幸せの行方

しょこら

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約束の日

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 風に揺れる白い花をエアルはずっと見つめていた。
 朝まだ早い時間で、屋敷中が寝静まっている。早起きの庭師ですらまだ眠っている時間だ。空は暗く、日の出まではもう少し時間があるだろう。
「寒い……」
 エアルは小さな手を擦り合わせて、冷え切った指先を温める。吐く息も白い。ときおり吹く風がエアルから体温を奪っていく。夜明け前がこんなに寒いとは知らなかった。いつもなら温かいベッドの中で眠っている時間だ。
 空を見上げれば、澄んだ夜空には星が瞬いている。空気が冷たく澄んでいるから、星も余計に冴え冴えと輝いているように見えた。
「ウィルバート、まだかしら……」
 同じ背丈の白いマーガレットの花々が風に吹かれて、エアルの独り言に答えるように揺れた。群生するマーガレットに隠れて、エアルは幼馴染の少年を待つ。
 約束の時間はとっくに過ぎていた。それでもエアルはこの場所から動けない。
 もうすぐ来るかもしれない。
 もう少し待てば来るかもしれない。
 もしかして、寝てしまったとか。
 十分ありえる事だったので、今頃はあわててこちらに向かっているかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、約束の時刻からかなりの時間が過ぎ去って、もうそろそろ日の出が近づいてきてしまっていた。
 どうしてこないのだろう。
 エアルは手を温めながら、マーガレットの揺れるさまを黙って見つめている。
 約束したのに。
 ここで待っているって言ったのに。
 もうすぐみんなが起き出して、エアルがベッドにいないことがばれてしまう。その前に、エアルとウィルバートは扉を渡るつもりだった。春の国でも夏の国でもないところへ。親の仲たがいが原因で、別れ別れになってしまうのがいやで、約束をした。
『ねぇ、ケッコンしようか』
『そうすれば、ずっと一緒にいられるもん』
 日が昇れば、扉は閉ざされてしまう。
 夏の国との国交を断つのだと、そう母は言っていた。
 いつも穏やかで明るい笑みを絶やさない春の女王の言葉とは思えないほど、激昂していた。そんな母が恐ろしくて、震え上がったのを覚えている。
 どうしてウィルバートと離れ離れにならなくちゃいけないのだろう。

 ソレハ ジョオウサマガ オキメニナッタコトダカラ……。

 周りの大人たちは口々にそう言って、納得していく。
 春の国では春の女王が絶対で、同様に夏の国では夏の女王が絶対の存在なのだ。
 その言葉に逆らうことは許されない。
 どうしてウィルバートに会ってはいけないの?
 ウィルバートが夏の女王の子だから?
 そんな理由にどうして納得できるだろう。
 ただ会いたいだけなのに。
 どうしてウィルバートはまだ来ないのだろう。
 約束したのに。ずっと一緒にいようって約束したのに。
 凍えるエアルの小さな体をさらに苛むように冷たい風が吹く。
「ウィル……来ないの?」
 夜明け前の静寂の中で、消え入りそうなかすかな声。
 寂しく頭をもたげて揺れるマーガレットたちが、まるで泣いているように見えた。
 ゆっくりと空が白く明るくなっていく。
 冷え切った体は思考さえも鈍らせる。何も考えることができず、ぼんやりと空を見上げながら、エアルはその場に立ち尽くしていた。
 まぶしい日の光がエアルを照らす。その瞬間、エアルを取り巻く空気が温まった。
 日の出だ。
 希望の光であるはずの日の光がエアルに時間切れを通告する。
「もう……会えないの?」
 空色の瞳から流れ出す涙が、さらに視界をぼやけさせる。
 どんなに目を凝らしてみても、光に包まれた扉の向こうにウィルバートの姿はなかった。



