王城のマリナイア

若島まつ

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三十一、誘惑の釣果 - pêché, fasciné -

 すきっ歯の金持ち男がすごすごと客間から退散した後も、サゲンは薄暗い部屋の中で腕組みしたまま立っていた。眉間には深々と皺が刻まれている。
「君の尋問もなかなかのものだ」
「褒めてくれてるにしては、顔が怖いけど…」
 二人きりになった途端、身体が再びじわじわと熱くなり始めた。サゲンが優雅に狩りをする獣のような静けさで距離を詰めて来る。
「べたべた触られたって?」
 サゲンは眉間に皺を寄せたままアルテミシアのほつれた髪を指で弄び、耳に掛けてやった。
 耳にサゲンの指が微かに触れると、そこがやけに熱く感じた。この僅かな接触が、馬車で味わわされた快感と奇妙な喪失感をアルテミシアの身体に蘇らせた。情報を得ることに集中し、自分ではない女を演じていた時には必死で頭の片隅に追いやっていたが、サゲンの憂いを帯びた暗い色の瞳を目にした瞬間に身体がサゲンを求め始めたようだった。
「もしかして、怒ってる?」
「いや、感服している。成果も上々だ」
 それにしては声が暗い。アルテミシアは責められているような気分になった。
「だが、あまり使って欲しくない手だな」
「あなたの手を参考にした」
「俺はケーキを食べただけだ。君がしたことは違う」
「でも、有効だったでしょう。あなたが前に自分の魅力を自覚しろって言っていたから、応用したの」
 サゲンは苛立ったように溜め息をついた。
「まったく、君という女は。一体どこで覚えたんだ。あんな――」
「尻軽みたいな真似?」
 アルテミシアが先ほど他の男たちにしていたように、伏し目がちに睫毛をパチパチさせながらいたずらっぽく笑った。
「妖艶な誘惑と言うつもりだった」
 サゲンはここでようやく渋面を崩した。唇を吊り上げ、アルテミシアの腰を抱いて首のくぼみに顔を埋めた。まんまと誘惑の罠にはまったのは自分も同じだ。普段ならアルテミシアが演じたような女性は範疇外だが、アルテミシアが見せたこともない微笑を浮かべ、蠱惑的な流し目で色っぽい視線を投げる姿は彼女に対する欲望を膨れ上がらせた。他の男たちも同じような欲望を彼女に感じていたのは疑いようもない。それがサゲンを尚更苛立たせた。
「煙草臭い」
 つい、不機嫌な声になった。
「だって煙草を輸入しているおじさんが隣にいたんだもの。あなただってあのおばさんたちの香水の匂いがついてるよ」
 反駁するアルテミシアの声はほとんど聞こえていなかった。自分の縄張りを荒らされた不快感が冷静な自分をどこかへ押しやった。
 つ、と臀部へ手のひらを滑らせると、アルテミシアが喉の奥で唸りながら熱い息を吐いた。
「なんだ」
 サゲンは揶揄するように低く笑った。
「他人の屋敷で欲情するとは、いけない子だな」
「ど、どっちが――」
 サゲンを突き離そうとしたアルテミシアの身体は一瞬のうちに柔らかい物の上に押し倒され、サゲンの身体の下に組み敷かれた。この時はまだいつの間にこの薄暗い中でベッドの位置まで確認していたのだろうかと疑問に思う余裕があったが、サゲンがアルテミシアの口を覆い隠すように唇を重ねてくると、すぐに何も考えられなくなった。
 サゲンはアルテミシアの歯の間に舌を差し入れ、上顎をなぞるように内部を蹂躙した。いつものようにアルテミシアの息が上がってくる。苦しそうな呼吸の合間に小さく喘ぐような声が混ざり、サゲンの神経を昂らせた。馬車でした時と同じようにドレスの上から胸に触れると、甘い吐息を漏らしながらアルテミシアの身体がぴくりと跳ね、手がそろそろと伸びてきてサゲンの上着の胸を掴んだ。
