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十三、鏡 - nello specchio -
ダンスホールでは楽団の演奏に合わせて若い将兵たちや宴に招かれた令嬢や奥方たちがパートナーを組み、円になって踊っていた。アムの音楽もダンスもその国民と同じで陽気なものだ。テンポが速く、何度もステップを踏み間違えた。しかし、しばらく踊ったら動きに合わせて気分が高揚した。イグリはダンスに慣れているようだった。イグリがアルテミシアの手を取ってくるくる回すと、なんだかおかしくなって弾けるように笑った。ダンスホールに入る直前に二口で飲み干したウイスキーが効いているのかもしれない。しばらく踊って隣の人とパートナーを交換し、また踊って、くるくる回って次のパートナーへ…を繰り返し、何回目かでイグリの所へ戻ってきた。イグリは口元に笑みを浮かべた。
「言い忘れたけど、すごくきれいだよ。赤いドレスがよく似合ってる」
「ありがとう。エラが仕立て直してくれたんだ」
「あの子にそんな特技が?」
「そう。彼女は素晴らしい子だよ。強くて優しい。僧院なんかより、もっとふさわしい場所があるはず」
イグリは金色の眉を上げ、アルテミシアをくるくる回そうとした手を止めた。
「それなら、うちの上官が手配させてるけど…聞いてない?」
アルテミシアはハシバミ色の瞳をぱちくりさせ、言葉を失った。
「バルカ将軍が?」
(あれだけ偉そうに人のことを諭しておいて、信じられない)
その厚意を素直に喜ぶべきなのだろうが、全力で非難してやりたい気分になった。自分への憐れみをエラに押し付けているとまで言われたのだ。簡単に自分の立場を変えるくらいなら、あそこまで言われる筋合いは無いではないか。
「こういうことって、よくあるの?」
「いや、あの方が自分の管轄外のことまで手を出すことはほとんどないな。例外は人命に関わる場合だけだ」
「ふうん」
と言ったきり唇を真一文字に結んでむっつりと押し黙ってしまったアルテミシアを見て、イグリは言い知れぬ不安に駆られた。それを振り切るように、無意識のうちにことさら貴公子のような笑みを取り繕い、華麗な動作でアルテミシアの身体をくるりと回した。
「ねえ、ミーシャ。ちょっと本気で考えてほしいんだけど」
と、ここで曲が終わった。パートナー同士で互いにお辞儀をし、一曲分のダンスが終わる。久々のダンスに満足したアルテミシアは頬を紅潮させていた。「なに?」と聞きながら次の曲を踊りに入って来た人々の輪から抜け、ホールの扉の前で給仕から赤ワインの入ったグラスをふたつ受け取った。後ろでは既に次の曲が始まっている。先程とは打って変わってしっとりした曲調のピアノとオーケストラのワルツだ。アルテミシアはグラスを一つイグリに差し出した。が、受け取ったのはイグリではなく後ろから伸びてきた大きな手だった。
グラスを目で追いかけた先に、非難してやりたい顔があった。
サゲンはむうっと頬を膨らませたアルテミシアを硬い表情のまま見つめ、一口でグラスを空にすると、アルテミシアのグラスを取り上げて二つまとめて呆気に取られているイグリに押し付け、今度は片手でアルテミシアの手を取った。
サゲンがダンスに誘っていると理解した途端、アルテミシアは頭が混乱して渋面を作り続けるのも忘れてしまった。
「本気?」
「ああ」
サゲンは唇の端を軽く吊り上げて頷き、不可解な表情のままのアルテミシアをダンスホールの中央へ誘った。サゲンの手のひらが腰に添えられると小さく身体が震えたが、それに気付かれないように無表情で通した。ワルツを踊った経験はないが、かつて見たことがある。ベルージ家の縁者の屋敷で子息の婚約パーティーがあった時だ。アルテミシアの付き添いとして同行したドナは「未婚の男女があんなにくっついて踊るものじゃありませんよ」と鼻息も荒く批判していた。当時十歳の少女だったアルテミシアはルメオの開放的な風潮に合っているしどうということもないと思っていたが、実際に当事者になってみると、なるほどこれは接触が多い。動揺が顔に出ないかヒヤヒヤした。
「ワルツなんて踊ったことないよ」
「大丈夫だ」
言葉通り、サゲンはやすやすと慣れた動作でアルテミシアをリードした。次の動きを低い声で指示しながら自らも優雅に踊った。この朴訥そうな男にこういう世慣れたところがあることに驚き、感心もした。硬派で実力主義の海軍司令官と言えど、やはり上流貴族の子息なのだと改めて認識させられる。しかし、過去に例の婚約者も同じようにリードしたのだろうかと考えつくと、無意識のうちに奥歯を噛んでいた。
(関係ない、関係ない)
