ナンキョクグマ

春花とおく

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ナンキョクグマ

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「さっきはごめん」
言いつつ、「殺気は御免」と言っているような気分になった。そう、僕は謝りながらも、それが本心からのものでは無いとわかっているのだ。ただ、僕を視線で射殺さんと睨みつける彼女から、解放されたかったのだ。

やめてくれよ。そんな、親の仇みたいにさ。たかだか、百円そこらのアイスだろう?また、買ってくるからさ。僕もお腹を空かせていたんだよ。ごめんって、ほら。

仕事を終え帰ってきた所、冷蔵庫にカップのバニラアイスがあったのだから、つい食べてしまった。あの、質より量を地で行くアイスクリームだ。食べている内に溶けてきて、食べる僕も飽きてきて、スプーンを舐めていたら、彼女が帰ってきた。で、これだ。そのアイスは彼女が夜に食べようと取っておいたものだったらしい。楽しみに帰宅した所、食べ切るのも辛いといった趣で人の食べ物を弄んでいる奴がいたのだから、そりゃあ彼女の怒りももっともだ。

この「ごめん」は何度目だろう。少なくとも、百円分位は謝ったはずだ。それでも彼女は許してくれない。全く、僕の謝罪はそんなに安くはないんだぞ。いわゆる逆ギレとはわかっても、思ってしまう。

「もう、いい」そう言い残して彼女は自室へ籠ってしまった。僕は、この「いい」が決して免罪の言葉ではなく、また寛容の言葉ですらないのを知っている。ただ、彼女は僕に呆れ果てているのだ。それでも安堵してしまう僕がいた。リビングに、ひとり。

冷蔵庫に酎ハイが一缶だけ残っていた。僕達夫婦は酒に弱い。だから、お酒を飲んでも殆どジュースみたいな酎ハイが関の山。特に僕は一口で顔が真っ赤になるほどだから、この酎ハイも彼女が買ってきたものだ。でも、僕は躊躇なく栓を開けた。酔いたかった。酔って、忘れようと思った。



気がつけば朝だった。朝と言うには遅すぎるくらいだ。どうやら、アルコールは僕を許してくれたらしい。飲みかけの缶には三分の一ほどの酒が残っていた。僕は、それをぐいと飲み干した。未だに酎ハイごときを苦く感じる。顔に血が集まるのがわかる。幸い、今日の仕事は休みだ。

リビングに出ると、机の上に食パンがポツリと置いてあるのが目に入った。彼女はもう仕事に出たらしい。書置きの類はない。

ミルクを入れ、食パンを齧った。マーガリンが切れかけていた。ジャムも無い。味気のない固まりを咀嚼しつつ、物思いに耽った。

いったい、いつから僕らはこんな風になってしまったのだろう。

アルコールは僕に睡眠という束の間のモラトリアムを与えてくれた。しかし、記憶そのものは無くしてくれなかった。むしろすぐ寝たおかげで、昨夜のことがついさっきの事のように思い出せる。

こんな風に──アイスクリームごときで険悪な雰囲気になってしまうように。いや、違うな。「アイスクリームごとき」と考える僕に彼女は嫌気がさしたんだ。彼女にとってアイスクリームなんて些細なことだったろう。ただ、当の僕に誠意が見られなかったから、こうなってしまった。じゃあ、どうして僕は誠心誠意謝らなかった?「アイスクリームごとき」のことだから?違わない。確かにそう考えていた。でも、それ以前に、彼女が軽く許してくれることを望んではいなかったか。彼女を軽んじてはいなかったか?

