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第一部 水の精霊王
第五話 穿たれた楔
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「俺たちは人間界に転生させられた。それはシルファの意思ではない。シルファではない誰かによって、歪まされている」
そう言って、彼は、日下部晄くんは、くしゃりと顔をゆがませた。
泣きそうになるのを我慢しているような、そんな顔だった。
ただ、その中でも、これだけはと言わんばかりに強い意思を乗せて、はっきりと告げた言葉を、泉はずっと繰り返し考えている。
「俺はシルファを穢してなどいない」
「冤罪だ」
命の乙女は神聖不可侵の女神。
至高界の中心に在って、世界樹をゆりかごに、神龍と四大に護られた唯一の女神だ。
その女神を四大の一つが穢したとはどういうことなのか。
いったい何が起きたのか。
水界の宮殿にいたアイシャは、そんな知らせは受け取っていない。
あの混乱のさなか、宮殿までその知らせが届くこともすでに難しかったのかもしれない。
前線に出ていたファラ・ルーシャは知っていたのだろう。
だから、彼を、親友であったはずの炎帝を、あんなに激しく糾弾したのだ。
けれど冤罪だと彼は否定した。
怒りに震える淳にしがみつくことしか、あの時の泉はできなかった。
何が正しくて、何が間違っているのか。
過去に何が起こっていたのか、泉には知ることが出来ない。
ベッドに横たわる淳の寝顔を見つめながら、泉はそっとため息をついた。
大きなお屋敷の広い部屋に取り残されてしばし呆然とした。
淳の家がこんなに立派なお宅だったとは思いもしなかった。
確かに別荘とか持っていたことも驚いたけど、所作も綺麗だなとは思ってはいたけれど。
上流階級そのものではないだろうか。
平々凡々なサラリーマン、3LDKの一戸建ての我が家とは本当に別世界だ。
「泉ちゃん」
部屋をノックする音がして、顔を上げるとするりと部屋に入ってきたのは拓海だった。
「…拓海先輩」
慌てて立ち上がろうとする泉を手で制して、拓海は泉とは反対側のベッドの脇にあった丸椅子に腰かけた。
「力の使い過ぎとストレスだろうって。ゆっくり休めば回復するから大丈夫だってさ」
今、さらっと当たり前のように拓海は言ったが、この状況を家の人にはなんて伝えたのだろうと心配になった。
「…力の使い過ぎって」
「ああ、うちはみんな俺たちの力のことは知ってる。さすがに精霊界の話まではしていないけど、なんか不思議な力を持ってるってことは認めてくれてて、ガキの頃とか力の加減が上手くできなくてぶっ倒れたりもしてるから、よくわかってるんだ。だから気にしなくて大丈夫だ」
「そう…なんですね」
泉は呆然としながらもほっとして淳の青白い横顔を眺めやる。
いつも穏やかな淳があんなに激高するとは思わなかった。我を忘れるほどの怒りというものを泉は初めて見た気がした。
「…拓海先輩が来てくれて、本当に良かったです。あのままだったら…きっと…」
怒りのままに水を操り、容赦なく転入生を攻撃する淳には殺意のようなものがあった。
研ぎ澄まされた鋭利な刃のような冷たさで、彼を殺していたかもしれない。
アイシャが知らない戦場で、きっとそれは当たり前のようにあった姿なのだ。
でもそれは彼が決してアイシャには見せなかった姿だった。アイシャには、泉には、いつも優しい穏やかな笑顔を見せてくれていたから。
ただ自分が知らなかっただけ。
戦場で何が起きていたのかも知らない。
仲間であり、親友であったはずの彼を、あんなにも激しく糾弾する理由があるのだ、きっと。
「あいつが炎帝だとあの時分かっていたら、俺だって冷静ではいられなかった」
言外に泉を批難する気持ちがあることを匂わせて、それでも静かに拓海は告げる。
「俺は水帝の部下だ。…主の命令が下れば、迷わず炎帝に剣を向けたでしょう」
いつもとは違う硬い口調で言い放つ拓海を泉はまじまじと見上げる。
それは将軍ファルークの言葉だ。
「それは…炎帝が裏切り者、だから?」
ファラ・ルーシャといつも行動を共にしていたファルークなら、同じ見解を持つのだろう。
拓海は少しだけ眉を顰め腕を組んだ。
「少なくとも、あの時、炎帝の裏切りが発覚しなければ、わが軍があそこまで追いつめられることはなかったでしょう」
苦々しく吐き捨てる言葉に嘘はなかった。
きっと忸怩たる思いでその報を受けたのだろうと想像できる。
「では、あなたも…炎帝の言葉は信じられないものなのですね」
冤罪だと静かに告げた彼の言葉を。
泉は何故か嘘だと決めつけることが出来ないでいる。
「炎帝が、至高界の世界樹から女神を攫ったのです。これ以上の反逆はありえません」
そして、女神が不在の世界樹に黒き楔が穿たれた。
滅びが、生まれたのだ。
拓海は大きく息を吐きだし、高い天井を見上げた。
「冤罪だって?信じられないね。俺だって奴を前にしていきなり戦端を開くバカはしないと思いたいですけどね、そんなこと言われたら冗談じゃないって怒鳴っていたかもな。ただ淳の様子がやばかったから、淳を優先した。それだけだ」
「でも…淳くん、戸惑ってた。怒っていたけど、でも…冤罪だって言った彼を…憎んでいるようには見えなかった。どうしようもなく、悲しくて、辛そうで…」
淳の気持ちに感化されてぐちゃぐちゃになった感情が泉を苛む。沸き上がる涙を隠す様に、涙が真珠に変わる前にベッドに突っ伏した。
何もできないもどかしさ。息苦しくて、辛い。ただ泣いているだけの自分が悔しくてたまらない。
「俺たちだって信じられなかったさ…でも、炎帝は王の信頼を裏切った」
「あの人は記憶が歪められているって言った。覚えていることが間違っているかもしれないとしたら…」
「だとしても、どうやってそれを証明するの?俺は俺の記憶を信じている。感情も。行動も。それを疑ったら動けない」
泉は言葉を失って俯く。証明のしようがないものを疑っているのだと気付く。
拓海も言い過ぎたと思ったのか、頭をガシガシと掻きながら後ろを向いた。
「ちょっと、あれだな。ショックが強すぎたんだな。泉ちゃんも疲れてるんだよ。休んだ方がいい」
そうなのかもしれない。
知らない出来事に翻弄されて、訳が分からないまま考えていても仕方がないことなのだ。
「隣の部屋使うといいよ。家の者には言っておくから」
「えっ?」
「だって、淳の傍にいたいでしょ?遅くなる前に送っていくけど、とりあえずはちょっと休んで。ご飯食べて帰ればいいから」
ちらりと眠る淳を窺う。まだ目覚める様子はない。そばにいたいけれど、そこまで甘えてもいいのだろうか。お夕飯までご馳走になるのは気が引ける。
「でも…」
泉が遠慮しているのが分かるのか、拓海は面白そうににやにやと笑って見せた。
「あのね、うちの親たちが、それはもう期待しているんだよね。あの淳が、女の子と一緒にいたのかってさ。まずそこからびっくりすることだし。息子が力使ってぶっ倒れたのを介抱してくれた女の子をそのまま帰すと思う?実を言うと、いま、下の階が大騒ぎなんだよね」
ひえぇ。大騒ぎってなに?どういうこと?
