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二十五、逃走と闘争 - Corri o Combatti -
ランプの灯りが庭園の小川に沿って小道のように照らし、水面に反射して木々の葉や花を輝かせている。
「見事だわ」
ロザリア・ボーヴィル伯爵夫人は無造作に咲くカレンデュラやポピーに顔を綻ばせた。オレンジ色の灯りが柔らかくそれらを彩っている。草に足を取られないよう、サゲンは腕を貸してやった。
「君は昔から花が好きだったな」
「ええ、特にピンクの薔薇」
ロザリアは穏やかな笑みを見せた。十代の頃はよくころころと弾むような笑い声を上げたものだが、すっかり上品な微笑が板についている。
「ねえ、覚えているかしら。あなた、よくわたしのためにこの庭園から薔薇を折ってきてくれたのよ。手を傷だらけにして」
「いつの話だ」
言いながら、サゲンは記憶を辿った。法務官の父にくっついてよく城に出入りしていたのは、五つか六つの頃だ。その頃、サゲンの父とロザリアの父は城内に隣り合った執務室を持っていた。ロザリアもまた、父親の執務室や城の庭園にはよく遊びに来ていた。同じ齢の二人はすぐに友達になり、よく一緒に庭園を走り回ったものだった。今思えば幼い恋心があったかもしれない。薔薇はその親愛の証だったのだろう。ロザリア・テンチはよく走りよく笑う、陽気な女の子だった。
「あの頃はテンチ殿もご健在だったな。二人揃って泥だらけになって、よく叱られた」
と、サゲンはロザリアの父を懐かしんだ。それまで穏やかな表情を見せていたロザリアは、灰色の目に陰鬱な影を落とした。
「ええ、そうね…」
「まだお父上の死を乗り越えられないか」
サゲンの脳裏に、父親の喪に服すロザリアの顔が蘇った。顔色をなくし、途方に暮れ、心の太陽を失ってしまった十七歳の少女の顔が。今の彼女は、その時のまま大人になったようだった。
「だって、あれから全てが変わってしまったもの」
「もう十五年だ」
「年月は関係ないわ」
ロザリアは顎を震わせた。
「君のお父上は立派な人だった。指揮官として陣頭に立ち、国を背負って戦った」
ロザリアは息だけで小さく笑った。諦めや怒りの混じった、厭世的な響きがある。
「殿方はいつもそう。みんな同じことを言うわ。誇りに思えと」
「ロザリア…」
「父が亡くなった後、我が家に何があったかご存知?」
「いや」
ロザリアは扇子を開き、頬から下をすっかり隠した。優雅な仕草の裏で、悲しみに打ち震える姿を隠したかったのだろう。サゲンの胸にちくりと刺さるものがある。罪悪感だ。
その頃、既にサゲンは親元を離れ、他の下士官たちと一緒に兵舎や軍船で寝起きし、兵卒として海賊討伐の任務に就いていた。当時の上官はトーラク将軍だった。イノイル海軍の中でも特に厳しいトーラク隊にあって、実家の母に手紙を送る余裕もなければ婚約者に会う時間も持てず、南の海上でテンチ将軍戦死の報を受けた頃には葬儀も終わっていた。一年の任務を終えて久しぶりに会った婚約者は、どこか以前とは違っていた。十七歳のサゲン・エメレンスは、多くの青少年がそうであるように、自分がそばにいなかったことを彼女は責めているのだろうと片付ける程度に短絡的だった。以前は少なくとも月に二度は逢瀬を重ねていたものだったが、任務の後でロザリアと会ったのは、帰郷の報せにボーヴィル家を訪ねた時とテンチ将軍の墓参りをした時の二度だけだった。その後すぐにロザリアのボーヴィル伯爵家との縁談がまとまったために、テンチ一家に起きた出来事などは知る由もない。
「お父様の跡を継いだお兄様は、借金を増やすのが唯一の特技だったわ。…いえ、‘だった’じゃないわね。今もそうだもの。お父様の残した財産をみるみるうちに削り取り、代々守ってきた領地を少しずつ売りに出し、とうとうお母様は心労で倒れたわ。わたしは大富豪のボーヴィル伯爵家へ嫁いだ後も何かにつけて援助をさせられた。笑っちゃうわ。わたしはボーヴィル家では金食い虫と思われているのよ。子供も産まず、金を無心するだけの妻。それなのに夫は一度もわたしを責めなかった。それが尚更、情けなくて…」
サゲンはすぐに言葉を見つけられなかった。自分がかつてあれほど簡単に受け入れた婚約解消を機に、これほどの運命を彼女に負わせていたとは。この幼馴染みに心からの憐憫を感じたが、それを表に出すのは彼女への侮辱になるだろう。
「あの頃に君を支えてやれなかったことは、悪かったと思っている」
「…いいの。もう昔のことだわ」
二人は橋の中央に設えられた東屋へと渡った。夜気に花の香りが漂い、水面にランプの灯りが無数に揺れている。周りには他の招待客もちらほらと訪れ、景色を楽しんでいた。
「わたしたちが子供の頃は、東屋はなかったわね」
「これも陛下が造らせた。設計は陛下ご自身だ」
「素晴らしいわ」
ロザリアの顔に穏やかな笑みが戻った。橋の向こうから楽団の演奏する明るい曲と、ダンスに興じる人々の笑い声が聞こえてくる。サゲンは無意識のうちに、大広間の方向を見ていた。既に広間の灯りは遠い。イグリがアルテミシアにダンスを申し込む場面が脳裏をよぎり、不愉快な気分になった。それを振り払うように、ロザリアとの会話を続けた。女性を一人残して立ち去るのは、まったく紳士的ではない。
「…お母上の様子はその後どうだ。よくなったのか」
「ええ、一度はね。でも近頃はまた病気がちになって、すっかり弱ってしまったの。もう齢だから、仕方のないことだけれど」
「そうか。あまり気に病むなよ」
サゲンが例の部下にするような仕草で肩に手を置くと、ロザリアはうっすらと笑みを浮かべ、薄絹のグローブをはめた手でサゲンの手にそっと触れた。
「婚約を取りやめた時、あなた理由も訊かなかったわね」
「ボーヴィル伯爵家とのことは父から聞いていた。それから、君も承諾したと」
ロザリアが静かに笑った。また、あの諦めたような声色だった。
「何故承諾したと?」
