海へ。

ユンボイナ

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海へ。

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  「聞いて! おとといサコちゃんは国語の授業中に飴舐めてるのが先生にばれたんだよ。」

  さとちゃんこと石井里子は、蔵本夏海と同じ小学校の同じ5年生の、隣のクラスの女の子だ。さとちゃんのクラスには4月に佐古まなみ、通称サコちゃんという転校生がやってきて、クラスメートがみんなサコちゃんの言動に注目していた。さとちゃんも例外ではなく、こうやって毎週土曜日の習字教室のときに「今週のサコちゃん」について報告してくれる。
「うちのクラスではね、授業中にこっそり飴を食べるのが流行ってるの。だからね、サコちゃんも誰かからもらって食べてたんだ。」
蔵本はテンション高めなさとちゃんを横目に、先生の書いた「希望」というお手本を手に取ってにらみながら尋ねた。
「何でばれたの。」
「サコちゃん、運悪く音読に当てられちゃった。それで口がもごもごしてたから、先生に『何食べてんですか!』って。」
蔵本はお手本を左手に置き、墨汁の蓋を開けた。
「で、佐古さんは怒られたの。」
さとちゃんが細い目を大きく見開いて言った。
「そ、れ、が、ね! サコちゃんったら、先生に聞かれて、『のど飴です。』って言って、咳払いを2回したの。ゲホゲホって。先生も何も言わなくておしまい。」
蔵本は墨汁を硯に注ぐと、やっとさとちゃんの方を向いた。
「それ、わざとらしくない?」
「うん、私はサコちゃんが袋を破って飴を口に入れたところを後ろの席から見てたから、ゲホゲホ言ったときは吹き出しそうになった。他の子もみんなニヤニヤしてたけど、先生だけよく分かってなかったみたいだよ。」
さとちゃんはそのときの様子を思い出したのか、やっぱりニヤニヤしていた。
「ね、サコちゃんって可愛いだけじゃなくて、面白いでしょ。」

  佐古は少々ぽっちゃりしているが可愛いのは間違いない。5月の初めころ、休み時間に蔵本はクラスでも仲の良い江口に教えてもらった。
「ほら、今廊下を歩いてるのが転校生の佐古さんだよ。ちっさくて目がクリッとして小動物系だね。勉強もできるみたい。」
蔵本はふうん、と言いながら、肩くらいまでの髪を後ろで2つに結んだ佐古が職員室の方に向かっているのを見た。
「クララとどっちが頭いいかな?」
蔵本はいい加減、このクララというあだ名を止めて欲しいと思っていた。席を立つ度に、男子からクララが立った!とバカにされるのは嫌だ。しかし、江口は蔵本が不機嫌な顔をしようとおかまいなしだ。
「ねぇ、クララ、どう思う。」
「まだ転校してきたばかりだし、クラスが違うんだから比べようがないじゃないの、エロぞう。」
江口という字がエロに見えるせいで、彼女はそう呼ばれることがあった。事実、江口はときどき内緒でいやらしい話をしてくる。もっともまだ10歳だから、「さくらんぼの茎を舌で結べる人はキスがうまいんだって、知ってる?」といった程度のものだが。
「もう、エロとか言わないでよ! ちゃんと『ひかる』って名前があるんだからね。」
「あんたはエロさが光ってんのよ。」
蔵本はイライラから江口に悪態をついた。しかし、江口はニコニコしながらこう言った。
「そうかもねぇ。さっきも、佐古さんってお尻が結構大きいなあ、とか思って見てたし。」

 さとちゃんは続ける。
「サコちゃんってさ、可愛くて頭がよくて、スポーツもできて、面白いの。最強だよね。私が男子なら絶対好きになってた。」
「けどさ。」
蔵本は疑問を挟む。
「男子が好きなのは、例えば川田さんみたいな、可愛いけど大人しいタイプの子じゃない? 少なくとも面白さって要らないでしょ。」
さとちゃんは蔵本の発言が少々気に食わないようで、口を尖らせながら反論した。
「川田さんは可愛いかもしれないけど、一緒にいて何を喋ったらいいのか分かんないもん。けど、サコちゃんなら1日中遊んでも楽しいと思う。私は絶対サコちゃん派!」
 さとちゃんの声が大きくなったところで、習字の先生の、「書けたら持ってきてね。」という呼びかけがあった。そうだ、早く作品を書かないといけない。蔵本は前を向いて筆を取り墨汁をつけた。

 習字教室を終えた蔵本とさとちゃんは公民館の建物を出て、自転車置き場で立ち話を始めた。
「セミの声がするね。来週は終業式。」
さとちゃんは近くに生えている大きな木を見つめた。おそらくセミを探しているのだろう。
「クララは夏休みにどこか行くの? 私は山のおばあちゃん家。」
「うーん、私はまだ親に何も言われてないけど、海じゃないかな。」
蔵本家はいつも休みの予定がはっきりしていなくて、親の気まぐれで急遽旅行の計画が立つことが多い。ただ、父親の趣味が釣りであることから、夏休みでなくても海に連れて行かれることは多い。
「クララんちは、おばあちゃんが一緒に住んでるからわざわざ行く必要ないもんね。私もおばあちゃんちが近いといいのにな。」
祖母が近くにいると、それはそれで色々煩わしい。そんなことを思いながら、蔵本は自転車のカギを挿して言った。
「夏休みも習字、来るでしょ?」
「うん、おばあちゃん家にはお盆に行くから、基本来るよ。でもサコちゃんの話題はお休みだ、残念。」
「本当にあんたって人は佐古さんのことが好きなのね。」
さとちゃんは首を横にぶんぶん振る。
「私だけじゃないよ、男子も女子も、なんなら先生も、みーんなサコちゃんのことが好きなの。クララもサコちゃんと話してみたら絶対好きになるから。じゃあ、私、帰るね。」
さとちゃんは自転車を駐輪場から出そうとする蔵本をおいてスタスタと歩いていった。2人は帰る方向が別なのだ。西日が眩しい。蔵本はさとちゃんが右を向いて早足で帰るのを確認すると、左向きに自転車を発進させた。

 夏、秋、冬と季節は巡り、習字教室でさとちゃんから聞かされる「今週のサコちゃん」のせいで蔵本は佐古に詳しくなった。佐古の家は蔵本の家のわりと近くで、お父さんは県庁で働いている。2つ上の中一のお兄さんがいて、佐古は兄のことを「シューゾー」と呼んでいる。そして佐古は転校前から駅前のPという進学塾に通っていて、一番難しいクラスにいる。
「クララなら、Pの入塾試験受けて最難関クラスに行けるんじゃないの?」
さとちゃんが不意にそんなことを言い出すので、蔵本はしんにょうの最後の払いを失敗してしまった。今月の課題は「国道」だ。
「ちょっと急にやめてよ。」
「ごめんね、ついそんなことが思い浮かんだから。でもさ、クララはとっても勉強ができるんだから、もっと上を目指すべきだよ。」
蔵本は失敗した半紙を四つ折りにした。
「上って、附属とか?」
「そう、中学受験して附属に入るの。多分、サコちゃんも附属狙いだよ。」
田舎の中学受験は選択肢が非常に少ない。国立の附属中学か、私立で中高一貫のBか。中でも「附属」には県内各地から精鋭が集まり、倍率はかなりのものだ。
「うちはね、ほら親が行き当たりばったりだから、附属中受験とか塾とか考えていないと思うのよ。」
 ところが、蔵本が帰宅して、その晩ご飯のときに母親が言った。
「Pの入塾テスト、受けなさいよ。」
蔵本は茶碗を置いて母親の方を見た。
「え?」
「小5の終わりからだと普通は遅いかもしれないけど、頑張れば附属に行けるかもしれないって、お父さんの会社の人が。」
「うーん。」
蔵本は一応悩む素振りをしてみたが、彼女に拒否権なんかなかった。
「試験は来週の日曜日だって。その会社の人、Pの塾長の親戚だから多少結果が悪くても何とかなるわよ。公立はちょっと荒れてるでしょう? やっぱり附属かBには行かないとね。」
母親は味噌汁をすすった。父親は黙って焼魚を箸先でつついているし、祖母は湯呑みを片手に適当に頷いている。蔵本だけが食事の手をとめて俯いて考えごとをしていた。

 Pの入塾試験は案の定、蔵本にとって簡単なものではなかった。国語はそれなりにできたと思うが、算数は長い表を書いて無理やりに答えを出した問題が多い。佐古はこんな問題が簡単に解けるのか、と思うと、途端に自分がだめになったような気がしてくる。
しかし、試験があった次の週の月曜日の夜、蔵本は母親から報告を受けた。
「あんた、Pの一番上のクラスに行けるんだって! さすが私の子だねぇ。」
蔵本は耳を疑った。
「でも私、算数が全然自信がなくて……」
「そう、お父さんが例の会社の人に聞いてきたんだけど、確かに算数はちょっと落ちるんだって。でも国語が良くて、総合するとかなりいい成績だから一番上のクラスに入れてもらえるんだってさ。だから春季講習から行きな。」

