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三十三、豆挽く女王 - Caffè fatto in Palazzo -
次の日、アルテミシアが目を覚ましたのは陽が昇りきった頃だった。普段早朝の暗いうちから行動を開始する彼女にとっては、かなり珍しいことだ。
しかし、無理もない。と、アルテミシアは開ききらない目蓋の奥で思った。
昨夜浴室で情事に耽った後もサゲンの寝室へ引っ張り込まれ、夜が明けるまで身体を解放されることはなかったのだ。何度絶頂へ押し上げられ、サゲンの欲望を受け入れたか分からない。サゲンの小ざっぱりした広い寝室のベッドに押し倒された後は、もう数えるのをやめてしまった。と言うより、すぐに何も考えられなくなった。一夜明けて考えると驚くべき体力だ。あんなことを、疲れも見せずに一晩中続けるなんて。そして自分も、荒波に揉まれるような激しさを、身体中を焼かれるような熱を、歓喜して受け入れたのだ。
アルテミシアは昨夜の痴態を思い出し、顔が燃えるように熱くなった。最後の方は記憶にないが、多分何度目かの絶頂を迎えた直後に意識を失ったのだろう。自分の中にこれほど淫らな一面があるとは、ついこの間まで知らずにいた。身体の至るところにサゲンの熱がまだ残っている。
アルテミシアは目を閉じたまま、素肌に触れるリネンの上掛けの感触と、自分のものではない温もりをじっくり堪能した。背中をぴったり覆っている熱は、サゲンから伝わる体温だ。頭の上で何かがさわさわと動いているのは、こちらも珍しくアルテミシアより早く起きたサゲンが髪を弄んでいるからに違いない。アルテミシアはくすぐったさについ唸り声を上げた。
「起こしたか」
サゲンはアルテミシアのつやつやした髪をくるくると指で弄びながら尋ねた。
アルテミシアは軋む身体を庇ってゆっくりと寝返りを打つと、木やハーブや革の混じったようなサゲンの匂いを吸い込んだ。
サゲンの大きな手がアルテミシアの頭を包み、優しく撫でた。この男の温度は困惑や躊躇を解きほぐしてしまう。アルテミシアは自分の変化についてあれこれ考えるのをやめることにした。
「おはよう」
ひどい声だ。喉がガラガラに乾いて痛い。
「それは目を開けてから言う言葉だぞ」
頭の上でサゲンが笑った。アルテミシアが目を閉じたまま口元を緩めると、サゲンの柔らかい唇が額と鼻の頭に羽のように触れ、温かい手のひらが下腹を労わるように撫でた。
「んん…」
「身体は大丈夫か」
アルテミシアはようやく目を開けた。相手を気遣うようなことを訊きながら、後悔を微塵も感じさせない声色だったからだ。前の時もそうだった。こちらは身体の向きを変えるだけで股関節や腰から悲鳴が上がったというのに、その原因であるサゲンはゆったりと肘を立てて手のひらに頭を乗せ、春の日のような晴れ晴れとした笑顔でこちらを見ている。
「あちこち痛い」
責めるような口調だった。
サゲンはアルテミシアの腰をゆるゆると撫でた。多少の罪悪感が無いとも言えない。何しろ、もう無理だと懇願する彼女の姿にますます興奮し、非情にも意識を失うまで身体を繋げたまま衝撃を与え続けたのだ。
「やりすぎた。悪かった」
「そう思うなら、もう少し自重して。これじゃあ仕事に支障が出るよ。今日もいつもよりだいぶ遅く起きちゃったし…」
「それは約束できないな」
サゲンが悪びれもなく言い放ったので、アルテミシアは顔をしかめた。が、男の誘惑するような低い声を聞いた途端、顔色を変えることになった。
「こと君に関しては、俺は欲深くなるらしい。抱けば抱くほど君が欲しくなる」
よくもまあ平然とそういうことを口に出すものだと半ば呆れながら、この男の率直さにいちいち素直に反応してしまう自分が悔しくもある。アルテミシアが薔薇色の頬を膨らませたのはそういう自分への照れ隠しでもあった。
サゲンはサゲンでこの可愛らしい反応を楽しんでいた。自分が立場に責任を感じて彼女への気持ちをしまい込んでいた時には決して見られなかった反応だ。あれほど生の感情を容易に見せようとしなかったアルテミシア・ジュディットがこんなに顔色をころころと変えて様々な感情をその美しい目に映し出すのなら、もっと早く伝えておいても良かったかもしれない。
「俺のアルテミシア…」
サゲンは柔らかい髪にキスをして囁いた。アルテミシアが大人しく腕の中に収まっていることに満足感を覚えながら、この愛らしい唇が愛を囁くのを聞きたいと切望した。
「いつか君の気持ちも聞かせてくれ。その口から」
心臓がどくどくと鳴って外まで聞こえそうだ。またあの不定期的に起こる、近くにいたい気持ちと逃げ出したい気持ちのせめぎ合いが始まった。
「おっと、逃げるなよ」
サゲンはほとんど反射的にアルテミシアの腰を掴んで強く引き寄せた。
「なんで分かったの」
無意識のうちに君が動かした筋肉の微かな変化を感じたからだ。とは言わずに、
「君のことはだいたい分かる」
と笑い声をあげながら言った。アルテミシアはこの腕から抜け出すのを諦め、大人しくサゲンに身体を預けることにした。悔しいが、この男を出し抜ける気がしない。少なくとも、起きている間は。
(わたしは思っていたより隠し事が上手くないらしい)
と、自分よりも高い体温を全身に感じながら思った。
アルテミシアは秘密の多い人生を歩んできた。母と養父、いちばん近しかったドナにさえ大学に入ることを隠し、他の船の同業者や取引相手には六年ものあいだ女であることを隠し通した。船に乗ってからも、船長のバルバリーゴを除いてはアルテミシアの出自や本名を知る者はいなかった。だから秘密を持つことには慣れていたはずだが、サゲンと出会ってからは周囲に感情を読まれることが多くなっている。
理由は分かっている。自分が変わったからだ。そして、この変化をもたらしたのが、他でもない目の前の男なのだということも。この奇妙な感覚がどういうものなのか、このままサゲンの肌と匂いを感じながらひねもす考え続けるのもよいが、残念ながら時間は許してくれないだろう。
アルテミシアは窓に掛かる紺のカーテンをちらりと見た。陽光が非難がましく隙間から差して部屋の中をほんのり明るく照らしている。