サゲンには答える材料がなかった。野心に燃え、多忙な任務に追われていた時期に起こった婚約解消の騒動は、日々の喧騒の中で些細なことに成り果てていた。彼女のことを愛してはいたものの、親に決められた結婚を自分の一部と思えずに、どこか他人事のように感じていたのも理由の一つかもしれない。
「兄はお金目当てでボーヴィル家へわたしを嫁がせたけれど、わたしには別の目的があったの。…あなたを失わないことよ」
ロザリアはもう扇子で顔を隠そうとはしなかった。目に涙をいっぱい溜めながら、口元は上品に微笑みを浮かべようと震えている。
「俺が軍に入ったからか」
「父が戦死した時、気付いたのよ。最愛の夫を亡くした母を見て悟った。あれは未来のわたしの姿だと。いつか遠く離れた海の上であなたを失うことになる。そんなことは、とても耐えられなかった」
サゲンは頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。そして、先程よりもずっと重苦しい罪悪感に襲われた。それほどまでにこの幼馴染みが自分を愛していたことに気付くことができなかった。今となっては、それに報いてやることもできない。
「皮肉ね。添い遂げるために結婚した夫が、病でこんなに早く死んでしまうのだもの」
ロザリアの小さな手がサゲンの手をきつく握った。
「ねえ、エメレンス…。もしもあの時わたしたちが結婚していたら、今より幸せだったかしら」
ロザリアは瞳にランプの灯りに反射した湖面を映し、サゲンの瞳を覗き込んだ。サゲンは憐れみにも慈愛にも似た気持ちでその視線を受け止めた。
「エメレンス、あなたがまだ独身でいるのが、わたしのせいなら――」
「しっかりしろ、ロザリア。‘もしもあの時’などは存在しない。俺が独り身でいる理由も君とは関係ない」
サゲンは毅然とした態度で言った。必死で罪悪感を振り払い、ロザリアの肩から手を退けた。
「俺たちは皆、自ら選んだ道の上に立っている。過去の選択が望み通りの結果にならないこともある。大体のことがそうだ。それを、幸か不幸か決めるのは自分自身だ。父親や伴侶を失くした君の気持ちは俺には計り知れないが、これだけは言える。辛い出来事を嘆き続けて自分の人生を誤るのは、君を愛した者たちへの冒涜だ」
「相変わらず、厳しいのね」
ロザリアは傷ついた様子など微塵も見せず、穏やかに微笑んだ。
「あなたのそういうところ、とても好きだったわ」
やおら寄りかかってきたロザリアの身体を、サゲンは受け止めた。
「夫のことも、とても愛していたのよ。今のわたしには、彼がすべてだった…」
「分かっている」
そうでなければ夫の死をこれほど悲しまないだろう。ロザリアはサゲンへの愛を諦めたが、紛れもなくもう一つの愛を手に入れたのだ。
アルテミシアはコルネール夫妻と別れた後、庭園の景色や音楽を楽しみながら酒を飲むアム共和国のカルロ・スビート元帥やサゲンの参謀のゴラン、トーラク将軍を始めとする将校の令嬢たちと合流した。
(お、なかなか面白い取り合わせ)
などと考えながら彼らと挨拶を交わした。トーラク将軍の息女レナータは明らかにゴランに気がある。父親譲りの大きな目をパチパチとさせ、黒いレースの扇子を蠱惑的にパタパタと波打たせて、ゴランの話にはやや大仰に相槌を打っている。一方のゴランが全くその意図に気付かず、バクバクと大口で次々に料理を平らげていくのには呆れてしまった。レナータの取り巻きと思われる三人の令嬢たちはアルテミシアを妙な目つきで凝視していたが、以前エラやケイナから話を聞いていたから、これにどういう意味があるのか容易に想像がついた。
「お三方とも、お美しいですね。花のように可憐で、つい見惚れます」
と、にっこり笑い、船乗りとして過ごしていた時期に培ったちょっとハスキーな少年の声色で言ってみると、案の定、令嬢たちは黄色い声をあげてうっとりとアルテミシアを見上げた。当のアルテミシアはいつもと違って完璧に女性らしくドレスで着飾っているというのに、妙な話だ。
「まったく、リンド嬢。多才ですな」
と、隣で見ていたカルロ・スビートが小声でからかったので、アルテミシアは舌を出して笑った。
そこへ、広間へ戻る道に迷ったエル・ミエルドの皇太子の従者が通りかかったので、アルテミシアは通詞として庭園を案内しながら大広間の前まで連れて行ってやった。「これはイノイル固有のなんとかいう花」、「この建築様式はイノイル独特のもの」などと解説してやると、従者はいちいち嘆声をあげて喜んだ。
その後も何人かの顔見知りやその他の招待客に声を掛けられ、何度か杯を交わして広い庭園を行ったり来たりした。女王の通詞ともなると、これほどの人に顔を覚えられるのだと改めて認識した。彼らとの会話は簡単なものだったが、中には有益な情報もあった。エマンシュナの南の海域で、不審船が目撃されるようになったとか、ここ数年で急激に羽振りの良くなった造船業者があるとかだ。
(なるほど、宴も情報戦の役に立つ。バルカ将軍にも教えてあげよう)
と考えついたところで、首をぷるぷると振った。今はそれよりも先に伝えることがある。恩師との対話で導き出した、「確かなもの」だ。
(ああ、でも)
サゲンを探すために既に遠くの灯火となった大広間へと戻ろうとしたが、すぐに足を止めた。
サゲンの気持ちを突っぱねたのは自分だ。ここ数日のサゲンの態度もよそよそしいものだったし、もう手遅れかもしれない。「心は変わる」と言ったのは、他ならぬアルテミシアだ。それが現実になったとしたら、すんなり受け入れられるだろうか。また元のような信頼し合える仲に戻れるのだろうか。考えれば考えるほど不安になってくる。誰かの感情に対してこれほど神経質になるのは初めてのことだった。
アルテミシアは大広間の方に向いたり庭園の奥に向いたりと行き先の定まらない爪先を持て余していたが、六回目に爪先が庭園の奥へ向いた時、足がぴたりと止まった。誰かに呼び止められたからだ。
「ミーシャ」
