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三十、戦略 - le piège -
コルネール邸の夜会は、まるでルメオの貿易港をぎゅっと小さくしたようだった。様々な国の貴族や商人が大勢集まり、多種多様な言語が飛び交っている。ただ貿易港と違うのは、商人ばかりではなく、銀行家や学者、軍関係者なども多く集まっているということだ。
彼らは持っている中でいちばん高価なものを身につけ、或いは従者に持たせて参上していた。多くの勲章を胸に輝かせている貴族も多くいるが、彼らもサイドビジネスとして商いを営んでいるに違いない。爵位や地位だけでは、懐は温まらないというのが彼らの現状だ。彼らは領地や自分の家を豊かにするため、生まれ持った者は商才を遺憾なく発揮し、そうでない者は有用な者を雇ってビジネスを展開しているのだ。
無論、十分な資本金があったとしても全ての者が成功するわけではない。貿易業は莫大な富を手に入れることができても、その分リスクが大きい。海上はとにかく事故が多い。思わぬ荒天に船が難破することもあれば、海賊による襲撃で積荷と人夫もろとも奪われてしまうこともある。そのようなことが起こった場合、儲けがなくなるだけではなく船員の家族への賠償のほか、取引先や顧客への賠償などで莫大な費用がかかり、経営者とその家族は路頭に迷うことになる。実際に、それらが理由で没落した貴族や商人などは掃いて捨てるほどいるのだ。
そういう憂き目に遭わないために、同業者間での情報交換はかなり重要視される。どの海域でより安全に航海できるか、取引先の国の経済状況の微細な変動や政治の内情なども、大きな収穫になるのだ。それも、コルネール公爵家主催の集まりであればそれだけで招待客は信頼の置ける一流の財界人ということになるから、今夜の夜会はただの夜会以上の意味を持っている。
アルテミシアは事前に当たりを付けていた。
先日の宴の時に聞いた、最近になってえらく羽振りの良くなったという造船業者に関することだ。これがもし海賊と繋がっているのであれば、どの海域のどのルートを使っているのかを割り出せるかもしれない。
初めに目を付けたのは、サロンの窓際に用意されたテーブルの周りで歓談する五、六人ほどの貴婦人たちだ。どこの誰の金回りが近頃良くなったなどの話には、家長よりも妻たちの方が精通していることが多い。今も、テーブルに用意されたケーキや菓子を味わいながら、誰かの噂話で高笑いを響かせている。問題は、どのように彼女たちと打ち解けるかだ。人の噂と流行に敏感でお洒落に余念のない上流階級の奥方たちは、アルテミシアが今まであまり相手にしたことがない種類の人間だ。彼女たちに取り入るには、最初の一言を選ばなければならない。
あれこれと考えを巡らせるアルテミシアを尻目に、貴婦人たちに先に声を掛けたのはサゲンだった。
「失礼、ご夫人方。そちらのケーキを取らせて頂いても?」
と、サゲンは爽やかに微笑んだ。イグリの貴公子然とした笑みにも負けていない。
奥方たちは噂話をやめ、しきりに扇子でパタパタと顔を仰ぎ始めた。長く見せるために炭を塗った睫毛をパチパチさせ、科を作るようにうっとりと微笑んで見せた。彼女たちが精悍な美丈夫の性的魅力に食らいつく様は、まるでアザラシを見つけたサメのようだった。
「おすすめは?」
とサゲンが白い歯を見せると、奥方たちは一斉に口を開き、いくつかの菓子を口々に勧め始めた。
(ははあ)
アルテミシアは感心した。サゲンはアルテミシアの予想よりもはるかに自分の魅力をよく理解している。今はそれを職務のために最大限に行使しているのだ。
ここはサゲン一人の方が都合が良いだろう。連れの女がいればいらぬ敵対心を呼び起こしかねない。そうなれば、聞けるかもしれない話が聞けなくなってしまう恐れがある。アルテミシアは少し離れた場所からサゲンにウインクしてひらりと手を振り、唇の動きだけで「そっちは任せた」と合図を送った。
(それにしても、大男とケーキとはおかしな組み合わせ)
美しいが厳しい顔つきのサゲンが貴婦人に囲まれてケーキを頬張る光景を想像し、笑いがこみ上げてきた。上手く彼女たちから話を聞き出してくれるだろう。彼女たちが重要なことを知らなかったとしても、些細な情報が手に入るかもしれない。
それに、こちらとしてもサゲンから離れている方が好都合だ。側にいるだけで、馬車での行為を身体が思い出してしまう。今も爪先に残った小さな疼きがアルテミシアの神経をくすぐっているのだ。アルテミシアは小さくかぶりを振って頭からそれを追い出し、大サロンから更に奥の部屋へと進んで行った。
こちらはどうやら珍しい品を持った者たちが集まっているらしい。嗅いだことのない異国の煙草や甘ったるい酒のにおいがする。様々な国の人々が大小のトランクや宝石箱から互いのコレクションや主力商品を見せ合い、これはどの国のどの地方だけで生産されているとか、異大陸のどこから独自のルートで仕入れたものだとかいう話をしていた。小さいながら、最先端のものが集まる品評会のようだった。
