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約四か月のキラキラ。
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「陸上の百メートル走みたいな個人競技よりも、バスケやバレーみたいな団体競技のほうが好きだな。だってみんなで頑張れるし。」
バスケ部の西崎佳乃はこう言って微笑んだ。F中学二年一組の初秋の昼休み、運動部に所属する女子生徒が集まって話している最中だった。
東根静香は帰宅部で、したがってその近くの席に黙って座って小説を読んでいたのだったが、なぜか急にその佳乃の言葉が耳に入った。
「西崎さんたら、爽やかぶっちゃって。」
静香には、その後の陸上部の南部友紀の発言のほうがしっくりくる。
「でもさ、団体競技で足を引っ張る奴がいたらむかつくよ。私は個人競技のほうがいい。」
友紀は男っぽい性格で思ったことをズケズケ言うので、男子生徒からは煙たがられ、女子生徒からは一定の人気があった。
「そうよ、南部さんのほうが正直者だわ。」
静香は運動音痴で、その「足を引っ張る奴」の側なのだが、そんなことも忘れて友紀の意見に賛同していた。
「個人競技ならさ、自分が勝ったら自分の手柄だし、自分が負けても自分の責任じゃない? はっきりしてて私は好き。」
静香が、そうだそうだ、と思っていると、佳乃が反論した。
「けど、個人競技だと、結局勝っても『私が勝った』っていう、それだけなんだよね。団体競技はみんなで勝てたときに喜びが何倍にもなるから、それがいいんだ。」
また西崎さんそんなこと言ってる、南部さん言い負かしてよ、と静香は思っていたが、なんと友紀は自ら負けを認めたのだ。
「佳乃がそう言うなら仕方ないな。私はワンマンだから絶対そんな発想にならないんだもん。佳乃は偉い。」
静香は思わず友紀のほうを向いた。友紀は苦笑いしていた。
「まあ、個人の性格の問題もあるからねー。私はみんなと何か一緒にやるのが好きってだけ。」
佳乃はそう言って笑っている。静香が何となく二人を見ていると、佳乃と目が合ってしまった。
「あれ、東根さん、どうしたの?」
「いや、何だか二人の議論が聞こえてきたから。」
慌てて視線を外した静香に、友紀が言った。
「東根さんは多分私に考え方が近いよね。個人主義。」
二人のグループにいた他の子たちがどっと笑った。それに対して佳乃はこう宣言した。
「違うよ。だって東根さん、体育のバレーのとき、めちゃくちゃ頑張ってボール拾おうとしてくれてるよね。私、ちょっと感動しちゃった。」
静香は嫌なことを思い出した。昨日のバレーの授業のとき、自分の近くにボールが飛んできたので、静香は移動してボールの真下に入った。よし、これで私もボールを拾える、と思ったのだが、ボールの真下にあったのは静香の手や腕ではなく、頭だったのだ。おかげでボールは静香の頭頂部に当たり、なぜかそのまま相手側コートに入って得点となった。
「あれはナイスヘディングだったよね。」
友紀が言うと、また笑いが起きた。恥ずかしさのあまり、静香は俯いた。その直後、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
その日の放課後、静香はいつものように徒歩で駅前のバスターミナルに向かっていた。帰宅部である静香は、授業が終わるとまっすぐ家に帰るのだ。そうしたところ、うしろから、「おーい、東根さん!」と呼ぶ声が聞こえた。振り返ると佳乃だった。佳乃は静香に駆け寄ってきた。
「今日は体育館が使えないとかで部活が休みになっちゃった。」
佳乃は少し残念そうな顔をしている。
「西崎さんって本当にバスケが好きなんだね。」
「もともと身体を動かすのが好きで、じっとしてられない性格だから。けど、バスケ始めたら脚に筋肉が着いちゃってさ。見てよ、このふくらはぎ!」
佳乃は自分のふくらはぎを指差した。
「太腿も固くなったよ。触ってみて。」
佳乃は静香の右手を掴むと、制服のスカートの上から自分の太腿を触らせた。静香は妙にドキドキしている自分に気がついた。
「どう、固いでしょ?」
「う、うん、固いね。」
静香は左手で自分の太腿を同じように触ってみたが、確かに柔らかさが違っていた。しかし、問題はそんなことではない。佳乃は静香の手を放して言った。
「あー、本当に今日は退屈だなあ。家に帰って何をしよう? 姉ちゃんの漫画でも読むかな。」
静香はあまり佳乃と話をしたことがなく、共通の話題も見つからなかった。しばらく沈黙の時間が流れていた。
すると突然、駅ビルの前に立っていたお婆さんが二人に話しかけてきた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
静香が挨拶を返すと、お婆さんはこう言った。
「今日はあなたたちの幸せを祈らせてください。」
「すいません、幸せを祈るとはどういうことですか?」
静香は質問した。お婆さんは答えた。
「私が手をかざしてお祈りすることで、あなたたちの血液はサラサラになり……」
途中で、佳乃は静香の手をとって走り始めた。
「行こう!」
佳乃はかなりのスピードで走っていたが、不思議と静香は遅れずについて走ることができた。何だろう、この感覚は。見慣れた駅前の風景が溶けて後ろに向かってぐんぐん流れていき、静香にはっきりと見えるのはリュックを背負った佳乃の背中だけだった。このまま、こうやって走り続けてもいいのかも知れない、そう思ったとき、佳乃の足が止まり、静香から手が離された。バス乗り場に着いたのだ。
「東根さん、ダメじゃん。あんなのまともに取り合っちゃ。」
佳乃は少し怒ったような表情をしていた。さすがに部活でいつも走っているだけあって、全く息切れしていない。
「私、どうも、お年寄りの、言うことを、聞き流せなくて。」
静香は息切れのため途切れ途切れに弁解した。九月のまだ暑さの消えない時期のこと、立ち止まると急に汗が流れてきた。
「東根さん、優しいのはいいことだけど、優しすぎると付け込まれちゃうよ。もう二度と知らないお婆さんに話しかけられても相手にしないでね。」
少し警戒し過ぎなのではないか、と静香は内心思ったが、頷いた。
「じゃあ、私、東根さんとバスの方向が違うから、ここで。」
佳乃が静香に手を振ったので、静香も小さく手を振り返した。
この日を境に、静香は佳乃のことが気になり始めた。今まではただの「体育会系爽やか風味」なクラスメイトだと思っていた。しかし、本当はそうではなくて、実は細かな配慮ができる子なのではないか、それで自分のような地味な生徒のこともよく見てくれているのではないか……静香はそう考えたのである。
しばらくしたある月曜日、佳乃は左脚にギプスをはめて松葉杖をついて登校してきた。
「佳乃、どうしたの?」
真っ先に友紀が駆け寄った。佳乃の説明によればこうである。土曜日に他校との試合があり、プレー中に相手校の大柄な選手が佳乃に突進してきたのでかわそうとしたら、その選手が佳乃に向かって倒れてきたという。
「スポーツに怪我はつきものだからね。」
佳乃はそう言って笑っていたが、静香の見る限りいつもの元気はなさそうだった。
二三日して、佳乃は杖をつきながら静香の席にやってきた。
「ねぇ、おすすめの漫画ある?」
「どうしたの、急に。」
静香が怪訝な顔をしたので、佳乃は苦笑いした。
