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 久遠は警察車両の後部座席で待機させられていた。 
 窓から外の様子を伺うと、揃いの作業着を身に着けた人や警察関係者であることを表す腕章を付けた人の姿が目に入る。 
 寺院へと続く参道や路地が封鎖され、境内の入り口には立ち入り禁止の黄色いテープ。そして、あの箱が置かれていた辺りはブルーシートで覆われていた。 
 箱を開けて中身を確かめた久遠は、巡回していた近隣の交番の巡査が声をかけてくるまで、その場から動けないでいた。そして、気がついたときには境内の周りにいくつもの警察車両が押し寄せ、久遠はそのうちの一台に乗せられたのであった。 
 辺りはすっかり暗くなって、ぐっと冷え込んできた。車内は暖房が効いているとはいえ、久遠はしきりに指先を摩った。 
 ──永久はどうしてるかな。 
 こんなにも帰りが遅くなったことはない。心細い思いをしていないだろうか。そんなことを考えていると寒さが増したような気がして、久遠は身体を揺すった。 
 そうしていると、腕章を付けた背広の男性が近づいてくるのが窓の外に見えた。おそらく刑事だろう。男は後部座席の窓をノックした。 
「君が、第一発見者の御山久遠くんだね」 
 ドアを開けながら、声をかけてくる。長身痩躯な男だった。齢は三十代半ば。精悍な顔つきで口調は穏やかだが、目元には隈が浮かんでいて健康的ではないという印象を受けた。久遠も人のことを言えた義理ではないのだが。 
「警視庁捜査一課の笹塚です」 
 警察手帳を見せながら、彼はへらっと笑ってみせる。手帳には”警部補 笹塚ささづか士郎しろう”と記されてあった。 
「どうも」 
 軽く頭を下げながら返事をする。そして、上目がちに刑事の様子を伺った。 
 聴取をしに来たのだろう。身元などは久遠に声をかけてきた巡査に伝えてあるが、あの箱を見つけた経緯についてはまだ訊かれていなかった。 
「驚いただろう? あんなものを見つけて」 
「まあ……」 
 気遣いの言葉をかけてくる刑事に、久遠は持ち前の人見知りを発揮して言葉が上手く出てこない。心なしか気分が悪い。 
「あの箱を見つけたときのことを聞かせてもらってもいいかな?」 
 予想通りのことを聞かれて、久遠は言葉に詰まる。襟足に手を伸ばして黙り込んでしまう。どうしてこの場所にいるのかなんてことは、久遠にも判らないのだから説明しようがなかった。 
「どうしたんだい?」 
 笹塚は優しく訊いてくる。 
 「えっと……オレにもよく判らなくて……」 
「それは、どういうことだい?」 
 笹塚は怪訝そうに片眉を上げた。 
 そういう反応になるよな、と久遠は襟足に指を絡ませながら、どう話したものかと考えを巡らせる。なぜこの場所に足が向いたのか。それを説明しようとすると、自分の境遇や情緒不安定なこと、さらに才能のことも話さなければ納得してもらえないだろう。 
 こんな異様な状況に、魔術を扱える人間が居合わせた。 
 目の前の刑事は、どう思うだろうか。 
 きっと捜査の一環で、久遠の話の裏を取るだろうから、いっそのこと素直にすべて話してしまったほうが、面倒なことにならずに済むかもしれない。そう思い、久遠は笹塚に一から話すことにした。 

「──つまり、君は魔術師なのかい?」 
 話を聞いた笹塚は、遠慮がちに訊ねた。話が長くなってしまったが、彼は最後まで久遠の言葉に耳を傾けてくれた。 
「才能があるだけで、正確には魔術師じゃないです」 
「そうか……」 
 笹塚は無精髭の生えた顎を撫でた。久遠は何を言われてもいいように身構える。 
「実際のところ、どうなんだい? 魔術っていうのは」 
「どう、とは……?」 
「大まかな歴史については学校なんかで教わった。けど実際、目にする機会っていうのは、そうそうないだろう。だから、どうも信用ならなくて……あ、君のことが信用できないってことじゃなくてだな」 
「……いや、大丈夫です」 
