34 / 95
三十四、故郷へ - Torna a Pataloa -
イノイルの軍船は曇り空の下、ルメオ共和国東部のバイロヌス港に向かって海上を進んでいる。陽が出ていれば汗ばむ程の気温だろうが、ここ数日は生憎太陽に縁がない。その上、時折冷たい潮風が強く吹く為に、暦の上ではまだ秋にもなっていないというのに、季節が一つか二つ先に進んでしまったような気候だった。イノイル王国の青い鷲の紋章が海風にバタバタと靡き、共に軍船に乗り込んだサゲンの下士官や兵士たちも度々風下の方を向いては強風に耐えている。
ルメオのミルコ・フラヴァリ提督から手紙が届いたのは、獅子と鷲の宴から二週間経った頃のことだった。パタロア領主のチェステ公からはこの前の週にルメオ・イノイル両軍の領内での行動を容認すると返事が届いていたから、軍と警察隊の協議には多少時間が掛かったらしい。それでも、ミルコ・フラヴァリは軍と警察関係者にイノイル軍との合同作戦を認めさせた。それから三日のうちにサゲンはゴランを自分の代理に立ててレイ、リコ、ロエルの三名を含む必要最低限の兵を集めて支度をさせ、自らの持つ膨大な量の机仕事を寝る間も惜しんで済ませた上、軍船にアルテミシアを伴って乗船した。
アルテミシアは見張り台の上から薄暗い空と大きくうねり続ける水平線をぼんやりと眺めている。イサ・アンナがデザインした軍服のスカートの裾がバサバサと靡き、舞い上がる髪が?を舐めては視界にまとわりつく。先程から周囲を航行する大型の貿易船やルメオの軍船が増えているから、港は近いはずだ。
思った通り、しばらくすると大小の波の向こう側にうっすらと陸地が見えた。――バイロヌス港だ。
イノイル東岸のティグラ港を出発してから既に五日が経っている。海が荒れた為に、到着には通常よりも時間が掛かっていた。
(もっと荒れればいい)
そうなればパタロアへの到着も延びる。――
アルテミシアは両手でぴしゃっと自分の頬を叩いた。無意識のうちに良くない考えを持ってしまう自分に、ほとほと嫌気が差していた。船に乗り込んだ時には不安など感じなかったのに、イノイルを離れルメオへと近付くにつれ、胸がざわざわとして落ち着かない気持ちが大きくなっていた。灰色の壁に覆われた拒絶の象徴のようなベルージの屋敷、母を不幸にしたその夫、傲慢で横柄な主人にビクビクする使用人たち。本邸で暮らしていた頃のすべての幼い記憶が、子供心に抱えていた孤独感や得体の知れない恐怖心を呼び覚まそうとしているようだった。
(わたしはもう子供じゃない)
アルテミシアは頬を思い切り強く抓り、自分を叱咤した。じんじんと頬が痛んだ。
結局、バイロヌス港に着くまでアルテミシアは見張り台で胡座をかいていた。晴れていれば海面に西陽が無数の光をキラキラと反射してまるで魔法のように美しい時間のはずだが、相変わらず頭上には分厚い雲が迫り、アルテミシアの気分をそのまま投影しているようだった。
ロープと帆柱を伝ってのろのろ甲板へ降りていくと、下にサゲンの姿が見えた。出航した時と同じ、丈の長い濃紺の軍装に身を包んでアルテミシアを待っている。
アルテミシアに手を差し出したサゲンは、思わず眉をひそめた。
「顔色が悪い」
「長く上にいたから、冷えちゃった」
サゲンに腰を支えられると、分厚い軍服越しに熱が身体中を巡ったように錯覚した。乗船前の数日間は互いに忙しくしていたし、船に乗ってからも必要以上の接触を意識的に避けていたから、サゲンに触れられるのは久しぶりだ。よく見ると無精髭が生えている。今日も髭を剃る間も無いほど忙しかったのだろう。
「本当にそれだけか」
「うん」
と作り笑いをしながら、無意識のうちに視線を逸らしてしまった。いつだって青灰色の瞳は真実を見透かそうとしてくる。このままこの腕に掴まっていたいと思っていることも、きっとばれてしまうだろう。任務に勤しむ他の兵士たちの手前、それはよろしくない。