 小6になる前の春休み、蔵本は駅前にある進学塾Pへ行った。蔵本が入ることになったのはアドバンスという名前のクラスで、部屋に入るとやはり知らない子ばかりだった。たまに見たことのある顔もあったが、同じ学校でも別のクラスの男子だった。これは友達ができそうにない、と空いた席について仕方なく春季講習の予定のプリントを見ていると、「あれ、蔵本さんじゃない?」という声が聞こえた。顔を上げると、佐古が他の女の子と一緒にいた。蔵本は佐古がここにいることを忘れていた。
「蔵本さんもここ入ったの?」
佐古はニコニコしながら近づいてきた。
「そう。何で佐古さんが私のこと知ってるの?」
蔵本は不思議に思って尋ねた。
「そりゃあもう、S小の末は博士か大臣といえば蔵本さんじゃない、転校してすぐクラスの子に教えてもらったもん。」
佐古の隣にいた子は、「何それ、そんな有名人が入ったの?」と驚いている。急に恥ずかしくなり、蔵本はまたうつむいた。
「ほら、石井のさとちゃん? あの子から色々聞いてるから。」
蔵本は、さとちゃんったら余計なことを吹き込んで、と腹立たしくなったがとりあえず話を続けることにした。
「さとちゃんは幼稚園のときから知ってるし、習字教室も同じなんだ。」
「へぇ、さとちゃんってすごく絵が上手だし、たしかに字もめちゃくちゃ綺麗だよね。」
隣にいる佐古の友人が、「何、S小ってできるオンナだらけなの?」と口を挟む。
佐古は、「そうだよぅ!」とおどけて返した。
「ちーちゃんさぁ、私も含めて、できるオンナの集まりなのよぅ、うちの学校は。」
ちーちゃんと呼ばれた子が吹き出した。
「待って、サコは何ができるのよ。早食いくらいじゃないの。」
「ひどいなあ、ねぇ、蔵本さん、このちーちゃんに何か言ってやってよぅ。」
指名されてしまった蔵本は、とりあえず日頃さとちゃんから得ている情報を披露することにした。
「佐古さんは転校してすぐにクラスのみんなを虜にした可愛さと賢さ、運動神経を持つスーパースターです。」
「ウソだ、少なくとも賢さはない。」
ちーちゃんが本格的に笑い始めた。隣で佐古も笑っている。
「だってさ、サコったらしょっちゅう宿題忘れてきて、先生にファイルで頭を叩かれてるし。テストの成績もクラスの中では下から数えた方が早いんだよ? 物覚えもすごく悪い。」
蔵本は驚いた。
「それは塾の、このクラスのレベルが高過ぎるんじゃないですか?」
ちーちゃんには、同学年ながら思わず敬語を使いたくなるような貫禄がある。身長がそこそこあってガタイが良くて、少し老け顔だ。
「別にレベル高くないよ、ほら、あそこにいる男子たちは余裕で附属に合格しそうな天才だけど。」
ちーちゃんが指をさした方向には、いかにも頭が良さそうな男の子が数人で固まって談笑していた。
「私やサコは一般庶民だから、間違って附属に最下位で引っかかったら儲けもん、みたいなレベルよ。」
じゃあ塾のテストどころか学校のテストで100点満点中6点を叩き出した江口はどれだけバカ呼ばわりされるのだろう、と蔵本は暗い気分になった。
「あ、そろそろ9時だから先生来るよ。蔵本さん、お互い頑張ろうね!」
佐古は手をヒラヒラさせながら、離れた席に行った。

 朝9時から正午まで、国語と算数の授業を1時間半ずつやったが、それは蔵本にとってかなり難解だった。特に算数は小6の内容を先取りした上に、おそらく教科書にも書いていないであろう解き方の解説もあって、頭がパンパンになった。蔵本が今後の不安を思いながら教室を出ると、後ろからポンと肩を叩かれた。振り向くと佐古だった。
「よぉ。家の方向一緒だから帰ろう! バスでしょ?」
「うん。」
暗い気持ちのところに、同行者がいることは気が紛れて良い、と蔵本は思った。
「サコ、お昼にロッテリア寄らないの?」
ちーちゃんがその後ろから呼びかける。
「ごめん、ちーちゃん、今日は昼からお母さんと用事に行かなきゃいけないから、また明日行こうね。」
なんだ、と言ってつまらなさそうな顔をするちーちゃん。
「佐古さん、いいの?」
「いいの、いいの。ちーちゃんとロッテリアなんてしょっちゅう行ってるし、今日は本当に用事があるんだから。」
2人は駅のバスターミナルまで歩いた。
「どう、Pは。」
佐古が尋ねた。
「みんな頭が良くて、授業も難しくて、ついていける気がしない。」
蔵本は思ったままのことを言った。
「大丈夫よ、私だって全然分かってないんだから。」
佐古が笑う。
「ウソだ、佐古さんはあのテキストの、『応用』って問題までスラスラ解けるんでしょ?」
「そんなわけないじゃない。あれが解けるのは、今日初めにちーちゃんが指さした子たちだけだよ。」
佐古は手を顔の前でぶんぶん振った。
「あいつらは怪物だから、我々庶民と比べちゃいけないの。」
「佐古さん、本当に?」
蔵本は佐古を見つめる。
「ウソついたってしょうがないじゃない。同じクラスにいればそのうち私のアホさ加減もばれるだろうし、蔵本さんの頭の良さも分かるというもんよ。」
佐古が真顔になったのと、話の内容で蔵本は怖くなってきた。
「私の、あまり授業が分かってないのもばれるんだね。」
蔵本が落ち込んでいるのを察した佐古は言った。
「そうだよ、だから庶民みんなで頑張って附属に何とか下の方で合格しようって。あいつらがいるから上位合格は無理だけど、下の方はみんなどっこいどっこいだから、運が良けりゃ受かるでしょ。受かりさえすればみんな同じ附属なんだから儲けものじゃない?」
「え、附属の入試ってそんなものなの?」
蔵本は佐古の顔を見た。
「そんなようなことを塾長が言ってた。ほっといても受かる奴は受かるけど、そんな奴はひと握りで、後は凡人たちの戦いなんだって。で、塾の授業は天才が飽きたら困るから天才に合わせてやってるけど、附属入試はそこまで難しくないんだってさ。だから気にすることないよ。」
「良かった、死ぬかと思った。」
蔵本たちの自宅方向に行くバスがやってきた。2人はバスの一番後ろの席に並んで座った。
バスが発車してから、佐古はまた口を開いた。
「だからさ、気楽にやろうよ。せっかく蔵本さんと一緒になったんだから、仲良くしたい。あ、私のことはサコでいいよ。」
「私もクラモトでいい。」
佐古はニヤリと笑いながら言った。
「あれ、蔵本さんはクララって可愛いあだ名があるじゃない?」
蔵本は軽く舌打ちした。
「本当にさとちゃんはおしゃべりだなあ。」
「いや、さとちゃんから聞かなくても、蔵本さんがクララって呼ばれてるところは学校で見たよ。クララじゃだめなの?」
「嫌なんだ。それならクラモトって呼び捨ての方がいい。」
「分かった、これからクラモトって呼ぶね。クラモト。」
蔵本がわりあい真剣に言っているので、佐古もそれを分かったようだ。
「ありがとう、サコ。」
佐古が突然右手を蔵本のほうに出した。蔵本が戸惑っていると、佐古は笑った。
「握手に決まってんじゃん。あ、く、しゅ!」
「ああ、そうか。」
蔵本が佐古の右手を軽く握ると、佐古はそれよりもやや強い力で握り返した。


