世界樹の女神

しょこら

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第一部 水の精霊王

第七話 運命の輪

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 目覚めたとき、いつもここがどこなのか分からなくなる。
 唐突に覚醒したような、そんな違和感。
 柔らかいベッドにうずもれる様にふかふかのお布団に包まれながら、泉は視線だけ動かして周りを覗き込む。
 天蓋付きのベッドなんて久しぶりに見た。布越しに薄く向こう側が見えるが、人の気配はない。
 花の香だろうか。とてもいい匂いがしている。
 ここはいったいどこのお屋敷なのだろうか。
 ふと、泉はそんなことを考えた。
 なんでこんなところで寝ているのだろう。
 それともまだ夢を見ているのだろうか。
 そう思った瞬間、血まみれの拓海の姿がフラッシュバックした。
「…拓海先輩っ」
 悲鳴は声になる前に消えた。
 吸い込んだ息がのどに詰まる。
 泉は震える手で口を覆い、うずくまる。
「…っ…」
 苦しい。
 うまく声が出せなくて、何度も何度も深呼吸した。
 そのたびにもれるのは声ではなくて苦し気な息だけだ。
「気が付いたのね?大丈夫?」
 若い女の声がしたかと思うと、優しく背中を撫でられた。
「…だ…れ…?」
「怖い思いをしたのね。落ち着いて息をして」
 温かな手がそっと泉の背中に添えられる。
 泉よりも年上の女性が柔らかな口調で短く言葉を紡ぐ。
「大丈夫。落ち着いて」
 その声に、息苦しさも消えていった。
 泉の呼吸が落ち着いたのを見計らって、女性はにこりと微笑む。
「びっくりしたわよね。いきなり知らない場所にいたんだものね」
「あ、あの…」
 慌てて起き上がろうとする泉を手で制して、ゆっくりと体を起こしてくれた。
 半身を起こし、泉は目の前に微笑む女性を改めて見つめる。
 肩を覆うまっすぐな髪は明るめの茶色。色素が薄いのか、瞳の色も薄い茶色だが、顔立ちは日本人だ。薄化粧でも肌が綺麗で、上品な物腰が際立つ。泉よりも年上で、美人に分類される人だと思うが、お茶目な笑顔がびっくりするほどかわいい。
「私は、笠原風音かさはらかざね。風の精霊王フォーレの妻、エルフィよ。今生では初めまして、になるわね。アイシャさま」
 遠い昔の記憶にかすかに残っている風の長妃の姿をぼんやりと思い出す。四大の長妃同士は四大と比べるとそれほど交流が盛んではなかったが、シルファの傍で何度か顔を合わせていた。
 長い乳白色の髪と空色の瞳の背の高い女性。泉の記憶の中に残っていたものがはっきりと姿を取る。
「風の……エルフィさま」
 ああ、と嘆息する。懐かしいと感じる自分がいる。ファルークと再会したときは恐怖に近い感覚すらあったのに。同胞の将軍よりも遠い隣の世界の長妃の方が安心するのは何故だろう。
 彼女が醸し出す柔らかく穏やかな空気感のせいだろうか。
「あ、あの…私は…高橋泉たかはしいずみ…です。エルフィさま」
「風音で、いいわよ。泉さんって呼んでもいいかしら」
「あ、はい。風音さん」
 風音はまっすぐ泉と視線を合わせてふふふと微笑む。柔らかい風が彼女を取り巻いている。それがすごく心地よくて、安心感のようなものがあった。
 それでも見知らぬ場所にいる居心地の悪さは否めない。いったいここはどこなのだろう。ぐるりと辺りを見渡せば、落ち着いた調度品が品よく並んでいる。新しさはないものの、よく使いこまれた優しい木の光沢は持ち主がそれらを大切に扱っているのだとわかる。古いイギリスの、こじんまりとした洋館の可愛らしいさ。泉はこういうインテリアは大好きだ。
「あの…風音さん、聞いても良いですか。ここは…」
「ここは風神の現身の家よ。シオンとはもう会ったわよね」
 彼はシオンというのか。そういえば名前までは聞く余裕もなかった。
「秘密基地に案内すると言われただけで…」
「まあ、名乗ってもいなかったの?まったくもう…」
 風音は腰に手を遣り、ぷくりと頬を膨らませて見せた。可愛らしい怒り方をする人だ。なんだかとても好感が持てて泉は思わずくすっと笑ってしまった。
「それは申し訳なかったわ。風神に代わってお詫びします」
「あ、いえそんな…」
「じゃあ、いきなり連れてこられたのね。怖かったわよね」
 拓海の血まみれの姿を思い出して、ビクリと体が震えた。
「拓…あ、あの…水の将軍が負傷して」
「聞いています。お怪我はすべて浅く、命に別状はありませんでした。手当も済ませて、いまは水神さまとともにいらっしゃいます」
「え、ここに?…淳くんも来ているんですか」