水辺に沿って置かれた球体のランプが照らしたのは、イグリだった。数々の上等な交易品を扱う商家の息子だけあって、センスが良い。他の上級将校や貴族たちが来ている衣装とは値打ちは比べ物にならないが、この年若者たちの間で流行している暗いストライプのベストとジャケットをばっちり着こなし、長めの金髪は後ろで一つに縛っている。
イグリはアルテミシアの前に主君にするような仕草で膝を折り、恭しく左手を取って甲に口付けをした。アルテミシアは違和感を覚えた。笑顔が見えない。イグリがこちらへやって来る時は、いつだって輝くような笑顔を見せるのに。
が、すぐにイグリが顔を上げ、いつもの陽気な美男子の笑みで「踊ってくれる?」と尋ねてきたので、くすくす笑いながら快諾した。
庭園の小川の手前に設けられた小さなステージでは、四重奏の楽団が夏の夜に相応しく陽気でロマンチックな曲を演奏し、周りの人々はそれに合わせてダンスを楽しんでいる。二人は手を取ってその中に入り、くるくる回りながら踊った。村の祭りのようなダンスだった。いつもは作法に厳しい上流階級の人々も、夏の夜の庭園では気持ちが大らかになるらしい。二人を真似て派手に回り始める若いカップルもいた。
「これがうちの地元の踊り。宮廷の作法とはだいぶ違うけどね。まあ、外だし、無礼講だろ」
と、イグリはアルテミシアの手を取り頭上で回しながら白い歯を見せた。
「いいね。気に入った」
アルテミシアも笑い声をあげながら回転した。ドレスのスカートがふわりと弧を描いた。
曲が終わると、アルテミシアは息を切らせながら、何か言いたそうにイグリを見、口を噤んだ。イグリには何となくその理由が分かったが、気付かないふりをした。
「あのさ」
と、口を開いたのは二人同時のことだ。二人はぎこちなく笑い合った。
「いいよ、女性が先だ」
イグリは先を譲り、庭園を行き来する給仕係から白ワインを二つ受け取ってアルテミシアに渡した。
「バルカ将軍がどこにいるか知ってる?」
どきりと嫌な予感がしたが、イグリはそれも無視した。
「外国の軍の重役たちと一緒じゃないのか?」
「もう話は終わったって、スビート元帥が」
「じゃあ分からないな。急ぎの用事でも?」
白々しく訊きながら、イグリは内心で自嘲した。アルテミシアの用向きはもう分かっている。彼女が素直に答えないことを承知の上でこんなことを訊いているのだ。
「別に、大した用じゃないんだ」
(ほらな)
思った通りだ。本当は早く見つけたいと思っていても、彼女の性格は素直にそれを認めさせないだろうと予想していた。
「それなら、ワインを飲んでもう一曲付き合ってよ」
アルテミシアの目が一瞬泳いだのを見てざわざわと不安に襲われたが、アルテミシアが「いいよ」と承諾するのを聞いて気分が軽くなった。こんなことで舞い上がる自分が信じられない。
空になったグラスを給仕係に返した後、カルテットの楽団が奏でるしっとりした曲で何組かのカップルが踊る中に、アルテミシアとイグリも入っていった。
イグリはアルテミシアの腰に手を添え、先程とは打って変わってゆっくりと彼女をリードした。途中で楽団の一人が美しいテノールの声を響かせながら歌い始めた。美しい月夜を讃える歌だ。イグリは自分も低い声でハミングしながらアルテミシアをくるりと回した。
(器用だなあ)
などと愚かにも感心しながらゆっくりとステップを踏んでいると、僅かにイグリの足が遅れた。どうしたのかと目の前の顔を見たアルテミシアは、つい足をもつれさせてしまった。これまでになく真剣な表情で、イグリが何か告げようとしている。苦悩しているようにさえ見えた。アルテミシアがバランスを崩す前にイグリは腰を支え、自分の方へと引き寄せた。
「ミーシャ…どうか、君に口付けする許可をくれないか」
アルテミシアは激しく動揺した。いつものように「またそんな冗談言って」などと軽口は叩けない。それほどまでにイグリの青い瞳は真実を告げていた。アルテミシアは一歩下がってイグリから離れ、「ごめん」と呟くように言ってダンスの輪から抜けた。
アルテミシアはよく刈られた芝を踏みながら足早に庭園の奥へ進んだ。目の前に橋が見える。アムから帰って来た後、イサ・アンナと歩いた橋だ。大広間とは逆の方向だが、混乱していて気付きもしなかった。サゲンを探してきちんと話をしようと思っていたのに、まさかそれより先にイグリの気持ちを知ることになろうとは思いもよらなかった。
(浅はかだった)
今まで冗談だと聞き流してきたイグリのアルテミシアへの言葉は、真実だったのだ。自分の態度がイグリを傷付けていたとしたら、最悪だ。
(たら、じゃない。傷付けていたに違いない)
「ミーシャ、待って」
橋の側まで来た時、後ろからイグリがアルテミシアを呼んだ。アルテミシアは礼儀正しく振り向いたが、とても目を合わせられない。無意識のうちに橋の中央の東屋へと視線が泳いだ。
その瞬間、東屋にいる人物と目が合い、動けなくなってしまった。サゲン・エメレンス将軍も、こちらを見ながら固まっている。――見知らぬ女性を腕に抱いて。
心臓がぐにゃりと鈍い音を立てて歪んだ。
「確かなもの」がひとつ、消えてしまった。こんな気分になったのは初めてで、どう形容していいか分からない。怒りにも悲しみにも似ているが、それだけではない。もっと心の深淵の、暗く冷たいところから何かどろりとしたものが湧き出したような気がした。
永遠とも思えるその瞬間を終わらせたのは、イグリだった。イグリはアルテミシアの?を両手で挟み、アルテミシアの唇を奪った。アルテミシアはあまりのことに動くことも忘れ、焦点が合わないほど間近にある睫毛の長いイグリの顔を茫然として見た。
「やっとこっちを見た」
長くはない口付けの後、イグリは軽く笑って見せたが、アルテミシアにはそれが傷跡のように見えた。
アルテミシアが再びサゲンを見る前に、イグリはアルテミシアの手を掴んで庭園の奥へ連れ去った。アルテミシアは抵抗しなかった。拒むべきだったかもしれないが、それよりも早くこの場から離れたかった。
