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九、初仕事 - il primo compito -
サゲンは燭台の明かりがほのかに辺りを照らす中柔らかいベッドの上に半裸のまま寝そべり、細い陶のパイプで煙草を吸いながら、イライラと書斎での出来事を思い返していた。隣で馴染みの高級娼婦が赤い巻き毛の貼りついた真っ白な背中を向けて寝息を立てている。
(――とんでもない女だ)
と、髪の短い女のことを考えた。
(臆病者だと)
これほど取り乱したのは久しぶりだ。相手が女性であることを勘定に入れるなら、覚えている限りでは初めてのことだ。十代の思春期の頃、相手が母親であったことを除けば。
(‘わたし相手に勃つと思えない’?)
最初は侮辱されているのかと思った。しかし、サゲンの言葉の後に一瞬見せたアルテミシアの反応で考えを変えた。
(馬鹿な)
聡明な彼女には全く似つかわしくない迂闊さだ。自意識が低すぎる。隊の連中がどんな目で自分を見ているのか気付いていないというのか。
後頭部で一つに束ねられていても、赤みがかった金色の美しい髪は暗い髪色の多いイノイル人の中では人目を引く。日焼けの境界が目立たぬように肌を見せないドレスを着ても、馬に乗りやすいようにと軍装で城を歩いていても、細身だがほどよく筋肉がついて均整の取れた体つきや猫のようにしなやかな動きは男女問わず目を奪う。サゲンのように彼女の裸身を見たことがなくても、その魅力は服の上からだって分かる。堅物のサゲンですら時々、あの時一瞬だけ目にした裸身が脳裏に蘇ることがある。雑談の間に屈託なく笑えば男心をくすぐり、マーガレットの花びらのような形の唇が弧を描いて笑みを浮かべれば女たちはうっとりする。彼女と話している時のイグリや女王の侍女たちの表情がいい例だ。中性的で、不思議な魅力があるのだ。中でもサゲンにとって最も不都合なのは、あの眼だ。蜂蜜や森や海の色が複雑に混ざり合ったハシバミ色の瞳――本人の気分をありのまま映したかと思えば、生の感情を奥にすっかり隠してしまう。あれがサゲンを驚かせ、イラつかせるのだ。人の理性を失わせる魔力が備わっているとしか思えない。
(あれでよく純潔のままでいられたものだ)
男たちの乗る船では、恐らく父親代わりのバルバリーゴが鷹のような隙の無さで睨みをきかせていたに違いない。だから誰一人うら若きアルテミシアに手を出すことはおろか色目も使えずにいたのだろう。そうでなければ説明がつかない。いくら船の仲間が家族同然で彼女のことを妹あるいは弟のように思っていても、十五歳の娘から女性へと美しく変貌していく姿を目の前に、何か月も男ばかりで過ごす船乗りたちが全員そろって妙な気を起こさないなど、有り得ない。サゲンも軍を率いる者として同胞たちの感情はよく理解している。貿易船の船乗りも軍の将兵も何ら変わりはない。もしサゲンがバルバリ―ゴの立場なら、徹底して部下である年若い女性の貞操を守ろうとするだろう。実際にサゲンもそうするつもりだ。その身だけでなく、部下たちの士気、ひいては航海の安全を守るために。
幸か不幸か、それはアルテミシアに女性としての自意識を植え付けるのには役立たなかったようだ。バルバリーゴがアルテミシアに悟られないよう、涙ぐましい努力で部下たちを統率した結果、おそらく彼女は自分に女としてそれほどの魅力はないと思い込み、今も船に厳しい父親役がいた時と同じように振る舞っている。男として船員たちへの同情を禁じ得ない。
不意に彼女の鳩尾に触れたときの布越しに伝わる体温を思い出し、俄かに下腹部に熱が集まるのを感じた。本人の意図とは別の形だろうが、彼女の挑発は疑いようもなく成功だ。その証拠にサゲンがみじめにも熱くなった身体を鎮めるため、まんまと娼館へ赴く羽目になった。アルテミシア・リンドに自覚がないのが尚更悪い。
サゲンは大きく息をつき、パイプを盆に置いてベッドから起き上がった。隣で娼が小さく唸ってこちら側を向き、とろんとした緑の目で恨めし気にサゲンを見た。頬骨が高く目鼻立ちのはっきりした美しい女だ。
「もうお帰り?まだ夜も明けておりませんのに」
「早朝出航だ」
「まあ。任務の前にお見えになるなんて、お珍しいこと」
サゲンが逞しい胸板をシャツにすっかり包んでしまうと、娼――リュディヴィーヌは残念そうにサゲンの瞳を覗き込んで細く白い腕を首に巻き付け、ふっくらとした薔薇色の唇でサゲンに軽くキスをした。サゲンがキスを返す気がないと分かった後は、透けるほど薄い布のガウンを羽織って立ち上がり、しゃなりしゃなりと真鍮のコート掛けからずっしりと重い青の軍服の上着を取って来て広い肩に掛けた。他の客にするように「次はいついらしてくださるの?」などとは言わず、リュディヴィーヌは無言でサゲンを送り出した。
サゲンとは十年ほどの付き合いになるから、彼が足繁く娼館に通う類の男ではないとは重々分かっている。リュディヴィーヌが十九歳の時にこの娼館にやって来てから七人目の客がサゲンだった。最初を除けば、この男がここへ現れるときは毎回娼婦を買う以外に目的がある。
多くの権力者や外国の駐在員が出入りするこのイノイル随一の高級娼館はオアリスの中心から少し離れたジオリスという界隈にあり、一見しては大金持ちの豪邸のように見えるが、その実態はあらゆる情報の宝庫だ。女将のジュリアは五十歳を過ぎても容色衰えない柔和な顔立ちの上品な美女だが、ビジネスのこととなると軍人並みに厳しい。いくら相手が国王の僕でも簡単に他の客の情報を流したりはしないし、店の女たちの安全を守ることには常に心を砕いている。そんなジュリアとサゲンの妥協点が、リュディヴィーヌだ。