淳に負けず劣らず血の気が引いてひきつった笑みを見せる泉を、拓海は面白そうに見遣る。
「俺はちょっといったん家に戻るけど、すぐ来るから」
「拓海先輩のお家も近いんですか?」
「隣だよ。ガキの頃からお互い行き来してるから、どっちも自分の家みたいなものだけどな」
こんな豪邸が隣同士で存在しているというのなら、もはや完全に華麗なる一族だ。
「本当、面白いなぁ、泉ちゃんの百面相。ま、いろいろ想像して楽しんでて」
「ひゃ、百面相?楽しんでって…」
赤面症は自覚はあるが、百面相だなどと揶揄われたのは初めてだ。それにあまりに非現実的すぎて、何をどうやって楽しめばいいのか。まったく訳が分からない。
笑顔で手をひらひらと振って、拓海は部屋から出ていく。大きく息を吐いて、泉は再び椅子に座り込んだ。
静かに眠る淳の顔色はまだお世辞にも良いとは言えず、泉は余計に落ち込んでいく気持ちを押しとどめるのに苦労した。
「ごめんね。淳くん…私、何の役にも立てないね」
「………泉」
吐息のような、空耳かと思ってしまったほどか細く、名を呼ぶ声がした。
はっとして覗き込むと、淳はうっすらと目を開けていた。
「淳くん、気が付いた?大丈夫?」
「…泉、ここは?…」
まだぼうっとしたまま、淳は吐息交じりに尋ねてくる。
「淳くんのお家だよ」
そう伝えると、しばらく黙ったままでゆっくり目を閉じていく。
「…、…?………」
何かをしゃべったようだが、言葉にはならず、再び寝息に変わった。
だがほんの少しだったけれど、言葉を交わせたことで、泉は安堵した。
普段とは違うあどけない寝顔をかわいいと思う余裕すら生まれて、泉は淳の手をそっと握る。
「ゆっくり休んで、早く元気になってね。淳くん」
祈るように、そっとつぶやいた。
まぶしいほどの光の中で、大樹が青々とした葉を揺らしている。
かぐわしい香りは花の匂いだろうか。風に乗ってほのかに伝わってくる甘く柔らかな香り。
美しい世界にただただ陶然と佇むアイシャはほうっと息をつきながら眼前の大樹を見上げた。
「なんて大きな…」
その瑞々しい緑に穏やかに微笑む。
生命の輝きに満ちた慈愛溢れる世界。
柔らかく草が覆う大地を、どこへ行くとも定めず、アイシャは歩みを進めていく。
ふいに人影二つ、遠く前方に見えて、アイシャは足を止める。
朱金に輝く髪と深紅のマントをなびかせて立つ、背の高い男の後姿に見覚えがあった。
ファラ・ルーシャと同じ精霊王。
炎帝だとすぐに分かった。
彼の鮮やかな美しさは燃え上がる炎そのもののようだった。
猛々しく、煌々と輝くばかりに強い意志をもった瞳。好戦的な笑みすらも彼の魅力とも言えた。
そして、そのすぐそばに寄り添うように、白い少女の姿があることに気が付く。
光に透けて輝く金色の長い髪。わずかに頬を染めて恥じらうように微笑む少女は、恋をする乙女そのもので、彼女を包む空気はどこまでも優しい。
少女が甘えるように炎帝の頬に両手を伸ばす。
はじけるような笑顔と男の低い笑い声が被さった。
恋人同士の逢瀬を覗き見てしまったような罪悪感に囚われかけたアイシャは、そっと踵を返し、その場を離れた。
ふと、目が覚めた。
淳の手を握ったまま眠ってしまったらしい。
肩には柔らかな手触りの肩掛けが掛けられていて、どうやら寝入ってしまった泉を起こさないように誰かが用意してくれたらしい。
淳はまだ寝息を立てている。
時計を見れば、まだそれほど時間は過ぎていなくてほっとした。
ほんの少しだけ寝落ちしたようだ。
夢を、見ていたのだと理解した。
至高界の、世界樹の下で。
彼とシルファの逢瀬を垣間見た。それは確かに前世の、アイシャの記憶だ。
そう。あの時、アイシャは確かに見ていたのだ。
二人を。
女神と精霊王の密やかな恋をアイシャはあの時、気が付いてしまった。
神聖不可侵である女神が四大の一つに特別な感情を抱くことは禁忌のはずだった。
四大も女神を愛し、敬い、永遠の忠誠を誓っている。
女神の愛は、平等に、世界に分け与えられるものだからだ。
けれど、女神は、シルファは、彼に恋をしてしまった。
「…泉?」
確かな強さをもって、呼びかける声に泉ははっとして顔を上げた。
「淳くん、起きたの?」
顔をしかめながら身を起こす淳に手を添え、支え起こす。
淳はちらりと視線をめぐらし、ここが自室だということを認識したようだ。
「…拓海が来たのか」
「うん。拓海先輩が助けてくれて、淳くんを家に運んでくれたの」
「拓海は?」
「さっきまで一緒にいてくれたんだけど、一度家に戻ってすぐ来てくれるって言ってたから、もうすぐ来ると思うけど」
淳は頷くと、小さく息をついた。
「ごめん、迷惑をかけた」
「ううん。そんな、迷惑なんて…大丈夫だよ、私」
淳は力なくうなだれて首を振る。
全然迷惑だなんて思ってもいないのに。その言葉が淳との距離を遠くしていくような気がして、泉は少し寂しく思えた。
「心配、したんだよ」
「……そうか。ごめんね」
迷惑ではなくて心配をかけたということにようやく気が付いたらしい淳は、少しびっくりして言葉を失い、その後は嬉しそうに頭を下げた。
「うん。力使いすぎだって…」
「ごめん。昔はそれこそ勝手がわからなくて、確かに寝込んだりしていたんだ。ここしばらくはそんなこともなくなっていたから、すっかり忘れていた。かっこ悪いところをみせちゃったな」
「え…かっこ悪くないよ。淳くんは」
言った後でめちゃくちゃ恥ずかしくなって、逃げるように俯く。きっと顔は真っ赤になっているはずだった。
ふふっと小さく笑う声が聞こえてきて、握っていた手を握り返された。
「ありがとう。…本当に…あんな風に、動揺するなんて思わなかった。もっと冷静に対処できると思っていたんだ」
「仕方ないよ。友だちだったんだもん」
「…友だちか…」
自嘲気味に笑いを漏らす淳は苦し気に顔をゆがめ体を震わせる。
「友、だと…思っていた」
絞り出すように紡がれた言葉には、どうしようもない怒りととまどいと、泣きたくなるような悲しみに彩られていた。泉は握っていた手を放し、代わりに淳の頭を引き寄せてぎゅっと抱きしめる。
「え…い、泉?」
「私、まだ…全然知らないことばかりで、思い出したこともまだほんの少しだから…何の役にも立っていないけど」
そこで一度言葉を切って、大きく息を吸い込む。
「私もいるから。一緒に考えよう。彼の言葉の意味を。私は彼がウソを言っているようには見えなかった」
びくりと淳の体が反応する。
泉の腕を解いて、淳は真正面から泉を信じられないとばかりに見つめた。
「…何を、言ってるんだ?君は、あいつが何をしたか分かって言っているのか?」
いままで見せたことのない淳の憤りの顔。