「もう登城しないと…」
「そうだな」
サゲンは高い位置に昇った太陽を恨めしく思った。本当なら日が暮れるまでこうして二人でベッドにいたい気分だ。心の内にこれほど怠惰な自分がいることは、アルテミシアと共に夜を過ごさなければ知ることもなかっただろう。
サゲンは不思議な気分でまだ眠たそうに目蓋を擦るアルテミシアの顔を見つめた。サゲンの視線に気付いたアルテミシアの頬が可憐な色に染まる。
「な、なに?」
「君といると新しい発見が多い」
「奇遇だね。わたしも同じことを思ってた」
そう言って微笑んだアルテミシアの頬をサゲンの両手が包み、潮が引いて満ちるような自然さで互いの唇が触れ合った。
この日、オアリス城では密議が行われた。来客用のいちばん小さなサロンにサゲン、ロハク、アルテミシアが集まり、鮮やかな青のドレスを身にまとい大きな円卓の前に立つイサ・アンナ女王を囲むようにして座っている。この中で最も座っているべき人物は、腰から下に黒いエプロンを巻いて、先日の宴でエル・ミエルドの皇太子から献上されたコーヒー豆を小さな石臼で挽くことに神経を集中していた。ごりごりと軽快な音を立てて豆が砕けるたび、炒られたコーヒー豆の独特な香りが広がる。
「イサ・アンナ様がこんな特技をお持ちとは、存じませんでした」
アルテミシアは女王の手際の良さに感心した。
「人に淹れさせたものも旨いが、時には自分でイチからやってみるのもよいものだぞ。挽き具合によって味や香りが変わるから、なかなかどうして面白い」
「へえ…」
アルテミシアは椅子から立ち上がり、料理中の母親にまとわりつく子供のようにイサ・アンナの手元を覗き込んだ。この狎れた様子に眉をひそめたのはロハクだ。その隣に座るサゲンは面白そうに唇の端をひくつかせた。
「ミーシャ、陛下に対して…」
「よい、ロハク。ミーシャとの楽しいひと時を邪魔するでない」
「よくはありません、陛下。いかに陛下がミーシャに心をお許しになっていても、このような態度では他の者に示しがつきません」
ロハクは食い下がったが、イサ・アンナが目を大きく見開いてロハクの方を見たのでぴたりと口を閉じた。
「他の者とは?バルカ将軍のことか?そなた、人払いまでしてこの狭いサロンに我々を押し込めておいて、ようも言うわ」
ロハクは口を噤んだままだったが、まだ言い足りないとばかりに不満げな表情をしている。女王に対してこのような諫言ができるのも、この城ではこの男くらいのものだ。
「くはっ」
と笑いを堪えきれなくなったのはサゲンだった。口元を押さえて顔を背けたが、間に合わなかった。礼儀作法に煩い秘書官が奔放な女王に言いくるめられるところは、いつ見ても面白い。
「失礼した」
イサ・アンナの隣でしげしげとその手元を眺めていたアルテミシアが顔を上げ、サゲンに向かってニヤリと笑った。
「…顔が緩んでいますよ」
サゲンにしか聞こえない程度の小さな声で、ロハクが忠告した。サゲンは口元を引き締め、隣の男の狐のような顔を横目でチラリと見た。
「錯覚だろう」
「くれぐれも職務を疎かにしないよう、気を付けることです」
「さて、何のことかな」
「サゲン・エメレンスほどの方が、恋の虜とは」
サゲンはロハクに向かって挑戦的な笑みを見せた。
「意趣返しのつもりだな。俺がさっき笑ったから」
「とんでもない。理解できますからね。女性に食指の動かないわたしでも、彼女ならイケそうです。今度、三人でどうです?」
「おい」
サゲンの目に怒りの色が浮かんだ時、イサ・アンナが「ほら、そなたたちも見ろ」と誇らしげに石臼を揺らしながら目の前にやって来た。砂粒のように細かく砕いた焦げ茶色の豆からふんわりと芳醇な香りが漂っている。
「素晴らしいお手並みです」
とサゲンが言ったのは、世辞ではなかった。焙煎した豆をこれほど手早く、しかも細かく均一に挽くことができる君主は、我らがイサ・アンナ女王くらいのものであろう。
予めイサ・アンナが女中に用意させておいた麻布を使ってアルテミシアが全員分のカップにコーヒーを注ぎ入れ、それぞれに給仕して回った。
サゲンの前にカップを置く瞬間、テーブルの上にそれとなく置かれていたサゲンの手から人差し指が動き、そろりと愛撫するようにアルテミシアの手の甲を撫でたので、思わずカップを取り落としそうになった。
「では、聞こう」
と、趣味のコーヒー豆挽きに満足したらしい女王がエプロンを外すと、ドレスの裾にあしらわれた美しい鶴の刺繍が現れた。女王は無造作にロハクへ投げ渡し、上座に座って鮮やかな鶴の下で脚を組んだ。
ロハクはエプロンをきちんと――アルテミシアから見れば几帳面すぎるほどにきちんと畳んでローテーブルへ置き、ようやく本題に入れるとばかりに咳払いをした。
「先日お話しした‘リスト’の件です、陛下。国内の者に関しては、内々に監視を付けることをお許しいただきたく存じます」
「監視役は」
この問いに口を開いたのは、サゲンだ。
「鳩を使います」
イサ・アンナはフム、と頷いた。鳩――即ち彼らの隠語で手飼いの情報屋のことだ。
事を公にできない以上、国王の命で正式な監視役を付けるわけにはいかない。サゲンやロハクほどの立場の者であれば、個人的に情報屋やちょっとした使い走りをさせる者を雇っているのが当然であることは、イサ・アンナも暗黙のうちに承知している。
「あいわかった。そなたたちの良きように宰領せよ。ただし、ゆめゆめ勘付かれてはならぬぞ。先手を打たれては面倒だ」
「御意に」
「バルカ将軍、ミーシャ。コルネール公爵邸でのことを聞こう」
イサ・アンナの朗らかな視線を受け、アルテミシアは何故かぎくりとした。客間での情事など知られているはずもないのに、真っ先に思い浮かんだのがそれだ。表情に出すまいとしたが、無意識のうちに奥歯を噛んだ僅かな顎の動きと血色の上った頬は隠しきれなかった。
「…南エマンシュナの造船業者とアミラの貴族について、いくつか有力な情報が」
イサ・アンナとロハクがアルテミシアの顔に注目する前に、サゲンが言った。
「フム」
