王城のマリナイア

若島まつ

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三、ネラ海のマリナイア - una marinaia del Mar Neratico -

「おいミーシャ!客だ」
 バルバリーゴはゴロゴロと雷が鳴ったような大声で船に向かって叫んだ。
 多少、動転している。
 アゴスティノ・バルバリーゴはルメオ共和国の大商船を率いる船長で、船乗りになって四十年近い。船長となってからは、二十年の月日が経とうとしている。その彼が、人間を相手にして狼狽することは珍しい。
「いま次の港で下ろす荷物の売値を確認してるんですよ!後にしてください」
 船の中から少年のような快活な声が返ってきた。
「バカ言え、こっちが優先だ!さっさと来い!」
 バルバリーゴは、平素なら船の仕事を最優先にするところだが、今は事情が違う。何しろ、目の前にイノイル王国の紋章を携えたかなり地位の高そうな役人がいるのだ。シトー王家の波を象った金の紋章が、黒い外套に厳めしく輝いている。波の金刺繍が施された黒い外套が意味するものを、バルバリーゴは知っている。――イノイル国王直属の部隊だ。
「出発が遅れたら船長のせいですからね」
 ぶつぶつ文句を言いながら、声の主が船室の階段を上がってきた。頭には麻布を巻き、大きいシャツの袖を捲り上げ、ズボンの裾をブーツにしまい込んでいる。港で喧嘩を仲裁した若い船乗りだ。
 バルバリーゴの話している相手がイノイル王国の高官であることは、若い船乗りにも一目でわかったようだ。赤みがかった金色の眉を怪訝そうに歪め、猫のような俊敏さで港へ降り立った。目の前には、鹿毛の馬に乗った黒い外套の高官がいる。馬も黒地に金刺繍の飾りを付けている。
 若い船乗りは、僅かながらひやりとした。まさかとは思うが停泊の許可証にでも不備があったのではないか。その場合、イノイルの法律では逮捕され、運が悪ければ投獄される。
「うちはれっきとした商船ですよ。アゴスティノ・バルバリーゴ船長はルメオの公認船舶指揮者ですし、国際停泊許可証なら…」
「いえいえ、その話ではありません」
 高官は落ち着いた様子で話を遮った。
 よく見るとひどく育ちの良さそうな、柔和な顔をしている。世界屈指の海軍を誇るイノイルの高官というには、やや軟弱にも見えたが、国王直属の部隊特有の黒い衣装と馬上にいるせいで、ひどく威圧的な印象を与えている。
「私の上司が、あなたに是非お目にかかりたいとのことで、不躾ながらお迎えに上がりました」
 今度はバルバリーゴが肝を冷やした。
 自分の部下が王国の使者に向かって恐縮するどころか、みるみる不機嫌な顔になって追い返し始めたからである。
「ご料簡がちがいます」
 バルバリーゴは耳を塞ぎたくなった。こうなったら目の前の人物を止められないことは、重々分かっている。
「まず、そちらの都合で見えたならば、いくら身分の高い者といえども馬を降りるべきです」
 使者は気を悪くすることなく――あるいはそれを表情に出すことなく、むしろ微笑んですんなりと馬を降りた。
「まこと、失礼つかまつりました」
「あなたがたにどのような事情があるかは存じませんが、私たちには明朝の出航まで、他のことをしている時間がないのです。こちらの予定も聞かずに一緒について来いなどとは、少々手前勝手ではありませんか。あなたの上司どのにお伝え願いたい。ご本人が直接お見えになった方が、互いの時間を無駄にせずに済むでしょうと」
 きっぱりと言い放った。
「確かに、申し伝えます」
 黒衣の高官が柔和な表情も変えずに再び馬に乗ってあっさり引き返すと、若い船乗りもさっさと仕事に戻っていった。
「おい、あんな対応で大丈夫か」
 バルバリーゴは、平素豪胆なこの男には珍しく、うろたえながら言った。王家の権力を恐れているのではなく、部下の身を案じてのことだ。
 やや、込み入った事情がある。
「大丈夫ですよ」
 と、こともなげに言い放ったが、内心では、大丈夫かどうか分からない。
(知ったことか)
 権力などというものに振り回され、言いなりになるのは昔から大嫌いだ。