 泉はまじまじと風音を見返す。拓海が無事で良かった。でも淳もここにいるなんて。もしかしたら、淳は拓海が負傷したことを知って駆け付けたのかもしれないと思った。具合が悪かったのに、大丈夫なのだろうか。
 気が付けば淳の心配をしてしまう。
 言い争って飛び出してきたばっかりに、こんなことになっているというのに。
「水神さまはいま風神と会談中ですけど、アイシャさまが目覚められたこと伝えてきましょう」
「待って。あ、あの…ごめんなさい。待ってください」
 どうしよう。会いたい。具合はどうなのか知りたい。顔を見たい。けれど、怖い。
 淳くんは会いたくないのではないだろうか。
 あのときの拒絶した横顔を思い出すだけで胸が痛い。また拒絶されたらと思うと怖くてたまらなくなる。
「…私…その、喧嘩して…まだ」
「喧嘩?」
 きょとんとして風音は言葉を繰り返す。
 恥ずかしさと居たたまれなさに泉は赤面してうつむいた。
 長妃が主と喧嘩しただなんて不忠も甚だしい。きっと風音も呆れるだろう。
「言い争いをしちゃって…その…飛び出してきちゃったんです…だから…」
 消え入りそうな声で懺悔にも近い気持ちで泉はそう告げる。
 ふうと軽く息を吐くのが聞こえ、風音がそっと顔を覗き込んできた。
「喧嘩なら、私もしょっちゅうシオンとするわ。分かったわ、今は会いたくないのね」
 風音の優しい言葉に泉は顔を上げる。風音も喧嘩するのだと聞いて、どこかほっとしている自分がいる。拓海があのとき言ってくれた言葉も泉の心が軽くしてくれる。
 喧嘩するのは悪いことじゃない。
 お互いがぶつかり合いながら、距離を測って、気持ちをすり合わせていくんだから、と。
 それでも、あの時、あの激高した淳の顔を思い出すだけで胸が痛くなる。
「会いたくない…わけじゃないんです」
 首を振り、絞り出すように話す泉を風音は静かに見つめ、聞いてくれる。
 頭の中はぐるぐるとさっきの光景を映し出していく。
 どうしても泉の言葉を信じてくれない目だった。言葉だけじゃなく、全身で拒絶していた。
 うまく言葉にするのが苦手な泉にとっては、どうすることもできない。
 いつも泉の気持ちを察して、じっくりと根気強く待ってくれた。言葉と想いを引き出してくれていた人だったのだといまさらながらに思い知る。
 これじゃあだめだ。ずっと甘えてきてしまった。もっとちゃんと伝えなくちゃいけなかったのに。
 逃げ出してしまった。
 いま会っても、どうしていいのか泉には分からない。
 淳と向き合う勇気が出てこなかった。
「気持ちの整理がまだついていないのね。いいわ、分かった。とりあえず心配はされていたはずだから、気が付かれたことだけ伝えて、会うのはお断りしましょ」
「え、あの…良いんですか?」
 可愛らしく指を立ててウィンクを決めてくる風音は泉の戸惑いにも笑顔で頷く。大人の女性の余裕なのか、今の泉にはすごく羨ましく映った。
「良いんじゃない?欲しいのは時間、でしょ」
「はい、…ありがとうございます」
 泉がまだ、気持ちが全く追いついていけていないのを理解してくれたのだろう。
 風音は泉の体調を確認すると、支度を先に済ませるように勧めてくれた。
「支度って?」
「着替え。シオンがあなたを連れてきた理由。水の長妃に召喚命令が出ています」
「え?」
 血の気が引いた。
 召喚命令。
 その言葉がもつ強制力を泉は理解していた。
 拒否は許されない。絶対命令だ。しかも、長妃単独で召喚されている。
「わ、私を?どなたが?」
 知らず、声が震えた。
「地の神アル・ファラルさまがアイシャさまをお呼びになっております」
 それはまるで死刑宣告のようだと泉は思った。
 血の気が引いて冷たくなっていく指先。意識も遠のいていくような浮遊感。
「泉さん!!!しっかり!!」
 ゆっくりと前に傾いでいく体を、布団に突っ伏す寸前で風音が支えてくれた。自らの手で重い体を支えるが震えは激しく、何の役にもたっていなかった。
「あ、ある、アル・ファ…アル…ラルさまが?わ、わたし…え?、ど、どうして…」
 動揺しすぎて呂律も怪しい。
「落ち着いて。泉さん!」
 慌てふためいた風音の様子を気にする余裕もない。ただただ恐ろしい。
 あの方が、私を?何故?
 そんな疑問だけが頭を巡る。
 崩壊するマナン・ティアールから民たちを脱出させるため、アル・ファラルの地界へと続く道を断わりもなく開いたことを断罪されるのだろうか。水界を滅ぼした責任を問われるのだろうか。
「大丈夫だから!ね!ちょっと落ち着いて、ね!」
 ホントに聞いていた通りだわと風音がつぶやいたが、泉にはなんのことだか分からなかった。