イサ・アンナはさくらんぼ色の唇を閉じて目を細め、微妙な表情を見せた。この海賊討伐にエマンシュナの業者が関係しているなれば、またあの老獪なレオニード王と話し合わねばならない。酒盛りの相手としては気のいい親父だが、政治が絡むと忌々しいほどに主導権を握りたがるのだ。
(が、此度はそうはいくまい)
海賊討伐に関してイノイルに全権を委ねたのは、他ならぬレオニード王なのだ。
サゲンは隣のアルテミシアに目配せした。表情は変わらないが、目を見ればアルテミシアを気遣っているのが分かる。
アルテミシアは無言で頷いた。女王とロハクに告げなければならないことは分かっている。サゲンに告げるまで自分だけの中にしまい込んできたことだ。円卓の下でアルテミシアの手がサゲンの指に触れた。サゲンの指が叱咤するようにアルテミシアの手に絡んだ。
(大丈夫…)
脈は速いが、サゲンに打ち明けた時ほどではない。アルテミシアはふっと深く息をついて居住まいを正し、イサ・アンナの真っ黒な瞳を真っ直ぐに見た。
「わたしの養父に関わりのあることです、陛下。まずはそこからお耳に入れたいと思います」
イサ・アンナはパッと眉を開いた。
「では茶菓子が必要だな」
ロハクは静かに溜め息をついて席を立ち、イサ・アンナに一礼してサロンを出て行った。人払いをしたために、女中の控える廊下の反対側まで行かなければならないからだ。
(どんな手を使ったのやら)
と、廊下を渡るロハクが考えたのは、サゲン・エメレンスのことだ。
二人の関係が変わったことは明白だった。恐らくあの男のことだから周囲に隠すつもりなどないだろう。その証拠に、アルテミシアの肩の後ろ、ドレスの襟から見えるかどうかというあたりに、くっきりと赤い痕が付けられていた。あれは明らかにサゲン・エメレンスの所有印だ。
立場を考えればミーシャの方はあまり大っぴらにしたがらないだろうが、サゲンにしてみれば、この女は自分のものだと公言してしまった方が都合が好いはずだ。むざむざバルカ将軍の恋人にちょっかいを出すなどと言う自殺行為に出る者は、余程の馬鹿でなければこの城内にはいない。
(まったく、サゲン・エメレンス将軍ともあろう方が恋に浮かれて…)
顔を見れば分かる。恐らく同席している女王も気付いているだろう。目は口ほどにものを語るとは、よく言ったものだ。
アルテミシアが養父のことを話す間、イサ・アンナはロハクが女中から受け取ってきた茶菓子を黙々と摘みながら時々コーヒーを口にした。
苦虫を噛み潰したような顔で先に口を開いたのは、ロハクだ。
「あなたはそのような家の出身だと明らかにすることで、今の役割やこの城から追われるとは思わなかったのですか?」
アルテミシアは目を丸くした。そう言えば、そうだ。悪事に手を染めている者の家で生まれた者を城に、しかも女王の側に置いておくなど、普通ならばあるまじき事だ。
しかし、イサ・アンナは普通とは違う。
「いいえ、まったく」
アルテミシアが平然と言い放ったので、ロハクはますます苦々しい顔をした。
その様子を隣で見ていたサゲンは思わずにやりとしてしまった。アルテミシアが当然のようにそう言ってのけたのは、それほど彼女が女王を信頼しているからだろう。サゲンもアルテミシアと同意見だ。女王はアルテミシアをいたく気に入っているし、何よりもイサ・アンナという人は出自や本人とは無関係な親族の罪で誰かを裁いたりなどしない。
イサ・アンナは快活な笑い声をあげた。
「わたしの見込んだ女だからな。ミーシャはそなたの脅しなどには動じぬよ、ロハク」
ロハクはふんっ、とアルテミシアに向かって鼻を鳴らしてみせた。
「それで、リストに名の無い貴女の養父が今もなおヒディンゲルというアミラ人の情報を持っている確証はあるのでしょうね?もし既に手切れとなっていて養父の口からも屋敷からも何も出て来ないなどということがあれば、陛下の顔に泥を塗ることになります」
「確証はないけど、確信しています。エンリコ・ベルージは保守的で強欲で、人間に対しては気遣いのかけらもないような男ですが、一方で金勘定に関しては異常なほど几帳面でした。少なくとも二つの違法な取引を示した台帳が見つかるはず。わたしをヒディンゲルに売ろうとした時と…」
アルテミシアは唾を呑み込み、円卓の下でサゲンの手を強く握った。
「…従妹を売った時のものが」
「それを違法な人身売買だと証明できるのですか?表向きには‘結婚’でしょう。結納金、義父への援助、花嫁への贈り物、言い逃れはいくらでもできます」
ロハクは隙がなかった。この問いに口を開いたのは、サゲンだ。
「第三者の証言があれば、可能だ」
「第三者とは?」
「わたしの母親」
これは賭けだった。あの儚く弱々しい母親に、夫を売るような真似ができるだろうか。長らく音信不通だった娘の説得に耳を傾けるかどうかも分からない。それも、生きていれば、の話だ。海の上にいた六年もの間、生死を確かめることさえしなかった。それでも、ベルージの屋敷から手ぶらで帰るつもりは毛頭ない。年端もいかない従妹をおぞましい男に売ったエンリコ・ベールジを野放しにはできない。
「母が証言をします」
アルテミシアがきっぱりとした口調で言うと、イサ・アンナは頷いた。
「して、造船業者は、そのヒディンゲルと何か繋がりがあるのか」
「ヒディンゲルが、件の造船業者に出資していました」
これは、アルテミシアがすきっ歯の男を尋問して聞き出した内容だった。
南エマンシュナの海域を航行する前に造船資金として多額の金を造船業者の名義で銀行に預けると、数日後にヒディンゲルという者から通行証と割印の付いた旗が届く。これを船頭に揚げると、頻発する海賊の被害に遭わないのだという。しかも、男にこの情報を与えたのは、誰あろうラウル・ヒディンゲル本人だったのだ。
男は度々父親に隠れて麻薬を買っていた違法な店で、ちょうど商談に訪れていたラウル・ヒディンゲルと知り合った。ヒディンゲルと名乗ったその上品そうな老人は、男が豪商の息子で商売の一部の責任を負わされていると聞くや、知人と共同で出資しているという南エマンシュナの造船業者の話を始めたという。最初は、その業者で最新の貿易船を造ることを勧められたが、次第に南エマンシュナの海域を荒らす海賊の話になり、しまいには、「造船代金として金を払えば、一部の者しか存在を知らない通行手形を用意できる。この海域を安全に通れれば、その分遠回りを避けられるし、武器も戦闘要員も乗せなくて良いから、手形を買ったとしても全体的に見れば安上がりだ」という話になっていた。