こういう気持ちを持つことは理に適っていない。確かにいっそのこと書斎で誘いに応じておけばよかったと思ってしまったが、貞操と命を失いかけたせいで混乱していたからだ。冷静さを取り戻した今は、正しい判断ができる。そう、これは色っぽい感情とは無縁のものだ。例え、この男の匂いや温度を心地よいと感じていても。
しかし、ダンスに集中できず、アルテミシアの足は単純なはずのステップに追いついていかない。一瞬、足がもつれそうになった。
「どうした。君らしくないな」
サゲンが挑発的な口調で言うと、アルテミシアは唇を尖らせて応戦した。
「ドレスが足元にまとわりついて動きにくいんだよ」
「イグリ・ソノともっと速い曲で踊っていたときは平気なようだったが」
アルテミシアは一瞬ぽかんとした後、表情を消したサゲンの顔を見て詰るように言った。
「見てたの?」
「ああ。君がイグリ・ソノといるときはよく笑うことがわかった」
「そりゃ、同い年だし、話しやすいもの。頑固なあなたと違って喧嘩にならない」
サゲンは不愉快そうに眉をひそめた。冗談での見せかけではなく、本当に不愉快そうだった。いつもと同じ軽口なのに、何故そんな顔をするのか理解できない。アルテミシアは心臓のあたりがざわざわと落ち着かなくなった。
「…あいつがどんな目で君を見ていたと思う」
「どんなって…いつもと同じ、睫毛の長い、青い目だったけど」
サゲンはアルテミシアの的外れな答えを無視した。
「イグリだけじゃない。今日君がここにやって来てから目を合わせた男は全員同じことを考えたはずだ」
「…化粧が濃いとか?あなたと白髭さん以外はみんな褒めてくれたから、そんなにひどくないと思うんだけど。それとも全員揃って社交辞令?」
(ふざけたことを)
サゲンはイラついてきた。化粧は完璧だ。白粉は小麦色の肌をまろやかにする役目を十分に果たし、桃色の頬紅がほんのりと乗せられて愛らしい頬を引き立てている。口紅も赤過ぎず、オレンジがかった血色をよく引き立てる色に仕上がり、まぶたには金色だか茶色だかの色が着けられている。どこから見ても洗練された貴婦人だ。
ところが、当のアルテミシアは心底不安そうな顔をしている。
(本気か?)
サゲンは目を見開いて驚き、次にイライラとした気分が濃い霧のように身体中に広がった。先ほど指揮官だからと言って自らを律しようとしたことなど、既に頭になかった。
「ちょっと来い」
サゲンは急に踊るのをやめ、訳がわからずぽかんとしているアルテミシアの手を引いてダンスホールの奥の扉へと向かって行った。サゲンは元首邸のつやつやした重厚な木の扉を躊躇もせず開き、奥の通路へアルテミシアを引っ張って行った。脇の階段から二階へ上がり、邸内で唯一人気の無い濃紺の絨毯の部屋へ入った時、ようやくアルテミシアは声を出した。
「勝手に入っていいの?」
言いながら、自分の愚かな発言を呪った。いま論じるべきはそのことではないはずだ。
「イノイル軍の司令官に用意された控え室だから、問題ない」
アルテミシアは「あ、そう」と口に出しそうになり、慌てて飲み込んだ。
「そうじゃなくて…、これは何?」
サゲンは答えなかった。無言のまま中央の大きなソファを通り過ぎて部屋の奥へと進み、壁際に置かれた姿見から織物のカバーを外すと、アルテミシアをその前に立たせた。
目の前には、困惑して口を半分開けたまま、棒のように突っ立った自分がいる。背後に立つサゲンと鏡越しに目が合った。
「形容してみろ」
「は?」
ますます意味が分からず、そのまま言葉を失った。サゲンはまだ鏡越しにアルテミシアの目を見ている。
「通詞だろう。言葉を商売道具にしているなら、できるはずだ。自分の姿を客観的に詳しく言葉で描写してみろ」
「これは罰ゲームか何か?」
と鼻で笑いながら振り返ると、いつものように口を引き結んだサゲンの顔があった。どうやら真面目に言っているらしい。信じられないと思いながら、反抗するのをやめた。商売道具を馬鹿にされては堪らないし、売られた喧嘩は買う主義だ。鏡に向き直り、まじまじと赤いドレスに身を包んだ自分の姿を見た。
「わかった。…まず女にしては背が高い。他の女性と並ぶといつも頭が半分以上飛び出てる」
「他と比べるのではなくて、ありのままを形容しろ。今映っている自分だけだ」
「…髪は赤みのあるブロンド。短いけど編み込まれてきれいにまとまっている。瞳はよくあるハシバミ色。今は灯りで琥珀色に見える。目は…ちょっと丸みのあるアーモンド形の二重で目尻は目頭より少しだけ下にある。頬骨の位置は悪くないものの、もうちょっと出ていた方が美人。鼻は高くも低くもなく、ちょっとだけ上を向いていて平凡。唇は厚くなくて山がはっきりしないから、魅力的と言うにはなんだか物足りない。…肌は日焼けしたところと白いところとがあり、不均一。しかし今日は長い手袋でうまいこと隠しているので目立たない。…これでいい?」
