王城のマリナイア

若島まつ

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十九、リスト - una lista-

 アム共和国からカルロ・スビート元帥が少数の部下を従えてオアリスへやって来たのは、それから三日後のことだった。ここのところは夏でも冷涼なイノイルには珍しく、日陰に入っても汗が引かないほどの気温が続いていたから、この日は急にやってきた雨と寒気のせいで殊更肌寒く感じた。
 南国育ちのカルロ・スビートはアム共和国伝統の紫色の外套を靡かせ、ぶるりと震えて船室から甲板へ出た。イノイル随一の貿易港であるティグラ港では、寒さには慣れっこのイノイル人を始め、北方のエマンシュナ人やルメオ人の船員たちがいつもの通りあくせく働いている。火薬や調度品など、雨に濡れてはいけない積荷を急いで屋内へ運び込む者もいれば、雨の中、まるで晴天の日と同じように小料理屋の外の椅子に座り、寄港の際に味わえる特別な食事を楽しんでいる者もいる。この港の喧騒と活気は、多少の天候の変化にはあまり大きく左右されないようだ。
 カルロ・スビートとその隊は泥を跳ねながら休まず騎馬でオアリスへ向かった。これほど急ぐのには、わけがある。彼らはオアリス城の城門をくぐり、黒瓦の美しく風変わりな城郭をその目に堪能する間も惜しんで入城した。女王の秘書官であるロハクと指揮官のサゲンがカルロ・スビートを出迎え、部下にアム兵たちの案内を任せると、カルロの要望により人払いをさせた上、三人で一階のいちばん奥にあるサロンに篭った。いつもであれば大きなアーチ型の窓からは美しい庭の風景が楽しめるが、今日は固く閉じられ、カーテンで遮られている。天候のせいではない。サゲンやロハクよりも小柄で年嵩のカルロは、老練な彼にしては珍しく幾分か緊張した面持ちだった。三人は小さな丸テーブルを囲み、一人掛け用のソファにそれぞれ腰を下ろしている。
「雲行きがあまりよろしくない」
 と、カルロ・スビートが言ったのは、無論天気のことではない。
「尋問の進捗に関することでしょうか」
 ロハクが失礼にならないよう、慎重に口を開いた。アム国内でも権力のあるこの男の機嫌を損ねては、今後の作戦に影響する。カルロは右手を挙げ、否定した。
「いや、ニド――あの海賊は、そちらの麗しい通詞殿に手酷くやられてからすっかり腑抜けおってな。こちらが拍子抜けするくらいぺらぺらと何でも喋る」
 カルロは一瞬緊張を解いた様子で、白の混じった亜麻色の口髭を震わせて笑った。よほどあの出来事が痛快だったらしい。
「ただ、カノーナスの情報に関しては、よほど奴を恐れているらしく、ひどく震え上がって何も話さん」
 サゲンは訝しんだ。
「では、話した情報というのは」
 カルロは灰色の瞳に影を落とし、陰鬱な表情になった。長い上着の内ポケットから何かを取り出し、テーブルの上に置いた。神話の模様が彫られた銀製の平たい箱で、嗅ぎ煙草入れのようにも見えた。小さな鍵穴が空いている。
「顧客だ」
「顧客?」
 とロハクは訊いたが、サゲンには何のことかすぐに分かった。そして、鍵付きの箱に入れられている理由も、すぐに答えが出た。
「アルテミシア・リンドを呼びます」
 カルロは奥歯を噛み、苦々しい顔をした。
「これは、最小人数での情報に留めておく必要がある。我が国でも尋問に立ち会った者二人と私、そしてランフランキ元首しか知らない」
「でしたら、リンドの名もそこに連ねるべきです」
 サゲンは断固として言った。
「何故そう思う」
「それは、作戦を進言してあの海賊を仕留めたのが彼女だからです、スビート元帥」
「作戦は進言したかもしれないが、事実を言えば仕留めたのは君だろう、バルカ将軍。あの女性はただの通詞ではないのか」
 カルロは尚も疑わしげな様子で尋ねたが、サゲンは辛抱強く言った。
「アルテミシア・リンドは女王直属の通詞であり外交官です。機密を知っても問題はない。そうだな、ロハク?」
 まだ正式には外交官ではない、とは言わず、ロハクは「ええ。秘書官としての見解では、問題ありません」と神妙な顔で助け舟を出してやることにした。なんと、清廉なサゲン・エメレンス・バルカ将軍が公式な場で事実を僅かにでも歪めてしまった。笑みが顔に出ることはなかったが、ロハクの瞳がキラリと光ったのをサゲンは見逃さなかった。