アルテミシアは南エマンシュナ産のワインや嗜好品を多く扱う恰幅の良い中年の紳士のトランクの前で立ち止まり、いかにも買い付けようとするような目付きで吟味し始めた。ざっと計算したところでは、このトランク一つで小さな屋敷くらいなら一棟建つだろう。この手の計算はバルバリーゴの下で毎日のようにやっていたから、得意分野だ。
「ごきげんよう、マダム…」
「リンドですわ、ムシュー」
「マダム・リンド。南エマンシュナのワインがお好きですかな?美しいあなたのためなら、一本開けさせていただきますよ」
と、中年の紳士は肉の厚い髭面に好色そうな笑みを浮かべた。アルテミシアは不快感を持ったが表に出さず、にっこりと微笑んだ。
「まあ、お優しいのですね」
中年の紳士がワインを開けようとしたところで、近くにいた別の背の低い紳士が口を挟んだ。
「南エマンシュナはワインも絶品ですが、実はシードルも有名なのをご存知ですか、マダム?」
背の低い紳士は人当たりの良さそうな仕草でアルテミシアに一際豪華なソファをすすめ、自分も隣に腰掛けるとそれとなく肩に触れてきた。
反射的に攻撃しそうになったが、これも拳を握りしめたところで思い留まった。
(なるほど、これも戦略か)
アルテミシアもサゲンに倣い、自分の女性としての魅力を有効活用することにした。夜会の目的を知っているエラとケイナは、恐らくこういうことを見越して胸の大きく開いたドレスを選んだのだろう。
(やってやろうじゃないの)
アルテミシアは二日前の宴で数多くの貴婦人たちがしていたように、ちょっと顎を引いて小首を傾げ、唇をにっこりと吊り上げて笑って見せた。
サゲンは世間の事情に通じた夫人たちの話にいちいち相槌を打ちながら、運が良かったと感じていた。この中のリーダー格の女性が、名の知れた銀行家の奥方だったからだ。それも、個人向けではなく、商売を生業とする人々専門の銀行だ。本来であれば部外者には固く口を閉じるであろう顧客の内情を、サゲンが海軍の責任者であることを告げると、安心したのかぺらぺらと喋ってくれた。
アルテミシアが狙った通り、エマンシュナの南方が怪しい。南エマンシュナのごく一部の地域で、二、三年前には誰も名前を知らなかった男が造船業者として財を成しているという。あるエマンシュナの貿易商がその業者に興味を持ち、南エマンシュナへはるばる五日掛けて出向き、商談を持ちかけようとしたのだが、目的の人物に会えなかったどころか、あるはずの造船所にさえ辿り着けなかったという。その貿易商は自らの失敗談を軽快で奇妙な冒険譚として酒席の肴にしたというが、銀行家の奥方はしきりに豊満な胸を押さえ、少々大袈裟に恐怖する様子をサゲンに見せた。取り巻きの奥方たちも扇子をパタパタさせ、或いは閉じた扇子で額を押さえながらいかにもぞっとした様子を見せていたが、噂好きな彼女たちの目は、仕草とは裏腹にぎらぎらと輝いている。
サゲンは三つ目のケーキを勧められる前に礼儀正しく奥方たちの元を立ち去ることにした。まずまずの収穫だ。
アルテミシアの姿を探してぐるりと周りに視線を巡らせると、主催のコルネール公爵夫妻が招待客一人一人に声をかけて回っているのが見えた。アルテミシアの言うように、遠目から見ても似合いの美男美女だ。おまけに二人ともおそろしく頭が切れる。しかしサゲンがおもしろいと思ったのは、礼儀正しく適度な微笑を絶やさないコルネール公爵とは対照的に、公爵夫人が必要以上に笑わないということだった。彼女の立場を考えれば別段愛想笑いなど必要ないだろうが、それにしてもハッキリしている。彼女の目は相手の人物評をそのまま物語っているようだ。今挨拶を交わしているひょろりとした商人は、幸いなことに嫌われてはいないらしい。
(この師にあの弟子ありか)
利かん気のアルテミシアを思い、思わず笑いがこみ上げてきたが、ちょうどその時アルヴィーゼ・コルネールがこちらに気付いて近付いてきたので軽く咳払いして胡麻化した。
アルヴィーゼ・コルネールは妻から離れて使用人から緑色のボトルを受け取り、手ずから中身をグラスに注いでサゲンに渡した。
「かたじけない」
「領内で造ったシードルだ」
「ルドヴァンでシードルを造っているとは、存じ上げなかった」
サゲンはアルヴィーゼからボトルと空のグラスを受け取り、アルヴィーゼの分も注いで手渡した。
「ここ五年ほどで始めた事業だ。イオネが嫁いで来た時にルドヴァンのリンゴをいたく気に入ってな。これで酒を造れと言うのでやってみたら、良いビジネスになった」
「本当に聡明な奥方だ」
アルヴィーゼは唇の左側を吊り上げて微笑んだ。どことなく人を食ったような笑みだが、これが飾らないアルヴィーゼ・コルネールの表情なのだろう。サゲンはこの隣国の公爵に好感を持った。
「君のところのじゃじゃ馬もなかなかのものだ。気骨がある」
サゲンは笑い声をあげた。じゃじゃ馬とは、まったく同意見だ。二人はグラスを軽く触れ合わせ、淡い琥珀色の酒を喫した。やや強い炭酸が舌を刺し、甘酸っぱい香りが口に広がった。すっきりと甘さの残らない味は彼女も気に入りそうだ。
「いい香りだ。気に入った」