高級娼婦になるには見た目の美しさだけでなく、芸事や話術に長け、音楽や絵画などの芸術に関するセンス、一般よりも多くの教養を身に着けていなければならない。高級娼館の中でも更に格式の高い一流の娼館となれば、並大抵の教養や芸事の腕前ではもてなし役は務まらない。その点、リュディヴィーヌはエマンシュナの格式ある家柄の出身ということもあって芸術や言語に精通している上、上流階級の事情に詳しく、尚且つ柔軟だ。相手の好みによって話術の上手いお喋り女にもなるし、無口で冷淡な女にもなる。頭が良く手練手管を巧みに扱う彼女だが、気に入った相手を決して裏切らない誠実さがある。リュディヴィーヌは、サゲンに対して得意の手管を使わず、まだ娼婦ではなかった頃の素のままの自分で接している。それが、サゲンに対する彼女の礼儀であり、サゲンとはビジネスを挟んだ一種の友人のような関係だと感じているからだ。
サゲンはそういうリュディヴィーヌを仕事の上でも個人的にも気に入り、信頼している。生理的な欲求を満たすことで彼女の馴染み客としての務めを果たし、通常より多くの料金を女将に支払うことで彼女の黙認を受け、リュディヴィーヌが他の客や娼婦たちから見聞きしたことを聞く権利を得ている。
ところが、今回は違った。
普段なら任務の前日には決して女を抱かないサゲンが娼館へ赴いたのも常ならぬことだ。それに加えて、美しいリュディヴィーヌの身体もベッドでの巧みな技術も、サゲンの鬱屈した性欲を一時的に満たす以上の役には立たなかった。こんなに気分を立て直せないのは初めてだ。
サゲンは愛馬を駆り、日が昇る前にティグラ港へ到着した。既に何隻もの軍船が兵士たちを待っている。馬を港付近の軍用の厩で馬丁に託した後、船に乗った。船で宿直していた部下の一人がサゲンの姿を見るなり驚き、敬礼した。
「おはようございます、将軍。随分早いようですが、何か問題でも起きましたでしょうか」
サゲンは苦い顔になるのをこらえ、無表情のまま「問題ない」と言って仮眠のために船室へ降りて行った。
問題なら、ある。オパールのように様々な色を孕んだハシバミ色の問題が。
二時間ほどすると、雲がまばらに空を覆う中、まだ低い位置にある朝陽が光線のように射してキラキラと海を輝かせ始めた。同時に、兵たちがそれぞれの軍隊長に導かれて続々と現れ、停泊している軍船に乗り込んでいく。砲弾や弩級、刀剣、槍などの武器も次々に積み込まれ、あっという間に戦備が整った。その慌ただしい人混みの中に、サゲンの五人の部下たちとアルテミシアの姿もあった。
夜更けまで寝付けなかったアルテミシアは、燭台の蝋燭が自然に消えるまで書斎から借りてきた本を読み続けていた。蝋燭が消えた後は暗闇の中で何度も寝返りを打ち、終ぞ深い眠りに落ちることなく出発の時間を迎えた。サゲンの姿が全く見えないのはありがたかったが、果たしていつ起きてくるのかと気になった。皆と同じ青の軍服に着替えて厩へ向かったアルテミシアは、イグリやリコたちと主人の姿がないまま屋敷を発った。他の部下たちはといえば、上官がどこにいるのかと訝しんではいたものの、別段心配するような素振りは見せなかった。それほど信頼を置いているに違いない。
(わたしは信頼されてないけど)
そう思いつくと、ムッと頬を膨らませた。寝付けなかったのは、怒っているからだ。あの時感じたのは、恐怖ではなく、怒りだった。自分でそう結論づけた。
道中は騎馬の名手のイグリと負けず嫌いなブランといっしょに早駆けで競走しながら港まで行った。レイとロエルとリコは後方で三人の荷駄を半分持ってやり、子供のようにはしゃいで馬を駆る三人を呆れたように笑っていた。途中でリコも前方の競走に参加し、三人を軽々抜いて行った。覚えたての馬で疾駆するのは思った以上に楽しく、ティグラ港へ着く頃にはずいぶん気持ちが晴れた。
(やってやる)
軍議に出て参謀とバルカ将軍を説き伏せ、作戦を成功させる。これが今最も重大な課題だ。
サゲンは上官専用の船室ですでに四人の参謀たちと軍議に入っている。机の上に海図が広げられ、アム共和国周辺の島々にいくつも小さなピンが刺してある。海賊の拠点と思われる場所だ。アムの港の場所には、大小の船の模型がいくつも置かれている。参謀たちはみな三十代から五十代の堂々たる体格の男たちで、その経歴も華々しい。そのうち三人は十二年前の海賊団との戦で大なり小なり自分の隊を率いていた。一人はサゲンより二つ年下の軍師で、名をゴラン・ダリオスと言った。この中でサゲンが最も信を置く新任の将校だ。
サゲンは彼らに議論をさせ、自らはそのあいだ口を挟まない。司令官である自分の意見は最小限に止めるのがいつものやり方だ。そうでないと、遠慮して同調する者が出、あらゆる手段を検討できなくなる恐れがあるからだ。
小型の船を多く配置して偵察隊を出し、近くにいる隊と合流して海賊団の拠点を奇襲するのはどうかと白い口髭を蓄えた将校が提案した。海図のピンの周りに小さな船、その後方に大きな模型が置かれている。それに真っ先に難色を示したのがゴランだった。
「それでは船を配置する範囲があまりに広く、他の隊が到着するまでに返り討ちに遭います。連絡手段も覚束ない」
「では策を申してみよ」
その時、船室のドアが勢いよく開いた。皆が一様にドアの方を向くと、凛々しい軍装できりりと眉を上げた新参の通詞がいた。
白い髭の将校が眉をひそめたのを、アルテミシアは見逃さなかった。アルテミシアは心の中で舌を出し、この将校を白髭さんと呼ぶことに決めた。
「まことに僭越ながら、このアルテミシア・リンド、百戦錬磨の皆様に畏まって進言いたします」
イグリに教えてもらった海軍式の礼をして、にっこりと笑って見せた。サゲンと目が合うと、昨夜掴まれた腕と鳩尾がまた熱を持った気がしたが、殊更笑顔を作って取り繕った。
思った通り、アルテミシアの作戦に白髭さんが真っ向から反対したが、意外にもいちばん若年のゴランが大いに賛同した。
「やってみましょう。上手くいけば最小限の戦闘で海賊を生け捕りにできます。首領を尋問して他の海賊団の情報を引き出し、カノーナスを捕らえられるかもしれません」
「うまくいけば、だろう。途中でバレる可能性の方が大きい」
白髭さんが言うと、その隣の無精髭の将校もウン、と頷いた。サゲンは相変わらず無言でそのやり取りを聞いている。
「バレません。軍船も軍人も使いませんから」
これを聞いて、ゴランとサゲンを除く将校たちは嘲るようにワッと笑い出した。