「ありがと、バルカ将軍」
アルテミシアは音もなく甲板へ降り立ち、さっさとサゲンから離れて荷運びや馬の移動を始めた兵達に混ざって行った。
サゲンは眉間に皺を寄せたまま、その後ろ姿を注意深く見送った。
バイロヌスから内陸部のパタロアへの距離は長くはない。しかしながら、パタロアの周囲に峻険な山道が続くために陸路で二日を要する。折悪しく先程から細い雨が降り始めたから、快適な陸旅とはならないだろう。
サゲンは二十余名の兵を彼らの指揮を命じたロエルと共に港に残し、アルテミシアとリコとレイのみを従えて騎乗した。既に全員軍装を解いている。これはルメオ軍からの条件だった。ルメオ国内で任務に就くイノイル軍関係者は五名未満、パタロアへの道中は領民の無駄な不安を煽らないよう、行軍と分からないように平服の旅装でいること、バイロヌスでフラヴァリの派遣するルメオ軍と合流すること、という内容だ。無論、武器も大っぴらに持ち歩けないから、サゲンとリコとレイはそれぞれ上着の内側やズボンやベルトの僅かな隙間にあれこれと小さな装備を隠している。日頃から厳しい訓練を積んでいる彼らには、得物の大きさはあまり問題にならない。イノイルの簡素なドレスを着ているアルテミシアには彼らのように武器を隠す場所がないので、護身用の短剣をブーツの内側にしまい込んだ。
港から続く石畳の大通りを全員騎馬で進み、商店や市場の立ち並ぶバイロヌスの中心地へ差し掛かった時、道脇から馬に乗り、雨よけのフードを被った二人の男が近付いて来た。やや後方に従っていたレイとリコが無言で警戒態勢に入り、それぞれの上着の内側に手を差し入れながら前へ出ようとしたが、サゲンは後ろ手に合図を送って彼らを下がらせた。
二人の男たちが身に纏う上着の裾には、月桂樹を模ったフラヴァリ家の紋章がある。一人の男が進み出、丁重に言った。
「イノイルのサゲン・バルカ子爵殿とお見受けしました。わたくしどもの主が屋敷にてお待ち申し上げております」
サゲンは首を傾げた。ミルコ・フラヴァリからの手紙にそんなことは書いていなかった。
「ミルコ・フラヴァリ提督か」
「いいえ。バイロヌス領主ブルーノ・フラヴァリです、閣下。提督とは従弟に当たります。提督からバルカ子爵様ご一行ご到着の折にはフラヴァリ家の屋敷へご案内申し上げ、船旅の疲れを癒していただくようにと、内々に我が主へ報せが入った次第です」
「それは、痛み入る」
サゲンはミルコ・フラヴァリと領主ブルーノ・フラヴァリの厚意に感謝した。調子の悪そうなアルテミシアにこの天候の中、馬上で移動させるのに抵抗があったからだ。部下たちも領主邸に留まれると聞き、司令官の手前で態度にこそ出さないが安堵したことだろう。如何に普段から厳しい訓練を積んでいても、短くはない船旅の後、あまつさえ雨天の野営は誰だって避けたい。ちらりと後方に視線を移すと、相変わらず青白い顔のアルテミシアがいつもより生気の無い笑みを返して来た。熱い風呂を所望する必要がありそうだ。
フラヴァリ邸は赤レンガ造りの壮麗な大邸宅だった。屋敷の周りは広大な庭で囲まれ、雨に濡れた草花の香りが辺りに満ちている。門をくぐると、リコとレイにもそれぞれ立派な客間が用意されるという手厚いもてなしを受け、恰幅と愛想のいい領主ブルーノ・フラヴァリと夫人から晩餐の席に招かれた頃には全員がこの領主を好きになっていた。食事の間に必要以上の世間話をしたり、客人へのもてなしと言って食後の酒の席などを設けたりせずにあっさりと晩餐を終わらせたことにも好感が持てた。十分すぎるほどの肉や魚の料理を堪能した後は、全員が身体を休める必要があると理解を示してのことだ。