「あいつは、僕たちを裏切った!門の守護を放棄し、シルファを攫った!女神を守るべき四大が!あいつが!至高界に滅びを引き入れたんだ」
怒りのままに爆発するのは、どうしようもないほどの後悔と悲しみ。
精霊界が滅ぶ引き金になったのは、炎帝の裏切りに他ならない。
「君だって知ってるはずだろう?マナン・ティアールが滅びたのは…」
「知ってる!私が最後まで見届けた!」
胸を引き裂かれるような悲しみが体中に沸き上がって、泉の瞳から涙がこぼれ落ちていく。
覚えているし、決して忘れることはできない。
「あなたが逝ってしまったと知らせが来てから、あっという間だったもの。長妃の力だけじゃ、水界を支えられなかった。でも私のところには炎帝の謀反だなんてそんな知らせは届いていなかった。アル・ファラルさまからも、何も…どこからも、そんなこと、聞いていないもの!」
滅びの気配は濃く、水界を覆いつくしていた。
だがまだあの時、四大は健在であったはずなのだ。強固な絆で結ばれた五芒星は輝いていた。
拓海はさっき、自分の記憶を信じていると言った。その感情も、行動も、全部自分のものだ。
だったら、泉も自分の記憶と感情を信じたい。
何かが違う。何かがおかしいと告げている。その感覚を信じたい。
淳との記憶に相違があるのなら、その違いを確かめるべきなのだ。
彼は言ったのだ。淳が意識を失ったあの時に。
「俺はシルファを、助けると約束したんだ」
あの言葉を。
愛するものを慈しむ、あのまなざしを。
嘘で作り上げられたものだとは泉には到底思うことが出来ない。
「彼が…嘘を言ってるとは思えない」
「泉!!!」
悲鳴のような叱責だった。
「やめてくれ。君は、あいつの言葉を信じるのか?僕よりも…」
「淳くん、違っ…」
「なにが違う!?どうしてあいつの肩を持つ!?」
むき出しの感情をぶつけてくる淳が痛くてつらかった。どう言えば分かってくれるだろう。
どう伝えればいいのだろう。
「おい?どうしたんだよ?」
ノックもなしに慌てた拓海が入ってきた。
言い合っていた声が外にまで聞こえていたのだろう。
ピリピリしていた空気は今にも張り裂けそうで冷ややかに肌を突き刺す。
張り詰めた糸のような緊張感の中、泉はふっと息を吐いた。
淳は俯いたままだ。
拒絶されているのが分かって、泉は鼻をすすり上げた。
「…ごめんなさい。私、帰ります」
淳は動かない。拓海に頭を下げて、そのまま泉は荷物を抱えて部屋を飛び出した。
慌てたのは拓海の方だ。
「え、お、おい。泉ちゃん?」
後ろ手を掴まれて、泉は仕方なく立ち止まった。
「拓海先輩、手を放して。帰るから」
「いや、だから…送るから。待てって」
拓海は部屋の様子をちらりと窺って、すぐまた泉に視線を戻した。
「いいです。電車で帰ります」
「意地張らない。あんた、ここがどこか分かってないでしょうが」
ぐっと詰まって、恨めしそうに泉は拓海を見上げた。
倒れた淳を抱えて、拓海に連れてこられただけだったので、どうやってここまで来たのかも覚えていなかった。
「拓海先輩だって、私の家は知らないでしょう?」
「知ってる」
「え?」
「当然でしょ。長妃の所在の把握なんてあたりまえ」
主君の妃なのだから、当然だ。この分ではすでに護衛がついていてもおかしくはなかった。
のほほんと学生生活を続けていた泉は自分の甘さに恥ずかしくなった。
「泉ちゃんの感覚だとそうかもしれないけどね。長妃さまとなるとね。そこら辺は勘弁して。で、お宅ら、何してんの?」
「う…」
「珍しく言い合いとかしちゃって」
前世では考えられなかった。こんなふうにアイシャが感情を表したことはなかった。ファラ・ルーシャも。
いつも穏やかに。笑っていた。お互いを思い遣って。
言いたいことも飲み込んでいた。
「喧嘩、しちゃった」
変わりたかったのはアイシャ。
ただ泣いてるだけでなく。
彼の隣に立つために。
自分の意思を、気持ちを伝えたいと願っていた。
ただ伝えたいと思っていた。分かってもらいたかった。
言葉にしても伝わらないもどかしさ。言葉にすることの難しさ。
前は口に出せなくてつらかったけれど、初めての喧嘩は予想以上に、痛い。
「喧嘩するのは悪いことじゃない。お互いがぶつかり合いながら、距離を測って、気持ちをすり合わせていくんだから」
「でも、喧嘩するのって…心が、痛いね」
ほろりと涙が浮かんだ。真珠に変わった涙を受け止めながら、泉は微笑む。
「分かってもらいたかっただけなの」
「ちょっといまは無理かもな」
「…拓海先輩も淳くんと同意見だものね」
拓海は難しい顔をして唸る。
じっと何かを探るように考え込む拓海の視線を受け止める。
アイシャは知っていた。
シルファとラファの密やかな恋を。
シルファは決して表に出すことはしなかったし、ラファも四大の一つとしての節度を守っていた。
あのとき、シルファの瞳に見えたものにアイシャが気が付いたのは本当に偶然だ。
愛していると瞳が語っていた。
届かぬ想いを、伝えられることない想いを、抱いたまま微笑む乙女の姿に目を奪われたのだ。
壊してはならない。
あの危うい均衡を壊してはならないと、アイシャは思ったのだった。
だから、アイシャはそのことをファラ・ルーシャにも伝えていない。記憶の底にそっとしまい込んでいた。
「いまは話せないです。ごめんなさい」
拓海は脱力したように大きくため息をついた。
「ま、仕方がないか。俺としては早く仲直りしてほしいんだけど…」
「うん。でも私がいまやろうとしていることを言ったら、また怒られるかも」
「勘弁して。俺の胃に穴が開く」
「ごめんなさい。でも淳くんのあんな辛そうな顔は見たくないから…」
主君である王とその妃の間に挟まれて、ストレスマックスでは胃に穴が開くのも時間の問題だろうと泉は申し訳なく思った。
「淳のために動くって言うなら…」
まっすぐに問いかけるまなざしを受け止めて、泉は頷く。
「泉ちゃんは一人で行動しないで。護衛には俺が付く」
「大丈夫なんですか?王の命令に背くことになるんじゃ…」
「あのね。喧嘩中でも泉ちゃんの立場は長妃なんだよ。長妃に何かあったら困るの。っていうか、淳が泣く」
「な、泣く?」
淳が涙を流して泣く姿は想像できない。ファラ・ルーシャでも、だ。
「泣くっしょ。いまだって、喧嘩して相当落ち込んでるはずだろうから」
「そ、そうかな…」
いつも沈着冷静な彼の姿を見ているから、そんな落ち込む姿なんて想像もできない。
穏やかに笑いながら見守ってくれる姿しか覚えていない。
あの優しい笑顔を思い出すだけで涙が出てくる。
今はただ、そばに寄り添えないのが寂しい。
仕方がないなと言わんばかりに苦笑いをした拓海が、泉の頭を柔らかく叩いて宥める。
