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二十七、新しい朝 - la nuova mattina -
身体の中で自分とは別の脈動を感じる。サゲンが果て、アルテミシアの中に欲望を吐き出したのだ。心臓が割れそうなほどに脈打っているのに、温かい湯の中にいるようなとろりとした感覚だった。先ほどまでの荒波に揉まれるような感覚が嘘のように、腕が、脚が、全身が力を失い、心地よい温度の中に沈んでいく。アルテミシアは自分の身体をがっしりと抱きしめている男の肌と汗の匂いを感じながら、急激に襲ってきた眠気に抗うことをやめた。
サゲンはアルテミシアが腕の中で目を閉じたのに気付き、そのままの体勢でリネンの上掛けに手を伸ばして肩まで掛けてやり、自分もその中に収まった。身体の一部は未だに硬く、アルテミシアの中に入ったままだ。このまま再び腰を動かしてもう一度この甘美な身体を味わいたかったが、意識を失くした女性が相手では我慢するほかない。それに、初めて男を受け入れたアルテミシアにそこまでの無体を働くつもりもなかった。アルテミシアの中から抜け出ると、サゲンの放ったものが名残惜しそうに彼女の中から滴り落ちた。拭うものを探したが、脱ぎ捨てた服の他はアルテミシアの髪を飾っていた白い花しか落ちていない。普段なら衣服で床やベッドの上を荒らすことなどないのに、今日に限っては子供のように服を脱ぎ散らかし、何の用意もないまま行為に及んでしまったのだ。挙げ句、何の用心もなく彼女の中で果ててしまった。迂闊なことをしただろうか。それでも後悔など微塵もないことに気付き、サゲンは思わず苦笑した。
隣の部屋で脱ぎ捨てた上着のポケットにハンカチが入っていたはずだが、アルテミシアの温もりがサゲンをベッドの上に縛り付けた。今はどうしても彼女から離れたくない。少しの充足感と更なる渇望の間で揺れながらこの柔らかい身体を全身に感じていたかった。仕方なくシーツの端でアルテミシアの脚の間を拭ってやった。僅かに血が混じっているのは、処女を奪った証だ。自分だけが彼女の身体を知っている。そのことが生々しく現実味を帯び、心に薄暗い悦びをもたらした。無意識のうちに笑みがこぼれていた。
(俺は存外、独占欲が強いらしい)
穏やかな寝息を立て始めたアルテミシアの身体を横に向け、その滑らかな背にぴったりと自分の胸をくっつけて横になった。
美しく結ってあった両側の細い三つ編みはほつれ、編み込まれていた小さな花は踏み荒らされた野花のように乱されている。正に今夜、サゲンは花を散らしたのだ。アルテミシアを手に入れれば近頃の落ち着かない気持ちが少しは鎮まるかと思ったが、大きな間違いだった。寧ろ、心を通じ、身体を繋げた後は、ますます貪欲に彼女を求める気持ちが強くなった。
サゲンは乱れた三つ編みを解いてピンと一緒に編み込まれた白い小花も抜き取り、茎を揃えてサイドテーブルに置いた。柔らかくまっすぐな金色の髪は、指で梳くとすぐに少しのうねりを残してほつれが解けた。髪が広がると、白い薔薇の残り香が鼻腔をついた。サゲンはそれを吸い込み、首筋に鼻をつけて匂いを嗅いだ。やはり花のような香りはアルテミシアの肌から漂っている。
労わるようにアルテミシアの下腹部に手のひらを当てて温めてやると、アルテミシアが眠ったまま喉から気持ちよさそうな声を漏らした。やがてサゲンもアルテミシアの髪に顔を埋め、目を閉じた。
温かく大きな手が腕を撫で、背中が熱いもので覆われている。頭に吐息が掛かり、ふわりと髪が浮いたのを感じたとき、自分が心地よい眠りから意識を取り戻し始めたことにうっすらと気が付いた。
今まで誰とも同じベッドで一緒に寝たことなんてないのに。アルテミシアははっきりしない意識の中でなんとなくそんなことを考えた。
腕を撫でていた手が腰へ、脇腹へと伸びてくる。
「ふ…」
アルテミシアはくすぐったさに身じろいで寝返りを打った。頬に硬い筋肉の感触がする。森の木々と革、それからよく知る男の匂い。アルテミシアは鼻から心地よさそうな唸り声をあげて匂いを吸い込み、匂いの元へ手のひらを這わせた。よく鍛えられた胸筋、腰から腹にかけては薄い皮の下にボコボコと硬い筋肉の隆起をいくつも感じる。
この身体こそ完璧。誰より美しくて官能的だもの――。などと考えた時、両手首を強く掴まれた衝撃で目を覚ました。視界には闇が広がっている。しばらくぼんやりした後、自分がまだ夜明け前の寝室で横たわっていることに気が付いた。窓から差した月の明かりのおかげで、ゆっくり覆いかぶさってくる人物の輪郭が見える。暗闇に目が慣れる頃にはアルテミシアの頭は枕に沈み、手首をベッドに縫い付けられ、官能的な肉体の下に組み敷かれて性急な口付けを受けていた。
「んん…」
突然のことだったはずなのに、アルテミシアの身体は早くもその快感を受け入れ始めた。熱い舌が生き物のように口の中を愛撫し、起き抜けで無防備な心を性の悦びに目覚めさせる。
「俺の身体を気に入ってくれたようで嬉しいが――」
サゲンが唇を浮かせ、低く甘い声で囁いた。
「君はせっかくの我慢を無駄にしたぞ」
「なに…?」
と自分でも驚くほど掠れた声で訊きながら、アルテミシアは完全に意識を取り戻した。同時に、顔が燃えるように熱くなった。心の中で呟いたと思った言葉は、どうやら声に出ていたらしい。腿の内側にサゲンの剥き出しの欲望が当たっている。先程と同じく、鉄のように硬く、熱い。
アルテミシアが息を呑んだ。暗闇の中でアルテミシアがどんな表情を浮かべているのか想像するのは容易だ。困惑と、期待。それから欲望。サゲンは手首から腰、腰から胸へと手のひらを滑らせ、胸を口に含むと同時にアルテミシアの秘所へと指を滑り込ませた。アルテミシアは悩ましい声で呻き、身体をしならせた。
「痛むか」
「ちょっとだけ…」
アルテミシアのそこが再び潤い始めるのに、時間は掛からなかった。最初の行為も、焼けるような痛みは長く続かず、あとはサゲンに引き出されるまま快感に溺れたのだ。今もそうだ。サゲンの指が秘所の突起に蜜を塗りつけながら触れ、強く、弱くリズムをつけながら繰り返し撫でる度に身体が快楽に震え、更なる快感を思い出してじわじわと潤いを増した。
青春時代を男ばかりの環境で過ごしたアルテミシアにはこういう類の話が度々耳に入ってきてはいたものの、何故みんなが性の歓びに夢中になるのかが理解できなかった。ラデッサの事件以来、寧ろ嫌悪感を抱いてさえいた。男女の性交は、男性の一方的な快楽の道具に過ぎないのだろうとどこかで思っていた。しかしそれを身をもって体験した今、その理由が分かった気がする。
なるほどこれは、癖になる。
「君は覚えが早い」
サゲンが馬の稽古をつけていた時と同じことを、明らかに違う意図で言った。口調に興奮が滲んでいる。
あなたがいい先生だから?と聞こうとして、やめた。乗馬に例えるなど、あまりに淫らな会話に聞こえる。事実、そうだ。アルテミシアはおかしくなり、腹を波打たせてくすくす笑った。
「余裕だな」
「そんなことない」
と言いながら、アルテミシアの腹はまだ上下している。サゲンは苦り切った。まったくこちらの気も知らないで、癪に触る女だ。処女のアルテミシアに苦痛を与えないよう、どれほど心を砕いたか理解しているのだろうか。
「それならもう、遠慮はしない」
サゲンは自分の口でアルテミシアの口を覆い、今度は奥の方まで二本の指を突き立てた。内部はまだかなりきついが、多少は解れたようだ。アルテミシアがくぐもった声で抗議するように唸ったが、それとは裏腹に、腰が強請るように浮き沈みを繰り返している。
「んんっ、んー!」
自分でも知らない身体の奥をサゲンの長い指がつついた瞬間、大きな衝撃を受けた。痛みに似ているが、違う。もっと熱く、激しい衝動を引き起こす何かだ。その一点だけが脳に直接繋がっているように錯覚した。