「まだだ」
アルテミシアは目をぐるりと回して遠回しに抗議した。サゲンはくそ真面目な顔つきのまま、アルテミシアの目を鏡越しにじっと見つめ、足音も立てずにゆっくりと近付いてきた。アルテミシアは獲物を狙う大きな獣の姿を連想し、無意識のうちに離れようとしたが、既にアルテミシアの背とサゲンの硬い胸が触れ合うほど近くにいた。
サゲンはアルテミシアの肘へと手を伸ばし、手袋を外し始めた。レースの薄い生地越しにサゲンの手の温度が伝わり、指先から痺れるような感じがした。身じろぎする代わりに、下唇を噛んだ。
「続けろ」
サゲンの低い声が命じた。いつもなら反発したくなるところなのに、何故かそれができない。声が震えそうになったが、ひと呼吸おいて鏡の自分へと視線を戻し、口を開いた。
「首はちょっと筋張っていて、肩幅は比較的広く、全体的に見て筋肉質。そのため今日の軽い生地のドレスではあまり女性的に見えない。でも、唯一色は似合っている」
改めて鏡で全身を見るとよく分かる。ダンスホールにいた他の女性たちは、もっと柔らかそうな身体付きで腕も細く、例えるならふわふわのスフレみたいだった。一方自分は、背も高ければ肩も細くない。顔立ちも十人並みだ。別に女性として美しさを認められたい気持ちなどはそこまで持ち合わせてはいないが、見劣りする面ばかりが目に付いてだんだん気分が暗くなってきた。同時に、サゲンに対して怒りが湧いた。何故こんなことをするのだろう。みじめな気分にさせて二度と軍船に乗せないよう通詞役を下ろそうとでも言うのだろうか。それならとことんやってやる。
キッと鏡越しにサゲンを睨んで目が合った途端、青灰色の瞳にまっすぐ射すくめられ、何も言えなくなった。
「唯一色は似合っている?」
アルテミシアは驚いた。サゲンが怒っている。
「的外れもいいところだ。まだ気付かないのか。男たちがみんな君のスカートに潜り込みたいと思っていることに」
その言葉を頭の中で繰り返し、少しの間をおいて意味を理解した。あまりの衝撃に言葉も出なかった。
茫然とサゲンの顔を見上げていると、サゲンが背後に立ったままアルテミシアの顎を掴み、ゆっくりと鏡を向かせた。次に、親指がそっとアルテミシアの唇をなぞった。節の目立つ、太い指。――この人と並ぶと、背が高いわたしでも小さく見える。そんなことを頭のどこかで思った。
アルテミシアは抵抗も疑問も忘れ、その挙動を見守った。払いのけるべきなのに、そうできない。
「君の唇は魅力的だ。花びらのような形に、血潮の色をしている」
サゲンの低く掠れた声が耳をくすぐった。衝撃だった。じわりと体温が上がる。鏡の中で、後ろに立つ背が高く涼やかな目をした偉丈夫に唇をなぞられ頬を桃色に染めている赤いドレスの女が誰だったか、一瞬わからなくなった。まるで他人のようだ。動揺を隠しきれずにもう一度下唇を噛むと、サゲンの親指に顎を引っ張られて戻された。
「噛むな」
サゲンは司令官の口調で声低く命令した。アルテミシアは丸みを帯びたアーモンド型の目を見開いてサゲンを見つめた。瞳が暗く光り、その中にある感情が見えた気がした。突然、書斎と船室でのことが脳裏によぎった。この男がこの後何をするつもりか分かる。分かってしまった。信じられないが、間違いない。たちまち火がついたように身体が熱くなり、手のひらにじっとり汗をかいた。サゲンがアルテミシアの頬を自分の方へ引き寄せ、自らも身を屈めてくる。秀麗な切れ長の目が目の前にある。――
「バルカ将軍…」
言い終わらないうちに、唇を塞がれた。
サゲンは固まったまま動かないアルテミシアの唇を上下交互に味わった。まったく理性的ではない。自分でも分かっていたが、止められなかった。多分、自邸の書斎で彼女の身体に触れた時から――いや、それよりもっと前から、こうなることを想定していたのだ。船室での出来事からアルテミシアの姿を見かけるたび理性は限界に近づいていた。時折奇妙な翳りを見せる勝気な目、快晴の空のように澄んだ声、イグリ・ソノと踊りながら見せた屈託無い笑顔でさえ、サゲンの心を狂わせた。
彼女の唇に食らいつきながら、我が身に沸き起こっている複数の感情の中のひとつを認める気になった。嫉妬したことは疑いようがない。今までの人生でこんな感情は持ったことがなかった。昔の婚約者が他の男に嫁いだ時にさえ感じなかったのに、よりによって直属の部下を相手に抱くとは、あまりに滑稽に思えた。全く厄介な女だ。それでももう止めることができなかった。