「俺はもうずっと君に欲情している」
 サゲンは低く囁いて布越しに硬くなったアルテミシアの胸の先端をゆっくりと指の腹で愛撫し、角度を変えて再びアルテミシアの唇に舌を挿し入れた。
 太く長い指が敏感な場所を掠める度に感度が増していく。
 それなのに、足りない。
 馬車の中で与えられた熱と喪失感は心の奥に隠れていただけで、今までずっと消えずに続いていたのだ。サゲンが言ったように、欲情しているのは自分も同じだ。他の誰かと話している時も、サゲン・エメレンスに触れて欲しくてたまらなかった。そして望み通り触れられれば、ますます欲しくなる。アルテミシアはこのもどかしさに耐えるより、自らの欲望を受け入れる方を選んだ。
「ん、はっ…、サゲン…」
「ん?」
 この先を口に出すには勇気が必要だった。アルテミシアが躊躇している間、サゲンは薄く笑みを浮かべ、胸をゆるゆると愛撫しながらその先を待っている。
「どうした」
 アルテミシアがドレスの下で脚をすり合わせ、サゲンの肩口に額を押し付けた。それだけで、サゲンの欲望も痛いほどに膨れ上がった。サゲンは胸に触れるのをやめ、手のひらで頬を撫でて親指で唇を優しくなぞった。すると、アルテミシアが焦れったそうに身を捩り、恨めしそうにサゲンを見つめた。アルテミシアの瞳が微かなランプの灯りを拾って誘うように揺らめく様は、何とも言えず、艶冶だ。
「何が欲しい」
 青灰色の瞳が暗く強い光を孕み、アルテミシアの意識を呑みこんでいく。
「馬車の続き、して…」
 サゲンの顔に悦びが広がった。
 これを待っていたのだ。随分長いこと待っていた気がする。
 震える声で自分の欲望を認めたアルテミシアに、サゲンは激しく情熱的なキスで応じた。深く、時折浅くアルテミシアの内部を探り、アルテミシアの舌をなぞっては上下の唇を吸った。手のひらは忙しなく腰から胸を上下し、急くようにスカートの裾を捲り上げてストッキング越しに膝に触れ、腿へと手を這わせた。
 地肌に触れた手が熱い。平素冷静なこの男がこれほどの情愛を示してくることには、未だに驚かされる。そして、この変貌ぶりもアルテミシアがサゲン・エメレンスを愛おしむ一つの大きな要素になっていた。
 アルテミシアもサゲンの髪に両手の指を挿し入れ、その衝動に身を任せた。自らも舌を伸ばしてサゲンの唇の間に滑り込ませ、果実酒の残り香のする舌に触れた。荒い息遣いを肌で感じる度に、衝動が大きくなっていく。もっと触れたい。暴いてほしい。
 サゲンはアルテミシアの唇を貪りながら背中に手を伸ばしてボタンを探り当て、外し始めた。
 ドレスが足元に下ろされて身に着けているものが薄絹のアンダードレス一枚になっても、アルテミシアは唇を離さなかった。
 こんな所で――とさえ、もはや思わなかった。心地良いサゲンの温度と熱情が、その先を求める以外の一切をアルテミシアに放棄させた。
「アルテミシア…上着とシャツを脱がせてくれ」
 情欲に掠れた低い声に促され、ずしりと重い上着を肩から剥ぎ取り、シャツをズボンから引き抜いて、ボタンに指を掛けた。開いた襟から手を滑り込ませて精悍な硬い胸板に触れると、何かいけないことをしているような気分になった。それなのに、止められない。もっと触れたくなる。