「お話を聞きたいとのことだから、そんなに心配しないで」
「話…話ってなにを?どうして、私を?」
「それは私にもわからないわ。でも、あの方がそんなに怖い?…確かに威厳のあるお方だけど」
「や、優しい方だとは分かってるんですけど…」
「うん、私たち長妃にはとても紳士に接してくださってると思うのだけど…」
 それは分かっている。穏やかな笑みでいつも迎え入れてくれる。四大の長らしく、厳格だけれども、怯えるアイシャにも温かく声をかけてくれる。けれど、どうしても苦手意識は抜けない。至高界のあの美しい世界に立って何の違和感もない方なのだ。それだけで気おくれしてしまう。泉は自分が小心者すぎるのだと分かっていた。
「私が気弱すぎるのがいけないんです、きっと。恐れ多すぎて…」
 風音ははぁぁとどこか羨ましそうに息を吐き出す。
「水神さまが大事に囲い込みたくなるわけだわ」
「え?」
「ううん、いいの。こちらの話。アル・ファラルさまは泉さんのお話を聞きたいだけよ。そんな無体なことをなさる方ではないし。そこまで怖がったら逆に失礼だと思うわ」
「そ、そうですよね…」
 でも吐きそうなくらい緊張するし、怖いのはどうしようもなかった。
 その後は、風音の勢いに押し切られ、泉は身支度を整えるためにたくさんの女の人たちに囲まれ、身を清め、服を正し、軽く薄化粧まで施されてしまった。
 姿見の前に立ち、泉は呆然とする。
 何度も櫛を通され、つやつやに輝く黒髪。淡い水色の無地のワンピースはサイズがぴったりで、最初から泉のためにしつらえたようにしっくりとくる。白いパンプスはかかとも低く、慣れない泉にはありがたい高さだった。
「うん、サイズもちょうどよかったわ。泉さん、アクセサリーはどうする?そのネックレスももちろん素敵だけど」
「あ…」
 お風呂に入る時に外す様に言われたけれど、どうしても外したくなくてそのままつけていたアクアマリンのネックレスを泉はぎゅっと握りしめる。淳からもらったこのネックレスを外すのはどうしてもできなかった。
「これは…そのままでも、いいですか?」
「もちろん!泉さんの清楚さが際立つわ。でも真珠姫にはやっぱりこれかしらね」
 そっと髪に挿したのは真珠のヘアピンだった。
 デザインは光沢の美しい真珠が五つ連なっているシンプルなものだった。だが優しく柔らかな輝きを帯びたその五つの真珠には泉の力が宿っていた。
「ああ、やっぱりお似合いだわ、素敵」
「これは…?」
「水神さまからお預かりしました。こちらを身に着けるようにおっしゃって」
「え…」
 淳が着けるように持ってきたヘアピンは、いままで泉が生み出してきた真珠の粒を加工したもののようだった。いつのまにこんなものを作っていたのだろう。泉が生み出した真珠には泉の力が宿る。長妃の守りの力が小さいけれど、確かに宿っているのだ。
「今回はアイシャさまだけが呼ばれているので、水神さまの同行は許されてないの。エスコートできないならせめてっておっしゃっていたわ」
 お守りにってことだろうか。
 エスコートできないならって、してくれるつもりだったのだろうか。喧嘩したのに。あんなに拒絶していたのに。心配してくれるんだろうか。
 俯き震える泉の肩を風音がそっと支える。
「大丈夫?」
 あの人を助けたいと思った。
 一緒に戦うのだと、誓った。
 だから、泉はこんなところでひとり泣いているわけにはいかなかった。
 泉は大きく息を吸って顔を上げた。
「大丈夫です。風音さん」
 淳と記憶の相違があるのなら突き詰めていくべきなのだ。それしかできない。
 火の精霊王である日下部と話をしたいと思っていた。けれど風神によってそれは阻止された。
 風神も彼を敵視していた。冤罪であると日下部が訴えていたのを信じているのは何故か自分だけだ。
 それは何故なのだろう。
 何故、自分だけがそう思うのだろう。
 これほどまでに強く違和感を感じているのは何故なのだろう。
 刹那、いきなり爆発したように脳裏で光が膨らんではじけた。
「…きゃ…っ…」
 泉の短い悲鳴をも飲み込んで、光が膨れ上がる。
 白く、眩しいほどの光。
 きらきらと瞬きを繰り返しながら何かが降り注いでくる。
 柔らかな感触が泉の手に触れる。
 それは羽根だった。
 穢れのない純白の、小さな羽根がいくつも降り注いでくる。
「…シル…ファ…さ、ま?」
 大いなる慈愛に満ちた光が降り注ぐ。
 声なのか音なのか分からない。何かが直接訴えかけてくるようなそんな錯覚に陥った。
 この感覚を泉は覚えていた。
 あの時、大川が氾濫したとき、祈った。
 女神に願った。
 そのときと同じ光がそこにあった。


