王城のマリナイア

若島まつ

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六、女王の居室 - la sfiducia -

 軍の訓練場は瓦屋根の城郭の後ろに聳えるクーポラの塔の下にある。広大な土だけの敷地にいくつかの柵や櫓が建てられ、数千の兵が騎馬または歩兵で敵味方の陣に分かれて訓練ができるようになっている。
 アルテミシアが塔にいちばん近い櫓の上から早朝の訓練を見学していると、女王の従者がアルテミシアを迎えに来た。いちばん初めにユリオラ号にやって来た、あの温和そうな顔つきの従者だ。
「兵の訓練は初めてでしょう。いかがですか」
 アルテミシアはうまく答えることができなかった。生まれてこのかた、こんなものは見たことがない。千人がひとつの大きな塊になったかと思えば、空を飛ぶ鳥の群れのように陣形を変え、騎兵でさえ列を乱すことなく一様に動いている。正に人馬一体、変幻自在だ。
「圧倒される」
 としか言いようがなかった。
「サゲン・エメレンス将軍は当代随一の指揮官ですからね。私も初めて見たときは驚きましたよ」
「やっぱり、バルカ将軍は思ったより偉い人なんだね」
「ええ。法務官であるお父上の跡目を継がれる予定でしたが、ご本人は根っからの実力主義でしてね。一兵卒から海軍司令官にまで昇りつめたお方ですよ」
「海軍?」
 アルテミシアは首を傾げた。海軍司令官なら、海での訓練ではないのか。
「イノイルの戦士たちは陸戦でも海戦でも、どちらでも同じ力を出せないといけませんからね。五年前までは、陸軍においでだったんですよ」
「でも、それって効率が悪いんじゃない?司令官ならともかく、海軍の兵は海での経験を積んで専門的な知識を培った方が、力が発揮できるんじゃないの?」
「鋭いご指摘です」
 女王の従者は細い目をもっと細めた。笑った顔がどことなくキツネに似ている。
「単純な話ですよ。どんな者にも多くの経験を積ませなければ才覚を見出せない。バルカ将軍の理想は、兵士全員が陸海両方で同じように全力が出せることなのです」
「はあ…」
 途方もないことだ。アルテミシアは兵たちの姿を茫然と見渡した。
「あの人の下は大変そうだね」
「ごもっとも」
 従者はくっくっと肩を震わせた。
「申し遅れました。私はロハク・オレガリ・ミシナ。話の続きは歩きながらしましょう。陛下が執務室でお待ちですから」
 アルテミシアはロハクの後について櫓を降りながら、ふーっとため息をついた。
「…この国の人はどうして下の名前を二つ言うの?覚えるのが大変」
「それにも我が国ならではの事情があるんですよ。あなたにはいろいろと勉強していただかなければなりませんね」
「そうみたいだね」
 この先のことを思い、胃がざわざわした。

 昨日馬上から遠目に見たシトー王家の城は、眼前にあるとより巨大だった。アーチ型の門をくぐり、衛兵たちがずらりと並ぶエントランスを通り、五回ほど螺旋状の階段を上がると、一番奥にその部屋はあった。
 二人の衛兵に守られた両開きの四角く重たそうな扉は開け放たれ、紗のカーテンが掛かっている。一国の統治者の部屋というには少し無防備だが、カーテンの桜色と若葉色が大きな窓から射す陽光によく映えて、冷たく暗い色の壁を雅やかに彩っている。
「陛下は窮屈さがお嫌いな人でして」
 ロハクは弁解がましく説明した。おそらくこのカーテンの扉は、従者たちには不評なのだろう。アルテミシアはとても気に入ったが。
 執務室の奥で、白い簡素なドレスを着た女王が神妙な顔つきで山のような書類に目を通していた。周りに控えている従者たちに、「これは地方長官に」とか「これには国の予算を使えない」とか言いながら、サラサラと署名し、判を押して書類をさばいていく。やがて視線を上げてアルテミシアとロハクに気づくと、昨日と同じいたずら好きの少女のように唇を引き上げた。