どれくらいアルテミシアの唇にかぶりついていたか、はっきりわからない。サゲンが少し唇を浮かせると、アルテミシアがまるで長いこと水の中にいたかのようにぷはっと息を吐いた。
アルテミシアは混乱していた。何も考えられない。押し退けた方が賢明だったかもしれない。それなのに嫌だと思えない。サゲンの唇が触れた感触も、この息苦しさも、唇が触れ合った瞬間に灯った熱も、アルテミシアから冷静さを剥ぎ取るには十分だった。
サゲンは片手でアルテミシアの腰を抱き、自分と向き合うように引き寄せた。そして素肌が露わになったアルテミシアの腕に触れ、二の腕から肘より下の日焼けの境目までを手のひらでなぞった。柔らかく薄い肉の下に、しなやかな筋肉の感触がある。
「君の身体は素晴らしい」
サゲンの目には、アルテミシアは今にも逃げ出しそうに見えた。怯えとも戸惑いとも取れる表情でこちらを見つめ続けている。しかし、ハシバミ色の瞳の奥に違う何かが見え隠れしているのがサゲンにはわかった。
「小麦色に染まった部分も、生まれたままの肌の色が残った部分も、しなやかに鍛えられた筋肉も、そのままで美しい」
サゲンの手が下へおりてきて手の甲を撫で、指を絡めた。アルテミシアは抵抗しなかった。やはりこの人の手は心地良い。目をうっすら閉じた。
サゲンは小さく舌を打ってアルテミシアの後ろの髪に手を差し入れ、ふたたびアルテミシアに口付けた。今度はもっと深く。
「口を開けろ」
焦れたように、低く唸るような声色でサゲンが囁いた。アルテミシアは自分でも不思議なほどあっさりとそれを受け入れた。サゲンの温かい舌がアルテミシアの中に入り込むと、うなじのあたりから身体中に痺れが走った。
「ん…」
鼻の奥からアルテミシアが声を漏らした。驚いたことに、気持ちいい。
(へんなかんじ…)
キスで自分の身体がこんな反応をするなんて、知らなかった。唇を重ねながら呼吸をしようと努力したが、先ほどよりも激しく喰らい付かれて更に息が上がった。歯の間から口の中をなぞるようにサゲンの舌が這って行く。舌を絡められると、痺れるような感覚が全身に広まり、快感の波となってアルテミシアを包んだ。
サゲンは角度を変えて唇を浮かせてはアルテミシアに呼吸する隙を与え、貪るように口の中を味わった。荒い呼吸に混じってアルテミシアの鼻から抜けるような甘い息遣いが聞こえる。サゲンが腰を上下にゆるゆると撫でると、アルテミシアの両手が遠慮がちにサゲンの背中へ伸びてきた。
次の瞬間、アルテミシアの足が浮き、身体はソファに投げ出されていた。真上にサゲンの顔がある。情欲を剥き出しにした青灰色の瞳がアルテミシアをソファに釘付けにしている。サゲンの手がドレス越しに腿を這った瞬間、アルテミシアはびくっと体を震わせた。同時に、意識が現実に返った。多分、恐怖が顔にも出ているのだろう。その証拠に、サゲンの瞳にも理性をかなぐり捨てる前の彼自身が戻ってきている。「やってしまった」とでも言いたそうな顔だ。
サゲンのその顔を見た瞬間、アルテミシアの頭を狂わせていた熱が急速に冷め、冷ややかな気持ちになった。
「…ご忠告どうも」
静かにそう言いながら、もう目も合わせられなかった。アルテミシアがのろのろと起き上がると、サゲンも身体を起こしてアルテミシアの上から退いた。
(俺は今何をした)
サゲンはソファから立ち上がったアルテミシアの姿を呆然と見た。髪は乱れ、唇が赤く腫れている。現実に引き返されたというのに、身体がもっと熱くなった。硬くなった身体の一部を呪わしく思い、小さく悪態をついた。理性が激情に敗北したことなど、今まで一度もなかったのに。
「男が何を考えているのか、よくわかった。あなたを含めて」
サゲンはハッとした。このままではだめだ。
「リンド」
「つまりこういうことだよね。その、海賊だろうと軍人だろうと、どんなカタブツだろうと女を相手に例外なくこうなるって、身をもって実演してくれたってことでしょ?」
今やアルテミシアの瞳は情熱にとろけてはいなかった。いつもよりも冷淡で白々としている。すっかり感情を心の冷たい場所にしまい込んでしまったようだ。サゲンはまずいと思った。明らかに食い違いがある。背を向けて立ち去ろうとするアルテミシアの腕を焦って掴んだために、思わず力が入った。
「リンド、聞け」
「いい。大丈夫。わかってるから」
鋭い口調と剣呑な目つきは、既に心を閉ざしている証拠だった。
「…わたしに触らないで」
サゲンは食い下がらなかった。アルテミシアの腕を離し、猫のように去っていく背をドアが重そうな音をたてて閉まるまで見送った。
部屋に一人になると、感情を内に仕舞っておけずに分厚く絢爛な装飾の施された壁にドン!と拳をぶつけた。