 伝言を受け取ったイサ・アンナは従者の予想を外れ、ひどく満足げな表情を見せた。
「道理だ」
 そう言って、身軽に馬から飛び降りた。従者は静かに溜め息をつきながら、その後に続いた。
 仕事に戻った若い船乗りは、十分ほど前に追い返した高官の代わりに船室へやってきた人物を見て、度肝を抜かれた。
「来たぞ」
 その女性は、気軽に挨拶をし、埃っぽい荷箱がいくつも押し込まれた狭い船室へと姿を現した。
 見ているものが信じられない。
 が、オイルランプの薄明かりに照らされている姿は現実だ。女性は真っ黒な長い髪を結わずに背中へ流し、真っ黒な瞳を機嫌良さそうに輝かせ、さくらんぼ色の唇を得意気に引き上げている。
 金の伝統模様の刺繍が入った白いドレスが、女性の地位を表していた。記憶が確かならイノイル王国の女王が公式会見の際に着用するものだ。
 あまりに場違いな光景だった。
(本物か)
 言葉も忘れて唖然としている船乗りの様子を気にもせず、女王はにこにこと笑みを浮かべている。
「そなたの望み通りに。ミーシャ少年――…」
 言いかけて、女王は目の前の顔をまじまじと眺めた。やがて、こちらも度肝を抜かれた。
「なんと、女か!」
 イサ・アンナはほとんど叫ぶようにして言った。
 女王が見破った通り、この船乗りは少年ではない。生活を共にする他の船員たちは既に知っていることだが、今まで他人に見破られたことはなかった。
「驚いたぞ」
「驚いたのはこちらです。女王陛下…」
 女が呆然として言った。しかし、女王が今まで聞いた誰よりも美しい発音だった。女王はふふ、と少女のように笑った。即位してから十七年経つが、その年月を感じさせない。
「なるほど、道理で船乗りにしては華奢なわけだ。しかし、よくよく紛れ込んだものだな。…そなた貴族の出身であろう」
 女はぎくりとした。これは、何十人もいる船の仲間は誰一人として知らない事実だ。ただひとり、船長のバルバリーゴを除いては。
「歩き方と姿勢でわかる」
 イサ・アンナは疑問を見透かしていた。
「それから、話し方。マルス語をそこまで澱みなく話すことができるのは、高度な教育を受けた者だけだ」
 とイサ・アンナが言ったのは、大陸の共通言語のことだ。マルス語はマルス大陸共通の公用語として使われているが、どの国にもその地域独特の方言や用法の違いなどがある。それらの方言などを取り払った共通マルス語は、一つの教養として王族のほか、外交官や通訳、言語学者たちが学ぶもので、一般的には、正確な発音や文法で話せる者は多くない。商船の通詞ですら、その正しい言葉を知らない者がほとんどだ。
「わたしが語学を学んだのはユルクス大学ですが、奨学金を得れば平民でも入学できます。それに、生まれた家はもうわたしとは関係ありません…でも、どうでもいいですね」
 女は観念したように、頭に巻いていた麻布を取った。赤みがかった金色の髪がはらりと肩まで落ち、陽に焼けた肌を彩った。ハシバミ色の瞳はオイルランプの光が反射してきらきらと輝いている。イサ・アンナはじっとその貌を見た。一目見たときは少年だと思ったが、こうして見ると貴族の子女の結婚適齢期よりも年上のようだ。少なくとも少女や娘というには似つかわしくない。
 女は左足を一歩下げ、膝を軽く曲げてルメオ風の貴婦人に対する礼をした。髪がもっと長くてドレスを着ていれば、宮廷にいても何ら不思議ではない、自然な所作だった。
「時間がないのであろう。私は気にせぬから、話を聞きながらそのまま続けよ」
 女王は手を上げ、気軽な様子で言った。
「それは…」
 無茶な話だ。いくら権力に振り回されたくないと言っても、わざわざ一人船室まで下りてきた客人を前に片手間で話を聞くなど、非礼にも程がある。女は躊躇したが、一方で女王その人がこのようなことを言い出すとは、なかなか面白い人物だと思った。
「よい、続けよ。先ほど送った従者に、そなたの言葉を一言一句違えず聞かせよと言ったのだ。なるほどそなたの主張は筋が通っている」
 女王は積荷の中からちょうどよさそうな酒樽をみつけて、その上にひょいと腰掛けた。十代のおてんば娘がするような動作だ。女王には似つかわしくない言動だが、それが相手の警戒心を解いた。