「お叱りはあとで受けるとするか。泉ちゃんが淳と喧嘩してでもやろうって言うんだ。付き合うよ」
「ありがとうございます。拓海先輩」
強力な助っ人を得て、泉は安堵した。
「で、まず何をするつもりなんだ?」
こっそりと共犯者の顔になって、拓海は小声で尋ねてくる。
泉は顔を上げて、きっぱりと言い放った。
「もう一度、炎帝に会って、話がしたいの。確かめたいことがあるの」
拓海は自分の記憶を信じると言った。泉も自分の記憶を信じたかった。
相違があるなら確かめたい。
記憶が歪められているのなら、どこが真実と違うのか。
何が真実なのか。
誰がその真実を歪めたのか。何のためにそんなことをしたのか、知りたいと思った。
炎帝が裏切り者だということ。
炎帝が女神を穢したということ。
女神の異変を長妃が知らずにいたことの方がおかしいと泉は思う。
それとも、その報が届く前に破滅は水界を覆いつくしたのだろうか。
炎帝が裏切り、水帝が死に、水界が滅びた。
門を守護し、女神を脅威から護るのは四大の長たちだ。精霊王自らが強固な守りの陣を敷いている。
炎帝がシルファを至高界から攫ったのなら、門を守護していた水神と風神がそれを看過するはずもない。
「拓海先輩。風界…フィーラ・メアも滅びたのですか?」
「俺は、知らない」
固く強張った声で拓海は答える。
「王より先に死んだからな」
駅に向かって拓海と歩きながら、そっと静かな拓海の横顔を覗き込む。そこに残るのは悔恨。静かな怒りにも似た無念なのだろうか。
夏の暑い風が夜になって少し和らいで心地よいはずなのに、泉と拓海の肌にざわりと不快感を残して触れていく。
「ファラ・ルーシャは炎帝と戦ってはいないのですね?」
「ああ、魔龍の軍が押し寄せてきて、混乱はしていたが…あの場には奴はいなかったはずだ」
「裏切りの報は…」
ピタリと拓海が立ち止まる。
「泉ちゃん。報告の出所を疑ってんのなら、俺は将軍を辞するよ。自軍の兵だ」
「ごめんなさい。疑ったわけじゃなくて…」
視界の隅に入り込んだ人物を見つけて、泉はハッと息を飲む。拓海も鋭く振り返り、その人物を認めた。
駅舎の壁にある周辺の地図をじっと眺めているのは、赤茶色の髪の学生服姿の少年だ。
泉たちの視線に気が付いたのか、少年はゆっくりと振り返り、怪訝そうに片眉をあげてこちらを見た。
「日下部くん」
彼が何故ここにいるのだろう。
確かに、会って話したいと思っていたが、いきなりこんな場所で再会するとは思ってもみなかった。
「へぇ、高橋、だったか?さっきと男が違うじゃん?」
日下部は面白そうに笑いながらも、鋭く拓海を見つめている。獲物を捕らえる獣のようなまなざし。
「貴様!」
低く唸りながら拓海が身構える。急激に膨らむ怒気に泉の肌が粟立った。
「ああ、お前…ファルークか。久しいな。主の具合はどうだ?」
日下部の周りに赤く燃え上がる炎が見えるようだった。実際は火などどこにもないのに、彼の周りを渦巻く強大な力の波動が、赤く炎のように見えて、熱をもって襲い掛かってくる。
「なにをぬけぬけと!裏切り者が、こんなところで何をしているか」
「将軍ごときに…俺をどうにかしようと思うのが間違いだな。身の程を知らぬのにも程がある」
彼の挑発だと泉でさえ分かるのに、拓海は日下部の力に呼応するように青白い闘気を纏った。
いきなり戦端を開くバカはしないと言ってたはずなのに。
泉は慌てて拓海の腕を引く。
「拓海先輩、待って!ダメ!」
ぐっと悔しそうに顔をゆがめる拓海を宥めて、泉は拓海の前に出て日下部と対峙する。
日下部から放たれる熱波に思わず目を反らしそうになったが、ぐっと堪えた。
ここで逃げるわけにはいかない。
「日下部くんに聞きたいことがあるの!」
彼は一瞬驚いたように目を見張り、面白そうに笑った。
「奇遇だな。俺もあんたに聞きたいことがあるんだ」
「え?」
日下部は赤い闘気を消して、一歩近付く。
ごうごうと風が耳を打ち、日下部の赤茶色の髪を巻き上げる。
そうして紡がれた彼の言葉。
「シルファは、どこにいる?」
楔のように、その言葉は泉に突き刺さった。
「え?」
泉の横で言葉を失った拓海がいた。
何を言われたのか、泉には分らなかった。
女神の居場所など知っているはずがないのに。
呆然と立ち尽くす泉の体に何かが纏わりつく。
「うあっ」
拓海の悲鳴と同時に鮮血が飛び散る。
どさっと重く何かが落ちる音が真横でしたが、泉にはそれを見ることはできなかった。
体が拘束され、声を出すこともできなかった。
ふわりと体が浮く。
顔を強張らせた日下部が、上空を睨みつける。
「お前、風の…!!」
日下部の足元に鋭くかまいたちが走った。日下部は舌打ちをして避ける。
その姿を泉は上から眺めていた。
血を流して地に倒れ伏す拓海の姿を見つけて動揺した。だが声が出せない。身動きもできない。
誰かが泉の体を抱きとめ、抱えられたのが分かった。
長い髪の毛が風に流れてくるのが見えるだけ。
「ごめんね。少しの間だけ我慢してね」
泉に向けて、顔の見えない彼は言う。不思議と優しささえ感じられる声音に、泉は驚いた。
「護衛の彼を傷つけてごめん。抵抗しなきゃ拘束するだけで済ませたんだけど」
飄々とした声でとんでもないことを言っている。
いったい誰なのか。
何が起こっているのか。
「ラファ。お前への制裁は後だ。この子はもらっていくよ」
「待て!何故、彼女を連れていく」
「僕が動く理由なんて、一つでしょ!!」
軽く一閃した手から、風が鋭く地上に向かって吹き荒れる。
激しく風にあおられて日下部の体が傾ぐのが見えた。
身を翻し、泉を抱いて彼はさらに上空へと舞い上がる。
長い髪の毛が月光を反射して金色に光っていた。風になびく髪がまるで翼のようだと泉は思った。
攫われたというのに、現実離れしたこの状況にも泉は不思議と落ち着いていた。
じっと見上げてその人物を見つめる。
年齢は自分たちとそれほど変わらないように見える。
端正な顔立ち。まっすぐに前方を見つめる明るい空色の瞳。どこかやんちゃで、軽やかに笑う一つの姿がダブって見えた。
風の、精霊王だと分かった。
「さて、お嬢さん。いまから僕たちの秘密基地にご招待だよ。一緒に来てくれるね」
にこやかに風の精霊王は誘う。
否やの選択権が拘束されている泉にあるというのだろうか。
沈黙を是と取ったのか、彼はにやりと満足そうに笑う。
「うん、いい子だね。さすがは水の長妃だ」
彼が手を泉の顔の前でひらりと広げたと思ったとき、馨しい香りが泉を包み込んだ。
柔らかく甘い香りに、泉の意識は急速に落ちていった。
そう言って、彼は、日下部晄くんは、くしゃりと顔をゆがませた。