(また借りを作った)
 しかし、少しも惜しいと思わない。これはアルテミシアこそ知るべきだ。
 サゲンは渋々承知したカルロに感謝の言葉を告げ、サロンを後にした。

 女王付きの通詞の仕事は予想よりも地味で膨大だ。――というのが今のアルテミシアの見解だ。宴の予告を女王からされた時にはこんな仕事を任されるなど、考えてもみなかった。
 アルテミシアは宴の後半に行われる晩餐会の席次表を各国の秘書役や侍女たちにわかるよう、それぞれの言語に合った表記に直し、ひたすらそれを書き写す作業に没頭している。また、女王の挨拶の口上と発音の指導にも当たらなければならないから、その準備にもかなりの時間を費やすし、何よりも難関なのが来賓の出身地はもちろん、家名やどの国の王家とどう繋がりがあるかなども頭に入れておかなければならないことだ。ロハクから人相をはじめとする身体的な特徴や服装や食べ物の嗜好などが記された分厚い名簿を何冊も渡され、できる限り頭に入れるようにと言われたが、紙の上の情報で何百という人数を初対面で判別できるように覚えることなど、到底不可能だ。
 これらの作業のおかげで、アルテミシアはここ二日間、塔の四階に泊まり込んでいる。塔の三階から上は図書館になっていて、四階には各国の礼儀作法に関する本や家系図などが集められているからだ。本当ならじっくりシトー王家の蔵書を吟味し熟読したいところだが、それは当分の間叶いそうにない。
 この塔の隅に使用人たちによって簡易ベッドが持ち込まれ、机の上には所狭しと各国の家系図や出身地に関する分厚い本が置かれている。ここまで自分を狭い部屋に閉じ込めて追い詰めるのは、大学の卒業試験の時以来だ。もしかしたらそれ以上に大変かもしれない。
 誰かに手伝いを頼みたいが、綴りはもちろん、アクセント記号や大文字小文字まで間違えられないので、誰にでも任せられる仕事ではない。しかも、宴まで日数が迫っているために城内のどこを見ても高官から下働きに至るまで静止する間も無く立ち働いている。手伝いをして欲しいからと言語や文字に明るい者を何人か紹介してもらって自分で助手を選定する気には、とてもなれなかった。
 そういう理由でここ二日は塔の四階を砦にし、孤軍奮闘している。生来活発で家に籠るよりも外で思い切り身体を動かす方が好きな性質だが、こういう時の集中力が何日も途切れないのがアルテミシアの自他ともに認める長所でもあった。
 この日初めてアルテミシアの集中を途切れさせたのは、空腹だった。恨みがましい音を立てて腹が抗議し始めた時、初めて自分が空腹であることに気づいた。そういえば朝食も熱い紅茶一杯だけしか飲んでいない。最後の食事らしい食事は確か、昨日の昼に食べたバゲットサンドだった。
(今日は帰ろう…)
 城内に設えられた大理石の浴室も悪くはないが、そろそろバルカ邸の杉の香りがする浴室が恋しい。
 アルテミシアは羽ペンの先についたインクを布できれいに拭いて置き、身の周りに散らばった様々な国の系図や席次表のための上質な料紙を机の脇にきちんとまとめた後、ほつれてきた髪を直すために髪を解いて一つに結い直しながら席を立った。向かった先には、この部屋に入って最初にエラに頼んで持ってきてもらったイノイルの強い醸造酒がある。背の低いキャビネットから酒瓶を出し、コルクを抜いて、小さな酒杯ではなく水飲み用のグラスになみなみと注いだ。
「空きっ腹にそんな量を入れたら胃が荒れる」
 不意に低い声がたしなめたので、アルテミシアはびくっとしてグラスを落としそうになった。
「びっ…くりした!バルカ将軍は気配を消して人を脅かすのが好きみたいだね」
 いつの間にか戸口に立っていたサゲンに目を見開いて、アルテミシアが詰った。
「今来たところだ。それに、声は掛けたぞ」
 サゲンはそう弁解すると、グラスから酒を飲むアルテミシアの顔を観察するようにじっと眺め、むっつりと黙って眉間に皺を寄せた。
 アルテミシアは見た目よりも着心地を重視したらしく、一枚で着られる簡単な暗いグリーンのドレスを着ている。それも、この肌寒いのに袖の短いものだ。いかに宴の準備が忙しいと言っても、女王付きの通詞たる彼女に侍女の一人も付いていないとは、配慮が行き届いていない。サゲンは苛立ちを隠すように口を引き結んだ。