 蔵本にとって1週間ほどの春季講習は佐古のおかげで過ごしやすかった。適度に佐古が話しかけてくれたし、あともう2回くらい一緒に帰ることができた。講習最後の日も、やはり蔵本は佐古と一緒に帰宅した。バスの中で佐古は言った。
「もうすぐ新学期だあ。この小学校って5年から6年に上がってもクラス替えはないんだよね。ホッとする。」
意外なコメントに蔵本は驚いた。
「あれ、サコはクラス替えがないからつまんないって言うかと思った。」
佐古は首を振った。
「いやいや、私、今のクラスのメンバーが好きだからさ。適度におバカで癒される。クラモトは今のクラスが嫌なの?」
「ううん、江口さんのおかげでまあまあ楽しい。あの子、2組の川端さんとも仲良しで、川端さんたちともたまに遊んだりするし。」
佐古はニコッと笑った。
「じゃあいいじゃない。クラスの人間関係は安定と平和が一番よ。」
蔵本が何気なく言った。
「塾の人間関係は?」
佐古はちょっと眉間にシワを寄せた。
「まあね、悪くはないんだけど、一つ問題があって……ちーちゃんって怖い人なのよ。」
「え、怖いってどういう意味?」
佐古は小声で話し始めた。そこにはちーちゃんはいないはずなのに。
「あの子ね、T小の裏ボスみたいな感じで、女子は誰も逆らえないの。タバコはやらないけど、お酒はよく飲むみたいだし。で、T小にいる感覚で塾にも来てるから、何でも上から目線で困るし、たまにお小遣いとか横取りされてシェイク奢らされるし。」
蔵本は憤慨した。
「何でサコは言いなりになってるの。」
「ちーちゃんのお母さんも怖いのよ。化粧も派手だし。前にドスのきいた声で、『ちひろと仲良くしてやって。』って挨拶されちゃって。あれはカタギじゃないよ。お父さんも悪い人らしい。」
「けど、親のことなんか関係ない。子ども同士は平等だよ。」
佐古はため息をついた。
「理屈ではそうなんだけど。まあ、来年の今頃はクラモトと私が附属に入って、ちーちゃんはB中へ行くから自然に離れるよ。あと一年の我慢。」
蔵本は吹いた。
「何その予言は。」
佐古は真面目な顔で言った。
「ちーちゃん、私のことバカにしてるけど、多分私より勉強できないから。で、B中は私立だからお金積めば何とかなるし、そもそもB中に受かるレベルには賢いでしょ。私の予想、結構当たるんだよ。だからクラモト、一緒に附属行こうよ。附属まで一緒に通って、一緒に帰ろう?」
「そうなるといいね。」
蔵本は話半分で、しかしそうなるといいなあと思いながら聞いていた。

 小6の1年間も、蔵本は習字教室に通っていた。相変わらずさとちゃんによる「今週のサコちゃん」報告は続いていたが、小6では蔵本による「Pでのサコ」報告が加わっていた。これは1月のある日の会話。
「サコってば、また塾の宿題忘れて先生に出席簿のファイルで頭叩かれてんのよ。今度忘れたら角で殴ってやる、って怒られてた。」
さとちゃんは不満そうだ。
「それってサコちゃん、笑いを取るためにわざと忘れてるんじゃないの?」
「わざとじゃないよ。サコったら授業が始まる前にしょっちゅう私に宿題写させてって言うんだもん。この間は私がギリギリの時間に塾に着いたから、写す暇がなかったの。」
「そんなのサコちゃんじゃないよ。」
さとちゃんがフグみたいにほっぺたを膨らませている。蔵本は話をかえようとした。
「じゃあさ、今週の4組のサコは何してた?」
「えーと……あ、そうそう。この間雪が積もったじゃない? 朝、みんなで校庭で雪をかき集めて、よせばいいのに教室まで運んでさ。それでサコちゃんが雪だるまを作って教卓に置いたんだ。」
蔵本は雪だるまを教卓に置いて得意そうにしている佐古の様子を思い浮かべてニヤリとした。
「それ、間違いなく怒られたでしょ?」
「と、こ、ろ、が! 初めに先生が教室に入ってきたときには、誰だこんなことをした奴は、って怒ってたの。でも、サコちゃんが手を挙げて、『雪で先生の可愛さを表現しました。自信作です。』って言った瞬間に、『おう、そうか。』って先生の声が小さくなって。」
さとちゃんは鼻をヒクヒクさせながら話を続ける。
「『なあ、佐古、力作だけどここにあると授業できないから、頼むから校庭に置いてきてくれないか?』って、先生が。」
「あ、サコの勝ちだね。」
「はーいって言って、雪だるまを運んで出て行くサコちゃんを見て、もうみんな爆笑よ。で、一つ重要なことがあるんだけど…」
さとちゃんはちょっと小声になった。
「雪を雪だるま型に固めたのはサコちゃんなんだけど、顔を先生に似せて作ったのは私なんだ。」
「え、じゃあ……」
「うん、本当は私も怒られるところだったんだけど、サコちゃんに助けられたんだよ。やっぱり私、サコちゃん大好き!」
さとちゃんの目が若干潤んでいた。
「サコ、いい奴じゃないの。」
「そうだよ、サコちゃんはいい子だよ。もうすぐ附属の入試だけど、クララもサコちゃんも附属なんか落ちて、みんなでT中に行きたいな。附属に行くなんて、クララもサコちゃんも遠くへ行ってしまうようで寂しい。」
さとちゃんは泣いていた。ちなみにT中は地元の公立中学でマンモス校でちょっと荒れていた。中学に進学する不安が涙を誘ったのだろうか。
「大丈夫、他の子たちはT中行くし、別の小学校からもT中に来るから、友達は減らないどころか増えまくるよ。」
蔵本は精一杯さとちゃんを慰めようとした。
「それに、中学に入っても習字は辞めないからさ、私がサコを観察して毎週何をやらかしたか教えてあげる。」
さとちゃんは赤くなった目を蔵本のほうに向けた。
「本当に? クララ、絶対習字やめないでね。約束だよ!」
「うん、指切りしよう。」
蔵本は小指をさとちゃんのほうに向けた。

 そして2月、佐古も蔵本も附属中入試に合格した。
蔵本は1年足らずで勉強の遅れを取り戻して時々塾内模試の成績優秀者として掲示されるまでになった。その結果、もちろん附属とB中に合格した。佐古は成績優秀者になることはなかったし、途中宿題を忘れて先生にバインダーで頭をはたかれるようなことが数回あったものの、何とか授業の内容に食らいついて附属中合格を果たしたようだった。
  一方ちーちゃんは、「私はサコよりバカじゃない」という、何の役にも立たない自信のみ持って、1年弱大して勉強しないまま入試に臨んだ結果、附属中学不合格になったようだった(これは蔵本が佐古から聞いた)。もっとも、附属より倍率の低いB中入試はクリアできた。
入試結果発表後、初めての土曜の習字教室、蔵本が部屋に入るとすでにさとちゃんがいた。
「さとちゃん、もう噂で知ってると思うけど……」
蔵本が最後まで言わないうちに、さとちゃんが畳み掛けた。
「サコちゃんもクララも附属に合格したんだよね。おめでとう!」
「ありがとう。あれ、もう泣かないの?」
蔵本が尋ねると、さとちゃんはこう言った。
「泣かないよ! だって中学に行ってもクララが習字を辞めないんだもん。サコちゃんだって引っ越す訳じゃないし、このまちのどこかでまた会えるよね。附属に受かる子が周りに2人もいるなんて、私は自慢だよ。」
今度は蔵本の目頭が熱くなってきた。
 翌日は塾の日だった。B中と附属の入試が終わった後の授業なんて消化試合のようなものだから、算数の先生も授業の半分くらいは雑談で、もう半分は附属入試の解説をした。
「あー、みんな入試お疲れ様。合格したやつは気を抜かないで中学でも勉強しろ。落ちたやつは残念だったが、3年後にまた高校入試があるから頑張れ。それにしても。」
先生が一番前に座っている佐古のほうを見た。
「なんでこいつが合格したのか全く分からん。」
教室内にドッと笑いが起きた。
佐古は半身を後ろに向けて、バンザイをしながら手を振って言った。
「みんなー! 中学に入ったらよろしくぅ。」
さらに笑いが起きた。佐古と目が合った蔵本は、小さめに手を振り返したが、それが先生に見つかったようだ。
「蔵本も受験が終わったら随分キャラクターが変わったな。まあ、お前はたった1年でよく伸びたよ。」
先生は1人でウンウンと頷いていた。
教室を見渡すと、ほとんどが附属合格組で、落ちた子は1人か2人を除いてみんな欠席だった。もちろん、ちーちゃんは来ていなかった。

 その日の塾の帰り、蔵本は佐古と一緒にバスに乗った。
「いやー、良かったよ。S小で合格したの、私と蔵本だけじゃん。ひとりぼっちだったら嫌だなあと思って。」
「うちの小学校、他の塾に行ってた子はみんな落ちたんだね。って、サコが受かって私が落ちるとでも思ったの?」
蔵本はわざと目を剥いて言った。
「自分なりに頑張ったんだもん、落ちるなんてちっとも思わなかったよ。クラモトは落ちると思ってビクビクしてた?」
「そりゃそうよ、入試、思ったより簡単で、みんなできてるのに私だけミスしてて落ちたらどうしよう、って。」
佐古は頷いた。
「あー、確かにちょっと簡単だったかもね。むしろB中の問題のほうが難しかった。でもさ、あの今年の問題が簡単と言える程度には我々成長したんだよ。我々、頑張った。我々、お疲れ!」
佐古は蔵本のほうに右手を出した。蔵本は今度は迷わず佐古の手を握った。
「でも、本当にサコの予言通りになったんだね。」
「ちーちゃんも今となってはかわいそうな気もするけど、自業自得だよ。どうせまたB中でボス風吹かせるでしょ。」
蔵本は頷いた。塾で佐古と仲良くなったついでに、ちーちゃんとも話をすることがよくあったが、ちーちゃんは常に上から目線で話をするので疲れてしまった。挙句、話の内容は、よその小学校の誰が強い(悪い)だとか、その強い子と自分がいかに仲が良いかだとか、全く蔵本に関心のないものだった。
「私、附属に行ったらかっこいい先輩見つけて付き合ってやる。一緒に2人で先輩ウォッチングしようね。」
佐古が塾を風邪で休んでいるとき、休み時間にちーちゃんがこんな話をした。
「あれ、サコも入れて3人で、じゃないの?」
「あの子、受かればいいけど無理でしょ。まあ、あの子は可愛いからB中で彼氏見つけたらいいよ。」
その言葉とは逆に、ちーちゃんがB中へ、佐古が附属へ行くことになってしまった。

