りた。保険金の申請時に「天狗の扇の風で半壊した」なんて申告せずに済んで安心した。ただ、その補償額はアパートの立て直しには足りなかった。
 身の振り方を考えているときに、降って湧いたようにその土地での高層マンション建設の話が舞い込んだ。提示された立ち退き料の高さに私は驚きとても満足した。それ以来、にまにまが止まらない。
「何かいいことでもあったんですか?」と看護師に訊かれた際には、「傷が治ったら、ハワイにでも行ってみようと思いまして」と答えた。母を連れて行けたらよかったのにとも思った。

 扇の風に塵となり消えた女は、世間では行方不明という扱いになっていた。二人を刺した上で、逃亡したとされる罪人の過去が取材や捜査で暴かれていった。
 幼い頃から女は、変な子だったという。小学校の担任曰く、髪の毛を抜いてそれを食べてしまうのが癖で、頭は所々禿げていた。その容姿を揶揄からかわれ、いじめられていた。念願であった女の子を生んだ女の母親は、その悪癖が気に食わず、時に泣きじゃくり、時に手を上げたという。髪を鷲掴みにして引きづり回し、「そんなに抜きたいなら抜いてやる!」と髪を毟り、騒ぎになったこともあった。女に妹が生まれてからは、母親は女への関心が一切なくなってしまった。
 女に友人はひとりとしておらず、昼休みには校庭の隅でしゃがみ込み、黒いペットボトルを片手に何かをしていた。担任が心配になり、その様子を伺うと、そのペットボトル一杯に蟻が敷き詰められ、蠢いていることに気づいた。そして、その蟻は見る限りほとんど六本の脚が捥ぎ取られていた。熱湯をぶっかけられ顔面が溶けるような笑顔を、女はつくっていた。彼はその女の笑顔を初めて見た。それ以降、笑顔を見ることはなかった。

 大人になってから、女は宗教にのめり込んだ。宗教狂いだった。宗教上の理由で、息子の同性愛を認めることができなかったという。同性愛は精神病であり、治療が必要であると考えていた。その治療の一環として、貞操帯を装着し、異性愛者のポルノを永遠と鑑賞させていた。
 女から告白を受けていたという元聖職者は、同性愛の問題やその倫理観の欠ける治療法を聞き、「どんな過ちを犯したとしても救いはある。罪深きをありのまま認め、時には教義から距離を置いても構わない」と助言したという。ただ女には伝わることはなく、ただ「信仰が足りない」と繰り返すばかりだった。
「受け皿が大きいので、傷んだ林檎が紛れ込むこともある」と元聖職者は言った。
「悪魔に憑かていたのでは?」と記者は問うた。
「悪魔ではない。ただの精神病だ」と元聖職者は答えた。
 異端的信仰や問題行動、他の信者とのトラブルにより、女は教会戒規で破門された。破門されても尚、女の信仰が揺らぐことはなかった。

 警察の捜査で、戸籍上女が独り身であることが判明した。押し入れに監禁されていた声帯を抜かれた男は、女の夫ではなかった。それではあの男は何者だったのか。彼はストーカー被害者だった。
 身重な女にストーカー被害にあっていると、彼は頻りに友人に相談をしていた。始りは、真夏の浅草で見知らぬ女に話しかけられたことだったという。
「もうすぐ生まれる」と大きく膨らんだ腹をさすりながら女が言う。
「はあ、そうですか」と男が返す。
「はあ、ですって。可笑しい。自分の子なのにねぇ」と腹の子に向かってあやすように話しかける。
「はあ?」男は全く身に覚えがなかったという。
「惚けるな。孕ませた責任を取れ。姦通罪、去勢するぞ」
 真夏のその日から、身に覚えのない責任のために、その女につけ回される日々が続いた。彼の友人曰く、ストーカー被害の相談が、ある日を境に突然途切れたという。
 女のそれは想像妊娠だった。ホルモンの作用で腹にただ脂肪が溜まっているだけと産婦人科で診断された後、女は他人の乳児たちをガラス越しに眺めていた。相談を受けた元聖職者曰く、そのとき神のお告げがあった女は告白したという。それは決して日本語ではなかった。でも、後から振り返ると、「あなたの子は目の前にいる」という意味のお告げであったと女は言った。
 そのお告げの直後、破水した。床がびしょびしょになっている。気づくと腕の中に乳児を抱いていた。「受胎し、その男の子が私の子である」と女は確信した。

  キチガイ女が塵となった後、声帯を抜かれた男は保護されたが、ひどい神経衰弱で筆談であってもコミュニケーションが困難な状況だった。そして、原因はわからないが、程なくして亡くなったという。

 まだ少し痛む脇腹を抱えながら、私は病院の廊下を歩いていた。巨漢の見舞いに来ていた。彼もまた腹に包丁が刺さったが、一命を取り留めていた。脂肪が厚くて、致命傷を免れたとのことだった。
 彼の病室である 1104 号室の前まで来ると、その室内から何やら楽しげな話し声が聞こえた。どうやら 102 号室の女子大生が巨漢を見舞いに来ているようだった。
 私はなんとなく邪魔しても悪いと思い、病室前の壁に寄りかかり手持ち無沙汰にしていた。一頻り会話が落ち着くと、一瞬の沈黙がある。
「今度ご飯に行ってくれますか?・・・できれば、一緒に。もし嫌でなければでいいんですが」と巨漢が女子大生に向かって言った。「おいしいイタリアンレストランを知っているんです。サイゼリアっていうんですが」
 少しだけ間があって、ふふふという笑い声の後に、「はい、是非。私サイゼリア大好きなんです」と女子大生は明るく答えた。

 数年後、私はワイキキビーチで日焼けをしながら、南国らしいカクテルを一口飲む。アルコールが強くて咽せ、顔を顰める。こんなの飲み干したらべろべろになって、ホテルに帰れなくなる。
 半裸で寝転んでいるが、腹に贅肉はない。退院してからはジムに通い食事にも気を遣い、見事に小デブは卒業した。
 濃いサングラスもかけているので、水着の女性を横目で見ていてもバレない。
 脇腹の傷は塞がったが、痕が残った。ただこれも死線をくぐり抜けた戦士のようで悪くない。
 天狗荘の跡地に高層マンションが建設された。その高層マンションの 104 号室には、どうやら天狗様が住んでいるらしい。
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