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第一章
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七月の誕生日の朝、父が出勤前にパンケーキを焼いてくれた。
「夜は会食で遅くなる。一緒に食べられないんだ」
そう言いながら、父はテーブルのスマートフォンで恋人の女性とメッセージをやり取りしている。
「かずささんと?」
「まあな……すまないな、誕生日の夜に」
「いいよ。もう二十歳も過ぎたし、いつまでも祝われるのは恥ずかしい」
虚勢を張って、良明はパンケーキに視線を落とした。少し焦げた生地にチョコレートシロップを垂らし、溶けかかったバニラアイスをすくう。
毎年この日だけ、近所の洋菓子屋で三人分のケーキを買い、母の仏壇に供えてから父と食べるのが慣例だった。自分の誕生日でも、いつも母の好きだったチーズケーキを選んできた。今年は自分の好きなチョコレートにしようと思った。――そうやって選べるはずなのに、胸の底がざわついた。家の中の「誰かの不在」が、急に重くなる。
「……うまいか」
「うん。おいしい。父さん、ありがとう」
父は複雑な顔をして、自分の皿に手を付けた。ひと口食べ、苦い顔で早々にフォークを止める。結局、良明が父の分まで平らげた。
良明は時計を見て、急いで支度をした。
「行ってきます」
「気を付けてな」
玄関を出ると、白い光が視界をふさいだ。足元で、かさりと乾いた音がする。
玄関前に、白い薔薇の花束が置かれていた。透明フィルムに包まれ、水色のカードが添えられている。木漏れ日が揺れるポーチの石段から持ち上げると、甘い香りが立った。
「今年も……」
薔薇は十一本。数を確かめる指が、覚えている。カードを開く。
『愛している』
清水良明さんへ、と手書きで書かれている。読み上げただけで頬が熱くなる。送り状がない。つまり誰かが、ここまで来て置いたのだ。
私道の先は静かで、朝の湿った空気だけが動いていた。良明は鞄にカードをしまい、家に引き返す。あがりかまちに鞄を置いて、和室の仏壇前に手を合わせた。
母の写真の前から空の花瓶を取り、洗面台で水を張る。小窓から淡い光が差し込むのに、手元は薄暗い。木造家屋の床が、七月なのにひんやりとする。
「なんだ、忘れ物か」
父が歯を磨きに来て、花瓶と薔薇を見て眉をしかめた。
「……またか」
「今年もくれたんだ。母さんの好きな白い薔薇」
父がため息をつく。
「お前も二十歳になったというのに、どこの誰だ」
送り主不明の薔薇を有り難がる息子に、父は怪訝な目を向けた。
「お花はいつもらってもうれしいものだよ。母さんがそう言ってた。それにこれは贈り物だから」
「贈り物じゃない。……不法投棄だ」
父の声に疲れが混じっている。
「玄関のカメラも、今年こそ役に立ててやる。朝方、映像が乱れて……次の瞬間に花束がある。気味が悪い」
「前みたいに通報したら、夕飯作らないから」
「父さんより幽霊の味方か」
「……はいはい」
「危機管理を持て」
言い捨てて父は居間へ戻る。良明はその背中を見て小さく笑った。ああ言いながら、剪定ばさみを取りに行ってくれる。そんなところが、父らしい。
薔薇が届くようになったのは、十歳の誕生日からだ。あれから十年が経った。最初、良明は贈り物の存在を知らなかった。三年目に父がこっそり処分しているのを見て、良明は怒った。母さんが好きだった花を捨てるな、と。翌年からは自分で受け取るようになった。
送り主不明なのに、なぜか怖くない。カードには毎年、熱のこもった言葉が書かれている。足長おじさんみたいだと、良明はこの日を少しだけ楽しみにしていた。