「それはよかった。そちらは、収穫はあったかな」
「ええ、多少。南エマンシュナの造船業者についての噂を聞いたことは?」
「誰ぞが狐につままれたと吹聴して回っていたというあれか」
「さよう。貴下はどう思われる」
「信憑性に乏しい。恐らく実在しないだろう」
アルヴィーゼはきっぱりと言った。だが、サゲンは納得しなかった。
「しかし、それならば何故銀行家が言うように巨額の金が動いている?」
「俺が言っているのは、造船業者は実在しないということだ。金は存在している」
サゲンが意味を図りかねて顔をしかめた時、二人の間にイオネが顔を出した。
「あら、それって幽霊会社のこと?不穏な話をしているのね。それ、わたしにもちょうだい。喉が渇いたわ」
イオネはアルヴィーゼからグラスをひょいと取り上げ、二口飲んで再びアルヴィーゼにグラスを押し付けると、同じグラスを持つサゲンににっこりと笑いかけた。
「うちのシードル、おいしいでしょう。ルドヴァンで穫れるリンゴの品種に合うように領内の農学の教授やリンゴ農家や酒造家の人たちと協力して実験を重ねたのよ。まずは土壌の成分を…」
「イオネ」
とアルヴィーゼが苦々しげに遮った。自慢のシードルの製造過程をこのまま喋らせ続けたら、最低でも三時間は終わらないだろう。
「教え子の様子を見に行ったんじゃなかったのか」
「あ、そうそう」
目的を思い出したイオネが心底おかしそうにくすくす笑い出した。
「リンドさんたら、なかなかやるのよ。誰に教わったのかしら」
サゲンの顔から礼儀正しい微笑が消えた。なんとなく嫌な予感がする。
「彼女は何を?」
「もちろん、情報集めよ。傍目にはただのお喋りだったけど。それも、大勢の男性を手玉に取って、全員から一度に話を聞いているみたい。彼女、人の表情を読むのが上手なのね。とても効率がいいわ」
「どこです」
「隣のサロンよ」
サゲンは「失礼」と言い残し、脇目も振らず隣のサロンへと足早に向かって行った。残されたイオネはここで初めて気が付いたように、ハッと手を口に当てた。
「リンドさんと微妙な関係の男性って、バルカ子爵のことだったのね」
アルヴィーゼは呆れたような溜め息を隠そうともせず、苦笑して妻の顔を見た。
「お前はもう少し男女のことについて勉強する必要があるな。こういうことに関しては助手の若造の方がよほど勘が働くぞ」
「そんなことないわ。バシルは確かに勘がいいけど、まだ十八歳なのよ」
自分から見れば少年とも言える年頃の助手と比べられたイオネは、心外だと言わんばかりに頬を膨らませた。
「なら、あいつらがもう寝たということにも気付いたよな」
「‘あいつら’だなんて、口が悪いわね。でも…、本当に?子爵本人から聞いたの?じゃあ、彼女がついこの間悩んでいたことは解決したということかしら」
イオネは夫の口の悪さを責めながら、好奇心に勝つことができなかった。アルヴィーゼはいつになく他人のことで饒舌になる妻をおかしく思い、悪童のように笑った。
「まあ、見ていろ。こういう時のために廊下の奥の空き部屋を毎回掃除させているんだ」
「はあ?」
イオネはまったく意味が分からないという顔でアルヴィーゼを見た。
サゲンが隣のサロンへ足を踏み入れた時、最初に目に飛び込んできたのは男ばかりの人だかりだった。一際豪勢なソファの周りに若年から中年の男たちが集まり、何やら誰かの気を引こうとしているらしい。中には頼まれもしないのに、飲み物を運んでくる者やオットマンを用意する者までいる。姿は見えないが、中心にいる人物は明らかにアルテミシアだ。周りを取り囲む男たちの脚の隙間から、珊瑚色のドレスの裾が見えている。
「…ですから、わたくしの理想はヒディンゲル閣下のような方ですの」
と、信じられないほど甘ったるい声色が聞こえてきた。いつもの声色とは似ても似つかないが、サゲンには分かる。アルテミシアの声だ。彼女のこんな話し方は聞いたことがない。何故か胸がざわざわした。
「とても興味深いことに、他とは全く違った面白い商いをなさっていて、たいへんな利益を上げていらっしゃると伺ったものですから。一度お目に掛かりたいと存じているのですけれど、ひとつ問題が…」
アルテミシアは初めての試みながらなかなか巧くやれていると自負していた。どこからどう聞いても金持ち目当ての尻軽女の話しぶりだ。なよなよと科を作る仕草も、先日の宴で女性たちを観察した結果だ。我ながら板についている。男性――特に地位ある者は、こういう女性に気が大きくなる傾向があるのは知っている。
「なんです?マダム・リンド」
(ほらね、きた)
脂っぽい顔の中年の貴族が、身を乗り出して先を促した。アルテミシアは困ったように眉を下げ、睫毛をパチパチさせて目を伏せた。これは白髭さんの令嬢、レナータの真似だ。
「ヒディンゲル閣下のところへ行くには、南エマンシュナの海域を通る必要があるようなのです。でも、近頃は不審船や海賊が出るとか。わたくしのような未亡人が一人で行くには危険すぎる場所ですから、困っておりますの。どなたか良い方法をご存じないかしら?」
「そんな田舎者より、わたしの方があなたを満足させて差し上げられますよ」