 胸から肩へと両手を這わせ、鎖骨をなぞってシャツをサゲンの肩から滑り落した。胸から腹へ、硬い男の筋肉の感触を楽しみながら手のひらを滑らせ、魅惑的なサゲンの胸に唇を寄せた。サゲンが喉で短く呻き、アルテミシアの髪を掴むようにして頭を抱き寄せる。興奮に自制心を失っていく様子が肌を通じて伝わり、アルテミシアをますます淫らな気持ちにさせた。身体中にキスをしたらどうなるだろう。例えば、もっと下の方に。こんな衝動が自分の中にあるということにも、今まで気付かずにいた。
「ねえ、誰か入って来たら…」
 一瞬冷静になったのは、自分の衝動の大きさに戸惑ったからだ。ただ、いつものようなはっきりした声にならず、上擦ったようになった。
「こっちに集中しろ」
 サゲンはもう一度唇を重ねてアルテミシアを黙らせ、きつく留められたアンダードレスの留め具を少々乱暴に腰まで外してずり下ろし、足元から抜き去った。サゲンは自分の身体の下で体温を上げていく美しい身体を見下ろした。ストッキングと下着とそれらを繋ぐガーターベルトのみがアルテミシアの肌に残り、ローテーブルに置かれたランプの灯りがアルテミシアの肌に柔らかく伸びている。露わになった乳房は仄暗い中で白く艶めいて見えた。ドレスと同じ珊瑚色の先端は、空気に晒されたせいか興奮のせいか、つんと立ち上がっている。恐らく両方だ。散々に貪られたアルテミシアの花びらのような唇は血色を増して腫れ、薄暗い中でも分かるほどに潤んだ瞳は明らかにもっと強い刺激を求めている。サゲンは今度は焦らさずに胸を押し上げるように触れると、物欲しそうな乳首を口に含んでやった。
「ああっ…」
 アルテミシアの細い腰がびくりと跳ねた。サゲンはもう片方の手をゆっくりともう一方の胸から鳩尾へ、更に腰へと滑らせ、アルテミシアが胸への刺激に悶えている間に、腰で結ばれている下着の紐を手早く外し、更に臍の下へと手を進ませていった。
「あ!」
 サゲンの指が中心に触れた途端、甘い衝撃が身体に走った。
「随分濡らしているな。そんなに欲しかったのか」
 いつものように羞恥と悔しさを綯い交ぜにしたような眼差しで睨め付けてくるかと思ったが、アルテミシアは甘い吐息を漏らしながらサゲンの髪にしがみつき、素直にその快感を受け入れている。
「だって、あなたが触るから…」
 サゲンが再び胸を口に含むと、アルテミシアは喉の奥で叫んで腰をうねらせた。
「俺に触れられるとこうなるのか」
「うん…」
 サゲンは口元が緩むのを抑えられなかった。舌で胸の先端を転がし、既に溢れるように濡れた場所へ二本の指を埋め、入り口の突起を親指で弄んだ。
「ああっ!」
 アルテミシアは急激に襲って来た痺れるような快感に抗えず、短く高い悲鳴を上げた。
「外に聞こえるぞ」
 そう言いながら、サゲンは手も舌も止める気配がない。それどころか、乳房を更に強く吸い、いやに水気のある音を響かせてアルテミシアの内部を掻き回し始めた。
「あ、あっ…!だめ…」
「何がだめなんだ」
 サゲンが胸元で尋ねた。熱い息が唾液で濡らされた乳首に掛かる。
「声…、抑えられない」
 今にも泣きそうな声だった。
 サゲンは唸り声を上げ、痛いほどに膨れ上がった欲望をなんとか抑えつけながらアルテミシアの唇を奪った。秘所を愛撫されて上がる嬌声はサゲンの口の中に吸い込まれ、身体の中心は蜜を増してぎゅうぎゅうと狭まり、サゲンの指を奥へと誘い込んだ。この中に入った時を想像し、焼け付くような熱が身体中を走り回った。
 サゲンの柔らかい唇が首筋に吸い付き、鎖骨へ、胸へと下りていく。サゲンの唇が触れた所から新たな快感が生まれ、全身を覆っていくようだった。口を塞ぐものがなくなったアルテミシアは唇を噛んで声を押し殺した。
 短い髪が鳩尾をくすぐり、柔らかく濡れた唇が啄ばむようなキスを繰り返して臍へ、更にその下へと下っていく。
「う、んんっ…、――あ!」