父が剪定ばさみを持って戻ってくる。良明は花瓶の高さに合わせて茎を切り、水に浸す。生命をつなぐ行為に、言いようのない昂揚がある。「おはよう」と声をかける。
数日すれば、薔薇は枯れる。そのときほど辛いものはない。母が生きていたのなら、押し花にしてくれただろう。それでも良明は形に残すのを嫌った。
「……気味悪くないのか。誰の花か分からないのに」
「とげを抜いてくれてる。きっといい人だよ。たぶんね」
「そういうところ、母さんに似たな」
「良かった」
笑い返したところで、父がぽつりと言う。
「良明は強い子だ。もう大丈夫だな。……早いうちに、かずささんに再婚を申し込むつもりだ」
表情筋が固まる。責める気はない。父が誰かを思うのも当然だ。それでも、家の中の空気が変わる予感がして、胸が冷える。
良明は家を出た。つま先をつんのめらせながら坂を下る。早朝の二車線道路は車影がなく、鳥の声だけが遠い。狭い歩道から見える灰色の空が、ツタだらけの雑居ビルに覆いかぶさっていた。後ろを振り返ると、良明の家はあまりに小さ過ぎて見つけられなかった。
駅のホームで電車を待っていると、反対側に電車が滑り込んできた。
――今日は、帰っても一人だ。
それだけで心臓が跳ねた。気が付けば、その車両に乗り込んでいた。
一時間揺られて、聞き慣れた観光地の駅名が流れる。良明は本を閉じ、降りた。平日の朝なのに駅前は賑わっている。夏休みが近いのだと気づく。
飲食店やホテルを抜けると、白い砂浜が見えた。
海を眺めていると、スマートフォンが立て続けに鳴る。全部ショーレムからだった。
【良明、おはよう。大学に来てないね。どこにいるの】
【ちょっと逃避行中です】
数秒で既読がつく。
【君の逃避行に俺も連れて行ってほしいな。一人は寂しいだろう】
良明は返事に困って通知を切り、鞄にしまった。
――なんで僕に構うんですか。
言えないまま、波の音に耳を預ける。
光と風の行き交う海岸で、良明は朝日の温かさに息を吐いた。
「……戻るか」
声は波にかき消される。七月なのに、頬が熱い気がした。
「夜は会食で遅くなる。一緒に食べられないんだ」
そう言いながら、父はテーブルのスマートフォンで恋人の女性とメッセージをやり取りしている。
「かずささんと?」
「まあな……すまないな、誕生日の夜に」
「いいよ。もう二十歳も過ぎたし、いつまでも祝われるのは恥ずかしい」
虚勢を張って、良明はパンケーキに視線を落とした。少し焦げた生地にチョコレートシロップを垂らし、溶けかかったバニラアイスをすくう。
毎年この日だけ、近所の洋菓子屋で三人分のケーキを買い、母の仏壇に供えてから父と食べるのが慣例だった。自分の誕生日でも、いつも母の好きだったチーズケーキを選んできた。今年は自分の好きなチョコレートにしようと思った。――そうやって選べるはずなのに、胸の底がざわついた。家の中の「誰かの不在」が、急に重くなる。
「……うまいか」
「うん。おいしい。父さん、ありがとう」
父は複雑な顔をして、自分の皿に手を付けた。ひと口食べ、苦い顔で早々にフォークを止める。結局、良明が父の分まで平らげた。
良明は時計を見て、急いで支度をした。
「行ってきます」
「気を付けてな」
玄関を出ると、白い光が視界をふさいだ。足元で、かさりと乾いた音がする。
玄関前に、白い薔薇の花束が置かれていた。透明フィルムに包まれ、水色のカードが添えられている。木漏れ日が揺れるポーチの石段から持ち上げると、甘い香りが立った。
「今年も……」
薔薇は十一本。数を確かめる指が、覚えている。カードを開く。
『愛している』
清水良明さんへ、と手書きで書かれている。読み上げただけで頬が熱くなる。送り状がない。つまり誰かが、ここまで来て置いたのだ。
私道の先は静かで、朝の湿った空気だけが動いていた。良明は鞄にカードをしまい、家に引き返す。あがりかまちに鞄を置いて、和室の仏壇前に手を合わせた。
