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Ch.1

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 野生司は仕事用モバイルの時計表示を宙に投影し、この警視庁採用ロボット、ぴぽまるくん に声をかけて本当に良かったと、新しい配属先の部屋の前まで案内してもらい安堵の息を吐いた。ぴぽまるくんがいなければ、間違いなく遅刻、悪くすれば、半日迷子だったかもしれない……任務を終えて足元のローラーで滑るように去って行く丸いフォルムのロボットに「あ、ありがとうございました」と礼を言った野生司は改めてほっと息を一つつくと、吐き出した息の倍以上を吸い込み気合を入れて「失礼します」と、入口のドアをスライドさせ室内へ足を踏み入れた。
 そこには、生活安全課の、事件がおきなければどこかほのぼのとすら感じる雰囲気ではなく、本庁ならではの厳しく怜悧な空間が広がり、朝、一目で憧れを抱いた ザ・仕事の出来る警察官がひしめいている。
 はずだった。
 野生司の想像では確かに。
 が、今、開かれたドアの向こうには、ほとんど人はおらず、スクリーンウィンドウのすぐ手前、フロアの奥のデスクには今時珍しい紙の新聞を広げて男が座っている。男はのそりと緩慢な動きで新聞の端から顔を出し、野生司を見とめると、おいでおいでと手招きをした。野生司は緊張の肩透かしをもろに食らった気がした。

「向島署より本日付にて着任致しました、野生司のおす四音しおんです。宜しくお願い致します」
 型通りの、所轄の先輩――最初、羽田に教えてもらおうとしたが、なにやらにやにやしているし、その顔はよからぬ企みを想起させたので、やめた――に、教えてもらった型通りの挨拶をすませた野生司に、新設、生活安全部ゲーターズ安全対策課課長である和洲わすは「はい、よろしくね。あ、課長の和洲です」と、胸に着けた何も表示されていないMPDとだけ書かれたIDカードに指紋を押し当て、“和洲” と名前を表示させて見せ、どこかの区役所の職員かと思うほど全く警察官らしからぬ態度で応えた。面食らった野生司がはっと意識を取り戻す頃には、名前が表示されていたIDカードはまた何も書かれていないつるりとしたプレートへと変化していた。
 個人情報の表示は、いくら庁内でも必要最低限ということらしい。和洲と名乗った新しい上司は、おじさんと言って差し支えないような年齢、昨日まで上司だった丘と同じくらい、40代後半に見えた。
「えーと、のおす、あ、“さん付け” しなくても平気? のおすさん、のほうがいい? しおんさんって訳にはいかないしね」
「え」
「ほら、上司だから呼び捨て上等ってわけにもね、いかないでしょう?」
「え?」
「どっちがいい?」
「あの、野生司、で大丈夫です」
「そお? それは助かります」
「はあ……それは良かったです?」
「で、のおす」
「……え、はい!」
「のおす、のおす」
 うん。悪くない。呼びやすい。うん。和洲はひとり何かに納得しながら何度も野生司の名を呼ぶ。
「はい、はい!」
「さっそく相方に会って仲良くしてほしいんだけど……」
『? 仲良く?』
「いないね」
 和洲は書類や荷物が山と詰まれた周囲のデスクと異なり、何も置かれていない空っぽの机と椅子を見た。そしてその斜め前の、対照的にうず高く詰まれた書類を脇にどけ、タブレットから宙に投影した情報を指でたどりながらせっせと目を走らせる部下に声をかけた。
枡暮ますくれ、ロク、どこ? トイレかな?」
「知りません」
「あ、そお。今日が顔合わせの日って、俺、言ったよね?」
「俺はあいつの保護者じゃないんで。て言うか、課長、あいつが新任との顔合わせなんかにいるわけないじゃないですか。トイレのわけないでしょう」
『え?』
「そうだよね」
『え!?』
「そうですよ。あの宇宙人ボーヤが素直に言うこと聞く訳ありません」
『宇宙人?』
「うーん。じゃあ、のおす」
「ハイ」
 嫌な予感がする。いま、この予感を払拭してくれる、いつも温かい言葉をかけてくれるパーソナルAIはいない。野生司はひとりでとても嫌な予感を噛み締める。
「着任そうそうで大変申し訳ないんだけど……」
 申し訳ないことなんだ……。
「ハイ」
「ロク、探してきてくれる? 多分ね、高いところにいると思うよ」
『ええ!!』
「高い? ところ? ですか?」
「そうそう、高いところ。煙となんとかは高いところが好きって言うじゃない?」
 和洲は首を軽く左に傾け「お願い、できるよね?」と付け加えた。
 おじさんが小首をかしげたとして、もちろん可愛い方もいるかもしれませんが、失礼ながら課長はちっとも可愛くありませんし、おねだりお願いポーズにはなりえません。
 えーと、それにですね、その、質問宜しいでしょうか?
 そもそも、ロクって誰ですか? 少なくとも人ですか? それとも宇宙人なんですか?私はロクって名前の宇宙人を探せばいいんですか? 高いところって円盤でも着陸したんですか? そんな謎々みたいな行き先で、私がゴールへたどり着けるとお思いですか? この部屋に来るのも大変だったんですよ。ええ、そうです。私、こう見えて、多層構造物とかに入っちゃうと迷子になるんです。方角が無機物に遮断されて認知できなくなるといいますか、街中や山の中だと意外に大丈夫だったりするんですけど。
 
 突然の人、もしくは宇宙人探しを任された野生司は山ほど言いたいことがあったが、ちっとも可愛くない小首をかしげた区役所職員のおじさんに、困ったように眉を下げられて、「ぐぅ」とも「えぅ」ともつかない声が喉から漏れるにとどまった。
 ちらりと部屋を見ればもちろんカメラがいくつも天井についている。こ、これはもしかしたら、適正試験のひとつなのかもしれない……、これはお仕事、初任務だ、と自らに暗示をかけ「捜索に行ってまいります」と口に出していた。
「ありがとー、助かるよ、のおす。ほんと、来てくれて良かったよ。もう、誰も続かないし、どうしようかなって思ってたところでね」
「え?」
「じゃ、頼むね」
『続かないってなにが?』
 和洲の不穏な一言に、それだけは質問しようかと野生司は振り返ったが、眉を下げたままの和洲に背中を押されて廊下へと押し出された。
「あのっ」
振り返れば、和洲はそそくさと自席へと戻り、無情にもドアは静かにスライドしその視界を閉ざした。
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