「エアル」
 光の向こう側から、若い男の声がエアルの名を呼ぶ。
 ウィルバートではない、聞いたことのない声。
 ゆっくりと近づいてくる足音。人の気配。
 ぼんやりと光の中に輪郭が浮かび上がってくる。
「かわいそうに……こんなに体が冷えて」
 優しい声とともにふわりと誰かがエアルの体を抱き上げた。
 美しく澄んだ青の瞳がエアルを見つめていた。柔らかな金の髪が風に揺れている。エアルよりもいくつか年上の少年。まだ大人でもないが子供でもない、見たこともない人だったが不思議と怖くはなかった。じっと見つめるエアルに穏やかな声で笑ってみせる。
「はじめまして、かな。僕はオルティス、花園の王だ」
 エアルは目を見開いて、オルティスと名乗った少年を見つめた。端正な顔立ちはどこまでも優しげで、激しいところなどなにもないように見える。ウィルバートのように男の子らしく粗野な言動は決してしないだろう、上品な物腰と立ち居振る舞い。
「……花園の……王さま?」
 ウィルバートと一緒に行こうとしていた花園の王がここにいる。せっかく迎えに来てくれたのに、ウィルバートがいないのでは仕方がないのに。どうして彼は来ないのだろう。
 一度とまった涙が再び流れ出す。
「王さま……ウィルが来ないの」
 顔を埋めて泣きじゃくるエアルの頭を何もいわずに優しく撫でる手は、エアルの凍えた体と心を暖め、癒してくれるようだった。



「夏の国の扉が開いたようだよ」
 エアルはその声に我に返った。
 どこまでも穏やかな口調で、たあいもないことを喋るように言ったので、エアルはすぐにはその内容を把握できなかった。
 柔らかな陽光を背にして立つ美しい婚約者をぼんやりと眺め、彼が次の言葉を紡ぐのを待つ。オルティスはいつものように穏やかな微笑を浮かべているだけで、それ以上しゃべる気はないらしい。
 エアルは手にしていた白いレースの扇を開いて、小首をかしげて見せた。
「では、ようやく夏の女王様は外に出たくなったということでしょうか」
 エアルの言葉に彼は声を立てて笑った。無論、そんなことであるはずがないことは、言った当人であるエアルもよく知っている。
 長い間、四季の国をつなぐ扉を閉ざし続けてきた夏の国。最初は春の女王と夏の女王が仲たがいをしたことが発端だった。それまで仲のよかったはずの国が、一転して国交の断絶までしてしまった。
 春の国は扉をしっかり守り続けてきたが、夏の国は女王自ら扉を破壊したと聞いている。扉は四季の国を繋いでいるだけではない。花園とも繋いでいる重要なものだ。それを一時の感情で壊してしまうとはエアルにとってはとても考えられない行為だ。そして目の前にいる人物がいくら温厚であるといっても、それを許すはずがないということを知っている。
 夏の国の扉が復活したという報がエアルの耳に入ったのはつい昨日ことだ。
 だから昔のことを思い出してしまったのだろう。幼いころの、あの日の事を。
「もう五年も経つのですね……」
 ここで今、彼がエアルにこの話を切り出したということは、彼もウィルバートのことを考えているということなのだろう。
「会いたいかい?」
「え?」
「会ってみるかい?」
 重ねて問いかけられて、戸惑った。
 自分は会いたいのだろうか。
 ウィルバートのことを思い出すとき、湧きあがってくるのは恋慕の感情ではない。辛くて苦しくて悲しかった記憶が塞がらない傷となって痛むだけだ。その傷をゆっくりと癒してくれたのは目の前にいる青年だ。
 いまさらウィルバートと会ってどうすれば良いというのだろう。
「陛下、わたしは……」
「名前で呼んでくれないか、婚約者どの」
「……オルティス」
 ふわりと花のように微笑む麗人はとても満足したように頷いた。
「わたしの心をお疑いなのですか? でしたら、陛下にいただいたこの指輪にかけて誓って差し上げます」
 エアルは左手にある金の指輪をかざした。
「そんなものに誓わなくてもよろしい」
 どこまでも穏やかに、面白そうに笑いながらオルティスは首を振る。
「あら、これは陛下のお心の証ではなかったのですか?」
「……なるほど。確かにそう言ったが、君の心は君自身に誓ってくれれば問題ない」
「でしたらなおのこと、問題などありません。ウィルバートに会う必要もないかと思います」
 むきになって言い返してしまうのは何故だろう。名を紡いだ時の胸の痛みはいったい何を示しているのだろう。
「エアル、僕は会ってほしいと思っている」
「何故ですか?」
「本人たっての願いだ」
 穏やかな物言いだったけれど、いつもの優しい微笑は浮かべてはいなかった。
「ウィルバートにはもう時間がない」
 一瞬、何を言われているのか分からなかった。
 音も、時間も、感情も、すべてが凍りついたようだった。