「ここがいいのか」
サゲンは悪巧みが成功した悪童のように笑った。
「ああっ!そこ、やだっ…!」
悲鳴に近い声でアルテミシアが懇願を始めると、サゲンの欲望は更に深くなった。もっと乱れさせ、耳元で淫らな言葉を囁いてやりたい。そしてサゲンはその欲求に逆らわなかった。見つけたばかりのアルテミシアがよく反応する場所を指で攻め、彼女の甘い悲鳴に耳を潤しながら胸の中心で硬くなった突起に吸い付き、淫らな舌遣いで舐めた。
胸を食む男の髪が胸元をくすぐっている。その頭を両手で抱え、縋りついた。もう耐えられない。鋭い感覚がアルテミシアの全身を支配し、頭の中で真っ白な爆発を起こさせた。
息つく間もなく脚を開かれ、サゲンの太く硬いものが中へ押し入り、アルテミシアに痛ましいほどの悲鳴を上げさせた。絶頂に達したばかりで内部がびくびくと蠢いている。
「ああ…」
サゲンは思わず歓喜の呻き声を漏らした。盛った獣のようにめちゃくちゃに出し入れしたいが、それではすぐに果ててしまう。できるだけこの快楽を長引かせたかった。サゲンはアルテミシアの膝を腕にかけ、しなやかな脚を自分の背中に巻き付けた。
「この方が身体が楽だろう」
サゲンは片手で細い腰を抑え、ゆっくりと浅い位置で抜き差しを繰り返し、時折奥深くを突いた。アルテミシアが荒い呼吸の合間に甘い声で喘ぎながら、サゲンの肩にしがみつき、時折爪が食い込むほど強く掴んでくる。その微かな痛みすらサゲンの血を滾らせた。
「サゲン…」
アルテミシアは細く掠れた声で名前を呼び、サゲンの頬を両手でそっと挟んだ。気恥ずかしくて目を逸らしそうになったが、微かな月明りにサゲンがわずかに面喰らって口元を緩めたのが見えたので、その顔をじっくり眺めることにした。
アルテミシアの心が急激に満たされた。この隙だらけの顔。本当にあの厳格なバルカ将軍?それも、自分がそうさせている。そう思うと、どうしようもなく嬉しくなった。
「アルテミシア・ジュディット」
サゲンはゆっくりと顔を近付け、愛らしい唇にキスをし、熱くなった彼女の口の中を味わい、甘い声と息遣いを全身で感じた。唇を重ねながら頭のどこかで理性が溶けてなくなったことに気付いたが、もうどうでもよかった。
欲するままにアルテミシアの中に繰り返し突き入れた。二人の身体が頑丈なベッドごと大きく揺れ、アルテミシアが衝撃に悶えた。
「んあ、あっ、あっ…!」
アルテミシアはもう声を抑えようともしなかった。サゲンの律動を受け止め、身体の中心から全身に広がり続ける快感の波を感じるだけで精一杯だった。やがてサゲンと交わった場所から痛いほどの大きな波が襲って来た。
絶頂の気配を感じ、サゲンがアルテミシアの耳を噛みながら淫らな低い声で囁いた。
「いけ、アルテミシア。俺だけを感じろ」
「ああっ…――!」
アルテミシアの腰が跳ねると同時に、サゲンは腰に絡んだ脚の柔らかい肉の下で筋肉が硬くなるのを感じた。次の瞬間には繋がった部分が収縮し、肉が蠢いてサゲンを強く締め付けた。
「…は」
サゲンは深く息を吐いて耐えた。まだだ。まだ足りない。もっとこの身体を味わってからその一番奥で果てたい。
アルテミシアの震える腰をするすると撫で、しばらく動かずにいると、アルテミシアの荒い呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
まだ絶頂を迎えたばかりだというのに、中で硬いものが後退し、すぐに更に奥へ押し進んでくる。アルテミシアは目を見開き、悲鳴を上げた。
「やっ、もう無理。もうだめっ…」
「まだだ。もっとよくしてやる」
サゲンはアルテミシアのよく反応する場所を繰り返し突き、同時に既に腫れて感度を増している入り口の突起を愛撫し、汗の浮いた肌に舌を這わせ、あらゆる場所から快感を引き出した。アルテミシアが恐らく無意識のうちに腰を揺らし、サゲンを奥深くへと誘ってくる。これほど性交に溺れ、自我を失うほどの快楽を味わったのはこれが初めてだった。
予感がする。
俺は一生この女から離れられないだろう。
獣のような呻き声を上げながらサゲンがアルテミシアの中で最後に果てた時、空は既に白んでいた。アルテミシアは肩に倒れ込んできたサゲンの頭の重みを両手で受け止め、緩く波を描く短い髪を指で梳いた。汗で湿り、肌が熱くなっている。
アルテミシアもまだ息が上がり、全身が淫らな熱に包まれている。
サゲンは容赦がなかった。どれだけもうだめだと懇願しても、やめるどころか更なる高みへと昇らされ、喉が枯れるほど声を上げさせられた。それなのに、身体の奥はサゲンを求めて蜜を溢れさせ、焼け付くような快楽に全身を震わせて歓喜した。一夜のうちに、すっかり身体を造り変えられてしまったようだった。
サゲンがアルテミシアの内腿を濡らしながら中から抜け出、羽が触れるようなキスをした。
「大丈夫か」
さっきまでの荒っぽい行為が嘘のように優しい声で囁かれ、アルテミシアは急に恥ずかしくなった。顔を出し始めた太陽が寝室に薄明かりを作り、目の前の男の暗い色の瞳を仄かに輝かせている。アルテミシアは視線が合う前にリネンの上掛けを手繰り寄せて顔を隠した。サゲンが息だけで笑ったのを感じる。
「…大丈夫じゃない」
うまく声が出ず、風邪を引いた時のようなガラガラ声になった。原因は分かっている。それだけに、ますます恥ずかしい。
サゲンはごろりと横に退いてアルテミシアを自分の体重から解放してやった。肘をついて手のひらに頭を乗せ、とてもリラックスした気分で上掛けからはみ出た明るい色の髪を指で弄んだ。
「死ぬかと思った」
アルテミシアは目だけを上掛けから覗かせ、恨めしそうに文句を言った。そのくせ、何度もの絶頂のために潤んだ目は、早朝のやわらかな光を含んで満ち足りた輝きを放っている。サゲンの口元は自分でも気付かないうちに綻んでいた。
「誉め言葉と受け取っておくが、あれくらいで音を上げてもらっては困るな。あれよりも快いのをこれから何度でも体験することになる。なんなら、今からでも…」
アルテミシアは身を強張らせ、再び頭のてっぺんまで上掛けの中に潜り込んだ。あんなことを何度もされたら、身体が壊れてしまう。
この反応を面白く思ったのか、今度はサゲンが声を上げて笑った。
「冗談だ」
例の官能的な低い声が、陽気に弾んでいる。これが妙にアルテミシアの胸をくすぐった。
(いい声…)
アルテミシアはうっとりと目を閉じ、背中を布越しに撫でる大きな手のひらの温度と、既に身体に馴染んだ男の匂いを感じながら、再び心地よい眠りに落ちていった。
ベッドのマットレスが沈み、ラベンダーとローズマリーの香りが辺りに広がるのを感じた直後、木々と土の香りを含んだ涼しい風が頬を撫で、閉じたままの目蓋の奥が不意に眩しくなった。
「もうすぐお昼になるよ」
澄んだ夏空のような声。
サゲンは満ち足りた気分で口元を綻ばせた。
「今日は非番だ」
アルテミシアとは対照的に、寝起きの掠れ声しか出なかった。この無防備極まりない状態で誰かと話すことは、もう何年も経験していない。昼近くまで誰かのベッドで睡眠を貪ったことなどは、これまで一度だってなかった。サゲンは自分がおかしくなって失笑した。
「さっきそこでレイに聞いたから知ってるよ。非番でも起きないといけないでしょ、バルカ将軍」
「サゲンだ」
サゲンはうっすらと目を開け、ベッドに腰掛けてこちらを見下ろしているアルテミシアの顔を見上げた。頬はほんのり赤く染まり、髪は濡れている。ぼんやりした頭の中ではまだ裸でいることを期待していたが、彼女は既にグレーの簡素なドレスを着ていた。
(しまった)
一緒に風呂に入るチャンスを逃したことに気付いた。自分がぐっすりと眠っている間にアルテミシアは恐らく自分で風呂の用意をし、身体を清めたのだ。明るい中で血色を濃くするその肢体を堪能したかったのに。