「で、その怪しげな話に乗ったというわけか」
イサ・アンナは呆れた様子で言った。
「事実、現れた不審船は船に近付いただけで何もしてこなかったと船員から報告を受けたそうです」
「ふむ…」
イサ・アンナはコーヒーを一口飲み、白い指を円卓の上で組んだ。
「造船業者とは名ばかりか」
「ご推察の通り。恐らくは、幽霊会社でしょう」
サゲンは深く頷いた。アルヴィーゼ・コルネールが言っていたことには、サゲンも同意見だった。
「幽霊会社」
響きが面白かったらしい。イサ・アンナのさくらんぼ色の唇が弧を描いた。
「なるほど、おもしろい。実体はないが、目に見えないところで金や人が動いているということだな。海賊どもが力のある協力者を得、堂々と金を稼ぐための依代を手に入れたというわけか」
「しかしながら、違和感がありますね」
ロハクが目元を翳らせて言うと、サゲンは重々しく頷いた。
「これは明らかに海賊たちのこれまでのやり方と違います」
「知恵をつけたのかな」
イサ・アンナの顔は既に笑っていなかった。これまで島々を荒らし、略奪を繰り返すばかりだった彼らが、今や張りぼての会社を設立し、銀行に金を預けるという社会性を持ち始めたのだ。
これは、由々しき事態だった。ただの烏合の衆が、一つの大きな勢力になろうとしている。
「憶測の域を出ませんが、助言者がいると思います。それも、海賊の中に」
サゲンがアルテミシアの意見に口を挟んだ。
「何故海賊の中にいると思う。ヒディンゲルのような出資者が入れ知恵をしている可能性もある」
「金持ちの上層階級が、いくら金儲けのためだからと言ってあのどぎつい方言交じりの異言語を話す奴らと意思疎通ができると思えない。銀行に金を預けたり会社を作ったり、いくら出資者の入れ知恵があってもある程度はこちらの仕組みを分かっていないとできないことだよ。たぶん、内部にいると思う」
「交渉役か」
「それも、エマンシュナかイノイルか、その近辺の出身者」
「仮にエマンシュナやイノイルの出身者が海賊の内部にいるとして、海賊どもはその者を雇っているということですか」
ロハクの問いかけに、アルテミシアはアムの沖で海賊船に乗っていたマルス語を話す男のことを思い出した。娘がカノーナスに捕らえられ、奴隷のように働かされていた男だ。
「…捕虜かもしれない。アムで海賊を捕まえた時、マルス語を話す男がいた。身内が囚われて言いなりにされている可能性もある」
「だが、奴らはこれまでの方針を大きく変えた。そのきっかけが捕虜とは考えにくい。奴らの捕虜の扱いは、あくまで商品か労働力だ。海賊団の首領がカノーナスと呼ばれる理由を知っているか」
アルテミシアはサゲンに向かってニヤリと笑みを見せた。長らく通詞として船に乗っていた彼女にとっては、ワインが何から造られるかと訊かれたようなものだ。
「それ、わたしに訊いてる?本気で?」
サゲンは頬が緩むのを堪えきれなかった。アルテミシアが白く愛らしい犬歯を覗かせて目を細めるたび、職務中の緊張感が否応なしに解けてしまう。
「カノーナスとは」
ロハクがわざとらしく咳払いをして先を引き取った。
「即ち‘ルール’。ただ一人の指導者によって方針が決まり、後の者たちはそれに従うのみということですね」
「そうだ。いかに捕虜の中に資金の運用について詳しい者がいたからと言って、カノーナスがその方針を決めない限りは出資者を募って幽霊会社を作ったり、一つのビジネスとして人身売買を行ったりはしない。つまり、カノーナス自身が何らかの経緯でその知識を得たということだ」
「そうかな。たまたま経済と言語の知識のあるエマンシュナ人が捕虜になって、我が身可愛さに耳寄りな情報があると言って進んで参謀になるってことも有り得ると思うけど」
「ゼロではない。が、無法者の集団のように見えて海賊の階級制度は徹底している。捕虜はあくまで被支配層で、最たる支配者であるカノーナスがその助言を求めることなどは、これまでは絶対に有り得なかった」
「これまでは、でしょ。考えが変わったのかも」
「そうであれば、そのきっかけは?」
「アムのスビート元帥に手紙を送って捕らえた海賊に尋問してもらったらどうかな」
「訊いたところで、たかだか分団の長がそこまでは知らないだろうな」
「カノーナスに聞くしかないわけね」
イサ・アンナは指を組んで唇を引き結び、臣下たちの議論に耳を傾けていたが、長く女王の側に侍っているロハクはその僅かな唇の動きを見逃さなかった。微笑んでいる。
「よかろう。良い議論だった。ロハク、エマンシュナの大使に話をつけろ。今度こそナヴァレの連中を海賊討伐に駆り出してやる。南エマンシュナのことはエマンシュナ王府の不手際。もはや我々にだけ任せられまい」
これまでレオニード王が協力を惜しんでいた海賊討伐にナヴァレの協力が得られるということになれば、イノイルとしても格段に仕事がしやすくなる。性能の良い船を造る技術や海戦術はイノイルの方が優れているが、武器や弾薬はエマンシュナの方が質も高く数も多いからだ。
「バルカ将軍、ミーシャ。そなたたちはルメオ軍とパタロア領主の是認を得次第、そちらの仕事に取り掛かるが良い。オアリスを留守にするのであれば、バルカ将軍不在の間腕の確かな代理の者を立てよ。人選は任せる」
「御意」
女王は満足そうに椅子の背もたれに背を預け、再びコーヒーに口をつけた。
「しかし、不思議なものだな」
ロハクがエマンシュナ大使に連絡を付けるため早々に辞去した後、茶菓子をつまみながら女王自慢のコーヒーを味わうアルテミシアとサゲンに向かって、イサ・アンナは感慨深げに言った。
「我らの海賊討伐とミーシャの養父がここで繋がるとは。もしかしたら、わたしがあの日ティグラ港でそなたを見つけなかったとしても、そなたはいつの日かわたしやバルカ将軍の前に現れていたのかも知れぬなあ」
