2 / 95
二、ティグラ港の事件 - un caso al porto Tigra -
イノイル東岸のティグラ港に停泊する商船の多くは、近隣のルメオ共和国やエマンシュナ王国、イノイル王国の東側に広がるネラ海の島・アム共和国、東の大陸エル・ミエルド帝国からやって来る。
ほとんど全ての船が貿易を生業としているから、もちろん言語に明るい者は多い。が、全ての船員がそうではない。通詞役の船員が一つの商船に必ず一人はいるものだが、そういった者は言わば専門職で、他の者は有事の際の戦闘員を兼ねた屈強な漕ぎ手なのである。
いかに人望の厚い船長が自分の船員たちを巧く統率していようと、雑多な文化や言語の入り混じる貿易港では、諍いが全く起きないということは有り得ない。
この日もそうだった。
エマンシュナの大商船団の船員が、エル・ミエルド帝国の商船の積荷をひとつ誤って海に落としてしまったのである。居合わせたエマンシュナの通詞役は仲裁ができるほどには役に立たず、更に運の悪いことに、エマンシュナの船員は酒に酔っていた。それが、火に油を注いだ。エル・ミエルドの船員たちは、帝国憲法で酒が禁じられている。エル・ミエルド帝国では、酒は忌むべきもので、特別な宴でのみ呑むことが許されるのだ。
それだけに、酔った船員が積荷を海へ落としたことは、彼らにはますます許しがたいことだった。酔って状況を認識できないエマンシュナの船員は言いがかりだと激昂し、言語の不自由さも拍車をかけて、いよいよ刃傷沙汰になった。
両者が剣を抜くと、周囲に粗野な船乗りたちが集まって古代の闘技場さながらに囃し立て、お祭り騒ぎを始めた。手の早い者たちは既に金を賭けている。
女王イサ・アンナが港を闊歩していたのは、ちょうどその時だ。
数十メートル先から、激しく金属がぶつかり合う音が聞こえてくる。剣術を得手とする女王には、すぐに殺し合いの剣戟と分かった。
「何の騒ぎだ」
近付こうとしたイサ・アンナを、黒衣の従者が制した。
「陛下、このような所に足を運ぶべきではありません。港の監督官に任せて――」
「すべての権限は私にある」
にべもなく言うと、従者をさっさと下がらせてしまった。イノイル随一の貿易港で死人が出ては、事後処理に時間がかかり一時的に港が機能しなくなる。しかも双方が外国の船員とあっては、ただでさえ悩みの種が尽きない外交問題に更なる問題を重ねることになる。
(手っ取り早く二人を逮捕させて裁判を受けさせるか)
女王は颯爽と人だかりへ近づいていった。みな殺し合いに夢中で、この場違いな貴婦人と従者たちに気づいていない。
「道を開けよ」
と言うや言わぬやの瞬間に、ふっと剣戟の耳をつんざくような音が止んだ。同時に、観衆は不満そうなうめき声を漏らしたり、驚嘆の声をあげたりした。中心で何が起きているのか、観衆が壁となってイサ・アンナには見えない。
(死者が出たか)
やはり面倒なことになった。処理をさせなければならない。女王は従者に目配せした。
その時。
「おい、見世物じゃないぞ!油売ってないで自分たちの仕事に戻れ!」
少年の声のように聞こえた。重く力強い金属音には似つかわしくない。
興ざめした観衆がぞろぞろと散り、次第に騒ぎの種が女王の視界に現れた。
三人いる。明らかに酒に酔って顔を真っ赤に染めた筋骨隆々の大柄な男、肌が浅黒く長身の一目見てエル・ミエルド人と分かる男、それから、頭に麻の布を巻いた若い船乗り。髪はすべて後ろへまとめて布に隠し、凛とした瞳が利発そうに輝いている。おそらくこれが声の主だろう。大男二人の間にいるからか、一際小柄に見えた。
若い船乗りは見るからに身体よりも二回りは大きなシャツを着、邪魔くさそうに袖を肘まで捲り上げ、細身のズボンを太いベルトで留めて、黒い革のブーツにその裾をしまい込んでいる。その腕はうっすらと筋肉が付いているように見えるが、細い。腰も脚もとても屈強とは言えず、とてもこの乱闘騒ぎに介入していたとは思えない。
しかし、どういうわけか大の男二人は丸腰で、一番小柄な若い船乗りは二本の剣を軽々と片手に持っている。おまけに他の屈強な二人は、間抜けな顔をして地べたに這いつくばっている。何が起きたのかよくわかっていないらしい。
女王は興を引かれた。これは最後まで見届けなければ。
「外套を貸せ」
女王は従者からマントを引ったくり、衣装が目立たないように頭からすっぽりかぶった。
「何があった」
観衆の一人に声をかけた。
「あれを見逃したのかい、ご婦人。もったいねえな。あの細っこいのは、なかなかやる。マッチョのエマンシュナ人とノッポのエル・ミエルド人のやり合いも見ものだったがよ、どこから小僧が現れたのか、やり合ってる二人の剣を目にもとまらぬ速さで取り上げちまったのよ。魔法みたいに」
