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第1章 佐伯悠亮としての日常

第31話 行進曲

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 部屋に戻ったウツロは、悶々もんもんとする心を静めようと、いつものように書を取り出して思索しさくふけろうと思ったが、なんだか珍しく気分が乗らないので、音楽を聴こうと思った。

 パーカーのポケットから端末を取り出して、耳に無線イヤホンを装着し、アプリを起動する。

 選曲して再生をタップ、楽曲が流れ出す。

 グスタフ・マーラーの交響曲第6番、通称「悲劇的」――

 その第4楽章だ。

 破滅に向かって突き進む人類のための行進曲、特にウツロはこの楽章が好きだ。

 真田虎太郎さなだ こたろうにすすめられる形で、生まれてはじめて聴いた音楽がマーラーであったから、彼にとっては特別な作曲家になっている。

 英雄は打たれ、嘲笑ちょうしょうされ、それでも果敢かかんに前へと進んでいく。

 英雄とはすなわち、作曲者マーラー自身のことなのであるが、ウツロはここに、自分自身の人生を投影していた。

 苦難の中に光明こうみょう見出みいだそうとするその人生を。

 止まっているよりはいつづけたい。

 彼は確かにそう、胸にちかった。

 それでもときどき折れそうになる。

 父や兄を差し置いて、自分だけがのうのうと生きていていいのか?

 生きていれば喜びもあるが、苦しみのほうがむしろ多い。

 喜びとは苦しみから見出すべきものではないのか?

 俺にそれができるのか?

 毒虫どくむしのウツロか。

 そうだ、俺は毒虫だ。

 だが、それの何が悪い?

 俺は這ってやる、這いつづけてやる。

 這って、這って、這い続けて……

 そしていつか、『人間』になるんだ……

 そんなことをぐるぐると頭の中でめぐらせているうちに、三十分もある音楽は、あっというに終わってしまった。

「……」

 ウツロは涙していた。

 自分のことをわかってくれる偉大な先達せんだつの存在に。

 あなたこそ救済者だ。

 そんなことを考えながら、体を少し丸くして、静かに眠りについた。

(『第32話 朝稽古あさげいこ』へ続く)
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