「承知いたしました。そういうことなら…」
 女は再び積荷の値と数を数え始めた。荷箱を確かめ、印を付けていく。手際がいい。
「単刀直入に言おう。そなた我が王宮に仕えてみぬか」
「…わたくしなどが、いったい何のお役に立てましょう」
 内心ひどく衝撃を受けたが、作業の手は止まらない。頭の中でも計算が続いていた。想定外のことが起きた時に努めて冷静でいようとするのは、子供の頃からの性分だ。
「通詞だ。女王付きの。肩書は外交官として、城に好きな部屋を用意する」
 女王がそういった後も黙々と作業を続け、それから二つ目の荷箱に印を付けるまで、無言でいた。
「身にあまる光栄、感謝申し上げます、陛下。しかし…」
「問題か?」
「わたしはルメオ人です。氏素性も確かでない外国人を臣下に迎えたとあっては、他の臣下たちが黙ってはいないでしょう」
「それはそなたが心配することではない。それに、わたしが気にかけるのは生国などではなく、才覚と職務への忠誠心だ」
 女王の黒い瞳は、まっすぐ女を見据えた。
「先ほどそなたを見て、その二つ以上のものを十分に備えていると思った。どうだ、そろそろ陸に上がってみては」
 漆黒の瞳の奥で、情熱がぐらぐらと燃えているように見えた。心のどこかで、この突然現れた変わり者の女王に惹きつけられていくのを感じる。
「恐れながら、陛下――」
 やっとのことで声を出した。
「船はわたしの家です」
 唇を引き結んで再び赤みがかったブロンドの髪を麻布で覆い隠し、頭の後ろで結んだ。
「魚は陸では生きられません」
 女王に向かって、恭しく一礼した。
「そうか」
 女王は微笑み、礼儀正しく引き下がった。
「最後に、名を教えてくれ」
「ミーシャですよ。ただのミーシャ」
 女王は非礼とも思わず、ふっ、とおかしそうに笑った。
「ただのミーシャとやら、明朝出航だったな」
「ええ、明日、ミノ島へ」
「良い航海を祈る」
 イサ・アンナは微笑を残して颯爽と船を去った。
 女はほっと胸をなでおろした。これでいい。最善の選択をしたはずだ。

 翌日、船長バルバリーゴ率いるルメオのユリオラ号はティグラ港を出港した。昨日と同様、すっきりと晴れて爽やかな風が吹いている。波もおだやかだ。
 船長は昨日の急な謁見の理由を知らない。何を話したのかと尋ねても、何も問題はないというばかりで要領を得ないのだ。こういう時にこの娘が何も語るはずはないと、バルバリーゴはよく知っている。
 ルメオ共和国の名門ユルクス大学を卒業したばかりの風変わりな少女に、弟子にしてくれるまでここを動かない、と船を占拠されてから、もう六年にもなる。
「ミーシャ」
 バルバリーゴは、舳先に腰掛けて脚をぶらぶらさせている部下に語りかけた。
「何も問題はありませんでしたよ」
「おめえはよ、このちっぽけな商船の通訳には勿体ねえやな」
 女は依然として、波を見つめている。何も言わなくても、バルバリーゴには二人が何を話したかおおかた見当はついているようだ。
「この商船は小さい方じゃないですし、商船の通訳は船長が考えているよりも面白い仕事ですよ。それに…あなたを父と思ってるんです。他の仲間だって、家族だと思っています。本当に」
「アルテミシア」
 バルバリーゴは、女をそう呼んだ。本当の名を知っているのは、この船ではただ一人だけだ。
「子供はいつか親離れするもんだぜ」
「……」
 波の音がやけに大きく感じる。アルテミシアはしばらく押し黙っていたが、やがて口を開いた。 
「どちらにせよ、もうイノイルは離れましたから。もうしばらく面倒みてくださいよ、船長」
 バルバリーゴは目尻の皺を深くし、灰色の口ひげを撫でた。
「…十四だったか、お前がこの船に押しかけてきたのは」
「十五です」
「ふざけたお嬢ちゃんだと思ったよ。上等なドレス着て、船乗りになるから一緒に連れていけなんてよ」
「遊びじゃねえんだぞ!!って、すごい剣幕で怒鳴られましたね」
 アルテミシアがごろごろと低い声でバルバリーゴの真似をし、おかしそうに声を上げて笑った。
「おめえ言ったな。このまま実家に帰っても、ろくでもないのと結婚させられちまう。せっかく大学を首席で卒業したのに勿体ねえってよ」
「懐かしいですね」