 アルテミシアは厳しい表情で見つめられて居心地の悪さを感じ、無意識のうちに後ずさりした。よく考えたらあの夜以来まともに顔を合わせていない。じわりと体温が上がった。
 サゲンは気にせず距離を詰め、アルテミシアの頬を親指で撫でた。
「顔色が良くない。食事はちゃんと摂っているのか。睡眠は?」
「寝てはいるよ」
 最低限は、と心の中で付け足した。サゲンの指はまだ愛撫するように頬の輪郭をなぞっている。
「誰か助手をつけさせる」
「それが、専門職じゃないとなかなか…。みんな宴の準備で忙しいし」
 サゲンはハアッと大きく溜め息をつき、無意識のうちに撫で続けていたアルテミシアの頬から手を離すと戸口へ向かった。
「…まあいい。話はあとだ。一緒に来い。スビート元帥が待っている」
 アルテミシアは急いでがぶりと酒を飲んで急いでグラスを机に置き、長いドレスの裾をバサバサと蹴るように歩き出した。
「カノーナスの居場所がわかったの?」
 サゲンはかぶりを振った。
「そいつは遠く離れた子分にも相当な恐怖を与えているらしい。だが、大きな収穫があったようだ」
 アルテミシアは首を傾げた。
「顧客の名前だ。まだ中を見てはいないが、恐らく有力者の名前が連なっているはずだ。それも、短いリストではないだろうな」

 サゲンと共にアルテミシアが慌ただしく現れたので、ロハクとカルロ・スビートは椅子から立ち上がって女性への礼儀を示し、密議へ迎え入れた。
「スビート元帥、ご高配感謝いたします」
 アルテミシアが宮廷の女性らしく恭しく礼をすると、カルロ・スビートは少しだけ気まずそうな様子で「気にすることはない」とだけ言った。サゲンはアルテミシアに椅子を譲り、自分はその横に立った。
 アルテミシアは小さなテーブルに置かれた手のひらほどの大きさの箱に目を止めた。カルロは鍵を開ける前に三人の顔を見回し、最後にもう一度アルテミシアを見て慎重に口を開いた。
「海賊たちの主要な商売が何か、承知の上とは思うが…正直言うと、これから話すことはあまり女性の耳に入れてしかるべき話ではない」
 サゲンとロハクは無言で目配せし合った。こういう扱いを受けた時の彼女の反応がなんとなく予想できたからだ。ところが、二人の懸念に反してアルテミシアは涼しい顔のまま、口元に笑みを浮かべた。
「ご心配くださっているんですね、元帥。でもどうぞ、あなたの部下と同じように思ってください。これでも六年間粗野な男たちと一緒に船乗りとして過ごしたんですから。それに、あのクソ野郎のタマを潰したのが誰か忘れました?」
 アルテミシアがおどけて言うと、カルロはよく響く声で弾けるように笑い出し、「確かに、そうだ」と頷いた。
「君がタマを潰したニドの情報によれば、商人としての海賊の役回りは、‘品物の生産’だ。品物――攫ってきた人間を、奴隷として顧客に売る。そうして攫われた者たちの行き着く先は、みな知っている通り違法な売春宿や闘技場や異常な趣味の金持ちなどだが、彼らは海賊から直接買うわけではない」
「‘品物’を買い付け、顧客に売る仲買人がいるということですね」
 アルテミシアが言うと、カルロは神妙に頷いた。
「ここにあるのは、その仲買人の名前だ。…頭の痛いことに、各国の有力貴族や政治に影響力のある豪商の名も載っている」
 カルロは懐から小さな鍵を取り出し、銀の箱の鍵を開けた。中には、蛇腹に折りたたまれた紙が入っている。サゲンは箱から紙を取り出し、蛇腹を広げて机に置いた。広がり切った紙は、小さな箱に入っていたのが不自然なほど横に長い。よく見ると、端から端まで小さな文字で幾人分もの名前が羅列してあった。
「これは――」
 ロハクがいつになく戦慄した様子で言葉を失った。
 サゲンは無言のまま、不愉快極まりないといった表情でその一つ一つを読み込んだ。
 二百ほどの名があるだろうか。エマンシュナ王国、ルメオ共和国、アム共和国、アミラ王国など、周辺諸国の有力者たちの名前がいくつも連なり、中にはイノイルの貴族のものもある。
「この人たち全員、奴隷商に関わってるって言うの…」
 信じられない思いだった。これほどの悪事に手を染めている者が、自分が生まれた国や生活している国で犯罪に手を染めながら安穏と暮らしていると思うと、怖気がする。その名前が記された文書にさえ憎悪を感じるほどだった。
「信憑性はあるのですか」
