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第1話
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下着に足先を通すときが、いつも一番ためらわれる。引き返すなら今、という追い詰められた焦燥が、腹の内からぞわぞわと湧き上がってくるのだ。だが往々にしてそれに抗ってしまうのである。だって、その下着に足を通すと、あいつは大層喜ぶから。
脛を、腿を、するすると上がっていく、それ。控えめなリボンがあしらわれた白いショーツは、布面積が少ないだけじゃなく特に前面が透けていて、はみ出していない部分からも陰毛が見え隠れしてとても醜い。『実』が収まりきっていない気持ち悪さがすごいし、何より、圧迫感がある。その圧迫感は、ショーツがスカートの内側に隠れてしまっても、『女性物下着を履いている』という事実を、まざまざと自分に知らしめる。
苦戦してストッキングを上げきってから、冬弥は鏡と向き合った。
――実に、酷かった。不気味な女装男がそこにいた。うら若き美少年ならまだしも、冬弥は二十二歳の成人男性で、よく言ってフツメン……よく言わなければ中の下くらいの冴えない顔つきで、細身だが上背はある。具体的に言うと178センチある。178センチの冴えないフツメン男が、清楚ながら甘さもある純白のフリルブラウスに、膝上のクリーム色のひらひらスカートを履いていれば、おそらく人類の八割は吐き気を催すだろう。その下に真っ白なショーツとそれに隠しきれない陰毛やブツがぎゅうぎゅうになっていると知れば、人類の99.9%は嘔吐する。
残りの0.1%が紅蓮である。
紅蓮はこの家の家主で、冬弥の同居人で、二人は恋人同士でもある。
――紅蓮と付き合いはじめたのはだいたい半年ほど前だが、ルームシェア自体は一年前からしているし、そもそもはガキの頃からの友人だ。紅蓮のことはだいたい知っている。彼がゲイと言うよりはバイセクシャルであることも、男の恋人に女装させるのが好きな変態であることも、そのためにしばしばネット通販で服や下着を買い揃えるヤバイ奴であることも、だ。
紅蓮が最近女の子とよく会っていることも、冬弥は知っている。その子が二人の共通の知り合いで、コソコソ遊んでいるのがバレてないと思っているのも、知っている。後者は知っていると言うか多分そうだ、紅蓮はアホなのだ、隠し事が隠せばバレないと本気で思ってしまうタイプの間抜けで心の綺麗なアホだ。
アホだから紅蓮は何も知らないのだ。共通の知人とは言えコソコソとされて、恋人が怒っていることを知らないだろうし。不安になって後をつけて、二人がデパートの自動扉に吸い込まれていくところまで見届けて、怖くなって引き返してしまったことなど、まるで知りもしないはず。知らずにあのアホみたいな呑気な顔で、女の子とよろしくやっているに決まってる。
怒りと不安と悲しみのあまり、こうして冬弥が自ら女装に励んでいることなど、まったく知る由もないだろう。
ばかめ。
ざまあみやがれ。
ばかなのは自分である。
自分のアホさ加減も大概である。
鏡に映る自分のあまりに哀れな姿は、傷心のど真ん中を弾道ミサイルで貫いた。自殺行為に等しかった。なぜ自ら進んで女装することで紅蓮への反撃になると思ったのか。反撃になるどころか、攻める前から返り討ちである。
(こんなに気持ち悪い女装姿に興奮していたのかと思うと……)
呆れよりも哀れみが先にくる。
こんなんに興奮しなければならないほど飢えていたのなら、そりゃあ本物の女に手を出したくもなるだろう。