 「サコめ、また遅れてる。」
蔵本は佐古の家の近くのコンビニで自転車にまたがって待っていた。ここから附属中まで自転車で20分程度、8時50分の登校時間に間に合うためには8時30分にここを出発する必要がある。しかし何事もギリギリが嫌な蔵本は8時10分にコンビニ駐車場集合にするよう佐古に求めた。
「それちょっと早くない?」
佐古は不満そうだった。しかし蔵本は引かなかった。
「だってさ、1年生の初っ端から遅刻とか感じ悪過ぎでしょ? それに……」
蔵本は付け足す。
「ギリギリで急いで自転車こぐと危ないよ。サコともゆっくり話できないし。」
「分かった、交通安全と友情維持のために早起きしまーす。」
佐古はしぶしぶといった感じで返事をした。
 ところが、というか、やはり、というか、佐古は最初の週は約束通り8時10分ころにコンビニ駐車場に現れたものの、翌週からは8時20分になったり、それでも現れなかったりしたので、さすがに蔵本は8時20分を過ぎたら見切り発車して先に登校することにした。
「ちょっとクラモト、ひどいよ、私を置いて学校に行くとか。」
佐古が昼休みに隣のクラスから文句を言いに来た。蔵本は他のクラスメイトと弁当を食べている途中だった。
「あんたが遅いから、遅刻するといけないから8時20分には出発させてもらった。」
佐古は食い下がる。
「確かに、私、家を出たのは8時20分くらいだったけど、余裕で時間内に学校に着いたよ。せめて集合時間は8時25分にしようよ。」
蔵本は反論する。
「だめ、あんたに合わせてたら、ずるずる遅くなって、そのうち遅刻常習犯になっちゃう。」
蔵本の周りにいる大人しそうな女の子たちは、交互に蔵本と佐古の顔を見比べている。その視線が嫌になったのか、佐古はこう言って教室を出て行った。
「分かった、続きは帰りね。授業終わったら校門で待ってる。」
蔵本と一緒に弁当を食べていた川島と山瀬がそれぞれ口を開く。
「蔵本さんがあんな可愛い子と仲がいいなんて意外。」
「あれ、佐古さんっていう子よね、入学して早速富田さんたちのグループに入ったんだって。」
川島と山瀬は附属小からの内部進学組で、同じ内部進学の富田のことを嫌がっているようだった。
「富田さんってすごく頭がいいし、家もお金持ちなんだけど非常に傲慢で。」
「何でも思い通りにならないとすぐ怒るし、手下を使って嫌がらせもしてくる。小3のとき、富田さんが仲間はずれにした子に、私がうっかり声をかけたときには、私まで仲間はずれにされかけて……あのときはすごく大変だったわよ。」
蔵本は憤慨した。
「何で内部組はそんなものをのさばらせておくのよ!」
川島は弁解する。
「ほら、やっぱり富田さんって勉強ができて先生からの信頼もあるから、彼女が言ったことが全部正しいことになるのよ。」
「手下というか、取り巻きも何人かいるし。佐古さんって子、富田さんに目をつけられて逃げられなかったのね。」
よし、今日の帰りにその辺を聞いてみよう、蔵本は決意した。

 蔵本が校門で待ってから10分くらいした後、佐古が自転車を押しながらやってきた。右手を大きく振っている
「おぉ、クラモト、待った?」
「ううん、あんまり待ってないよ。で、昼のことなんだけど……」
佐古は蔵本が言い終わらないうちに言った。
「ああ、昼はどうかしてたわ。約束は8時10分だもんね。5分か10分待って私が来なかったら先に学校行ってよ。本当、ごめん。」
「私もそうしようと思ってたんだ。私、何か時間だけは守らないとソワソワしてさ。」
「いや、早く起きられない私が悪いんだ。ってことでさ、楽しいこと話そうよ!」
帰りは行きと違って急ぐ必要がない。それでしばらく細い道を自転車を押しながら歩くことにした。
「あのね、サコのクラスに富田さんっているじゃない。友達になったの?」
佐古は答えた。
「トミー? あの子はね、まあ言わばPのときのちーちゃんみたいなものでさ。」
蔵本は驚いた。
「わかってるなら、何でわざわざ仲良くしてるのよ!」
「ちーちゃんもトミーもうざいよね? だけど敵に回すと余計厄介だから、だったら仲良くして味方にしちゃえ、っていう……。」
佐古は割と真顔で話している。
「まだ入学から1週間しか経ってないのに、何で富田さんのこと分かるの?」
「ふふふ、Pで同じクラスだった小島さんいるじゃない? あの子、附属の内部進学組だから、事前に色々聞いちゃった!」
佐古のリサーチ能力はすごい。それにしても。
「普通さ、それがわかってるなら富田さんなんか真っ先に避けるじゃないのよ。」
「だからさ、これが私の作戦なのよ。一か八か、初日に筆箱褒めちぎってやったら喜ばれちゃって、あはは!」
蔵本は急に佐古のことが心配になった。
「あのね、何かあったら相談して。話は聞くから。」
佐古はまだ笑っていた。
「大丈夫だって! ちーちゃんと違って、トミーはただのわがままなお嬢様だもん。全然危なくないよ。」
「ならいいけど。」
「じゃ、広い道に出たから、ここから出発進行!」
2人はヘルメットを被って自転車に乗って走りはじめた。春の風をきって進むのはとても気分が良かった。
「クラモトの将来の夢は何?」
蔵本は吹き出した。
「急に何よ。」
「いや、なりたい物とかあるのかなーって。私は大金持ちと結婚したい!」
「それ、なりたい物じゃないし。」
「大金持ちと結婚して、毎日おやつに2リットルのハーゲンダッツを食べる人になりたい!」
「糖尿になるよ、それは。」
2人の笑い声は国道の自動車の往来にかき消される。
「クラモトはどうするの、将来。」
蔵本は少し悩みながら答えた。
「あんまり結婚してる自分が想像できない。やっぱり1人で生きていける仕事につかないとね。」
佐古は目を丸くした。
「手に職ってやつだ! 私は絶対働きたくない。」
「あんたは本当に……。」
「分かった、私が大金持ちと結婚できなかったら、クラモトが働いて養ってよぅ。私、家事やらないけど。」
「嫌だよ、全然メリットないじゃない。」
また2人は大笑いした。そろそろお互いの家が近づいてきた。コンビニの前だ。
「じゃあ、明日の朝も、私が寝坊しなければ一緒に!」
「サコ、遅れないでね。」
お互いに手を振って別れた。