 ロハクが尋ねると、カルロは眉間に深く皺を寄せた。無論、彼にも同じ疑問があったし、あの海賊の苦し紛れの嘘であればと願いもした。しかし、尋問を続ければ続けるほどその話は辻褄が合い、信憑性は増すばかりだった。ニドが名を挙げたうちの一人が、既に違法な薬物や動物の取引の罪が露見して共和国の憲兵に捕らえられていた人物だったことも理由の一つだ。カルロがそのことを告げると、ロハクは陰鬱な表情で口を閉じた。
「我が国でも、すぐにでもこの罪人たちを裁きたいところだが、あなた方との連携を待っていた。もし逃せば他の仲買人にこちらの動きが漏れかねない」
「それぞれの仲買人が繋がっているとお考えか」
 カルロはサゲンの問いに無言で頷いた。
「貴族社会は狭いものだろう、バルカ将軍。こいつらの社会も同じだと私は踏んでいる。しかも同じ秘密を抱えるのだ。一筋縄では行くまい」
「…秘密裏にこの名前の者たちを監視させます」
「それがいい」
 彼らの密議を背中で聞きながら、アルテミシアはリストの名を読み続けた。国や文字などで整列されず、ただ乱雑に名を連ねただけのようだった。恐らくニドが口にしたそのままの順なのだろう。よくこれだけの名をあの愚鈍そうな男が覚えていたものだと思いながら次の行へ視線を移した時、アルテミシアの目がある一点から離れなくなった。
 ――そして、思考が一瞬途絶えた。
 頭の中でその文字の羅列が音を持ち、名前としての意味を持った時、目の前が真っ暗になった。身体中の血液が冷えていく。
「リンド」
 サゲンはアルテミシアの様子がおかしいことに気付き、肩を掴んでこちらを向かせようとした。顔が真っ青だ。ロハクとカルロ・スビートもその様子を怪訝そうに伺っている。しかし、アルテミシアは何の反応も示さない。紙の一点を見つめたまま、こちらの声が聞こえてもいない様子だった。
「リンド」
 サゲンが気遣わしげにもう一度名前を呼ぶと、アルテミシアはサゲンの目を一瞬見た後、すぐにいつもの調子に戻った。
「すみません。ここのところ食事をとる間も惜しんで仕事をしていたもので、そろそろ空腹が限界です」
 ロハクは呆れたように苦笑し、カルロは豪快な笑い声をあげた。
「さぞお疲れだろう」
「あなたもですよ、元帥。アムの方には今日の天気は少し寒いのではないですか」
 と、アムの言葉でカルロに言った。カルロは流暢なアム語を聞いて唇に大きく弧を描かせた。
「さよう。このために船を急がせたからな」
 カルロはリストを箱に戻して鍵をかけると、自分の上着にはしまわずにテーブルの上に置いたまま立ち上がった。
「…我々の元首はこの件を盟主であるイノイル女王にお任せになる。無論、同盟国ひいては海賊団討伐の連合軍として、我々は協力を惜しまない」
 ロハクは頷いた。
「早々に陛下へ報告し、軍議を行います」
「スビート元帥、此度の早急の報せ、心より感謝します」
 サゲンがカルロと固い握手を交わした。
 ロハクが宿舎である城下の瀟洒な邸宅まで案内するためにカルロ・スビートを伴って部屋を辞去した後、アルテミシアは急いでその場を離れた。もう耐えられそうにない。
「リンド?一体――」
 アルテミシアは急いで窓を開け、胃の中のものを外へ吐き出した。と言ってもほとんど胃は空っぽだったから、水っぽい酸味のある液体が口から出ただけだった。
「リンド!」
 サゲンが素早く駆け寄った。
「空きっ腹に飲むんじゃなかった」
 とアルテミシアは真っ青な顔で無理に笑みを見せたが、サゲンにはそれだけでないことは分かっている。サゲンの眉根を寄せた厳しい顔を見て、アルテミシアは作り笑いをやめた。
 吐き気が治まった後、サゲンが注いでくれた水を飲み、ソファにもたれた。サゲンはアルテミシアからグラスを受け取ると、外に控えていた女中に渡し、食事の用意を命じた。
「肉はダメだ。消化の良いものを頼む」
「もう大丈夫だってば」
 聞いていたアルテミシアが部屋の奥から抗議したが、サゲンは無視した。
「俺の部屋へ持ってきてくれ」
 女中がうっとりと科を作るようにサゲンにお辞儀をして下がった。
(そう言えばケイナがバルカ将軍はモテるって言ってたっけ)
 アルテミシアは無駄に反抗したくなった。
「まだ仕事が残ってるから塔の図書館に戻る」
「ダメだ」