アルテミシア・リンドが相手だといつも調子が狂う。こんなつもりではなかったのだ。少なくとも彼女が自分の唇を噛むまでは。
(馬鹿な)
耐えられるわけがない。あんな熱っぽい表情を見せられて、素直にキスに応じる彼女の身体に触れて、理性が勝るはずがない。認めざるを得なかった。
(――俺はアルテミシア・リンドに惹かれている)
厄介なことになった。
が、もはや引き返す気はない。
「言い忘れたけど、すごくきれいだよ。赤いドレスがよく似合ってる」
「ありがとう。エラが仕立て直してくれたんだ」
「あの子にそんな特技が?」
「そう。彼女は素晴らしい子だよ。強くて優しい。僧院なんかより、もっとふさわしい場所があるはず」
イグリは金色の眉を上げ、アルテミシアをくるくる回そうとした手を止めた。
「それなら、うちの上官が手配させてるけど…聞いてない?」
アルテミシアはハシバミ色の瞳をぱちくりさせ、言葉を失った。
「バルカ将軍が?」
(あれだけ偉そうに人のことを諭しておいて、信じられない)
その厚意を素直に喜ぶべきなのだろうが、全力で非難してやりたい気分になった。自分への憐れみをエラに押し付けているとまで言われたのだ。簡単に自分の立場を変えるくらいなら、あそこまで言われる筋合いは無いではないか。
「こういうことって、よくあるの?」
「いや、あの方が自分の管轄外のことまで手を出すことはほとんどないな。例外は人命に関わる場合だけだ」
「ふうん」
と言ったきり唇を真一文字に結んでむっつりと押し黙ってしまったアルテミシアを見て、イグリは言い知れぬ不安に駆られた。それを振り切るように、無意識のうちにことさら貴公子のような笑みを取り繕い、華麗な動作でアルテミシアの身体をくるりと回した。
「ねえ、ミーシャ。ちょっと本気で考えてほしいんだけど」
と、ここで曲が終わった。パートナー同士で互いにお辞儀をし、一曲分のダンスが終わる。久々のダンスに満足したアルテミシアは頬を紅潮させていた。「なに?」と聞きながら次の曲を踊りに入って来た人々の輪から抜け、ホールの扉の前で給仕から赤ワインの入ったグラスをふたつ受け取った。後ろでは既に次の曲が始まっている。先程とは打って変わってしっとりした曲調のピアノとオーケストラのワルツだ。アルテミシアはグラスを一つイグリに差し出した。が、受け取ったのはイグリではなく後ろから伸びてきた大きな手だった。
グラスを目で追いかけた先に、非難してやりたい顔があった。
サゲンはむうっと頬を膨らませたアルテミシアを硬い表情のまま見つめ、一口でグラスを空にすると、アルテミシアのグラスを取り上げて二つまとめて呆気に取られているイグリに押し付け、今度は片手でアルテミシアの手を取った。
サゲンがダンスに誘っていると理解した途端、アルテミシアは頭が混乱して渋面を作り続けるのも忘れてしまった。
「本気?」
「ああ」
サゲンは唇の端を軽く吊り上げて頷き、不可解な表情のままのアルテミシアをダンスホールの中央へ誘った。サゲンの手のひらが腰に添えられると小さく身体が震えたが、それに気付かれないように無表情で通した。ワルツを踊った経験はないが、かつて見たことがある。ベルージ家の縁者の屋敷で子息の婚約パーティーがあった時だ。アルテミシアの付き添いとして同行したドナは「未婚の男女があんなにくっついて踊るものじゃありませんよ」と鼻息も荒く批判していた。当時十歳の少女だったアルテミシアはルメオの開放的な風潮に合っているしどうということもないと思っていたが、実際に当事者になってみると、なるほどこれは接触が多い。動揺が顔に出ないかヒヤヒヤした。
「ワルツなんて踊ったことないよ」
「大丈夫だ」
言葉通り、サゲンはやすやすと慣れた動作でアルテミシアをリードした。次の動きを低い声で指示しながら自らも優雅に踊った。この朴訥そうな男にこういう世慣れたところがあることに驚き、感心もした。硬派で実力主義の海軍司令官と言えど、やはり上流貴族の子息なのだと改めて認識させられる。しかし、過去に例の婚約者も同じようにリードしたのだろうかと考えつくと、無意識のうちに奥歯を噛んでいた。
(関係ない、関係ない)
こういう気持ちを持つことは理に適っていない。確かにいっそのこと書斎で誘いに応じておけばよかったと思ってしまったが、貞操と命を失いかけたせいで混乱していたからだ。冷静さを取り戻した今は、正しい判断ができる。そう、これは色っぽい感情とは無縁のものだ。例え、この男の匂いや温度を心地よいと感じていても。
しかし、ダンスに集中できず、アルテミシアの足は単純なはずのステップに追いついていかない。一瞬、足がもつれそうになった。
「どうした。君らしくないな」