 佐古はその週は何とか朝8時15分くらいにはコンビニの駐車場に来ることができた。しかし、やはり週が明けると8時20分になっても現れなかった。
「ダメだ、サコは。」
蔵本がコンビニ駐車場で20分ころまで待って佐古と登校できる確率は、だんだん3分の1程度になり、5分の1になり、もう待つこと自体が無意味だと思うようになったのは6月だった。レインコートを着て雨の中、来るのか来ないのか分からない人を待つのは悲しい。
 そのころになると、佐古は佐古で富田のグループの中で立派にいじられキャラとしての地位を確立していたし、蔵本はその隣のクラスで「ちょっと変な優等生」という立場を築き上げていたものだから、交流も大してなくなっていた。もちろん、廊下などですれ違うと、佐古は、「よっ!」と片手を挙げて蔵本に挨拶するし、たまに帰りの時間が合えば当たり障りのない話……例えば今度のテストはどうだとか、お互いの担任はこうだとか、そういったことは話すけれど、前みたいに会話が弾むこともなかった。
蔵本は土曜日には小学校の頃と同じように習字教室に通っていたけれど、だんだんさとちゃんにも会えなくなっていた。さとちゃんは、T中の中でもかなりハードな部活であるブラスバンド部に所属していたからだ。たまに来ると、教室の終了時間1時間前の3時である。
「いやあ、なかなか部活を抜けられなくってね。」
T中の制服を着たさとちゃんは、何だか前とは違う人間のように思える。蔵本は一旦帰宅してからなので私服だ。
「クララは附属で部活入ってないの?」
「入りたい部活がないのよ。友達は美術部に入ったけど、見学のときの先輩のノリについていけなくて私はやめといた。」
蔵本は、上級生がいきなりハイテンションでチャゲアンドアスカの曲を歌いながら、それもアスカの真似をしながら現れたのを、眉間にシワを寄せながら思い出した。
「運動部は?」
「初めから選択肢にない。やりたい競技がないから。T中みたいにバドミントンがあればやりたかったけど、附属はなくなっちゃったんだって。」
「あらまあ。」
さとちゃんは話しながら急いで習字セット一式をセッティングし、先生から受け取ったお手本をさっと一瞥して書き始めた。
「梅雨前線って、なんだこりゃ。」
「じきに梅雨明けしちゃうよね。さとちゃん、今月は今日まで来てなかったからさ、来週はまた別の課題。」
「そうかー。」
もう二人は「今週のサコちゃん」の話はしなかった。かといって、さとちゃんは自分の話も大してしないし、蔵本に附属について細かく聞くわけでもなく、共通の知人についてコメントする程度だった。
「なんかね、うちのクラスにアンちゃんっていたじゃない?」
アンちゃんは小学校のときに佐古と比較的仲良くしていた、気の強そうな女の子だ。
「アンちゃん、3年の先輩に目をつけられて、ついに体育館の裏に呼び出されたんだってさ。生意気そうだからってかなりシメられたらしい。」
附属にはそういう文化はない。違う世界のことみたいだ、と蔵本は聞き流した。
「本当は悪い子じゃないんだけどね。別のクラスになったからよく分からないけど、それから学校を休みがちになって、次登校したときには金髪になってて大騒ぎよ。」
アンちゃんの、純和風な顔立ちに金髪は似合わない。蔵本は思わず吹いた。
「笑い事じゃないんだってば! それから大変で、職員室に呼ばれてさ、アンちゃん逆ギレして『ざけんなセンコウ!』って怒鳴って。たばこもやるようになったっていうし、近づきにくい人になっちゃった。」
「近づかなくていいんじゃない。サコに言ったら驚くだろうけど。」
さとちゃんはそこでやっと佐古のことを思い出したようだ。
「そうだ、サコちゃんどうしてる?」
「相変わらずよ。この間は雨に濡れた廊下で滑って尻餅ついてるのを見た。」
ふーん、と言って、さとちゃんは何枚目かの「梅雨前線」を書き上げた。
「あー、もうこれで提出しとこうかな。昔みたいに綺麗に書けないよ。」
「充分上手いと思うけど。」
「そう? じゃあこれで決まり。」
さとちゃんは蔵本より器用なので、初めて見たお題でもそれなりに上手に仕上げることができた。蔵本は4週にわたって「梅雨前線」を書いて、何枚かは先生に提出しているが、さっきささっと書いたさとちゃんの「梅雨前線」に勝てる気がしない。さとちゃんはまだ乾かない半紙を先生のところへ持って行き、先生も「今月はこれで出しますか。」などと言っていた。短いやりとりを終えて、さとちゃんが席に帰ってきた。
「私、これから学校に戻らないと。」
蔵本は「えっ?」と声にならない声を出した。
「8月に演奏会があって、私トロンボーンなんだけどね、私が足を引っ張るわけにはいかないから、今から練習するの。」
「大変だね。」
素早く習字セットを片付けたさとちゃんは、先生に「さようなら。」と挨拶をし、蔵本や他のグズグズして残っている小学生の子たちには「バイバーイ。」と手を振って、足早に去って行った。
 それ以降、蔵本がさとちゃんを見たのは8月下旬と10月に1回、後は正月明けくらいだった。
 蔵本にとって、さとちゃんのいない習字教室は張合いがなく、また年下の子たちもつまらなさそうだった。
「ね、クララさん、あの絵の上手な石井さんは来ないの?」
6年生の子がぼんやりしている蔵本の腕を掴んで聞いてきた。たしかにさとちゃんは適当に半紙に小筆で描いたお姫様の絵が大人気だった。
「部活が忙しくて抜けられないらしいよ。」
「わあ、T中に入ってもブラスバンドだけはやめておこう!」
別の女の子も蔵本の顔を覗きこんだ。
「附属はヒマなの?」
「附属もブラスバンド部は忙しいみたいよ。だけど私は帰宅部だからヒマだね。」
「よーし、私、帰宅部にする!」
先に蔵本に話しかけた子が彼女をたしなめた。
「だめだよ、T中は全員部活に入らなきゃいけない決まりなんだから。帰宅部は勉強が大変な附属の特権なの。」
「なんだ、じゃあヒマそうな部活見つけて、それにする!」
後はその2人でどの部活が緩そうか議論していた。蔵本はそれでも中2の2学期まで習字教室に通い続けて、後は高校受験を理由に辞めた。

 中三になった。この県の附属には高校がないため、附属にいても高校受験をする必要がある。それで三年生ともなると教室にも緊張感のある空気が漂っていた。
蔵本はクラス替えで、中二のときに離れていた川島や山瀬と一緒になったが、佐古や富田とも同じクラスになった。
「山瀬さんや蔵本さんと一緒なのは嬉しいけど、富田さんやその手下まで一緒なのはちょっとなあ。」
川島は露骨に嫌な顔をした。クラスの富田のグループは、富田、佐古、中田、阿南の4人。中田と阿南はテニス部の親友で、また内部進学組のため富田には強くものが言えない立場だった。
一学期のクラス分け発表の直後の昼休み、佐古は蔵本につかつかと歩み寄って言った。
「おぅ、初めて同じクラスになったね。」
それを見た富田も蔵本のほうにやってきた。
「蔵本さんってさ、サコと同じ小学校なんでしょ?」
「うん、小学校は同じなんだけど、クラスは一緒になったことなかったの。駅前のPで仲良くなった。」
富田は「そうなんだ!」とちょっと大き目の声で言った。
「蔵本さんはPの上のクラスって感じだけど、サコは下のクラスでまぐれで附属受かった、って感じだよね。」
佐古が、「ひどーい!」と言う。蔵本には既視感のある光景だった。
「サコも見えないところで頑張ってると思う。」
蔵本がそう言うと、佐古はなぜか慌ててこう言った。
「頑張ってないよぅ。蔵本に助けられて附属に来られたようなもんだし。」
「助けたことないじゃない。せいぜい宿題を写させてあげたくらいで……」
佐古は蔵本の話を遮るように会話を被せた。
「そうそう、写させてもらって、逆に正解が多過ぎるから先生に疑われたのよぅ。それからわざと1、2問間違えることにした。」
「もう、サコったら本当にバカだよね。蔵本さん、うちのサコをこれからもよろしくお願いします。」
富田はふざけてお辞儀をして去って行った。佐古もその後を追って小走りで行った。
「サコってば、なんであんなに卑屈にしてるんだろ。」
蔵本は怒ったような口調で言った。これに対し、山瀬はさも当然のように返した。
「そりゃ富田さんが怖いんでしょ。富田さん、何でも自分が一番じゃないと気が済まないから、佐古さんは精一杯へりくだってるのよ。」
川島も言った。
「私、佐古さんが富田さんに、『可愛い、トミー可愛い』ってお世辞言ってヘコヘコしてるの見たことがあるよ。教室の移動中だったかな。どう見ても佐古さんのほうが可愛いんだけどね。」
蔵本は、これから1年間。佐古のそんな姿を間近で見なくてはいけないのかと思うと、気が重くなった。
 しかし、蔵本の心配は杞憂に終わった。6月のある朝、登校時間ギリギリにやってきた佐古が、富田に元気よく「トミー、おはよう!」と挨拶したのだが、富田はそれを無視した。佐古は中田や阿南にも同じように声をかけたが、すぐ後ろを向いてしまった。
川島が斜め前の席にいる蔵本の肩をシャープペンシルでつついた。
「ほら、始まったわよ。」
「始まった、って何が?」
蔵本は1時間目の英語の教科書を眺めていたので、さっき起きたことを見ていなかった。
「富田さんたちが佐古さんをシカトし始めた。何か富田さんの気に食わないことがあったのよ。」
蔵本は佐古の様子を見たが、自分の席について考えごとをしているような雰囲気だった。
 そして、その日の午前中の休み時間は佐古は1人で行動していたが、昼休みになると弁当を持って蔵本のところへやってきた。
「ねぇ、クラモトたちのグループに入れてくれない?」
「いいよ。」
近くにいた川島が焦った。
「ちょっと、蔵本さん、本当にいいの?」
「断る理由はないよ。」
川島は離れた席にいる山瀬を呼んだ。
「どうするの、佐古さんが私たちとお弁当食べるって。」
山瀬は目を見開いた。
「え、それって。私たち大丈夫かな。」
蔵本は二人の様子を見てから、すでに中田や阿南と集まって弁当を食べようとしている富田のほうに歩いて行った。そして後ろから富田の肩を叩いて言った。
「ね、富田さん、いいよね。」
不意をつかれた富田が慌てて振り向いた。
「もう驚かさないでよ! で、何がいいって?」
蔵本はわざと一際大きな声を出した。
「当分の間、サコを預かるけど構わないよね!」
中田と阿南は弁当の蓋を開けて箸を持ったまま、口を半開きにしている。富田は気分を害したようで、吐き捨てるように言った。
「好きにしたらいいじゃん。」
蔵本はさらに声のボリュームを上げた。さすがにクラスのほとんどが蔵本と富田に注目している。
「4月の初めのときに、あなた、サコをよろしくって言ったもんね。本格的によろしくされちゃったので引き取るだけだから、よろしくね。」
「もう、好きにしろって言ったじゃん。」
「そっか、ありがとう!」
蔵本はわざと大袈裟に一礼して、くるっと180度回転すると、席に戻った。そして佐古に言った。
「いいんだって。」
佐古は困った顔をしながら呟いた。
「クラモト、やりすぎ。」
川島と阿南は泣きそうな顔をしている。
「大丈夫、なんかあっても私のほうにしか被害はないはず。さあ、お弁当、食べよう!」
川島と阿南は恐怖から、佐古はいたたまれなさや申し訳なさから、黙って弁当を食べていた。蔵本だけが興奮から、「5時間目は理科だから移動しなきゃ」とか、「今日のおかずは茶色い」とか大き目の声で独り言を言っていた。
 その日の授業が終わって、蔵本はそのまま塾へ向かおうとしていた。塾は6時からだが、それより前の時間は教室が自習室として開放されている。教室を出ると、佐古が後ろから追いかけてきた。
「ちょっと今日のことで話があるんだけど、いい?」
「いいよ、中庭で話そう。」
「いや、学校内はだれが聞いてるか分からないからさ、公園行こうよ。」
学校からしばらく行ったところにある児童公園のベンチで話を聞くことになった。
佐古が話を切り出した。
「実は私がトミーたちに無視されるようになった理由なんだけどね……。」
蔵本はそれを遮った。
「どうせ大したことじゃないんでしょう?」
「うん、大したことじゃないんだけど……。」
「大したことじゃないんなら聞かない!」
佐古は慌てた。
「いや、クラモトだけじゃなくて、川島さんや山瀬さんにも迷惑かけそうだから、大したことじゃない原因も話したほうがいいかなあって……。」
「それ、私たちに関係ある?」
「ない、全然ない。」
「じゃあ要らない!」
佐古はポカーンとしていた。
蔵本は続けた。
「佐古が何か悪いことしてたら別だけど、悪いことはしてないんでしょ?」
「してない。」
「じゃあいい。私、自習したいから行くね。」
蔵本が立ちかけたとき、佐古は強い力で蔵本の両肩を押さえた。
「ちょっと待って。これだけは聞かせて。」
「何よ。」
「本当に私は蔵本のグループに入れてもらっていいの?」
蔵本は怒ったように言った。
「だーかーら! サコが悪いことしてないなら、あんたを断る理由なんてないのっ。」
佐古は泣きそうな目をしていた。
「あの……できれば前みたいに友達でいて欲しいんだけど。」
「前みたいにって、途中は友達じゃなかったの?」
蔵本は弁当の時間のときのように、再び興奮が戻ったらしく、声が大きくなっていた。
「いや、ずっと友達だけど、トミーのグループにいた私のこと、ちょっと敬遠してたでしょ?」
「まあね。富田さんといるときのあんたは卑屈で嫌いだわ。けど、あんた自体を嫌いになった訳じゃないし。」
佐古は目をひと拭いすると、笑顔で言った。
「そっか、ありがとう。もう行っていいよ。」
「全くもう、サコはくそバカだわ。」
蔵本は今度こそベンチから立つと、さっさと歩いて公園を出た。佐古がその背中に向かって、「また明日ね!」と叫ぶと、蔵本は振り返ってピースした。

