津波の魔女

パプリカ

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「……ん」

ぼくが目覚めたとき、お父さんの運転する車はまだ道路を走っていた。

後部座席にぼくは座っていた。窓の外はガードレールが長く伸びていて、その向こうに広い海が見渡せた。水平線は深い青色になっていて、海と空の区別ができなくなりそうになっていた。

眠る前の最後の記憶はまだ住宅街の中だったし、外もまだ明るかった。かなりの間、ぼくは眠っていたらしいことがわかった。

「起きたのか?」

前の運転席のほうから声がした。車を運転するお父さんだった。

「もう寝るなよ。あとすぐでつくんだからな」
「うん、わかった」

ぼくは背伸びをしながら言った。眠気はもう完全になくなっていた。

「それにしても、なにか悪い夢でも見ていたのか。なんだかやけにうなされていたぞ」
「そうなの?」
「ああ。かなりうなされていたから、父さんは一度車を停めようかと思ったくらいだからな」

確かに何かの夢を見ていたような気はするけど、覚えてはいない。
普段は夢の中身なんて思い出そうとなんてしないけど、今回はなぜかとても気になった。

ぼくはいったい、どんな夢を見ていたのだろう。どこか見知らぬ町を歩いていた気がするし、一人の大人として会社に通っていたような気もする。

何か一つのものに決まっているわけじゃなくて、いろんな映像がごちゃ混ぜになっていた、そんな夢だったように思えた。だからこそはっきりとは覚えてはいない。

「やっぱり緊張するのか、新しい土地というのは?」
「……よくわからないよ」

転校というものを、ぼくは経験したことがない。だからこれからの生活に不安な点はある。

でも、小学五年まで過ごしていた前の町ではあまり友達がいた方じゃないから、新しい環境というのも、そこまで悪くはない気がした。

「まあ、そのうち慣れるだろう。外国に行くわけじゃないからな」
「これから住む町は、たしかお母さんの地元なんだよね」
「ああ。といってもそこまで長く住んでいるわけじゃないけどな」

お父さんの転勤先は、これから住むことになる町からは結構離れている。会社に通うには車で三十分以上はかかるようだし、電車で何駅か揺られなければならない。

会社に近いところに住もうと思えば住めないこともないらしいけど、お母さんの望みで隣町に住むことになった。

会社の近くの方がお店なんかもたくさんあるし、公共交通機関も利用しやすいからお父さんは最初は反対したらしいけれど、結局お母さんの意見を受け入れることにしたらしい。

ぼくもどうだ、と聞かれはしたけれど、とくにどこがいい悪いとかはなかったので、何も言わなかった。

「そんなにお母さんは地元に思い入れがあるの?」
「さあ、どうだろうな。あまりそういうのは話したことないから、お父さんには推測するしかないかな」
 
お母さんは小学生の頃に、地元を離れている。それは親の転勤とかそういう理由じゃない。

地震が原因だった。

いまから数十年前、この国を大きな地震が襲った。その揺れは津波を引き起こし、主に沿岸地域に大きな被害をもたらした。

その津波にさらわれ、お母さんの両親は亡くなったとぼくは聞いていた。
その結果、お母さんは親戚の家にお世話になることになり、地元の町を離れることになったらしい。これからぼくが引っ越しするのはそういう町だった。

「大丈夫なのかな」
「ん?」
「お母さん、怖い記憶とか、思い出さないのかな?」
「そうだな。そうなったら、引っ越しも考えないといけないかもな」

両親を亡くして以来、お母さんは地元に帰ることはしなかったらしい。やっぱりあの日のことを思い出したくないからだと思う。
それが今回のお父さんの転勤で気持ちが変わった、ということなのかな。

車の助手席は空いている。お母さんはいろいろ準備があるらしくて、すでに先に転居先へと行っていた。

「もう地震は起きないよね?」
「それは父さんにはわからないな。起きないことを願うしかないよ」

ぼくは生まれてからこの十一年間で、大きな地震というものを経験したことがない。
他の地域でもそんな巨大地震が起きたという報道は見てはいない。

だからあまり、大きな地震の恐怖というものを具体的に想像することはできない。防災訓練なんかはしたことはあるけど、どこか遊びみたいなものだった。

「あまり想像できないけど。そんな大きな地震」
「それも仕方がないな。父さんもそうかもしれないから。あの地震が起きたとき、父さんもまだ子供だったからな、ニュースとかも全然見てなかったんだ」
「たくさんの人が亡くなったんだよね」
「見つかっていない人もいるくらいだからな」

ぼくは再び海の方を見る。穏やかな水面が広がっている。この海がたくさんの人の命を奪ったとは、とても思えない。

「後で母さんに聞いてみるのもいいかもな。詳しい話はしてもらったことないんだろ」
「……うん」

と答えつつも、ぼくはそういう気持ちには、なれそうもなかった。

その話をすると、お母さんの様子が変わりそうだと、勝手に想像してしまう。

これまでにはそんな話をするきっかけもなかったけど、引っ越しをした後はそうはいかなくなるかもしれない。
その町の歴史に向き合うことを求められる、ぼくはそんな気がしている。

「今度家族で浜辺にでも行って昔の話をするのもいいかもな。父さんも興味あるし」
「……」

ぼくにはそんな光景が全然想像できない。なぜだろう。

まだその町にちゃんと住んでいないからだろうか。長く住めば、お母さんの過去にも家族で向き合うことができるのだろうか。

ぼくには、わからない。さっき見た夢がなぜか頭に浮かぶ。それはまだバラバラの断片的な映像だった。

ただ少しだけ、さっきよりもゆっくりと動いている、そんな風に思えた。
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