「いや、今怪我のせいでバスケできないからね。何か面白い漫画でもないかなーって。東根さんなら変わった漫画知ってそうに思ったんだけど。」
「分かった、明日持ってきて貸すよ。」
そう言った静香ではあったが、帰宅後に自分の部屋の本棚を見ても、いかにも佳乃が喜びそうなメジャーどころの漫画本は一冊もなかった。悩んだ挙句、どうにでも解釈できそうな岡崎京子の漫画を選んだ。『リバーズ・エッジ』である。これなら前に映画化もされたし、大丈夫だろう。
翌日、静香は念の為、その漫画本を紙袋に入れて口をセロハンテープでとめて佳乃に渡した。
「わあ、ありがとう、本当に持ってきてくれたんだね。」
佳乃はとても嬉しそうな顔をしたので、静香は内心たまらなく不安になった。
「私、西崎さんをがっかりさせてしまうんじゃないだろうか。」
佳乃はカバンにその紙袋をだいじそうにしまっていた。
その次の日の昼休み、佳乃は静香を呼んだ。
「ちょっといい?」
佳乃は松葉杖をつきながら廊下に出たので、静香は後について教室を出た。
「あの漫画、姉ちゃんも読みたいって言うから貸したんだけど、もうちょっと貸してもらっていいかな?」
佳乃には二つ上の高校生の姉がいる。その姉はこの中学の卒業生なので、静香も一年生のときに会ったことがあったが、佳乃とは正反対の、物静かで大人しい人物だった。
「いいよ。」
「ごめんね、うちは姉ちゃんが割と漫画や本が好きで、暇なときは時々借りて読むんだけど、あの漫画は姉ちゃんも持ってないタイプの漫画で。」
それはそうだろう。『リバーズ・エッジ』は25年前の作品だ。
「で、なんで山田にとって死体が宝物なの?」
佳乃がいきなり核心を突いてきた。静香は焦ったが、とりあえず社会科の知識で誤魔化すことにした。
「歴史の資料集で九相図ってあったじゃない?女の人が死んで、死体が腐っていくのを描いたやつ。昔はあれを見ながらお坊さんが修行してたっていうけど、そんな感じじゃないかな。」
佳乃は「ふーん」と言ってこう続けた。
「どうせ最後はみんな死んで腐っていくってこと?」
「うん、そうだね。」
「けど、私にはやっぱり死体が宝物っていう感覚がよく分からないんだ。他は分かっても、そこだけは分からない。」
静香にだって分からない。分かったような気になっているだけで、言葉で説明しろと言われてもできるものではない。静香が俯いてしばらく困っていると、佳乃はふと言った。
「だからね、姉ちゃんが読んだら、姉ちゃんにも聞いてみようと思うんだ。『死体が宝物ってどういうことなの?』って。」
静香は難しい問いから解放されたので、「そうなんだ」と笑った。
「姉ちゃんからあの漫画が返ってきたらさ、次の漫画を貸してよ。」
「分かった!」
こうして、静香は佳乃の骨折が完治するまでの約三か月間、週に一冊程度の頻度で漫画本を貸し続けた。間隔が長めなのは、佳乃が姉にまた貸しをするからである。一冊完結ものもあれば三分冊になったものもあったが、学校で貸し借りをするため荷物にならないよう、三分冊を超えるものは何回かに分けるようにした。
「岡崎京子はちょっと不思議な感じがしたけど、吉田秋生はいいね。『ラヴァーズ・キス』、泣いちゃった!」
佳乃は静香を廊下に呼び出して、その都度感想のようなものを聞かせてくる。静香はうんうんと言って頷いているだけだったが、それはそれで幸せな時間だった。佳乃の笑顔は静香の心を揺さぶる。どうして子はこんなに素敵に笑えるのだろう。静香は自宅の母親の三面鏡で笑顔を作ってみたが、あんなに魅力的な笑い方はできないのだった。
あるとき佳乃はニコニコしながら言った。
「それにしても、こうやって友達と同じ漫画を読んで話をするのって楽しいね。今までは姉ちゃんとだけだったから。」
「うん、私も楽しい。どれを貸したら西崎さん喜んでくれるかなあって。」
「私のために考えてくれてるんだ、ありがとう。」
佳乃は静香に右手を差し出した。静香はそれを震える手で握った。佳乃の手は温かかった。
骨折から三か月、佳乃は完全に復活し、試合にも出られるようになった。佳乃は、最後に借りた漫画を紙袋に入れて静香に返した。
「今までありがとう。もう貸してくれなくていいからね。きっと読もうとしても疲れて寝ちゃうもん。」
静香は何となく寂しい気分になったが、佳乃がまたバスケットボールで活躍できるなら、それに越したことはない、と自分に言い聞かせた。そんな静香の表情を読み取ったのか、佳乃は笑った。
「また骨折したらお願いね。」
そんなまさか、と静香は笑って返した。
その日、静香は帰宅して、カバンから渡された紙袋を取り出した。中には、貸した漫画と封筒が入っていた。
「あれ、何かな?」
水色の封筒をあけると、一枚の便箋に佳乃が大きめの割と整った字でこう書いていた。
「東根さんへ
今まで漫画、ありがとう! おかげで楽しかったです。正直、東根さんが何を考えているのか分からなかったけど、ちょっとだけ分かった気がしました。深いことまで考えてるんだなあって。でも、駅前の宗教の人にはついて行かないでね! これからもよろしく。
佳乃」
静香は涙が出そうになった。多分、佳乃は誰にでもこんな感じでフレンドリーなんだろう。そう頭では分かっていても、静香の心は佳乃のことでいっぱいになった。その手紙は机の引き出しにだいじにしまっておいた。
冬休み直前、F中学ではクラス対抗の球技大会があった。2年女子の種目はバスケットボールとドッジボールで、バスケ部の選手である佳乃は当然バスケットボールに出場することになった。一方、静香は、「ボールから逃げ回っていればいい」という理由でドッジボールを選んだ。同じくドッジボールを選んだ友紀も、こう言った。
「私がガンガンボールを当てに行くから、東根さんたちは当てられないようにしてくれたらいいよ。」
友紀の言葉は心強かった。作戦としては、友紀と、怪力で有名な北見明日香が内野・外野でコンビを組んで、敵にボールをぶつけていくというものだ。そのおかげで、一組のドッジボールは三戦全勝し(二年生は全部で四クラスであり、総当たり戦を行った)、優勝した。
「バスケットボールは多分まだ試合やってるから見に行こう!」
友紀の号令で、ドッジボールの選手たちは体育館へ移動し、バスケットボールの一組対三組を観戦することになった。一組は佳乃のおかげで優勝候補と目されていたが、三組には高身長で体格の良い中澤がおり、他のクラスはこの中澤を攻略できずに敗戦していた。この中澤のパワフルなプレーには、普通の女子では対抗できないようだ。
「西崎さん、大丈夫かな。」
ポロッとこぼした静香に、友紀は言った。
「中澤さんなんか、デカくてパワーがあるだけで技術はないよ。佳乃は正真正銘バスケ部の選手なんだから心配なし!」
試合が始まってみると、まさに友紀の発言の通りになった。中澤がドリブルで突き進もうとすると、その隙間から佳乃がうまくボールを奪ってドリブルをし、シュートを決める。逆に、佳乃がドリブルで進もうとすると、目の前に中澤が立ちはだかるが、佳乃はこれをうまくかわして、やはりシュートを決める。得点が重なり、一組は三組に大きくリードした。
静香は、佳乃のプレーをずっと外から見ていた。細かな技術などは全く分からなかったが、佳乃の俊敏な動きに見とれていた。佳乃はそれほど背の高いほうではなかったが、大柄な中澤を翻弄する様子は痛快とすらいえる。