 その後、川島と山瀬の不安は全く当たらず、蔵本のグループは佐古がいても全く平穏だった。たしかに、富田たちは佐古のことを無視し続けていたが、それ以上の害はなかった。
 また、蔵本は富田に前よりも話しかけていて、富田は最初うざったがっていたが、3年に入ってから蔵本の成績がさらに良くなったことに気づいたらしい。富田のほうから猫なで声で話しかけることすらあった。
「蔵本さーん、この英語の長文ってよみづらくない?」
「まとまりごとにスラッシュ入れて読めば分かりやすいよ。」
蔵本は自分のカバンを漁って、書き込みだらけの自分の英語の教科書を開けて見せた。
「なるほど! 蔵本さんの頭の中が見えるようで面白いね。」
富田は感心して頷いていた。勉強が苦手な中田と阿南はボーッとしてその様子を眺めるだけだった。
「私は英語や国語は得意だけど、数学はイマイチだから、富田さん教えてね。」
「あー、私で良けりゃいつでも!」
富田は満更でもないような顔をして席に戻った。その様子を離れて見ていた川島と山瀬はヒソヒソと話をしていた。
「蔵本マジックよね。」
「単に蔵本さんが最近テストの調子がいいから、富田さんが擦り寄ってるだけ、とも言う。」
「いずれにせよ、私たちは被害を受けずに済みそう。」
富田との会話を終えた蔵本が川島と山瀬のほうに行った。
「なにヒソヒソ話してるの、感じ悪い!」
「違うよ、富田さんと勉強の話できる蔵本さん、かっこいいなあって。」
「さすが、実力テストで3番を取った人は違うなあ、って。」
蔵本はムッとして言った。
「実力テストって言ったって、もうすぐ期末じゃん! あなたたちも頑張りなよ。」
次に蔵本は、ノートを開けて何か考えている佐古のほうに行った。
「何悩んでるのよ。」
「まだ数学の宿題が解けてないから……。」
「それはね、ここに補助線引いてみて?」
蔵本が指で示しているのを見た佐古は、「あっ」と叫んだ。
「すごい、私、昨日一晩考えて分からなかったのに。」
「うそ、あんたのことだから、ノートを開けた瞬間に寝ちゃって、考えてないのよ。」
「夢の中で一生懸命考えたんだよぅ。睡眠学習。」
後ろの席に座っていた男子が吹いた。
「てかさ、サコ、私と一緒に夏期講習行かない?」
蔵本の突然の提案に佐古は目を見開いた。
「どうせ遊ぶ友達もいないんだし。」
「それは言いっこなしだよぅ。でも事実だよぅ。」
今度は男子も吹かなかった。
「あんたならできる、一緒にK高理数科行こう!」
「わたくしサコちゃんには高い高いハードルだよぅ。今のサコちゃんの番数知ってる?」
蔵本は斜め上を睨みながら言った。
「あんた勉強はしないけど頭は悪くないから、上三分の一くらいじゃない?」
佐古は小さな声で答えた。
「そんな感じ。で、時々真ん中まで落ちる。」
「あちゃー。でもさ、中三の夏休み、遊ぶよりは頑張って志望校のランク上げようよ!」
附属で20番以内に入れば、K高理数科の合格ラインだ。佐古が合格するためには、40人から60人ごぼう抜きする必要がある。そしてK高理数科は定員40人の狭き門だ。
「サコちゃん、附属入試でミラクル起こした子だから、高校入試で頑張ってみるのも悪くないかもぅ。ママに聞いてみるねぇ。」
佐古はふざけた口調で言ったが、顔は本気だった。

 本当に蔵本の成績は調子が良く、1学期末の試験は学年1位となった。たしかに、美術や音楽など、受験科目ではない科目も混ざっていたが、蔵本が1位を取ったという事実は学年中を駆け巡った。
「いやー、マジですごいね、蔵本さん。なんか噂では3教科くらい100点があったんでしょ?」
富田は熱心に蔵本に聞いた。
「英語、社会、国語ね。数学は難しかったから89点。」
富田は歓声を上げた。
「私、数学は勝った、95点だ! 英国社はみんな90点台までしか行かなくてさ……理科はどう?」
「理科も1箇所分からないところがあって、97点だった。」
「私も同じ! じゃあ、大きく差がついたのは保体、美術、音楽、家庭科かあ。音楽、50点ちょっとで超凹んだ。」
なぜか附属の音楽の試験は非常に難しいことで知られている。噂によると、音楽教師が、自分が顧問を務める合唱部にいい成績を取らせたいから、らしい。
「あはは、私は昔親の気まぐれでエレクトーン習わされてたから、楽譜は読めるんだよね。」
蔵本は笑いながら言った。
「だから78点。合唱やブラスバンドの子は90点台も多いって聞くね。」
富田は首を傾げた。
「ブラスバンドあたりにも秀才がいるじゃない? それで蔵本さんが勝ったのはなぜだろう。」
また蔵本はニヤリと笑った。
「あのね、今回美術もなんかマイナーな作品の作者を答えさせる問題が何個か出て難しかったじゃない? けど、たまたまうちにあった画集に載ってた作品ばかりだったのよ。ほら、うちの親、本当に気まぐれで。」
蔵本家には父の気まぐれで、美術年鑑や有名画家の画集が置いてあった。ホコリを被ったそれらは、幼いころの蔵本の絵本代わりになっていた。
「なんだ、そっか!」
富田も笑った。
「だからね、今回のは本当にまぐれなの。もう少なくとも期末では一番取れないから、答案用紙を神棚に入れて飾っておくわ。」
そう言い残して蔵本は教室を出た。出たところに佐古がいた。
「学年1位さん、たまには一緒に帰ろうよぅ。」
「あんたはストーカーか。いいよ、帰ろう。」
 例によって国道に出るまでの細い道は自転車を押して歩く。
「私ね、お母さんに相談して、夏期講習からクラモトと同じ塾に行くことにした。実は今までも別の塾へ行ってたんだけど、成績伸びないし、つまんないし。」
「よっしゃ! じゃあ一緒に理数科へ入ろうね。」
佐古は苦笑いした。
「理数科へ行きたいって言ったら、お母さんに心配されたけど、最終的には『できるところまで頑張ってみな。』って。」
蔵本は夏空を見上げた。