(まあ、いいさ)
この先いくらでも機会はある。サゲンは目の前に置かれたアルテミシアの手に自分の手を重ね、親指で柔らかい手の甲を撫でた。
「サゲンと呼べ、アルテミシア」
「…サゲン」
アルテミシアは一瞬の間をおいてサゲンの手を握り返した。
「サゲン、起きて」
サゲンの顔に輝くような笑みがゆっくりと広がった。こんなに屈託ない反応をされるとは予想外だったので、アルテミシアは面喰らって固まってしまった。耳まで真っ赤に染まったのが自分で分かるほど、顔が熱くなった。
「身体は辛くないか」
「…だ、だいじょうぶ」
多少ひりひりと違和感はあるものの、痛みというほどでもない。それよりも気持ちの方に問題があった。なんとか普段通り接しようとしても、うまくいかない。夢を見ているようだったが、昨夜から今朝にかけて起きたことは紛れもなく現実だ。視線が合うだけで、思い切り飛び跳ねたいような逃げ出したいような気持ちになる。これまでもそういう時はあったが、身体を重ねることにはそれを鎮める効果はないようだ。むしろ、ひどくなっている。
サゲンは視線を逸らして頬を染めたアルテミシアの顔を満足げに見つめながら上体を起こし、アルテミシアの唇にそっと触れるだけのキスをして、裸のままベッドから降りた。
アルテミシアはベッドに腰掛けたままその精悍な身体をまじまじと眺めた。今でも信じられない気持ちだった。あの身体が昨夜自分にどんなことをしたのか。しかし、身体に残る違和感や入浴中に見つけた痣のような痕跡が、記憶にある全てが現実のものだと語っている。それに、サゲンの肩や腕に見つけた引っ掻き傷――。あんな所を引っ掻いた記憶はないが、明らかに自分がつけたものだ。どれほど夢中になっていたかを目の当たりにし、これ以上はないと思っていた恥ずかしさが更に増して体温を上げた。
ズボンを履き終えたサゲンが屈んでシャツを拾った時、アルテミシアは陽光に照らされて小さな古傷が至る所に白く細い線を描いていることに気付いた。中には深く肉を裂いたであろうものもある。それさえこの肉体の魅力を損なうどころか、いっそう美しく引き立てているように見えた。
アルテミシアはベッドから降りて近付き、サゲンがシャツを羽織って身体を覆う前に、腕に残った白い線にそっと触れた。サゲンはシャツを肩に掛けたまま、その挙動を大人しく見守っている。
「昨日は気付かなかった」
「痛ましいか」
この傷を見た女たちは、みな憐れみ、軍人の職務の危険さに息を呑んだものだった。ところが、アルテミシアの反応は違っていた。興味深げにひとつひとつを指でなぞりながら、どことなく熱っぽい表情で眺めている。ちょうどサゲンの書斎で読書に没頭している時と同じ顔だ。
「痛かっただろうなとは思うけど…、これとか」
アルテミシアは左腕の上部にあるやや太く横に長い傷を指差した。
「同じ場所に二回、大きさの違う剣で切り付けられたでしょう。治り方から見て、たぶん同じ時に。傷跡が不揃いだもの。こっちは浅く、こっちは深く。これはすごく痛そう」
サゲンは笑い出した。傷から当時の状況を読み取ろうとした女はアルテミシアが初めてだ。
「縫えばもっときれいに治っただろうに、道具がなかったわけ?」
「浅い方は矢傷だ。海賊討伐の作戦中に海上でエル・ミエルドの反政府軍の奇襲に遭ってな。勝ったはいいが負傷者が多く出た」
「医療品と衛生品は余分に積むべきだね。アムの時も思ったけど、入浴用の湯船くらいはあってもいいんじゃない?」
「君という女は」
サゲンは苦笑しながらアルテミシアの頬をつねった。
「普通なら俺の身を案じるところだぞ」
アルテミシアは「そうなの?」とでも言い出しそうな表情でサゲンの顔を見上げた。
「傷は生き残った証拠でしょう。あなたに似合ってるよ」
強く逞しい海神のような身体に似つかわしく、よりその姿を官能的なものにしている。とまでは、あまりにも率直すぎて口には出さなかった。
「君みたいな女性には出会ったことがない」
サゲンが強い視線でアルテミシアの目を捉えた。口元は面白そうに吊り上がっている。
アルテミシアはまたしても逃げ出したくなったが耐え、片眉を権高な調子で上げて見せた。
「心配してくれる女が好みなら、わたしはやめたほうがいいと思うけど」
言い終えて、後悔した。照れ隠しについ憎まれ口を叩いてしまった。が、シャツに袖を通したサゲンの
手が腰に伸びてきて引き寄せられ、アルテミシアの身体がその腕の中に納まった。秀麗な青灰色の目に射竦められる。
「まだ分からないのか」
ゆっくりとサゲンの唇が降りてくる。アルテミシアは逃げ場を失った。と言うより、逃げ場を探すことをやめた。
「君もいい加減に肚を決めろ。逃がさないぞ…」
サゲンが入浴を終え、簡単なシャツとズボンだけを身に着けて母屋の扉を開けると、舶来品のコーヒーの香りに混ざって野菜を煮込んだスープや焼いたバターの匂いが漂ってきたので、寝室に戻らずに食堂へと直行した。部下たちは出払っているから、アルテミシアが用意したに違いない。サゲンが引き戸を開けて食堂へ現れると、遅すぎる朝食に手を付けず本を読んでいたアルテミシアが顔を上げ、微笑んだ。周りの空気までがきらきらと輝いて見えた。テーブルには、野菜のスープとバターをたっぷり付けたパン、ふんわりした卵焼きが二人分用意されている。
「素晴らしいな。ありがとう」
サゲンがまたしても輝くような笑顔を見せたので、アルテミシアはどきりとしてしまった。職務の間は常にしかめ面だが、時折アルテミシアに見せる紳士的な態度や柔らかい表情には、やはり育ちの良さが感じられる。
「居候の身だしね。これくらいはやるよ」
動揺が声に出なかったことに、アルテミシアは密かに安堵した。
「そのことだが、アルテミシア」
サゲンはアルテミシアの向かいの椅子に座り、神妙な面持ちで切り出した。
「俺は君がこの屋敷に住み続けてくれることを望んでいる。居候ではなく、恋人として」
「うん」
これ以上の言葉が見つからなかった。恩師の時といい、今といい、どうしてこうも気の利いた言葉を相手に伝えられないのだろうと自分にうんざりしながら、心からこみ上げる嬉しい気持ちを隠せなかった。どんな顔をしているのか分からないが、頬がやけに熱いのは分かる。
アルテミシアが顔を真っ赤に染めて口元が緩むのをもじもじと抑えている様子をサゲンは満足げに眺め、向かいの席に腰を下ろした。
二人が昼食に近い朝食を食べ始めてしばらくすると、サゲンが口を開いた。
「君の問題は解決したのか」
アルテミシアはスープを口に運ぶ途中で手を止めた。なんとなくバツが悪い。以前「このままの関係で満足だ」と言ってサゲンを拒んだが、本心でないことはとうに見透かされていたに違いない。自分の中で気持ちの整理がつくのを待っていてくれたのだろう。
「実は…昨日ある人と話してね。なんて言うか、視野が広がったの。あなたの…その…、こ、恋人になったら、実力が評価されないんじゃないかとか、周りの目が変わるんじゃないかって思ってた。そのせいで実力以上の評価があったり出世したりしたら、二度と自分で自分の力を信じられなくなるかもって」
サゲンは黙って聞いていた。名家の生まれで法務官の父を持つサゲンには、その気持ちが理解できる。だからこそ、サゲンも十五で家を出、軍に入隊したのだ。しかし、だからと言ってそれを理由にアルテミシアが自分から離れようとしたというのはいただけない。
「でも、気付いた。立場が実力以上のものになるかどうかはわたし次第だって。それに、誰もが納得する結果を出すこともできる。その人が言っていたんだ。どの道わたしたちの闘争は続くんだから、不明瞭なものより確かなものを優先するべきだって」
「確かなもの?」
