ゆるしいろの喧騒

琴梅

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ゆるしいろの喧騒(6)

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「お待たせ。お茶もお茶菓子も完璧ね!」
 ――お盆を手に戻ってきたかよ子さんは、いやに上機嫌だった。
 にこりとしているのは常としても、廊下から既にこぶしの効いた鼻歌が聞こえるくらいには、輪をかけて機嫌が良かった。
 さあ始めましょう、レッツパーリィ――と、某ゲームの独眼竜が腕を組んで叫びそうな事を、穏やかに跳ねた声でかよ子さんが言う。
 うわあ――
 うわあ――······。
 このグローバル化が進む現代において、ここまで英語の発音がうまく嵌らないのも珍しいな――なんて。
 僕達の手許に湯呑みを配りながら「そうそう、〝今日は〟誰も来てない――と言ったけれど、それは少しだけ語弊があったわ、実は、ここ最近はめっきり暇でね。三日くらい誰にも会ってないのよ、だからとても楽しみだわ」とかよ子さんは淋しそうに零した。僕達がいつも――そして今も――仰ぎ見ている〝かよ子さん〟という側面がふにゃりと音もなく歪んで見えた。ほんの少しだけ、安心感と心強さが揺らぐ。今は小粋な半畳も、さかしらなコントも、してはいけない気がする。僕は今しがた考えていた事を舌の奥へと追いやった。
「若者言葉ってこうよね?」
「まあ――SUNDAYじゃねえの、とか言う若者もいるしね」
「やっぱり! 私ったら昨今の言葉も使いこなせるだなんて知識人の鑑ね、うふふ」
「············ははは」
――絶対違う。知識人ではあるけれど、なんか違う。
 せっかく嚥下しかけていた先程までの後ろめたい気持ちが、むくむくとせり上がってくる。僕のしおらしい気遣いを返せ。お釣り付きで返せ。
 まったく、この人は変なところで無知と天然を発揮してくるなと思う。勿論、そんなものは彼女の有している叡智にも優るに劣らない(というのは言い過ぎかもしれないが)知識量と、父から伝え聞いている功績の数々に比べれば、〝知らないこと〟なんて微々たるものだし、ことさら痛罵するつもりは毛先ほどもないけれど、時折こうやって〝無知に拍車どころかモーターエンジンをかける馬鹿〟との化学反応で、会話がおかしな方向に転がっていくことも少なくないことは、目を瞑っても誤魔化しようがない事実であるが故に、〝知らないものの種類〟については、いささか考えものである。
 僕は未だに一昔前の〝ルー語〟を並べるかよ子さんとたるるに白けた目を向けた。「ねえ、リオ君もトゥギャザーするでしょう?」と寄越してきた四つのきらきらとした二色の虹彩に、口角がひくひくと震えるのを抑えながら、控えめに「い、いえーい、もちのろん」とぎこちなく倣った。
 ――これ、本当に合ってるのかな。
 というか、トゥギャザーってどういう意味だったっけ······。
 トゥギャザーという英単語が〝一緒に〟だということを思い出して「結局一緒に何がどうだと言うんだ?」と気が遠くなったあたりで、湯呑みの横にことりと皿が添えられた。底に描かれた藤の枝が湯呑みに注がれた桜湯の淡い色に滲んでいる。隣の皿に目をやれば、漆の艶やかな赤に映える、うぐいす色の上生菓子が小ぢんまりと佇んでいた。今にも毛ずくろいでもしそうな白あんの見目形と、桜湯の独特な塩漬けの香りに口角が上がる。
 それにしてもうぐいす色とは、なんともまあ季節らしいチョイスだ。素朴な色味ところんとした形を目に映していると、遠くなっていた〝気〟が戻ってくるのが分かった。おかえり、僕の穏やかな気持ちさん。待ってたよ。
 こういう、さり気なく食べ物や茶碗で季節を表現して、一時一時を重んじるところは、是非とも大人になるまでには見習いたいところである。
 ――望むらくは、隣で妙にはしゃいでいる猪突猛進お転婆娘にこそ見習って欲しいものだ。
「うわあ! 桜湯だあ! 私こういう変わったもの好きなのよね、一杯で満足できるこのもったりとした香りと塩味······たまらないわ······」
「ド下手な食レポやめろ。というかそれは、好きとは言えなくない? 一杯以上いらないってことじゃん」
「そんなことないよう。そもそも大量に食べたいものだけが好きなものってわけじゃないし」
「ふふ、あらまあ――リオくんったら一本取られたわね」
「ぐぬぬ······」
たるるは湯呑みを手に「ふふんっ」と勝ち誇った笑みを浮かべている。「私も食が細いから好きなものでもあまり食べられないもの。でも、とても好きな食べものなのよ?」かよ子さんもそう言って、たるるの言葉に墨をつけてから懐紙を取り出した。お茶菓子を黒文字で取り分ける様はひどく静かで、まるで部屋のインテリアの一つであるかのようだ。僕もそれに倣って傍らに置かれている懐紙を開いた。たるるの食レポを真似するわけではないけれど、白あんのキメ細やかな舌触りと和三盆糖の棘のない甘さに言葉もなく頷く。
 ――それで?