(上官など、知るか)
イグリの心の中では苦悩と高揚感とがせめぎ合っていた。アルテミシアにキスした後でちらりと見たサゲンの顔は、ランプの灯りだけでも十分に分かるほど、これまでになく怒りに燃えていた。多分、激怒の域を超えている。以前であれば心底震え上がっただろうが、もうどうでもいい。今は何よりもアルテミシアを手に入れたい。それには今しかない。彼女がショックを受けているのは明らかだ。例えその気持ちにつけ込むことになろうと、遠慮するつもりはない。
(他の女といる方が悪い)
敷地内を流れる小川沿いに奥へと進み、やがて野山のように自由に草の茂った人気のない庭園の端までやって来ると、それまで一言も発せずに大人しく後をついてきたアルテミシアがようやく口を開いた。
「止まって、イグリ」
イグリは素直に足を止め、振り向いてアルテミシアの顔を見た。既に城の灯りは遠くなり、球体のランプもない。月明りと等間隔に置かれたいつもの篝火が辺りを照らしているだけだ。その変わり映えしない風景の中にあっても、アルテミシアは輝いて見える。そして、何が彼女をそうさせているのかも分かっている。自分ではない。それでもよかった。
アルテミシアはイグリがまっすぐ見つめてきても、今度は目をそらさなかった。
「イグリ…」
「好きだよ、ミーシャ。冗談抜きで」
アルテミシアが言葉を続けるより先に、イグリが告げた。
「うん。さっき気付いた。遅いよね」
アルテミシアはぎこちなく片頬で微笑んだ。
「くだらないことを言い合ったり、速駆けで競走したり、もちろん、ダンスも。君とのそういう時間が好きなんだ。俺なら、上官と一緒にいるより楽しいと思うよ。君を笑わせられるし、辛い思いはさせない。誰より大切にする。…ねえ、ミーシャ」
イグリは片膝を地面につき、先程よりもゆっくりアルテミシアの甲に口付けをして、その場所に懇願するように額をつけた。僅かに震えている。
「俺を選んでみない?」
アルテミシアは泣きたくなった。今から自分がしようとしていることは、今自分が味わっているものと同じ苦しみをイグリに与えることになるからだ。そして、イグリがどれほどの感情を自分に対して持っていたかを知ったことで、ますます友人として愛おしく感じた。それなら尚更自分が涙を流すわけにいかない。アルテミシアは両膝をついてイグリを抱擁した。
「わたしもイグリと一緒にいるの、好きだよ。イグリは面白いし、馬もダンスも上手だし、顔もきれいだし、嫌な気分の時も話していると楽になる。自分があんまり元気じゃない時でも人を楽しくさせられるところとか、本当、大好き」
「…でも?」
イグリは顔を上げ、いつもの悪戯っぽい笑みを気弱に浮かべて先を促した。
「恋じゃない。これからも」
アルテミシアはちくちくと胸が痛んだが、率直な気持ちだった。イグリは微笑んだまま立ち上がり、アルテミシアに手を差し出して立ち上がらせた。
「まあね、わかってたさ」
と陽気に言ってのけたのが配慮あってのことだとは、アルテミシアにも分かっている。だから、アルテミシアも同じようにした。
「言っておくけど、さっき急にキスされても殴らなかったのは、イグリが大事な友達だからだよ」
「反射神経が鈍ったからだろ?」
アルテミシアは冗談交じりにイグリを睨みつけ、肩を拳で軽く打ってやった。まだ少しぎこちないが、イグリとは友人として上手くやっていけるだろう。根拠がなくても、アルテミシアには確信があった。
「屋敷へ帰ろう。送らせてくれる?」
というイグリの提案に乗ることにした。あまりにいろいろなことがありすぎて、とても宴に戻る気分にはなれない。しかし、一つ問題がある。
「…同じ道は通りたくない」
今だけはあの美しい東屋が悪鬼の巣窟のように思える。この精神状態では、ひょっとしたら東屋に火を点けてしまうかもしれない。
結局、イグリの案内で庭師たちが出入りする小さな門を通って厩へ行った。宴用のドレスのままだったので、イグリが馬の前に乗せてくれた。
「…上官とのことはさ」
と、森の中で馬を走らせながらイグリが小さな声で切り出した。
「大丈夫さ、ミーシャ。ちゃんと話せよ。正直言って恋敵に塩を送るような真似はしたくないけど、あの人の君への気持ちは本物だ。じゃなきゃあのカタブツの上官があんなところで事に及ぼうとしないよ」
アルテミシアは鞍に掴まりながら横向きに座っていたが、つい鞍から手が滑って身体をぐらつかせてしまった。
「お、っと。大丈夫か?」
後ろで支えてくれたイグリに礼を言うことも忘れ、アルテミシアは口をぱくぱくさせた。
「あ、も、もしかして、この間のあれ…」
「見たよ。まさか帰宅するなり上官が発情してるなんて思わないじゃないか。因みに言うと、アムの時から二人にどんなことがあったかも、見当はついてる。俺だけじゃなくて、みんな」
「嘘でしょ!」
イグリは「ははっ」と心底おかしそうに笑い声をあげた。
「嘘だろ、ミーシャ。誰も知らないと思ってたのか?」
返す言葉もない。それに、どういう気持ちでサゲンと一緒にいる自分を見ていたのかと思うとまたしても激しい罪悪感に襲われた。アルテミシアはそういう時の感情を既に知ってしまったのだ。
イグリは屋敷の前でアルテミシアを馬から下ろし、「おやすみ」と言って頬にちょこんとキスをした。
「殴らないでくれよ」
と冗談めかして言ったので、アルテミシアは思わず笑い出した。
アルテミシアはイグリが兵舎へ向けて走り去るのを見送り、屋敷の戸を開けた。あまりに多くのことがあったが、少しだけ気持ちが軽くなった。まだサゲンと顔を合わせる準備はできていないが、まだ帰っていないだろうから時間の余裕はあるはずだ。その間に気持ちの整理をしておけばいい。
(いや、帰って来ないかも…)
と、つい嫌なことを考えてしまった自分を呪いながらまっすぐに長い廊下を奥へ進み、自分の寝室の扉を開けようとした時だった。