「来たな。おはようアルテミシア・リンド。残りはあとだ。彼女と女同士にさせてくれ」
 イサ・アンナは快活に挨拶をして、まずロハクと他の従者たちを下がらせた。
「おはようございます、陛下」
 アルテミシアは頭を下げ、周囲を見て覚えたイノイルの宮廷風の挨拶をした。
「ああ、それ。わたしのことはイサ・アンナと呼ぶように。辛気臭い年寄りの家臣ならばともかく、若い女にまで堅苦しい呼び方をされるのはごめんだ」
 あまりの言い様にアルテミシアは思わず笑いだした。同時に、女王の孤独さを垣間見た気がした。もしかしたら、目の前の女性は男たちの中で共に戦う同士を得たかったのかもしれない。
「それでは、わたしのことはミーシャと」
 イサ・アンナはにっこり笑い、アルテミシアを上から下までさっと眺めた。
「やはり、思った通りだ。わたしの若い頃のドレスがぴったりだな。いや、ちょっと丈が短いか?」
「えっ…、イサ・アンナ陛下の!?」
 アルテミシアは驚いて、自分が着ているドレスをまじまじと見た。受け取った時はあまり深く考えなかったが、言われてみれば生地も高級だしかなり上等な仕立てだ。
「‘陛下’は余計だ。それに、即位よりもずいぶん昔に着ていたものだから、正確には‘第三王女のドレス’だな」
 共和国出身で君主など持ったことがないアルテミシアでも、国王から服装品を下賜されることの重要性は理解している。普通なら大きな功績を残したり、重要な役目を果たしたりした時に贈られるものであるはずだ。
「それは…そんな、わたしなどがいただけません」
 冷や汗でドレスに染みができないか、不安になった。
「よい。普通なら城に入る準備をさせてからこの場に呼ぶところを、色々と順序をすっ飛ばしてしまった詫びだとでも思え。それに、娘はその色が似合わないと言って気に入らなかったのだ。ちょうど突っ返されたところだったから、よい使いどころを見つけたと言うものさ」
「はあ…」
 何から考えて良いのかわからない。そう言われても自分はこのドレスには不釣り合いな気がしたし、この若々しく時折少女のように振舞ってみせるこの女王が子供の母親であるというのも理解を超越している気がした。確かに、イノイルの女王に王女と王子が合わせて三人いるのは何年も前からアルテミシアも知っている事実だが、目の前の人物が三人の子の母親だと改めて認識するにはやや時間がかかる。そう言えば、即位した年齢とそれからの年月を考えると、四十は超えているはずだ。
「さあ、そんなことより」
 と、イサ・アンナは対面の椅子をアルテミシアに勧めて座らせ、一枚の羊皮紙を引っ張り出して何事か書き込み始めた。
「今日はそなたとの契約について話をしておこう」
「そういうことは秘書官がするのでは?」
 この女王には何度でも驚かされてしまう。国王自らが新参の家臣の面談とは、聞いたことがない。
「わたしが口説き落としたのだから、わたしがするさ。それに、ミーシャ。そなたともっと話をしたいのだ」
「それは光栄ですが、イサ・アンナ様を楽しませる話術には自信がありません」
 イサ・アンナは笑い出した。
「話術ではない。そなたの率直な物言いが好きなのだ。わたしの周りの者は、当然無理もないが、わたしに遠慮する。バルカ将軍ほど地位もあり気の強い者でもわたしの決定には口を挟まない。そなたも見ていたであろう」
 イサ・アンナはいたずらっぽく笑みを浮かべた。アルテミシアは苦笑するほかない。やはり昨日アルテミシアが敵視されているのに気付いていながら捨て置いたのだ。
「それだけ主君に忠実なのでしょう。おかげで怪しまれています。…無理もありませんけど」
 アルテミシアが恨みがましく言うと、イサ・アンナは白い歯を見せてにんまりとした。
「あれは骨の髄まで軍人だからな。相手が誰であってもそう簡単には心を許さないさ。そなたの落ち度ではない」
「もちろん、わたしの落ち度ではありませんとも」