アルテミシアに用意された客間は、パステルピンクの小さな花が無数に描かれた壁とフリル付きのカーテンが可愛らしい立派な部屋だった。どうやら、かつては子供部屋だったらしい。その証拠に、部屋の隅に大きな赤い三角屋根のドールハウスが置かれている。フラヴァリ家の紋章が彫られているから、買ったものではなく、職人に特別に作らせたものだろう。壁には犬と遊ぶ幼い子供達や、家族が揃った肖像画が金やブロンズの額に飾られ、鳥や動物の形をした花瓶に色とりどりの花が生けられている。続き部屋のバスルームには、既に使用人たちが風呂を用意してくれていた。壁の中を通るパイプが屋外のボイラーから蒸気と熱を運び、浴室全体を温かくしてアルテミシアを歓迎している。これほどの設備は、かつてこの部屋を使っていた愛する子供たちのために用意されたものだ。
アルテミシアは愛に満ち溢れた子供時代を象徴するような内装をなるべく視界に入れないように、バサバサとドレスと下着を床に脱ぎ捨て、ブーツから短剣を抜き取って鏡台に置いてから足をぶらぶらさせてブーツを脱ぐと、湯気の濛々と立ち上るバスタブに一気に肩まで身を沈めた。熱湯が肌を刺すように身体を包み込む。
(折が悪い)
こんな気分の時にいかにも幸せな雰囲気の漂う子供部屋で過ごす羽目になろうとは、皮肉なものだ。一流の料理人が用意してくれた蕩けるように美味しい肉料理も最高級の葡萄酒も、アルテミシアの身体を温め体力を回復してはくれたものの、気持ちまでは癒してくれなかった。アルテミシアはバスタブの縁に首を乗せ、次第に身体に馴染む温度に身を委ねて目を閉じた。
アルテミシアは扉の開く音で目を開けた。目を閉じていた時間はほんの二、三分だと思ったが、知らぬ間にうとうとしていたらしい。肌がひりつくほど熱かった湯が肌に馴染む温度になっている。
聞き慣れた足音が止み、蒸気が視界を曇らせる中、サゲンがバスルームの戸口から顔を覗かせた。
「また風呂で寝ていたのか」
そう言っておかしそうに笑っている。
ぼんやりした頭からフと我に返ったアルテミシアは、バシャバシャとしぶきをあげながら両手で胸を隠し、背を向けた。
「勝手に入るなんて!」
「女中が呼んだが返事がないと言って扉の前で困っていたから、俺が来た」
と、サゲンは悪びれる様子もない。アルテミシアは頬を膨らませ、首だけでサゲンを振り返った。既に入浴を終えたらしく、髭はきちんと剃られ、白いシャツと黒のズボンだけの簡素な室内着を着て、手には大きな綿布を持っている。部屋に入る前に女中から受け取ったのだろう。乾ききっていない髪が無造作に額に落ちている様がいつになく放埒な雰囲気を漂わせている。否応なしにアルテミシアの心臓が速くなった。
「任務中でしょ。女の部屋に入って行くのを部下に見られたら、まずいんじゃないの」
サゲンの形の良い唇がゆっくり淫靡な弧を描いた。
「見られたらまずいことがしたいのか?」
「なっ…!」
じくりと身体が熱くなってしまった。不本意だ。アルテミシアは顔を隠すように俯いた。背後でサゲンが近付いてくる足音が聞こえる。ぴりぴりと背中の皮膚が騒ぐような感覚は、サゲンの視線を感じているからだ。サゲンの足音はバスタブの後ろからゆっくりと弧を描くように近付き、すぐ横で止まった。アルテミシアがそろそろと視線を上げると、屈んで濡れた髪越しにこちらを覗き込むサゲンの視線とぶつかった。サゲンの手が伸びて来て、視界に壁を作っていた髪を掬って耳に掛けた。
「顔色は戻ったな」
既にサゲンの顔から笑みは消え、神妙な顔つきでアルテミシアの様子を注意深く観察している。
「それは…」
あなたがそばにいるからだ、と言おうとしたが、やめた。口に出せば、任務中にもかかわらずその胸に縋って甘えたくなってしまうだろう。それを避けるためには、早いところサゲンにここから出て行ってもらう他ない。