「軍を使わずどう戦うつもりだ」
軍議を開始してから初めてサゲンが口を開いた。アルテミシアは青灰色の目をまっすぐ見て、笑みを浮かべた。サゲンの眉がわずかに中央へ動く。
「それはですね…」
アルテミシアはピンの周りに置かれた船の模型を全て取り払い、大きな船をアムから離れた場所に置いた。
十日後、アム共和国の貿易港を出た真新しく立派な帆船は、エマンシュナ王国の南岸へ向かう海路をゆっくり進んでいた。帆にはアム共和国元首公認商船団の太陽の紋章が大きく描かれている。これが意味するものは、他国の王家あるいは元首への献上品を積んでいるということだ。乗っているのはアムの若く屈強な船乗りたちで、船長も四十前半の働き盛りだった。その中に、再び麻布で髪を隠し、船乗りの格好をしたアルテミシアもいた。イノイルのずっと南に位置するだけあって、アムの海域は暑い。貿易船が出航してから三日、青空が広がって、水平線にはもくもくと真っ白な雲が立ち昇っている。
「喉が乾いてもワインに手をつけないでよ」
そう忠告した相手は、リコだ。
「いやだなあ、ミーシャ。僕だって元は商売人だったんだ。そんなバカなことはしないよ」
リコが例の人好きのする笑顔で言った。
日が沈みかけると、暑さもだいぶ和らいで、涼しい海風が肌を撫で始めた。波は穏やかだ。アルテミシアは柱の上の見張り台で周囲を警戒している。そこへ、交代役のイグリが登ってきた。ほかに、イノイル軍の兵士は十人いる。全く軍人を乗せないと言うアルテミシアの意見はサゲンにより却下されたが、アルテミシアは人選の権利を勝ち取った。みな、軍人に見えない、貿易や商人の経歴がある、商船に乗ったことがあるなどの基準で選んだ。リコは商家の生まれ、イグリは貿易商を営む叔父を持ち、二人とも子供の頃から船に乗っていた経験がある。尚且つリコは軍人にしては顔立ちが優しすぎるし、イグリは華やかすぎる。文句なしだ。想像通り、二人とも船乗りの衣装が板についていた。
イグリはアルテミシアの隣に腰掛け、温かい生姜湯の入ったカップを渡した。
「ありがと」
アルテミシアが礼を言うと、イグリは貴公子のような笑顔で応えた。
「…出港の前日、うちの上官に何かあったか?」
イグリが訊くと、アルテミシアはわずかに視線を逸らした。サゲンとは軍議以来会話はおろか、顔も合わせていない。当然ながら、書斎でのことは誰にも言うつもりはない。
「さあ。どうしてそう思うの?」
と、しらばっくれることにした。
「何でってそりゃ、あのカタブツの将軍が任務の前にジオリスへ行ったのなんか初めてだからさ」
イグリは、出港の日にサゲンの上着から上物の香水の残り香がわずかに香っていたのに気づいていた。上官が何か情報を持ち帰って来るときには、必ず嗅ぐ匂いだった。大っぴらに口にこそ出さないものの、下士官たちはサゲンがどこでどのように情報を手に入れるかを知っている。しかし、あの日サゲンが持ち帰ってきたのは、例のバラの香りだけだった。
「ジオリス?」
アルテミシアは首を傾げた。
(しまった)
イグリは口を噤んだ。ジオリスがどういう場所か知らないアルテミシアにわざわざ言うことではない。それに、女性とするには少々気まずい話題だ。
「いい、忘れてくれ。陛下直々に指揮を任されたというし、うちの上官にも何か思うところがあったんだろう」
アルテミシアは未だに訝しげな顔でイグリを見ていたが、やがて「ふうん」と言って笑った。内心では自分に関係あると思われていないことに安堵していた。その頬が水平線へ沈む夕陽に照らされてオレンジ色に染まり、瞳が黄金の光を映してきらめいている。イグリは磁石で引きつけられるようにその頬に触れた。アルテミシアは不思議そうにその手を横目で見ている。
「ミーシャ」
イグリが呼ぶと、アルテミシアがその目に視線を戻した。
「君はすごくきれいだ」
イグリが低い声で言うと、アルテミシアはちょっと目を見開き、次の瞬間に笑い出した。
「ちょっと、まじめにやってよ!いつもそんなことやってるの?」
イグリは予想外の反応に思わず手を引っ込めてしまった。笑いのおさまらないアルテミシアがバシッとイグリの肩を叩いた。
「けっこう見境ないって城の女中たちが噂してたけど、まさかここまでとはね。ま、どうもありがと」
アルテミシアはおかしそうに笑い続けているが、イグリにとっては冗談ではないし、大真面目だ。見境がないとは酷い。確かに女中たちにしょっちゅう声をかけてはいるし、夜遊びに誘うことも無くはないが、アルテミシアに対しては今までのどの褒め言葉よりも真実だったのだ。
(身から出た錆か…)
イグリは初めて自分の享楽的な性格を呪った。どう軌道修正しようかと考えていると、アルテミシアが静かに色めき立った。
「行くよ」
アルテミシアは声を低くして言った。
船員たちは素早く戦闘準備を始めた。海賊船がこの船に追いつくまで、あと二十分もない。通常の貿易船と全く同じ装備だから、軍船ほどの武器はないし砲弾も少ない。が、船長は大砲の指示を出し、威嚇のためにありったけの砲弾を打ち鳴らした。無論、そんなものが海賊相手に効かないのは分かっている。
予想通り、十五分も経つ頃にはアムの大商船よりもふた回りほど小さい海賊船が船体を近づけ、浅黒い肌をした屈強な海賊たちが梯子をかけてどっと船に侵入してきた。船員たちは自分や仲間の身を守るために剣を振るって戦ったが、海賊は数が多い上、賊を生業としているだけあって動きに無駄がなく、手強かった。一時間後には船長を含めた全員が捕縛され、船が海賊に乗っ取られた。船長が無駄な抵抗をしないよう船員たちに呼びかけたため、全員ケガを負ってはいるものの、幸い今のところ死者は出ていない。
「積荷を全て奪え。若い男は全員奴隷商に売る。抵抗すれば殺せ」
ひときわ肌の黒い中年の海賊がひどく訛りのある言葉で指示を出した。イノイル人とアム人には、辛うじて意味が分かるほどだ。背は高く、頭から足まで筋肉に覆われているような体つきで、おまけに腕や顔が毛むくじゃらなために醜悪な熊のような風貌だった。これが首領だろう。