 アルテミシアは目を細めた。
「世界を自分の目で見たいって言ったろ。もっと力を試したいってな」
 バルバリーゴの脳裏に、必死な顔をして熱弁をふるう髪の長い少女がありありと蘇った。
 女だから駄目だと言うなら男として扱ってくれ、とトランクからナイフを取り出し、美しい色の髪を船長と船員たちの目の前で襟足まで切り落としてしまったのだ。そのまま猛然と立ち去ったかと思うと、切った髪と持っていたドレスを全て売り払い、船乗りの服や道具を買って男の姿で再び船に現れた。初めは何とか追い返そうと躍起になっていたバルバリーゴもその胆力にすっかり根負けし、一緒に連れて行くことに同意した。バルバリーゴも船員たちも、その気概を気に入ってしまったのだ。それ以来、実の息子のように厳しく接し、実の娘のように気にかけてきた。年に数回ルメオの自宅に戻る時は、一緒に連れて帰った。妻のシエラもこの少女をいたく可愛がった。実の息子たちやその妻子たちともいい関係だったこともあり、愛情豊かな妻からは何度か本当にうちの子供にしないかと提案された。
 その少女が今、人生の岐路に立っている。
「六年海にいて、世界を見ただろ。そりゃあたくさんのものを。でも海からだけじゃあよ、外側しか見えねえんだ。おめえが見てるものはよ、何万といる船乗りとおんなじもんなんだよ」
「……」
「ティグラへ戻ってやってもいいんだぜ」
「…いいえ」
 確かに、あの女王も女王直々の申し出は魅力的すぎるほどだ。この国の女王は今まで知っていた権力者とは全く違っていた。そのうちの誰よりも大きな権力と影響力を持っているというのに、誰よりも信頼できると感じた。だからと言って、苦楽を共にした家族同然の仲間にさっさと背を向けたりはできないし、一国の外交官など分不相応というものだ。何より、生まれて初めて家族という実感を持たせてくれた、愛情深いこの父と母の元を去るのは身を切られるように心が痛い。
「必要ありません」
 知らず知らずのうちに募った未練を振り払うように、自分に言い聞かせた。バルバリーゴは息子にするように、アルテミシアの肩に手を置いた。
 そこへ、見張り台から降りてきた船員が血相を変えて現れた。
「船長、ミーシャ!大変ですよ、後ろから猛スピードで小型の帆船が追い上げてきます!旗もありません」
 バルバリーゴは気色ばんだ。王国の港からほど近い、こんな海域に海賊か。
「戦闘用意」
 短く指示を出し、船尾に向かった。アルテミシアも続いた。非常事態の時にまず交渉を試みるのが通詞役の仕事でもある。
 船尾に着いたアルテミシアは、目を見開いた。他の船員も、船長の指示通り武器や砲弾の準備をしていたが、互いに顔を合わせ、戸惑っている。
 追い上げてくる帆船の先頭に立っている人物が、誰あろう昨日の女王だったからだ。昨日と違って深いブルーのドレスを着ているが、こちらも公式会見で着用する紋章の金の刺繍が入っている。ブルーの裾が海風にはたはたとはためき、緑がかった海の色と混ざって波を連れてきたように見えた。
「ただのミーシャ!」
イサ・アンナはよく響く声をうんと張り上げ、叫んだ。その振る舞いはとても女王とは思えない。
「諦めてやろうと思ったが、考えれば考えるほど、やはりそなた以上の適任はいない!城が嫌なら、どこに住んでもよい。必要な時に呼び出せればな」
 バルバリーゴは目を丸くして言葉をなくしているアルテミシアの肩に手を置いた。
 わざわざ自分を追いかけるためだけに、女王が自ら幾人もの船員を集め、船を出したのだろうか。
「港の一件、見事であった!昨日の物言い、心意気、ますますそなたが気に入った!子は、いつか親元を離れて旅をするものだ。わたしと旅をしてみないか、ただのミーシャ!」
 アルテミシアは胸が熱くなった。ただの船乗りとして生きてきた名も地位もない小娘を、ここまで買ってくれる君主がどこにいるだろうか。
 ユリオラ号が進むのをやめ、女王を乗せた小さな帆船がその隣に並んだ。
「じょお…」
 アルテミシアが口を開きかけると、突然背後から物凄い力でブワッと身体を持ち上げられ、縁から女王の船に投げ出された。アルテミシアは受け身を取ろうとしたが、バランスを崩して片足をつくと同時に倒れこんだ。床に激突する前に、女王の従者の一人がその身体を受け止めた。アルテミシアは泣きたいような怒りたいような気持ちに駆られて商船を見上げた。