 かよ子さんは小さく咀嚼した後、口に手を添えながらそう言って小首を傾げた。ぴたり。口に運びかけていた黒文字が――たるるの手が行き場を無くして不自然に止まる。
「このまま夜のお茶会をしゃれこむには、華が足りないんじゃない? 招かれざる客ってわけじゃあないけれど、招いたお客様でもないわけだし。快く迎え入れた家主に小噺のひとつでも――そういうお約束よね?」
「えっと······」
「ここに来るまでのこと、それまでに貴方達が含んでいるもの、私に〝たあんと〟と教えてくれるわよね?」
 ――ああ、この人は話を聞く時が一番無邪気で幼い笑顔を見せるなあ、と。
 僕達は思い合わせるのも面倒になるような〝きらっきらの〟笑顔の前に思いよりも顔を見合わせて頭を垂れた。
 「学校の帰りに突然知らないところに迷い込みました」なんて簡潔に言ってしまえばそれまでのことだけれど――出会った時に話した通りなのだけれど――この人が期待しているのはそういう分かりやすさではない。どちらかというと、単刀直入なんてクソ喰らえ――支離滅裂でも構わないから情緒たっぷりに語り尽くしてほしい、というタイプである。
 話させ上手の聞き取り上手な彼女にとってはかちっと説明ができているかどうかはさしたる問題ではないのだという。その時どう思ったのか、何を考えたのかが、重要なんだとか。「それを理解して楽しむのは、聞き手の仕事でしょう?」といつだったか父に話していたことを思い出す。
 そんな人の感情に重きを置くかよ子さんに喜んでいただくにはどうしたらいいのか、そもそもどこから説明したらいいのか考えあぐねていると、僕の横でずっと黙っていたたるるが顔をあげた。
「あのねかよ子さん、始めにひとつ聞きたいんだけれど······」
「なにかしら」
「ここって、このお家って、普段ならどうやったら行ける場所なの?」
「――え?」
「私達ってさ、かよ子さんに会うとしたらいつも〝おもいいろ〟か、その奥にある〝あの通路〟から行けるお座敷でしょう? ここって、お座敷の壁とかによく似ているから、勝手にいつもの場所だと仮定しているんだけれど、もしそうだとしたら、玄関――どころか外装があるだなんて知らなかったし、もし離れとして存在しているなら、かよ子さんを尋ねる前に見た〝塀の向こう〟が見えないことの説明が付かないの。例えば住所だとか、そういうどこにあるのかっていうのを教えてほしいの」
いきなりのべつまくなし問い詰めだしたたるるに、かよ子さんはきょとんと目をぱちくりさせている。珍しく順序立てて考える素振りを見せながら話す声に、気圧されているようだった。
 たしかに、かよ子さんさんがいるということばかり鵜呑みにして、〝かよ子さんの――僕達の今居る場所〟について僕は深く考えていなかった。安心しきっていたのだ。知っている人間が出迎えたことで、知っている場所に出ただと勝手にそう解釈したのである。それは無意識で、疑うという概念すら意識していなかった。
 よくよく考えてみれば、たしかにたるるの言う通り塀の向こうに何も無なかった――ただただ闇が広がっていた――はずなのに、かよ子さんが当たり前に〝我が家〟と宣ったのは、いささか疑問に思う点である。何故なら、かよ子さんは以前、群青林に構える〝おもいいろ〟という店に〝住んでいる〟――と言っていたのだ。
 おもいいろは、山の八合目に門を構える店だ。そんなに標高の高くない山なので、街の人からの山という認識は薄い。そんなおおらかな街の麓から伸びる一本道の突き当たり、その開けた袋小路に、古めかしい瓦屋根が印象的な建物がある。それが〝おもいいろ〟だ。玄関の引き戸にがらりと手をかけて跨いだ店内のさらに奥――暖簾で仕切られた廊下の向こうに〝あの通路〟がある。〝あの通路〟を通って突き当たりにある扉の摘みを引いて木目の扉を開けると、そこにはいつもの座敷が広がっているのだ。