「おい!」
叫んだのは、リコだ。
「相手をわかってるのか?俺たちはエマンシュナ王への献上品を運んでいるんだ!お前たち、タダじゃ済まないぞ!」
首領はぞっとするような薄ら笑いを浮かべ、縛られたリコのそばにいる海賊に目配せをした。海賊はリコの顔を三度思い切り殴り、腹を何発か蹴り上げると、最後に唾を吐きかけた。リコは痛ましく唸り、口から血を流してぐったりした。他の船員たちが恐怖や怒りで身じろぎすると、首領は睨みを利かせて不潔な黄色い歯を見せて笑った。
「献上品ねえ。毎日肉体労働で忙しい俺たちにこそふさわしいじゃねえか」
そう言って長が下品な笑い声を響かせると、他の海賊たちは諸手を挙げて沸き立った。
「お頭!下にたんまり上等の酒がありますぜ」
海賊の一人がニヤニヤしながら首領に言うと、海賊の首領は王のような仕草で部下を褒めた。
「いい船を手に入れたもんだ。今日はお前らにも分け前をくれてやる!」
首領が更に声を張り上げ、部下たちをはやし立てた。海賊は甲高い声をあげ、彼らの長を褒め称えた。
船員たちは縛られたまま、献上品の酒樽が開けられていくのを見守った。船にはいくつもの大きな酒樽が保管されているほか、干し肉やドライフルーツなどの保存食、一流の織物や調度品が保管されている。無粋な海賊たちは豪奢な装飾品には目もくれず、酒と食べ物を次々と運び出して大宴会を始めた。貿易船を乗っ取った者のほか、海賊船に残っている海賊たちも一人残らず酒を浴びるように飲み、共和国の焼き印の押された酒樽が空になると、国家を冒涜するかのように片っ端から打ち壊して海に捨てていった。中には大いに酔って憂さ晴らしに捕虜となった船員を殴り始める者もいたが、「売り物を減らすな」という命令が出たために渋々やめた。
「おいお前、顔を見せてみろ」
リコが腫れあがった顔を上げると、海賊の一人がニタニタと下卑た笑みを見せ、顎を掴んだ。
「チッ、あの野郎顔までボコボコにしやがって。男にしちゃあ可愛い顔してたのになあ、お嬢ちゃん」
言い終わる前に、リコが血の混じった唾を海賊の顔に吐きかけた。海賊はギロリと憤怒の形相で睨み、リコの腹を何度も蹴った。肋骨から嫌な音がした。リコが血反吐を吐いて再びぐったりすると、海賊は胸ぐらを掴んで酒と汗と血の混じった悪臭のする醜い顔を近づけた。
「お前みたいな奴はなあ、高値で売れるんだ。金持ち連中にはどうしようもねえ変態がいるんだよ。若い男のケツでやった後に生きたまま皮を剥ぐのが好きなイカレ野郎とかな」
それでもリコの恐怖の表情が見られなかった海賊は乱暴にリコを放し、ドスドスと酒樽の方へ去って行った。
「なあ、本当に大丈夫か」
リコの隣で縛られているアム共和国の船員が小声で訊いた。作戦については全員把握しているが、さすがに不安になってきたらしい。
リコはうなだれて痛みに苦しみながら、息だけで言った。
「大丈夫。僕らの仲間を信じて」
遠方から大砲の轟音が響いたのを聞き、大きな帆を張った軍船の上では将校や兵士たちが色めきたった。
「戦闘が始まったようです」
下士官から報告を受けたサゲンと参謀たちは、隊を分けて小型の船に乗り込むよう下知した。帆では無く櫂を漕いで進む船で、帆船よりも小回りが利き、漕ぎ手の数と技術によってはスピードもかなり出る。ひとつの船に三十人ほどが乗り込んだ。それが夜闇のなかで五十艘ほど大洋へ繰り出していく。味方の船にぶつからないよう、しかも隠密に進む必要がある。
「目立たぬよう、灯はできるだけ点けずに慎重に進め。合図が来たらすぐ合流できるよう、一定の距離を保て。しかし近付きすぎるな」
アム軍の指揮官カルロ・スビートが注意を促すと、アム・イノイル連合軍の兵士たちは次々に船を漕ぎ始めた。
「薬が効いたら合図が来るはずです」
ゴランが囁くように言った。サゲンも当然承知のことだ。
「わかっている」
眉間に皺を寄せ、サゲンが静かに言った。
「いつになく不安そうなご様子でしたから」
「いらぬ世話だ」
と言いながら、サゲンは轟音の響いた方向を遠く見つめた。
「…三時間だ。三時間で合図がなければ、待たずに攻撃開始の合図をする」
ゴランは無言で頷いた。
あれからアルテミシアとは一言も交わさなかったが、内心では舌を巻いていた。多分にゴラン・ダリオスの後押しが効いてはいるものの、あの頑固で経験豊富な将校たちはおろか、アムの軍責任者までをも見事説得してしまったのだ。しかも、軍の人間は目立つからと言って、本物の貿易船の船乗りを使うとは、突飛でかなり危険だ。その危険な作戦に勇んで参加してくれたアムの船乗りたちの勇猛さも称賛に値する。船乗りには船乗りの互いに対する敬意があり、不思議な信頼関係で結ばれている。中には女だからとアルテミシアを軽視する者もいたが、アルテミシアの上司だったバルバリーゴ船長の名はアムの船乗りたちも耳にしたことがあるらしく、彼女がその名を口にした途端に彼らは態度を変えた。すっかり彼女は船乗り連中を乗せてしまった。
アルテミシアが乗せてしまったのは、船乗りだけではない。商人や造船業者もそうだ。作戦に必要な船や大量の酒や他の大量の品々、薬などは、全て彼女自身が出向いて値段の交渉をし、手配した。必要があれば、共和国元首邸にまで足を運んだ。これらの準備を目立たぬよう、しかも五日という極めて短い時間でやってのけた。見事と言う他ない。
ただ、不安が拭えない。合図の方法があまりに危険すぎる。何事もなく予定通りに行けばよいが。
五十艘の奇襲船が出発を終えると、サゲンも軍船から小型の船へと降り立った。船の漕ぎ手の中には、レイ、ブラン、ロエルの姿もある。
「母船は任せたぞ」
暗闇の中、軍船に残ったゴランに告げてサゲンたちも出発した。
(――とんでもない女だ)
と、髪の短い女のことを考えた。
(臆病者だと)
これほど取り乱したのは久しぶりだ。相手が女性であることを勘定に入れるなら、覚えている限りでは初めてのことだ。十代の思春期の頃、相手が母親であったことを除けば。
(‘わたし相手に勃つと思えない’?)