泣きそうになるのを我慢しているような、そんな顔だった。
ただ、その中でも、これだけはと言わんばかりに強い意思を乗せて、はっきりと告げた言葉を、泉はずっと繰り返し考えている。
「俺はシルファを穢してなどいない」
「冤罪だ」
命の乙女は神聖不可侵の女神。
至高界の中心に在って、世界樹をゆりかごに、神龍と四大に護られた唯一の女神だ。
その女神を四大の一つが穢したとはどういうことなのか。
いったい何が起きたのか。
水界の宮殿にいたアイシャは、そんな知らせは受け取っていない。
あの混乱のさなか、宮殿までその知らせが届くこともすでに難しかったのかもしれない。
前線に出ていたファラ・ルーシャは知っていたのだろう。
だから、彼を、親友であったはずの炎帝を、あんなに激しく糾弾したのだ。
けれど冤罪だと彼は否定した。
怒りに震える淳にしがみつくことしか、あの時の泉はできなかった。
何が正しくて、何が間違っているのか。
過去に何が起こっていたのか、泉には知ることが出来ない。
ベッドに横たわる淳の寝顔を見つめながら、泉はそっとため息をついた。
大きなお屋敷の広い部屋に取り残されてしばし呆然とした。
淳の家がこんなに立派なお宅だったとは思いもしなかった。
確かに別荘とか持っていたことも驚いたけど、所作も綺麗だなとは思ってはいたけれど。
上流階級そのものではないだろうか。
平々凡々なサラリーマン、3LDKの一戸建ての我が家とは本当に別世界だ。
「泉ちゃん」
部屋をノックする音がして、顔を上げるとするりと部屋に入ってきたのは拓海だった。
「…拓海先輩」
慌てて立ち上がろうとする泉を手で制して、拓海は泉とは反対側のベッドの脇にあった丸椅子に腰かけた。
「力の使い過ぎとストレスだろうって。ゆっくり休めば回復するから大丈夫だってさ」
今、さらっと当たり前のように拓海は言ったが、この状況を家の人にはなんて伝えたのだろうと心配になった。
「…力の使い過ぎって」
「ああ、うちはみんな俺たちの力のことは知ってる。さすがに精霊界の話まではしていないけど、なんか不思議な力を持ってるってことは認めてくれてて、ガキの頃とか力の加減が上手くできなくてぶっ倒れたりもしてるから、よくわかってるんだ。だから気にしなくて大丈夫だ」
「そう…なんですね」
泉は呆然としながらもほっとして淳の青白い横顔を眺めやる。
いつも穏やかな淳があんなに激高するとは思わなかった。我を忘れるほどの怒りというものを泉は初めて見た気がした。
「…拓海先輩が来てくれて、本当に良かったです。あのままだったら…きっと…」
怒りのままに水を操り、容赦なく転入生を攻撃する淳には殺意のようなものがあった。
研ぎ澄まされた鋭利な刃のような冷たさで、彼を殺していたかもしれない。
アイシャが知らない戦場で、きっとそれは当たり前のようにあった姿なのだ。
でもそれは彼が決してアイシャには見せなかった姿だった。アイシャには、泉には、いつも優しい穏やかな笑顔を見せてくれていたから。
ただ自分が知らなかっただけ。
戦場で何が起きていたのかも知らない。
仲間であり、親友であったはずの彼を、あんなにも激しく糾弾する理由があるのだ、きっと。
「あいつが炎帝だとあの時分かっていたら、俺だって冷静ではいられなかった」
言外に泉を批難する気持ちがあることを匂わせて、それでも静かに拓海は告げる。
「俺は水帝の部下だ。…主の命令が下れば、迷わず炎帝に剣を向けたでしょう」
いつもとは違う硬い口調で言い放つ拓海を泉はまじまじと見上げる。
それは将軍ファルークの言葉だ。
「それは…炎帝が裏切り者、だから?」
ファラ・ルーシャといつも行動を共にしていたファルークなら、同じ見解を持つのだろう。
拓海は少しだけ眉を顰め腕を組んだ。
「少なくとも、あの時、炎帝の裏切りが発覚しなければ、わが軍があそこまで追いつめられることはなかったでしょう」
苦々しく吐き捨てる言葉に嘘はなかった。
きっと忸怩たる思いでその報を受けたのだろうと想像できる。
「では、あなたも…炎帝の言葉は信じられないものなのですね」
冤罪だと静かに告げた彼の言葉を。
泉は何故か嘘だと決めつけることが出来ないでいる。
「炎帝が、至高界の世界樹から女神を攫ったのです。これ以上の反逆はありえません」
そして、女神が不在の世界樹に黒き楔が穿たれた。
滅びが、生まれたのだ。
拓海は大きく息を吐きだし、高い天井を見上げた。
「冤罪だって?信じられないね。俺だって奴を前にしていきなり戦端を開くバカはしないと思いたいですけどね、そんなこと言われたら冗談じゃないって怒鳴っていたかもな。ただ淳の様子がやばかったから、淳を優先した。それだけだ」
「でも…淳くん、戸惑ってた。怒っていたけど、でも…冤罪だって言った彼を…憎んでいるようには見えなかった。どうしようもなく、悲しくて、辛そうで…」
淳の気持ちに感化されてぐちゃぐちゃになった感情が泉を苛む。沸き上がる涙を隠す様に、涙が真珠に変わる前にベッドに突っ伏した。
何もできないもどかしさ。息苦しくて、辛い。ただ泣いているだけの自分が悔しくてたまらない。
「俺たちだって信じられなかったさ…でも、炎帝は王の信頼を裏切った」
「あの人は記憶が歪められているって言った。覚えていることが間違っているかもしれないとしたら…」
「だとしても、どうやってそれを証明するの?俺は俺の記憶を信じている。感情も。行動も。それを疑ったら動けない」
泉は言葉を失って俯く。証明のしようがないものを疑っているのだと気付く。
拓海も言い過ぎたと思ったのか、頭をガシガシと掻きながら後ろを向いた。
「ちょっと、あれだな。ショックが強すぎたんだな。泉ちゃんも疲れてるんだよ。休んだ方がいい」
そうなのかもしれない。
知らない出来事に翻弄されて、訳が分からないまま考えていても仕方がないことなのだ。
「隣の部屋使うといいよ。家の者には言っておくから」
「えっ?」
「だって、淳の傍にいたいでしょ?遅くなる前に送っていくけど、とりあえずはちょっと休んで。ご飯食べて帰ればいいから」
ちらりと眠る淳を窺う。まだ目覚める様子はない。そばにいたいけれど、そこまで甘えてもいいのだろうか。お夕飯までご馳走になるのは気が引ける。
「でも…」
泉が遠慮しているのが分かるのか、拓海は面白そうににやにやと笑って見せた。
「あのね、うちの親たちが、それはもう期待しているんだよね。あの淳が、女の子と一緒にいたのかってさ。まずそこからびっくりすることだし。息子が力使ってぶっ倒れたのを介抱してくれた女の子をそのまま帰すと思う?実を言うと、いま、下の階が大騒ぎなんだよね」
ひえぇ。大騒ぎってなに?どういうこと?