アルテミシアはサゲンへと視線を移した。目が柔らかく弧を描いたように見えた。
しかし、無理もない。と、アルテミシアは開ききらない目蓋の奥で思った。
昨夜浴室で情事に耽った後もサゲンの寝室へ引っ張り込まれ、夜が明けるまで身体を解放されることはなかったのだ。何度絶頂へ押し上げられ、サゲンの欲望を受け入れたか分からない。サゲンの小ざっぱりした広い寝室のベッドに押し倒された後は、もう数えるのをやめてしまった。と言うより、すぐに何も考えられなくなった。一夜明けて考えると驚くべき体力だ。あんなことを、疲れも見せずに一晩中続けるなんて。そして自分も、荒波に揉まれるような激しさを、身体中を焼かれるような熱を、歓喜して受け入れたのだ。
アルテミシアは昨夜の痴態を思い出し、顔が燃えるように熱くなった。最後の方は記憶にないが、多分何度目かの絶頂を迎えた直後に意識を失ったのだろう。自分の中にこれほど淫らな一面があるとは、ついこの間まで知らずにいた。身体の至るところにサゲンの熱がまだ残っている。
アルテミシアは目を閉じたまま、素肌に触れるリネンの上掛けの感触と、自分のものではない温もりをじっくり堪能した。背中をぴったり覆っている熱は、サゲンから伝わる体温だ。頭の上で何かがさわさわと動いているのは、こちらも珍しくアルテミシアより早く起きたサゲンが髪を弄んでいるからに違いない。アルテミシアはくすぐったさについ唸り声を上げた。
「起こしたか」
サゲンはアルテミシアのつやつやした髪をくるくると指で弄びながら尋ねた。
アルテミシアは軋む身体を庇ってゆっくりと寝返りを打つと、木やハーブや革の混じったようなサゲンの匂いを吸い込んだ。
サゲンの大きな手がアルテミシアの頭を包み、優しく撫でた。この男の温度は困惑や躊躇を解きほぐしてしまう。アルテミシアは自分の変化についてあれこれ考えるのをやめることにした。
「おはよう」
ひどい声だ。喉がガラガラに乾いて痛い。
「それは目を開けてから言う言葉だぞ」
頭の上でサゲンが笑った。アルテミシアが目を閉じたまま口元を緩めると、サゲンの柔らかい唇が額と鼻の頭に羽のように触れ、温かい手のひらが下腹を労わるように撫でた。
「んん…」
「身体は大丈夫か」
アルテミシアはようやく目を開けた。相手を気遣うようなことを訊きながら、後悔を微塵も感じさせない声色だったからだ。前の時もそうだった。こちらは身体の向きを変えるだけで股関節や腰から悲鳴が上がったというのに、その原因であるサゲンはゆったりと肘を立てて手のひらに頭を乗せ、春の日のような晴れ晴れとした笑顔でこちらを見ている。
「あちこち痛い」
責めるような口調だった。
サゲンはアルテミシアの腰をゆるゆると撫でた。多少の罪悪感が無いとも言えない。何しろ、もう無理だと懇願する彼女の姿にますます興奮し、非情にも意識を失うまで身体を繋げたまま衝撃を与え続けたのだ。
「やりすぎた。悪かった」
「そう思うなら、もう少し自重して。これじゃあ仕事に支障が出るよ。今日もいつもよりだいぶ遅く起きちゃったし…」
「それは約束できないな」
サゲンが悪びれもなく言い放ったので、アルテミシアは顔をしかめた。が、男の誘惑するような低い声を聞いた途端、顔色を変えることになった。
「こと君に関しては、俺は欲深くなるらしい。抱けば抱くほど君が欲しくなる」
よくもまあ平然とそういうことを口に出すものだと半ば呆れながら、この男の率直さにいちいち素直に反応してしまう自分が悔しくもある。アルテミシアが薔薇色の頬を膨らませたのはそういう自分への照れ隠しでもあった。
サゲンはサゲンでこの可愛らしい反応を楽しんでいた。自分が立場に責任を感じて彼女への気持ちをしまい込んでいた時には決して見られなかった反応だ。あれほど生の感情を容易に見せようとしなかったアルテミシア・ジュディットがこんなに顔色をころころと変えて様々な感情をその美しい目に映し出すのなら、もっと早く伝えておいても良かったかもしれない。
「俺のアルテミシア…」
サゲンは柔らかい髪にキスをして囁いた。アルテミシアが大人しく腕の中に収まっていることに満足感を覚えながら、この愛らしい唇が愛を囁くのを聞きたいと切望した。
「いつか君の気持ちも聞かせてくれ。その口から」
心臓がどくどくと鳴って外まで聞こえそうだ。またあの不定期的に起こる、近くにいたい気持ちと逃げ出したい気持ちのせめぎ合いが始まった。
「おっと、逃げるなよ」
サゲンはほとんど反射的にアルテミシアの腰を掴んで強く引き寄せた。
「なんで分かったの」
無意識のうちに君が動かした筋肉の微かな変化を感じたからだ。とは言わずに、
「君のことはだいたい分かる」
と笑い声をあげながら言った。アルテミシアはこの腕から抜け出すのを諦め、大人しくサゲンに身体を預けることにした。悔しいが、この男を出し抜ける気がしない。少なくとも、起きている間は。
(わたしは思っていたより隠し事が上手くないらしい)
と、自分よりも高い体温を全身に感じながら思った。
アルテミシアは秘密の多い人生を歩んできた。母と養父、いちばん近しかったドナにさえ大学に入ることを隠し、他の船の同業者や取引相手には六年ものあいだ女であることを隠し通した。船に乗ってからも、船長のバルバリーゴを除いてはアルテミシアの出自や本名を知る者はいなかった。だから秘密を持つことには慣れていたはずだが、サゲンと出会ってからは周囲に感情を読まれることが多くなっている。
理由は分かっている。自分が変わったからだ。そして、この変化をもたらしたのが、他でもない目の前の男なのだということも。この奇妙な感覚がどういうものなのか、このままサゲンの肌と匂いを感じながらひねもす考え続けるのもよいが、残念ながら時間は許してくれないだろう。
アルテミシアは窓に掛かる紺のカーテンをちらりと見た。陽光が非難がましく隙間から差して部屋の中をほんのり明るく照らしている。
「もう登城しないと…」
「そうだな」
サゲンは高い位置に昇った太陽を恨めしく思った。本当なら日が暮れるまでこうして二人でベッドにいたい気分だ。心の内にこれほど怠惰な自分がいることは、アルテミシアと共に夜を過ごさなければ知ることもなかっただろう。