いつからだ。そんな風になったのは、いつから?それは、僕がかつて最も嫌悪していたことではなかったろうか。

そうだ。喧嘩をするカップルを見かける度、疑問に思っていたじゃないか。愛し合って付き合ったはずの二人がどうして瑣末な事で仲違いをするのだろう。挙句、破局に陥るのだろう。僕はわからなかった。なぜなら、僕はモテなかったから。考えもしなかった。僕ならそんな事にならない。愛ゆえの寛容で全てを赦してみせる。そして、きっと、彼女も…それはモテない僕が己を肯定するための言い訳に過ぎなかった。今、知った。知らない内に僕は自分を肯定する術すら失っていたことを。僕を肯定してくれる存在は彼女だけだというのに。

思い出せ、思い出せ。あの頃を。想いの丈をぶつけたあの情動を。頷いた彼女の微かな前髪の揺れを。繋いだ手の温もりを。重ねた唇の濡れを。

あらゆる面で彼女は僕の「初めて」だった。彼女の記憶はどこまで行っても新鮮なものであるはずだった。なのに。順を追って流れる記憶はどれも色褪せている。ただ、流れて消えるだけ。辞書を読んでいるみたいに。

もう一度、謝らなくてはならない。僕は思う。アイスクリームを食べてしまったことにでは無い。知らず、彼女を軽んじていたことに。そして、かつての記憶を鮮明に思い出せなくなりつつあることに。

スマートフォンに手を伸ばし、電源を入れた。今すぐにでもそうしないと、この記憶すら失われそうな気がしたからだ。しかし、スマートフォンの液晶は冷たく、黒い光を反射するのみだった。電源が入らない。そこでやっと気が付く。不幸にも僕のスマートフォンは昨日から動かないのだ。長らく使役され、バッテリーが変調をきたしたスマートフォンは、己が酷使されたことに抗議するかの如く、沈黙していた。

ああ、そうか。彼女と同じだ。僕は知らない内に彼女をぞんざいに扱ってしまっていた。それでも彼女は僕を赦してくれていた。でもそれが月日を経て、彼女の中のバッテリーがおかしくなって、それで静かに怒ったのだ。それはこの先に待つ破滅の予兆だ。スマートフォンと違うのは、それを僕は自身で直せることだ。いつか、ふっと消えてしまう前に。今なら、まだ。はやく、はやく帰ってきておくれよ。



また、眠っていた。僕は、僕の思うよりもずっと酒に弱いらしい。時計の短針は五を指している。起きたのが昼前だから、一日の殆どを眠ってしまったことになりそうだ。彼女もそろそろ帰ってくるだろう。頭が少し痛いけど、着替えて、夜はご飯を食べに行こう。焼肉がいいか、中華がいいか。彼女が好きだから──あれ、本当にそうだったろうか。僕が好きで、それで僕が食べる時にはいつも彼女がいて、だからそう思い込んではいなかっただろうか。彼女が本当に好きなものは、えっと…いつか言っていたはずだ。でも、それがいつなのか、何なのかは一向にわからない。「この辺りにあるはずなのに」と、散らかった部屋の一角を指しつつもなかなか目当てのものが見つからないような気分だ。こんな風になる前に、整理しておけばよかった。大切にしまっておけばよかった。

ぼんやりとテレビを眺めていても、少しも楽しめなかった。久しぶりに押し入れからゲームを出したけど、かつてのようにのめり込めない。なのに、時間だけはやけに早く過ぎる。時計の針が二周ほどした頃には、僕は不安になっていた。彼女の帰りがあまりに遅いからだ。僕のスマートフォンが繋がらないからだろうか。なら家の電話にかけてくるだろう。二つの可能性が頭をよぎった。ひとつは、僕との喧嘩が原因で帰りたくないというもの。二つ目は…

家の固定電話が鳴った。僕の思考はいったん途切れる。彼女だろうか。残業で遅くなるのだろうか。それでも、今日は待ってみよう。

僕の思考は再開した。

…二つ目は、彼女の身に何か悪いことが起こったというもの。

電話の主は警察だった。僕に落ち着いて聞くように言った後、彼は彼女が交通事故にあったことを静かに述べた。頭に嫌な映像が流れた。何百キロもある鉄の塊が、ほんの五十キロそこらの彼女に襲いかかる瞬間──壁にぶつけられたトマトのように地面に叩きつけられる彼女──頭がぐちゃぐちゃに潰れ血飛沫が舞う── 絶望する間もなく、ふっと、彼女の生命の灯火が絶えると共に、僕の思考も絶えた。