いや、逆だな。――姿見と向き合いながら冬弥はどんどん自滅した。僕が女装が似合わないから、紅蓮は愛想を尽かしたのだ。僕が女装の似合う色白の美少年だったなら浮気なんかされなかったろう。僕なんかが恋人で可哀想な奴。彼の幸せを願うなら、女装の似合わない僕はいっそ身を引いた方がいい。
「……そっちから告白してきたくせに……」
恨み節がこぼれたとき、がちゃ、と玄関の錠が回った。
焦った。思わずベッドに飛び込んで布団を被った。出迎えて見せつけてやるつもりで着ていたのにいざ時が来てみるとやっぱり無理だ。女装が似合わないことは知っていたが、今までは着せられてもなるべく鏡を見ないようにしていたから、似合わない加減が尋常でないことを知らずに生きてこれたのだ。
「ただいまぁ」
聞き慣れた間抜けな声がして、扉の閉まる音がして、大きい足音が近づいてくる。
恐怖。冬弥は恐怖に震えた。別に乱暴を働くような恋人ではないし怖い思いをさせられたこともないけれど、ただ怖いのは、今の姿を見られることだった。だって全然似合ってない。こんな薄気味悪い姿に進んでなっているところを見られたら。百年の恋も冷める。マジで。
怖いのは嫌われることだった。
紅蓮の気持ちが離れるのが怖い、離れていることを知るのが怖い。
「……どうした? 布団被って丸くなって」
キョトンとした彼の気配。
布団越しに背中をさすってくる大きな手。
「調子悪いのか? 大丈夫か?」
心から案じてくれるがすぐに分かる、感情の乗りやすい、優しい声。
観念して、布団からすぽりと頭だけ出した。
紅蓮の不安げに揺れる瞳を見て、鼻の奥がツンとする。
「風邪か? 顔真っ赤じゃないか、目も潤んでるし……おお、どうしたどうした、泣くな、よしよし……」
いつだか、彼の用意する女装グッズにカツラがないのは、じかに頭を撫でられなくなるからだと聞いたことがある。
抱きすくめられて頭をぽんぽんと撫でられて、胸に顔を埋める。怒りに変換されていた不安が元の形になってそれからすうと溶けて、紅蓮の胸の中で、冬弥はほっとした。「捨てないでくれ」とやっとの思いで訴えた本音は、死にかけの蚊の鳴くような、なんとも情けない声だった。
脛を、腿を、するすると上がっていく、それ。控えめなリボンがあしらわれた白いショーツは、布面積が少ないだけじゃなく特に前面が透けていて、はみ出していない部分からも陰毛が見え隠れしてとても醜い。『実』が収まりきっていない気持ち悪さがすごいし、何より、圧迫感がある。その圧迫感は、ショーツがスカートの内側に隠れてしまっても、『女性物下着を履いている』という事実を、まざまざと自分に知らしめる。
苦戦してストッキングを上げきってから、冬弥は鏡と向き合った。
――実に、酷かった。不気味な女装男がそこにいた。うら若き美少年ならまだしも、冬弥は二十二歳の成人男性で、よく言ってフツメン……よく言わなければ中の下くらいの冴えない顔つきで、細身だが上背はある。具体的に言うと178センチある。178センチの冴えないフツメン男が、清楚ながら甘さもある純白のフリルブラウスに、膝上のクリーム色のひらひらスカートを履いていれば、おそらく人類の八割は吐き気を催すだろう。その下に真っ白なショーツとそれに隠しきれない陰毛やブツがぎゅうぎゅうになっていると知れば、人類の99.9%は嘔吐する。
残りの0.1%が紅蓮である。
紅蓮はこの家の家主で、冬弥の同居人で、二人は恋人同士でもある。
――紅蓮と付き合いはじめたのはだいたい半年ほど前だが、ルームシェア自体は一年前からしているし、そもそもはガキの頃からの友人だ。紅蓮のことはだいたい知っている。彼がゲイと言うよりはバイセクシャルであることも、男の恋人に女装させるのが好きな変態であることも、そのためにしばしばネット通販で服や下着を買い揃えるヤバイ奴であることも、だ。