淳に負けず劣らず血の気が引いてひきつった笑みを見せる泉を、拓海は面白そうに見遣る。
「俺はちょっといったん家に戻るけど、すぐ来るから」
「拓海先輩のお家も近いんですか?」
「隣だよ。ガキの頃からお互い行き来してるから、どっちも自分の家みたいなものだけどな」
こんな豪邸が隣同士で存在しているというのなら、もはや完全に華麗なる一族だ。
「本当、面白いなぁ、泉ちゃんの百面相。ま、いろいろ想像して楽しんでて」
「ひゃ、百面相?楽しんでって…」
赤面症は自覚はあるが、百面相だなどと揶揄われたのは初めてだ。それにあまりに非現実的すぎて、何をどうやって楽しめばいいのか。まったく訳が分からない。
笑顔で手をひらひらと振って、拓海は部屋から出ていく。大きく息を吐いて、泉は再び椅子に座り込んだ。
静かに眠る淳の顔色はまだお世辞にも良いとは言えず、泉は余計に落ち込んでいく気持ちを押しとどめるのに苦労した。
「ごめんね。淳くん…私、何の役にも立てないね」
「………泉」
吐息のような、空耳かと思ってしまったほどか細く、名を呼ぶ声がした。
はっとして覗き込むと、淳はうっすらと目を開けていた。
「淳くん、気が付いた?大丈夫?」
「…泉、ここは?…」
まだぼうっとしたまま、淳は吐息交じりに尋ねてくる。
「淳くんのお家だよ」
そう伝えると、しばらく黙ったままでゆっくり目を閉じていく。
「…、…?………」
何かをしゃべったようだが、言葉にはならず、再び寝息に変わった。
だがほんの少しだったけれど、言葉を交わせたことで、泉は安堵した。
普段とは違うあどけない寝顔をかわいいと思う余裕すら生まれて、泉は淳の手をそっと握る。
「ゆっくり休んで、早く元気になってね。淳くん」
祈るように、そっとつぶやいた。
まぶしいほどの光の中で、大樹が青々とした葉を揺らしている。
かぐわしい香りは花の匂いだろうか。風に乗ってほのかに伝わってくる甘く柔らかな香り。
美しい世界にただただ陶然と佇むアイシャはほうっと息をつきながら眼前の大樹を見上げた。
「なんて大きな…」
その瑞々しい緑に穏やかに微笑む。
生命の輝きに満ちた慈愛溢れる世界。
柔らかく草が覆う大地を、どこへ行くとも定めず、アイシャは歩みを進めていく。
ふいに人影二つ、遠く前方に見えて、アイシャは足を止める。
朱金に輝く髪と深紅のマントをなびかせて立つ、背の高い男の後姿に見覚えがあった。
ファラ・ルーシャと同じ精霊王。
炎帝だとすぐに分かった。
彼の鮮やかな美しさは燃え上がる炎そのもののようだった。
猛々しく、煌々と輝くばかりに強い意志をもった瞳。好戦的な笑みすらも彼の魅力とも言えた。
そして、そのすぐそばに寄り添うように、白い少女の姿があることに気が付く。
光に透けて輝く金色の長い髪。わずかに頬を染めて恥じらうように微笑む少女は、恋をする乙女そのもので、彼女を包む空気はどこまでも優しい。
少女が甘えるように炎帝の頬に両手を伸ばす。
はじけるような笑顔と男の低い笑い声が被さった。
恋人同士の逢瀬を覗き見てしまったような罪悪感に囚われかけたアイシャは、そっと踵を返し、その場を離れた。
ふと、目が覚めた。
淳の手を握ったまま眠ってしまったらしい。
肩には柔らかな手触りの肩掛けが掛けられていて、どうやら寝入ってしまった泉を起こさないように誰かが用意してくれたらしい。
淳はまだ寝息を立てている。
時計を見れば、まだそれほど時間は過ぎていなくてほっとした。
ほんの少しだけ寝落ちしたようだ。
夢を、見ていたのだと理解した。
至高界の、世界樹の下で。
彼とシルファの逢瀬を垣間見た。それは確かに前世の、アイシャの記憶だ。
そう。あの時、アイシャは確かに見ていたのだ。
二人を。
女神と精霊王の密やかな恋をアイシャはあの時、気が付いてしまった。
神聖不可侵である女神が四大の一つに特別な感情を抱くことは禁忌のはずだった。
四大も女神を愛し、敬い、永遠の忠誠を誓っている。
女神の愛は、平等に、世界に分け与えられるものだからだ。
けれど、女神は、シルファは、彼に恋をしてしまった。
「…泉?」
確かな強さをもって、呼びかける声に泉ははっとして顔を上げた。
「淳くん、起きたの?」
顔をしかめながら身を起こす淳に手を添え、支え起こす。
淳はちらりと視線をめぐらし、ここが自室だということを認識したようだ。
「…拓海が来たのか」
「うん。拓海先輩が助けてくれて、淳くんを家に運んでくれたの」
「拓海は?」
「さっきまで一緒にいてくれたんだけど、一度家に戻ってすぐ来てくれるって言ってたから、もうすぐ来ると思うけど」
淳は頷くと、小さく息をついた。
「ごめん、迷惑をかけた」
「ううん。そんな、迷惑なんて…大丈夫だよ、私」
淳は力なくうなだれて首を振る。
全然迷惑だなんて思ってもいないのに。その言葉が淳との距離を遠くしていくような気がして、泉は少し寂しく思えた。
「心配、したんだよ」
「……そうか。ごめんね」
迷惑ではなくて心配をかけたということにようやく気が付いたらしい淳は、少しびっくりして言葉を失い、その後は嬉しそうに頭を下げた。
「うん。力使いすぎだって…」
「ごめん。昔はそれこそ勝手がわからなくて、確かに寝込んだりしていたんだ。ここしばらくはそんなこともなくなっていたから、すっかり忘れていた。かっこ悪いところをみせちゃったな」
「え…かっこ悪くないよ。淳くんは」
言った後でめちゃくちゃ恥ずかしくなって、逃げるように俯く。きっと顔は真っ赤になっているはずだった。
ふふっと小さく笑う声が聞こえてきて、握っていた手を握り返された。
「ありがとう。…本当に…あんな風に、動揺するなんて思わなかった。もっと冷静に対処できると思っていたんだ」
「仕方ないよ。友だちだったんだもん」
「…友だちか…」
自嘲気味に笑いを漏らす淳は苦し気に顔をゆがめ体を震わせる。
「友、だと…思っていた」
絞り出すように紡がれた言葉には、どうしようもない怒りととまどいと、泣きたくなるような悲しみに彩られていた。泉は握っていた手を放し、代わりに淳の頭を引き寄せてぎゅっと抱きしめる。
「え…い、泉?」
「私、まだ…全然知らないことばかりで、思い出したこともまだほんの少しだから…何の役にも立っていないけど」
そこで一度言葉を切って、大きく息を吸い込む。
「私もいるから。一緒に考えよう。彼の言葉の意味を。私は彼がウソを言っているようには見えなかった」
びくりと淳の体が反応する。
泉の腕を解いて、淳は真正面から泉を信じられないとばかりに見つめた。
「…何を、言ってるんだ?君は、あいつが何をしたか分かって言っているのか?」