 申し訳なさそうに頬を掻く笹塚に、久遠はわずかに緊張を解いた。魔術に対する理解は少ないが、完全に否定しているわけでもないようだ。 
 笹塚の言うように、一般の人たちが魔術を目にする機会というのはほとんどない。魔術師や魔術学者が組み上げた魔術理論を用いた製造技術や医療技術は存在しているが、魔術師が公衆の面前で奇跡そのものを披露するのは大変珍しいことだった。 
 そこには、神秘の秘匿思想が大きく関わっている。古来、神秘に触れる術を持たない者が神秘を追求することは、超自然的な存在──たとえば、神と呼ばれるモノ──に対する冒涜だとされてきた。神秘に触れることが許されるのは、神に愛されたごく一部の者だけである。それが神秘の秘匿思想だった。 
 しかし、それまで奇跡と信じられてきた事象が、科学によって解明されるようになった。さらに魔術の誕生で、人類はより神秘に近づくことができるようになってしまった。その結果、秘匿思想は文明が発達するにつれて変化を余儀なくされた。それを提言したのが、イギリスの〈時計塔〉とアメリカの〈OZオズ〉という二大魔術機関だった。 

 魔術は人類をさらなる高みへともたらすための技術であるが、神秘の均衡を崩すためのものではない。そのため、魔術はむやみに表に出してはならない。 

 仰々しい言い方だが、つまりは神秘に触れるための特許技術のようなものだから、魔術を簡単に教えたり見せたりすることはできないよ、ということである。 
 魔術への理解を広げるためには、多くの人の目に触れる必要がある。けれども、そこには超自然的な事象や存在といった人類の与り知らぬ領域があり、むやみに触れることができない代物であるというのが大きな弊害になっていた。
「──魔術って、何なんでしょうね」 
 久遠の言葉に、笹塚は狐に摘ままれたような顔をした。 
「まさか魔術の才能を持っている人から、そんな言葉を聞くとはなあ」 
「オレ自身、よく判らないんです。あったらあったで凄いけど、万能ってわけじゃない。でも、なきゃないで困ることもない。そんな風に考えちゃうんです」 
「大変なんだな、才能があるっていうのも」 
 笹塚は変に納得したように、また顎を撫でた。 
 気を遣わせてしまっただろうか、と久遠は唇を噛む。なんだか鳩尾のあたりがぐるぐるして気持ち悪かった。 
 そんな話をしていると、笹塚の肩越しに二人組がこちらにやって来るのが見えた。 
 一人は笹塚と同じ腕章を付けた、背の高い刑事だった。苦み走った顔の中年男性で、愛想がなく不機嫌そうだった。長身であるのと相まって、離れていても高圧的な気配が伝わってきた。
 もう一人は、学生のような若い人物だった。カーキ色のモッズコートを羽織り、黒縁の眼鏡がほんのり知的さを感じさせるが、無邪気な表情には幼さがある。警察官が集まるこの場には似つかわしくない存在だった。 
「お疲れ様です、藤田さん」 
 やって来る人物に気づいた笹塚は、振り返って長身の刑事に挨拶する。遠目で見た通り、藤田と呼ばれた刑事の眼光は鋭く、お前がやったんだろうと責め立てられた、つい自白してしまうそうな雰囲気を醸し出していた。 
「そちらは?」 
 もう一人のほうとは面識がないようで、笹塚は訊ねる。 
「神秘局の捜査官だ」 
 藤田は眉間の皺を深くしながら言った。それを聞いて、笹塚は両眉を上げた。久遠も思わず目を見開く。 
「神秘局犯罪捜査課の雨辻あめつじあまねです。以後、お見知りおきを」 
 恭しく頭を下げながら、彼女は自己紹介した。 
 神秘局は日本の魔術機関である。世界各国の魔術機関と比べると発足して日は浅いが、その基礎となったのは陰陽寮であるという。陰陽寮は飛鳥時代にはすでに存在し、明治初頭に廃止された政府機関であるが、その後も内務省の一組織として日本社会を裏から支えていたとまことしやかに囁かれている。魔術機関として成立するにあたって、政府から完全に独立した組織になっているという。 
 ──どうして神秘局が……? 