それでだろう、だんだん中澤の表情が険しくなってきた。ボールを佳乃に取られると舌打ちをしたり、後ろから蹴る真似をするようになった。
「あれ、だいぶヒートアップしてるんじゃないの?」
誰かがそう言ったとき、それが中澤の耳に入ったらしく、中澤が叫んだ。
「なによあいつ、ちょこまかちょこまか、うざったい!」
これには友紀が応酬した。
「身長なんか自分でもコントロールできないでしょ。そんなクレームを入れられても。」
観戦者は皆これを聞いて爆笑した。ますます中澤は激昴した。
「あの女、潰してやる!」
何と佳乃がドリブルでゴールに向かって走っていると、中澤はそれを追いかけて急に後ろから突進したのだ。勢いで二人とも転倒したが、その直後佳乃の悲痛な声が体育館にこだました。
「痛いっ!」
それを聞いて、びっくりした中澤がはね起きた。
「ちょっとあんた、何やってんのよ!」
友紀が怒鳴った。審判役をしていた体育の先生が佳乃に駆け寄る。
「足首を捻ったの? 一旦保健室に行きましょう。誰か、西崎さんを連れて行ってあげて。」
友紀は佳乃に近づくと、肩を貸して二人で保健室のほうへ向かった。
先生は中澤に向かって、「あなたは退場!」と宣言した。
試合のその後のことは、静香もあまり覚えていなかったが、とりあえず一組は怪我をした佳乃に代わって観戦していた北見が入った。三組も退場になった中澤に代わって誰かコートに入っていたが、それまでの試合の雰囲気とまるで変わってしまい、ただただボールがコートの中を右左に移動するだけになった。もちろん、みんな骨折が治ったばかりであんなことになった佳乃のことを心配して、試合どころではなかったということもある。結果は、先にリードしていたおかげで一組が勝ち、バスケットボールも一組の優勝となった。
静香たちが教室に戻ると、先に友紀が自分の席に座っていた。いつも友紀には自発的に話しかけない静香だったが、今日は佳乃のことが気になって尋ねた。
「西崎さんはどうなの?」
「とりあえず佳乃のお母さんに車で迎えに来てもらって、病院に連れて行くことになった。」
友紀は苦々しい顔をしている。
「中澤め、あいつぶん殴ってやりたい。」
静香も同じような気持ちだが、何も言えなかった。中澤がどうしてそんな行動に出たのか全く分からない。たかが球技大会で負けそうになったくらいで憎悪をぶつけなくても。
友紀は顔を静香に向けて言った。
「中澤さ、前から佳乃のことが嫌いだったんだよ。あいつバレー部でしょ? 帰りが似たような時間になるし、バスも同じ方向だから、よくバスの中で一緒になるんだって。」
「そうなんだ。」
「で、時々話をするんだけど、どういうわけか中澤が喧嘩腰で話してくるんだ、って佳乃が愚痴ってた。『バスケ部地区予選敗退おめでとう』とか。」
中澤がどうして佳乃に反感を抱いているのかは分からない。もしかしたら、前の静香のように、佳乃の爽やかな感じが鼻についていたのかもしれなかった。
「中澤みたいなのが佳乃にイライラする気持ちは分からなくもないんだ。だけど佳乃、本当にいい子じゃん。何で骨折が治ったばかりのときにまた怪我させるようなことを!」
友紀は机を両手で強く叩いた。クラスのみんなが友紀のほうを振り返った。
その日の帰りのホームルームで担任が言った。
「みんな、球技大会で怪我をした西崎だけど、あの後西崎のお母さんから学校に電話があってな。今回は骨折じゃなくて全治二週間程度の捻挫だそうだ。また松葉杖で学校に来るみたいだけど、周りの奴らは優しくしてやってくれ。」
クラス中が安堵した雰囲気につつまれた。
しかし、翌朝登校してきた佳乃は表情が暗かった。
「佳乃、おはよう!」
友紀が声を掛けたが、佳乃は「おはよう」ではなく「うん。」と返した。
「友紀ちゃん、聞いて。私、バスケ辞めさせられそうなんだ。」
佳乃の報告に、友紀は「えーっ!」と大声で叫んだ。その声で数人、他のクラスの女の子が集まってきた。
「なんかね、ママが『そんなに怪我ばかりするならバスケなんか辞めなさい!』って。辞めて姉ちゃんみたいに勉強して、勉強でいい高校に入ったほうが得だって。ほら、三年になったら受験もあるし。」
友紀は「信じられない!」と答えた。
「せめて三年の夏までは続けさせてくれないの? 前のはともかく、昨日のは完全に中澤が悪いじゃん。」
佳乃は沈んだ声で言った。
「ママにもちゃんと説明したんだけど、『原因はさておき、そんな危険なこと親として続けさせられない』って言うんだよね。しょうがないよ、冬休みからは塾の冬季講習に行かなきゃ。」
他のクラスの女の子たちも、それを聞いて佳乃の母親の判断の理不尽さについて文句を言っていた。ただ、それを近くの席で聞いていた静香だけは、「私がお母さんでもそう言うかもしれないな」と思った。可愛い我が子を危険に晒しておくようなことはできない。それならいっそ、別の打ち込めることを見つけたほうがいい。幸い、佳乃は友紀と違って成績の悪い方ではない。ならば、真面目に勉強をして上位高を狙うのも長い目で見れば良いことかもしれなかった。
その日の昼休み、佳乃は松葉杖をつきながら静香の席にやってきた。
「東根さん、前に言ったよね。今度は捻挫だけど、また漫画貸して、お願い!」
静香はこう返答した。
「いいけど、冬休みからは勉強するんじゃないの?」
佳乃は苦笑いした。
「そう、冬休みから勉強するのでその息抜きに。冬休み明けに返すから、今度は長いやつがいいな。」
「分かった。」
静香は帰宅すると、すぐに本棚から「デトロイト・メタル・シティ」全10巻を取り出し、それを家にあったデパートの紙袋に詰めると口をガムテープで塞いだ。翌朝、通学用のカバン以外にその紙袋を持って登校するのは少々重かったが、佳乃のことを思うと静香は何でもなかった。
教室に入ると、静香はその重い紙袋を佳乃の机の上に、挨拶代わりにドンッと置いた。
「ありがとう、本当に持ってきてくれたんだ?」
佳乃は微笑みながらそう言った。音で気づいた友紀が静香に話しかけた。
「東根さん、何これ?」
「西崎さんの冬休みの宿題。」
静香は咄嗟に変な返答をしてしまい、後になって焦ったが、佳乃は笑った。
「そうなんだ、友紀ちゃん、これ私の宿題なんだ。すごいでしょう?」
友紀はしかめっ面をした。
「私は宿題なんか要らないけどな。休みの日くらいは宿題を忘れたいよ。ところで佳乃、松葉杖なのにこれ、どうやって持って帰るの?」
静香は「しまった!」と思ったが、佳乃はまた笑いながら言った。
「今日はママが車で迎えに来るから大丈夫。」
静香は安堵した。
年が明け、始業式の日になった。佳乃はもう松葉杖もついておらず、足首も治ったようだった。友紀は言った。
「もう大丈夫?」
佳乃は寂しげに笑った。
「うん、痛みもだいぶ取れたよ。でももう部活できないからね。」
「冬季講習に行ったんだっけ?」
「行ったよ。おかげで冬休み中はいっぱい勉強できた。まだ気持ちの切り替えはできないけど。」
佳乃は静香の視線に気づくと、こう言った。
「あ、東根さん、ママが放課後に話があるって。で、そのときに漫画は返すってさ。ごめんね。」
佳乃は心なしか申し訳なさそうな顔をしていた。静香はとても嫌な予感がするのだった。
その日、帰りのホームルームが終わると、佳乃は静香に声を掛けた。
「ママ、多分もうすぐ来るから、ここで待ってよう?」
二人は校舎の玄関ロビーでしばらく待つことになった。
「それで漫画、どうだった?」
静香が感想を尋ねた。