神経回路が再び接続されると、僕は灰色の部屋にいた。目前にはベットが置かれていて、そこには人の形をした肉塊が、ご丁寧にも純白の布に包まれて、横たえられていた。それが彼女だとは思いもしなかった。本当に、その程度の認識しか持てなかったのだ。これは僕が動作不良を起こしているのだろうか。それとも、世界が壊れているのか。ベッドにしがみつくお義父さんとお義母さんの姿で、ああ、これは彼女なのだと、彼女だったものなのだと、自分に言い聞かせるのがやっとだった。

部屋は静寂だった。ただ、彼女の母親の嗚咽だけが、途切れ途切れに聞こえてきた。嗚咽と嗚咽の隙間の無音がやけに気にかかった。これを何で埋めるべきなのだろう。僕はわからなかった。それで嗚咽が漏れ出た。完璧な静寂とは完璧な無音ではない。それは激しすぎる感情を前に何も出来なくなる、その瞬間なのだ。大嵐を前にして凪ぐ海のように。サラサラと優しく、だが不吉に波打つ海のように。悲しみと哀しみが互い互いに嗚咽となって現れ、消えて、また現れ、また消え。

僕は哀しむことしか出来なかった。僕の中の彼女という存在が失われたことに対しての漠然とした虚無感はあった。しかし、悲しむことが出来なかった。未だ他人事に思えてならないのだ。彼女の両親の悲しみを見て、ああ哀しいなと、寒さで震えていた。自らの内にぽっかりあいた風穴から冷たい風が吹き込んでいるとも知らず。

僕がそんな様子で比較的落ち着いているように見えたからだろうか、病室の端にひっそり佇んでいた警官らしき男が僕に話しかけてきた。事の顛末を、ぼそぼそとであるが、教えてくれた。

それによると、彼女が死んだのは不幸な事故のせいではなかった。彼女は不幸だった。不幸なことに、殺されたのだった。

夜、七時を少し過ぎた街中で、警官がある男を職務質問した。男は酔っ払うには少し早い時間であるというのにフラフラと足元が覚束なく、時々奇声をあげていた。初めは警官の質問に対し、まとまりのない言葉ながら答えていた男だったが、突如逃走を図った。警官が慌てて追ったところ、男は偶然車に乗ろうとしていた住民の車を奪った。警官を振り切り住宅街から大通りに出ると、速度制限を無視し暴走。帰宅途中の彼女を轢き、殺した。

それを聞いて、初めて冷静さ以外の感情を抱いた。怒りだった。形容しがたい、これまでに感じたことのない激情がせり上がってきた。それが僕の隅々まで満ちた時、ふっと、僕の世界に色が戻ってきた。灰色だと思っていた病室は真っ白だった。窓際に紫色の造花が飾られていた。ヒヤシンスだ。ただ、一点だけ──ちらと覗く彼女の肌だけは──いつも紅く夏のトマトのように血色の良かった、その色だけが失われ──灰色だった。

気がつけば、僕のほんの鼻の先に警官の顔があって、手は彼の胸襟の辺りを掴んでいた。僕は、僕が彼を詰る言葉を叫ぶのを、僕の中で聞いた。爆発したのだ。僕の中の冷静な僕は、爆風にとばされて、第三者的に僕を見ていた。

警官は、彼に向けられた怒りが完全に八つ当たりであるのに関わらず、謝罪の言葉を口にした。それに乗じて僕は更に声を上げた。この怒りを吐き出さなければ、世界は真っ赤に染まってしまうに違いなかった。もしそうなれば、それでも彼女の顔だけは紅く染まらないことに気が付いて、余計この世界を恨むに違いなかった。吐き出さなければ──違う。漏れ出ていたのだ。どこかにあいた風穴から。僕は涙を流していた。結露だ。それは感情の結露だった。冷たすぎる現実と熱すぎる感情の狭間で涙は生まれ、溢れ出ていった。

僕の甘えと言える怒りに、警官は付き合ってくれた。それが彼の仕事だったからなのか、彼が特別に優しい心根の持ち主だったからなのかはわからないが、僕が責める度に謝り、謝る度に哀しそうな顔をした。