サゲンは不思議な気分でまだ眠たそうに目蓋を擦るアルテミシアの顔を見つめた。サゲンの視線に気付いたアルテミシアの頬が可憐な色に染まる。
「な、なに?」
「君といると新しい発見が多い」
「奇遇だね。わたしも同じことを思ってた」
そう言って微笑んだアルテミシアの頬をサゲンの両手が包み、潮が引いて満ちるような自然さで互いの唇が触れ合った。
この日、オアリス城では密議が行われた。来客用のいちばん小さなサロンにサゲン、ロハク、アルテミシアが集まり、鮮やかな青のドレスを身にまとい大きな円卓の前に立つイサ・アンナ女王を囲むようにして座っている。この中で最も座っているべき人物は、腰から下に黒いエプロンを巻いて、先日の宴でエル・ミエルドの皇太子から献上されたコーヒー豆を小さな石臼で挽くことに神経を集中していた。ごりごりと軽快な音を立てて豆が砕けるたび、炒られたコーヒー豆の独特な香りが広がる。
「イサ・アンナ様がこんな特技をお持ちとは、存じませんでした」
アルテミシアは女王の手際の良さに感心した。
「人に淹れさせたものも旨いが、時には自分でイチからやってみるのもよいものだぞ。挽き具合によって味や香りが変わるから、なかなかどうして面白い」
「へえ…」
アルテミシアは椅子から立ち上がり、料理中の母親にまとわりつく子供のようにイサ・アンナの手元を覗き込んだ。この狎れた様子に眉をひそめたのはロハクだ。その隣に座るサゲンは面白そうに唇の端をひくつかせた。
「ミーシャ、陛下に対して…」
「よい、ロハク。ミーシャとの楽しいひと時を邪魔するでない」
「よくはありません、陛下。いかに陛下がミーシャに心をお許しになっていても、このような態度では他の者に示しがつきません」
ロハクは食い下がったが、イサ・アンナが目を大きく見開いてロハクの方を見たのでぴたりと口を閉じた。
「他の者とは?バルカ将軍のことか?そなた、人払いまでしてこの狭いサロンに我々を押し込めておいて、ようも言うわ」
ロハクは口を噤んだままだったが、まだ言い足りないとばかりに不満げな表情をしている。女王に対してこのような諫言ができるのも、この城ではこの男くらいのものだ。
「くはっ」
と笑いを堪えきれなくなったのはサゲンだった。口元を押さえて顔を背けたが、間に合わなかった。礼儀作法に煩い秘書官が奔放な女王に言いくるめられるところは、いつ見ても面白い。
「失礼した」
イサ・アンナの隣でしげしげとその手元を眺めていたアルテミシアが顔を上げ、サゲンに向かってニヤリと笑った。
「…顔が緩んでいますよ」
サゲンにしか聞こえない程度の小さな声で、ロハクが忠告した。サゲンは口元を引き締め、隣の男の狐のような顔を横目でチラリと見た。
「錯覚だろう」
「くれぐれも職務を疎かにしないよう、気を付けることです」
「さて、何のことかな」
「サゲン・エメレンスほどの方が、恋の虜とは」
サゲンはロハクに向かって挑戦的な笑みを見せた。
「意趣返しのつもりだな。俺がさっき笑ったから」
「とんでもない。理解できますからね。女性に食指の動かないわたしでも、彼女ならイケそうです。今度、三人でどうです?」
「おい」
サゲンの目に怒りの色が浮かんだ時、イサ・アンナが「ほら、そなたたちも見ろ」と誇らしげに石臼を揺らしながら目の前にやって来た。砂粒のように細かく砕いた焦げ茶色の豆からふんわりと芳醇な香りが漂っている。
「素晴らしいお手並みです」
とサゲンが言ったのは、世辞ではなかった。焙煎した豆をこれほど手早く、しかも細かく均一に挽くことができる君主は、我らがイサ・アンナ女王くらいのものであろう。
予めイサ・アンナが女中に用意させておいた麻布を使ってアルテミシアが全員分のカップにコーヒーを注ぎ入れ、それぞれに給仕して回った。
サゲンの前にカップを置く瞬間、テーブルの上にそれとなく置かれていたサゲンの手から人差し指が動き、そろりと愛撫するようにアルテミシアの手の甲を撫でたので、思わずカップを取り落としそうになった。
「では、聞こう」
と、趣味のコーヒー豆挽きに満足したらしい女王がエプロンを外すと、ドレスの裾にあしらわれた美しい鶴の刺繍が現れた。女王は無造作にロハクへ投げ渡し、上座に座って鮮やかな鶴の下で脚を組んだ。
ロハクはエプロンをきちんと――アルテミシアから見れば几帳面すぎるほどにきちんと畳んでローテーブルへ置き、ようやく本題に入れるとばかりに咳払いをした。
「先日お話しした‘リスト’の件です、陛下。国内の者に関しては、内々に監視を付けることをお許しいただきたく存じます」
「監視役は」
この問いに口を開いたのは、サゲンだ。
「鳩を使います」
イサ・アンナはフム、と頷いた。鳩――即ち彼らの隠語で手飼いの情報屋のことだ。
事を公にできない以上、国王の命で正式な監視役を付けるわけにはいかない。サゲンやロハクほどの立場の者であれば、個人的に情報屋やちょっとした使い走りをさせる者を雇っているのが当然であることは、イサ・アンナも暗黙のうちに承知している。
「あいわかった。そなたたちの良きように宰領せよ。ただし、ゆめゆめ勘付かれてはならぬぞ。先手を打たれては面倒だ」
「御意に」
「バルカ将軍、ミーシャ。コルネール公爵邸でのことを聞こう」
イサ・アンナの朗らかな視線を受け、アルテミシアは何故かぎくりとした。客間での情事など知られているはずもないのに、真っ先に思い浮かんだのがそれだ。表情に出すまいとしたが、無意識のうちに奥歯を噛んだ僅かな顎の動きと血色の上った頬は隠しきれなかった。
「…南エマンシュナの造船業者とアミラの貴族について、いくつか有力な情報が」
イサ・アンナとロハクがアルテミシアの顔に注目する前に、サゲンが言った。
「フム」
イサ・アンナはさくらんぼ色の唇を閉じて目を細め、微妙な表情を見せた。この海賊討伐にエマンシュナの業者が関係しているなれば、またあの老獪なレオニード王と話し合わねばならない。酒盛りの相手としては気のいい親父だが、政治が絡むと忌々しいほどに主導権を握りたがるのだ。