サゲンが挑発的な口調で言うと、アルテミシアは唇を尖らせて応戦した。
「ドレスが足元にまとわりついて動きにくいんだよ」
「イグリ・ソノともっと速い曲で踊っていたときは平気なようだったが」
アルテミシアは一瞬ぽかんとした後、表情を消したサゲンの顔を見て詰るように言った。
「見てたの?」
「ああ。君がイグリ・ソノといるときはよく笑うことがわかった」
「そりゃ、同い年だし、話しやすいもの。頑固なあなたと違って喧嘩にならない」
サゲンは不愉快そうに眉をひそめた。冗談での見せかけではなく、本当に不愉快そうだった。いつもと同じ軽口なのに、何故そんな顔をするのか理解できない。アルテミシアは心臓のあたりがざわざわと落ち着かなくなった。
「…あいつがどんな目で君を見ていたと思う」
「どんなって…いつもと同じ、睫毛の長い、青い目だったけど」
サゲンはアルテミシアの的外れな答えを無視した。
「イグリだけじゃない。今日君がここにやって来てから目を合わせた男は全員同じことを考えたはずだ」
「…化粧が濃いとか?あなたと白髭さん以外はみんな褒めてくれたから、そんなにひどくないと思うんだけど。それとも全員揃って社交辞令?」
(ふざけたことを)
サゲンはイラついてきた。化粧は完璧だ。白粉は小麦色の肌をまろやかにする役目を十分に果たし、桃色の頬紅がほんのりと乗せられて愛らしい頬を引き立てている。口紅も赤過ぎず、オレンジがかった血色をよく引き立てる色に仕上がり、まぶたには金色だか茶色だかの色が着けられている。どこから見ても洗練された貴婦人だ。
ところが、当のアルテミシアは心底不安そうな顔をしている。
(本気か?)
サゲンは目を見開いて驚き、次にイライラとした気分が濃い霧のように身体中に広がった。先ほど指揮官だからと言って自らを律しようとしたことなど、既に頭になかった。
「ちょっと来い」
サゲンは急に踊るのをやめ、訳がわからずぽかんとしているアルテミシアの手を引いてダンスホールの奥の扉へと向かって行った。サゲンは元首邸のつやつやした重厚な木の扉を躊躇もせず開き、奥の通路へアルテミシアを引っ張って行った。脇の階段から二階へ上がり、邸内で唯一人気の無い濃紺の絨毯の部屋へ入った時、ようやくアルテミシアは声を出した。
「勝手に入っていいの?」
言いながら、自分の愚かな発言を呪った。いま論じるべきはそのことではないはずだ。
「イノイル軍の司令官に用意された控え室だから、問題ない」
アルテミシアは「あ、そう」と口に出しそうになり、慌てて飲み込んだ。
「そうじゃなくて…、これは何?」
サゲンは答えなかった。無言のまま中央の大きなソファを通り過ぎて部屋の奥へと進み、壁際に置かれた姿見から織物のカバーを外すと、アルテミシアをその前に立たせた。
目の前には、困惑して口を半分開けたまま、棒のように突っ立った自分がいる。背後に立つサゲンと鏡越しに目が合った。
「形容してみろ」
「は?」
ますます意味が分からず、そのまま言葉を失った。サゲンはまだ鏡越しにアルテミシアの目を見ている。
「通詞だろう。言葉を商売道具にしているなら、できるはずだ。自分の姿を客観的に詳しく言葉で描写してみろ」
「これは罰ゲームか何か?」
と鼻で笑いながら振り返ると、いつものように口を引き結んだサゲンの顔があった。どうやら真面目に言っているらしい。信じられないと思いながら、反抗するのをやめた。商売道具を馬鹿にされては堪らないし、売られた喧嘩は買う主義だ。鏡に向き直り、まじまじと赤いドレスに身を包んだ自分の姿を見た。
「わかった。…まず女にしては背が高い。他の女性と並ぶといつも頭が半分以上飛び出てる」
「他と比べるのではなくて、ありのままを形容しろ。今映っている自分だけだ」
「…髪は赤みのあるブロンド。短いけど編み込まれてきれいにまとまっている。瞳はよくあるハシバミ色。今は灯りで琥珀色に見える。目は…ちょっと丸みのあるアーモンド形の二重で目尻は目頭より少しだけ下にある。頬骨の位置は悪くないものの、もうちょっと出ていた方が美人。鼻は高くも低くもなく、ちょっとだけ上を向いていて平凡。唇は厚くなくて山がはっきりしないから、魅力的と言うにはなんだか物足りない。…肌は日焼けしたところと白いところとがあり、不均一。しかし今日は長い手袋でうまいこと隠しているので目立たない。…これでいい?」
「まだだ」
アルテミシアは目をぐるりと回して遠回しに抗議した。サゲンはくそ真面目な顔つきのまま、アルテミシアの目を鏡越しにじっと見つめ、足音も立てずにゆっくりと近付いてきた。アルテミシアは獲物を狙う大きな獣の姿を連想し、無意識のうちに離れようとしたが、既にアルテミシアの背とサゲンの硬い胸が触れ合うほど近くにいた。