母の写真の前から空の花瓶を取り、洗面台で水を張る。小窓から淡い光が差し込むのに、手元は薄暗い。木造家屋の床が、七月なのにひんやりとする。
「なんだ、忘れ物か」
父が歯を磨きに来て、花瓶と薔薇を見て眉をしかめた。
「……またか」
「今年もくれたんだ。母さんの好きな白い薔薇」
父がため息をつく。
「お前も二十歳になったというのに、どこの誰だ」
送り主不明の薔薇を有り難がる息子に、父は怪訝な目を向けた。
「お花はいつもらってもうれしいものだよ。母さんがそう言ってた。それにこれは贈り物だから」
「贈り物じゃない。……不法投棄だ」
父の声に疲れが混じっている。
「玄関のカメラも、今年こそ役に立ててやる。朝方、映像が乱れて……次の瞬間に花束がある。気味が悪い」
「前みたいに通報したら、夕飯作らないから」
「父さんより幽霊の味方か」
「……はいはい」
「危機管理を持て」
言い捨てて父は居間へ戻る。良明はその背中を見て小さく笑った。ああ言いながら、剪定ばさみを取りに行ってくれる。そんなところが、父らしい。
薔薇が届くようになったのは、十歳の誕生日からだ。あれから十年が経った。最初、良明は贈り物の存在を知らなかった。三年目に父がこっそり処分しているのを見て、良明は怒った。母さんが好きだった花を捨てるな、と。翌年からは自分で受け取るようになった。
送り主不明なのに、なぜか怖くない。カードには毎年、熱のこもった言葉が書かれている。足長おじさんみたいだと、良明はこの日を少しだけ楽しみにしていた。
父が剪定ばさみを持って戻ってくる。良明は花瓶の高さに合わせて茎を切り、水に浸す。生命をつなぐ行為に、言いようのない昂揚がある。「おはよう」と声をかける。
数日すれば、薔薇は枯れる。そのときほど辛いものはない。母が生きていたのなら、押し花にしてくれただろう。それでも良明は形に残すのを嫌った。
「……気味悪くないのか。誰の花か分からないのに」
「とげを抜いてくれてる。きっといい人だよ。たぶんね」
「そういうところ、母さんに似たな」
「良かった」
笑い返したところで、父がぽつりと言う。
「良明は強い子だ。もう大丈夫だな。……早いうちに、かずささんに再婚を申し込むつもりだ」
表情筋が固まる。責める気はない。父が誰かを思うのも当然だ。それでも、家の中の空気が変わる予感がして、胸が冷える。
良明は家を出た。つま先をつんのめらせながら坂を下る。早朝の二車線道路は車影がなく、鳥の声だけが遠い。狭い歩道から見える灰色の空が、ツタだらけの雑居ビルに覆いかぶさっていた。後ろを振り返ると、良明の家はあまりに小さ過ぎて見つけられなかった。
駅のホームで電車を待っていると、反対側に電車が滑り込んできた。
――今日は、帰っても一人だ。
それだけで心臓が跳ねた。気が付けば、その車両に乗り込んでいた。
一時間揺られて、聞き慣れた観光地の駅名が流れる。良明は本を閉じ、降りた。平日の朝なのに駅前は賑わっている。夏休みが近いのだと気づく。
飲食店やホテルを抜けると、白い砂浜が見えた。
海を眺めていると、スマートフォンが立て続けに鳴る。全部ショーレムからだった。
【良明、おはよう。大学に来てないね。どこにいるの】
【ちょっと逃避行中です】
数秒で既読がつく。
【君の逃避行に俺も連れて行ってほしいな。一人は寂しいだろう】
良明は返事に困って通知を切り、鞄にしまった。
――なんで僕に構うんですか。
言えないまま、波の音に耳を預ける。
光と風の行き交う海岸で、良明は朝日の温かさに息を吐いた。
「……戻るか」
声は波にかき消される。七月なのに、頬が熱い気がした。
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