いままで見せたことのない淳の憤りの顔。
「あいつは、僕たちを裏切った!門の守護を放棄し、シルファを攫った!女神を守るべき四大が!あいつが!至高界に滅びを引き入れたんだ」
怒りのままに爆発するのは、どうしようもないほどの後悔と悲しみ。
精霊界が滅ぶ引き金になったのは、炎帝の裏切りに他ならない。
「君だって知ってるはずだろう?マナン・ティアールが滅びたのは…」
「知ってる!私が最後まで見届けた!」
胸を引き裂かれるような悲しみが体中に沸き上がって、泉の瞳から涙がこぼれ落ちていく。
覚えているし、決して忘れることはできない。
「あなたが逝ってしまったと知らせが来てから、あっという間だったもの。長妃の力だけじゃ、水界を支えられなかった。でも私のところには炎帝の謀反だなんてそんな知らせは届いていなかった。アル・ファラルさまからも、何も…どこからも、そんなこと、聞いていないもの!」
滅びの気配は濃く、水界を覆いつくしていた。
だがまだあの時、四大は健在であったはずなのだ。強固な絆で結ばれた五芒星は輝いていた。
拓海はさっき、自分の記憶を信じていると言った。その感情も、行動も、全部自分のものだ。
だったら、泉も自分の記憶と感情を信じたい。
何かが違う。何かがおかしいと告げている。その感覚を信じたい。
淳との記憶に相違があるのなら、その違いを確かめるべきなのだ。
彼は言ったのだ。淳が意識を失ったあの時に。
「俺はシルファを、助けると約束したんだ」
あの言葉を。
愛するものを慈しむ、あのまなざしを。
嘘で作り上げられたものだとは泉には到底思うことが出来ない。
「彼が…嘘を言ってるとは思えない」
「泉!!!」
悲鳴のような叱責だった。
「やめてくれ。君は、あいつの言葉を信じるのか?僕よりも…」
「淳くん、違っ…」
「なにが違う!?どうしてあいつの肩を持つ!?」
むき出しの感情をぶつけてくる淳が痛くてつらかった。どう言えば分かってくれるだろう。
どう伝えればいいのだろう。
「おい?どうしたんだよ?」
ノックもなしに慌てた拓海が入ってきた。
言い合っていた声が外にまで聞こえていたのだろう。
ピリピリしていた空気は今にも張り裂けそうで冷ややかに肌を突き刺す。
張り詰めた糸のような緊張感の中、泉はふっと息を吐いた。
淳は俯いたままだ。
拒絶されているのが分かって、泉は鼻をすすり上げた。
「…ごめんなさい。私、帰ります」
淳は動かない。拓海に頭を下げて、そのまま泉は荷物を抱えて部屋を飛び出した。
慌てたのは拓海の方だ。
「え、お、おい。泉ちゃん?」
後ろ手を掴まれて、泉は仕方なく立ち止まった。
「拓海先輩、手を放して。帰るから」
「いや、だから…送るから。待てって」
拓海は部屋の様子をちらりと窺って、すぐまた泉に視線を戻した。
「いいです。電車で帰ります」
「意地張らない。あんた、ここがどこか分かってないでしょうが」
ぐっと詰まって、恨めしそうに泉は拓海を見上げた。
倒れた淳を抱えて、拓海に連れてこられただけだったので、どうやってここまで来たのかも覚えていなかった。
「拓海先輩だって、私の家は知らないでしょう?」
「知ってる」
「え?」
「当然でしょ。長妃の所在の把握なんてあたりまえ」
主君の妃なのだから、当然だ。この分ではすでに護衛がついていてもおかしくはなかった。
のほほんと学生生活を続けていた泉は自分の甘さに恥ずかしくなった。
「泉ちゃんの感覚だとそうかもしれないけどね。長妃さまとなるとね。そこら辺は勘弁して。で、お宅ら、何してんの?」
「う…」
「珍しく言い合いとかしちゃって」
前世では考えられなかった。こんなふうにアイシャが感情を表したことはなかった。ファラ・ルーシャも。
いつも穏やかに。笑っていた。お互いを思い遣って。
言いたいことも飲み込んでいた。
「喧嘩、しちゃった」
変わりたかったのはアイシャ。
ただ泣いてるだけでなく。
彼の隣に立つために。
自分の意思を、気持ちを伝えたいと願っていた。
ただ伝えたいと思っていた。分かってもらいたかった。
言葉にしても伝わらないもどかしさ。言葉にすることの難しさ。
前は口に出せなくてつらかったけれど、初めての喧嘩は予想以上に、痛い。
「喧嘩するのは悪いことじゃない。お互いがぶつかり合いながら、距離を測って、気持ちをすり合わせていくんだから」
「でも、喧嘩するのって…心が、痛いね」
ほろりと涙が浮かんだ。真珠に変わった涙を受け止めながら、泉は微笑む。
「分かってもらいたかっただけなの」
「ちょっといまは無理かもな」
「…拓海先輩も淳くんと同意見だものね」
拓海は難しい顔をして唸る。
じっと何かを探るように考え込む拓海の視線を受け止める。
アイシャは知っていた。
シルファとラファの密やかな恋を。
シルファは決して表に出すことはしなかったし、ラファも四大の一つとしての節度を守っていた。
あのとき、シルファの瞳に見えたものにアイシャが気が付いたのは本当に偶然だ。
愛していると瞳が語っていた。
届かぬ想いを、伝えられることない想いを、抱いたまま微笑む乙女の姿に目を奪われたのだ。
壊してはならない。
あの危うい均衡を壊してはならないと、アイシャは思ったのだった。
だから、アイシャはそのことをファラ・ルーシャにも伝えていない。記憶の底にそっとしまい込んでいた。
「いまは話せないです。ごめんなさい」
拓海は脱力したように大きくため息をついた。
「ま、仕方がないか。俺としては早く仲直りしてほしいんだけど…」
「うん。でも私がいまやろうとしていることを言ったら、また怒られるかも」
「勘弁して。俺の胃に穴が開く」
「ごめんなさい。でも淳くんのあんな辛そうな顔は見たくないから…」
主君である王とその妃の間に挟まれて、ストレスマックスでは胃に穴が開くのも時間の問題だろうと泉は申し訳なく思った。
「淳のために動くって言うなら…」
まっすぐに問いかけるまなざしを受け止めて、泉は頷く。
「泉ちゃんは一人で行動しないで。護衛には俺が付く」
「大丈夫なんですか?王の命令に背くことになるんじゃ…」
「あのね。喧嘩中でも泉ちゃんの立場は長妃なんだよ。長妃に何かあったら困るの。っていうか、淳が泣く」
「な、泣く?」
淳が涙を流して泣く姿は想像できない。ファラ・ルーシャでも、だ。
「泣くっしょ。いまだって、喧嘩して相当落ち込んでるはずだろうから」
「そ、そうかな…」
いつも沈着冷静な彼の姿を見ているから、そんな落ち込む姿なんて想像もできない。
穏やかに笑いながら見守ってくれる姿しか覚えていない。
あの優しい笑顔を思い出すだけで涙が出てくる。