しかしアルテミシアの考えとは裏腹に、サゲンは肩まで伸びた髪を優しく梳いて額にキスをした。この慎ましやかな接触が、張り詰めていたアルテミシアの心をすっかり解いてしまった。
アルテミシアは何も考えずに髪を梳くサゲンの手を取って頬へ誘い、目を閉じて手のひらの温度を感じた。
「一緒にベッドに来て」
サゲンの眉がぴくりと動いた。
「任務中だと釘を刺したのは君だと思ったが」
「あ!そ、そうじゃなくて」
アルテミシアは慌てて否定した。これは言い方が悪かった。言葉が自然と口から零れ落ちてしまったのだ。顔が熱くなったのを隠したくて、頬にすり寄せたサゲンの手を離した。
「ただ、一緒にいて欲しいだけ…」
サゲンは一瞬言葉を失って湯から覗くアルテミシアの肩を見た。白い肌が湯に温められて桃色に染まり、閨で触れた時の甘やかな変化を思い出させた。果たして一緒にベッドに入るだけで済ませてやれるだろうか。指揮官の正しい倫理観でもって考えるなら、今アルテミシアの元を立ち去ったほうが賢明だ。そもそも、彼女の様子が気になって見に来ただけなのだ。夜這いを仕掛ける気など更々なかった。が、このまま彼女の言う通りにすれば、同じ結果を招くだろう。せめてパタロアの件が片付くまではまずい。隊を統率すべき者が任務中に同行者に手を出せば、全体の士気に関わる。任務中であることがこれほどまでに口惜しいと思ったことは今までにないが、仕方ない。自制心の未熟さを彼女に告げて自室へ戻ろうとした。
ところが、考えが変わった。いつになく無防備なヘーゼルの瞳と目が合ったからだ。
「…だめ?」
所在無げに睫毛の影が揺れ、ヘーゼルの瞳の色を濃く見せた。ダメなどと、言えるはずがない。
「まったく」
サゲンは苛立ち紛れにアルテミシアの腕を引いて立たせると、大きな布の中にアルテミシアを包み込み、髪をわしわしと拭ってやった。アルテミシアは少々驚いた様子だったが、大人しくその挙動に身を任せている。
「君は俺の資質を試すつもりか」
「え、なんでそうなるの?だめってこと?」
これがあまりに不安そうな声色だったので、サゲンは思わず大きく溜め息を漏らしてしまった。
「いや…。せいぜい大人しくしていてくれ」
珍しく弱っているアルテミシアを前にしては、辛抱するしかない。
衝立の中からアルテミシアが服を着る衣擦れの音が聞こえる。サゲンはアルテミシアが脱ぎ散らかした服や下着を拾い集めて椅子に掛け、ベッドの縁に腰を下ろした。己の忍耐強さをこれほど心許なく思ったことがあっただろうか。初体験の時ですら、これほど落ち着かない気持ちにはならなかったというのに、三十路を超えてこのような気持ちを抱えることになろうとは、思いもしなかった。が、それも仕方のないことだ。何しろ、アルテミシアの身体を知ってからと言うもの、彼女への気持ちが日に日に深くなっているのだ。例え互いに顔を合わせない日があっても、任務中の体裁を整えるためによそよそしい態度を取っていても、関係ない。一日の終わりに眠りに就く時は、無意識のうちにアルテミシアの柔らかい身体とその温度を思い出す。
マットレスを小さく軋ませて中央に身体を横たえたアルテミシアは、生成の簡素な室内用ドレスに着替えていた。サゲンは丸く広い襟ぐりから覗いた鎖骨の窪みから視線を逸らし、昼間よりは随分と血色が良くなった顔を見た。眉間には皺が寄っている。
「…この部屋、きらい」
アルテミシアが出し抜けに子供のような口調で不満を口にした。サゲンはぐるりと部屋を見回し、輝かしい子供時代の思い出が残された品々を見つけた。
(ああ)
何となくアルテミシアの不調の正体が分かった。
「ただの部屋だ」
アルテミシアが奥歯を噛んでサゲンの目をひたと見た。