 彼女は――そこに〝住んでいる〟。
 つまるところ、ここは、この〝家〟は、少なくとも山の上にあるということになる。さらに言えば、塀の向こうなのか横なのか中なのか立地に関しては知り及ぶことは出来ないけれど、いつも通る廊下の長さを鑑みるに、夜目の効かない肉眼だとしても、ほど近くに瓦屋根が印象的な店舗が見えるはずなのだ。
 つい、ほんの少し前のことを思い出す。
 そんなものは――なかった。
 ――〝何もなかった〟。
 僕達は通学路の、住宅街の平たい一本道を歩いて(紆余曲折経て)ここまで来たのである。坂道を登った記憶などない。
 折り重なるようにのしかかってくる矛盾と疑問に、眉間が力む。同じような顔をしたたるるが「かよ子さんはここに住んでいるのよね? 家主って言ったもん、聞こえたもん······」としょぼくれてしりつぼみになる声で呟いた。
「そんな声をしなくてもいいのよ。大丈夫、順を追って一つ一つ取り零さずちゃんと答えてあげるから、その日の出の勢いは違うところで使いましょうね」
「······はあい、分かったわ」
「ふふふ、いい子ねえ。素直で正直なところは貴女の美徳だわ」
かよ子さんは続ける。
「そうね、そこは私も不可解に思っていたのよ。ここは――この〝離れ〟は、店の奥からじゃないと来られないように〝作った〟、孤立した空間なの。門前より手前にも石畳が引いてあったでしょう? でもあの先に道は続いていないはずだわ」
――え?
「有り体に言えば、この〝離れ〟そのものが、私の我儘で出来た世界のようなものなのよ。ここと母屋を行き来するのに〝玄関〟を通るのが吝かだから、いつもは〝あの通路〟を使っているだけで。だから住所はもちろんのこと、信ずる主義の違いによっては〝どこにも存在しない〟と言うかもしれないわね」
 世界だって? そんな馬鹿な。
 存在しない? 店に行けば通してくれるこの場所が?
 ――そんな馬鹿な。
 あまりに突拍子のないことを当たり前に言うかよ子さんに、返そうと思っていた言葉がすうっと消えていく。
「そんな、だって私たちは······」
たるるが絞り出すようにそこまで言って、やめた。目が泳いでいる。相応しい台詞が見つからないのは、僕もたるるも同じらしい。
 かよ子さんは挙動不審な様子にはさして興味がないようで、黒文字を小さく動かして茶菓子を嗜んでいる。
 一頻り勘案する僕達を眺めて、うぐいす色の茶菓子の二口目を咀嚼した後、桜湯で唇を潤すのを僕は呆けたように見つめた。
 僕の少ない語彙では的確な台詞が作れないと判断したのだ。
 そんなぼんやりとした静けさにかよ子さんは文句一つ広げず、
「ええ、その先から歩いてやってきたのでしょう? さっき聞いたわ。それを否定するつもりはないから安心して頂戴。そこに懐疑的な目を向けたところでつむじほども楽しくないじゃない。せっかくのお話が台無しになってしまうもの。それに、まだ他にも吐き出してしまいたい事があるでしょうに、打ち止めして責め立てたところで私に利点はひとつもないわ。だから貴方達もここに対する不可解さは今は置いておきましょうよ。ね?」
と沈黙なんて無かったかのように続けた。
「うーん、確かにむべなるかなではあるけれど、なんか受け取り方にズレがあるような――」
「気のせいよ。ね、ほら、だから続けて頂戴。あなた達が先刻体験したことだけじゃなくて、もっと何か違うことでも思案に暮れているのでしょう?」
「違うこと? 別に何か幽霊的なモノに追われたりはしなかったけれど」
「それはなによりね、一本道では逃げ場もありゃしないもの。けれどもっと前よ。ここに迷い込んだことよりも――もっともっとずっと重く考えていることがあるんじゃなくって?」