「船長!」
「情けない声で叫ぶな、坊!これだけ言われて逃げる奴はよォ、俺の家族にはいねえのよ!いいか、力を試せ!おめえもそうしたいのは、ハナからわかってるのよ!」
 茶色い髪をした船員がアルテミシアの船室から大きなトランクをひとつ持ってきて、ひょいと女王の帆船に投げ落とした。アルテミシアがユルクス大学を卒業した時に持っていた荷物そっくりそのままだ。
「レミ!」
「おいミーシャ、俺たちがまたティグラ港に寄る時に顔を出せよ!」
 レミと呼ばれた船員がそう叫ぶと、周りから数十人の仲間たちがワッと集まり、誰からともなく酒樽を持ってきて、小船にいるアルテミシアめがけて酒を吹っかけ始めた。
「おい、女王の船だぞ」
 と言ってたしなめようとする者もいたが、船乗りたちの祝いの儀式だ。誰もやめなかった。
 アルテミシアは必死で顔が歪むのを止めようとした。目の周りが熱くなり、鼻の奥がちくちく痛んて、鼻で息ができなくなってきた。隣の船にいる船乗りたちがじゃばじゃばとこちら目がけて酒を掛けてくるので、丁度よかった。女王の周りの従者たちはとばっちりを受けて迷惑そうな顔をしていたが、当の女王は酒が自分に掛かろうとも、気にするどころか心底楽しそうにからからと笑っている。
 その様子があまりにも不釣り合いで、滑稽だった。しまいにはアルテミシアも声を上げて笑った。
「それで、ただのミーシャ。わたしと来る決心は固まったか」
「陛下」
 アルテミシアは恭しく跪き、差し出された女王の右手を取って、人差し指にはめられたサファイアの指輪に口付けをした。臣下の礼である。共和国出身のアルテミシアは初めてすることだ。
「何ができるか分かりませんが、このアルテミシア・リンド、貴女のために力を尽くしましょう」
「アルテミシア・リンド」
 女王は美しい黒髪も最高級のドレスも隣の大型船から降りかかってきた酒でびしょびしょになりながら、ひどく満足そうに目を細めた。
「よろしく頼む」
 女王はそう言って、跪いたままのアルテミシアを立たせると、兄弟にするような仕草で肩に手を置いた。そして、大型商船の方を振り返り、大音声をあげた。
「カピターノ・アゴスティノ・バルバリーゴ!大切な家族、確かに引き受けた!感謝のしるしに、そなたたちの船は今後一切イノイル王国内で停泊許可証と関税を求められることはない!」
 船員一人に関税免除とは、ずいぶんな大盤振る舞いだ。商船の船員たちは沸き立ち、女王の従者たちは信じられないといったように互いに顔を見合わせている。
「感謝いたします。イサ・アンナ女王陛下」
 バルバリーゴはそう言って女王にお辞儀をし、アルテミシアには何を言うでもなくひらひらと手を振って船を出した。船員たちは顔が見えなくなるまでアルテミシアに向かって腕を肩から千切れんばかりに振っていたが、バルバリーゴはイサ・アンナへの挨拶を最後に終ぞ現れなかった。
「家族も同然なのだろう」
 静かに口を開いたのは、先ほど商船から投げ出されたアルテミシアを受け止めた従者だった。アルテミシアはこの時初めてこの男の存在に気がついた。大男だ。背はアルテミシアの頭一つ分よりも高く、体つきは分厚い軍装と外套の上からでもその精悍さが分かる。その風貌は荒海の岩壁を連想させた。なんとなく髭を生やしていないのが不思議に思える。高い鼻梁とくしゃくしゃと波打つ暗い栗色の短髪、力強く上を向いた濃い眉とやや下を向いた切れ長の一重まぶた、そして暗い青灰色の瞳は、昔見た絵画の海神を思い出させた。
「存外、薄情だな。あんなものか」
 船長のことを言っているのは明白だ。普通ならばここで心外に思うべきかもしれないが、アルテミシアはそうではなかった。男が心底意外そうに、切れ長の暗い青灰色の目を去っていく船へ向けていたからだ。
「逆だよ」
 それだけ言うと、アルテミシアは水平線へ馴染みの船が消えるまで、しばらく船尾でぼんやりしていた。
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