僕はせり上がる感情を吐きると、すとんと、膝から崩れ落ちた。それは冷静な方の僕が降りてきた合図のようだった。膝の痛みが広がると共に、また世界は色を失ってゆく。僕は彼女を求めて、床を這いずる。自然と、風の吹いてくる方向へ向かっていたのだ。涙は止まっていた。身体の中も外も、おしなべて冷たい。欠けたパズルの一ピースを探るように、或いは、寒空の下暖かな火を探すように、冷たい石の床を掻く。

僕がやっと彼女の遺体に辿り着き、そこで目を瞑っているはずの彼女の顔を見下ろした時、僕の目尻から一粒、涙がこぼれ落ちた。それは顔にかけられた白布に落ちて、一滴のしみを作った。そして、そこだけが紅く染まった。

彼女の血が滲み出たのであろうその紅は、僕を埋めるにはあまりに小さかった。しかし、僕を暫し暖めた。涙が溢れた。ひとつ、ふたつと、それは彼女に降り注いだ。でも彼女の紅は二度と戻らなかった。白の上に灰色のしみが幾つも出来た。そして全てが灰色になった。ただ一点を除いて。やがて、その一点の紅さえも、ぼやけていった。



次の夜には通夜が執り行われ、その次には葬式が僕を待っていた。僕はいずれにおいても、終始黙っていた。幸か不幸か、僕に友達と呼べる者はほとんど居なかったし、そもそも、声をかけられてもかなしそうな顔をしていればそれで済んだ。親戚かどうかもわからない者たちに同情され、哀しそうな顔を向けられても、或いは気まずげに避けられても、僕はなんと言えば良いのかわからなかった。なぜなら、彼らの表情はそのまま僕の表情だったからだ。ご愁傷さまと言われて、こちらこそご愁傷さまと返すのは変であるから、黙っていたに過ぎない。

これを人が聞けば、彼らは僕を冷酷だと言うだろう。確かに、僕はとても冷たい。僕の中に残った幾ばくかの熱は、涙と共に放出され尽くしてしまった。残ったのは灰色の世界だけ。それは君たちだ。僕に色を与えないばかりか、唯一のそれを奪っていった世界は、君たちもそのひとつに他ならない。君たちは冷たく、酷い。

僕は──彼女を怒らせてしまった。違う、そこじゃない。僕が一番大切に思う人を、一番大切にすべき人を、蔑ろにしてしまった。大切に思われるには大切に思わなくてはいけないのに、僕は、一方的に求めた──とても、酷い。

全てを終えると、僕は逃げるように式場を後にした。僕を止める者は誰もいなかった。僕たちに子供はいなかった。つくろうとしたことはあったが、結婚後十年で遂に授かることは無かった。不妊を疑い、治療について考えたものの、結局は有耶無耶になった。僕には彼女がいるし、彼女には僕がいる。それで充分だとの結論に至った。それが良かったのか悪かったのか、この状況になってもわからない。もし僕たちに子供がいたなら、僕は遺された子供を一人でどう生かすかで精一杯だっただろう。今僕が逃避行にあるのは、何のしがらみもないが故だ。しかし、しがらみを──僕をこの世に留め、生に束縛してくれる存在を──欲っしていることも確かなのだ。

かたん、ことんと、電車が揺れる。僕は揺らされる。街の灯りが現れては消える。記憶が駆けてゆくように、まるで走馬灯のように。僕はいつの間に電車に乗っていて、どこに向かっているのかがわからない。

真夜中の車内は人もまばらだ。体を寄せ合う老夫婦や仕事帰りのサラリーマン、スマートフォンを眺める大学生風の男が、互いに間隔を開けて座っている。その一番先、一番端に僕がいる。遠く、彼らを眺めている。

そうだ、僕たちが出会ったのは、ちょうど彼と同じ、大学生の時だった。

その情景は、突如僕の思考を占有した。

一人で講義を受けていた。教室の左隅、後ろから二番目の席だ。教室の入口から一番遠く、後方にあるその席は、人があまり集まらず、かつ教授に指名されにくい穴場だった。僕は話し相手や友人を自ら求めず、また誰も僕に求めなかった。それでよかった。それで生きてきたのだから。中学生でも、高校生でも、大学に入ってもそれは変わらない。