「――魔法?」
(見たかった)
悔しさがこみ上げてくる。
若い船乗りは、流暢なエル・ミエルド語で何事かエル・ミエルド人に話をした後、ばしゃばしゃと桶いっぱいの海水をエマンシュナの酔っ払いにふっかけ、積荷が落ちたのはお前が原因だと言った。そのあと互いの船長を呼びつけ、それぞれの言語で事の経緯を説明し、エマンシュナの船長にはエル・ミエルド船へ航海法に法って売値と同額の賠償金を支払うよう話した。エル・ミエルドの船長にも丁寧に説明してやり、互いの風習を理解して斬り合いの剣は不問に処すよう、助言までしてやった。その際、そうでなければ二人ともイノイル王国の法により正式に裁判所で裁かれるだろうと脅しを付け加えることも忘れなかった。
その一部始終を、すでに馬上にいるイサ・アンナは見ていた。
ほとんど全ての船が貿易を生業としているから、もちろん言語に明るい者は多い。が、全ての船員がそうではない。通詞役の船員が一つの商船に必ず一人はいるものだが、そういった者は言わば専門職で、他の者は有事の際の戦闘員を兼ねた屈強な漕ぎ手なのである。
いかに人望の厚い船長が自分の船員たちを巧く統率していようと、雑多な文化や言語の入り混じる貿易港では、諍いが全く起きないということは有り得ない。
この日もそうだった。
エマンシュナの大商船団の船員が、エル・ミエルド帝国の商船の積荷をひとつ誤って海に落としてしまったのである。居合わせたエマンシュナの通詞役は仲裁ができるほどには役に立たず、更に運の悪いことに、エマンシュナの船員は酒に酔っていた。それが、火に油を注いだ。エル・ミエルドの船員たちは、帝国憲法で酒が禁じられている。エル・ミエルド帝国では、酒は忌むべきもので、特別な宴でのみ呑むことが許されるのだ。
それだけに、酔った船員が積荷を海へ落としたことは、彼らにはますます許しがたいことだった。酔って状況を認識できないエマンシュナの船員は言いがかりだと激昂し、言語の不自由さも拍車をかけて、いよいよ刃傷沙汰になった。
両者が剣を抜くと、周囲に粗野な船乗りたちが集まって古代の闘技場さながらに囃し立て、お祭り騒ぎを始めた。手の早い者たちは既に金を賭けている。
女王イサ・アンナが港を闊歩していたのは、ちょうどその時だ。
数十メートル先から、激しく金属がぶつかり合う音が聞こえてくる。剣術を得手とする女王には、すぐに殺し合いの剣戟と分かった。
「何の騒ぎだ」
近付こうとしたイサ・アンナを、黒衣の従者が制した。
「陛下、このような所に足を運ぶべきではありません。港の監督官に任せて――」
「すべての権限は私にある」
にべもなく言うと、従者をさっさと下がらせてしまった。イノイル随一の貿易港で死人が出ては、事後処理に時間がかかり一時的に港が機能しなくなる。しかも双方が外国の船員とあっては、ただでさえ悩みの種が尽きない外交問題に更なる問題を重ねることになる。
(手っ取り早く二人を逮捕させて裁判を受けさせるか)
女王は颯爽と人だかりへ近づいていった。みな殺し合いに夢中で、この場違いな貴婦人と従者たちに気づいていない。
「道を開けよ」
と言うや言わぬやの瞬間に、ふっと剣戟の耳をつんざくような音が止んだ。同時に、観衆は不満そうなうめき声を漏らしたり、驚嘆の声をあげたりした。中心で何が起きているのか、観衆が壁となってイサ・アンナには見えない。
(死者が出たか)
やはり面倒なことになった。処理をさせなければならない。女王は従者に目配せした。
その時。
「おい、見世物じゃないぞ!油売ってないで自分たちの仕事に戻れ!」
少年の声のように聞こえた。重く力強い金属音には似つかわしくない。
興ざめした観衆がぞろぞろと散り、次第に騒ぎの種が女王の視界に現れた。
三人いる。明らかに酒に酔って顔を真っ赤に染めた筋骨隆々の大柄な男、肌が浅黒く長身の一目見てエル・ミエルド人と分かる男、それから、頭に麻の布を巻いた若い船乗り。髪はすべて後ろへまとめて布に隠し、凛とした瞳が利発そうに輝いている。おそらくこれが声の主だろう。大男二人の間にいるからか、一際小柄に見えた。
若い船乗りは見るからに身体よりも二回りは大きなシャツを着、邪魔くさそうに袖を肘まで捲り上げ、細身のズボンを太いベルトで留めて、黒い革のブーツにその裾をしまい込んでいる。その腕はうっすらと筋肉が付いているように見えるが、細い。腰も脚もとても屈強とは言えず、とてもこの乱闘騒ぎに介入していたとは思えない。
しかし、どういうわけか大の男二人は丸腰で、一番小柄な若い船乗りは二本の剣を軽々と片手に持っている。おまけに他の屈強な二人は、間抜けな顔をして地べたに這いつくばっている。何が起きたのかよくわかっていないらしい。