後ろから物凄い力で腕を掴まれ、廊下の壁に身体を押し付けられた。目の前にサゲンの顔がある。秀麗な顔は、暗い怒りに燃えていた。
「見事だわ」
ロザリア・ボーヴィル伯爵夫人は無造作に咲くカレンデュラやポピーに顔を綻ばせた。オレンジ色の灯りが柔らかくそれらを彩っている。草に足を取られないよう、サゲンは腕を貸してやった。
「君は昔から花が好きだったな」
「ええ、特にピンクの薔薇」
ロザリアは穏やかな笑みを見せた。十代の頃はよくころころと弾むような笑い声を上げたものだが、すっかり上品な微笑が板についている。
「ねえ、覚えているかしら。あなた、よくわたしのためにこの庭園から薔薇を折ってきてくれたのよ。手を傷だらけにして」
「いつの話だ」
言いながら、サゲンは記憶を辿った。法務官の父にくっついてよく城に出入りしていたのは、五つか六つの頃だ。その頃、サゲンの父とロザリアの父は城内に隣り合った執務室を持っていた。ロザリアもまた、父親の執務室や城の庭園にはよく遊びに来ていた。同じ齢の二人はすぐに友達になり、よく一緒に庭園を走り回ったものだった。今思えば幼い恋心があったかもしれない。薔薇はその親愛の証だったのだろう。ロザリア・テンチはよく走りよく笑う、陽気な女の子だった。
「あの頃はテンチ殿もご健在だったな。二人揃って泥だらけになって、よく叱られた」
と、サゲンはロザリアの父を懐かしんだ。それまで穏やかな表情を見せていたロザリアは、灰色の目に陰鬱な影を落とした。
「ええ、そうね…」
「まだお父上の死を乗り越えられないか」
サゲンの脳裏に、父親の喪に服すロザリアの顔が蘇った。顔色をなくし、途方に暮れ、心の太陽を失ってしまった十七歳の少女の顔が。今の彼女は、その時のまま大人になったようだった。
「だって、あれから全てが変わってしまったもの」
「もう十五年だ」
「年月は関係ないわ」
ロザリアは顎を震わせた。
「君のお父上は立派な人だった。指揮官として陣頭に立ち、国を背負って戦った」
ロザリアは息だけで小さく笑った。諦めや怒りの混じった、厭世的な響きがある。
「殿方はいつもそう。みんな同じことを言うわ。誇りに思えと」
「ロザリア…」
「父が亡くなった後、我が家に何があったかご存知?」
「いや」
ロザリアは扇子を開き、頬から下をすっかり隠した。優雅な仕草の裏で、悲しみに打ち震える姿を隠したかったのだろう。サゲンの胸にちくりと刺さるものがある。罪悪感だ。
その頃、既にサゲンは親元を離れ、他の下士官たちと一緒に兵舎や軍船で寝起きし、兵卒として海賊討伐の任務に就いていた。当時の上官はトーラク将軍だった。イノイル海軍の中でも特に厳しいトーラク隊にあって、実家の母に手紙を送る余裕もなければ婚約者に会う時間も持てず、南の海上でテンチ将軍戦死の報を受けた頃には葬儀も終わっていた。一年の任務を終えて久しぶりに会った婚約者は、どこか以前とは違っていた。十七歳のサゲン・エメレンスは、多くの青少年がそうであるように、自分がそばにいなかったことを彼女は責めているのだろうと片付ける程度に短絡的だった。以前は少なくとも月に二度は逢瀬を重ねていたものだったが、任務の後でロザリアと会ったのは、帰郷の報せにボーヴィル家を訪ねた時とテンチ将軍の墓参りをした時の二度だけだった。その後すぐにロザリアのボーヴィル伯爵家との縁談がまとまったために、テンチ一家に起きた出来事などは知る由もない。
「お父様の跡を継いだお兄様は、借金を増やすのが唯一の特技だったわ。…いえ、‘だった’じゃないわね。今もそうだもの。お父様の残した財産をみるみるうちに削り取り、代々守ってきた領地を少しずつ売りに出し、とうとうお母様は心労で倒れたわ。わたしは大富豪のボーヴィル伯爵家へ嫁いだ後も何かにつけて援助をさせられた。笑っちゃうわ。わたしはボーヴィル家では金食い虫と思われているのよ。子供も産まず、金を無心するだけの妻。それなのに夫は一度もわたしを責めなかった。それが尚更、情けなくて…」
サゲンはすぐに言葉を見つけられなかった。自分がかつてあれほど簡単に受け入れた婚約解消を機に、これほどの運命を彼女に負わせていたとは。この幼馴染みに心からの憐憫を感じたが、それを表に出すのは彼女への侮辱になるだろう。
「あの頃に君を支えてやれなかったことは、悪かったと思っている」
「…いいの。もう昔のことだわ」
二人は橋の中央に設えられた東屋へと渡った。夜気に花の香りが漂い、水面にランプの灯りが無数に揺れている。周りには他の招待客もちらほらと訪れ、景色を楽しんでいた。
「わたしたちが子供の頃は、東屋はなかったわね」
「これも陛下が造らせた。設計は陛下ご自身だ」
「素晴らしいわ」
ロザリアの顔に穏やかな笑みが戻った。橋の向こうから楽団の演奏する明るい曲と、ダンスに興じる人々の笑い声が聞こえてくる。サゲンは無意識のうちに、大広間の方向を見ていた。既に広間の灯りは遠い。イグリがアルテミシアにダンスを申し込む場面が脳裏をよぎり、不愉快な気分になった。それを振り払うように、ロザリアとの会話を続けた。女性を一人残して立ち去るのは、まったく紳士的ではない。
「…お母上の様子はその後どうだ。よくなったのか」
「ええ、一度はね。でも近頃はまた病気がちになって、すっかり弱ってしまったの。もう齢だから、仕方のないことだけれど」
「そうか。あまり気に病むなよ」
サゲンが例の部下にするような仕草で肩に手を置くと、ロザリアはうっすらと笑みを浮かべ、薄絹のグローブをはめた手でサゲンの手にそっと触れた。
「婚約を取りやめた時、あなた理由も訊かなかったわね」
「ボーヴィル伯爵家とのことは父から聞いていた。それから、君も承諾したと」
ロザリアが静かに笑った。また、あの諦めたような声色だった。
「何故承諾したと?」
サゲンには答える材料がなかった。野心に燃え、多忙な任務に追われていた時期に起こった婚約解消の騒動は、日々の喧騒の中で些細なことに成り果てていた。彼女のことを愛してはいたものの、親に決められた結婚を自分の一部と思えずに、どこか他人事のように感じていたのも理由の一つかもしれない。