だから女の子が隣の席を指さし、微笑みかけてきた時には、目が眩むような思いがした。薄暗い部屋にいたのに、急にドアを開けられたら、突然飛び込んできた光に目を背けたくなるのは道理だろう。でも僕に、そうすることは出来なかった。ここまでに神聖さを漂わせる光を拒むことは、この世界への冒涜のように思えた。

これが彼女とのファースト・コンタクトだ。彼女は自分の名前と学部を口にし、未だに友人が出来ていないことを述べた。それから、僕の名を問うた。

僕は、久方ぶりに自分の名を口にした。彼女とは同じ学部であったが、何となく伝えなかった。その後彼女は、自分の出身地が大学から中途半端に遠いために下宿は出来ないが通学距離が長いこと、そのために部活動やサークルに入ることが厳しいこと、だから友達が出来ないのだということを、身振り手振りを加えつつ話した。その様子には嘆きだとかの暗い印象は微塵も感じられず、同様に友人のいない僕は卑屈になって、それでもいいじゃないかというようなことを言った。

すると彼女は、僕はそれでよいのかと尋ねた。それは、とても寂しくないかと。

だから、僕はこう返した。君は、南極に住む熊がいたとして、お前は寒くないのか、寂しくないのかと尋ねるのか、と。それはあまりにお節介で、的外れで、自己中心的な意見ではないかと。

彼女は唸った。でも、やがて言った。君はきっと、暖かい人なんだね、と。僕に。

その意味不明な言葉に僕は呆れながら、どうしてそうなるのかと親切にも応じた。

だって、南極のクマは極寒の環境に耐えるために暖かい毛皮を持っているだろうからね。外側は冷たそうだけど、君はきっと、中身は暖かい人なんだよ。

屁理屈だ。どう考えても。言葉遊びだ。どこまでいっても。でも、僕はそれを指摘しなかった。

座っていた老夫婦が立ち上がった。やがて、アナウンスと同時に電車は減速し、止まった。ドアが開くと、濁った空気が排出されるような音と共に彼らは出ていった。ドアは再び閉ざされ、列車は動き出す。

あの大学一年生時の遭遇を機に、僕は変わった。違う。座席を含めて、僕は何も変わらなかった。変わったのは僕を取り巻く環境だ。僕は一人ではなくなった。あの日以来、教室の左隅から二番目、後ろから二番目の席にはいつも彼女がいた。

何故彼女が、初対面で冷たくした僕などを気にかけてくれたのかはわからない。それは太陽が熱きも冷たきも、遍く暖めるように、必然のものだったのかもしれない。少し冷やしすぎたからと僕に慈悲をかけた、神さまの気まぐれなのかもしれない。純粋に彼女の好意を感じられるほど、僕は優しさの恵みに慣れていなかった。

サラリーマンが電車を出た。

何度も会話を重ねた。何度も笑った。それらは僕にとって、初体験の連続だった。そして、僕の周りは暖かみに満ちていった。氷が溶けて、海ができた。一面灰色の氷に包まれた世界に、次第に色が加えられていった。言葉が交わされる度、青い海原に鮮やかな魚が跳んだ。笑い声は水音のように響いた。ぽちゃんと、波紋を広げた。氷が溶けきって大地が現れた。少しずつ、緑が茂った。多種多様な色で世界が満ち、人に見つかることのなかった南極の熊は、ついに足を踏み出した。僕は彼女を求めた。彼女も僕を求めた。

電車が到着すること、次は終着駅であることを告げるアナウンスが、なった。気がつけば大学生の男は既に降りていったようで、車中は僕一人となっていた。電車はノロノロと減速し、止まり、僕を吐き出した。

見覚えのない駅だった。しかし、ホーム内は整備が行き届いていた。真夜中だというのに、陰気さは全く感じさせず、眩しい光は格調高い静けさを演出していた。

いつの間にか、自宅の最寄り駅は過ぎ去っていたらしい。だから、このまま座っていても良かったはずだ。そうすればこの電車は折り返して、やがて家の近くにたどり着く。なのに僕は立ち上がって、改札に向かっていた。