 王宮の南の塔に入るのは初めてだった。花園の王が住まう王宮は広すぎて、行ったことのない場所の方が多かった。婚約が決まって以降、事あるごとに案内をしてもらっているが、すべての施設を回りきるまでいったいどれほどの時間がかかるだろうかと心配になってしまうほどだ。
 南の塔は主に夏の一族が出入りを許されている。同様に北の塔には冬の一族、東の塔には春の一族、西の塔は秋の一族というように方角ごとに決められているのだ。
 内部は見たところ、東の塔の造りと似ているように思えた。
 オルティスに手をとられながら、エアルはゆっくりと螺旋階段を下りていった。
 熱気がすごい。
 熱風に喉を痛めそうで、エアルは軽く咳をした。じんわりと汗ばんでくる。
 何か重苦しい空気に緊張したのか、繋いでいたオルティスの手をいつの間にか強く握っていたらしい。振り返ったオルティスが気遣わしげな表情で立ち止まった。
「もう少し、下らねばならない」
「ここの熱気はいつもこうなのですか?」
 頷きながら、エアルは尋ねた。
 東の塔は光がいたるところに差し込んで、明るく暖かかったものだ。これほどまでに威圧的な空気が満ちているのは何故だろうかと思った。
「エアル、五年前のあの日、ウィルバートが何故、約束の場所に来ることができなかったか、君は知らないだろう」
 エアルはオルティスをじっとみつめた。
 扉の向こう側から迎えに来てくれたのはウィルバートではなく、目の前に立つこのオルティスだった。
 どうして、あの日、あの時に、彼が来たのかエアルは知らない。
 オルティスはエアルが家人に見つからないように隠れていた場所に、まっすぐに歩み寄ってきた。
 以来、変わることなく、 すべてを見通すかのように深く澄んだ瞳はいつでも迷うことなくエアルに注がれている。
「あなたはご存知なのですね」
「知っている。それ故に、夏の女王が扉を破壊することも許した」
 エアルは目を見開いた。扉を破壊するということは国の孤立を意味する。絶対の存在である花園との繋がりをも断ち切らなくてはいけなかった理由がどこにあったというのだろうか。
 ただエアルとウィルバートは離れたくなかっただけだ。
 大好きだった友達と。
 ままごとのような結婚の約束までするほどに。
「夏の国には聖なる獣が封印されている。君もその伝説は耳にしていると思う」
「火の龍、ですか?」
 全身が赤く燃え上がる鱗で覆われた巨大な生物であると、エアルは昔、書物で読んだことがあった。何代か前の花園の王が夏の国に封じたとそこには記されていた。
 自在に天を翔け、灼熱の炎を吐く聖なる獣。はるか古代では花園の王の守護龍であったらしいが、今はただ猛々しく恐ろしい存在になってしまっている。
 その火の龍がウィルバートといったい何の関係があるというのだろう。
 不吉な予感が脳裏を ぎる。ゆっくりと階段を下りる足が震えているのが自分でも分かった。
 ウィルバートにはもう時間がないとオルティスは言った。
 それがいったい何を意味するのか、恐ろしくて考えられない。
 大きな扉の前でオルティスは立ち止まった。
 赤い光が扉の向こう側で点滅している。地の底から響き渡るような鳴動は規則正しく繰り返し、まるで生き物の鼓動のようだった。
 まさかここにその火の龍がいるというのだろうか。無意識にエアルはオルティスの腕にしがみ付いた。
「ここにウィルバートがいる」
 信じられない言葉を聞いた気がした。
 恐ろしいほどの威圧感を扉の向こう側から感じる。
「五年前、ウィルバートは火の龍の封印を解いた。解けるはずのない封印を解いてしまったのだ」
 オルティスは扉に手をかける。
「火の龍はもともと実体を持たない精神体だが、より強い力を揮うには依代が必要なのだ」
「依代?それが……それがウィルバートだと?」
「火の龍は依代の精神を喰らい、器を己のものにする。力が力だけに、ときには器ごと破壊してしまう場合もある」
 悲鳴が喉に絡まって声にならぬまま消えていった。身体がガクガクと震え、力が抜けた。
 とっさに伸ばされたオルティスの腕になんとかしがみ付いた。
「ウィル……」
「ウィルバートはまだ生きている」
「本……当に?」
「だが、危険な状態なのだ。幸か不幸か、ウィルバートは精神を喰われず、五年もの間、身の内で火の龍と闘ってきた。火の龍は彼の精神を喰らうことができず、彼もまた火の龍を抑えることもできず、お互い決定打がない。だが、ウィルバートの身体がもう保たない。このままでは火の龍に精神を喰われるだけでなく、弱った身体では火の龍を支えることもできず、器は壊れ、世界に火の龍を解放してしまうことになってしまうのだ」
「もう一度、封印することはできないのですか?」
「ウィルバートごと?」
 淡々と問いかけられ、絶句した。
「封印を解くということは、ウィルバートが知らずであったとしても火の龍を召喚したということなのだ。そこには対価が求められる。対等の契約を交わせば、ウィルバートと火の龍との魂が結ばれる。これは誰にも違えることはできない。僕でもだ。このままウィルバートが負けてしまえば、僕は全力で持って火の龍を封印しなければならないだろう。だが、僕は……僕も、ウィルバートも、君に賭けたいと思っている」
「わたし? わたしには何もできません」
 何の力もない自分に何ができるというのだろう。伝説に名を残すほどの聖なる獣相手に、何をしろというのだ。
「できる、はずだよ。君に、ウィルバートを救ってほしい」
 オルティスは静かにそう言うと、扉を開けた。