サゲンはアルテミシアの肘へと手を伸ばし、手袋を外し始めた。レースの薄い生地越しにサゲンの手の温度が伝わり、指先から痺れるような感じがした。身じろぎする代わりに、下唇を噛んだ。
「続けろ」
サゲンの低い声が命じた。いつもなら反発したくなるところなのに、何故かそれができない。声が震えそうになったが、ひと呼吸おいて鏡の自分へと視線を戻し、口を開いた。
「首はちょっと筋張っていて、肩幅は比較的広く、全体的に見て筋肉質。そのため今日の軽い生地のドレスではあまり女性的に見えない。でも、唯一色は似合っている」
改めて鏡で全身を見るとよく分かる。ダンスホールにいた他の女性たちは、もっと柔らかそうな身体付きで腕も細く、例えるならふわふわのスフレみたいだった。一方自分は、背も高ければ肩も細くない。顔立ちも十人並みだ。別に女性として美しさを認められたい気持ちなどはそこまで持ち合わせてはいないが、見劣りする面ばかりが目に付いてだんだん気分が暗くなってきた。同時に、サゲンに対して怒りが湧いた。何故こんなことをするのだろう。みじめな気分にさせて二度と軍船に乗せないよう通詞役を下ろそうとでも言うのだろうか。それならとことんやってやる。
キッと鏡越しにサゲンを睨んで目が合った途端、青灰色の瞳にまっすぐ射すくめられ、何も言えなくなった。
「唯一色は似合っている?」
アルテミシアは驚いた。サゲンが怒っている。
「的外れもいいところだ。まだ気付かないのか。男たちがみんな君のスカートに潜り込みたいと思っていることに」
その言葉を頭の中で繰り返し、少しの間をおいて意味を理解した。あまりの衝撃に言葉も出なかった。
茫然とサゲンの顔を見上げていると、サゲンが背後に立ったままアルテミシアの顎を掴み、ゆっくりと鏡を向かせた。次に、親指がそっとアルテミシアの唇をなぞった。節の目立つ、太い指。――この人と並ぶと、背が高いわたしでも小さく見える。そんなことを頭のどこかで思った。
アルテミシアは抵抗も疑問も忘れ、その挙動を見守った。払いのけるべきなのに、そうできない。
「君の唇は魅力的だ。花びらのような形に、血潮の色をしている」
サゲンの低く掠れた声が耳をくすぐった。衝撃だった。じわりと体温が上がる。鏡の中で、後ろに立つ背が高く涼やかな目をした偉丈夫に唇をなぞられ頬を桃色に染めている赤いドレスの女が誰だったか、一瞬わからなくなった。まるで他人のようだ。動揺を隠しきれずにもう一度下唇を噛むと、サゲンの親指に顎を引っ張られて戻された。
「噛むな」
サゲンは司令官の口調で声低く命令した。アルテミシアは丸みを帯びたアーモンド型の目を見開いてサゲンを見つめた。瞳が暗く光り、その中にある感情が見えた気がした。突然、書斎と船室でのことが脳裏によぎった。この男がこの後何をするつもりか分かる。分かってしまった。信じられないが、間違いない。たちまち火がついたように身体が熱くなり、手のひらにじっとり汗をかいた。サゲンがアルテミシアの頬を自分の方へ引き寄せ、自らも身を屈めてくる。秀麗な切れ長の目が目の前にある。――
「バルカ将軍…」
言い終わらないうちに、唇を塞がれた。
サゲンは固まったまま動かないアルテミシアの唇を上下交互に味わった。まったく理性的ではない。自分でも分かっていたが、止められなかった。多分、自邸の書斎で彼女の身体に触れた時から――いや、それよりもっと前から、こうなることを想定していたのだ。船室での出来事からアルテミシアの姿を見かけるたび理性は限界に近づいていた。時折奇妙な翳りを見せる勝気な目、快晴の空のように澄んだ声、イグリ・ソノと踊りながら見せた屈託無い笑顔でさえ、サゲンの心を狂わせた。
彼女の唇に食らいつきながら、我が身に沸き起こっている複数の感情の中のひとつを認める気になった。嫉妬したことは疑いようがない。今までの人生でこんな感情は持ったことがなかった。昔の婚約者が他の男に嫁いだ時にさえ感じなかったのに、よりによって直属の部下を相手に抱くとは、あまりに滑稽に思えた。全く厄介な女だ。それでももう止めることができなかった。
どれくらいアルテミシアの唇にかぶりついていたか、はっきりわからない。サゲンが少し唇を浮かせると、アルテミシアがまるで長いこと水の中にいたかのようにぷはっと息を吐いた。
アルテミシアは混乱していた。何も考えられない。押し退けた方が賢明だったかもしれない。それなのに嫌だと思えない。サゲンの唇が触れた感触も、この息苦しさも、唇が触れ合った瞬間に灯った熱も、アルテミシアから冷静さを剥ぎ取るには十分だった。