最初は侮辱されているのかと思った。しかし、サゲンの言葉の後に一瞬見せたアルテミシアの反応で考えを変えた。
(馬鹿な)
聡明な彼女には全く似つかわしくない迂闊さだ。自意識が低すぎる。隊の連中がどんな目で自分を見ているのか気付いていないというのか。
後頭部で一つに束ねられていても、赤みがかった金色の美しい髪は暗い髪色の多いイノイル人の中では人目を引く。日焼けの境界が目立たぬように肌を見せないドレスを着ても、馬に乗りやすいようにと軍装で城を歩いていても、細身だがほどよく筋肉がついて均整の取れた体つきや猫のようにしなやかな動きは男女問わず目を奪う。サゲンのように彼女の裸身を見たことがなくても、その魅力は服の上からだって分かる。堅物のサゲンですら時々、あの時一瞬だけ目にした裸身が脳裏に蘇ることがある。雑談の間に屈託なく笑えば男心をくすぐり、マーガレットの花びらのような形の唇が弧を描いて笑みを浮かべれば女たちはうっとりする。彼女と話している時のイグリや女王の侍女たちの表情がいい例だ。中性的で、不思議な魅力があるのだ。中でもサゲンにとって最も不都合なのは、あの眼だ。蜂蜜や森や海の色が複雑に混ざり合ったハシバミ色の瞳――本人の気分をありのまま映したかと思えば、生の感情を奥にすっかり隠してしまう。あれがサゲンを驚かせ、イラつかせるのだ。人の理性を失わせる魔力が備わっているとしか思えない。
(あれでよく純潔のままでいられたものだ)
男たちの乗る船では、恐らく父親代わりのバルバリーゴが鷹のような隙の無さで睨みをきかせていたに違いない。だから誰一人うら若きアルテミシアに手を出すことはおろか色目も使えずにいたのだろう。そうでなければ説明がつかない。いくら船の仲間が家族同然で彼女のことを妹あるいは弟のように思っていても、十五歳の娘から女性へと美しく変貌していく姿を目の前に、何か月も男ばかりで過ごす船乗りたちが全員そろって妙な気を起こさないなど、有り得ない。サゲンも軍を率いる者として同胞たちの感情はよく理解している。貿易船の船乗りも軍の将兵も何ら変わりはない。もしサゲンがバルバリ―ゴの立場なら、徹底して部下である年若い女性の貞操を守ろうとするだろう。実際にサゲンもそうするつもりだ。その身だけでなく、部下たちの士気、ひいては航海の安全を守るために。
幸か不幸か、それはアルテミシアに女性としての自意識を植え付けるのには役立たなかったようだ。バルバリーゴがアルテミシアに悟られないよう、涙ぐましい努力で部下たちを統率した結果、おそらく彼女は自分に女としてそれほどの魅力はないと思い込み、今も船に厳しい父親役がいた時と同じように振る舞っている。男として船員たちへの同情を禁じ得ない。
不意に彼女の鳩尾に触れたときの布越しに伝わる体温を思い出し、俄かに下腹部に熱が集まるのを感じた。本人の意図とは別の形だろうが、彼女の挑発は疑いようもなく成功だ。その証拠にサゲンがみじめにも熱くなった身体を鎮めるため、まんまと娼館へ赴く羽目になった。アルテミシア・リンドに自覚がないのが尚更悪い。
サゲンは大きく息をつき、パイプを盆に置いてベッドから起き上がった。隣で娼が小さく唸ってこちら側を向き、とろんとした緑の目で恨めし気にサゲンを見た。頬骨が高く目鼻立ちのはっきりした美しい女だ。
「もうお帰り?まだ夜も明けておりませんのに」
「早朝出航だ」
「まあ。任務の前にお見えになるなんて、お珍しいこと」
サゲンが逞しい胸板をシャツにすっかり包んでしまうと、娼――リュディヴィーヌは残念そうにサゲンの瞳を覗き込んで細く白い腕を首に巻き付け、ふっくらとした薔薇色の唇でサゲンに軽くキスをした。サゲンがキスを返す気がないと分かった後は、透けるほど薄い布のガウンを羽織って立ち上がり、しゃなりしゃなりと真鍮のコート掛けからずっしりと重い青の軍服の上着を取って来て広い肩に掛けた。他の客にするように「次はいついらしてくださるの?」などとは言わず、リュディヴィーヌは無言でサゲンを送り出した。
サゲンとは十年ほどの付き合いになるから、彼が足繁く娼館に通う類の男ではないとは重々分かっている。リュディヴィーヌが十九歳の時にこの娼館にやって来てから七人目の客がサゲンだった。最初を除けば、この男がここへ現れるときは毎回娼婦を買う以外に目的がある。
多くの権力者や外国の駐在員が出入りするこのイノイル随一の高級娼館はオアリスの中心から少し離れたジオリスという界隈にあり、一見しては大金持ちの豪邸のように見えるが、その実態はあらゆる情報の宝庫だ。女将のジュリアは五十歳を過ぎても容色衰えない柔和な顔立ちの上品な美女だが、ビジネスのこととなると軍人並みに厳しい。いくら相手が国王の僕でも簡単に他の客の情報を流したりはしないし、店の女たちの安全を守ることには常に心を砕いている。そんなジュリアとサゲンの妥協点が、リュディヴィーヌだ。
高級娼婦になるには見た目の美しさだけでなく、芸事や話術に長け、音楽や絵画などの芸術に関するセンス、一般よりも多くの教養を身に着けていなければならない。高級娼館の中でも更に格式の高い一流の娼館となれば、並大抵の教養や芸事の腕前ではもてなし役は務まらない。その点、リュディヴィーヌはエマンシュナの格式ある家柄の出身ということもあって芸術や言語に精通している上、上流階級の事情に詳しく、尚且つ柔軟だ。相手の好みによって話術の上手いお喋り女にもなるし、無口で冷淡な女にもなる。頭が良く手練手管を巧みに扱う彼女だが、気に入った相手を決して裏切らない誠実さがある。リュディヴィーヌは、サゲンに対して得意の手管を使わず、まだ娼婦ではなかった頃の素のままの自分で接している。それが、サゲンに対する彼女の礼儀であり、サゲンとはビジネスを挟んだ一種の友人のような関係だと感じているからだ。