 炎が爆発したように噴き出した。熱風が身体をあおる。オルティスが支えてくれなければまっすぐに立つこともできなかった。
 炎と風が治まった後、恐る恐る部屋へと踏み入った。
 暗くて何もない部屋。その中央に、誰かが横たわっている。
 赤と金が混ざり合った髪がうねるように床に広がっていた。少年の細い四肢が力なく投げ出され、ときおり痙攣をおこしているかのように跳ね上がる。
「ウィルバート、どうした? へばったのか?」
 揶揄するオルティスにエアルはぎょっとした。ぴくりと少年が反応する。
「うるせーよ。誰がへばるかよ」
 声自体、力はないが、言っている内容は負けず嫌いそのままのウィルバートだった。
「ではさっさと火の龍を抑えることだ」
「そんな簡単に言うなよ」
 ひとしきり悪態をつくが、身体を起こそうとはしない。起き上がるだけの力がもうないのだろうか。
「ウィル……」
 たまらなくなって駆け寄った。オルティスは制止しなかった。横たわるウィルバートのそばにエアルは跪いた。
 ウィルバートは身体を強張らせ、目を見開いて、エアルを見上げた。
「エアル?」
 信じられないものを見たようにウィルバートが言った。
 声が違う、顔つきも幼かった子供のころとは違う。印象はまったく変わってしまっているのに、ウィルバートだと分かる。
 明るいまっすぐな瞳がエアルを映している。
「へぇ、すげー綺麗になったじゃん」
「ウィル……ウィルバート、あなたどうしてこんな」
 涙を抑えられなくて、嗚咽がこぼれた。泣いたところでどうしようもないのに。
 ウィルバートは力なく笑う。
「ちょっと手違いがあってね」
「手違いってなによ。どうして火の龍の封印なんて解いたのよ?」
 思わず なじる口調になってしまった。遠目で見ていたときには気がつかなかった。体中あちこちに火傷の跡がある。傷が痛むのか、ウィルバートは顔をしかめてうずくまる。
「母上に、監禁されたんだ。お前に会うなって言われて、頭にきて、でも閉じ込められて……」
 ウィルバートは切れ切れに言葉を繋いでいく。
「力が、欲しかった。母上の結界を破るだけの力が……誰よりも、強い、力が……」
 そうすればエアルも守れると思った、とウィルバートはつぶやく。
「馬鹿」
「馬鹿っていうなよ。そんなことは分かってるよ」
「言うわよ、何度だって。そのために五年も会えなくなってしまったじゃないの」
 ウィルバートは身体を揺らして笑った。
「それ、信じられねー。本当に五年も経っているの?あいつもそんなこと言ってたけどさ」
 ちらりと視線だけでウィルバートはオルティスを指し示す。
「あいつ、だなんて。陛下になんてことを言うのよ」
「しらねーよ。エアルと結婚するとかなんとか言ったから、ショックで火の龍に意識持っていかれるところだった」
「嫌なら火の龍を制御することだな。話をするのはその後だ」
「……やな奴」
 後方で見守っていたオルティスがからかうように口を出す。ウィルバートはうつむいているから分からないのだろうが、口調こそ楽しげではあるが、彼を気遣っているのが分かる。ときどき意識が遠のくのだろうか。ウィルバートの目の焦点が合わなくなっている。
「ウィル?」
「……くそ……エアルっ」
 苦しげに顔をゆがめると、すがるように手を伸ばしてきた。エアルの袖をつかみ、強く握り締める手が震えていた。
 なんとか助ける方法はないのだろうか。
「オルティス」
 エアルは振り返って救いを求めるが、オルティスはじっと黙したまま腕を組み、目を閉じている。彼は待っているのだ。ウィルバートが火の龍を制御する瞬間を信じて待っている。そしてもし、制御できなければ、ウィルバートごと封印する覚悟でいる。
 わたしに何ができるというのだろう。
 エアルの袖を掴む手が火のように熱い。苦しげに呻くウィルバートを抱えて、力いっぱい抱きしめた。
「ウィル、ウィルバート、負けないで。お願い。負けないで」
 祈ることしかできない。
 なんの力にもなってあげることができない。
「ごめんなさい、私、今度はちゃんと待っているから。あなたが帰ってくるのを待っているから」
 ウィルバートの体の震えはさらに激しさを増していく。体を丸めて、呻く声は獣そのものだ。
「だから、負けないで。帰ってきて、ウィルバート!」
 空気をつんざくようなウィルバートの叫び声が部屋中に響きわたった。と、同時に、激しい力に弾かれ、エアルは床に叩きつけられそうなところをオルティスに抱き留められた。
「エアル!!」
 息が詰まる衝撃に、エアルの意識が一瞬遠のく。その霞む視界の隅に、赤く猛る炎の塊を見た。長い尾をひいた灼熱の龍。
 火の龍だ。
 声を出すこともできなかった。
 今までそこにいたはずのウィルバートの姿はどこにもない。
 赤い炎を纏った火の龍が宙を浮遊しながら、オルティスと睨み合っていた。
 ちろちろと火の龍が炎を吐き出している。まるで機会を窺っているかのようだ。均衡が崩れれば、一気に襲い掛かっていこうと待っているように見えた。対するオルティスも顔色を変えることなく、静かに、けれどゆるぎない強さで受け止めている。
 どのくらいの時間が経ったのだろうか。
 いつしか、火の龍から吐き出される炎がなくなっていた。
 錯覚だろうか。火の龍がオルティスの静かな気迫を恐れているかのように見えた。
 オルティスがわずかに唇の端を上げた。
「聞こえるか、ウィルバート」
 朗々とオルティスが呼びかけると火の龍は激しく尾を振り上げ、壁に叩きつけた。
 視線はオルティスを捕らえたまま。
 否、捕らわれているのは火の龍の方か。
 エアルの目にも火の龍がおびえているのが分かった。
「もう一度だけ機会をやる、制御してみせよ!」
 火の龍が狂ったように激しく咆哮をあげた。オルティスの呪縛から逃れようと灼熱の炎を吹き付ける。だが、標的をなくした炎は厚い壁を溶かした。
 オルティスがエアルを抱いたまま、宙を飛ぶ。
 怒り狂う火の龍が吐き出した炎が塔の壁や天井を破壊していく様をエアルは呆然と見つめていた。
 火の龍は、ひと際激しく咆哮を上げて、天に向かって螺旋を描きながら駆け上っていく。咆哮とともに炎を吐いたかと思うと、急に静かになった。力尽き、落ちてくる火の龍の体が点滅を繰り返している。赤い光の中に少年の姿がだぶって見えた。
「ウィルバート!!」
 龍の姿と少年の姿とを交互に繰り返しながら、再び塔の中へと落ちていく。
 その後を追って、エアルとオルティスは塔へと舞い降りる。
 軽い落下音とともに、倒れ伏したのは赤と金の交じり合った髪をした少年だった。
「ウィルバート!」
 駆け寄って抱き上げると、黒に近い青の瞳がエアルを見つけた。
「エアル」
 得意げに笑った後、ウィルバートは意識を失った。