 アルテミシアは澄まして言った。
「さあ、そなたの人生について話をしよう」
 そう言って、イサ・アンナは羊皮紙に視線を落とした。アルテミシアは僅かに身構えた。ユルクス大学を出てからと言うもの、生い立ちについて知っている者は父親代わりのバルバリーゴ船長だけだ。
「リンド、綴りは?L-I-N-D?」
「L-I-N-D-Eです」
「名前は一つだけか」
「アルテミシア・ジュディットです」
 イサ・アンナは羊皮紙にアルテミシアの名前を書いた。女王の文字はあまり女性的ではなく、やや武骨な印象だった。一文字一文字がくっきりとよく見える、明瞭な筆跡だ。彼女らしいといえば、彼女らしい。
「二つ目の名はエマンシュナ風だな。ふつう、ルメオの名前なら‘ジュディッタ’だろう。両親のどちらかはエマンシュナ人か?」
「両親ともにルメオ人ですよ。母方の祖母がエマンシュナ人で、その名前を二つ目にもらったもので」
「わたしと同じだ。わたしにもルメオとエマンシュナの血が流れている」
 そういえば、アルテミシアも聞いたことがある。先王であるイサ・アンナの父親はエマンシュナ王国の王女を母に持ち、ルメオ共和国元首の息女を妻に迎えている。それがイサ・アンナの母親だ。
「イノイルは半分島国と言えど、今はほとんどが混血だ。王家も含め、純血のイノイル民族など皆無と言っていい。しかし、伝統と歴史は脈々と受け継がれる。二つの名がそのうちの一つだ」
 アルテミシアは、ずっと疑問に思っていたことがイサ・アンナによって語られ、意外に思った。
「イノイル人は、イノイル語とマルス語と二つの名を付けられる。言葉を忘れても、その歴史を忘れないように。そして、マルス大陸の他の国と繋がれるようにだ。そなた、イノイル文字を知っているか?」
「イノイル民族がマルス語を話し始めるよりも昔に使っていた文字ですね。学生時代にそういうものがあると聞いたことがあります」
「それならば、話は早い。わたしのイノイルの名はイサ」
 と言いながら、イサ・アンナは見慣れない二つの文字をサラサラと紙に書いた。最初の文字は複雑で角ばった印象だが、二つ目の文字は大小の線だけで、シンプルだった。アルテミシアも実際に目にするのは初めてだ。
「意味は小さいイノシシだそうだ。わたしは小さく生まれたから、父上が可愛いと思ってこの名を付けたらしい。まったく女心が分かっていないよな。まあ、意味はともかく、響きは気に入っているがね」
 イサ・アンナはおかしそうに言った。
「知っての通り、もはやこの言葉を母語として話す者はいない。千年の昔、マルス大陸に順応するべく、我々の先祖が棄てたのだ。しかし、民は学問としてそれを生かし続けることを選んだ。そこにイノイルの誇りがあるからだ。だから皆ふたつの名を名乗る」
「はあ…、すごい。納得しました。名前を覚えるのは大変だけど、そういう理由なら仕方ありませんね。覚える努力をすることにします」
 アルテミシアは感心して言ったが、イサ・アンナにはその言い草がおもしろかったらしい。弾けるように笑い出した。
「どうしてかと思っていたんです。会う人会う人みんな名前を二つも三つも名乗るものだから、面倒だなあって。これまで港で会ったことのあるイノイル人は、みんなマルス語の名前しか名乗りませんでした」
「それは、外交や貿易に携わる者の習慣だな。外国人相手だと辟易されるのだ。そなたのように」
「じゃあ、イノイルにいる外国人はみんな同じ思いをしてるんですね」
「不便をかけるが、よろしく頼む。それで、そなたの職務の件だが、しばらくはわたしや他の者について回ってもらう。これは政治や国内のことについての勉強も兼ねているから、承知の上だろうが気を抜かないように。イノイルの内情を知ってもらう必要があるからな」
「ええ、それは楽しみです。大学ではイノイルの歴史や政治の講義は受けませんでしたから」