サゲンが訊くと、アルテミシアが何か吹っ切れたような笑顔を見せた。
「あなたとわたしの気持ち」
ゆっくりとサゲンの顔に笑みが広がっていく。
「そうか。君を諭した人物に感謝しなければな」
「わたしの恩師だよ。今はエマンシュナのコルネール公爵夫人。もう少し滞在するって言っていたから、もしかしたら会う機会があるかもね」
アルテミシアが冗談めかして言うと、サゲンは意外そうに目を見開いた。
「君の人脈もなかなか侮れない」
「まあね」
アルテミシアは得意げに胸を張った。
「でも、その後あなたの気持ちを見失いかけた。昔の婚約者に未練があるんだと思ってたから」
「読み違いだ」
サゲンは手にしていたコーヒーカップを置き、再びスープへ伸びたアルテミシアの手を途中で攫うと、両手でアルテミシアの両手をすっぽりと包んだ。
「彼女とは子供の頃からいい友人だったし、数年の間は婚約者として過ごした。確かにその後の女性たちと比べれば特別な関係だったのは間違いない。気心が知れていて、幼い初恋の相手でもあったからだ。それでも、これほど心を乱されるものではなかった」
アルテミシアの両手はサゲンの口元へと引き寄せられ、小さな口付けを受けた。アルテミシアはサゲンの瞳を見つめた。まだ引っかかっていることがある。
「…でも抱き合ってたよ」
アルテミシアはその時の光景が目の前に蘇り、思わず心の中で毒づいた。聞かなければよかった。そうすれば思い出すこともなく、ひとつの嫌なこともない幸せな一日を過ごせただろうに。
一方、サゲンは子供のように口を尖らせて嫉妬心を隠そうともせず素直に曝け出したアルテミシアを見て、とても満たされた気持ちになった。これほど心を乱しているのは自分だけではないという事実がそうさせた。もう一度寝室に引っ張り込みたくなる。
「彼女は夫を亡くしたんだ。慰めていた。あくまで、友人として」
アルテミシアは顔を赤くした。あまりに子供っぽい言動をしてしまったことを恥じた。それに、イグリに嫉妬してサゲンの機嫌が悪くなる理由も、今なら分かる。確かに、最悪の気分だ。
「…わかった。でも、ああいう慰め方はもうしないで欲しい」
サゲンは口元が緩むのを抑えられず、それをごまかすためにアルテミシアの手を放し、コーヒーに口をつけて一口飲んだ後に口を開いた。
「では、認めるんだな」
「何を?」
「俺が好きだと」
サゲンは大真面目な顔で言った。どうあってもアルテミシアの口から聞きたいらしい。
「…わっ、わかってるくせに!」
アルテミシアが顔を真っ赤にして詰ったので、サゲンはついに笑い出した。
その後はぷりぷりしながら食事を続けるアルテミシアを機嫌よく眺めながら昼食を兼ねた朝食を取った。食事が終わると船乗り時代の習慣で自分で皿を洗おうとしたアルテミシアを引き止め、サゲンが袖を捲って代わりに洗い場へ立った。サゲンもまた、下士官時代の習慣が抜けきっていない。
「立場ある者がすることではないと思うか」
とサゲンが苦笑しながら聞いたのは、洗い場の向かいの調理台に腰かけたアルテミシアが先程からずっとこちらを物珍しそうに眺めているからだ。
「まあ、上流階級のきちんとしたお父さんやお母さんならそう言うだろうね。でもわたしはきちんとした上流階級の人間じゃないから、立場ある人がそうやって働いてるのを見るのは好きだな。剣を振るったり馬を駆ったりする以外にも有能だって証拠だもの」
それに、手際よく食器を洗う偉丈夫の背はなかなか見応えがある。アルテミシアは悪戯っぽく笑って見せた。
「君の好評を得て嬉しいが、残念ながら近く使用人を雇うことにした」
サゲンは最後の皿を盥の水できれいに流し、竹製のかごに置いた。既に二人分の食器やグラスが洗われ、きちんと種類ごとに並べられている。
「じゃあ、あの五人は?」
「あいつらも立場が上になってきたからな。いつまでも俺の身の回りの世話をさせられない」
アルテミシアはサゲンの言葉を額面通りには受け取らなかった。
「それって、わたしと…その、こうなったから?」
サゲンは布で手を拭った後、洗い場の縁に腰掛け、アルテミシアに向き合った。
「そうだな。それも理由の一つだ」
サゲンはあっさりと認めた。
「公私を分ける必要がある。今までは屋敷にいても仕事ばかりだったからその必要がなかったが、君とこういう関係になった以上は、この屋敷の空間は私的なものに保ちたい。それに、好きな女の周りに血気盛んな男たちがウロウロ出入りするのは気持ち良くない」
アルテミシアは衝撃を受けた。好きな女だと堂々と宣言されたことを恥じらいながら嬉しく思うべきなのか、浮気でも疑われるようだと心外に思うべきなのか、判断がつかない。自然と頬が染まったのは、二つの理由からだ。
「あなたが心配するようなことはないよ」
「どうかな。君にその気がなくても熱を上げる奴はいくらでもいる」
イグリのことを言っているのは明白だ。アルテミシアの胸がちくりと痛んだ。イグリとならこの先も良い友人関係でいられるだろうが、しばらくはイグリと会うたびにこの罪悪感と付き合うことになるだろう。
サゲンはアルテミシアが瞳に影を落としたのに気付いたが、態度には出さずに淡々と続けた。
「それだけじゃない。前から考えていたことだ。ここのところ任務も増えているから、部下たちにはそちらに集中させたいと思っていた」
その点に関してはアルテミシアも同意見だ。海賊団をひとつ潰したからといって、他の海賊団が大人しくしているはずもないし、ますます動きが活発にならないとも限らない。彼らも任務だけに集中出来た方がいいだろう。だが。――
「寂しくなるな…」
と、つい本音をこぼした。
リコの料理は絶品だし、イグリと厩で馬にブラッシングをした後で森の中を走らせるのはとても気持ちが良い。レイやロエルは時折剣術の稽古に付き合ってくれるし、ブランは軍で起きた面白い話を聞かせてくれる。アルテミシアはそうして彼らと過ごす時間が好きだった。
サゲンは洗い場の縁から降りてアルテミシアに歩み寄り、頭をポンと撫でた。
「兵舎は近いし、城でも会える。リコ・オレステの料理が食べたくなれば、こちらに招けばいい」
「そうだね」
アルテミシアの顔に笑みが戻ったので、サゲンは内心でホッとした。彼女のことだから、「わたしが原因で誰かの役割が変わるのは許せない」だの何だのと言い出すのではないかと思っていたのだ。
「ところで、バルカしょうぐ…サゲン」
サゲンが片眉を上げたのを見て、アルテミシアは呼び方を改めた。まだ慣れないのでいちいち頬が赤くなってしまう。
(結構、子供っぽい)
目をぐるりと回してやりたくなったが、やめた。これからサゲンの協力が不可欠なことを話すからだ。
「パタロアの件はどう?あなたのことだから、昨日の宴で抜け目なくルメオのお偉いさんに話したんでしょう」
「抜け目ないのはどっちだ」
サゲンは苦り切った。
「ミルコ・フラヴァリ元帥は協力的だが、確実にやるならパタロアの領主にも話をつける必要がある。君も知っての通り、あそこは軍の力が領主の権力に及ばない国だからな。領主が首を縦に振らなければ、うちはおろかルメオ軍も介入できない」
「そっか…」
ルメオは共和国でありながら、古くから王国の一部地域であったという土地柄、領主制が根強く残り、それぞれの地方を治める領主の権力が共和国政府の権威を凌駕している。選挙で選ばれる終身制の元首はあくまで民衆の代表者であり、領主の庇護下にある領民や領内の独自の法律を国家権力によって侵害することは、許されない。
アルテミシアは腕を組んで思案した。ルメオでの諸侯と軍の力関係のことなど、頭になかった。生まれ故郷とは言っても十二の時に出たきり二度と足を踏み入れていないパタロアのことなど、気にしてもいなかったのだ。
(領主は確か――…)
「あっ」