と、中央から自信たっぷりの若い男が進み出た。身なりは良く、どこかの大店の子息か若旦那といったところだろう。目がパッチリ大きく、そこそこのハンサムだが、笑った時に見えるひどいすきっ歯が容姿の邪魔をしている。
「あら、あのヒディンゲル閣下をご存知?」
「存じ上げませんが、ここにいる誰も名を知らない者など、大した者ではないでしょう。わたしの船なら、あなたの仰る南エマンシュナの海域も安全に航海して差し上げられますよ」
すきっ歯の男は図々しくアルテミシアの隣に陣取った背の低い紳士に片目を瞑って挑発して見せ、ソファの反対側にどかっと腰掛けると、アルテミシアの手を取って甲に口付けした。
すぐさま手を洗いたくなったが、アルテミシアは艶然と微笑む表情を崩さずに耐えた。この集中力が切れたら、この男の哀れな前歯をもっと惨めにしてしまうかもしれない。
「まあ」
と、嬉しい驚きを隠せないと言った様子で感嘆し手を胸に当てると、男たちの視線が一斉にそこへ集まった。あまりの単純さにおかしくなってくる。
「不審船や海賊が多いと伺いましたわ。どのように航海なさるおつもり?」
周りの男たちが「いやいや、あの海域はやめた方がいい」、「うちの船が使う海路なら、もっと速いし安全ですよ、マダム」などと口々に言ってアルテミシアの興味を引こうとする中、若い男はアルテミシアの耳に顔を寄せ、周りに聞こえない程の小さな声で言った。
「ここだけの話ですが、うちにはツテがあります。あそこは金さえ払えば安全です。もちろん、大金ですがね。うちにはその財力がある。それに、わたしには十分な若さが」
アルテミシアの目がきらりと輝いたのをサゲンは遠巻きに大人しく見ていたが、内心では腑が煮えくりかえる思いだった。当の本人は知らぬ男に擦り寄られても魅力的な笑みを絶やさず、白い胸元に男たちの不埒な視線を集めている。ここに来るまではサゲンしか知らなかったその肌に。
「その話、是非とも詳しく聞きたいわ」
男は得たりと隙間の空いた歯を輝かせて微笑み、アルテミシアの肩を抱いて自分の方へ引き寄せた。今度はアルテミシアも眉を寄せた。が、不快感を悟られないうちに表情を取り繕った。
サゲンは今にも堪忍袋の緒が切れそうだった。汚い手をどけろと怒鳴りつけ、思い切り殴り飛ばしてやりたい。
「では、マダム・リンド。こういうのはいかがでしょう?わたしと二人だけでその話をするというのは。なにしろ、内密な話なので大勢がいるところではとてもお話しできそうにない」
「結構よ」
アルテミシアは殊更にっこりと甘い微笑をして見せた。二人きりの方が、こちらも都合がいい。周囲の男たちが残念そうな唸り声を上げる中、男の差し出した腕に手を添えてサロンを後にした。
(これは――)
サゲンは無意識のうちに拳を握りしめていた。理性的に考えれば、これは彼女の策略のうちだ。追い掛けて行って相手を殴りでもしたら彼女の労力を無駄にすることになる。
が、どうしても大人しく足を床に着けたままではいられなかった。冷静な思考が身体を止める前に、脚が勝手に動き出していた。
サロンを出たサゲンは、大勢の招待客が出入りする廊下の奥を行く二人の後ろ姿を足早に追った。
(あの野郎)
男はまるで娼婦にでもするように、アルテミシアの腰に腕を巻きつけていた。この時、サゲンの頭にはいち早くアルテミシアからあのマヌケを引き離すことしかなかった。
(任務など糞食らえ)
男は人気のない客間らしいドアを開け、アルテミシアの腰を抱きながらその奥に消えた。
――数秒後のことだ。
サゲンが扉を開けて最初にその視界に飛び込んできたのは、暗い部屋の床に這いつくばって苦痛に顔を歪めたあのすきっ歯の男だった。その背後にアルテミシアがのしかかり、腕を捻り上げている。その目にはたっぷりと嫌悪と軽蔑がこもっていた。
アルテミシアはサゲンに気付くと、悪戯を見つかった子供のような顔になった。先ほどまでの妖艶な女性とは全くの別人だ。
「あ…。もう少し穏便にやるつもりだったんだけど、あんまりべたべた触ってくるからちょっと、…嫌になって」
サゲンはニヤリと皮肉な笑みを浮かべ、部屋の前の廊下を照らすランプをひとつ拝借してから静かに扉を閉めた。小さいながら灯りが入ったおかげで、すきっ歯の男の顔がよく見える。蒼白だ。こういうことをされるのに慣れていないのは一目瞭然だった。
サゲンはランプを手近にあったローテーブルに置くと、扉に寄りかかって腕組みをし、アルテミシアに主導権を譲って動向を見守ることにした。
「あんた、ヒディンゲルを知っているね」
心を銛で突き刺すように冷ややかな声だった。甘い声で誘惑をしてきた先程までの女性と同じ人物とは、とても思えない。男は混乱したようだった。
「し、知らないと言ったはず…」
男が悲鳴を上げた。アルテミシアが腕をぎりぎりと更に捻り上げたからだ。
「ヒディンゲルを‘田舎者’と言ったよね。わたしはそんなことは一言も言ってない。それからあんたはわたしの気を引くために自分の若さを強調した。ラウル・ヒディンゲルが老人だって知ってたから。それに、南エマンシュナを安全に航海するツテとやらについても詳しく教えてもらう。コルネール公爵の屋敷で事を荒立てたくないでしょう」