(が、此度はそうはいくまい)
海賊討伐に関してイノイルに全権を委ねたのは、他ならぬレオニード王なのだ。
サゲンは隣のアルテミシアに目配せした。表情は変わらないが、目を見ればアルテミシアを気遣っているのが分かる。
アルテミシアは無言で頷いた。女王とロハクに告げなければならないことは分かっている。サゲンに告げるまで自分だけの中にしまい込んできたことだ。円卓の下でアルテミシアの手がサゲンの指に触れた。サゲンの指が叱咤するようにアルテミシアの手に絡んだ。
(大丈夫…)
脈は速いが、サゲンに打ち明けた時ほどではない。アルテミシアはふっと深く息をついて居住まいを正し、イサ・アンナの真っ黒な瞳を真っ直ぐに見た。
「わたしの養父に関わりのあることです、陛下。まずはそこからお耳に入れたいと思います」
イサ・アンナはパッと眉を開いた。
「では茶菓子が必要だな」
ロハクは静かに溜め息をついて席を立ち、イサ・アンナに一礼してサロンを出て行った。人払いをしたために、女中の控える廊下の反対側まで行かなければならないからだ。
(どんな手を使ったのやら)
と、廊下を渡るロハクが考えたのは、サゲン・エメレンスのことだ。
二人の関係が変わったことは明白だった。恐らくあの男のことだから周囲に隠すつもりなどないだろう。その証拠に、アルテミシアの肩の後ろ、ドレスの襟から見えるかどうかというあたりに、くっきりと赤い痕が付けられていた。あれは明らかにサゲン・エメレンスの所有印だ。
立場を考えればミーシャの方はあまり大っぴらにしたがらないだろうが、サゲンにしてみれば、この女は自分のものだと公言してしまった方が都合が好いはずだ。むざむざバルカ将軍の恋人にちょっかいを出すなどと言う自殺行為に出る者は、余程の馬鹿でなければこの城内にはいない。
(まったく、サゲン・エメレンス将軍ともあろう方が恋に浮かれて…)
顔を見れば分かる。恐らく同席している女王も気付いているだろう。目は口ほどにものを語るとは、よく言ったものだ。
アルテミシアが養父のことを話す間、イサ・アンナはロハクが女中から受け取ってきた茶菓子を黙々と摘みながら時々コーヒーを口にした。
苦虫を噛み潰したような顔で先に口を開いたのは、ロハクだ。
「あなたはそのような家の出身だと明らかにすることで、今の役割やこの城から追われるとは思わなかったのですか?」
アルテミシアは目を丸くした。そう言えば、そうだ。悪事に手を染めている者の家で生まれた者を城に、しかも女王の側に置いておくなど、普通ならばあるまじき事だ。
しかし、イサ・アンナは普通とは違う。
「いいえ、まったく」
アルテミシアが平然と言い放ったので、ロハクはますます苦々しい顔をした。
その様子を隣で見ていたサゲンは思わずにやりとしてしまった。アルテミシアが当然のようにそう言ってのけたのは、それほど彼女が女王を信頼しているからだろう。サゲンもアルテミシアと同意見だ。女王はアルテミシアをいたく気に入っているし、何よりもイサ・アンナという人は出自や本人とは無関係な親族の罪で誰かを裁いたりなどしない。
イサ・アンナは快活な笑い声をあげた。
「わたしの見込んだ女だからな。ミーシャはそなたの脅しなどには動じぬよ、ロハク」
ロハクはふんっ、とアルテミシアに向かって鼻を鳴らしてみせた。
「それで、リストに名の無い貴女の養父が今もなおヒディンゲルというアミラ人の情報を持っている確証はあるのでしょうね?もし既に手切れとなっていて養父の口からも屋敷からも何も出て来ないなどということがあれば、陛下の顔に泥を塗ることになります」
「確証はないけど、確信しています。エンリコ・ベルージは保守的で強欲で、人間に対しては気遣いのかけらもないような男ですが、一方で金勘定に関しては異常なほど几帳面でした。少なくとも二つの違法な取引を示した台帳が見つかるはず。わたしをヒディンゲルに売ろうとした時と…」
アルテミシアは唾を呑み込み、円卓の下でサゲンの手を強く握った。
「…従妹を売った時のものが」
「それを違法な人身売買だと証明できるのですか?表向きには‘結婚’でしょう。結納金、義父への援助、花嫁への贈り物、言い逃れはいくらでもできます」
ロハクは隙がなかった。この問いに口を開いたのは、サゲンだ。
「第三者の証言があれば、可能だ」
「第三者とは?」
「わたしの母親」
これは賭けだった。あの儚く弱々しい母親に、夫を売るような真似ができるだろうか。長らく音信不通だった娘の説得に耳を傾けるかどうかも分からない。それも、生きていれば、の話だ。海の上にいた六年もの間、生死を確かめることさえしなかった。それでも、ベルージの屋敷から手ぶらで帰るつもりは毛頭ない。年端もいかない従妹をおぞましい男に売ったエンリコ・ベールジを野放しにはできない。
「母が証言をします」
アルテミシアがきっぱりとした口調で言うと、イサ・アンナは頷いた。
「して、造船業者は、そのヒディンゲルと何か繋がりがあるのか」
「ヒディンゲルが、件の造船業者に出資していました」
これは、アルテミシアがすきっ歯の男を尋問して聞き出した内容だった。
南エマンシュナの海域を航行する前に造船資金として多額の金を造船業者の名義で銀行に預けると、数日後にヒディンゲルという者から通行証と割印の付いた旗が届く。これを船頭に揚げると、頻発する海賊の被害に遭わないのだという。しかも、男にこの情報を与えたのは、誰あろうラウル・ヒディンゲル本人だったのだ。
男は度々父親に隠れて麻薬を買っていた違法な店で、ちょうど商談に訪れていたラウル・ヒディンゲルと知り合った。ヒディンゲルと名乗ったその上品そうな老人は、男が豪商の息子で商売の一部の責任を負わされていると聞くや、知人と共同で出資しているという南エマンシュナの造船業者の話を始めたという。最初は、その業者で最新の貿易船を造ることを勧められたが、次第に南エマンシュナの海域を荒らす海賊の話になり、しまいには、「造船代金として金を払えば、一部の者しか存在を知らない通行手形を用意できる。この海域を安全に通れれば、その分遠回りを避けられるし、武器も戦闘要員も乗せなくて良いから、手形を買ったとしても全体的に見れば安上がりだ」という話になっていた。