 久遠は震え出しそうになる身体をぎゅっと抱きしめる。クラスメイトにバレたように、自分が才能を持っていることが神秘局にバレてしまったのではないか。さらに、この状況である。何かをした覚えはないが、悪い予感ばかりが頭に浮かんできてしまう。 
「おや? 君が第一発見者かな」 
 弥が、車内で縮こまっている久遠に気づく。 
 眼鏡越しに、意思の強そうな大きな目を見つめてくる。大きな黒縁のフレームのせいで気づくのが遅れたが、はっきりとした目鼻立ちで可憐な印象だった。 
 久遠は何も答えることができなかった。 

 その目で、自分が触れられないような深いところを見透かされているような── 

 なんだか畏怖こわかった── 

 同時に、胸の奥に灼けつくような痛みを感じた。 
 それはきっと、ほんの数秒の出来事だったのだろう。だが、久遠には果てしない時間──さながら久遠の刻が流れたような感覚だった。 
「神秘局ということは、彼に話があるということですか?」 
 笹塚が訊ねると、久遠に向けられていた視線が外れる。拘束されていた身体が解放されたようで、久遠はバレないように深く息を吐いた。しかし、肩にはまだ力が入っていた。 
「何のこと?」 
 うん? と弥は首を傾げる。 
「いや……彼が魔術の才能を持っているというので、つい……」 
 ばつが悪そうな表情で、笹塚は頭を掻いた。 
「確かに、彼には才能があるみたいだけど、ボクは宗像さんに呼ばれたからここに来たんです。彼のことは今知りました」 
 男勝りな口調で、弥は言った。その言葉を聞いて、久遠はようやく肩の力が抜けた。いつの間にか身体中から汗が噴き出していて、開きっぱなしの車の扉から入り込んでくる夜風のせいで背筋がぞくぞくする。手先も氷のように冷たくて、先ほどから鳩尾のあたりに感じている不快感も寒さのせいだと考えた。 
「宗像って、管理官のことですか? 帳場も立っていないのに、管理官直々に神秘局への捜査協力の依頼ですか?」 
 笹塚は意外そうな口ぶりだった。 
「宗像さんとは仕事の都合で懇意にさせてもらっていて、現場の状況を聞いた宗像さんから念のため確認してほしいという連絡を受けたので、ちょっと様子を見に来たんです」 
 そう言って、弥は人の良さそうな笑みを浮かべる。 
 なるほど、と笹塚は納得する一方で、藤田は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。 
「ったく、現場の状況だけでもアレだっていうのに、発見者が魔術師ときたか」 
「魔術師じゃありませんよ。彼は才能を持っているだけの、ただの高校生です」 
 弥はそう、藤田の言葉を訂正した。どっちだっていいだろ、と藤田は面倒くさそうにしている。久遠はその辺りの違いを的確に指摘する弥に、さすがは神秘局の局員だ、とちょっとばかし好感を抱いた。 
「しかし、まあ……これは厄介だ」 
 弥は現場のほうに目を向けた。ブルーシートの向こうでは作業が続けられている。 
「遺体はまだ、運び出していませんよね」 
「そのはずだが?」 
「じゃあ、そのままで。誰にも触れさせないでください」 
 その言葉に、藤田も笹塚も眉をひそめた。 
「すぐに神秘局の処理班を呼ぶので、全員遺体から一定の距離を取ってください」 
「それは一体、どういうことだ?」 
「言ったところで納得してくれないと思いますが、とにかく指示には従ってください。でないと、──死人が出ますよ」 
 どこかおどけた調子だった彼女の口調が、その瞬間変わった。藤田は何か言いたげだったが、弥の視線に口を噤んだ。そして、捜査員に指示を出すためにその場から離れていった。 
「死人が出るとは……?」 