「途中までは読んでて、すごく面白かったんだけどね、ママに見つかっちゃって。本当にごめん。」
佳乃は小さく手を合わせた。嫌な予感は的中したらしい。
「見つかって、どうなったの?!」
そう静香が言ったとき、校舎の目の前に赤いセダンが停まった。
「あ、あれママの車だ。行くよ!」
気が進まない静香だったが、渋々佳乃の後ろをついて行った。
車の助手席の窓ガラスが開いた。
「佳乃、助手席に乗りなさい。」
高そうなメガネをかけた佳乃の母親はそう言った。佳乃が助手席に乗り込むと、その後佳乃の母親は静香に声を掛けた。
「東根さんかしら?」
「はい。」
「ここでは何だから、近くの喫茶店に行きましょう。後ろに乗って。」
静香は左後部ドアを開けると、お邪魔します、と言って助手席の後ろに乗り込んだ。それを確認した佳乃の母親は発車して、しばらく国道沿いを走った。車内では誰も一言も発しなかったが、大きな看板の出ているカフェに着くと、車はそのカフェの駐車場に入った。佳乃の母親は白い枠内に車を停めると、トランクから静香の見覚えのある紙袋を取り出した。静香が佳乃に貸した漫画本である。
喫茶店で静香が佳乃の母親の向かいに着席すると、佳乃の母親は明らかな作り笑いをして言った。
「佳乃も東根さんも、好きなものを頼んでいいのよ。」
佳乃は元気なく「紅茶でいいや」と言った。静香は、「コーヒー、いいですか?」と遠慮がちに佳乃の母親に告げた。
佳乃の母親は店員を呼び止めると、「レモンティー二つ、ブレンド一つ。」と注文をした。平日の午後三時、大きな店だが客はまばらだった。佳乃の母親はこう切り出した。
「東根さん、佳乃に面白い漫画を貸してくれてありがとう。前に骨折したときにも貸してくれたんですって?」
「あ、はい。」
「でも、今回のはちょっと面白過ぎたようね。」
母親の隣に座っている佳乃が目で謝っている。
「レイプとか殺害するとか、ちょっと過激過ぎやしないかしら。」
デトロイト・メタル・シティには、本当にレイプや殺人の場面が描かれているわけではない。単に主人公が歌う中でそうシャウトしているだけだ。佳乃の母親は続けた。
「そもそも題材がデスメタルっていうのもちょっといただけないわ。そんな騒音みたいな音楽、何がいいのかしら。」
静香だってデスメタルのことはよく知らない。しかし、この漫画の本論がそこにある訳ではないことは分かっている。
「ねぇ、東根さん。あなたは何を思って佳乃にこれを貸したの?」
佳乃の母親がテーブルに紙袋を置いた。そのとき、注文したコーヒーと紅茶が運ばれてきたので、店員は紙袋を避けてティーカップを置かざるを得なかった。
静香は心を落ち着かせるため、「いただきます」と断ってからコーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、一口飲んでこう言った。
「西崎さんに元気になって欲しかったんです。」
佳乃の母親は鼻で笑った。
「漫画で佳乃の怪我が治ったら医者は要らないわよ。」
「そういう意味ではありません。」
静香は反論した。
「西崎さんは、バスケ部を辞めることになって、学校でもちょっと落ち込んでいるようでした。だから、前に私が読んで元気が出た漫画を貸そうと思って。」
佳乃の母親は理解しかねる、といった顔をしている。
「東根さんはこんなものを読んでどうして元気になったのかしら。」
静香はコーヒーをもう一口飲んでから答えた。
「単純に、バカバカしいからです。これだけバカバカしいと小さな悩みは全部吹っ飛びます。」
佳乃の母親はそれを聞いて、少しイライラしているようだった。
「確かにこの漫画、ほんっとうにバカバカしいわね。でも、佳乃はこんなバカバカしいもので元気が出るような単純な子ではありません。」
再度静香は佳乃のほうを見た。佳乃はただただ渋い顔をして目をつぶっている。 静香は何故かここで心のスイッチが入ってしまった。
「なるほど、お母さんは、西崎さんは下品な私とは違うから、高尚なものを読むべきだと仰りたいのですね?」
佳乃の母親は少し慌てた。
「そ、そこまで言うつもりはないのよ。だけどもう少し東根さんもこんなものではなくて、もっと良い漫画や小説を読むべきじゃないかしら?」
静香はさらに言った。
「お母さんの仰る良い漫画や小説とはなんでしょうか? 赤毛のアンとかですか!?」
「うーん、それでもいいけど、漫画でも歴史物とかあるじゃない? やはり勉強になるようなものじゃないと。」
静香は佳乃に同情した。これでは家にいても息苦しいはずである。
「そういや、西崎さんのお姉さんもよく漫画を読むと西崎さんから聞いていますが。」
佳乃の母親は急にニコニコしながら頷いた。
「ああ、藤乃はこの子と違ってよく勉強するもんだから、ご褒美に買ってあげてたのよ。ベルサイユのばらとかヒストリエとか。佳乃もお姉ちゃんに借りて読んだのよね?」
佳乃は小さく頷いた。静香はこう思った。西崎家の教育方針は分かった。しかし、何で自分まで説教されているのか分からない。
「まあ、ようは、お母さんは西崎さんにはそういうものしか読ませたくない、くだらない漫画を貸すな、と。こういうことですね?」
静香は話をまとめにかかった。佳乃の母親はよりニコニコした。
「そうなの、さすが東根さんは飲み込みの早い人だわ。」
「分かりました。」
静香は残ったコーヒーをぐいっと飲み干すと立ち上がった。
「あら、駅まで送ってあげるのに。」
「いや、結構です。」
テーブルの上に置かれた紙袋を持つと、静香はそのまま店を出た。ここから駅までは歩いて三十分ほどあるが、歩く疲れや漫画の重さ、一月の風の冷たさは全て怒りで消し飛んでしまった。やはりあの母親は間違っていると思う。しかし、静香がどうにかできることではない。佳乃だって全く母親に逆らえないのだから。
ただ、逆らえないとはいえ、あれほど従順なのもいかがなものか。あの子には自分の心の独立性といったものはないのか。自分の感受性くらい、という教科書で習った詩を思い出した。馬鹿者よ。
翌朝、登校した静香に佳乃が話しかけた。
「ちょっと廊下で、いいかな?」
二人は廊下に出た。廊下には暖房がないものだから、やや底冷えした。
「昨日は本当にママが、ごめんなさい!」
佳乃は胸の前で両手を合わせた。
「別に西崎さんが悪いんじゃないから、謝る必要ないよ。」
「いや、私が漫画を読んでるところをママに見つかったのも原因の一つだから。ごめんなさい、せっかく貸してくれたのに。」
静香は落ち着いた声で言った。
「で、あの後、お母さんは何と?」
「とりあえず東根さんから漫画を借りるのは禁止になった。」
「あ、そう。」
「ママは、東根さんと仲良くするのも反対だって言ってた。」
「あ、そう。」
静香の、佳乃に対する気持ちは、昨日の喫茶店での佳乃の様子を見て完全に萎んでしまっていた。宝物がただのゴミに変わった。佳乃は何でもママの言う通りにしておけばいい。
静香の素っ気ない態度を見た佳乃は、静香の腕を引っ張って言った。
「違うの、私自身は東根さんと仲良くしたいって思ってる。」
静香は冷たく腕を振り払って言った。
「でもそれはママが許さないんでしょう?」
静香はそのまま教室に戻って行った。
静香はその日帰宅すると、父親の灰皿とライターを自分の部屋に持ち込んだ。そして、机の引き出しにしまってあった佳乃からの手紙を封筒ごと燃やした。灰になっていく手紙を見て、静香は小声で言った。