 アルテミシアが激しい快感に耐えられず高く悲鳴を上げたのは、指が埋められた場所のすぐ上にサゲンが口付けをし、熱く滑らかな舌がそこを絡めとった時だ。サゲンの舌に陰核をつつかれ、指に浅い所から奥まで抜き差しを繰り返され、鋭く甘美な衝撃に身体を震わせた。手の甲を口に押し当てて声を殺そうとしたが、喉から漏れる悲鳴は止められない。
 サゲンは柔らかい肌の下で鼓動が速くなったのを感じ取ると、アルテミシアの中心に強く吸い付き、同時に彼女がよく反応する深部を指で突いた。その瞬間、アルテミシアが一際高く叫んで腰を弓なりに反らせ、内部を収縮させながらサゲンの指を強く締め付けた。呼吸が深く速くなり、白く形の良い胸が大きく上下している。
「アルテミシア・ジュディット…」
 アルテミシアはとろんとした目で頬を撫でるサゲンを見上げた。暗い色の瞳が燃えている。
「いいか」
 そう尋ねながら、サゲンはアルテミシアの答えを待たずにズボンの前を寛げ、熱く張り詰めたそれをアルテミシアの入り口へと押し付けた。アルテミシアが呼吸を荒くしながら小さく頷いたのを確認し、それを合図に一息に挿し貫いた。
「ああっ!」
 アルテミシアは甘美な衝撃に悲鳴を上げた。自分の身体がサゲンの一部を締め付けているのが分かる。すぐ目の前にあるサゲンの顔が苦しそうに歪み、喉から歓喜の呻きが聞こえた。身体の奥に感じる肉体的な痛みが、胸が痛くなるほどの快感に淘汰されていく。
「ああ…、くそ」
 彼女の誘惑に無様なほどに自制を失い、今度はあまりの気持ち良さにすぐに果てそうになってしまった。絶頂を迎えたばかりの彼女の中は熱く、奥まで侵入してきたサゲンをきつく締め上げている。心臓まで縛り上げられたような感覚だった。
「いい、アルテミシア」
 サゲンは激しい快感に耐えながら、ゆっくりと腰を引き、もう一度アルテミシアの奥へと身体を進めた。アルテミシアが衝撃に耐えるようにサゲンの腕にしがみつき、唇を噛んで声を必死で押し殺している。サゲンは顎をつまんで下唇を解放すると、自分の唇で口を塞いでやった。
「ん、あ、サゲン…」
 甘えるような声色でアルテミシアが名前を呼び、両腕をサゲンの背に回した。サゲンは彼女の膝に自分の腕を引っ掛けて脚を大きく開かせ、さらに深くへと身を沈めて律動を速めた。
 自分の喘ぎ声に混じって淫らな音が部屋中に響いている。アルテミシアは羞恥に耐えかねて耳を塞ぎたくなった。それなのに、身体は喜んでそれを受け入れ、潤いを増している。いつ誰が入ってくるとも分からないこの場所で。――
「…ッ、なんだ」
 突然強く締め付けられたサゲンは、口元に笑みを浮かべてアルテミシアを見下ろした。アルテミシアは唇を噛み、眉を歪めて困惑の表情を浮かべている。
「音が気になるのか。それとも、場所か。確かにここは、いつ誰が入って来るか分からないな…」
 耳元で低く囁き、耳朶を舐めると、アルテミシアの身体がぶるりと震えた。
「答えなくても分かる。この音は君が興奮している証だ」
「いっ、言わないで…」
 身体の下で柔らかいアルテミシアの身体が熱くなった。それがサゲンの背筋をぞくりとさせた。
「君という女は」
 サゲンはますます強く腰を打ち付けた。こんな反応をされたのでは、とても手を緩めてやれそうにない。
 繋がった場所から甘い痺れが全身に広がり、アルテミシアの意識を白い靄の中に包み始めた。馬車の中にいた時から、これが欲しかった。この、身体の中から心地よい炎に意識を焼き尽くされるような感覚が。
「あっ、あ、サゲン…!」
 アルテミシアはサゲンの背中にしがみつき、全身を震わせて絶頂に達し、サゲンは何度か大きく腰を押し付け、その中で果てた。