「で、その怪しげな話に乗ったというわけか」
イサ・アンナは呆れた様子で言った。
「事実、現れた不審船は船に近付いただけで何もしてこなかったと船員から報告を受けたそうです」
「ふむ…」
イサ・アンナはコーヒーを一口飲み、白い指を円卓の上で組んだ。
「造船業者とは名ばかりか」
「ご推察の通り。恐らくは、幽霊会社でしょう」
サゲンは深く頷いた。アルヴィーゼ・コルネールが言っていたことには、サゲンも同意見だった。
「幽霊会社」
響きが面白かったらしい。イサ・アンナのさくらんぼ色の唇が弧を描いた。
「なるほど、おもしろい。実体はないが、目に見えないところで金や人が動いているということだな。海賊どもが力のある協力者を得、堂々と金を稼ぐための依代を手に入れたというわけか」
「しかしながら、違和感がありますね」
ロハクが目元を翳らせて言うと、サゲンは重々しく頷いた。
「これは明らかに海賊たちのこれまでのやり方と違います」
「知恵をつけたのかな」
イサ・アンナの顔は既に笑っていなかった。これまで島々を荒らし、略奪を繰り返すばかりだった彼らが、今や張りぼての会社を設立し、銀行に金を預けるという社会性を持ち始めたのだ。
これは、由々しき事態だった。ただの烏合の衆が、一つの大きな勢力になろうとしている。
「憶測の域を出ませんが、助言者がいると思います。それも、海賊の中に」
サゲンがアルテミシアの意見に口を挟んだ。
「何故海賊の中にいると思う。ヒディンゲルのような出資者が入れ知恵をしている可能性もある」
「金持ちの上層階級が、いくら金儲けのためだからと言ってあのどぎつい方言交じりの異言語を話す奴らと意思疎通ができると思えない。銀行に金を預けたり会社を作ったり、いくら出資者の入れ知恵があってもある程度はこちらの仕組みを分かっていないとできないことだよ。たぶん、内部にいると思う」
「交渉役か」
「それも、エマンシュナかイノイルか、その近辺の出身者」
「仮にエマンシュナやイノイルの出身者が海賊の内部にいるとして、海賊どもはその者を雇っているということですか」
ロハクの問いかけに、アルテミシアはアムの沖で海賊船に乗っていたマルス語を話す男のことを思い出した。娘がカノーナスに捕らえられ、奴隷のように働かされていた男だ。
「…捕虜かもしれない。アムで海賊を捕まえた時、マルス語を話す男がいた。身内が囚われて言いなりにされている可能性もある」
「だが、奴らはこれまでの方針を大きく変えた。そのきっかけが捕虜とは考えにくい。奴らの捕虜の扱いは、あくまで商品か労働力だ。海賊団の首領がカノーナスと呼ばれる理由を知っているか」
アルテミシアはサゲンに向かってニヤリと笑みを見せた。長らく通詞として船に乗っていた彼女にとっては、ワインが何から造られるかと訊かれたようなものだ。
「それ、わたしに訊いてる?本気で?」
サゲンは頬が緩むのを堪えきれなかった。アルテミシアが白く愛らしい犬歯を覗かせて目を細めるたび、職務中の緊張感が否応なしに解けてしまう。
「カノーナスとは」
ロハクがわざとらしく咳払いをして先を引き取った。
「即ち‘ルール’。ただ一人の指導者によって方針が決まり、後の者たちはそれに従うのみということですね」
「そうだ。いかに捕虜の中に資金の運用について詳しい者がいたからと言って、カノーナスがその方針を決めない限りは出資者を募って幽霊会社を作ったり、一つのビジネスとして人身売買を行ったりはしない。つまり、カノーナス自身が何らかの経緯でその知識を得たということだ」
「そうかな。たまたま経済と言語の知識のあるエマンシュナ人が捕虜になって、我が身可愛さに耳寄りな情報があると言って進んで参謀になるってことも有り得ると思うけど」
「ゼロではない。が、無法者の集団のように見えて海賊の階級制度は徹底している。捕虜はあくまで被支配層で、最たる支配者であるカノーナスがその助言を求めることなどは、これまでは絶対に有り得なかった」
「これまでは、でしょ。考えが変わったのかも」
「そうであれば、そのきっかけは?」
「アムのスビート元帥に手紙を送って捕らえた海賊に尋問してもらったらどうかな」
「訊いたところで、たかだか分団の長がそこまでは知らないだろうな」
「カノーナスに聞くしかないわけね」
イサ・アンナは指を組んで唇を引き結び、臣下たちの議論に耳を傾けていたが、長く女王の側に侍っているロハクはその僅かな唇の動きを見逃さなかった。微笑んでいる。
「よかろう。良い議論だった。ロハク、エマンシュナの大使に話をつけろ。今度こそナヴァレの連中を海賊討伐に駆り出してやる。南エマンシュナのことはエマンシュナ王府の不手際。もはや我々にだけ任せられまい」
これまでレオニード王が協力を惜しんでいた海賊討伐にナヴァレの協力が得られるということになれば、イノイルとしても格段に仕事がしやすくなる。性能の良い船を造る技術や海戦術はイノイルの方が優れているが、武器や弾薬はエマンシュナの方が質も高く数も多いからだ。
「バルカ将軍、ミーシャ。そなたたちはルメオ軍とパタロア領主の是認を得次第、そちらの仕事に取り掛かるが良い。オアリスを留守にするのであれば、バルカ将軍不在の間腕の確かな代理の者を立てよ。人選は任せる」
「御意」
女王は満足そうに椅子の背もたれに背を預け、再びコーヒーに口をつけた。
「しかし、不思議なものだな」
ロハクがエマンシュナ大使に連絡を付けるため早々に辞去した後、茶菓子をつまみながら女王自慢のコーヒーを味わうアルテミシアとサゲンに向かって、イサ・アンナは感慨深げに言った。
「我らの海賊討伐とミーシャの養父がここで繋がるとは。もしかしたら、わたしがあの日ティグラ港でそなたを見つけなかったとしても、そなたはいつの日かわたしやバルカ将軍の前に現れていたのかも知れぬなあ」
アルテミシアはサゲンへと視線を移した。目が柔らかく弧を描いたように見えた。
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