 呆気に取られていた笹塚だったが、藤田がいなくなってようやく疑問を投げかけた。 
「そのままの意味です。あれは、ただの遺体じゃない」 
「確かに、切断されて木箱に入れられているなんて普通じゃないけど……」 
「木箱に入っていたんですか?」 
 とぼけた表情をした弥が訊いた。 
「遺体を見てきたんじゃないのかい?」 
「遺体は見てないですよ。ここに到着して、すぐに藤田さんを見つけて、あなたが第一発見者と一緒にいると言うのでそのまま付いてきたんです」 
「じゃあ、どうして危険だと?」 
 笹塚は合点がいかない様子だった。久遠も同じ気持ちである。 
 すると、弥は自分の目を指差しながら悪戯っぽく笑った。 
「視たんです、この魔眼で」 
「魔眼……?」 
 知っているかい? と言わんばかりに、笹塚は久遠のほうを見た。 
「えっと……魔力を持った目のことですよね?」 
 久遠がおそるおそる答えると、その通り、と弥は愉しそうに目を細めた。 
「もともとは見るだけで人を呪い殺すほどの強い魔力を持った目のことを指していました。ギリシャ神話のメデューサは判りますか?」 
「見た者を石にするという怪物か」 
 さすがに知っていたようで、笹塚は答える。 
「そうです。魔眼もしくは邪眼と呼ばれる目を持つ代表的な存在です。現代魔術においては、魔力の作用で通常は見ることのできないモノを視たり、見るだけで対象に何かしらの影響を及ぼす目のことを総じて魔眼と呼んでいます。ボクは魔術師ではありませんが、この魔眼を使って捜査を行っています」 
「魔術師じゃないのか」 
 意外そうに笹塚は声を上げた。久遠も神秘局の捜査官というから、てっきり彼女は魔術師、もしくは魔術学者なのだと勝手に思い込んでいた。 
「魔眼は魔力の作用によるもの。魔力の素である生命エネルギーはどんな生き物でも有してします。それが何かしらの影響を受けて、神秘的事象に干渉してしまう。霊感などもその一つと言えます。それが視覚に現れたものが魔眼というわけなので、魔術師じゃなくても持ち得るものなんです」 
 無邪気な表情で小難しい説明をする彼女に、はぁ……と笹塚は判ったような判らないような溜め息を漏らして頭を掻いた。 
「じゃあ、君はあそこにある遺体が”死人が出るほどヤバいもの”だということを、その目で視たということかい?」 
「理解が早くて助かります」 
 弥はニコッと笑う。よく笑う人だ、と久遠は唖然とした。 
「しかし、あれも大変だけど……」 
 そう言いながら、弥は再び久遠に目を向けた。 
「君、随分と厄介なモノに憑かれているなぁ」 
「……え?」 
 次の瞬間、身体の内側から激しい痛みを感じた。 
 あまりの衝撃に、久遠は両腕で身体を抱きしめるようにして座席シートに倒れた。 
 ほぼ同じタイミングで、現場のほうも何やら騒がしくなってきた。捜査員たちの慌てふためく喧噪が聞こえてくる。 
「どうした?!」 
 突然倒れた久遠に驚いた笹塚は、彼に手を差し伸べながらも近くにいた捜査員に何があったのかと問い質す。 
「遺体の近くにいた捜査員たちが急に倒れて──」 
「救急車! 救急車を呼ぶんだ!」 
 遠くのほうで声が聞こえるような気がする。だが久遠は、身体の内側からするミチミチと肉が千切れるような音が煩かった。 
 音はそのまま、全身を響かせる痛みとなる。 
 息をすることさえ苦痛につながる。 
 声をかけられているような気がする。しかし、だんだんと声も音も遠のいていく。 
 視界が狭まる。 
 何が起きたのか判らないまま、久遠は意識を手放した。 
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