「ああ、そう言えば塔はもう見たか?」
 イサ・アンナは思い出したように言った。
「中はまだですが、青い鷲のステンドグラスなら外から拝見しました。見事ですね」
「わが曾祖父オーレン王の意匠だ。軍人ながら芸術的な才能も持ち合わせていたらしい。多趣味な人でね。塔の二階までは礼拝堂だが、三階から上は図書館になっている。オーレン王自ら集めた蔵書もあるぞ」
「本当ですか!」
 アルテミシアは瞳をきらきらと輝かせた。百年も前の貴重な蔵書が保管されているとは、是非ともお目にかかりたい。予想通りの反応にイサ・アンナは目を細めた。
「警備官には話を通させておくから、時間のある時にでも好きに使うがよい」
「ありがとうございます」
 アルテミシアは心からの感謝を述べた。王城の図書館に入ることができる者など、かなり限られているはずだ。同時に、重大な守秘義務が発生することもアルテミシアは知っている。ロハクあたりから注意事項を厳重に言い聞かされるに違いない。
「それにしても、オーレン王は多才だったんですね。城壁の中の森もオーレン王の設計だと聞きました」
「ふふ、漁師から国王になった男だからな。並の才覚ではあるまい」
 イサ・アンナは曾祖父のことを他人のように語りながら、どこか誇らしげにしている。
「森と言えばミーシャ、バルカ将軍邸の居心地はどうだ」
 イサ・アンナが尋ねると、アルテミシアはなぜか浴室での一件を思い出した。
「お風呂がとても気持ちよくて…その、困りましたけど、気に入りました」
「そうだろう。屋敷を管理するだけの使用人とバルカ将軍の直属の部下たちが持ち回りで最低限の世話を焼いているほかは、ほとんど人の出入りはないし、訓練場も近い。そなたの要求通りだろう」
 イサ・アンナはふふん、と顎を心持ち高く上げた。得意げだ。
「でも、いつまであの屋敷にいればよいのですか?」
 アルテミシアはずっと気になっていたことを尋ねた。バルカ将軍には妻はいないようだが、兵舎での共同生活ならともかく、いくら条件が合うとはいっても未婚の男女が同じ屋敷でずっと一緒に住むわけにもいかない。
 生まれ育ったルメオ共和国では雑多な文化を持つ人々が集まる土地柄、宗教や人間に対して寛容で、周辺の国々と違って自由な恋愛観があり、結婚前に恋人がいようがいまいが気にする者は多くない。花嫁の処女性などは少しも求められない大らかさがある。
 しかし、そういう感性は外国では概ね受け入れられないことが多い。ルメオでも、外国の王族や権力者と縁談の可能性がある元首の息女は、処女を大切に守るか息苦しい思いをして恋を秘めなければならない。イノイルも例外ではないだろう。別段、醜聞を恐れているわけではないが、ただでさえバルカ将軍に不信の目で見られているというのに、更に他の者の前で悪目立ちするのは得策とは言えない。
 アルテミシアの戸惑いを見て、イサ・アンナは安心させようとこんなことを言った。
「わたしには夫が二人いる」
 突然の告白に、アルテミシアは目を丸くした。
「えっ、…はい?」
「そなたが思うほどこの国は男女のことについて厳粛ではないということだ。我が家祖オーレン王にも、三人の妻がいた。父や祖父は一途に一人の妻のみを愛したがね。愛の形はさまざまだ」
「はあ…そうですね」
 またもや頭が追いつかず、愚にもつかない相槌を打った。
「男と同じ家に住んでいるからと言って、とやかく言ってくる者は幸せな青春時代を過ごせなかった年寄りくらいのものさ。そなたの居住地についてはバルカ将軍に一任したから、好きにしてよいぞ。あの屋敷に飽いたら城下に家を探すのもよし、男が出来て他所に移るならばそれでよし、そなたの自由だ。もちろん、城内に住む気になれば、いつでも侍女と部屋を用意する」
「まこと、かたじけないお話ですが…ううん」
 アルテミシアは腕組みをして考えた。城までの立地も、料理も、部屋も、正直とても気に入った。ただひとつの問題を除けば、あの屋敷は最高だ。