女王は興を引かれた。これは最後まで見届けなければ。
「外套を貸せ」
女王は従者からマントを引ったくり、衣装が目立たないように頭からすっぽりかぶった。
「何があった」
観衆の一人に声をかけた。
「あれを見逃したのかい、ご婦人。もったいねえな。あの細っこいのは、なかなかやる。マッチョのエマンシュナ人とノッポのエル・ミエルド人のやり合いも見ものだったがよ、どこから小僧が現れたのか、やり合ってる二人の剣を目にもとまらぬ速さで取り上げちまったのよ。魔法みたいに」
「――魔法?」
(見たかった)
悔しさがこみ上げてくる。
若い船乗りは、流暢なエル・ミエルド語で何事かエル・ミエルド人に話をした後、ばしゃばしゃと桶いっぱいの海水をエマンシュナの酔っ払いにふっかけ、積荷が落ちたのはお前が原因だと言った。そのあと互いの船長を呼びつけ、それぞれの言語で事の経緯を説明し、エマンシュナの船長にはエル・ミエルド船へ航海法に法って売値と同額の賠償金を支払うよう話した。エル・ミエルドの船長にも丁寧に説明してやり、互いの風習を理解して斬り合いの剣は不問に処すよう、助言までしてやった。その際、そうでなければ二人ともイノイル王国の法により正式に裁判所で裁かれるだろうと脅しを付け加えることも忘れなかった。
その一部始終を、すでに馬上にいるイサ・アンナは見ていた。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
『床下に札束を隠す金髪悪女は、毎朝赤いマットの上で黒の下着姿で股を開く』〜ストレッチが、私の金脈〜
まさき
恋愛
毎朝六時。
黒の下着姿で、赤いヨガマットの上に脚を開く。
それが橘麗奈、二十八歳の朝の儀式。
ストレッチが終わったら、絨毯をめくる。
床下収納を開けて、封筒の束を確認する。
まだある。今日も、負けていない。
儚く見える目と、計算された貧しさで男の「守りたい」を引き出し、感情を売らずに金だけを回収してきた。
愛は演技。体は商売道具。金は成果。
ブリーチで傷んだ金髪も、柔らかく整えた体も、全部武器だ。
完璧だったはずの計算が、同じマンションに住む地味な男——青木奏の登場で、狂い始める。
奢らない。
触れない。
欲しがらない。
それでも、去らない。
武器が全部外れる相手に、麗奈は初めて「演じない自分」を見られてしまう。
赤いマットの上で、もう脚を開けなくなる朝が来るまでの話。
【完結】【ママ友百合】ラテアートにハートをのせて
千鶴田ルト
恋愛
専業主婦の優菜は、夫・拓馬と娘の結と共に平穏な暮らしを送っていた。
そんな彼女の前に現れた、カフェ店員の千春。
夫婦仲は良好。別れる理由なんてどこにもない。
それでも――千春との時間は、日常の中でそっと息を潜め、やがて大きな存在へと変わっていく。
ちょっと変わったママ友不倫百合ほのぼのガールズラブ物語です。
ハッピーエンドになるのでご安心ください。
イケメンエリートは愛妻の下僕になりたがる(イケメンエリートシリーズ第四弾)
便葉
恋愛
国内有数の豪華複合オフィスビルの27階にある
IT関連会社“EARTHonCIRCLE”略して“EOC”
謎多き噂の飛び交う外資系一流企業
日本内外のイケメンエリートが
集まる男のみの会社
そのイケメンエリート軍団のキャップ的存在
唯一の既婚者、中山トオルの意外なお話
中山加恋(20歳)
二十歳でトオルの妻になる
何不自由ない新婚生活だが若さゆえ好奇心旺盛
中山トオル(32歳)
17歳の加恋に一目ぼれ
加恋の二十歳の誕生日に強引に結婚する
加恋を愛し過ぎるあまりたまに壊れる
会社では群を抜くほどの超エリートが、
愛してやまない加恋ちゃんに
振り回されたり落ち込まされたり…
そんなイケメンエリートの
ちょっと切なくて笑えるお話
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった
くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。
血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。
夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。
「……涼介くん」
薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。
逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。
夜、来て。
その一言が——涼介の、全部を壊した。
甘くて、苦しくて、止まれない。
これは、ある夏の、秘密の話。