サゲンはそういうリュディヴィーヌを仕事の上でも個人的にも気に入り、信頼している。生理的な欲求を満たすことで彼女の馴染み客としての務めを果たし、通常より多くの料金を女将に支払うことで彼女の黙認を受け、リュディヴィーヌが他の客や娼婦たちから見聞きしたことを聞く権利を得ている。
ところが、今回は違った。
普段なら任務の前日には決して女を抱かないサゲンが娼館へ赴いたのも常ならぬことだ。それに加えて、美しいリュディヴィーヌの身体もベッドでの巧みな技術も、サゲンの鬱屈した性欲を一時的に満たす以上の役には立たなかった。こんなに気分を立て直せないのは初めてだ。
サゲンは愛馬を駆り、日が昇る前にティグラ港へ到着した。既に何隻もの軍船が兵士たちを待っている。馬を港付近の軍用の厩で馬丁に託した後、船に乗った。船で宿直していた部下の一人がサゲンの姿を見るなり驚き、敬礼した。
「おはようございます、将軍。随分早いようですが、何か問題でも起きましたでしょうか」
サゲンは苦い顔になるのをこらえ、無表情のまま「問題ない」と言って仮眠のために船室へ降りて行った。
問題なら、ある。オパールのように様々な色を孕んだハシバミ色の問題が。
二時間ほどすると、雲がまばらに空を覆う中、まだ低い位置にある朝陽が光線のように射してキラキラと海を輝かせ始めた。同時に、兵たちがそれぞれの軍隊長に導かれて続々と現れ、停泊している軍船に乗り込んでいく。砲弾や弩級、刀剣、槍などの武器も次々に積み込まれ、あっという間に戦備が整った。その慌ただしい人混みの中に、サゲンの五人の部下たちとアルテミシアの姿もあった。
夜更けまで寝付けなかったアルテミシアは、燭台の蝋燭が自然に消えるまで書斎から借りてきた本を読み続けていた。蝋燭が消えた後は暗闇の中で何度も寝返りを打ち、終ぞ深い眠りに落ちることなく出発の時間を迎えた。サゲンの姿が全く見えないのはありがたかったが、果たしていつ起きてくるのかと気になった。皆と同じ青の軍服に着替えて厩へ向かったアルテミシアは、イグリやリコたちと主人の姿がないまま屋敷を発った。他の部下たちはといえば、上官がどこにいるのかと訝しんではいたものの、別段心配するような素振りは見せなかった。それほど信頼を置いているに違いない。
(わたしは信頼されてないけど)
そう思いつくと、ムッと頬を膨らませた。寝付けなかったのは、怒っているからだ。あの時感じたのは、恐怖ではなく、怒りだった。自分でそう結論づけた。
道中は騎馬の名手のイグリと負けず嫌いなブランといっしょに早駆けで競走しながら港まで行った。レイとロエルとリコは後方で三人の荷駄を半分持ってやり、子供のようにはしゃいで馬を駆る三人を呆れたように笑っていた。途中でリコも前方の競走に参加し、三人を軽々抜いて行った。覚えたての馬で疾駆するのは思った以上に楽しく、ティグラ港へ着く頃にはずいぶん気持ちが晴れた。
(やってやる)
軍議に出て参謀とバルカ将軍を説き伏せ、作戦を成功させる。これが今最も重大な課題だ。
サゲンは上官専用の船室ですでに四人の参謀たちと軍議に入っている。机の上に海図が広げられ、アム共和国周辺の島々にいくつも小さなピンが刺してある。海賊の拠点と思われる場所だ。アムの港の場所には、大小の船の模型がいくつも置かれている。参謀たちはみな三十代から五十代の堂々たる体格の男たちで、その経歴も華々しい。そのうち三人は十二年前の海賊団との戦で大なり小なり自分の隊を率いていた。一人はサゲンより二つ年下の軍師で、名をゴラン・ダリオスと言った。この中でサゲンが最も信を置く新任の将校だ。
サゲンは彼らに議論をさせ、自らはそのあいだ口を挟まない。司令官である自分の意見は最小限に止めるのがいつものやり方だ。そうでないと、遠慮して同調する者が出、あらゆる手段を検討できなくなる恐れがあるからだ。
小型の船を多く配置して偵察隊を出し、近くにいる隊と合流して海賊団の拠点を奇襲するのはどうかと白い口髭を蓄えた将校が提案した。海図のピンの周りに小さな船、その後方に大きな模型が置かれている。それに真っ先に難色を示したのがゴランだった。
「それでは船を配置する範囲があまりに広く、他の隊が到着するまでに返り討ちに遭います。連絡手段も覚束ない」
「では策を申してみよ」
その時、船室のドアが勢いよく開いた。皆が一様にドアの方を向くと、凛々しい軍装できりりと眉を上げた新参の通詞がいた。
白い髭の将校が眉をひそめたのを、アルテミシアは見逃さなかった。アルテミシアは心の中で舌を出し、この将校を白髭さんと呼ぶことに決めた。
「まことに僭越ながら、このアルテミシア・リンド、百戦錬磨の皆様に畏まって進言いたします」
イグリに教えてもらった海軍式の礼をして、にっこりと笑って見せた。サゲンと目が合うと、昨夜掴まれた腕と鳩尾がまた熱を持った気がしたが、殊更笑顔を作って取り繕った。
思った通り、アルテミシアの作戦に白髭さんが真っ向から反対したが、意外にもいちばん若年のゴランが大いに賛同した。
「やってみましょう。上手くいけば最小限の戦闘で海賊を生け捕りにできます。首領を尋問して他の海賊団の情報を引き出し、カノーナスを捕らえられるかもしれません」
「うまくいけば、だろう。途中でバレる可能性の方が大きい」
白髭さんが言うと、その隣の無精髭の将校もウン、と頷いた。サゲンは相変わらず無言でそのやり取りを聞いている。
「バレません。軍船も軍人も使いませんから」
これを聞いて、ゴランとサゲンを除く将校たちは嘲るようにワッと笑い出した。
「軍を使わずどう戦うつもりだ」
軍議を開始してから初めてサゲンが口を開いた。アルテミシアは青灰色の目をまっすぐ見て、笑みを浮かべた。サゲンの眉がわずかに中央へ動く。
「それはですね…」