「まあ、時間はいくらでもある。ゆっくり考えるがよい。あれは多少頑固なところはあるが、よくできた男だから共同生活も問題ないであろう」
「それは」
 違う、と言おうとしたところで、言葉を飲み込んだ。浴室での一件を女王に告げ口するような形になるのは本意ではないし、あれはアルテミシアにも非がある。
「そうですね」
 その後は毎日の職務について聞かされた。朝七時に登城してイノイルの歴史や社会、各国の要人たちについての講義をロハクや他の従者たちから受けること、昼からは女王の側に控えること、夕方は兵士たちに混じって鍛錬すること、というのが主だった内容だ。
 イサ・アンナは諸々の取り決めの内容をサラサラと紙に書き足していき、最後に女王のサインと紋章の印鑑を押した後、くるくると巻き真鍮の輪で留めた。
「そなたの身分証だ。新参者は何かと苦労するからな。頭の固い役人連中に何か言われたら、それを見せるといい」
 アルテミシアはにやりとした。国家の最高権力者たる人物が、部下を「頭の固い役人連中」とは、やはりこの女王は変わっている。
「感謝します、イサ・アンナ様。でも…」
 アルテミシアは言いよどんだ。これから聞くことは、場合によっては墓穴を掘ることになるかもしれない。
「言ってごらん。これから一緒に仕事するのだから、不安は少なければ少ないほどいい」
「訊かないのですか。商船に乗るまでのいきさつを」
 船乗りの娘ならばいざ知らず、アルテミシアは片田舎の小さい家とはいっても貴族の出だ。その彼女が貿易船に乗っていたのは自分で考えてみても異常な事だが、雇い主の女王はそこに至る経緯を聞こうともしない。事情を話したくないアルテミシアにとってはありがたいことだが、多少の疑いも無くはない。こそこそ裏で調べられたりしたら、ずっと連絡を絶っている実家に居所が露見するおそれもあるのだ。
 ところが、イサ・アンナはこともなげに笑って答えた。
「言ったであろう。生まれはどうでもいい。わたしが出会ったのは船乗りのミーシャで、興味があるのは、そなたのこれからの人生だ」

 この日からさっそく講義が始まり、夕方は兵士の鍛錬場へも足を運んで、初日とは思えないほど慌ただしかった。ただ、鍛錬は想像以上に楽しかった。走り込みと軽い運動の後、筋骨隆々の老将が木刀で稽古をつけてくれたが、こんな風に剣を振るう船乗りは誰一人としていなかった。
 アルテミシアが兵卒と同じ薄いシャツと細身のズボンのまま鍛錬場を後にすると、その出口でサゲンが待っていた。
「初日はどうだった」
「上々」
 サゲンはアルテミシアに木綿の布と上着を投げてやった。
「わざわざ待っててくれたの?」
「通詞どのは馬に乗れないからな」
 サゲンが手を差し出す間もなく、アルテミシアは鐙に足をかけてひょいと馬の背に飛び乗った。
「そのことだけど、早朝か夜にイグリを貸してくれない?」
「なぜ」
「今朝の訓練を見ていて、彼がいちばん馬術に長けていると思ったから。わたしの馬術の先生になってくれないかなと思って」
 サゲンも馬に乗り、森の屋敷に向けて馬を歩ませ始めた。
「まさか誰がいちばん馬術がうまいかを見るために訓練を見学に来たとか言うなよ」
 したたかなまでの抜け目なさだ。サゲンはやれやれと首を振り、苦笑した。それにしても、櫓の上から大勢の兵たちの中、馬術に優れた者を選び抜いていたとは、驚かされる。イグリ・ソノは確かに隊で一番の騎手だ。
「あいつはあれでも忙しい。わざわざ自分で見繕ったのに悪いが貸せないな」
「そっか。じゃああの右から二列目の班を指揮していた茶色い髪の彼は…」
 と、アルテミシアが二番目の候補について聞こうかと思ったところで、サゲンが意外なことを言った。
「俺は何番目の候補だ」
「そもそも候補に入ってない」