駅を出ると、ショッピングモールと見られる大きな建物が僕を阻んだ。店自体はもう閉まっているようだが、中庭を横切ることが出来た。閑静に包まれたステージから、目前を隔てるように伸びる道路に目を向けたその瞬間、ハッとした。僕はかつて、ココに来たことがある。その気づきは頭をよぎって、スグに去っていった。何故か忘れていた。それはとても大切な記憶だった気がする。しかし、それは遥かかなたにあるようにぼんやりとして、その輪郭を捉えられない。似た景色は幾らでも頭に上り、消えた。そこに広がるのは、本当に「何ともない」光景なのだ。膨大な記憶からひとつを取り出すことが出来ないのだ。この辺りにあるはずなのにと、またさまよっている。

ぴゅうと冷たい風が吹いて、僕は身体を縮こまらせた。風が止んで、反射的に顔を上げた。すると、煌びやかな光が目に飛び込んできた。

その光は道路をふたつに分かつ街頭に巻き付くようにして輝いていた。それはイルミネーションというにはあまりに簡素で、しかし、この小さな街に似合って可愛らしい。金と青の光はずっと奥まで緩やかにカーブを描きつつ、続いている。そのずっと先で、道行く人を阻み見下ろすようにそびえ立つ山が見えた。暗闇に溶け込む深緑の恐ろしさに僕は萎縮した。

その時だ。静けさの中に、かまびすしい金属音が響いた。同時に、一歩後ろに人の気配を感じた。それで僕は刹那的に振り向いた。瞬間、柔軟剤の香りが鼻腔を満たした。それは胸までスっと染み、僕を安心させた。それは慣れ親しんだ彼女の香りに相違なかった。僕は彼女の存在を確かに感じ取ったのだ。

しかし、振り向いた先には人はおろか車すら来る気配もない。いつの間にか、歩道脇の並木にも電飾が施されていて、小さな光で精一杯僕を励ますように煌めいていた。

金属音の正体は、僕が踏んだ側溝の蓋であり、柔軟剤の香りはコインランドリーから漏れ出たものだった。それらの理解は落胆へと変わり、同時に記憶をゆらした。

僕は、かつてココに来たことがある──一人で訪れたのではない。間違いなく、僕は彼女とこの道を歩いたのだ。

いつ、何故、と自問を繰り返す度に記憶が解凍され、脳に流れ込んだ。雪崩が起こって、僕は回想の海に呑まれた。

付き合い始めて最初のデートの帰りだった。電車で二人、座っていた。彼女の家の最寄り駅に着いたから、僕は「また電話するね」と言った。躊躇うことなくそう言える関係になったことへの嬉しさを噛み締めた。なのに、彼女は「まだ」と応えた。直後、電車は動き出した。僕は焦った。猥雑な空想が頭をもたげたが、僕はそういった経験がなかったから、どうすればよいのかわからなかった。それで、黙っていた。静かだった。でも、とても心地よかった。律動的な揺れが。厚いコートから伝わるはずない温もりを思うその一時が。

やがて、僕の家の最寄り駅に着いた。しかし、降りようとする僕を彼女は再び「まだ」とコートの袖を引っ張って引き止めた。そのまま二人は電車に揺られ続けた。終着駅の名を告げるアナウンスがなると、彼女は静かに腰をあげた。

見たことも、聞いたこともない場所だった。駅を出ても、やはり何も思い当たる所はなかった。本当に、何ともない街なのだ。ただ、手を伸ばせば温もりを感じられそうなほどの生活感に満ちているという以外は。

「見て」と彼女が指さす方で、金と青の光がチラチラと輝いていた。僕は、「あれが見たかったの」と聞いた。すると彼女は首を振った。それもそのはずだ。あれはイルミネーションというにはチンケ過ぎる。でも──