チェステ公――パタロア領主の名前を思い出した時、バチッと頭の中に火花が飛んだ。これは解決できるかもしれない。
「コルネール公爵の滞在場所、知ってる?」
「城下のオーレン通りにコルネール公爵家所有の邸宅がある」
サゲンは眉を寄せて怪訝な顔をしたが、素直に答えてやった。
「じゃ、遣いを送らないとね」
アルテミシアは気軽にそう言うと、猫のように調理台から音もなく降りた。
サゲンはアルテミシアが腕の中で目を閉じたのに気付き、そのままの体勢でリネンの上掛けに手を伸ばして肩まで掛けてやり、自分もその中に収まった。身体の一部は未だに硬く、アルテミシアの中に入ったままだ。このまま再び腰を動かしてもう一度この甘美な身体を味わいたかったが、意識を失くした女性が相手では我慢するほかない。それに、初めて男を受け入れたアルテミシアにそこまでの無体を働くつもりもなかった。アルテミシアの中から抜け出ると、サゲンの放ったものが名残惜しそうに彼女の中から滴り落ちた。拭うものを探したが、脱ぎ捨てた服の他はアルテミシアの髪を飾っていた白い花しか落ちていない。普段なら衣服で床やベッドの上を荒らすことなどないのに、今日に限っては子供のように服を脱ぎ散らかし、何の用意もないまま行為に及んでしまったのだ。挙げ句、何の用心もなく彼女の中で果ててしまった。迂闊なことをしただろうか。それでも後悔など微塵もないことに気付き、サゲンは思わず苦笑した。
隣の部屋で脱ぎ捨てた上着のポケットにハンカチが入っていたはずだが、アルテミシアの温もりがサゲンをベッドの上に縛り付けた。今はどうしても彼女から離れたくない。少しの充足感と更なる渇望の間で揺れながらこの柔らかい身体を全身に感じていたかった。仕方なくシーツの端でアルテミシアの脚の間を拭ってやった。僅かに血が混じっているのは、処女を奪った証だ。自分だけが彼女の身体を知っている。そのことが生々しく現実味を帯び、心に薄暗い悦びをもたらした。無意識のうちに笑みがこぼれていた。
(俺は存外、独占欲が強いらしい)
穏やかな寝息を立て始めたアルテミシアの身体を横に向け、その滑らかな背にぴったりと自分の胸をくっつけて横になった。
美しく結ってあった両側の細い三つ編みはほつれ、編み込まれていた小さな花は踏み荒らされた野花のように乱されている。正に今夜、サゲンは花を散らしたのだ。アルテミシアを手に入れれば近頃の落ち着かない気持ちが少しは鎮まるかと思ったが、大きな間違いだった。寧ろ、心を通じ、身体を繋げた後は、ますます貪欲に彼女を求める気持ちが強くなった。
サゲンは乱れた三つ編みを解いてピンと一緒に編み込まれた白い小花も抜き取り、茎を揃えてサイドテーブルに置いた。柔らかくまっすぐな金色の髪は、指で梳くとすぐに少しのうねりを残してほつれが解けた。髪が広がると、白い薔薇の残り香が鼻腔をついた。サゲンはそれを吸い込み、首筋に鼻をつけて匂いを嗅いだ。やはり花のような香りはアルテミシアの肌から漂っている。
労わるようにアルテミシアの下腹部に手のひらを当てて温めてやると、アルテミシアが眠ったまま喉から気持ちよさそうな声を漏らした。やがてサゲンもアルテミシアの髪に顔を埋め、目を閉じた。
温かく大きな手が腕を撫で、背中が熱いもので覆われている。頭に吐息が掛かり、ふわりと髪が浮いたのを感じたとき、自分が心地よい眠りから意識を取り戻し始めたことにうっすらと気が付いた。
今まで誰とも同じベッドで一緒に寝たことなんてないのに。アルテミシアははっきりしない意識の中でなんとなくそんなことを考えた。
腕を撫でていた手が腰へ、脇腹へと伸びてくる。
「ふ…」
アルテミシアはくすぐったさに身じろいで寝返りを打った。頬に硬い筋肉の感触がする。森の木々と革、それからよく知る男の匂い。アルテミシアは鼻から心地よさそうな唸り声をあげて匂いを吸い込み、匂いの元へ手のひらを這わせた。よく鍛えられた胸筋、腰から腹にかけては薄い皮の下にボコボコと硬い筋肉の隆起をいくつも感じる。
この身体こそ完璧。誰より美しくて官能的だもの――。などと考えた時、両手首を強く掴まれた衝撃で目を覚ました。視界には闇が広がっている。しばらくぼんやりした後、自分がまだ夜明け前の寝室で横たわっていることに気が付いた。窓から差した月の明かりのおかげで、ゆっくり覆いかぶさってくる人物の輪郭が見える。暗闇に目が慣れる頃にはアルテミシアの頭は枕に沈み、手首をベッドに縫い付けられ、官能的な肉体の下に組み敷かれて性急な口付けを受けていた。
「んん…」
突然のことだったはずなのに、アルテミシアの身体は早くもその快感を受け入れ始めた。熱い舌が生き物のように口の中を愛撫し、起き抜けで無防備な心を性の悦びに目覚めさせる。
「俺の身体を気に入ってくれたようで嬉しいが――」
サゲンが唇を浮かせ、低く甘い声で囁いた。
「君はせっかくの我慢を無駄にしたぞ」
「なに…?」
と自分でも驚くほど掠れた声で訊きながら、アルテミシアは完全に意識を取り戻した。同時に、顔が燃えるように熱くなった。心の中で呟いたと思った言葉は、どうやら声に出ていたらしい。腿の内側にサゲンの剥き出しの欲望が当たっている。先程と同じく、鉄のように硬く、熱い。
アルテミシアが息を呑んだ。暗闇の中でアルテミシアがどんな表情を浮かべているのか想像するのは容易だ。困惑と、期待。それから欲望。サゲンは手首から腰、腰から胸へと手のひらを滑らせ、胸を口に含むと同時にアルテミシアの秘所へと指を滑り込ませた。アルテミシアは悩ましい声で呻き、身体をしならせた。
「痛むか」
「ちょっとだけ…」
アルテミシアのそこが再び潤い始めるのに、時間は掛からなかった。最初の行為も、焼けるような痛みは長く続かず、あとはサゲンに引き出されるまま快感に溺れたのだ。今もそうだ。サゲンの指が秘所の突起に蜜を塗りつけながら触れ、強く、弱くリズムをつけながら繰り返し撫でる度に身体が快楽に震え、更なる快感を思い出してじわじわと潤いを増した。
青春時代を男ばかりの環境で過ごしたアルテミシアにはこういう類の話が度々耳に入ってきてはいたものの、何故みんなが性の歓びに夢中になるのかが理解できなかった。ラデッサの事件以来、寧ろ嫌悪感を抱いてさえいた。男女の性交は、男性の一方的な快楽の道具に過ぎないのだろうとどこかで思っていた。しかしそれを身をもって体験した今、その理由が分かった気がする。
なるほどこれは、癖になる。
「君は覚えが早い」
サゲンが馬の稽古をつけていた時と同じことを、明らかに違う意図で言った。口調に興奮が滲んでいる。
あなたがいい先生だから?と聞こうとして、やめた。乗馬に例えるなど、あまりに淫らな会話に聞こえる。事実、そうだ。アルテミシアはおかしくなり、腹を波打たせてくすくす笑った。
「余裕だな」
「そんなことない」
と言いながら、アルテミシアの腹はまだ上下している。サゲンは苦り切った。まったくこちらの気も知らないで、癪に触る女だ。処女のアルテミシアに苦痛を与えないよう、どれほど心を砕いたか理解しているのだろうか。
「それならもう、遠慮はしない」
サゲンは自分の口でアルテミシアの口を覆い、今度は奥の方まで二本の指を突き立てた。内部はまだかなりきついが、多少は解れたようだ。アルテミシアがくぐもった声で抗議するように唸ったが、それとは裏腹に、腰が強請るように浮き沈みを繰り返している。
「んんっ、んー!」
自分でも知らない身体の奥をサゲンの長い指がつついた瞬間、大きな衝撃を受けた。痛みに似ているが、違う。もっと熱く、激しい衝動を引き起こす何かだ。その一点だけが脳に直接繋がっているように錯覚した。
「ここがいいのか」
サゲンは悪巧みが成功した悪童のように笑った。
「ああっ!そこ、やだっ…!」