「ちょっとだけキラキラした時間をくれてありがとう。でも、バイバイ。」
窓の外では雪が降り始めていた。
バスケ部の西崎佳乃はこう言って微笑んだ。F中学二年一組の初秋の昼休み、運動部に所属する女子生徒が集まって話している最中だった。
東根静香は帰宅部で、したがってその近くの席に黙って座って小説を読んでいたのだったが、なぜか急にその佳乃の言葉が耳に入った。
「西崎さんたら、爽やかぶっちゃって。」
静香には、その後の陸上部の南部友紀の発言のほうがしっくりくる。
「でもさ、団体競技で足を引っ張る奴がいたらむかつくよ。私は個人競技のほうがいい。」
友紀は男っぽい性格で思ったことをズケズケ言うので、男子生徒からは煙たがられ、女子生徒からは一定の人気があった。
「そうよ、南部さんのほうが正直者だわ。」
静香は運動音痴で、その「足を引っ張る奴」の側なのだが、そんなことも忘れて友紀の意見に賛同していた。
「個人競技ならさ、自分が勝ったら自分の手柄だし、自分が負けても自分の責任じゃない? はっきりしてて私は好き。」
静香が、そうだそうだ、と思っていると、佳乃が反論した。
「けど、個人競技だと、結局勝っても『私が勝った』っていう、それだけなんだよね。団体競技はみんなで勝てたときに喜びが何倍にもなるから、それがいいんだ。」
また西崎さんそんなこと言ってる、南部さん言い負かしてよ、と静香は思っていたが、なんと友紀は自ら負けを認めたのだ。
「佳乃がそう言うなら仕方ないな。私はワンマンだから絶対そんな発想にならないんだもん。佳乃は偉い。」
静香は思わず友紀のほうを向いた。友紀は苦笑いしていた。
「まあ、個人の性格の問題もあるからねー。私はみんなと何か一緒にやるのが好きってだけ。」
佳乃はそう言って笑っている。静香が何となく二人を見ていると、佳乃と目が合ってしまった。
「あれ、東根さん、どうしたの?」
「いや、何だか二人の議論が聞こえてきたから。」
慌てて視線を外した静香に、友紀が言った。
「東根さんは多分私に考え方が近いよね。個人主義。」
二人のグループにいた他の子たちがどっと笑った。それに対して佳乃はこう宣言した。
「違うよ。だって東根さん、体育のバレーのとき、めちゃくちゃ頑張ってボール拾おうとしてくれてるよね。私、ちょっと感動しちゃった。」
静香は嫌なことを思い出した。昨日のバレーの授業のとき、自分の近くにボールが飛んできたので、静香は移動してボールの真下に入った。よし、これで私もボールを拾える、と思ったのだが、ボールの真下にあったのは静香の手や腕ではなく、頭だったのだ。おかげでボールは静香の頭頂部に当たり、なぜかそのまま相手側コートに入って得点となった。
「あれはナイスヘディングだったよね。」
友紀が言うと、また笑いが起きた。恥ずかしさのあまり、静香は俯いた。その直後、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
その日の放課後、静香はいつものように徒歩で駅前のバスターミナルに向かっていた。帰宅部である静香は、授業が終わるとまっすぐ家に帰るのだ。そうしたところ、うしろから、「おーい、東根さん!」と呼ぶ声が聞こえた。振り返ると佳乃だった。佳乃は静香に駆け寄ってきた。
「今日は体育館が使えないとかで部活が休みになっちゃった。」
佳乃は少し残念そうな顔をしている。
「西崎さんって本当にバスケが好きなんだね。」
「もともと身体を動かすのが好きで、じっとしてられない性格だから。けど、バスケ始めたら脚に筋肉が着いちゃってさ。見てよ、このふくらはぎ!」
佳乃は自分のふくらはぎを指差した。
「太腿も固くなったよ。触ってみて。」
佳乃は静香の右手を掴むと、制服のスカートの上から自分の太腿を触らせた。静香は妙にドキドキしている自分に気がついた。
「どう、固いでしょ?」
「う、うん、固いね。」
静香は左手で自分の太腿を同じように触ってみたが、確かに柔らかさが違っていた。しかし、問題はそんなことではない。佳乃は静香の手を放して言った。
「あー、本当に今日は退屈だなあ。家に帰って何をしよう? 姉ちゃんの漫画でも読むかな。」
静香はあまり佳乃と話をしたことがなく、共通の話題も見つからなかった。しばらく沈黙の時間が流れていた。
すると突然、駅ビルの前に立っていたお婆さんが二人に話しかけてきた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
静香が挨拶を返すと、お婆さんはこう言った。
「今日はあなたたちの幸せを祈らせてください。」
「すいません、幸せを祈るとはどういうことですか?」
静香は質問した。お婆さんは答えた。
「私が手をかざしてお祈りすることで、あなたたちの血液はサラサラになり……」
途中で、佳乃は静香の手をとって走り始めた。
「行こう!」
佳乃はかなりのスピードで走っていたが、不思議と静香は遅れずについて走ることができた。何だろう、この感覚は。見慣れた駅前の風景が溶けて後ろに向かってぐんぐん流れていき、静香にはっきりと見えるのはリュックを背負った佳乃の背中だけだった。このまま、こうやって走り続けてもいいのかも知れない、そう思ったとき、佳乃の足が止まり、静香から手が離された。バス乗り場に着いたのだ。
「東根さん、ダメじゃん。あんなのまともに取り合っちゃ。」
佳乃は少し怒ったような表情をしていた。さすがに部活でいつも走っているだけあって、全く息切れしていない。
「私、どうも、お年寄りの、言うことを、聞き流せなくて。」
静香は息切れのため途切れ途切れに弁解した。九月のまだ暑さの消えない時期のこと、立ち止まると急に汗が流れてきた。
「東根さん、優しいのはいいことだけど、優しすぎると付け込まれちゃうよ。もう二度と知らないお婆さんに話しかけられても相手にしないでね。」
少し警戒し過ぎなのではないか、と静香は内心思ったが、頷いた。
「じゃあ、私、東根さんとバスの方向が違うから、ここで。」
佳乃が静香に手を振ったので、静香も小さく手を振り返した。
この日を境に、静香は佳乃のことが気になり始めた。今まではただの「体育会系爽やか風味」なクラスメイトだと思っていた。しかし、本当はそうではなくて、実は細かな配慮ができる子なのではないか、それで自分のような地味な生徒のこともよく見てくれているのではないか……静香はそう考えたのである。
しばらくしたある月曜日、佳乃は左脚にギプスをはめて松葉杖をついて登校してきた。
「佳乃、どうしたの?」
真っ先に友紀が駆け寄った。佳乃の説明によればこうである。土曜日に他校との試合があり、プレー中に相手校の大柄な選手が佳乃に突進してきたのでかわそうとしたら、その選手が佳乃に向かって倒れてきたという。
「スポーツに怪我はつきものだからね。」
佳乃はそう言って笑っていたが、静香の見る限りいつもの元気はなさそうだった。
二三日して、佳乃は杖をつきながら静香の席にやってきた。
「ねぇ、おすすめの漫画ある?」
「どうしたの、急に。」
静香が怪訝な顔をしたので、佳乃は苦笑いした。
「いや、今怪我のせいでバスケできないからね。何か面白い漫画でもないかなーって。東根さんなら変わった漫画知ってそうに思ったんだけど。」
「分かった、明日持ってきて貸すよ。」