最後の一言は思い切り甘い声で言ってやった。
彼らは持っている中でいちばん高価なものを身につけ、或いは従者に持たせて参上していた。多くの勲章を胸に輝かせている貴族も多くいるが、彼らもサイドビジネスとして商いを営んでいるに違いない。爵位や地位だけでは、懐は温まらないというのが彼らの現状だ。彼らは領地や自分の家を豊かにするため、生まれ持った者は商才を遺憾なく発揮し、そうでない者は有用な者を雇ってビジネスを展開しているのだ。
無論、十分な資本金があったとしても全ての者が成功するわけではない。貿易業は莫大な富を手に入れることができても、その分リスクが大きい。海上はとにかく事故が多い。思わぬ荒天に船が難破することもあれば、海賊による襲撃で積荷と人夫もろとも奪われてしまうこともある。そのようなことが起こった場合、儲けがなくなるだけではなく船員の家族への賠償のほか、取引先や顧客への賠償などで莫大な費用がかかり、経営者とその家族は路頭に迷うことになる。実際に、それらが理由で没落した貴族や商人などは掃いて捨てるほどいるのだ。
そういう憂き目に遭わないために、同業者間での情報交換はかなり重要視される。どの海域でより安全に航海できるか、取引先の国の経済状況の微細な変動や政治の内情なども、大きな収穫になるのだ。それも、コルネール公爵家主催の集まりであればそれだけで招待客は信頼の置ける一流の財界人ということになるから、今夜の夜会はただの夜会以上の意味を持っている。
アルテミシアは事前に当たりを付けていた。
先日の宴の時に聞いた、最近になってえらく羽振りの良くなったという造船業者に関することだ。これがもし海賊と繋がっているのであれば、どの海域のどのルートを使っているのかを割り出せるかもしれない。
初めに目を付けたのは、サロンの窓際に用意されたテーブルの周りで歓談する五、六人ほどの貴婦人たちだ。どこの誰の金回りが近頃良くなったなどの話には、家長よりも妻たちの方が精通していることが多い。今も、テーブルに用意されたケーキや菓子を味わいながら、誰かの噂話で高笑いを響かせている。問題は、どのように彼女たちと打ち解けるかだ。人の噂と流行に敏感でお洒落に余念のない上流階級の奥方たちは、アルテミシアが今まであまり相手にしたことがない種類の人間だ。彼女たちに取り入るには、最初の一言を選ばなければならない。
あれこれと考えを巡らせるアルテミシアを尻目に、貴婦人たちに先に声を掛けたのはサゲンだった。
「失礼、ご夫人方。そちらのケーキを取らせて頂いても?」
と、サゲンは爽やかに微笑んだ。イグリの貴公子然とした笑みにも負けていない。
奥方たちは噂話をやめ、しきりに扇子でパタパタと顔を仰ぎ始めた。長く見せるために炭を塗った睫毛をパチパチさせ、科を作るようにうっとりと微笑んで見せた。彼女たちが精悍な美丈夫の性的魅力に食らいつく様は、まるでアザラシを見つけたサメのようだった。
「おすすめは?」
とサゲンが白い歯を見せると、奥方たちは一斉に口を開き、いくつかの菓子を口々に勧め始めた。
(ははあ)
アルテミシアは感心した。サゲンはアルテミシアの予想よりもはるかに自分の魅力をよく理解している。今はそれを職務のために最大限に行使しているのだ。
ここはサゲン一人の方が都合が良いだろう。連れの女がいればいらぬ敵対心を呼び起こしかねない。そうなれば、聞けるかもしれない話が聞けなくなってしまう恐れがある。アルテミシアは少し離れた場所からサゲンにウインクしてひらりと手を振り、唇の動きだけで「そっちは任せた」と合図を送った。
(それにしても、大男とケーキとはおかしな組み合わせ)
美しいが厳しい顔つきのサゲンが貴婦人に囲まれてケーキを頬張る光景を想像し、笑いがこみ上げてきた。上手く彼女たちから話を聞き出してくれるだろう。彼女たちが重要なことを知らなかったとしても、些細な情報が手に入るかもしれない。
それに、こちらとしてもサゲンから離れている方が好都合だ。側にいるだけで、馬車での行為を身体が思い出してしまう。今も爪先に残った小さな疼きがアルテミシアの神経をくすぐっているのだ。アルテミシアは小さくかぶりを振って頭からそれを追い出し、大サロンから更に奥の部屋へと進んで行った。
こちらはどうやら珍しい品を持った者たちが集まっているらしい。嗅いだことのない異国の煙草や甘ったるい酒のにおいがする。様々な国の人々が大小のトランクや宝石箱から互いのコレクションや主力商品を見せ合い、これはどの国のどの地方だけで生産されているとか、異大陸のどこから独自のルートで仕入れたものだとかいう話をしていた。小さいながら、最先端のものが集まる品評会のようだった。
アルテミシアは南エマンシュナ産のワインや嗜好品を多く扱う恰幅の良い中年の紳士のトランクの前で立ち止まり、いかにも買い付けようとするような目付きで吟味し始めた。ざっと計算したところでは、このトランク一つで小さな屋敷くらいなら一棟建つだろう。この手の計算はバルバリーゴの下で毎日のようにやっていたから、得意分野だ。