今はただ、そばに寄り添えないのが寂しい。
仕方がないなと言わんばかりに苦笑いをした拓海が、泉の頭を柔らかく叩いて宥める。
「お叱りはあとで受けるとするか。泉ちゃんが淳と喧嘩してでもやろうって言うんだ。付き合うよ」
「ありがとうございます。拓海先輩」
強力な助っ人を得て、泉は安堵した。
「で、まず何をするつもりなんだ?」
こっそりと共犯者の顔になって、拓海は小声で尋ねてくる。
泉は顔を上げて、きっぱりと言い放った。
「もう一度、炎帝に会って、話がしたいの。確かめたいことがあるの」
拓海は自分の記憶を信じると言った。泉も自分の記憶を信じたかった。
相違があるなら確かめたい。
記憶が歪められているのなら、どこが真実と違うのか。
何が真実なのか。
誰がその真実を歪めたのか。何のためにそんなことをしたのか、知りたいと思った。
炎帝が裏切り者だということ。
炎帝が女神を穢したということ。
女神の異変を長妃が知らずにいたことの方がおかしいと泉は思う。
それとも、その報が届く前に破滅は水界を覆いつくしたのだろうか。
炎帝が裏切り、水帝が死に、水界が滅びた。
門を守護し、女神を脅威から護るのは四大の長たちだ。精霊王自らが強固な守りの陣を敷いている。
炎帝がシルファを至高界から攫ったのなら、門を守護していた水神と風神がそれを看過するはずもない。
「拓海先輩。風界…フィーラ・メアも滅びたのですか?」
「俺は、知らない」
固く強張った声で拓海は答える。
「王より先に死んだからな」
駅に向かって拓海と歩きながら、そっと静かな拓海の横顔を覗き込む。そこに残るのは悔恨。静かな怒りにも似た無念なのだろうか。
夏の暑い風が夜になって少し和らいで心地よいはずなのに、泉と拓海の肌にざわりと不快感を残して触れていく。
「ファラ・ルーシャは炎帝と戦ってはいないのですね?」
「ああ、魔龍の軍が押し寄せてきて、混乱はしていたが…あの場には奴はいなかったはずだ」
「裏切りの報は…」
ピタリと拓海が立ち止まる。
「泉ちゃん。報告の出所を疑ってんのなら、俺は将軍を辞するよ。自軍の兵だ」
「ごめんなさい。疑ったわけじゃなくて…」
視界の隅に入り込んだ人物を見つけて、泉はハッと息を飲む。拓海も鋭く振り返り、その人物を認めた。
駅舎の壁にある周辺の地図をじっと眺めているのは、赤茶色の髪の学生服姿の少年だ。
泉たちの視線に気が付いたのか、少年はゆっくりと振り返り、怪訝そうに片眉をあげてこちらを見た。
「日下部くん」
彼が何故ここにいるのだろう。
確かに、会って話したいと思っていたが、いきなりこんな場所で再会するとは思ってもみなかった。
「へぇ、高橋、だったか?さっきと男が違うじゃん?」
日下部は面白そうに笑いながらも、鋭く拓海を見つめている。獲物を捕らえる獣のようなまなざし。
「貴様!」
低く唸りながら拓海が身構える。急激に膨らむ怒気に泉の肌が粟立った。
「ああ、お前…ファルークか。久しいな。主の具合はどうだ?」
日下部の周りに赤く燃え上がる炎が見えるようだった。実際は火などどこにもないのに、彼の周りを渦巻く強大な力の波動が、赤く炎のように見えて、熱をもって襲い掛かってくる。
「なにをぬけぬけと!裏切り者が、こんなところで何をしているか」
「将軍ごときに…俺をどうにかしようと思うのが間違いだな。身の程を知らぬのにも程がある」
彼の挑発だと泉でさえ分かるのに、拓海は日下部の力に呼応するように青白い闘気を纏った。
いきなり戦端を開くバカはしないと言ってたはずなのに。
泉は慌てて拓海の腕を引く。
「拓海先輩、待って!ダメ!」
ぐっと悔しそうに顔をゆがめる拓海を宥めて、泉は拓海の前に出て日下部と対峙する。
日下部から放たれる熱波に思わず目を反らしそうになったが、ぐっと堪えた。
ここで逃げるわけにはいかない。
「日下部くんに聞きたいことがあるの!」
彼は一瞬驚いたように目を見張り、面白そうに笑った。
「奇遇だな。俺もあんたに聞きたいことがあるんだ」
「え?」
日下部は赤い闘気を消して、一歩近付く。
ごうごうと風が耳を打ち、日下部の赤茶色の髪を巻き上げる。
そうして紡がれた彼の言葉。
「シルファは、どこにいる?」
楔のように、その言葉は泉に突き刺さった。
「え?」
泉の横で言葉を失った拓海がいた。
何を言われたのか、泉には分らなかった。
女神の居場所など知っているはずがないのに。
呆然と立ち尽くす泉の体に何かが纏わりつく。
「うあっ」
拓海の悲鳴と同時に鮮血が飛び散る。
どさっと重く何かが落ちる音が真横でしたが、泉にはそれを見ることはできなかった。
体が拘束され、声を出すこともできなかった。
ふわりと体が浮く。
顔を強張らせた日下部が、上空を睨みつける。
「お前、風の…!!」
日下部の足元に鋭くかまいたちが走った。日下部は舌打ちをして避ける。
その姿を泉は上から眺めていた。
血を流して地に倒れ伏す拓海の姿を見つけて動揺した。だが声が出せない。身動きもできない。
誰かが泉の体を抱きとめ、抱えられたのが分かった。
長い髪の毛が風に流れてくるのが見えるだけ。
「ごめんね。少しの間だけ我慢してね」
泉に向けて、顔の見えない彼は言う。不思議と優しささえ感じられる声音に、泉は驚いた。
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飄々とした声でとんでもないことを言っている。
いったい誰なのか。
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身を翻し、泉を抱いて彼はさらに上空へと舞い上がる。
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攫われたというのに、現実離れしたこの状況にも泉は不思議と落ち着いていた。
じっと見上げてその人物を見つめる。
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風の、精霊王だと分かった。
「さて、お嬢さん。いまから僕たちの秘密基地にご招待だよ。一緒に来てくれるね」
にこやかに風の精霊王は誘う。
否やの選択権が拘束されている泉にあるというのだろうか。
沈黙を是と取ったのか、彼はにやりと満足そうに笑う。
「うん、いい子だね。さすがは水の長妃だ」
彼が手を泉の顔の前でひらりと広げたと思ったとき、馨しい香りが泉を包み込んだ。
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