 サゲンはにべもない。アルテミシアはムッとしてサゲンを一瞥し、さっさと立ち上がって辞去しようとしたが、不意を突かれて膝を掬われ、驚くほど簡単に身体を持ち上げられてしまった。アルテミシアはぽかんとして目の前の顔を見上げたが、すぐに我を取り戻し、横抱きにされている状況を理解するといきり立った。
「ちょっと!」
「暴れると落ちるぞ」
 サゲンは軽々とアルテミシアの身体を運び、ドアへ向かった。
「自分で歩けるから!」
「聞き分けないのが悪い」
「はあ!?」
 アルテミシアは焦った。もしこのまま外へ出たら、バルカ将軍に横抱きにされた状態をサゲンの執務室に着くまでのあいだ城中の者に見られることになる。それだけは避けたい。しかし、サゲンは気にする様子も無くドアを開けようとしている。
「待って!わかった!なんでも言うこと聞くから下ろして!」
 アルテミシアの降伏宣言を聞いたサゲンは満足そうに「そうか」と言うと、ゆっくりアルテミシアの身体を下ろした。アルテミシアは頬が熱くなるのを止められなかった。
「顔色はましになったようだ」
 サゲンは皮肉めかしてそう言うと、頬を緩めた。
 食膳が整うまでの間、アルテミシアはサゲンの執務室のゆったりしたソファに腰を預けて大人しく休息することにした。
(危なかった)
 もう少しでカルロやロハクの前で醜態を晒すところだった。サゲンには不本意ながら既に情けないところを見られているから良いとしても、アムの元帥の前で激しい動揺を見せては、「やはり女に話す内容ではなかった」と軽く見られかねない。今後の職務を全うするためにも、他国の権力者には弱みを決して見せられない。これが男であれば「若輩者」で済むところかもしれないが、生憎、男社会は女をそうは見ない。「女」であることが既に弱みなのだ。男たちの中で女が彼らと同じ務めを果たすためには、彼ら以上に強靭な精神を持っていると示し、周囲から認められる必要がある。
(イサ・アンナ様はいつもこんな思いをしているのだろうか)
 アルテミシアはもそもそとソファに横になり、目を閉じた。
 紙に記されていたあの名前が、真っ暗な視界に白く浮かび上がった。
 ――‘Raoul Hiddinger’
 二度と耳にすることはないと思っていたのに、ここに来てまた過去と現在が交わってしまった。
 アルテミシアが手のひらを目蓋に当てて沈黙したままでいると、頭の上で軋むような音がし、ソファが沈む感覚があった。次に、温かく大きな手がアルテミシアの髪をくしゃっと撫でた。目が熱くなり、鼻の奥がツンと痛んだ。
 サゲンはアルテミシアの手を握り、そっと顔から退けた。アルテミシアは抵抗しなかった。ハシバミ色の目が濡れている。
「食膳が整った」
 アルテミシアは応えず、サゲンの手を握り返して自分の頬に当てた。涙で冷えた肌が温められると、気持ちが落ち着いた。サゲンは表情を変えず、注意深くアルテミシアを観察している。
 やがて、アルテミシアがサゲンの青灰色の瞳に強い視線を向けた。
「ラウル・ヒディンゲルの名前があった」
 サゲンは静かに頷き、先を促した。アルテミシアはサゲンの手を握る手に力を込めた。
「わたしが結婚させられそうになったアミラ王国の貴族」
 サゲンは表情を変えなかった。しかし、身体の中では激しい怒りが血管中を駆け巡り、顔を見たこともないエンリコ・ベルージへの激しい殺意が湧き起こった。たとえ血の繋がりがなくても、娘として育てた少女を人身売買を生業とする犯罪者へ売ろうとする親がどこにいるだろうか。唯一の肉親であるはずの母親は一体何をしていた。同時に、安堵もした。彼女が今無事に自分の傍にいるのは、ひとえに彼女が賢く強く育ったからだ。彼女に愛を与えた乳母や、武術を教えた侍女の功績は計り知れない。
 アルテミシアはサゲンの瞳を見つめ続けた。青灰色の瞳が慈しむような光を帯びている。一度深く呼吸をして、意を決した。これ以上はもう隠しておけない。サゲンには話すべきだ。もっと早くそうしていてもよかったのかもしれない。それでも、サゲンはアルテミシアのことを自分から探らずに待った。今こそその信頼に応えるべきだ。その結果、彼が自分を見る目が変わってしまったとしても。
 大きな手を握ったまま身体を起こし、ソファの上でサゲンと向き合った。
「ラデッサのことを話す」
 アルテミシアの声は震えていた。
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