「そんな顔をしているわ」さらりと何ということもなさげにかよ子さんはそう宣った。察しがいいとかいう次元の話ではない気がするのだけれど――という意味を含んだ僕の訝しげな顔色をよそに、たるるは「なんで分かったのかな、そんなに私達って分かりやすいかな?」なんてありもしない自分の非を責めて、決まりが悪そうに唇を結んだ。確かに君はとても分かりやすいよ、という言葉は舌の上で転がして噛み砕く。
 かよ子さんは赤い着物の袖をひらりと跳ねさせて、それはそれは楽しそうに「それにね」と血の気がないほどに白い手を叩いた。
「ここに来るまでの話と言っても、〝おかしな〟街並みが単調に異様に異常に非常に不自然に長く続いていた、で終わってしまうじゃない。とってもたくさん歩きました。ハイ完結。めでたしめでたし――の、どこが楽しいというの? 私、つまらない話は嫌いなの。それこそ、お化けに追いかけられたとか艱難辛苦崖っぷちを這い上がってきただとか不思議な妖精さんに導かれただとか、そう言うハプニングでもなければ、人に語るドラマとしては不足役だわ」
 とかなんとかつらつらと話すかよ子さんのなんと楽しそうなことか。僕達の話ではたして今以上の――期待以上の楽しさを体感させることが出来るのか不安になってくる。
 たるるが大きく切った茶菓子を口にほおりながら、それは確かにねと唸った。
 体験した僕達からしたら、どんな小説や漫画よりも印象的で不可思議な体験だったのだけれど、そんなものは説明において全く(とは言えないけれど、ある程度は)意味をなさない。簡潔に述べた時に一言で済むようなエピソードは、大風呂敷を広げたところで語るるに足らないのだ。
 このお茶会で上映すべきはCMではなく映画ないしドラマである。ドラマからキャッチコピーを抜き出せても、キャッチコピーからドラマは作れない。
 つまりはそういうことなのだ。
 まあ、かよ子さんは一を聞いて十を知る、目から鼻へ抜けるような人だ。洞察力も理解力も推理力も高い彼女の中で、〝こんな時間に〟〝僕達が一緒にいて〟〝変なことに遭遇したとはいえ〟〝強かに誰も頼りにしないよう努めて気を張る様〟を見て、僅かながらもひっかかるものがあったのだろう。それならば、わざわざ言わないという選択をする必要はない。むしろ「なんでもないですよう」だなんてしらを切る方がこちらの分が悪いというものだ。たるるの――僕達の至らない説明でも、きっと事のあらましは伝わるはず。
僕は枕詞に「僕達がこんな時間に一緒に下校して、変な道に迷っていた理由からお話しますね」と付けてから口を開いた。
「最近――今月に入ってから、僕達の高校の生徒が相次いで行方不明になっているんです」
「あらまあ、それは物騒ね」と、かよ子さんは笑みを潜めて襟を正した。「それから?」さり気なくたるるの方へ目を寄越して話の先を促している彼女に僕は次の言葉を止める。一体何を聞いて――何を見て、どれを拾って物事を判断したのだろう。誰が話の主軸なのか即に察したらしいかよ子さんは、次はお前が話す番だとでも言うようにたるるから目を外さない。
 ――もう僕という又聞き野郎はお役御免みたいだ。
 話を無理やり引き継ぎされて、手持ち無沙汰ついでに考える。
 ――かよ子さんとは一度でいいから思考回路や視点を交換してみたいなあ。どんな着眼点で世界を見ていたら、ここまで的確に気づき読み取ることができるのだろうか。甚だ疑問である。
 痺れを切らして僕が言い出しっぺをしゃしゃり出た後も、口を開きあぐねたままだったたるるは、出し抜けに語り手として据えられて、びくりと肩を揺らして顔を上げた。
「あなたの、話よね?」
――と。さらに口角を上げるかよ子さんにたるるがいっそう気圧されているのは一目瞭然だ。
 ――······諦めろ。かよ子さんに嘘も方便も通用しない。
 言わない、を貫くことは出来たとしても、言い換えることは出来ないのだ。
 たるるは「うん」と引き結んでいた口を解いた。
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