 夏休みは、夏期講習のある日は一日中授業だったが、佐古は分からない部分は蔵本や講師に聞いて自分なりに消化しようとしていた。夏期講習の終了後も、週二回の授業だけでなく、毎朝塾の自習室へ通って問題集を解いた。昼は近くのコンビニでおにぎりを二三個買って、自習室で食べた。
 さすがに自習室で喋ると怒られるので、2人は帰りにマックに寄ってシェイクを飲みながら話をした。
「勉強して分からないところが分かるようになるのって楽しいよね。」
「何そのサコらしからぬコメントは。」
「久しぶりに真剣に勉強してるからさ、あー頭がクラクラする。で、今、各都道府県の公立高校入試の問題も並行してやってるんだけどね。」
「塾の勉強してたら簡単に解けるでしょう?」
佐古は首を振った。
「それが案外そうでもなくて、例えば東京や神奈川、大阪や兵庫の入試は難しいんだよ。各科目分からない問題が一二問混ざってる。」
蔵本は頷いた。
「都会の入試ほど難しいよね。」
「うちの県のは、なんであんなに簡単なんだろう。数学の1問目が1-2だよ。いちひくに!」
「あー、零点の子が出ないようにという優しさらしい。いちひくに。」
佐古は難しい顔をした。
「ね、あんな調子じゃあ、うちの県は他の都道府県にかなり遅れを取ると思うんだ。」
「よし、我々は都会の大学へ行って、いちひくにの高校入試の県でもバカじゃないってことを見せつけてやろう!」
蔵本が鼻を膨らませて言ったので、佐古は笑った。
「まあ、大学入試の前に高校入試だけどね。」

 秋以降も、蔵本の快進撃は止まらず、だいたいのテストは5番以内をキープしていた。K高理数科合格間違いなしのレベルである。一方、佐古は二学期初っ端の実力テストこそ40番というイマイチな結果だったが、徐々に順位を上げていき、入試直近のテストでは15番を取った。
「私さ、三者面談で先生には無理するなって止められたけど、理数科受けてみるね。滑り止めでB高受けるし。附属のときと同じ、引っかかったらラッキーだし。」
私立のB高校は、中学同様にトップ校の滑り止めとして機能していた。今の佐古の成績なら、B高校は合格できるだろう。しかし。
「頭が痛いことに、理数科行くと多分トミーもいるんだなあ。」
富田は元々成績優秀だったが、夏休み以降に猛勉強したようで、英語や国語の成績を伸ばして10番以内には必ず入っていた。こちらもK高理数科合格ほぼ間違いなし。
蔵本は言った。
「バカだねぇ、人のことを気にして志望校変えるつもり?」
「変えないよぅ。その代わり、入学したらまた助けてね。」

 そして3月、公立高校入試が終了した。合格発表の日には、蔵本と佐古は二人でK高校に発表を見に行った。
佐古がおどおどしながら言った。
「ね、私だけ落ちてても笑わないでね。」
「笑ってやる、どうせ二人ともB高受かってるんだから、平気だよ。」
掲示板の前には思ったほど人がいなかった。定員40人のところを50人ちょっとしか受験しなかったのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど。2人はさっさと近づき、掲示板に自分の受験番号を探した。
「あった!」
「私も!」
2人は抱き合って喜んだ。しかし次の瞬間、何かを思い出したのか、佐古は再度掲示板で何かを探し始めた。しばらくして、制服のポケットから受験票ではない、メモ用紙を出して見比べた。
「ちょっと待って。トミーの番号がない。」
「嘘でしょ? ってか、なんであんたは富田さんの受験番号を知ってるのよ。 」
「受験会場でトミーの机の上にある受験票を見てメモっておいたの。いち早くここで調べてやろうと思って。」
「あんたはそういうことだけマメなのね。で、本当にないの?」
「ない。助かった。人の不幸は喜んだらいけないけど、よかった。」
佐古はホッとした様子だった。
「しかし不思議だねぇ。50何人しか受けてなくて、落ちた10何人のほうに富田さんが入るとは。」
 実は、富田は公立高校入試の直前に風邪を引いてしまい、当日は高熱を出していた。
「もしや、私、勉強でトミーに勝ってしまった?」
佐古はちょっと不安な顔をした。
「バカ、もう富田さんには会わなくて済むんだから、気を遣う必要はないよ!」
「あ、そうか。」
2人は大笑いをした。

 高校の入学式の日、2人は一緒に例のコンビニ駐車場で待ち合わせをして行った。しかし、教室に入ると佐古は富田の一派に声をかけられた。
「サコちゃん、こっちこっち!」
「おぅ、ともちゃん!」
ともちゃんこと穴吹朋美は中学時代富田の仲間だった人物で、すらっとした美形だ。バスケ部に所属しており、男子からの人気もそこそこあった。穴吹の周りには山川や加茂など、富田の仲間のうち比較的勉強ができた女子がいた。彼女たちは運動神経も良く、それぞれが運動部で活躍していた。
「みんな合格したんだねぇ。」
「あのさ、みんなで話してたんだけど……」
加茂が切り出した。
「サコちゃん、中学のときはトミーに大変な目にあってたけど、私達内心同情してたの。でも、もうトミーはここにはいないから、サコちゃんも仲良くしよう!」
「おー、ありがとう。」
佐古はトミーの元仲間たちと次々に握手していった。それを醒めた目で蔵本は見ていた。
 穴吹が蔵本に言った。
「あ、蔵本さん。中三のときはサコちゃんの面倒見てたんだって? 代表してお礼を言うわ。」
蔵本は反論した。
「面倒見てたとかそういうんじゃないの。私は小学校から知ってるから……。」
「まあとにかく、これからは怖いボスに怯える必要はないから、みんなで楽しくやっていきましょ!」
蔵本は呆れてものも言えなかった。とにかく、不愉快な富田の元仲間たちとは距離を置くことに決めた。

 蔵本が旧富田派と距離を置くと、必然的に佐古とも距離ができるので、蔵本と佐古は同じクラスにいるのにあまり喋らない仲になってしまった。蔵本は中学と同様に地味なグループの中にいて、旧富田派は派手グループだったから、より接点がなくなったのだ。
 確かに、すれ違えば挨拶なり、世間話なりはするけれど、だからといってもう一緒に帰ることもないし、そもそも登下校の時間帯も違う。同じクラスにいるはずなのに、蔵本は佐古の近況をほとんど知らなかった。ただ、1年の秋に佐古が同じクラスの辻という男子と付き合い始めたことだけは蔵本の耳に入った。辻はこれといって特徴がない、ごくごく普通の男子に見えた。
 佐古も同様で、全く蔵本が何をしているのか、何を考えているのか分からなかった。地味な子たち数人と教室で談笑してはいるものの、学外で仲良くしている様子でもなく、1人でさっさと帰っているのをよく見かけた。声をかけられる雰囲気ではないので、そっとしておくことにした。
 実は高校に入って、蔵本は理数系の勉強がいよいよ分からなくなってしまっていた。そんなときにふらりと入った書店で、面白そうなタイトルの新書を見つけたので、少ない小遣いをはたいて買った。生物の進化についての謎を解き明かす内容だったが、学校で習う生物よりもずっと意味があると思った。それ以降、学校の勉強よりも、書店や図書館にある、社会や政治や、その他もろもろの本が面白くなってしまって、日本はこのようにあるべきだ、などということを少ない知識で考えるのにふけっていた。これとは別にナンシー関や中野翠のコラムも読んでおり、こんな軽妙な文章が書けたらいいな、と考えるようになった。
一方の佐古も、蔵本同様に、いやそれ以上に勉強が分からなくなっていたが、友達と遊んだり、辻とデートするのが忙しく、あまり蔵本のことを考える暇はなかったのである。