そう言った静香ではあったが、帰宅後に自分の部屋の本棚を見ても、いかにも佳乃が喜びそうなメジャーどころの漫画本は一冊もなかった。悩んだ挙句、どうにでも解釈できそうな岡崎京子の漫画を選んだ。『リバーズ・エッジ』である。これなら前に映画化もされたし、大丈夫だろう。
翌日、静香は念の為、その漫画本を紙袋に入れて口をセロハンテープでとめて佳乃に渡した。
「わあ、ありがとう、本当に持ってきてくれたんだね。」
佳乃はとても嬉しそうな顔をしたので、静香は内心たまらなく不安になった。
「私、西崎さんをがっかりさせてしまうんじゃないだろうか。」
佳乃はカバンにその紙袋をだいじそうにしまっていた。
その次の日の昼休み、佳乃は静香を呼んだ。
「ちょっといい?」
佳乃は松葉杖をつきながら廊下に出たので、静香は後について教室を出た。
「あの漫画、姉ちゃんも読みたいって言うから貸したんだけど、もうちょっと貸してもらっていいかな?」
佳乃には二つ上の高校生の姉がいる。その姉はこの中学の卒業生なので、静香も一年生のときに会ったことがあったが、佳乃とは正反対の、物静かで大人しい人物だった。
「いいよ。」
「ごめんね、うちは姉ちゃんが割と漫画や本が好きで、暇なときは時々借りて読むんだけど、あの漫画は姉ちゃんも持ってないタイプの漫画で。」
それはそうだろう。『リバーズ・エッジ』は25年前の作品だ。
「で、なんで山田にとって死体が宝物なの?」
佳乃がいきなり核心を突いてきた。静香は焦ったが、とりあえず社会科の知識で誤魔化すことにした。
「歴史の資料集で九相図ってあったじゃない?女の人が死んで、死体が腐っていくのを描いたやつ。昔はあれを見ながらお坊さんが修行してたっていうけど、そんな感じじゃないかな。」
佳乃は「ふーん」と言ってこう続けた。
「どうせ最後はみんな死んで腐っていくってこと?」
「うん、そうだね。」
「けど、私にはやっぱり死体が宝物っていう感覚がよく分からないんだ。他は分かっても、そこだけは分からない。」
静香にだって分からない。分かったような気になっているだけで、言葉で説明しろと言われてもできるものではない。静香が俯いてしばらく困っていると、佳乃はふと言った。
「だからね、姉ちゃんが読んだら、姉ちゃんにも聞いてみようと思うんだ。『死体が宝物ってどういうことなの?』って。」
静香は難しい問いから解放されたので、「そうなんだ」と笑った。
「姉ちゃんからあの漫画が返ってきたらさ、次の漫画を貸してよ。」
「分かった!」
こうして、静香は佳乃の骨折が完治するまでの約三か月間、週に一冊程度の頻度で漫画本を貸し続けた。間隔が長めなのは、佳乃が姉にまた貸しをするからである。一冊完結ものもあれば三分冊になったものもあったが、学校で貸し借りをするため荷物にならないよう、三分冊を超えるものは何回かに分けるようにした。
「岡崎京子はちょっと不思議な感じがしたけど、吉田秋生はいいね。『ラヴァーズ・キス』、泣いちゃった!」
佳乃は静香を廊下に呼び出して、その都度感想のようなものを聞かせてくる。静香はうんうんと言って頷いているだけだったが、それはそれで幸せな時間だった。佳乃の笑顔は静香の心を揺さぶる。どうして子はこんなに素敵に笑えるのだろう。静香は自宅の母親の三面鏡で笑顔を作ってみたが、あんなに魅力的な笑い方はできないのだった。
あるとき佳乃はニコニコしながら言った。
「それにしても、こうやって友達と同じ漫画を読んで話をするのって楽しいね。今までは姉ちゃんとだけだったから。」
「うん、私も楽しい。どれを貸したら西崎さん喜んでくれるかなあって。」
「私のために考えてくれてるんだ、ありがとう。」
佳乃は静香に右手を差し出した。静香はそれを震える手で握った。佳乃の手は温かかった。
骨折から三か月、佳乃は完全に復活し、試合にも出られるようになった。佳乃は、最後に借りた漫画を紙袋に入れて静香に返した。
「今までありがとう。もう貸してくれなくていいからね。きっと読もうとしても疲れて寝ちゃうもん。」
静香は何となく寂しい気分になったが、佳乃がまたバスケットボールで活躍できるなら、それに越したことはない、と自分に言い聞かせた。そんな静香の表情を読み取ったのか、佳乃は笑った。
「また骨折したらお願いね。」
そんなまさか、と静香は笑って返した。
その日、静香は帰宅して、カバンから渡された紙袋を取り出した。中には、貸した漫画と封筒が入っていた。
「あれ、何かな?」
水色の封筒をあけると、一枚の便箋に佳乃が大きめの割と整った字でこう書いていた。
「東根さんへ
今まで漫画、ありがとう! おかげで楽しかったです。正直、東根さんが何を考えているのか分からなかったけど、ちょっとだけ分かった気がしました。深いことまで考えてるんだなあって。でも、駅前の宗教の人にはついて行かないでね! これからもよろしく。
佳乃」
静香は涙が出そうになった。多分、佳乃は誰にでもこんな感じでフレンドリーなんだろう。そう頭では分かっていても、静香の心は佳乃のことでいっぱいになった。その手紙は机の引き出しにだいじにしまっておいた。
冬休み直前、F中学ではクラス対抗の球技大会があった。2年女子の種目はバスケットボールとドッジボールで、バスケ部の選手である佳乃は当然バスケットボールに出場することになった。一方、静香は、「ボールから逃げ回っていればいい」という理由でドッジボールを選んだ。同じくドッジボールを選んだ友紀も、こう言った。
「私がガンガンボールを当てに行くから、東根さんたちは当てられないようにしてくれたらいいよ。」
友紀の言葉は心強かった。作戦としては、友紀と、怪力で有名な北見明日香が内野・外野でコンビを組んで、敵にボールをぶつけていくというものだ。そのおかげで、一組のドッジボールは三戦全勝し(二年生は全部で四クラスであり、総当たり戦を行った)、優勝した。
「バスケットボールは多分まだ試合やってるから見に行こう!」
友紀の号令で、ドッジボールの選手たちは体育館へ移動し、バスケットボールの一組対三組を観戦することになった。一組は佳乃のおかげで優勝候補と目されていたが、三組には高身長で体格の良い中澤がおり、他のクラスはこの中澤を攻略できずに敗戦していた。この中澤のパワフルなプレーには、普通の女子では対抗できないようだ。
「西崎さん、大丈夫かな。」
ポロッとこぼした静香に、友紀は言った。
「中澤さんなんか、デカくてパワーがあるだけで技術はないよ。佳乃は正真正銘バスケ部の選手なんだから心配なし!」
試合が始まってみると、まさに友紀の発言の通りになった。中澤がドリブルで突き進もうとすると、その隙間から佳乃がうまくボールを奪ってドリブルをし、シュートを決める。逆に、佳乃がドリブルで進もうとすると、目の前に中澤が立ちはだかるが、佳乃はこれをうまくかわして、やはりシュートを決める。得点が重なり、一組は三組に大きくリードした。
静香は、佳乃のプレーをずっと外から見ていた。細かな技術などは全く分からなかったが、佳乃の俊敏な動きに見とれていた。佳乃はそれほど背の高いほうではなかったが、大柄な中澤を翻弄する様子は痛快とすらいえる。
それでだろう、だんだん中澤の表情が険しくなってきた。ボールを佳乃に取られると舌打ちをしたり、後ろから蹴る真似をするようになった。
「あれ、だいぶヒートアップしてるんじゃないの?」
誰かがそう言ったとき、それが中澤の耳に入ったらしく、中澤が叫んだ。