悲鳴に近い声でアルテミシアが懇願を始めると、サゲンの欲望は更に深くなった。もっと乱れさせ、耳元で淫らな言葉を囁いてやりたい。そしてサゲンはその欲求に逆らわなかった。見つけたばかりのアルテミシアがよく反応する場所を指で攻め、彼女の甘い悲鳴に耳を潤しながら胸の中心で硬くなった突起に吸い付き、淫らな舌遣いで舐めた。
胸を食む男の髪が胸元をくすぐっている。その頭を両手で抱え、縋りついた。もう耐えられない。鋭い感覚がアルテミシアの全身を支配し、頭の中で真っ白な爆発を起こさせた。
息つく間もなく脚を開かれ、サゲンの太く硬いものが中へ押し入り、アルテミシアに痛ましいほどの悲鳴を上げさせた。絶頂に達したばかりで内部がびくびくと蠢いている。
「ああ…」
サゲンは思わず歓喜の呻き声を漏らした。盛った獣のようにめちゃくちゃに出し入れしたいが、それではすぐに果ててしまう。できるだけこの快楽を長引かせたかった。サゲンはアルテミシアの膝を腕にかけ、しなやかな脚を自分の背中に巻き付けた。
「この方が身体が楽だろう」
サゲンは片手で細い腰を抑え、ゆっくりと浅い位置で抜き差しを繰り返し、時折奥深くを突いた。アルテミシアが荒い呼吸の合間に甘い声で喘ぎながら、サゲンの肩にしがみつき、時折爪が食い込むほど強く掴んでくる。その微かな痛みすらサゲンの血を滾らせた。
「サゲン…」
アルテミシアは細く掠れた声で名前を呼び、サゲンの頬を両手でそっと挟んだ。気恥ずかしくて目を逸らしそうになったが、微かな月明りにサゲンがわずかに面喰らって口元を緩めたのが見えたので、その顔をじっくり眺めることにした。
アルテミシアの心が急激に満たされた。この隙だらけの顔。本当にあの厳格なバルカ将軍?それも、自分がそうさせている。そう思うと、どうしようもなく嬉しくなった。
「アルテミシア・ジュディット」
サゲンはゆっくりと顔を近付け、愛らしい唇にキスをし、熱くなった彼女の口の中を味わい、甘い声と息遣いを全身で感じた。唇を重ねながら頭のどこかで理性が溶けてなくなったことに気付いたが、もうどうでもよかった。
欲するままにアルテミシアの中に繰り返し突き入れた。二人の身体が頑丈なベッドごと大きく揺れ、アルテミシアが衝撃に悶えた。
「んあ、あっ、あっ…!」
アルテミシアはもう声を抑えようともしなかった。サゲンの律動を受け止め、身体の中心から全身に広がり続ける快感の波を感じるだけで精一杯だった。やがてサゲンと交わった場所から痛いほどの大きな波が襲って来た。
絶頂の気配を感じ、サゲンがアルテミシアの耳を噛みながら淫らな低い声で囁いた。
「いけ、アルテミシア。俺だけを感じろ」
「ああっ…――!」
アルテミシアの腰が跳ねると同時に、サゲンは腰に絡んだ脚の柔らかい肉の下で筋肉が硬くなるのを感じた。次の瞬間には繋がった部分が収縮し、肉が蠢いてサゲンを強く締め付けた。
「…は」
サゲンは深く息を吐いて耐えた。まだだ。まだ足りない。もっとこの身体を味わってからその一番奥で果てたい。
アルテミシアの震える腰をするすると撫で、しばらく動かずにいると、アルテミシアの荒い呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
まだ絶頂を迎えたばかりだというのに、中で硬いものが後退し、すぐに更に奥へ押し進んでくる。アルテミシアは目を見開き、悲鳴を上げた。
「やっ、もう無理。もうだめっ…」
「まだだ。もっとよくしてやる」
サゲンはアルテミシアのよく反応する場所を繰り返し突き、同時に既に腫れて感度を増している入り口の突起を愛撫し、汗の浮いた肌に舌を這わせ、あらゆる場所から快感を引き出した。アルテミシアが恐らく無意識のうちに腰を揺らし、サゲンを奥深くへと誘ってくる。これほど性交に溺れ、自我を失うほどの快楽を味わったのはこれが初めてだった。
予感がする。
俺は一生この女から離れられないだろう。
獣のような呻き声を上げながらサゲンがアルテミシアの中で最後に果てた時、空は既に白んでいた。アルテミシアは肩に倒れ込んできたサゲンの頭の重みを両手で受け止め、緩く波を描く短い髪を指で梳いた。汗で湿り、肌が熱くなっている。
アルテミシアもまだ息が上がり、全身が淫らな熱に包まれている。
サゲンは容赦がなかった。どれだけもうだめだと懇願しても、やめるどころか更なる高みへと昇らされ、喉が枯れるほど声を上げさせられた。それなのに、身体の奥はサゲンを求めて蜜を溢れさせ、焼け付くような快楽に全身を震わせて歓喜した。一夜のうちに、すっかり身体を造り変えられてしまったようだった。
サゲンがアルテミシアの内腿を濡らしながら中から抜け出、羽が触れるようなキスをした。
「大丈夫か」
さっきまでの荒っぽい行為が嘘のように優しい声で囁かれ、アルテミシアは急に恥ずかしくなった。顔を出し始めた太陽が寝室に薄明かりを作り、目の前の男の暗い色の瞳を仄かに輝かせている。アルテミシアは視線が合う前にリネンの上掛けを手繰り寄せて顔を隠した。サゲンが息だけで笑ったのを感じる。
「…大丈夫じゃない」
うまく声が出ず、風邪を引いた時のようなガラガラ声になった。原因は分かっている。それだけに、ますます恥ずかしい。
サゲンはごろりと横に退いてアルテミシアを自分の体重から解放してやった。肘をついて手のひらに頭を乗せ、とてもリラックスした気分で上掛けからはみ出た明るい色の髪を指で弄んだ。
「死ぬかと思った」
アルテミシアは目だけを上掛けから覗かせ、恨めしそうに文句を言った。そのくせ、何度もの絶頂のために潤んだ目は、早朝のやわらかな光を含んで満ち足りた輝きを放っている。サゲンの口元は自分でも気付かないうちに綻んでいた。
「誉め言葉と受け取っておくが、あれくらいで音を上げてもらっては困るな。あれよりも快いのをこれから何度でも体験することになる。なんなら、今からでも…」
アルテミシアは身を強張らせ、再び頭のてっぺんまで上掛けの中に潜り込んだ。あんなことを何度もされたら、身体が壊れてしまう。
この反応を面白く思ったのか、今度はサゲンが声を上げて笑った。
「冗談だ」
例の官能的な低い声が、陽気に弾んでいる。これが妙にアルテミシアの胸をくすぐった。
(いい声…)
アルテミシアはうっとりと目を閉じ、背中を布越しに撫でる大きな手のひらの温度と、既に身体に馴染んだ男の匂いを感じながら、再び心地よい眠りに落ちていった。
ベッドのマットレスが沈み、ラベンダーとローズマリーの香りが辺りに広がるのを感じた直後、木々と土の香りを含んだ涼しい風が頬を撫で、閉じたままの目蓋の奥が不意に眩しくなった。
「もうすぐお昼になるよ」
澄んだ夏空のような声。
サゲンは満ち足りた気分で口元を綻ばせた。
「今日は非番だ」
アルテミシアとは対照的に、寝起きの掠れ声しか出なかった。この無防備極まりない状態で誰かと話すことは、もう何年も経験していない。昼近くまで誰かのベッドで睡眠を貪ったことなどは、これまで一度だってなかった。サゲンは自分がおかしくなって失笑した。
「さっきそこでレイに聞いたから知ってるよ。非番でも起きないといけないでしょ、バルカ将軍」
「サゲンだ」
サゲンはうっすらと目を開け、ベッドに腰掛けてこちらを見下ろしているアルテミシアの顔を見上げた。頬はほんのり赤く染まり、髪は濡れている。ぼんやりした頭の中ではまだ裸でいることを期待していたが、彼女は既にグレーの簡素なドレスを着ていた。
(しまった)
一緒に風呂に入るチャンスを逃したことに気付いた。自分がぐっすりと眠っている間にアルテミシアは恐らく自分で風呂の用意をし、身体を清めたのだ。明るい中で血色を濃くするその肢体を堪能したかったのに。
(まあ、いいさ)
この先いくらでも機会はある。サゲンは目の前に置かれたアルテミシアの手に自分の手を重ね、親指で柔らかい手の甲を撫でた。
「サゲンと呼べ、アルテミシア」
「…サゲン」