「兄はお金目当てでボーヴィル家へわたしを嫁がせたけれど、わたしには別の目的があったの。…あなたを失わないことよ」
ロザリアはもう扇子で顔を隠そうとはしなかった。目に涙をいっぱい溜めながら、口元は上品に微笑みを浮かべようと震えている。
「俺が軍に入ったからか」
「父が戦死した時、気付いたのよ。最愛の夫を亡くした母を見て悟った。あれは未来のわたしの姿だと。いつか遠く離れた海の上であなたを失うことになる。そんなことは、とても耐えられなかった」
サゲンは頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。そして、先程よりもずっと重苦しい罪悪感に襲われた。それほどまでにこの幼馴染みが自分を愛していたことに気付くことができなかった。今となっては、それに報いてやることもできない。
「皮肉ね。添い遂げるために結婚した夫が、病でこんなに早く死んでしまうのだもの」
ロザリアの小さな手がサゲンの手をきつく握った。
「ねえ、エメレンス…。もしもあの時わたしたちが結婚していたら、今より幸せだったかしら」
ロザリアは瞳にランプの灯りに反射した湖面を映し、サゲンの瞳を覗き込んだ。サゲンは憐れみにも慈愛にも似た気持ちでその視線を受け止めた。
「エメレンス、あなたがまだ独身でいるのが、わたしのせいなら――」
「しっかりしろ、ロザリア。‘もしもあの時’などは存在しない。俺が独り身でいる理由も君とは関係ない」
サゲンは毅然とした態度で言った。必死で罪悪感を振り払い、ロザリアの肩から手を退けた。
「俺たちは皆、自ら選んだ道の上に立っている。過去の選択が望み通りの結果にならないこともある。大体のことがそうだ。それを、幸か不幸か決めるのは自分自身だ。父親や伴侶を失くした君の気持ちは俺には計り知れないが、これだけは言える。辛い出来事を嘆き続けて自分の人生を誤るのは、君を愛した者たちへの冒涜だ」
「相変わらず、厳しいのね」
ロザリアは傷ついた様子など微塵も見せず、穏やかに微笑んだ。
「あなたのそういうところ、とても好きだったわ」
やおら寄りかかってきたロザリアの身体を、サゲンは受け止めた。
「夫のことも、とても愛していたのよ。今のわたしには、彼がすべてだった…」
「分かっている」
そうでなければ夫の死をこれほど悲しまないだろう。ロザリアはサゲンへの愛を諦めたが、紛れもなくもう一つの愛を手に入れたのだ。
アルテミシアはコルネール夫妻と別れた後、庭園の景色や音楽を楽しみながら酒を飲むアム共和国のカルロ・スビート元帥やサゲンの参謀のゴラン、トーラク将軍を始めとする将校の令嬢たちと合流した。
(お、なかなか面白い取り合わせ)
などと考えながら彼らと挨拶を交わした。トーラク将軍の息女レナータは明らかにゴランに気がある。父親譲りの大きな目をパチパチとさせ、黒いレースの扇子を蠱惑的にパタパタと波打たせて、ゴランの話にはやや大仰に相槌を打っている。一方のゴランが全くその意図に気付かず、バクバクと大口で次々に料理を平らげていくのには呆れてしまった。レナータの取り巻きと思われる三人の令嬢たちはアルテミシアを妙な目つきで凝視していたが、以前エラやケイナから話を聞いていたから、これにどういう意味があるのか容易に想像がついた。
「お三方とも、お美しいですね。花のように可憐で、つい見惚れます」
と、にっこり笑い、船乗りとして過ごしていた時期に培ったちょっとハスキーな少年の声色で言ってみると、案の定、令嬢たちは黄色い声をあげてうっとりとアルテミシアを見上げた。当のアルテミシアはいつもと違って完璧に女性らしくドレスで着飾っているというのに、妙な話だ。
「まったく、リンド嬢。多才ですな」
と、隣で見ていたカルロ・スビートが小声でからかったので、アルテミシアは舌を出して笑った。
そこへ、広間へ戻る道に迷ったエル・ミエルドの皇太子の従者が通りかかったので、アルテミシアは通詞として庭園を案内しながら大広間の前まで連れて行ってやった。「これはイノイル固有のなんとかいう花」、「この建築様式はイノイル独特のもの」などと解説してやると、従者はいちいち嘆声をあげて喜んだ。
その後も何人かの顔見知りやその他の招待客に声を掛けられ、何度か杯を交わして広い庭園を行ったり来たりした。女王の通詞ともなると、これほどの人に顔を覚えられるのだと改めて認識した。彼らとの会話は簡単なものだったが、中には有益な情報もあった。エマンシュナの南の海域で、不審船が目撃されるようになったとか、ここ数年で急激に羽振りの良くなった造船業者があるとかだ。
(なるほど、宴も情報戦の役に立つ。バルカ将軍にも教えてあげよう)
と考えついたところで、首をぷるぷると振った。今はそれよりも先に伝えることがある。恩師との対話で導き出した、「確かなもの」だ。
(ああ、でも)
サゲンを探すために既に遠くの灯火となった大広間へと戻ろうとしたが、すぐに足を止めた。
サゲンの気持ちを突っぱねたのは自分だ。ここ数日のサゲンの態度もよそよそしいものだったし、もう手遅れかもしれない。「心は変わる」と言ったのは、他ならぬアルテミシアだ。それが現実になったとしたら、すんなり受け入れられるだろうか。また元のような信頼し合える仲に戻れるのだろうか。考えれば考えるほど不安になってくる。誰かの感情に対してこれほど神経質になるのは初めてのことだった。
アルテミシアは大広間の方に向いたり庭園の奥に向いたりと行き先の定まらない爪先を持て余していたが、六回目に爪先が庭園の奥へ向いた時、足がぴたりと止まった。誰かに呼び止められたからだ。
「ミーシャ」
水辺に沿って置かれた球体のランプが照らしたのは、イグリだった。数々の上等な交易品を扱う商家の息子だけあって、センスが良い。他の上級将校や貴族たちが来ている衣装とは値打ちは比べ物にならないが、この年若者たちの間で流行している暗いストライプのベストとジャケットをばっちり着こなし、長めの金髪は後ろで一つに縛っている。