 当然でしょとでも言うように、アルテミシアが言い放った。純粋な親切心から申し出ているのかもしれないが、そばで監視されるのはごめんだ。
「心外だな」
 サゲンが本当に不服そうな口調で言ったからアルテミシアはおかしくなったが、にやりと口が上がるのを堪えた。
「部下を貸して」
 そう言って食い下がったが、サゲンは譲らない。
「上官の俺が部下たちの貴重な時間を個人的な理由で削るわけにはいかない」
(この堅物)
 アルテミシアは心の中で毒づいた。しかしそれも一理ある。
「同じ屋敷で暮らすんだ。時間ならある。俺が教える」
 断固とした口調だ。もう拒否する理由も思い浮かばない。
「じゃあ」
 観念する他ないと悟り、アルテミシアは笑みを貼り付けた。
「よろしく」
「よし、明日からだ。三時に起きてこい」
 サゲンに教わるのはまったく気が進まなかったとは言え、その日の夜はわくわくしてよく眠れなかった。バルバリーゴの船に初めて乗った時と同じだ。新しいことを学ぶのは、アルテミシアにとっては何よりも楽しみなことなのだ。知識欲旺盛なのは、幼い頃から変わらない。

 翌朝、まだ暗いうちからベッドを飛び出し、持っている中でいちばん動きやすい服を選び始めた。ドレスは論外だ。女王の使者から届いた衣服の中に、リコやイグリたちと同じ軍服を見つけた。通詞に軍服とは似つかわしくないが、これも必要だろうと思ったあたり、女王やその側近たちには優れた観察眼がある。アルテミシアは青い軍服を両手で目線の高さまで持ち上げ、広げてまじまじと見つけた。鷲の紋章が刻印された金ボタンが左右に取り付けられ、縦襟には金糸の刺繍が入っている。さすがに軍服は女性のお下がりが無かったのだろう。誰かの少年時代のものかもしれない。アルテミシアの体には少し大きすぎるが、自分の体よりも大きい服を着るのは慣れている。
 おそらくこれも女王のお下がりだろうと思われる絹の寝衣を脱ぎ、髪を後ろで一つに束ねた。ボタンが多い上に兵装などしたこともなかったから、時間がかかった。遅れて起きてきたサゲンは、昨日と同じように一重まぶたがうっすら二重になっている。朝は苦手だと言っていたから、アルテミシアのために多少無理をしてくれたのだろう。青い軍服姿のアルテミシアを見て、少し驚いたように片眉を上げ、薄く口元に笑みを浮かべた。
 アルテミシアに対してまったくの無表情ではなくなったあたり、少なくとも敵意は消えたように見える。アルテミシアも徐々に警戒心を解いた。
「おはよう、バルカ将軍」
「おはよう。また先を越されたな」
 サゲンは、厩にいる数頭の立派な馬のうち一頭をアルテミシアに選んでやった。体は栗毛で、タテガミと尾はちょうど蜂蜜のような色をした、美しい馬だ。
「デメトラだ。経験豊富で気が優しいから、初心者にも合わせてくれるだろう」
 サゲンが鼻を撫でると、デメトラはぶるる、と顔を震わせて応えた。
「よろしくね、デメトラ」
 アルテミシアもサゲンの真似をして鼻を撫でた。
 初日の練習は、飼い葉を与えたり毛並みを揃えてやったり、馬の世話をすることから始まった。サゲンは初心者のアルテミシアに丁寧に教えてやった。
「まずは信頼関係を築くことだ。毎日やれ」
 アルテミシアが背に乗ったのは、最後の一時間程度だ。想像と違ったが、デメトラの世話もその背に乗ることも楽しかった。サゲンは良い教師だ。あまり細かいところまでは口を出さず、アルテミシアが自然とコツをつかむのを見守ってくれたように思う。
 一方、サゲンは舌を巻いた。アルテミシアは多くを語らなくても大体のことを理解し、その通りに身体を動かせるようだった。勘がいい。一時間の間に、一定のスピードで軽く走るくらいのことができるようになってしまった。兵士ならばいざ知らず、いまだかつてこのような女性には会ったことがない。
「筋がいいな。身体の使い方が上手い」
 部下にするのと同じように、アルテミシアのことを褒めてやった。