 麗らかな春。
 庭園に花は咲き乱れ、芳しい香りがそこかしこに漂っている。あれから三日経つがウィルバートはまだ眠り続けている。
 五年もの間、火の龍と闘い続けてきたのだ。精神も身体も疲れきっている。もうしばらく休養が必要なのかもしれない。
「ウィルバートが、力を欲したのも理解できる。僕も同じだったからね」
 オルティスは苦笑いを浮かべながらそんなことを言った。
「世界を統べる王とは言っても、僕はまだ若輩者で周りの信用もなかったからね。悔しかったし、いつか見返してやるんだとも思っていた」
 いつも穏やかに泰然と構えているオルティスにもそんな激しさがあったのかとエアルは驚く。
「だからウィルバートのことも他人事には思えなかった」
「まあ……」
「制御できればいいと心底願っていた。でも僕もずるい男でね。ウィルバートが火の龍を制御できれば、彼を手元に置くことで花園の守りもまた強固なものになると、そういう欲もあった。だが、君と会わせるのも癪な気持ちがして、かなり迷った」
 エアルはじっとオルティスの言葉を聞いていた。
 どこまでも正直にありのままの想いをオルティスは伝えてくれている。
 口調は穏やかで優しかったが、見つめる瞳は恐れを抱き、許しを請うかのように不安げに揺れていた。
 エアルはそっと微笑を返す。
「ウィルバートとはもう一度ちゃんと話をしなくてはいけないと思います。でも、わたしの気持ちは前にもお伝えしたとおりです。やはり指輪に誓った方がよろしいのかしら?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
 オルティスはほっと息を吐いて笑った。そして残念そうに後ろを振り返る。
「ああ、うるさいのが起きたようだ」