 アルテミシアは自分の中で脈打つものを感じながら、大きく胸を上下させて力を抜いたサゲンの重みを受け止めた。緩く波打つ短い髪に指を差し入れて梳き、乱れた髪を直してやると、サゲンが上体を起こしてアルテミシアの身体を腕の中に収め、優しいキスをした。
 不思議だ。いつから堅物で仏頂面のサゲン・エメレンス・バルカ将軍は自分にとってこんな風に愛おしい存在になってしまったのだろう。この先この男と離れなければならない時が来たとしたら、それを受け入れることができるだろうか。
(無理かも…)
 これまでの人生でいくつかの場所を転々として来たアルテミシアは、一つの場所にずっと留まり続ける自分が想像できなかった。女王に請われて城に上がった時も、いつかはそこを去るだろうと漠然と考えていた。が、サゲンの側は違う。今はそこにいない自分が想像できない。
「何か考えているな」
 サゲンはアルテミシアの耳を食み、首筋から肩まで啄ばむようなキスをした。アルテミシアが心地よさそうに吐息を漏らし、サゲンの頬を両手で挟んでキスをねだった。サゲンは焦らすことなくアルテミシアの口を覆い、頬に触れるアルテミシアの柔らかい手に自分の手を重ねて指を絡めた。
「あなたのことを」
 唇が浮いた瞬間に蕩けるような声色でアルテミシアが囁いた。サゲンは唸ってアルテミシアの額に自分の額をくっつけ、長い溜め息を吐いた。
「…なに?」
 変なことを言っただろうかと不安になってすぐ目の前に迫ったサゲンの目を見ると、言葉を聞くよりも先に何を語っているか理解してしまった。その証拠に、まだ中に埋められたものが僅かに硬度を取り戻しつつある。
「も、もうだめ」
「分かっている。もうしない」
 サゲンはしぶしぶアルテミシアの身体を離し、ベッドの下に落とした服を集めてその中からアンダードレスを拾い上げると、アルテミシアに着せてやった。留め具を嵌めながら、これは罪深い行為だと思った。白く美しい肌を目の前から覆い隠してしまうとは、疑いようもなく罪深い。
「…今夜は俺の寝室へ」
 ランプの仄かな明かりが照らす白く滑らかな背に、吸い寄せられるように唇を付けた。アルテミシアへの欲望は、一晩に一度抱いただけではとても解消できない。サゲンがこれほど女の身体に溺れるなど、今までになかったことだ。自分でも戸惑うほどだった。
 アルテミシアはぴくりと肌を震わせ、怯えたように後ろを振り返った。彼女が何が言いたいのかは、サゲンも承知している。
ここでは・・・・、もうしないと言ったんだ」
「スケベ」
「君がそうさせるんだ」
 サゲンはまだ文句を言い足りない様子の可憐な唇を後ろから塞いだ。

 身繕いを終えた二人はそっと客間を出た。扉を開けるときにサゲンが内鍵を外したので、アルテミシアは咎めるような視線をサゲンに送った。サゲンはそれを機嫌よく横目で受け取り、口元を綻ばせた。
「いつの間に!鍵をかけたならそう言ってくれれば…」
 と、その時、奥から色とりどりのケーキを盆に乗せた使用人が現れてにこやかに頭を下げながら壁際に寄ったので、アルテミシアは頬を赤く染めながら口を噤んだ。サゲンが隣で微かに「フ」と笑みを漏らしたのを聞き、アルテミシアは肘でサゲンの硬い脇腹を小突いた。
 サロンではまだ大勢の客が極上の料理に舌鼓を打ち、それぞれに商談や情報交換をしているようだった。あのすきっ歯の紳士はとうに帰ったらしい。それもそうだ。あんな目に遭ってこの場に留まる方がどうかしている。