「ごきげんよう、マダム…」
「リンドですわ、ムシュー」
「マダム・リンド。南エマンシュナのワインがお好きですかな?美しいあなたのためなら、一本開けさせていただきますよ」
と、中年の紳士は肉の厚い髭面に好色そうな笑みを浮かべた。アルテミシアは不快感を持ったが表に出さず、にっこりと微笑んだ。
「まあ、お優しいのですね」
中年の紳士がワインを開けようとしたところで、近くにいた別の背の低い紳士が口を挟んだ。
「南エマンシュナはワインも絶品ですが、実はシードルも有名なのをご存知ですか、マダム?」
背の低い紳士は人当たりの良さそうな仕草でアルテミシアに一際豪華なソファをすすめ、自分も隣に腰掛けるとそれとなく肩に触れてきた。
反射的に攻撃しそうになったが、これも拳を握りしめたところで思い留まった。
(なるほど、これも戦略か)
アルテミシアもサゲンに倣い、自分の女性としての魅力を有効活用することにした。夜会の目的を知っているエラとケイナは、恐らくこういうことを見越して胸の大きく開いたドレスを選んだのだろう。
(やってやろうじゃないの)
アルテミシアは二日前の宴で数多くの貴婦人たちがしていたように、ちょっと顎を引いて小首を傾げ、唇をにっこりと吊り上げて笑って見せた。
サゲンは世間の事情に通じた夫人たちの話にいちいち相槌を打ちながら、運が良かったと感じていた。この中のリーダー格の女性が、名の知れた銀行家の奥方だったからだ。それも、個人向けではなく、商売を生業とする人々専門の銀行だ。本来であれば部外者には固く口を閉じるであろう顧客の内情を、サゲンが海軍の責任者であることを告げると、安心したのかぺらぺらと喋ってくれた。
アルテミシアが狙った通り、エマンシュナの南方が怪しい。南エマンシュナのごく一部の地域で、二、三年前には誰も名前を知らなかった男が造船業者として財を成しているという。あるエマンシュナの貿易商がその業者に興味を持ち、南エマンシュナへはるばる五日掛けて出向き、商談を持ちかけようとしたのだが、目的の人物に会えなかったどころか、あるはずの造船所にさえ辿り着けなかったという。その貿易商は自らの失敗談を軽快で奇妙な冒険譚として酒席の肴にしたというが、銀行家の奥方はしきりに豊満な胸を押さえ、少々大袈裟に恐怖する様子をサゲンに見せた。取り巻きの奥方たちも扇子をパタパタさせ、或いは閉じた扇子で額を押さえながらいかにもぞっとした様子を見せていたが、噂好きな彼女たちの目は、仕草とは裏腹にぎらぎらと輝いている。
サゲンは三つ目のケーキを勧められる前に礼儀正しく奥方たちの元を立ち去ることにした。まずまずの収穫だ。
アルテミシアの姿を探してぐるりと周りに視線を巡らせると、主催のコルネール公爵夫妻が招待客一人一人に声をかけて回っているのが見えた。アルテミシアの言うように、遠目から見ても似合いの美男美女だ。おまけに二人ともおそろしく頭が切れる。しかしサゲンがおもしろいと思ったのは、礼儀正しく適度な微笑を絶やさないコルネール公爵とは対照的に、公爵夫人が必要以上に笑わないということだった。彼女の立場を考えれば別段愛想笑いなど必要ないだろうが、それにしてもハッキリしている。彼女の目は相手の人物評をそのまま物語っているようだ。今挨拶を交わしているひょろりとした商人は、幸いなことに嫌われてはいないらしい。
(この師にあの弟子ありか)
利かん気のアルテミシアを思い、思わず笑いがこみ上げてきたが、ちょうどその時アルヴィーゼ・コルネールがこちらに気付いて近付いてきたので軽く咳払いして胡麻化した。
アルヴィーゼ・コルネールは妻から離れて使用人から緑色のボトルを受け取り、手ずから中身をグラスに注いでサゲンに渡した。
「かたじけない」
「領内で造ったシードルだ」
「ルドヴァンでシードルを造っているとは、存じ上げなかった」
サゲンはアルヴィーゼからボトルと空のグラスを受け取り、アルヴィーゼの分も注いで手渡した。
「ここ五年ほどで始めた事業だ。イオネが嫁いで来た時にルドヴァンのリンゴをいたく気に入ってな。これで酒を造れと言うのでやってみたら、良いビジネスになった」
「本当に聡明な奥方だ」
アルヴィーゼは唇の左側を吊り上げて微笑んだ。どことなく人を食ったような笑みだが、これが飾らないアルヴィーゼ・コルネールの表情なのだろう。サゲンはこの隣国の公爵に好感を持った。
「君のところのじゃじゃ馬もなかなかのものだ。気骨がある」
サゲンは笑い声をあげた。じゃじゃ馬とは、まったく同意見だ。二人はグラスを軽く触れ合わせ、淡い琥珀色の酒を喫した。やや強い炭酸が舌を刺し、甘酸っぱい香りが口に広がった。すっきりと甘さの残らない味は彼女も気に入りそうだ。
「いい香りだ。気に入った」
「それはよかった。そちらは、収穫はあったかな」
「ええ、多少。南エマンシュナの造船業者についての噂を聞いたことは?」
「誰ぞが狐につままれたと吹聴して回っていたというあれか」
「さよう。貴下はどう思われる」
「信憑性に乏しい。恐らく実在しないだろう」