イグリはアルテミシアの前に主君にするような仕草で膝を折り、恭しく左手を取って甲に口付けをした。アルテミシアは違和感を覚えた。笑顔が見えない。イグリがこちらへやって来る時は、いつだって輝くような笑顔を見せるのに。
が、すぐにイグリが顔を上げ、いつもの陽気な美男子の笑みで「踊ってくれる?」と尋ねてきたので、くすくす笑いながら快諾した。
庭園の小川の手前に設けられた小さなステージでは、四重奏の楽団が夏の夜に相応しく陽気でロマンチックな曲を演奏し、周りの人々はそれに合わせてダンスを楽しんでいる。二人は手を取ってその中に入り、くるくる回りながら踊った。村の祭りのようなダンスだった。いつもは作法に厳しい上流階級の人々も、夏の夜の庭園では気持ちが大らかになるらしい。二人を真似て派手に回り始める若いカップルもいた。
「これがうちの地元の踊り。宮廷の作法とはだいぶ違うけどね。まあ、外だし、無礼講だろ」
と、イグリはアルテミシアの手を取り頭上で回しながら白い歯を見せた。
「いいね。気に入った」
アルテミシアも笑い声をあげながら回転した。ドレスのスカートがふわりと弧を描いた。
曲が終わると、アルテミシアは息を切らせながら、何か言いたそうにイグリを見、口を噤んだ。イグリには何となくその理由が分かったが、気付かないふりをした。
「あのさ」
と、口を開いたのは二人同時のことだ。二人はぎこちなく笑い合った。
「いいよ、女性が先だ」
イグリは先を譲り、庭園を行き来する給仕係から白ワインを二つ受け取ってアルテミシアに渡した。
「バルカ将軍がどこにいるか知ってる?」
どきりと嫌な予感がしたが、イグリはそれも無視した。
「外国の軍の重役たちと一緒じゃないのか?」
「もう話は終わったって、スビート元帥が」
「じゃあ分からないな。急ぎの用事でも?」
白々しく訊きながら、イグリは内心で自嘲した。アルテミシアの用向きはもう分かっている。彼女が素直に答えないことを承知の上でこんなことを訊いているのだ。
「別に、大した用じゃないんだ」
(ほらな)
思った通りだ。本当は早く見つけたいと思っていても、彼女の性格は素直にそれを認めさせないだろうと予想していた。
「それなら、ワインを飲んでもう一曲付き合ってよ」
アルテミシアの目が一瞬泳いだのを見てざわざわと不安に襲われたが、アルテミシアが「いいよ」と承諾するのを聞いて気分が軽くなった。こんなことで舞い上がる自分が信じられない。
空になったグラスを給仕係に返した後、カルテットの楽団が奏でるしっとりした曲で何組かのカップルが踊る中に、アルテミシアとイグリも入っていった。
イグリはアルテミシアの腰に手を添え、先程とは打って変わってゆっくりと彼女をリードした。途中で楽団の一人が美しいテノールの声を響かせながら歌い始めた。美しい月夜を讃える歌だ。イグリは自分も低い声でハミングしながらアルテミシアをくるりと回した。
(器用だなあ)
などと愚かにも感心しながらゆっくりとステップを踏んでいると、僅かにイグリの足が遅れた。どうしたのかと目の前の顔を見たアルテミシアは、つい足をもつれさせてしまった。これまでになく真剣な表情で、イグリが何か告げようとしている。苦悩しているようにさえ見えた。アルテミシアがバランスを崩す前にイグリは腰を支え、自分の方へと引き寄せた。
「ミーシャ…どうか、君に口付けする許可をくれないか」
アルテミシアは激しく動揺した。いつものように「またそんな冗談言って」などと軽口は叩けない。それほどまでにイグリの青い瞳は真実を告げていた。アルテミシアは一歩下がってイグリから離れ、「ごめん」と呟くように言ってダンスの輪から抜けた。
アルテミシアはよく刈られた芝を踏みながら足早に庭園の奥へ進んだ。目の前に橋が見える。アムから帰って来た後、イサ・アンナと歩いた橋だ。大広間とは逆の方向だが、混乱していて気付きもしなかった。サゲンを探してきちんと話をしようと思っていたのに、まさかそれより先にイグリの気持ちを知ることになろうとは思いもよらなかった。
(浅はかだった)
今まで冗談だと聞き流してきたイグリのアルテミシアへの言葉は、真実だったのだ。自分の態度がイグリを傷付けていたとしたら、最悪だ。
(たら、じゃない。傷付けていたに違いない)
「ミーシャ、待って」
橋の側まで来た時、後ろからイグリがアルテミシアを呼んだ。アルテミシアは礼儀正しく振り向いたが、とても目を合わせられない。無意識のうちに橋の中央の東屋へと視線が泳いだ。
その瞬間、東屋にいる人物と目が合い、動けなくなってしまった。サゲン・エメレンス将軍も、こちらを見ながら固まっている。――見知らぬ女性を腕に抱いて。
心臓がぐにゃりと鈍い音を立てて歪んだ。
「確かなもの」がひとつ、消えてしまった。こんな気分になったのは初めてで、どう形容していいか分からない。怒りにも悲しみにも似ているが、それだけではない。もっと心の深淵の、暗く冷たいところから何かどろりとしたものが湧き出したような気がした。
永遠とも思えるその瞬間を終わらせたのは、イグリだった。イグリはアルテミシアの?を両手で挟み、アルテミシアの唇を奪った。アルテミシアはあまりのことに動くことも忘れ、焦点が合わないほど間近にある睫毛の長いイグリの顔を茫然として見た。
「やっとこっちを見た」
長くはない口付けの後、イグリは軽く笑って見せたが、アルテミシアにはそれが傷跡のように見えた。
アルテミシアが再びサゲンを見る前に、イグリはアルテミシアの手を掴んで庭園の奥へ連れ去った。アルテミシアは抵抗しなかった。拒むべきだったかもしれないが、それよりも早くこの場から離れたかった。
(上官など、知るか)