「ステキだね」彼女という彼女の言葉に僕は頷いた。あれはイルミネーションというにはあまりに非力だ。施設をあげて豪奢に施されたそれとは、電灯ひとつと東京の夜景程の差がある。決してカップルが観に来るようなものでは無い。でも──ステキだ。なんともない街を何とか彩ろうとするその思いが。七色のライトはないけれど、たった二色だけだけど、それでも季節感を演出しようとするその朴訥な真心が。そしてそれらが調和し醸し出す空気が。なんとも言いようなく惹かれる。そう、ステキとしか言い表しようがない。

「どこでもよかったんだ」

彼女は言った。金と青の映る瞳は見蕩れてしまうほど綺麗だった。どんなイルミネーションにも適わないと思った。

「楽しい?」と彼女が聞いた。「うん」と僕は頷いた。それは本心からの言葉だった。感動もない。高揚もない。それでも、ただ彼女となんともない時間を共有しているだけで幸福だった。

彼女が歩き始めた。その手を取ろうとした。それで、僕のコートにそのまま突っ込んで、暖めようとした。でも僕の指はピクリとしか動かなかった。カッコイイことをしようとするといつも上手くいかない。並んで歩いた。

「何にもないね」やがて彼女は言った。「でも、思うんだ。こういうなんともない場所でも一緒にいれば楽しいって思えるような、そんな関係でありたいって──例えばだけど、私たちが結婚したとしてその時も今のようでいられるのかな。長い時間が経っても、二人の日々が当たり前になっても、それがなんともない日になっても」

「うん──」僕は言った。ずっと今のようでいられるはずだ。今日のことを、記憶の内で大切に暖めてさえおけば。──このことを──

僕の思考を遮るように、金属音が夜闇に響いた。ハッと振り返った。気がつけば電飾は歩道の並木にまで施されていた。彼女はその青色の光に見守られるようにして佇んでいた。彼女は優しく微笑んだ。それに呼応して光が瞬くように煌めいた。光と光の間隙で声がした。「忘れないで──」そう、確かに言った。そして彼女は消えた。

忘れていた──もっとも忘れてはならない記憶を。愕然とする。いつだ。いつ──違う。記憶は突然消えるようなものでは無い。砂上に落とされた一粒の珠が有象無象の中に埋もれ見えなくなるように、それは次第にわからなくなるものなのだ。本当に大切な記憶は、この辺りにあるはずなのにと見失う前に整理しておかなければならなかった。そのことを僕は失念していた。そしてその結果が彼女との諍いであり、現実味のない別れであり、僕の中を貫く空虚なのだ。

かつての僕は一人だった。誰にも求めなかった。代わりに誰にも応じる必要がなかった。それで良かった。そこに彼女がやってきた。彼女が僕を求めるうちに、僕も彼女を求めた。代わりに僕は彼女に応じ、彼女も僕に応じた。それは最高だ。それこそが愛だ。求める代わりに求められたら応じる──その関係を崩しさえしなければ、二人はずっと幸福でいられたのに。なのに、いつしか僕は自分が求めるばかりで、彼女の求めに応じなくなっていた。僕に恵まれていない彼女に、恵みを求めていた。

孤独な南極の熊は暖かさに触れるにつれ、その恵みに慣れてしまった。当たり前と思ってしまった。そして自ら持っていた暖かな毛を落としていった。結果、生まれたのはいたずらに爪と牙を伸ばした裸の猛獣。他者を暖める毛すら持たぬ、孤独では無いゆえに他者を傷付ける害獣。

彼女に謝りたかった。でもそれは叶わない。後ろに彼女はいないから──回想の中にしか、過去の中にしか彼女はもういない。僕は過去の彼女にしか謝ることすら出来ない。孤独に震える今、僕には自らを殺したいほど憎むことしか残されていない。

「さっきはごめん」

口をついて出た言葉が、誰に向けられたものなのか、自分でも判別がつかなかった。それは過去に向けた彼女への謝罪であったのかもしれないし、未だ利己的にも生にしがみつく己への寛容の希求なのかもしれない。ただ、これだけは確かだ。この言葉は彼女に決して届かない。それは虚空に舞い、誰にも応じられることなく、雨がその自重からそうするように、落ちた。降りかかる自らの言葉に打ちひしがれている僕がいた。この世界に、ひとり。

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