 そうこうしているうちに、高3に入った。やはりみんな大学受験を控える身としては、真剣に進路のことを考えて受験勉強に取り組まざるを得ず、ふわふわしたクラスの雰囲気も引き締まっていた。蔵本は、ただ、受験勉強に本腰を入れる気分にはなかなかなれず、放課後は図書館で読みたい本を適当に漁ったり、書店で欲しい本の背表紙と財布の中身とをにらめっこする日々だった。
そしてある日の放課後、蔵本が学校の図書室で何となく取った本を読んでいると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「クラモト、やっぱりここにいた!」
見上げると佐古の顔があった。
「どうしたの、図書室に昼寝しにきたの?」
「違うよ、今日はクラモトと話がしたくて呼びにきたの。」
「話って何よ。」
「まあまあ、ここじゃなんだから、とりあえず外に出よう。」
蔵本が本を閉じて書架に戻すのを見送ると、佐古は蔵本の腕を引っ張って、駐車場のほうに連れて行った。
「一体何なの。」
「今から海に行くよ!」
「はあ? 海ってフェリー乗り場?」
K高校の近くには本州に渡るフェリーの乗り場があった。
「違うよ、T海岸のほう。」
「バカじゃないの、ここから結構遠いよ。」
T海岸へは自転車で40分くらいはかかる。しかも佐古や蔵本たちの自宅とは反対方向だ。
「自転車なら行けなくもないよ。私、何度か行ってるし。」
いつになく強引な佐古に、蔵本は仕方なく着いていくことにした。自転車で移動している間、2人は無言だった。途中の道は海に近くて風が強いし、交通量もかなりのものだったから、自転車に乗ったまま話せるような状況ではなかったのもあるけれど。
 佐古と蔵本がやっとのことでT海岸に着くと、すでに太陽は西のほうにあった。
「向こうに堤防が飛び出しているでしょ? あそこ行こうよ。」
蔵本は砂に足を取られつつ、佐古の後ろを着いて行った。コンクリートで固められた突堤に辿りつくと、その先端に佐古は腰をかけた。蔵本は並んで座ることにした。
「で、こんなところまで来ておいて、話は何なの?」
蔵本が尋ねると、佐古は両腕を上げて伸びをしながら言った。
「まあ周囲をよく見てよ。海しかない。」
確かに、ここまで来ると、背後以外は全部海だ。波が西日に反射して美しいと言えなくもなかった。
「まさか、あんた、私を海に突き落とすんじゃないでしょうね。」
佐古は盛大に笑った。
「ちょっとクラモト、小説の読みすぎかドラマの見すぎじゃないの。それより、この景色を見て何か感じることはない?」
クラモトはもう一度左右を見渡した。
「いや、海だなあ、としか。」
「あんたは本当に面白くない子だね。」
佐古に面白くないと言われて腹が立った蔵本は、眉間にシワを寄せて言った。
「ちょっと、ここまで来て話はないの。」
「あるといえばあるし、ないといえばないんだよね。とりあえず、この景色を見ての感想をクラモトと共有したかったの。私、これを見ると、世界は円で、その中心に自分がいるように思えるんだ。」
蔵本はまたまたぐるりと周りを見た。
「まあ、そう言われてみたらそんな気はするね。」
「でしょ? だから、私、たまにこれを見に来てた。」
「辻くんと一緒に?」
佐古はゲラゲラ笑った。
「あいつとはここ来たことないよ。だからクラモト誘ったのに。」
「海を見て感傷にふけるとか、佐古らしくないよ。なんか穴吹さん達との人間関係や、辻くんとの関係で悩みでもあるんじゃないの?」
「ない、全くない!」
佐古は言い切った。
「あの子ら、悪い子じゃないし、学校でおしゃべりして放課後にちょっと駅前で遊ぶ程度だし、何も悩みなんか起きようがないよ。辻くんもいい奴だし、映画行ったり駅前プラプラしたり、家で勉強教えてもらったりで、なーんもないの。」
「何もないなら良かったじゃない。」
「うん、でもさ、これって本当の自分を出せてないから上手くいってるんだよね。」
佐古はもう笑ってなかった。
「二重、三重にも自分を隠して、その上で手に入れた平和な毎日なの。ここへはそれに疲れて来てた。」
蔵本は心配になった。
「無理すると良くないよ。まあ、あんたは昔からボスみたいな子に気を遣いながらいたから……。」
「そういやクラモトも、私の転校前のことは知らなかったな。」
 佐古は怒涛のように小4の頃の出来事を話し始めた。佐古が、可愛いうえに勉強も体育もできるというので、クラスの女ボスに嫌われていじめられていた過去。
「あのときのイジメはほんと酷かったよ。だれも口きいてくれないだけじゃない。上履きの中に押しピン入ってたり、ノートが破られてゴミ箱に入ってたり。給食の中にゴキブリ入れられたときは本当に泣いたわ。」
「そろそろ殴られたり蹴られたりするんじゃないかって思ってたときに、オヤジが家を買うことになって、そのいやな小学校から転校できたわけよ。」
「私は二度と繰り返すまいと思ったから、小太りの体型を維持して、簡単な小テストもわざと1問間違えたり、わざと雨の日に廊下で転んだりして、努力してきた。」
佐古は一息ついてから、話を再開した。
「なのに中三のときは、トミーが好きだった池谷くんに一方的に好かれてしまって、それがバレてトミーに嫌われてしまった。池谷くん、よりによってトミーに恋愛相談しちゃったのよ。」
「またあの暗黒の日々に逆戻りかと思ったけど、クラスにクラモトがいて救われた。高校になったら勉強が難しくなったから、そこは全く演技する必要がなくなったけど、女子に好かれるタイプと男に好かれるタイプを、友達の前と彼氏の前で演じ分けるのは大変よ。」
蔵本は疑問を挟む。
「なんでそこまでしてみんなに好かれようとするの。」
佐古は語る。
「私はクラモトみたいに強くないから。人に嫌われたらこの世の終わりだと思ってしまう。小学校のときみたいな、ね。演じてる自分も、演じてない自分も、同じように接してくれる蔵本は貴重な存在だよ。」
「多分私の次のミッションは、大学でいい条件の男を見つけて、そいつに好かれて嫌われないようにして、結婚まで持ち込むこと。それで子どもを産んだら、いいお母さんを演じるんよ。」
「旦那は公務員がいいな。」
蔵本は全体的にバカバカしいと思う。だけど、そんな佐古を責められるだろうか?
「大学もちゃんと男受けするような学科を選ぶよ。法学や経済学は硬くてイマイチ、教育学部にする。優しそうに見えるじゃない?」
「それ抜きでも教育ってだいじよね。私は将来学校の先生になって、いじめがあったら絶対許さない。」
「海にはさ、綺麗な魚もブサイクな魚もいて共存できる。あと、海は誰のものでもない。キラキラしてるし最強じゃない? 今日は海を見て息抜きがしたかったのと…素の自分を知っている人と話がしたかったんだ。それで大学入試、頑張れる気がする!」
 そこまで佐古が話し終えると、水平線に日が沈みかけていた。
「夜の海は呑み込まれそうで怖い、移動しよ。」

 2人は自転車で駅前まで走った。いつも佐古が友達と行っている、ロッテリアでもマックでもないハンバーガーショップに入った。蔵本は家で晩御飯を食べなきゃいけないのでジュースとポテトだけ、佐古はハンバーガーも頼んだ。
蔵本が、海で聞いた話についてさらに詳細を聞こうとした。しかし佐古はそれを遮った。
「ダメ、ここは誰がいて話を聞いてるか分からないから。」
「私達はそれぞれの普段に戻る。それでいいのよ。ただ、蔵本が仮に東京の大学へ行っても、私のことと今日のことは絶対忘れないで。私も忘れないようにするから。」
その後は佐古は辻の話や、今流行のリュックのことなどを、明るく話して、2人は夜9時ころに解散した。
「バイバイ!」
蔵本は佐古に大きく手を振られた。しかし蔵本はその佐古の姿を見て、今まで気づかなかった決定的な溝のようなものを感じ、手を振り返す気にならなかった。

 それから蔵本は特に佐古と話をすることはないまま高校を卒業した。
蔵本は都内の私立大学の法学部に進学し、佐古ちゃんは風の噂である国立大学の教育学部に合格したと聞く。

 ところで、法学においては定義が重要だ。例えば犯罪とは、「構成要件に該当し、違法かつ有責な行為」と定義づけられる。
 一方、蔵本は子どものときから、「友達の定義って何?」と悩んできた。大学生になってから考えてみると、さとちゃんや江口は蔵本にとって迷いなく友達だったといえる。しかし、佐古についてはどうなのか。単に友達というには色んな感情を持ち過ぎた。もちろん、知人というには関係が深過ぎる。
 もし、さとちゃんや江口に会える機会があれば、蔵本は喜んで会うだろう。しかし、佐古に会えると言われたら……会いたいけど、会いたくない、そんな複雑な気持ちになるのだった。

 ちなみに、佐古や蔵本の高校卒業は1998年で、当時携帯電話は普及していなかったし、当然SNSもなかった。もしあれば、この話の続きがあったのかもしれない。でも、お互い連絡手段を持たないまま、全く違う場所に離れ離れになった今、蔵本にとっての佐古は18歳までの佐古だし、佐古にとっての蔵本は18歳までの蔵本でしかない。つまり、データは更新されない。
 今後もおそらくデータの更新はないが、お互いの記憶だけは決して消えないだろう。仮に母校がなくなって、あの海岸が埋め立てられたとしても。

















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