イグリの心の中では苦悩と高揚感とがせめぎ合っていた。アルテミシアにキスした後でちらりと見たサゲンの顔は、ランプの灯りだけでも十分に分かるほど、これまでになく怒りに燃えていた。多分、激怒の域を超えている。以前であれば心底震え上がっただろうが、もうどうでもいい。今は何よりもアルテミシアを手に入れたい。それには今しかない。彼女がショックを受けているのは明らかだ。例えその気持ちにつけ込むことになろうと、遠慮するつもりはない。
(他の女といる方が悪い)
敷地内を流れる小川沿いに奥へと進み、やがて野山のように自由に草の茂った人気のない庭園の端までやって来ると、それまで一言も発せずに大人しく後をついてきたアルテミシアがようやく口を開いた。
「止まって、イグリ」
イグリは素直に足を止め、振り向いてアルテミシアの顔を見た。既に城の灯りは遠くなり、球体のランプもない。月明りと等間隔に置かれたいつもの篝火が辺りを照らしているだけだ。その変わり映えしない風景の中にあっても、アルテミシアは輝いて見える。そして、何が彼女をそうさせているのかも分かっている。自分ではない。それでもよかった。
アルテミシアはイグリがまっすぐ見つめてきても、今度は目をそらさなかった。
「イグリ…」
「好きだよ、ミーシャ。冗談抜きで」
アルテミシアが言葉を続けるより先に、イグリが告げた。
「うん。さっき気付いた。遅いよね」
アルテミシアはぎこちなく片頬で微笑んだ。
「くだらないことを言い合ったり、速駆けで競走したり、もちろん、ダンスも。君とのそういう時間が好きなんだ。俺なら、上官と一緒にいるより楽しいと思うよ。君を笑わせられるし、辛い思いはさせない。誰より大切にする。…ねえ、ミーシャ」
イグリは片膝を地面につき、先程よりもゆっくりアルテミシアの甲に口付けをして、その場所に懇願するように額をつけた。僅かに震えている。
「俺を選んでみない?」
アルテミシアは泣きたくなった。今から自分がしようとしていることは、今自分が味わっているものと同じ苦しみをイグリに与えることになるからだ。そして、イグリがどれほどの感情を自分に対して持っていたかを知ったことで、ますます友人として愛おしく感じた。それなら尚更自分が涙を流すわけにいかない。アルテミシアは両膝をついてイグリを抱擁した。
「わたしもイグリと一緒にいるの、好きだよ。イグリは面白いし、馬もダンスも上手だし、顔もきれいだし、嫌な気分の時も話していると楽になる。自分があんまり元気じゃない時でも人を楽しくさせられるところとか、本当、大好き」
「…でも?」
イグリは顔を上げ、いつもの悪戯っぽい笑みを気弱に浮かべて先を促した。
「恋じゃない。これからも」
アルテミシアはちくちくと胸が痛んだが、率直な気持ちだった。イグリは微笑んだまま立ち上がり、アルテミシアに手を差し出して立ち上がらせた。
「まあね、わかってたさ」
と陽気に言ってのけたのが配慮あってのことだとは、アルテミシアにも分かっている。だから、アルテミシアも同じようにした。
「言っておくけど、さっき急にキスされても殴らなかったのは、イグリが大事な友達だからだよ」
「反射神経が鈍ったからだろ?」
アルテミシアは冗談交じりにイグリを睨みつけ、肩を拳で軽く打ってやった。まだ少しぎこちないが、イグリとは友人として上手くやっていけるだろう。根拠がなくても、アルテミシアには確信があった。
「屋敷へ帰ろう。送らせてくれる?」
というイグリの提案に乗ることにした。あまりにいろいろなことがありすぎて、とても宴に戻る気分にはなれない。しかし、一つ問題がある。
「…同じ道は通りたくない」
今だけはあの美しい東屋が悪鬼の巣窟のように思える。この精神状態では、ひょっとしたら東屋に火を点けてしまうかもしれない。
結局、イグリの案内で庭師たちが出入りする小さな門を通って厩へ行った。宴用のドレスのままだったので、イグリが馬の前に乗せてくれた。
「…上官とのことはさ」
と、森の中で馬を走らせながらイグリが小さな声で切り出した。
「大丈夫さ、ミーシャ。ちゃんと話せよ。正直言って恋敵に塩を送るような真似はしたくないけど、あの人の君への気持ちは本物だ。じゃなきゃあのカタブツの上官があんなところで事に及ぼうとしないよ」
アルテミシアは鞍に掴まりながら横向きに座っていたが、つい鞍から手が滑って身体をぐらつかせてしまった。
「お、っと。大丈夫か?」
後ろで支えてくれたイグリに礼を言うことも忘れ、アルテミシアは口をぱくぱくさせた。
「あ、も、もしかして、この間のあれ…」
「見たよ。まさか帰宅するなり上官が発情してるなんて思わないじゃないか。因みに言うと、アムの時から二人にどんなことがあったかも、見当はついてる。俺だけじゃなくて、みんな」
「嘘でしょ!」
イグリは「ははっ」と心底おかしそうに笑い声をあげた。
「嘘だろ、ミーシャ。誰も知らないと思ってたのか?」
返す言葉もない。それに、どういう気持ちでサゲンと一緒にいる自分を見ていたのかと思うとまたしても激しい罪悪感に襲われた。アルテミシアはそういう時の感情を既に知ってしまったのだ。
イグリは屋敷の前でアルテミシアを馬から下ろし、「おやすみ」と言って頬にちょこんとキスをした。
「殴らないでくれよ」
と冗談めかして言ったので、アルテミシアは思わず笑い出した。
アルテミシアはイグリが兵舎へ向けて走り去るのを見送り、屋敷の戸を開けた。あまりに多くのことがあったが、少しだけ気持ちが軽くなった。まだサゲンと顔を合わせる準備はできていないが、まだ帰っていないだろうから時間の余裕はあるはずだ。その間に気持ちの整理をしておけばいい。
(いや、帰って来ないかも…)
と、つい嫌なことを考えてしまった自分を呪いながらまっすぐに長い廊下を奥へ進み、自分の寝室の扉を開けようとした時だった。
後ろから物凄い力で腕を掴まれ、廊下の壁に身体を押し付けられた。目の前にサゲンの顔がある。秀麗な顔は、暗い怒りに燃えていた。
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