 シ・ン・ジ・テ


 言葉が力となって降り注いでくる。
 美しい女神が微笑んでいた。
 それ以上の言葉はなかった。
 女神はただ微笑み、そして、消えていく。
 泉ははっと我に返り、手を伸ばした。

「待って!待ってください!信じてってどういうことですか?」
 泉の問いかけに応えることもなく、女神は微笑みだけを残す。
「…何を信じていいのですか?」
 力なく消えていく泉の言葉はむなしく辺りに響く。
 髪に挿したヘアピンが輝きを灯して瞬いていた。
 慌てて泉はヘアピンを外し掌に乗せる。まだ光の波動が残っているような気がして、泉はすがるように訴えた。
「シルファさま、答えてください。なぜ、私たちは生まれ変わってきたのですか?シルファさまがいらっしゃらないと…私、私たち…」
 どうしていいか分からない。なんのために生まれ変わってきたのか。
 記憶を抱いてただ生きていくのはつらすぎる。
 至高界にシルファがいない。滅びてしまった精霊界。崩れ落ちる五芒星。
 それなのに、人の世界に、人として生まれてきた私たち。
 何を成せばいいのか。
 誰も教えてはくれない。
 涙がこぼれて落ちて、ヘアピンを濡らす。
 すると瞬く光が意思を持ったように揺らめいた。