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 公爵夫妻は庭園で夫婦で来ているらしい若い招待客と話をしていたが、サゲンとアルテミシアに気付くと会話を切り上げ、こちらへやって来た。
「終わったか」
 アルヴィーゼが無表情で尋ねた。
 アルテミシアは何故かギクリとして顔を赤らめたが、サゲンは礼儀正しい微笑を浮かべて答えた。
「コルネール公、今宵の招待に改めて感謝する」
 質問の意図を取り違えてしまったアルテミシアは、居心地の悪さを隠すために口元だけで笑顔を作って見せた。
「どこぞの大店の息子らしいすきっ歯の若造は、出入り禁止にした方がいい。違法な薬物に手を出している」
「覚えておこう」
 サゲンの忠告に、アルヴィーゼは薄く笑みを浮かべて頷いた。
「リンドさん、素晴らしかったわ」
 イオネも夫と同じくにこりともせずに言った。彼女のこういう口調は久しぶりだ。論文を初めて褒められた時を思い出した。が、何を褒められているのか分からない。
「三年もあなたを教えていたのに、わたしったら学生のことをあまり知らなかったのね。あなたに舞台女優の才能があったなんて」
 アルテミシアは思わずニヤリとした。
「ご覧になっていたんですね」
「ええ。なかなか面白かったわ」
 イオネが目を細め、美しい笑顔を見せた。
「お暇する前に、ひとつ伺いたいのですが、コルネール公」
 アルテミシアは思い出したようにアルヴィーゼの顔を見た。
「どうして協力してくださる気になったんですか?」
「イノイルの将軍に恩を売っておくのも悪くないからな」
 アルヴィーゼが白々と言い放つと、サゲンは片眉を上げ、歯を見せて笑った。
「ならば、いつかご恩に報いよう」
「そうしてくれ」
「それだけ?」
 アルテミシアは意外に思ってイオネの顔を見た。イオネは呆れたように苦笑しながら肩を竦めた。夫が真意を他人に明かさないのは、よく知っている。
 最後にイオネは、サゲンに向かって予想外のことを言った。
「バルカ子爵殿。リンドさんのことをよろしく頼むわね。この子って、何というか、遡上する鮭みたいなところがあるの。まあ、ご存知でしょうけど…。学生の時からよ」
 サゲンは一瞬目を丸くした後、堪えきれずに笑い声を響かせた。
「ハッハハ!遡上する鮭とは!」
 アルテミシアは耳を塞ぎたくなったが、もう遅い。恩師を咎めることもできず、顔を真っ赤にして口をパクパクさせた。アルヴィーゼもおかしかったらしく、イオネの隣で口元を歪めている。
「アリアネ先生~…」
「だって、本当のことだもの」
 イオネは大真面目だ。アルテミシアをそっと抱きしめた。
「無茶なことはしないでちょうだい。先生からのお願いよ」
 ――と、ここで全く予定外のことがあった。公爵夫妻の元を辞去しようとした二人を呼び止めた者がいたのだ。
「もし、お嬢さん」
 そう言ってにこやかに話し掛けてきたのは、先程窓際に座っていた老婦人だ。真っ白な髪を後ろでまとめ上げ、明るい紫色のエマンシュナ風のドレスを纏っている。
「ゴーティエ侯爵夫人」
 イオネはアルテミシアを離し、老婦人に挨拶をした。ゴーティエ侯爵夫人もイオネの手を取ってにこにこと挨拶をすると、アルテミシアの顔をじっと見つめた。人の良さそうな、温和な顔だ。
「あなたがマダム・リンド?」
「はい。初めまして、ゴーティエ侯爵夫人」
 アルテミシアが片膝を後ろに下げて礼をすると、ゴーティエ侯爵夫人は何故か嬉しそうにいっそう目尻の皺を深くした。
「あらあ、やっぱり。よく似ているわ」
 アルテミシアは何のことかと首を傾げ、イオネとアルヴィーゼの顔を交互に見た。しかし、当然ながら二人ともアルテミシアと同じく心当たりがないらしい。