「嵐の中でもマストに登ったりしていたからね」
 アルテミシアは音もなく鞍から飛び降り、得意げに言った。初心者に付き合ってくれたデメトラの首を撫でてやると、デメトラは鼻を鳴らした。サゲンの青灰色の瞳がじっと興味深げにアルテミシアを見つめた。
「それだけではないだろう。身体に芯が通っている。歩き方も武術の心得のある者がするもので、それを無意識にやるほど身に染みついている」
 アルテミシアはぎくりとした。この男にはどうもすべてを見透かされているような気分になる。
「…裁縫や音楽より、小さい時からこういうことの方が得意だったの」
「筋金入りということか」
 と、サゲンは笑ったが、その一方でアルテミシアが慎重に言葉を選んでいることに気づいていた。過去のことを訊かれたり、図星を指されたりするたびに、彼女は奥歯を噛みしめる。癖なのだろう。
「君はあまり自分の話をするのが得意ではないらしいな」
「わたしの仕事は人の言葉を人に伝えることだからね」
「では君が船乗りになると決めた時のお父上の言葉を俺に教えてくれ」
 アルテミシアは知らぬ間にぎゅっと唇を引き結び、また奥歯を噛んだ。
「からかっているつもり?」
「冗談に聞こえるか」
 サゲンは探るようにアルテミシアを見た。
「いいえ」
 確かに相手は大真面目だ。胸に沸々と怒りが湧いてくる。
「親切ぶって探りを入れようってわけ」
 無理に笑みを作ったから、目の下の筋肉が引きつった。
「そういうあなたはどうなの?良い家柄の男がいい齢していまだ奥方もいないのは、男が好きだから?それとも、過去の女が忘れられないから?父親の跡を継がずに海軍に入ったのは、偉大な父親に負い目を感じているから?そう考えると、こんなところに住んでいる説明もつくね。あなたほどの立場なら、城下に立派な屋敷があるはずでしょう。家族や使用人達や門番がいる立派な屋敷が。パパと比べられたくなくて家を出たの?」
 努めて声を荒げることなく、淡々とまくし立てた。相手を怒らせるつもりだったのに、サゲンは相変わらず興味深そうにアルテミシアの瞳を覗き込んでくる。面白がっているようにも見えた。
「君が俺に興味があるとはな」
「全然。これっぽっちもない」
 今にも爆発しそうだ。
「さすが、貴族のお嬢様はなかなか鋭い。確かに、城下にはこれよりもよほど立派な父の屋敷がある。だが、門番はいない。参考までに」
 サゲンが言い終わる前に、アルテミシアが目の前に現れ、頬めがけて拳を振り上げた。サゲンは瞬時に片手でそれを受けたが、バシッと大きく音が響き、手のひらに強い衝撃を受けた。細い腕からは考えられないほどの力だ。予想通りではあるが。
 忌々しい男の顔に痣を付けることに失敗したアルテミシアは、ルメオの強い方言で何事か吐き捨てた。サゲンには聞き取れなかったが、口汚く罵られたのは間違いない。アルテミシアは怒りに燃えた目つきでサゲンを一瞥し、デメトラの轡を取って憤然とその場を立ち去った。
 サゲンは猫のような足つきで去っていく背中を見送った。特殊な状況なのは理解しているが、彼女には謎が多すぎる。女王の人選に口を挟みたくはない。しかし、まだ完全に信用して良い人物かどうかも分からないではないか。謎は不信へ繋がるのだ。 
 それにしてもあの気の強さはどうであろう。いや、気が短いとも言えるが。「お嬢様」などと呼ばれて侮られるのが我慢できないようだ。勝ち目が無くても食って掛かってくるその度胸には恐れ入る。サゲンは知らず知らずのうちに口元に笑みを浮かべていることに気づいた。

 厩へデメトラを戻したアルテミシアがその次にしたことは、城までの足を調達することだった。その日の厩番だったイグリ・ソノを厩舎で見つけるや否や、
「城まで乗せて」
 と有無を言わさず押しきった。
感想 4

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