アルヴィーゼはきっぱりと言った。だが、サゲンは納得しなかった。
「しかし、それならば何故銀行家が言うように巨額の金が動いている?」
「俺が言っているのは、造船業者は実在しないということだ。金は存在している」
サゲンが意味を図りかねて顔をしかめた時、二人の間にイオネが顔を出した。
「あら、それって幽霊会社のこと?不穏な話をしているのね。それ、わたしにもちょうだい。喉が渇いたわ」
イオネはアルヴィーゼからグラスをひょいと取り上げ、二口飲んで再びアルヴィーゼにグラスを押し付けると、同じグラスを持つサゲンににっこりと笑いかけた。
「うちのシードル、おいしいでしょう。ルドヴァンで穫れるリンゴの品種に合うように領内の農学の教授やリンゴ農家や酒造家の人たちと協力して実験を重ねたのよ。まずは土壌の成分を…」
「イオネ」
とアルヴィーゼが苦々しげに遮った。自慢のシードルの製造過程をこのまま喋らせ続けたら、最低でも三時間は終わらないだろう。
「教え子の様子を見に行ったんじゃなかったのか」
「あ、そうそう」
目的を思い出したイオネが心底おかしそうにくすくす笑い出した。
「リンドさんたら、なかなかやるのよ。誰に教わったのかしら」
サゲンの顔から礼儀正しい微笑が消えた。なんとなく嫌な予感がする。
「彼女は何を?」
「もちろん、情報集めよ。傍目にはただのお喋りだったけど。それも、大勢の男性を手玉に取って、全員から一度に話を聞いているみたい。彼女、人の表情を読むのが上手なのね。とても効率がいいわ」
「どこです」
「隣のサロンよ」
サゲンは「失礼」と言い残し、脇目も振らず隣のサロンへと足早に向かって行った。残されたイオネはここで初めて気が付いたように、ハッと手を口に当てた。
「リンドさんと微妙な関係の男性って、バルカ子爵のことだったのね」
アルヴィーゼは呆れたような溜め息を隠そうともせず、苦笑して妻の顔を見た。
「お前はもう少し男女のことについて勉強する必要があるな。こういうことに関しては助手の若造の方がよほど勘が働くぞ」
「そんなことないわ。バシルは確かに勘がいいけど、まだ十八歳なのよ」
自分から見れば少年とも言える年頃の助手と比べられたイオネは、心外だと言わんばかりに頬を膨らませた。
「なら、あいつらがもう寝たということにも気付いたよな」
「‘あいつら’だなんて、口が悪いわね。でも…、本当に?子爵本人から聞いたの?じゃあ、彼女がついこの間悩んでいたことは解決したということかしら」
イオネは夫の口の悪さを責めながら、好奇心に勝つことができなかった。アルヴィーゼはいつになく他人のことで饒舌になる妻をおかしく思い、悪童のように笑った。
「まあ、見ていろ。こういう時のために廊下の奥の空き部屋を毎回掃除させているんだ」
「はあ?」
イオネはまったく意味が分からないという顔でアルヴィーゼを見た。
サゲンが隣のサロンへ足を踏み入れた時、最初に目に飛び込んできたのは男ばかりの人だかりだった。一際豪勢なソファの周りに若年から中年の男たちが集まり、何やら誰かの気を引こうとしているらしい。中には頼まれもしないのに、飲み物を運んでくる者やオットマンを用意する者までいる。姿は見えないが、中心にいる人物は明らかにアルテミシアだ。周りを取り囲む男たちの脚の隙間から、珊瑚色のドレスの裾が見えている。
「…ですから、わたくしの理想はヒディンゲル閣下のような方ですの」
と、信じられないほど甘ったるい声色が聞こえてきた。いつもの声色とは似ても似つかないが、サゲンには分かる。アルテミシアの声だ。彼女のこんな話し方は聞いたことがない。何故か胸がざわざわした。
「とても興味深いことに、他とは全く違った面白い商いをなさっていて、たいへんな利益を上げていらっしゃると伺ったものですから。一度お目に掛かりたいと存じているのですけれど、ひとつ問題が…」
アルテミシアは初めての試みながらなかなか巧くやれていると自負していた。どこからどう聞いても金持ち目当ての尻軽女の話しぶりだ。なよなよと科を作る仕草も、先日の宴で女性たちを観察した結果だ。我ながら板についている。男性――特に地位ある者は、こういう女性に気が大きくなる傾向があるのは知っている。
「なんです?マダム・リンド」
(ほらね、きた)
脂っぽい顔の中年の貴族が、身を乗り出して先を促した。アルテミシアは困ったように眉を下げ、睫毛をパチパチさせて目を伏せた。これは白髭さんの令嬢、レナータの真似だ。
「ヒディンゲル閣下のところへ行くには、南エマンシュナの海域を通る必要があるようなのです。でも、近頃は不審船や海賊が出るとか。わたくしのような未亡人が一人で行くには危険すぎる場所ですから、困っておりますの。どなたか良い方法をご存じないかしら?」
「そんな田舎者より、わたしの方があなたを満足させて差し上げられますよ」
と、中央から自信たっぷりの若い男が進み出た。身なりは良く、どこかの大店の子息か若旦那といったところだろう。目がパッチリ大きく、そこそこのハンサムだが、笑った時に見えるひどいすきっ歯が容姿の邪魔をしている。
「あら、あのヒディンゲル閣下をご存知?」