アルテミシアはピンの周りに置かれた船の模型を全て取り払い、大きな船をアムから離れた場所に置いた。
十日後、アム共和国の貿易港を出た真新しく立派な帆船は、エマンシュナ王国の南岸へ向かう海路をゆっくり進んでいた。帆にはアム共和国元首公認商船団の太陽の紋章が大きく描かれている。これが意味するものは、他国の王家あるいは元首への献上品を積んでいるということだ。乗っているのはアムの若く屈強な船乗りたちで、船長も四十前半の働き盛りだった。その中に、再び麻布で髪を隠し、船乗りの格好をしたアルテミシアもいた。イノイルのずっと南に位置するだけあって、アムの海域は暑い。貿易船が出航してから三日、青空が広がって、水平線にはもくもくと真っ白な雲が立ち昇っている。
「喉が乾いてもワインに手をつけないでよ」
そう忠告した相手は、リコだ。
「いやだなあ、ミーシャ。僕だって元は商売人だったんだ。そんなバカなことはしないよ」
リコが例の人好きのする笑顔で言った。
日が沈みかけると、暑さもだいぶ和らいで、涼しい海風が肌を撫で始めた。波は穏やかだ。アルテミシアは柱の上の見張り台で周囲を警戒している。そこへ、交代役のイグリが登ってきた。ほかに、イノイル軍の兵士は十人いる。全く軍人を乗せないと言うアルテミシアの意見はサゲンにより却下されたが、アルテミシアは人選の権利を勝ち取った。みな、軍人に見えない、貿易や商人の経歴がある、商船に乗ったことがあるなどの基準で選んだ。リコは商家の生まれ、イグリは貿易商を営む叔父を持ち、二人とも子供の頃から船に乗っていた経験がある。尚且つリコは軍人にしては顔立ちが優しすぎるし、イグリは華やかすぎる。文句なしだ。想像通り、二人とも船乗りの衣装が板についていた。
イグリはアルテミシアの隣に腰掛け、温かい生姜湯の入ったカップを渡した。
「ありがと」
アルテミシアが礼を言うと、イグリは貴公子のような笑顔で応えた。
「…出港の前日、うちの上官に何かあったか?」
イグリが訊くと、アルテミシアはわずかに視線を逸らした。サゲンとは軍議以来会話はおろか、顔も合わせていない。当然ながら、書斎でのことは誰にも言うつもりはない。
「さあ。どうしてそう思うの?」
と、しらばっくれることにした。
「何でってそりゃ、あのカタブツの将軍が任務の前にジオリスへ行ったのなんか初めてだからさ」
イグリは、出港の日にサゲンの上着から上物の香水の残り香がわずかに香っていたのに気づいていた。上官が何か情報を持ち帰って来るときには、必ず嗅ぐ匂いだった。大っぴらに口にこそ出さないものの、下士官たちはサゲンがどこでどのように情報を手に入れるかを知っている。しかし、あの日サゲンが持ち帰ってきたのは、例のバラの香りだけだった。
「ジオリス?」
アルテミシアは首を傾げた。
(しまった)
イグリは口を噤んだ。ジオリスがどういう場所か知らないアルテミシアにわざわざ言うことではない。それに、女性とするには少々気まずい話題だ。
「いい、忘れてくれ。陛下直々に指揮を任されたというし、うちの上官にも何か思うところがあったんだろう」
アルテミシアは未だに訝しげな顔でイグリを見ていたが、やがて「ふうん」と言って笑った。内心では自分に関係あると思われていないことに安堵していた。その頬が水平線へ沈む夕陽に照らされてオレンジ色に染まり、瞳が黄金の光を映してきらめいている。イグリは磁石で引きつけられるようにその頬に触れた。アルテミシアは不思議そうにその手を横目で見ている。
「ミーシャ」
イグリが呼ぶと、アルテミシアがその目に視線を戻した。
「君はすごくきれいだ」
イグリが低い声で言うと、アルテミシアはちょっと目を見開き、次の瞬間に笑い出した。
「ちょっと、まじめにやってよ!いつもそんなことやってるの?」
イグリは予想外の反応に思わず手を引っ込めてしまった。笑いのおさまらないアルテミシアがバシッとイグリの肩を叩いた。
「けっこう見境ないって城の女中たちが噂してたけど、まさかここまでとはね。ま、どうもありがと」
アルテミシアはおかしそうに笑い続けているが、イグリにとっては冗談ではないし、大真面目だ。見境がないとは酷い。確かに女中たちにしょっちゅう声をかけてはいるし、夜遊びに誘うことも無くはないが、アルテミシアに対しては今までのどの褒め言葉よりも真実だったのだ。
(身から出た錆か…)
イグリは初めて自分の享楽的な性格を呪った。どう軌道修正しようかと考えていると、アルテミシアが静かに色めき立った。
「行くよ」
アルテミシアは声を低くして言った。
船員たちは素早く戦闘準備を始めた。海賊船がこの船に追いつくまで、あと二十分もない。通常の貿易船と全く同じ装備だから、軍船ほどの武器はないし砲弾も少ない。が、船長は大砲の指示を出し、威嚇のためにありったけの砲弾を打ち鳴らした。無論、そんなものが海賊相手に効かないのは分かっている。
予想通り、十五分も経つ頃にはアムの大商船よりもふた回りほど小さい海賊船が船体を近づけ、浅黒い肌をした屈強な海賊たちが梯子をかけてどっと船に侵入してきた。船員たちは自分や仲間の身を守るために剣を振るって戦ったが、海賊は数が多い上、賊を生業としているだけあって動きに無駄がなく、手強かった。一時間後には船長を含めた全員が捕縛され、船が海賊に乗っ取られた。船長が無駄な抵抗をしないよう船員たちに呼びかけたため、全員ケガを負ってはいるものの、幸い今のところ死者は出ていない。
「積荷を全て奪え。若い男は全員奴隷商に売る。抵抗すれば殺せ」
ひときわ肌の黒い中年の海賊がひどく訛りのある言葉で指示を出した。イノイル人とアム人には、辛うじて意味が分かるほどだ。背は高く、頭から足まで筋肉に覆われているような体つきで、おまけに腕や顔が毛むくじゃらなために醜悪な熊のような風貌だった。これが首領だろう。
「おい!」