 サダメノ…ワ

 モウイチド


 
 そんな言葉が聞こえた気がした。
 応えてくれた。半信半疑で泉は耳をそばだてる。
 だが声は遠く、
 はっきりとした言葉で頭の中で繰り返すのは、

 『信じて』
 
 この一言だった。


 まばゆい光の中に、凍り付くような暗闇が音もなく降りてくる。
 ほんの一瞬。

 それは長妃の力だったのか。
 光とは真逆の、その存在を泉が察知したのは、無意識に近かった。
 泉が瞬きをする間に、それは泉を包み込もうとしていた。
 全てを凝らせる闇が泉の呼吸を奪う。
 音も、光も遮断され、泉はただ立ち尽くす。
 何が起こったのか理解しようとする思考すら凝っていく。
 冷たい闇が泉を抱き込んでいく。
 深淵の死へと誘う。
 ただ静かに。
 恐怖すら飲み込んでいく静寂。


 泉という輝きが消えていくかと思われたとき。


 光が鋭く、閃いた気がした。
 体の内側で熱く燃える光の塊があった。
 侵食していく冷たい闇をはねのける様に、光は大きく揺らぎながら広がっていく。
 

 光が闇を払い、眩しく輝きながら泉を包み込む。
「あたたかい…」
 陶然と泉はつぶやく。
 泉を護る光が優しく気高く広がっていく。
 その中に、泉は女神の姿を見た。
 護られている。
 そう感じた。
 


 泉はその場にふらふらとうずくまる。
 まばゆい光は消え去り、いまは薄闇が視界を覆っていた。
 誰かの腕が泉をそっと支えあげた。温かいぬくもりがその腕から伝わってくる。
 何かを叫んでいる。
 その声を遠くに聞きながら、泉は手の中のヘアピンをぎゅっと握った。
 その瞬間、視界と音と感触がはっきりと戻った。
「泉!!」
 血の気が引いて真っ青な顔色で、顔を強張らせた淳がそこにいた。
「…淳、くん?」
 詰めていた息を吐き出して、淳が安堵の顔を見せた。ああ、いつもの彼だ。
「私…いま…」
「良かった、泉」
 ぎゅっと強く抱きしめられた。
 そのぬくもりに泉はホッとする。あんなに会うのが怖くて悩んでいたのに。
 いまはその腕に抱かれ、ぬくもりを感じていることが嬉しい。
「ごめんなさい、淳くん。私…」
「謝らないでくれ。僕が悪いんだ。泉」
 今にも泣きそうに顔を歪ませ、泉の言葉を遮った。
「ちゃんと君の言葉を聞くべきだった。怖かったんだ…この記憶が間違っているのかもしれないと考えることが怖かった…」
 かすれて消えそうな淳の言葉を泉はただ静かに聞いている。
 怖かったという淳の言葉に共感する。
 記憶だけが頼りだったあのころ。
 二人が会えたのはこの記憶があったからだ。
 アイシャとして生きた記憶。
 彼とともに過ごした世界。そして生まれた感情。
 それらすべてが泉に影響を与えている。
 会いたいと願った。
 愛しい人との別れの記憶すら、大切なもののように感じていた。 
「記憶を疑ってしまったら、何を信じていいのか分からなくなる。それがとてつもなく怖くて、泉が僕と違う記憶を持っていると考えるのも怖かった。だから否定してしまった」
 すまない。と苦しそうに言葉を絞り出す淳を見つめながら、泉はそんな淳も愛しいと思った。
 思うように戻らない力に苛立ち。
 精霊王としての矜持だけが残る。
 シルファの示すものだけが拠り所で、それらすべては自らに残る記憶から派生しているから。
 生きる理由でもあったのだ。その記憶があったからこそ、転生しても生きてこられた。
 もしかしたら、本当に記憶が操作されているのかもしれない。
 けれど、確信があった。
 誰よりも愛しい。
 この想いまでは誰も歪ませることなどできない。
「淳くん。私、淳くんが大好きよ」
 泉の言葉に淳は目を見開く。
「この気持ちまでは誰にも変えられない。あなたが好き。あなたと一緒にいたい。あなたの、力になりたい」
 最初はアイシャの記憶だった。
 けれど、これは泉の気持ちだ。再会してから育んだ大事な想いだ。
 くしゃりと淳の顔が歪む。
「…ありがとう、泉」
 ぎゅっと強く抱きしめられ、耳元にささやくように告げられた愛の言葉に、我に返った泉は赤面する羽目になったのだった。