紅蓮が最近女の子とよく会っていることも、冬弥は知っている。その子が二人の共通の知り合いで、コソコソ遊んでいるのがバレてないと思っているのも、知っている。後者は知っていると言うか多分そうだ、紅蓮はアホなのだ、隠し事が隠せばバレないと本気で思ってしまうタイプの間抜けで心の綺麗なアホだ。
アホだから紅蓮は何も知らないのだ。共通の知人とは言えコソコソとされて、恋人が怒っていることを知らないだろうし。不安になって後をつけて、二人がデパートの自動扉に吸い込まれていくところまで見届けて、怖くなって引き返してしまったことなど、まるで知りもしないはず。知らずにあのアホみたいな呑気な顔で、女の子とよろしくやっているに決まってる。
怒りと不安と悲しみのあまり、こうして冬弥が自ら女装に励んでいることなど、まったく知る由もないだろう。
ばかめ。
ざまあみやがれ。
ばかなのは自分である。
自分のアホさ加減も大概である。
鏡に映る自分のあまりに哀れな姿は、傷心のど真ん中を弾道ミサイルで貫いた。自殺行為に等しかった。なぜ自ら進んで女装することで紅蓮への反撃になると思ったのか。反撃になるどころか、攻める前から返り討ちである。
(こんなに気持ち悪い女装姿に興奮していたのかと思うと……)
呆れよりも哀れみが先にくる。
こんなんに興奮しなければならないほど飢えていたのなら、そりゃあ本物の女に手を出したくもなるだろう。
いや、逆だな。――姿見と向き合いながら冬弥はどんどん自滅した。僕が女装が似合わないから、紅蓮は愛想を尽かしたのだ。僕が女装の似合う色白の美少年だったなら浮気なんかされなかったろう。僕なんかが恋人で可哀想な奴。彼の幸せを願うなら、女装の似合わない僕はいっそ身を引いた方がいい。
「……そっちから告白してきたくせに……」
恨み節がこぼれたとき、がちゃ、と玄関の錠が回った。
焦った。思わずベッドに飛び込んで布団を被った。出迎えて見せつけてやるつもりで着ていたのにいざ時が来てみるとやっぱり無理だ。女装が似合わないことは知っていたが、今までは着せられてもなるべく鏡を見ないようにしていたから、似合わない加減が尋常でないことを知らずに生きてこれたのだ。
「ただいまぁ」
聞き慣れた間抜けな声がして、扉の閉まる音がして、大きい足音が近づいてくる。
恐怖。冬弥は恐怖に震えた。別に乱暴を働くような恋人ではないし怖い思いをさせられたこともないけれど、ただ怖いのは、今の姿を見られることだった。だって全然似合ってない。こんな薄気味悪い姿に進んでなっているところを見られたら。百年の恋も冷める。マジで。
怖いのは嫌われることだった。
紅蓮の気持ちが離れるのが怖い、離れていることを知るのが怖い。
「……どうした? 布団被って丸くなって」
キョトンとした彼の気配。
布団越しに背中をさすってくる大きな手。
「調子悪いのか? 大丈夫か?」
心から案じてくれるがすぐに分かる、感情の乗りやすい、優しい声。
観念して、布団からすぽりと頭だけ出した。
紅蓮の不安げに揺れる瞳を見て、鼻の奥がツンとする。
「風邪か? 顔真っ赤じゃないか、目も潤んでるし……おお、どうしたどうした、泣くな、よしよし……」
いつだか、彼の用意する女装グッズにカツラがないのは、じかに頭を撫でられなくなるからだと聞いたことがある。
抱きすくめられて頭をぽんぽんと撫でられて、胸に顔を埋める。怒りに変換されていた不安が元の形になってそれからすうと溶けて、紅蓮の胸の中で、冬弥はほっとした。「捨てないでくれ」とやっとの思いで訴えた本音は、死にかけの蚊の鳴くような、なんとも情けない声だった。
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