アルテミシアは一瞬の間をおいてサゲンの手を握り返した。
「サゲン、起きて」
サゲンの顔に輝くような笑みがゆっくりと広がった。こんなに屈託ない反応をされるとは予想外だったので、アルテミシアは面喰らって固まってしまった。耳まで真っ赤に染まったのが自分で分かるほど、顔が熱くなった。
「身体は辛くないか」
「…だ、だいじょうぶ」
多少ひりひりと違和感はあるものの、痛みというほどでもない。それよりも気持ちの方に問題があった。なんとか普段通り接しようとしても、うまくいかない。夢を見ているようだったが、昨夜から今朝にかけて起きたことは紛れもなく現実だ。視線が合うだけで、思い切り飛び跳ねたいような逃げ出したいような気持ちになる。これまでもそういう時はあったが、身体を重ねることにはそれを鎮める効果はないようだ。むしろ、ひどくなっている。
サゲンは視線を逸らして頬を染めたアルテミシアの顔を満足げに見つめながら上体を起こし、アルテミシアの唇にそっと触れるだけのキスをして、裸のままベッドから降りた。
アルテミシアはベッドに腰掛けたままその精悍な身体をまじまじと眺めた。今でも信じられない気持ちだった。あの身体が昨夜自分にどんなことをしたのか。しかし、身体に残る違和感や入浴中に見つけた痣のような痕跡が、記憶にある全てが現実のものだと語っている。それに、サゲンの肩や腕に見つけた引っ掻き傷――。あんな所を引っ掻いた記憶はないが、明らかに自分がつけたものだ。どれほど夢中になっていたかを目の当たりにし、これ以上はないと思っていた恥ずかしさが更に増して体温を上げた。
ズボンを履き終えたサゲンが屈んでシャツを拾った時、アルテミシアは陽光に照らされて小さな古傷が至る所に白く細い線を描いていることに気付いた。中には深く肉を裂いたであろうものもある。それさえこの肉体の魅力を損なうどころか、いっそう美しく引き立てているように見えた。
アルテミシアはベッドから降りて近付き、サゲンがシャツを羽織って身体を覆う前に、腕に残った白い線にそっと触れた。サゲンはシャツを肩に掛けたまま、その挙動を大人しく見守っている。
「昨日は気付かなかった」
「痛ましいか」
この傷を見た女たちは、みな憐れみ、軍人の職務の危険さに息を呑んだものだった。ところが、アルテミシアの反応は違っていた。興味深げにひとつひとつを指でなぞりながら、どことなく熱っぽい表情で眺めている。ちょうどサゲンの書斎で読書に没頭している時と同じ顔だ。
「痛かっただろうなとは思うけど…、これとか」
アルテミシアは左腕の上部にあるやや太く横に長い傷を指差した。
「同じ場所に二回、大きさの違う剣で切り付けられたでしょう。治り方から見て、たぶん同じ時に。傷跡が不揃いだもの。こっちは浅く、こっちは深く。これはすごく痛そう」
サゲンは笑い出した。傷から当時の状況を読み取ろうとした女はアルテミシアが初めてだ。
「縫えばもっときれいに治っただろうに、道具がなかったわけ?」
「浅い方は矢傷だ。海賊討伐の作戦中に海上でエル・ミエルドの反政府軍の奇襲に遭ってな。勝ったはいいが負傷者が多く出た」
「医療品と衛生品は余分に積むべきだね。アムの時も思ったけど、入浴用の湯船くらいはあってもいいんじゃない?」
「君という女は」
サゲンは苦笑しながらアルテミシアの頬をつねった。
「普通なら俺の身を案じるところだぞ」
アルテミシアは「そうなの?」とでも言い出しそうな表情でサゲンの顔を見上げた。
「傷は生き残った証拠でしょう。あなたに似合ってるよ」
強く逞しい海神のような身体に似つかわしく、よりその姿を官能的なものにしている。とまでは、あまりにも率直すぎて口には出さなかった。
「君みたいな女性には出会ったことがない」
サゲンが強い視線でアルテミシアの目を捉えた。口元は面白そうに吊り上がっている。
アルテミシアはまたしても逃げ出したくなったが耐え、片眉を権高な調子で上げて見せた。
「心配してくれる女が好みなら、わたしはやめたほうがいいと思うけど」
言い終えて、後悔した。照れ隠しについ憎まれ口を叩いてしまった。が、シャツに袖を通したサゲンの
手が腰に伸びてきて引き寄せられ、アルテミシアの身体がその腕の中に納まった。秀麗な青灰色の目に射竦められる。
「まだ分からないのか」
ゆっくりとサゲンの唇が降りてくる。アルテミシアは逃げ場を失った。と言うより、逃げ場を探すことをやめた。
「君もいい加減に肚を決めろ。逃がさないぞ…」
サゲンが入浴を終え、簡単なシャツとズボンだけを身に着けて母屋の扉を開けると、舶来品のコーヒーの香りに混ざって野菜を煮込んだスープや焼いたバターの匂いが漂ってきたので、寝室に戻らずに食堂へと直行した。部下たちは出払っているから、アルテミシアが用意したに違いない。サゲンが引き戸を開けて食堂へ現れると、遅すぎる朝食に手を付けず本を読んでいたアルテミシアが顔を上げ、微笑んだ。周りの空気までがきらきらと輝いて見えた。テーブルには、野菜のスープとバターをたっぷり付けたパン、ふんわりした卵焼きが二人分用意されている。
「素晴らしいな。ありがとう」
サゲンがまたしても輝くような笑顔を見せたので、アルテミシアはどきりとしてしまった。職務の間は常にしかめ面だが、時折アルテミシアに見せる紳士的な態度や柔らかい表情には、やはり育ちの良さが感じられる。
「居候の身だしね。これくらいはやるよ」
動揺が声に出なかったことに、アルテミシアは密かに安堵した。
「そのことだが、アルテミシア」
サゲンはアルテミシアの向かいの椅子に座り、神妙な面持ちで切り出した。
「俺は君がこの屋敷に住み続けてくれることを望んでいる。居候ではなく、恋人として」
「うん」
これ以上の言葉が見つからなかった。恩師の時といい、今といい、どうしてこうも気の利いた言葉を相手に伝えられないのだろうと自分にうんざりしながら、心からこみ上げる嬉しい気持ちを隠せなかった。どんな顔をしているのか分からないが、頬がやけに熱いのは分かる。
アルテミシアが顔を真っ赤に染めて口元が緩むのをもじもじと抑えている様子をサゲンは満足げに眺め、向かいの席に腰を下ろした。
二人が昼食に近い朝食を食べ始めてしばらくすると、サゲンが口を開いた。
「君の問題は解決したのか」
アルテミシアはスープを口に運ぶ途中で手を止めた。なんとなくバツが悪い。以前「このままの関係で満足だ」と言ってサゲンを拒んだが、本心でないことはとうに見透かされていたに違いない。自分の中で気持ちの整理がつくのを待っていてくれたのだろう。
「実は…昨日ある人と話してね。なんて言うか、視野が広がったの。あなたの…その…、こ、恋人になったら、実力が評価されないんじゃないかとか、周りの目が変わるんじゃないかって思ってた。そのせいで実力以上の評価があったり出世したりしたら、二度と自分で自分の力を信じられなくなるかもって」
サゲンは黙って聞いていた。名家の生まれで法務官の父を持つサゲンには、その気持ちが理解できる。だからこそ、サゲンも十五で家を出、軍に入隊したのだ。しかし、だからと言ってそれを理由にアルテミシアが自分から離れようとしたというのはいただけない。
「でも、気付いた。立場が実力以上のものになるかどうかはわたし次第だって。それに、誰もが納得する結果を出すこともできる。その人が言っていたんだ。どの道わたしたちの闘争は続くんだから、不明瞭なものより確かなものを優先するべきだって」
「確かなもの?」
サゲンが訊くと、アルテミシアが何か吹っ切れたような笑顔を見せた。
「あなたとわたしの気持ち」
ゆっくりとサゲンの顔に笑みが広がっていく。
「そうか。君を諭した人物に感謝しなければな」
「わたしの恩師だよ。今はエマンシュナのコルネール公爵夫人。もう少し滞在するって言っていたから、もしかしたら会う機会があるかもね」