 青い顔をして震えている風音を抱き寄せて宥めるシオンの表情も強張っていた。
「今の気配…」
 風音はその名を紡ぐことも恐ろしいのか震えて言葉にならないようだ。
「ああ、あれは魔龍だった」
 その名を口にするだけでも部屋の空気が冷たく重苦しくなっていく。
「ファラ・ルーシャに手を下したのがラファではなく、魔龍だと。その仮定が正しかったとしたら…」
 いままでも、魔龍は淳の力そのものである水にことごとく関与してきている。
「…僕こそが魔龍に穢されているんだろう」
 穢されたままの水はいつしか王である淳をも蝕んでいくのだ。
「ならば、お前は我らの敵となるかもしれない」
 硬い表情のまま、射すくめられるような鋭い視線をシオンに向けられ、泉はびくりと首をすくめる。淳は体の向きを変え、シオンからの視線を護るように庇う。
「僕は魔龍のようにシルファを裏切りはしない!」
 天に輝く五芒星。もとは六芒星だった。
 光を司る神龍。闇を司る闇龍。そして地、水、風、火を司る四大の精霊王たち。
 遥か彼方の昔、六芒星の一つ闇龍が反旗を翻し、星は五芒となってしまった。
 闇龍の名は封じられ、魔龍と呼ばれるようになった。
 何故、闇龍が反旗を翻してしまったかは、伝わってきていない。
 はるか遠い昔の出来事だ。
「可能性だけでお前を粛清することはできない。ふん、あいつも、同じかもしれないということか」
 シオンは笑いながらも面白くなさそうに肩をすくめてみせた。
 風と水の精霊王たちのやり取りに泉は固唾をのんで聞き入る。ファラ・ルーシャにもアイシャにも謀反の意思などない。シルファを心から信奉していたし、今も心のよりどころとして存在している。
 炎帝もきっとそうだと泉は思う。
 シルファを大事に思っていた彼ならば、謀反を起こすなど到底考えられない。
「水の長妃だけが、違う見解を持つ。これは一体どういうことなのか。アル・ファラルが知りたいのはそこだ。俺も同じ意見だ」
 まっすぐに風の精霊王は泉を見つめる。まるで泉を見定めるかのように、深く探るような視線だった。
 グッと泉を抱きしめる淳の腕に力がこもった。
「正解を示してくれるシルファも神龍もいない。俺たちが認識している事実が違うという根拠は何だ?シルファは何故、君だけにコンタクトを取ってくる?」
 それは泉も知りたいことだ。
 何故違うのかなど分からない。
 それに、シルファもいつも応えてくれるわけではない。
「さっきも彼女の気配がした。魔龍の力を跳ね返したのは…やはり」
 泉の体の内側から生まれた温かい光の力のことをシオンは言っているのだと分かった。
 淳が庇ってくれているおかげで、シオンの強い視線もなんとか受け止めることが出来ているが、言葉を発することが出来なくて、泉は震えた。
 どう答えればいいのだろうか。
 泉も何も分からないのだ。
「シルファか」
 彼の声から敵意は感じられなかった。泉はそっと身じろぎする。彼は困ったように笑っていた。
「これはやはり、我らが女神のイタズラかな」
「フォーレ、不敬だぞ。悪いが、僕たちも何も分からないんだ」
「アル・ファラルも頭を悩ませていた。我らを翻弄するのが本当にお好きな方だ。何を意図されているのかまるで読めないが、女神が回した運命の輪ならば我らは従うしかないからな」
 ピクリと泉は肩を揺らす。
 運命の輪。
 シルファが伝えてきたワードのかけらにその言葉があった。
運命の輪さだめのわ、もう一度。シルファさまがそうおっしゃったの。淳くんにも聞こえてたの?」
 あれは間違いなくシルファの声だった。
「信じてって」
 淳は黙ったまま頷く。
「フォーレ、頼みがある」
 硬い表情で淳は泉を抱きしめたまま信じられないような言葉を口にした。
「僕を拘束してくれ」
「淳くん!?」
 いきなり何を言い出すのかと思った。淳にしがみついたまま、泉は愕然と淳の青い顔を見上げる。
「泉はシルファに護られている。だから問題ないだろう。けど、僕はダメだ。魔龍の影響がどんなふうに出るのか分からない。万に一つでも…危険があるのなら、僕を封じてくれ」
「淳くん、待って!拘束って、封じてって…そんなっ」
 淳は己こそが魔龍に穢されているのかもしれないと言った。そんなはずはないと思う。淳から感じるのはどこまでも澄み切った水の力だ。けれど確かに不穏な気配は近くにあるのを感じる。それがどこから来ているのかは泉には分からない。
 淳が不安に思うのも理解はできるが、自らを封じ込めるだなんて考えて欲しくなかった。
「そんなの嫌!」
 離れたくない。もう二度と離れたくない。
「でも泉…」
「嫌!!」
 子どものように泣きじゃくっている自覚はあった。この場にはシオンもエルフィもいる。淳が困っていることも分かっている。けれど、恥ずかしいと思うより、淳と離れるなんて考えることすら嫌だった。
「シルファの意図は…正確には分からない」
 静かに淳は語りだす。
「だが、もう一度と示すなら、彼女の狙いは五芒星の再生かもしれない。我々を人間界に転生させて新たな精霊界を作り出そうとしているんじゃないだろうか。だとしたら、魔龍の影響を受ける僕は…僕の存在は害になる」
「落ち着け、ファラ・ルーシャ。とにかくアル・ファラルに話をしてみよう」
 助け舟を出すシオンの提案を聞きながら、泉はさらにぎゅっと強く淳にしがみつく。
 違う。害なんかじゃない。
 そう伝えたいのに、泉は泣くことしかできなかった。
 淳がそっと息を吐く。
「…わかった」
 あきらめたのか、力なく了承する淳の言葉を聞いても、泉は安心することができなかった。
 結局自分は、泣きながら見送ることしかできないのだろうか。
 どうしたらいいのか、泉には分からなかった。