「存じ上げませんが、ここにいる誰も名を知らない者など、大した者ではないでしょう。わたしの船なら、あなたの仰る南エマンシュナの海域も安全に航海して差し上げられますよ」
すきっ歯の男は図々しくアルテミシアの隣に陣取った背の低い紳士に片目を瞑って挑発して見せ、ソファの反対側にどかっと腰掛けると、アルテミシアの手を取って甲に口付けした。
すぐさま手を洗いたくなったが、アルテミシアは艶然と微笑む表情を崩さずに耐えた。この集中力が切れたら、この男の哀れな前歯をもっと惨めにしてしまうかもしれない。
「まあ」
と、嬉しい驚きを隠せないと言った様子で感嘆し手を胸に当てると、男たちの視線が一斉にそこへ集まった。あまりの単純さにおかしくなってくる。
「不審船や海賊が多いと伺いましたわ。どのように航海なさるおつもり?」
周りの男たちが「いやいや、あの海域はやめた方がいい」、「うちの船が使う海路なら、もっと速いし安全ですよ、マダム」などと口々に言ってアルテミシアの興味を引こうとする中、若い男はアルテミシアの耳に顔を寄せ、周りに聞こえない程の小さな声で言った。
「ここだけの話ですが、うちにはツテがあります。あそこは金さえ払えば安全です。もちろん、大金ですがね。うちにはその財力がある。それに、わたしには十分な若さが」
アルテミシアの目がきらりと輝いたのをサゲンは遠巻きに大人しく見ていたが、内心では腑が煮えくりかえる思いだった。当の本人は知らぬ男に擦り寄られても魅力的な笑みを絶やさず、白い胸元に男たちの不埒な視線を集めている。ここに来るまではサゲンしか知らなかったその肌に。
「その話、是非とも詳しく聞きたいわ」
男は得たりと隙間の空いた歯を輝かせて微笑み、アルテミシアの肩を抱いて自分の方へ引き寄せた。今度はアルテミシアも眉を寄せた。が、不快感を悟られないうちに表情を取り繕った。
サゲンは今にも堪忍袋の緒が切れそうだった。汚い手をどけろと怒鳴りつけ、思い切り殴り飛ばしてやりたい。
「では、マダム・リンド。こういうのはいかがでしょう?わたしと二人だけでその話をするというのは。なにしろ、内密な話なので大勢がいるところではとてもお話しできそうにない」
「結構よ」
アルテミシアは殊更にっこりと甘い微笑をして見せた。二人きりの方が、こちらも都合がいい。周囲の男たちが残念そうな唸り声を上げる中、男の差し出した腕に手を添えてサロンを後にした。
(これは――)
サゲンは無意識のうちに拳を握りしめていた。理性的に考えれば、これは彼女の策略のうちだ。追い掛けて行って相手を殴りでもしたら彼女の労力を無駄にすることになる。
が、どうしても大人しく足を床に着けたままではいられなかった。冷静な思考が身体を止める前に、脚が勝手に動き出していた。
サロンを出たサゲンは、大勢の招待客が出入りする廊下の奥を行く二人の後ろ姿を足早に追った。
(あの野郎)
男はまるで娼婦にでもするように、アルテミシアの腰に腕を巻きつけていた。この時、サゲンの頭にはいち早くアルテミシアからあのマヌケを引き離すことしかなかった。
(任務など糞食らえ)
男は人気のない客間らしいドアを開け、アルテミシアの腰を抱きながらその奥に消えた。
――数秒後のことだ。
サゲンが扉を開けて最初にその視界に飛び込んできたのは、暗い部屋の床に這いつくばって苦痛に顔を歪めたあのすきっ歯の男だった。その背後にアルテミシアがのしかかり、腕を捻り上げている。その目にはたっぷりと嫌悪と軽蔑がこもっていた。
アルテミシアはサゲンに気付くと、悪戯を見つかった子供のような顔になった。先ほどまでの妖艶な女性とは全くの別人だ。
「あ…。もう少し穏便にやるつもりだったんだけど、あんまりべたべた触ってくるからちょっと、…嫌になって」
サゲンはニヤリと皮肉な笑みを浮かべ、部屋の前の廊下を照らすランプをひとつ拝借してから静かに扉を閉めた。小さいながら灯りが入ったおかげで、すきっ歯の男の顔がよく見える。蒼白だ。こういうことをされるのに慣れていないのは一目瞭然だった。
サゲンはランプを手近にあったローテーブルに置くと、扉に寄りかかって腕組みをし、アルテミシアに主導権を譲って動向を見守ることにした。
「あんた、ヒディンゲルを知っているね」
心を銛で突き刺すように冷ややかな声だった。甘い声で誘惑をしてきた先程までの女性と同じ人物とは、とても思えない。男は混乱したようだった。
「し、知らないと言ったはず…」
男が悲鳴を上げた。アルテミシアが腕をぎりぎりと更に捻り上げたからだ。
「ヒディンゲルを‘田舎者’と言ったよね。わたしはそんなことは一言も言ってない。それからあんたはわたしの気を引くために自分の若さを強調した。ラウル・ヒディンゲルが老人だって知ってたから。それに、南エマンシュナを安全に航海するツテとやらについても詳しく教えてもらう。コルネール公爵の屋敷で事を荒立てたくないでしょう」
最後の一言は思い切り甘い声で言ってやった。
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