「あなた、リンド先生のお嬢様でしょう?すぐに分かったわ。お顔立ちが本当にそっくり。お父様はお元気?ナヴァレにいたうちの次男が大怪我をしたときには、とってもお世話になったの」
「それは――」
 何かの勘違いだ、と言おうとしたところで、老婦人の息子らしい鳶色の髪の紳士がサロンの奥から足早にやって来た。
「お母様!探しましたよ」
 紳士の胸にはエマンシュナ海軍であるナヴァレのイルカを象った勲章が輝いている。
「これは、コルネール公爵と奥方様」
 息子は慌てた様子で二人に礼をし、アルテミシアとサゲンにも控えめな笑顔を見せた。
「今、リンド先生のお嬢様にご挨拶をしていたのよ」
 アルテミシアは老婦人の言葉を否定しようとしたが、その必要はなかった。
「え…、こちらのお嬢さんが?まさか、お母様。勘違いですよ。リンド先生には十代の息子さんが二人いるだけですから。本人から聞いたのですから、間違いありません」
 ゴーティエ夫人の息子は苦笑いするアルテミシアを見て、困惑した様子で母に言ったが、母親の方は「あら、そうなの?」とのんびり言っただけで、まだ納得いっていない様子だった。
「じゃあ、きっと親戚筋ね。姓も一緒だし、こんなにそっくりなのだもの」
「お母様ったら。皆さんが困っているじゃありませんか。ほら、もう薬の時間でしょう。馬車が門で待っていますよ」
 息子に優しく促され、老婦人は息子の後ろに控えていた使用人の手を取ってにこやかにその場を去った。
「皆さん、うちの母がすみません。どうも昔から早合点の多い人で…。お気を悪くされていないとよいのですが」
「とんでもない」
 アルテミシアは慌てて言った。
「笑顔が素敵なお母様だわ。お大事になさって」
 イオネがそう言うと、紳士ははにかんだように笑い、アルヴィーゼに丁重な挨拶をして辞去した。

「では、俺たちもそろそろお暇しよう」
「ああ、うん」
 サゲンに促され、アルテミシアはたった今意識を取り戻したようにコルネール邸を後にした。
 アルヴィーゼは妙に口数の少なくなったイオネと共に二人を見送った後、考え事に耽った様子の妻の顔を見た。
「…お前の考えていることはだいたい分かるぞ」
 イオネは美しい菫色の瞳をアルヴィーゼに向け、頭をぽん、とアルヴィーゼの肩にもたせかけた。
 結婚して既に五年経つが、平素権高で生真面目な妻が時折見せるこういうしどけない仕草は、未だに時と場所を問わずアルヴィーゼの身体を熱くさせる。アルヴィーゼは緩く結われた柔らかい髪を撫で、それを乱してしまいたい衝動と闘った。
「お願いを聞いてくれるかしら、旦那様?」
 イオネは蠱惑的な仕草でアルヴィーゼの首に腕を巻きつけた。
 まったくこの女には敵わない。アルヴィーゼは周囲の招待客の目も気にせず、イオネの腰を抱いてのしかかり、妻のふっくらした唇に熱烈な口付けをした。いつものイオネなら時と場所を考えろと言って振り解こうとするところだが、今日は素直に身を委ねている。普段なら一人で何でもこなそうとする彼女が珍しく夫にお願い事をする時は、決まってこうだ。そしてアルヴィーゼもまた、妻に手玉に取られることを楽しんでさえいる。
「…夜会はお開きにする。続きは寝室で聞こう」
 アルヴィーゼがイオネの耳元で囁くと、イオネは頬を染めながらくすくすと笑い出した。
「その前に子供たちにおやすみ前の本を読んであげなくちゃ」
 母となってもなお男たちを魅了するその魅惑的な唇に、アルヴィーゼは所有権を誇示するようにもう一度口付けをした。
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