サゲンは片手でアルテミシアの腰を抱き、自分と向き合うように引き寄せた。そして素肌が露わになったアルテミシアの腕に触れ、二の腕から肘より下の日焼けの境目までを手のひらでなぞった。柔らかく薄い肉の下に、しなやかな筋肉の感触がある。
「君の身体は素晴らしい」
サゲンの目には、アルテミシアは今にも逃げ出しそうに見えた。怯えとも戸惑いとも取れる表情でこちらを見つめ続けている。しかし、ハシバミ色の瞳の奥に違う何かが見え隠れしているのがサゲンにはわかった。
「小麦色に染まった部分も、生まれたままの肌の色が残った部分も、しなやかに鍛えられた筋肉も、そのままで美しい」
サゲンの手が下へおりてきて手の甲を撫で、指を絡めた。アルテミシアは抵抗しなかった。やはりこの人の手は心地良い。目をうっすら閉じた。
サゲンは小さく舌を打ってアルテミシアの後ろの髪に手を差し入れ、ふたたびアルテミシアに口付けた。今度はもっと深く。
「口を開けろ」
焦れたように、低く唸るような声色でサゲンが囁いた。アルテミシアは自分でも不思議なほどあっさりとそれを受け入れた。サゲンの温かい舌がアルテミシアの中に入り込むと、うなじのあたりから身体中に痺れが走った。
「ん…」
鼻の奥からアルテミシアが声を漏らした。驚いたことに、気持ちいい。
(へんなかんじ…)
キスで自分の身体がこんな反応をするなんて、知らなかった。唇を重ねながら呼吸をしようと努力したが、先ほどよりも激しく喰らい付かれて更に息が上がった。歯の間から口の中をなぞるようにサゲンの舌が這って行く。舌を絡められると、痺れるような感覚が全身に広まり、快感の波となってアルテミシアを包んだ。
サゲンは角度を変えて唇を浮かせてはアルテミシアに呼吸する隙を与え、貪るように口の中を味わった。荒い呼吸に混じってアルテミシアの鼻から抜けるような甘い息遣いが聞こえる。サゲンが腰を上下にゆるゆると撫でると、アルテミシアの両手が遠慮がちにサゲンの背中へ伸びてきた。
次の瞬間、アルテミシアの足が浮き、身体はソファに投げ出されていた。真上にサゲンの顔がある。情欲を剥き出しにした青灰色の瞳がアルテミシアをソファに釘付けにしている。サゲンの手がドレス越しに腿を這った瞬間、アルテミシアはびくっと体を震わせた。同時に、意識が現実に返った。多分、恐怖が顔にも出ているのだろう。その証拠に、サゲンの瞳にも理性をかなぐり捨てる前の彼自身が戻ってきている。「やってしまった」とでも言いたそうな顔だ。
サゲンのその顔を見た瞬間、アルテミシアの頭を狂わせていた熱が急速に冷め、冷ややかな気持ちになった。
「…ご忠告どうも」
静かにそう言いながら、もう目も合わせられなかった。アルテミシアがのろのろと起き上がると、サゲンも身体を起こしてアルテミシアの上から退いた。
(俺は今何をした)
サゲンはソファから立ち上がったアルテミシアの姿を呆然と見た。髪は乱れ、唇が赤く腫れている。現実に引き返されたというのに、身体がもっと熱くなった。硬くなった身体の一部を呪わしく思い、小さく悪態をついた。理性が激情に敗北したことなど、今まで一度もなかったのに。
「男が何を考えているのか、よくわかった。あなたを含めて」
サゲンはハッとした。このままではだめだ。
「リンド」
「つまりこういうことだよね。その、海賊だろうと軍人だろうと、どんなカタブツだろうと女を相手に例外なくこうなるって、身をもって実演してくれたってことでしょ?」
今やアルテミシアの瞳は情熱にとろけてはいなかった。いつもよりも冷淡で白々としている。すっかり感情を心の冷たい場所にしまい込んでしまったようだ。サゲンはまずいと思った。明らかに食い違いがある。背を向けて立ち去ろうとするアルテミシアの腕を焦って掴んだために、思わず力が入った。
「リンド、聞け」
「いい。大丈夫。わかってるから」
鋭い口調と剣呑な目つきは、既に心を閉ざしている証拠だった。
「…わたしに触らないで」
サゲンは食い下がらなかった。アルテミシアの腕を離し、猫のように去っていく背をドアが重そうな音をたてて閉まるまで見送った。
部屋に一人になると、感情を内に仕舞っておけずに分厚く絢爛な装飾の施された壁にドン!と拳をぶつけた。
アルテミシア・リンドが相手だといつも調子が狂う。こんなつもりではなかったのだ。少なくとも彼女が自分の唇を噛むまでは。
(馬鹿な)
耐えられるわけがない。あんな熱っぽい表情を見せられて、素直にキスに応じる彼女の身体に触れて、理性が勝るはずがない。認めざるを得なかった。
(――俺はアルテミシア・リンドに惹かれている)
厄介なことになった。
が、もはや引き返す気はない。
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