アルテミシアが冗談めかして言うと、サゲンは意外そうに目を見開いた。
「君の人脈もなかなか侮れない」
「まあね」
アルテミシアは得意げに胸を張った。
「でも、その後あなたの気持ちを見失いかけた。昔の婚約者に未練があるんだと思ってたから」
「読み違いだ」
サゲンは手にしていたコーヒーカップを置き、再びスープへ伸びたアルテミシアの手を途中で攫うと、両手でアルテミシアの両手をすっぽりと包んだ。
「彼女とは子供の頃からいい友人だったし、数年の間は婚約者として過ごした。確かにその後の女性たちと比べれば特別な関係だったのは間違いない。気心が知れていて、幼い初恋の相手でもあったからだ。それでも、これほど心を乱されるものではなかった」
アルテミシアの両手はサゲンの口元へと引き寄せられ、小さな口付けを受けた。アルテミシアはサゲンの瞳を見つめた。まだ引っかかっていることがある。
「…でも抱き合ってたよ」
アルテミシアはその時の光景が目の前に蘇り、思わず心の中で毒づいた。聞かなければよかった。そうすれば思い出すこともなく、ひとつの嫌なこともない幸せな一日を過ごせただろうに。
一方、サゲンは子供のように口を尖らせて嫉妬心を隠そうともせず素直に曝け出したアルテミシアを見て、とても満たされた気持ちになった。これほど心を乱しているのは自分だけではないという事実がそうさせた。もう一度寝室に引っ張り込みたくなる。
「彼女は夫を亡くしたんだ。慰めていた。あくまで、友人として」
アルテミシアは顔を赤くした。あまりに子供っぽい言動をしてしまったことを恥じた。それに、イグリに嫉妬してサゲンの機嫌が悪くなる理由も、今なら分かる。確かに、最悪の気分だ。
「…わかった。でも、ああいう慰め方はもうしないで欲しい」
サゲンは口元が緩むのを抑えられず、それをごまかすためにアルテミシアの手を放し、コーヒーに口をつけて一口飲んだ後に口を開いた。
「では、認めるんだな」
「何を?」
「俺が好きだと」
サゲンは大真面目な顔で言った。どうあってもアルテミシアの口から聞きたいらしい。
「…わっ、わかってるくせに!」
アルテミシアが顔を真っ赤にして詰ったので、サゲンはついに笑い出した。
その後はぷりぷりしながら食事を続けるアルテミシアを機嫌よく眺めながら昼食を兼ねた朝食を取った。食事が終わると船乗り時代の習慣で自分で皿を洗おうとしたアルテミシアを引き止め、サゲンが袖を捲って代わりに洗い場へ立った。サゲンもまた、下士官時代の習慣が抜けきっていない。
「立場ある者がすることではないと思うか」
とサゲンが苦笑しながら聞いたのは、洗い場の向かいの調理台に腰かけたアルテミシアが先程からずっとこちらを物珍しそうに眺めているからだ。
「まあ、上流階級のきちんとしたお父さんやお母さんならそう言うだろうね。でもわたしはきちんとした上流階級の人間じゃないから、立場ある人がそうやって働いてるのを見るのは好きだな。剣を振るったり馬を駆ったりする以外にも有能だって証拠だもの」
それに、手際よく食器を洗う偉丈夫の背はなかなか見応えがある。アルテミシアは悪戯っぽく笑って見せた。
「君の好評を得て嬉しいが、残念ながら近く使用人を雇うことにした」
サゲンは最後の皿を盥の水できれいに流し、竹製のかごに置いた。既に二人分の食器やグラスが洗われ、きちんと種類ごとに並べられている。
「じゃあ、あの五人は?」
「あいつらも立場が上になってきたからな。いつまでも俺の身の回りの世話をさせられない」
アルテミシアはサゲンの言葉を額面通りには受け取らなかった。
「それって、わたしと…その、こうなったから?」
サゲンは布で手を拭った後、洗い場の縁に腰掛け、アルテミシアに向き合った。
「そうだな。それも理由の一つだ」
サゲンはあっさりと認めた。
「公私を分ける必要がある。今までは屋敷にいても仕事ばかりだったからその必要がなかったが、君とこういう関係になった以上は、この屋敷の空間は私的なものに保ちたい。それに、好きな女の周りに血気盛んな男たちがウロウロ出入りするのは気持ち良くない」
アルテミシアは衝撃を受けた。好きな女だと堂々と宣言されたことを恥じらいながら嬉しく思うべきなのか、浮気でも疑われるようだと心外に思うべきなのか、判断がつかない。自然と頬が染まったのは、二つの理由からだ。
「あなたが心配するようなことはないよ」
「どうかな。君にその気がなくても熱を上げる奴はいくらでもいる」
イグリのことを言っているのは明白だ。アルテミシアの胸がちくりと痛んだ。イグリとならこの先も良い友人関係でいられるだろうが、しばらくはイグリと会うたびにこの罪悪感と付き合うことになるだろう。
サゲンはアルテミシアが瞳に影を落としたのに気付いたが、態度には出さずに淡々と続けた。
「それだけじゃない。前から考えていたことだ。ここのところ任務も増えているから、部下たちにはそちらに集中させたいと思っていた」
その点に関してはアルテミシアも同意見だ。海賊団をひとつ潰したからといって、他の海賊団が大人しくしているはずもないし、ますます動きが活発にならないとも限らない。彼らも任務だけに集中出来た方がいいだろう。だが。――
「寂しくなるな…」
と、つい本音をこぼした。
リコの料理は絶品だし、イグリと厩で馬にブラッシングをした後で森の中を走らせるのはとても気持ちが良い。レイやロエルは時折剣術の稽古に付き合ってくれるし、ブランは軍で起きた面白い話を聞かせてくれる。アルテミシアはそうして彼らと過ごす時間が好きだった。
サゲンは洗い場の縁から降りてアルテミシアに歩み寄り、頭をポンと撫でた。
「兵舎は近いし、城でも会える。リコ・オレステの料理が食べたくなれば、こちらに招けばいい」
「そうだね」
アルテミシアの顔に笑みが戻ったので、サゲンは内心でホッとした。彼女のことだから、「わたしが原因で誰かの役割が変わるのは許せない」だの何だのと言い出すのではないかと思っていたのだ。
「ところで、バルカしょうぐ…サゲン」
サゲンが片眉を上げたのを見て、アルテミシアは呼び方を改めた。まだ慣れないのでいちいち頬が赤くなってしまう。
(結構、子供っぽい)
目をぐるりと回してやりたくなったが、やめた。これからサゲンの協力が不可欠なことを話すからだ。
「パタロアの件はどう?あなたのことだから、昨日の宴で抜け目なくルメオのお偉いさんに話したんでしょう」
「抜け目ないのはどっちだ」
サゲンは苦り切った。
「ミルコ・フラヴァリ元帥は協力的だが、確実にやるならパタロアの領主にも話をつける必要がある。君も知っての通り、あそこは軍の力が領主の権力に及ばない国だからな。領主が首を縦に振らなければ、うちはおろかルメオ軍も介入できない」
「そっか…」
ルメオは共和国でありながら、古くから王国の一部地域であったという土地柄、領主制が根強く残り、それぞれの地方を治める領主の権力が共和国政府の権威を凌駕している。選挙で選ばれる終身制の元首はあくまで民衆の代表者であり、領主の庇護下にある領民や領内の独自の法律を国家権力によって侵害することは、許されない。
アルテミシアは腕を組んで思案した。ルメオでの諸侯と軍の力関係のことなど、頭になかった。生まれ故郷とは言っても十二の時に出たきり二度と足を踏み入れていないパタロアのことなど、気にしてもいなかったのだ。
(領主は確か――…)
「あっ」
チェステ公――パタロア領主の名前を思い出した時、バチッと頭の中に火花が飛んだ。これは解決できるかもしれない。
「コルネール公爵の滞在場所、知ってる?」
「城下のオーレン通りにコルネール公爵家所有の邸宅がある」
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