「シオン…」
 低く声を潜めて、風音はこの家の主の名を呼ぶ。
 緊張を含んだ声音に眉をひそめながらもシオンは平静を保ちつつ、風音の言葉に耳を傾ける。
「さきほどから水の将軍さまのお姿が見えません」
「…探せ」
 軽く目を見張ったシオンだったが、すぐさま命令を下す。
 かすかに風が動いて、風神の使いが追跡に向かったことを確認した。
 視線を風音に戻し、シオンは柔らかな微笑を浮かべる。
「風音も疲れただろう。少し休もう。今日はもう彼らも動かせない」
 腰に手を回し、引き寄せながら、甘く、額に口づける。
「部屋で待っていて。すぐ行く」
「はい」
 風音は静かに目を伏せ、するりと部屋を出て行った。
 その後姿を見送って、シオンは再び思考の淵に沈みこむ。
 確かに、魔龍の襲撃以降、将軍の気配がなくなっていた。
 追跡しているのだろうか。
 水の精霊にしては血気盛んな将軍だとシオンはファルークを認識していた。
 だが、いくら将軍とはいえ、魔龍相手にたった一人では荷が重いだろうに、とシオンは思う。
 返討ちにあって主君を悲しませる不届き者になりたいのか。
 優しくて強情な水の精霊王の心情を思い遣って、シオンは独り言ちる。
「愚か者が…」