「なによあいつ、ちょこまかちょこまか、うざったい!」
これには友紀が応酬した。
「身長なんか自分でもコントロールできないでしょ。そんなクレームを入れられても。」
観戦者は皆これを聞いて爆笑した。ますます中澤は激昴した。
「あの女、潰してやる!」
何と佳乃がドリブルでゴールに向かって走っていると、中澤はそれを追いかけて急に後ろから突進したのだ。勢いで二人とも転倒したが、その直後佳乃の悲痛な声が体育館にこだました。
「痛いっ!」
それを聞いて、びっくりした中澤がはね起きた。
「ちょっとあんた、何やってんのよ!」
友紀が怒鳴った。審判役をしていた体育の先生が佳乃に駆け寄る。
「足首を捻ったの? 一旦保健室に行きましょう。誰か、西崎さんを連れて行ってあげて。」
友紀は佳乃に近づくと、肩を貸して二人で保健室のほうへ向かった。
先生は中澤に向かって、「あなたは退場!」と宣言した。
試合のその後のことは、静香もあまり覚えていなかったが、とりあえず一組は怪我をした佳乃に代わって観戦していた北見が入った。三組も退場になった中澤に代わって誰かコートに入っていたが、それまでの試合の雰囲気とまるで変わってしまい、ただただボールがコートの中を右左に移動するだけになった。もちろん、みんな骨折が治ったばかりであんなことになった佳乃のことを心配して、試合どころではなかったということもある。結果は、先にリードしていたおかげで一組が勝ち、バスケットボールも一組の優勝となった。
静香たちが教室に戻ると、先に友紀が自分の席に座っていた。いつも友紀には自発的に話しかけない静香だったが、今日は佳乃のことが気になって尋ねた。
「西崎さんはどうなの?」
「とりあえず佳乃のお母さんに車で迎えに来てもらって、病院に連れて行くことになった。」
友紀は苦々しい顔をしている。
「中澤め、あいつぶん殴ってやりたい。」
静香も同じような気持ちだが、何も言えなかった。中澤がどうしてそんな行動に出たのか全く分からない。たかが球技大会で負けそうになったくらいで憎悪をぶつけなくても。
友紀は顔を静香に向けて言った。
「中澤さ、前から佳乃のことが嫌いだったんだよ。あいつバレー部でしょ? 帰りが似たような時間になるし、バスも同じ方向だから、よくバスの中で一緒になるんだって。」
「そうなんだ。」
「で、時々話をするんだけど、どういうわけか中澤が喧嘩腰で話してくるんだ、って佳乃が愚痴ってた。『バスケ部地区予選敗退おめでとう』とか。」
中澤がどうして佳乃に反感を抱いているのかは分からない。もしかしたら、前の静香のように、佳乃の爽やかな感じが鼻についていたのかもしれなかった。
「中澤みたいなのが佳乃にイライラする気持ちは分からなくもないんだ。だけど佳乃、本当にいい子じゃん。何で骨折が治ったばかりのときにまた怪我させるようなことを!」
友紀は机を両手で強く叩いた。クラスのみんなが友紀のほうを振り返った。
その日の帰りのホームルームで担任が言った。
「みんな、球技大会で怪我をした西崎だけど、あの後西崎のお母さんから学校に電話があってな。今回は骨折じゃなくて全治二週間程度の捻挫だそうだ。また松葉杖で学校に来るみたいだけど、周りの奴らは優しくしてやってくれ。」
クラス中が安堵した雰囲気につつまれた。
しかし、翌朝登校してきた佳乃は表情が暗かった。
「佳乃、おはよう!」
友紀が声を掛けたが、佳乃は「おはよう」ではなく「うん。」と返した。
「友紀ちゃん、聞いて。私、バスケ辞めさせられそうなんだ。」
佳乃の報告に、友紀は「えーっ!」と大声で叫んだ。その声で数人、他のクラスの女の子が集まってきた。
「なんかね、ママが『そんなに怪我ばかりするならバスケなんか辞めなさい!』って。辞めて姉ちゃんみたいに勉強して、勉強でいい高校に入ったほうが得だって。ほら、三年になったら受験もあるし。」
友紀は「信じられない!」と答えた。
「せめて三年の夏までは続けさせてくれないの? 前のはともかく、昨日のは完全に中澤が悪いじゃん。」
佳乃は沈んだ声で言った。
「ママにもちゃんと説明したんだけど、『原因はさておき、そんな危険なこと親として続けさせられない』って言うんだよね。しょうがないよ、冬休みからは塾の冬季講習に行かなきゃ。」
他のクラスの女の子たちも、それを聞いて佳乃の母親の判断の理不尽さについて文句を言っていた。ただ、それを近くの席で聞いていた静香だけは、「私がお母さんでもそう言うかもしれないな」と思った。可愛い我が子を危険に晒しておくようなことはできない。それならいっそ、別の打ち込めることを見つけたほうがいい。幸い、佳乃は友紀と違って成績の悪い方ではない。ならば、真面目に勉強をして上位高を狙うのも長い目で見れば良いことかもしれなかった。
その日の昼休み、佳乃は松葉杖をつきながら静香の席にやってきた。
「東根さん、前に言ったよね。今度は捻挫だけど、また漫画貸して、お願い!」
静香はこう返答した。
「いいけど、冬休みからは勉強するんじゃないの?」
佳乃は苦笑いした。
「そう、冬休みから勉強するのでその息抜きに。冬休み明けに返すから、今度は長いやつがいいな。」
「分かった。」
静香は帰宅すると、すぐに本棚から「デトロイト・メタル・シティ」全10巻を取り出し、それを家にあったデパートの紙袋に詰めると口をガムテープで塞いだ。翌朝、通学用のカバン以外にその紙袋を持って登校するのは少々重かったが、佳乃のことを思うと静香は何でもなかった。
教室に入ると、静香はその重い紙袋を佳乃の机の上に、挨拶代わりにドンッと置いた。
「ありがとう、本当に持ってきてくれたんだ?」
佳乃は微笑みながらそう言った。音で気づいた友紀が静香に話しかけた。
「東根さん、何これ?」
「西崎さんの冬休みの宿題。」
静香は咄嗟に変な返答をしてしまい、後になって焦ったが、佳乃は笑った。
「そうなんだ、友紀ちゃん、これ私の宿題なんだ。すごいでしょう?」
友紀はしかめっ面をした。
「私は宿題なんか要らないけどな。休みの日くらいは宿題を忘れたいよ。ところで佳乃、松葉杖なのにこれ、どうやって持って帰るの?」
静香は「しまった!」と思ったが、佳乃はまた笑いながら言った。
「今日はママが車で迎えに来るから大丈夫。」
静香は安堵した。
年が明け、始業式の日になった。佳乃はもう松葉杖もついておらず、足首も治ったようだった。友紀は言った。
「もう大丈夫?」
佳乃は寂しげに笑った。
「うん、痛みもだいぶ取れたよ。でももう部活できないからね。」
「冬季講習に行ったんだっけ?」
「行ったよ。おかげで冬休み中はいっぱい勉強できた。まだ気持ちの切り替えはできないけど。」
佳乃は静香の視線に気づくと、こう言った。
「あ、東根さん、ママが放課後に話があるって。で、そのときに漫画は返すってさ。ごめんね。」
佳乃は心なしか申し訳なさそうな顔をしていた。静香はとても嫌な予感がするのだった。
その日、帰りのホームルームが終わると、佳乃は静香に声を掛けた。
「ママ、多分もうすぐ来るから、ここで待ってよう?」
二人は校舎の玄関ロビーでしばらく待つことになった。
「それで漫画、どうだった?」
静香が感想を尋ねた。
「途中までは読んでて、すごく面白かったんだけどね、ママに見つかっちゃって。本当にごめん。」
佳乃は小さく手を合わせた。嫌な予感は的中したらしい。
「見つかって、どうなったの?!」
そう静香が言ったとき、校舎の目の前に赤いセダンが停まった。