 金の髪に空色の瞳をした世界の王が穏やかに微笑んでいる。その傍らには愛らしく美しい春の姫。
 そして、その後をくっついて回る赤と金が混ざり合った髪の少年が一人。
「なぁなぁ、エアル。俺のこと待っててくれるって言ったじゃん」
「そんなこと言ったかしら?」
 子供のように頬を膨らませているウィルバートに、くすくすと笑いながらエアルは言う。
「言った。俺、意識なかったけど、聞いた」
「意識がなかったのに、なぜ聞いたと分かる?」
「ほとんどなかったけど、ちゃんと聞いた! お前、うるさい」
 ぎゃんぎゃん吼えるウィルバートに辟易したのか、オルティスは肩をすくめた。
「うるさいのはお前のほうだろう」
 指先でウィルバートの額を弾く。その瞬間、赤い光が弾け、光が収まったあとには小さな子どもの龍がちょこんと宙に浮いていた。美しい光沢を放つ赤い龍はあの時見た火の龍の雛形のようだった。
 ぽかんとしていた小さな龍は、我に返り、いきなり怒り始めた。小さな炎を幾つも吐き出し、キーキー甲高い声で吼えているが、いかんせんかわいらし過ぎて迫力に欠ける。それが悔しいのかさらに怒りを募らせているのが手に取るように分かった。
 オルティスは肩を揺らして笑っている。
「なんて言ってるのですか?」
 目尻に涙さえ浮かべて笑っているオルティスが珍しくもあるが、こんな風に日々新しい一面を知るのが嬉しく思えるのだ。それはエアルの素直な感情だった。
「男同士の秘密だよ」
「ずるいです、それは。オルティスだけウィルバートの言葉が分かるなんて」
 相も変わらず、キーキーと鳴き声を上げ続けるウィルバート。
「ううむ、そうか。それもそうだな。残念だが仕方がない」
 なにが残念で仕方ないのか分からなかったが、オルティスは笑いながら、再びウィルバートの額を小突いた。それが鍵だったのか、エアルにもウィルバートの言葉が分かるようになった。
『痛てぇな、このやろう。また小突きやがったな!! いいかげんにしろよ。小さいからってなめんなよ』
 大きく口を開け炎を吐き出そうとしたところを、エアルは引き寄せて抱きかかえた。
「ウィルバート、だめよ。あなたオルティスの守護に付くって契約を交わしたのでしょう」
『あれは手違いだぁ!! 起き抜けにあんなこと言われれば頷くに決まってんだろうがっ』
「それでも約束は約束でしょう、ウィルバート」
 めっ、と子供をあやす様に怒られ、とたんに黙り込むウィルバートにオルティスは堪えきれないといったように吹き出した。
『笑うなー!!』
 ウィルバートの叫びが春の庭園に響き渡った。


 麗らかな花園の風景。
 


 

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