「ぐっ…うぅ…」
 血にまみれ感覚も失った左腕で拓海は己の右肩を強く抑えた。
 額からの出血が目に入り、視界も赤く染まって良く見えない。
 ふらつく体のバランスを取ろうと、大きく体は右に左にと傾ぐ。
 何が起こったのか、拓海には理解できなかった。
 突然だった。
 光が。
 自らが帰属するはずの光が、体を焼いた。
 光は命だ。己の生命に力を与える。
 女神の定める力の流れに乗る者には福音ともいえる。
 ファルークも水の精霊として、女神に帰属する存在だ。
 光に焼かれるなどありえないはずだった。
 それなのに、何故。
 ファルークは戦場で同じような光景を何度も見てきた。
 魔龍軍の兵たち。
 シルファに反旗を翻し、魔へと堕ちた者たちが光に焼かれて消えていく姿を見てきた。
 今の自分の姿は、あのときの裏切り者と呼ばれる者たちと同じだった。
「どうして…俺が?」
 刺すような痛みが全身を巡っていく。
 ふいにせりあがってくる吐き気。
 口からどす黒い液体が吐き出された。
 苦しい。息ができない。
 ぐるりと視界が回る。
「…淳…い…ずみ…ちゃ…」
 脳裏に浮かぶのは一つ年下の従弟である淳と泣き虫なその彼女、泉の姿。
 遠ざかっていく光にすがるように手を伸ばす。
 それは空を掴み、力なく落ちていく。
 静寂が世界を包み込んでいった。



 倒れ伏す拓海のすぐ近くに歩み寄る人影が一つ。
 迷いもなく拓海の前に立ち止まり、しばらく思案しているように動かなかった。
「コウ。そいつまだ生きてる」
 舌足らずの甘えたような少女の声がどこからともなく聞こえてくる。
「連れて帰るのか?」
 また別の方向から今度は少年の声。若いが理知的な響きを宿す声が、立ったまま黙っている人物へと問いかけている。
「ああ」
 コウと呼ばれた人物は短く首肯する。
 途端に最初に声を上げた少女が抗議の声を上げた。
「なんで?魔龍の手先じゃん、こいつ。とどめさすんじゃないの?」
「リン、黙れ。コウの命令だぞ」
「だってー。魔龍だよ?手先だよ?さっきのやつと同じ悪い奴じゃん」
「あー、もう、いいから!」
 姿を見せず言い争う二つの影に表情を変えることなく、コウは拓海をじっと見つめている。
 深手を負った拓海の後をついて回っていた黒い影。
 リンが言うのはその影だ。影はリンによってあっけなく消され、何者か確認することが出来なかったのは痛かった。だが仕方がない。
 倒れ伏す拓海の口元には黒く変色した液体が付いていた。
 喀血したわけではないことをコウは分かっていた。
 あれは血ではない。
 コウの掌に火が点る。ふわりと撫でるように空を一閃する。
 炎が命を得たように黒い液体に飛び移り、勢いを得て燃え上がった。
 赤く激しく燃え上がる炎は拓海の周りに飛び散った液体だけを焼く。
 意識を失ったまま、炎に包まれる拓海を静かに見つめるのは、日下部晄くさかべこうだった。
 しばらくして、目的のものを焼き尽くした炎が何事もなかったように消え去る。
「行くぞ」
 短く言い放ち、コウは踵を返す。
 影が音もなく揺らぎ、拓海を抱えて消えていった。

 

 




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