「あ、あれママの車だ。行くよ!」
気が進まない静香だったが、渋々佳乃の後ろをついて行った。
車の助手席の窓ガラスが開いた。
「佳乃、助手席に乗りなさい。」
高そうなメガネをかけた佳乃の母親はそう言った。佳乃が助手席に乗り込むと、その後佳乃の母親は静香に声を掛けた。
「東根さんかしら?」
「はい。」
「ここでは何だから、近くの喫茶店に行きましょう。後ろに乗って。」
静香は左後部ドアを開けると、お邪魔します、と言って助手席の後ろに乗り込んだ。それを確認した佳乃の母親は発車して、しばらく国道沿いを走った。車内では誰も一言も発しなかったが、大きな看板の出ているカフェに着くと、車はそのカフェの駐車場に入った。佳乃の母親は白い枠内に車を停めると、トランクから静香の見覚えのある紙袋を取り出した。静香が佳乃に貸した漫画本である。
喫茶店で静香が佳乃の母親の向かいに着席すると、佳乃の母親は明らかな作り笑いをして言った。
「佳乃も東根さんも、好きなものを頼んでいいのよ。」
佳乃は元気なく「紅茶でいいや」と言った。静香は、「コーヒー、いいですか?」と遠慮がちに佳乃の母親に告げた。
佳乃の母親は店員を呼び止めると、「レモンティー二つ、ブレンド一つ。」と注文をした。平日の午後三時、大きな店だが客はまばらだった。佳乃の母親はこう切り出した。
「東根さん、佳乃に面白い漫画を貸してくれてありがとう。前に骨折したときにも貸してくれたんですって?」
「あ、はい。」
「でも、今回のはちょっと面白過ぎたようね。」
母親の隣に座っている佳乃が目で謝っている。
「レイプとか殺害するとか、ちょっと過激過ぎやしないかしら。」
デトロイト・メタル・シティには、本当にレイプや殺人の場面が描かれているわけではない。単に主人公が歌う中でそうシャウトしているだけだ。佳乃の母親は続けた。
「そもそも題材がデスメタルっていうのもちょっといただけないわ。そんな騒音みたいな音楽、何がいいのかしら。」
静香だってデスメタルのことはよく知らない。しかし、この漫画の本論がそこにある訳ではないことは分かっている。
「ねぇ、東根さん。あなたは何を思って佳乃にこれを貸したの?」
佳乃の母親がテーブルに紙袋を置いた。そのとき、注文したコーヒーと紅茶が運ばれてきたので、店員は紙袋を避けてティーカップを置かざるを得なかった。
静香は心を落ち着かせるため、「いただきます」と断ってからコーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、一口飲んでこう言った。
「西崎さんに元気になって欲しかったんです。」
佳乃の母親は鼻で笑った。
「漫画で佳乃の怪我が治ったら医者は要らないわよ。」
「そういう意味ではありません。」
静香は反論した。
「西崎さんは、バスケ部を辞めることになって、学校でもちょっと落ち込んでいるようでした。だから、前に私が読んで元気が出た漫画を貸そうと思って。」
佳乃の母親は理解しかねる、といった顔をしている。
「東根さんはこんなものを読んでどうして元気になったのかしら。」
静香はコーヒーをもう一口飲んでから答えた。
「単純に、バカバカしいからです。これだけバカバカしいと小さな悩みは全部吹っ飛びます。」
佳乃の母親はそれを聞いて、少しイライラしているようだった。
「確かにこの漫画、ほんっとうにバカバカしいわね。でも、佳乃はこんなバカバカしいもので元気が出るような単純な子ではありません。」
再度静香は佳乃のほうを見た。佳乃はただただ渋い顔をして目をつぶっている。 静香は何故かここで心のスイッチが入ってしまった。
「なるほど、お母さんは、西崎さんは下品な私とは違うから、高尚なものを読むべきだと仰りたいのですね?」
佳乃の母親は少し慌てた。
「そ、そこまで言うつもりはないのよ。だけどもう少し東根さんもこんなものではなくて、もっと良い漫画や小説を読むべきじゃないかしら?」
静香はさらに言った。
「お母さんの仰る良い漫画や小説とはなんでしょうか? 赤毛のアンとかですか!?」
「うーん、それでもいいけど、漫画でも歴史物とかあるじゃない? やはり勉強になるようなものじゃないと。」
静香は佳乃に同情した。これでは家にいても息苦しいはずである。
「そういや、西崎さんのお姉さんもよく漫画を読むと西崎さんから聞いていますが。」
佳乃の母親は急にニコニコしながら頷いた。
「ああ、藤乃はこの子と違ってよく勉強するもんだから、ご褒美に買ってあげてたのよ。ベルサイユのばらとかヒストリエとか。佳乃もお姉ちゃんに借りて読んだのよね?」
佳乃は小さく頷いた。静香はこう思った。西崎家の教育方針は分かった。しかし、何で自分まで説教されているのか分からない。
「まあ、ようは、お母さんは西崎さんにはそういうものしか読ませたくない、くだらない漫画を貸すな、と。こういうことですね?」
静香は話をまとめにかかった。佳乃の母親はよりニコニコした。
「そうなの、さすが東根さんは飲み込みの早い人だわ。」
「分かりました。」
静香は残ったコーヒーをぐいっと飲み干すと立ち上がった。
「あら、駅まで送ってあげるのに。」
「いや、結構です。」
テーブルの上に置かれた紙袋を持つと、静香はそのまま店を出た。ここから駅までは歩いて三十分ほどあるが、歩く疲れや漫画の重さ、一月の風の冷たさは全て怒りで消し飛んでしまった。やはりあの母親は間違っていると思う。しかし、静香がどうにかできることではない。佳乃だって全く母親に逆らえないのだから。
ただ、逆らえないとはいえ、あれほど従順なのもいかがなものか。あの子には自分の心の独立性といったものはないのか。自分の感受性くらい、という教科書で習った詩を思い出した。馬鹿者よ。
翌朝、登校した静香に佳乃が話しかけた。
「ちょっと廊下で、いいかな?」
二人は廊下に出た。廊下には暖房がないものだから、やや底冷えした。
「昨日は本当にママが、ごめんなさい!」
佳乃は胸の前で両手を合わせた。
「別に西崎さんが悪いんじゃないから、謝る必要ないよ。」
「いや、私が漫画を読んでるところをママに見つかったのも原因の一つだから。ごめんなさい、せっかく貸してくれたのに。」
静香は落ち着いた声で言った。
「で、あの後、お母さんは何と?」
「とりあえず東根さんから漫画を借りるのは禁止になった。」
「あ、そう。」
「ママは、東根さんと仲良くするのも反対だって言ってた。」
「あ、そう。」
静香の、佳乃に対する気持ちは、昨日の喫茶店での佳乃の様子を見て完全に萎んでしまっていた。宝物がただのゴミに変わった。佳乃は何でもママの言う通りにしておけばいい。
静香の素っ気ない態度を見た佳乃は、静香の腕を引っ張って言った。
「違うの、私自身は東根さんと仲良くしたいって思ってる。」
静香は冷たく腕を振り払って言った。
「でもそれはママが許さないんでしょう?」
静香はそのまま教室に戻って行った。
静香はその日帰宅すると、父親の灰皿とライターを自分の部屋に持ち込んだ。そして、机の引き出しにしまってあった佳乃からの手紙を封筒ごと燃やした。灰になっていく手紙を見て、静香は小声で言った。
「ちょっとだけキラキラした時間をくれてありがとう。でも、バイバイ。」
窓の外では雪が降り始めていた。
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