叫んだのは、リコだ。
「相手をわかってるのか?俺たちはエマンシュナ王への献上品を運んでいるんだ!お前たち、タダじゃ済まないぞ!」
首領はぞっとするような薄ら笑いを浮かべ、縛られたリコのそばにいる海賊に目配せをした。海賊はリコの顔を三度思い切り殴り、腹を何発か蹴り上げると、最後に唾を吐きかけた。リコは痛ましく唸り、口から血を流してぐったりした。他の船員たちが恐怖や怒りで身じろぎすると、首領は睨みを利かせて不潔な黄色い歯を見せて笑った。
「献上品ねえ。毎日肉体労働で忙しい俺たちにこそふさわしいじゃねえか」
そう言って長が下品な笑い声を響かせると、他の海賊たちは諸手を挙げて沸き立った。
「お頭!下にたんまり上等の酒がありますぜ」
海賊の一人がニヤニヤしながら首領に言うと、海賊の首領は王のような仕草で部下を褒めた。
「いい船を手に入れたもんだ。今日はお前らにも分け前をくれてやる!」
首領が更に声を張り上げ、部下たちをはやし立てた。海賊は甲高い声をあげ、彼らの長を褒め称えた。
船員たちは縛られたまま、献上品の酒樽が開けられていくのを見守った。船にはいくつもの大きな酒樽が保管されているほか、干し肉やドライフルーツなどの保存食、一流の織物や調度品が保管されている。無粋な海賊たちは豪奢な装飾品には目もくれず、酒と食べ物を次々と運び出して大宴会を始めた。貿易船を乗っ取った者のほか、海賊船に残っている海賊たちも一人残らず酒を浴びるように飲み、共和国の焼き印の押された酒樽が空になると、国家を冒涜するかのように片っ端から打ち壊して海に捨てていった。中には大いに酔って憂さ晴らしに捕虜となった船員を殴り始める者もいたが、「売り物を減らすな」という命令が出たために渋々やめた。
「おいお前、顔を見せてみろ」
リコが腫れあがった顔を上げると、海賊の一人がニタニタと下卑た笑みを見せ、顎を掴んだ。
「チッ、あの野郎顔までボコボコにしやがって。男にしちゃあ可愛い顔してたのになあ、お嬢ちゃん」
言い終わる前に、リコが血の混じった唾を海賊の顔に吐きかけた。海賊はギロリと憤怒の形相で睨み、リコの腹を何度も蹴った。肋骨から嫌な音がした。リコが血反吐を吐いて再びぐったりすると、海賊は胸ぐらを掴んで酒と汗と血の混じった悪臭のする醜い顔を近づけた。
「お前みたいな奴はなあ、高値で売れるんだ。金持ち連中にはどうしようもねえ変態がいるんだよ。若い男のケツでやった後に生きたまま皮を剥ぐのが好きなイカレ野郎とかな」
それでもリコの恐怖の表情が見られなかった海賊は乱暴にリコを放し、ドスドスと酒樽の方へ去って行った。
「なあ、本当に大丈夫か」
リコの隣で縛られているアム共和国の船員が小声で訊いた。作戦については全員把握しているが、さすがに不安になってきたらしい。
リコはうなだれて痛みに苦しみながら、息だけで言った。
「大丈夫。僕らの仲間を信じて」
遠方から大砲の轟音が響いたのを聞き、大きな帆を張った軍船の上では将校や兵士たちが色めきたった。
「戦闘が始まったようです」
下士官から報告を受けたサゲンと参謀たちは、隊を分けて小型の船に乗り込むよう下知した。帆では無く櫂を漕いで進む船で、帆船よりも小回りが利き、漕ぎ手の数と技術によってはスピードもかなり出る。ひとつの船に三十人ほどが乗り込んだ。それが夜闇のなかで五十艘ほど大洋へ繰り出していく。味方の船にぶつからないよう、しかも隠密に進む必要がある。
「目立たぬよう、灯はできるだけ点けずに慎重に進め。合図が来たらすぐ合流できるよう、一定の距離を保て。しかし近付きすぎるな」
アム軍の指揮官カルロ・スビートが注意を促すと、アム・イノイル連合軍の兵士たちは次々に船を漕ぎ始めた。
「薬が効いたら合図が来るはずです」
ゴランが囁くように言った。サゲンも当然承知のことだ。
「わかっている」
眉間に皺を寄せ、サゲンが静かに言った。
「いつになく不安そうなご様子でしたから」
「いらぬ世話だ」
と言いながら、サゲンは轟音の響いた方向を遠く見つめた。
「…三時間だ。三時間で合図がなければ、待たずに攻撃開始の合図をする」
ゴランは無言で頷いた。
あれからアルテミシアとは一言も交わさなかったが、内心では舌を巻いていた。多分にゴラン・ダリオスの後押しが効いてはいるものの、あの頑固で経験豊富な将校たちはおろか、アムの軍責任者までをも見事説得してしまったのだ。しかも、軍の人間は目立つからと言って、本物の貿易船の船乗りを使うとは、突飛でかなり危険だ。その危険な作戦に勇んで参加してくれたアムの船乗りたちの勇猛さも称賛に値する。船乗りには船乗りの互いに対する敬意があり、不思議な信頼関係で結ばれている。中には女だからとアルテミシアを軽視する者もいたが、アルテミシアの上司だったバルバリーゴ船長の名はアムの船乗りたちも耳にしたことがあるらしく、彼女がその名を口にした途端に彼らは態度を変えた。すっかり彼女は船乗り連中を乗せてしまった。
アルテミシアが乗せてしまったのは、船乗りだけではない。商人や造船業者もそうだ。作戦に必要な船や大量の酒や他の大量の品々、薬などは、全て彼女自身が出向いて値段の交渉をし、手配した。必要があれば、共和国元首邸にまで足を運んだ。これらの準備を目立たぬよう、しかも五日という極めて短い時間でやってのけた。見事と言う他ない。
ただ、不安が拭えない。合図の方法があまりに危険すぎる。何事もなく予定通りに行けばよいが。
五十艘の奇襲船が出発を終えると、サゲンも軍船から小型の船へと降り立った。船の漕ぎ手の中には、レイ、ブラン、ロエルの姿もある。
「母船は任せたぞ」
暗闇の中、軍船に残ったゴランに告げてサゲンたちも出発した。
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