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4.修理当日
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朝の五時にバスを待っていた。最寄り駅まで走る体力は昨夜の内に使い果たした。タクシーでもいいけれど、あいにくと所持金がそんなになかった。お金を下ろそうにも、近くにコンビニがない。だからこうやってバスを待っているわけだ。
蝉の大合唱を聞きながら、正面の小さな公園を何ともなしに見ていた。鳥が木の枝で羽を休めた。こもった鳩みたいな鳴き声からしてキジバトだろう。大きな風が吹くと、爽やかな八月の空に旅立つ。孝正は目線を上げる。日が昇っていなくて鳥と蝉の声だけの空の雲に、灰色がかった楓の目を思い出す。
「さようなら」
携帯電話から楓の電話番号を着信拒否にして、電源を切る。今着ている高級ブランドの服やスニーカーだって、早いうちに捨てよう。楓から手渡されたクレジットカードは置いてきた。この二週間、財布なんて持つ必要がなかったから、放置していた貯金を頼りにしよう。身分証とこの身さえあれば、生きて行くには問題はない。
「僕は帰ります、楽しかったです」
それ以上の言葉が見当たらない。
今ごろ楓はベッドで寝ているだろう。楓は、孝正が初めて自分以上に深く愛した男だ。楓との時間はいつだつて、この世に自分達二人しかいないと思うくらい愛に満ちていた。それでも幸せを感じれば感じる程、楓の目の底に沈んでいる暗い光から顔を背けたくなる。そのまばゆいような、深い愛情をたたえた眼差しを失うのが怖くなる。いたずらっぽく返せば良いものを、孝正の黒い目からは最後、とめどなく涙が流れた。
バスを待っているだけで、顔どころか身体中汗まみれになる。楓が褒めてくれた顔もきらきらと輝いているだろうか。
帽子を目深に被って、唇を噛みしめた。ひと夏の景色を見て、この不安に満ちた痛みをやり過ごそうとした。これからこの季節の空を眺めたら、臆病者で寂しがり屋の自分は、こんな風に楓を思い出すのだろう。きっとそうだ。
バスが来た。
「おはようございます」
車内のタラップに足を乗せて、運転手に挨拶をした。すると、後ろから腕を引かれた。振り向くと、泣き虫な楓が目に涙を浮かべて、くしゃくしゃな顔で孝正をバスから降ろした。
「乗らないんですか」
運転手に聞かれたから、孝正は震える口で答えた。
「乗り、」
激高した楓に言葉を遮られた。
「乗りませんっ」
バスが走り去って行く。楓に腕を引き摺られながら、来た道を戻る。沈黙が続く。
楓の邸宅に帰って、孝正は「ただいま」と言った。その時の楓の顔と言ったら、バラのように綺麗だった。楓の汗の中に微かに夏の葉の匂いがした。階段を上り、寝室のベッドで押し倒されて、色々と思いが浮かんだ。楓は追いかけて来てくれた。それだけで彼を信用しようと誓った。
朝が来る。カーテンの隙間から、明るい光が射し込んだ。楓の灰色の目が乾いていることに安堵した。もう泣かせないように、触れるだけの口づけをした。
「好きです、もう後戻りできないくらい、楓さんが好きです」
孝正は、眉間にしわを寄せる楓の額を指の腹で解す。
「それでも、先ずは交際からお願いします」
頬に手を滑らせる。と、楓が「ふふ」とにこにこして、両方の目をこすった。
「今日は祝祭だ」
そうですね、と楓の背に手を回した。
蝉の大合唱を聞きながら、正面の小さな公園を何ともなしに見ていた。鳥が木の枝で羽を休めた。こもった鳩みたいな鳴き声からしてキジバトだろう。大きな風が吹くと、爽やかな八月の空に旅立つ。孝正は目線を上げる。日が昇っていなくて鳥と蝉の声だけの空の雲に、灰色がかった楓の目を思い出す。
「さようなら」
携帯電話から楓の電話番号を着信拒否にして、電源を切る。今着ている高級ブランドの服やスニーカーだって、早いうちに捨てよう。楓から手渡されたクレジットカードは置いてきた。この二週間、財布なんて持つ必要がなかったから、放置していた貯金を頼りにしよう。身分証とこの身さえあれば、生きて行くには問題はない。
「僕は帰ります、楽しかったです」
それ以上の言葉が見当たらない。
今ごろ楓はベッドで寝ているだろう。楓は、孝正が初めて自分以上に深く愛した男だ。楓との時間はいつだつて、この世に自分達二人しかいないと思うくらい愛に満ちていた。それでも幸せを感じれば感じる程、楓の目の底に沈んでいる暗い光から顔を背けたくなる。そのまばゆいような、深い愛情をたたえた眼差しを失うのが怖くなる。いたずらっぽく返せば良いものを、孝正の黒い目からは最後、とめどなく涙が流れた。
バスを待っているだけで、顔どころか身体中汗まみれになる。楓が褒めてくれた顔もきらきらと輝いているだろうか。
帽子を目深に被って、唇を噛みしめた。ひと夏の景色を見て、この不安に満ちた痛みをやり過ごそうとした。これからこの季節の空を眺めたら、臆病者で寂しがり屋の自分は、こんな風に楓を思い出すのだろう。きっとそうだ。
バスが来た。
「おはようございます」
車内のタラップに足を乗せて、運転手に挨拶をした。すると、後ろから腕を引かれた。振り向くと、泣き虫な楓が目に涙を浮かべて、くしゃくしゃな顔で孝正をバスから降ろした。
「乗らないんですか」
運転手に聞かれたから、孝正は震える口で答えた。
「乗り、」
激高した楓に言葉を遮られた。
「乗りませんっ」
バスが走り去って行く。楓に腕を引き摺られながら、来た道を戻る。沈黙が続く。
楓の邸宅に帰って、孝正は「ただいま」と言った。その時の楓の顔と言ったら、バラのように綺麗だった。楓の汗の中に微かに夏の葉の匂いがした。階段を上り、寝室のベッドで押し倒されて、色々と思いが浮かんだ。楓は追いかけて来てくれた。それだけで彼を信用しようと誓った。
朝が来る。カーテンの隙間から、明るい光が射し込んだ。楓の灰色の目が乾いていることに安堵した。もう泣かせないように、触れるだけの口づけをした。
「好きです、もう後戻りできないくらい、楓さんが好きです」
孝正は、眉間にしわを寄せる楓の額を指の腹で解す。
「それでも、先ずは交際からお願いします」
頬に手を滑らせる。と、楓が「ふふ」とにこにこして、両方の目をこすった。
「今日は祝祭だ」
そうですね、と楓の背に手を回した。
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