「ベルージの屋敷でわたしの寝室だった部屋は、壁は古くて茶色くて、誰かよくわからない老人の肖像画が掛かってて、子供の部屋っぽいものはほとんどなかった。ドールハウスも、フリルのカーテンも、家族の絵も」
「ドールハウスが欲しかった?」
ギッ、とマットレスを軋ませて、サゲンがアルテミシアの横に手を突き、その顔を覗き込んだ。アルテミシアは意外な言葉を聞いたような顔でサゲンを見上げている。
「どうだろ…。でも、大事にされてるって実感がないと、子供は自分を肯定できないものでしょ。あんまり覚えていないけど、わたしもそうだったんだと思う」
「パタロアへ戻るのは不安か」
アルテミシアはサゲンの目を見たままかぶりを振った。
「不安なわけじゃない。ただ…」
「ただ?」
「ただ、あの家を思い出すとすごく…嫌な気分になるの。クリームたっぷりのケーキを食べたら幸せな気持ちになるとか、香草で焼いた鶏の匂いを嗅いだらよだれが出るとか、そういう類の生理現象と同じ」
「そうか」
例えをおかしく思ってサゲンは口元を微かにひくつかせたが、それだけでは納得しなかった。
「だが今回は君にしては立ち直りが遅いようだ。いつもほど上手く気分を切り替えられていない理由は、本当は故郷へ帰るのが嫌なのに無理をして精神に負担が掛かっているからじゃないのか」
サゲンが身を乗り出し、覆いかぶさるような姿勢で言うと、アルテミシアの目が僅かに泳いだ。やはりそうだ。彼女を辛い思い出の残る土地へ連れて行くべきではないと思った時、柔らかな手が遠慮がちにサゲンの手を握ってきた。
「だって…」
アルテミシアの睫毛が小さく震えた。サゲンが先を促すように手を握り返すと、アルテミシアは別のことを口にした。
「…アムからスビート元帥が来た日にわたしが言ったこと、覚えてる?」
「ああ。覚えている」
アルテミシアはあの日、あなたがいれば大丈夫だと言ってサゲンの手を握り、唇に羽が触れるようなキスをした。その時のアルテミシアの表情を思い出すと同時に、今アルテミシアの言わんとしていることが明瞭になり、衝撃を受けた。
「…俺が原因か?しばらく一緒にいられなかったから?」
アルテミシアはごろりとうつ伏せになって顔を隠したが、小さく頷くのがサゲンにははっきり見えた。
「こら」
眉根を寄せてアルテミシアの身体を仰向けに返し、顔をこちらへ向けさせようとすると、アルテミシアは咄嗟に枕に手を伸ばして顔を覆い隠してしまった。
「顔を見せろ」
「いや」
枕の下からくぐもった声で拒否したが、サゲンにはこの下でアルテミシアがどんな顔をしているのかだいたい想像がついている。サゲンはベッドの上に片肘をついてアルテミシアの隣に横たわり、枕の下からこぼれた明るい髪をちょいちょいと指で弄んだ。
「真っ赤な耳が見えているぞ」
と、サゲンが耳の近くで低く囁くと、目にも留まらぬ速さでアルテミシアの手が枕の下に隠れたままの耳を覆った。
アルテミシアがサゲンの嘘に気付いた時には、耳を覆った両手はベッドに押し付けられ、枕の代わりに勝ち誇って破顔する秀麗な顔が目の前にあった。
「可愛いやつ」
顔からも真っ白な蒸気が見えそうなほどに真っ赤に染まり、ハシバミ色の瞳が潤んで決壊しそうになっている。本当なら息もつかせないほどキスをして意識が飛ぶほどめちゃくちゃに抱いてしまいたいところだが、精一杯の理性で感情を押し留めた。それに、彼女が今求めているものは快楽ではなく安らぎだ。
アルテミシアは破裂しそうなほど跳ねる心臓を持て余したが、サゲンがこの部屋に現れてから自分の幼少期のことなど気にならなくなっていた。こうなっては認めざるを得ない。
「あなたと話していると、心が柔らかくなる。…良くも悪くも」
「今は良い方だろう」
アルテミシアは答えなかった。反抗的に唇を引き結んでも、サゲンには感情を隠せない。だから、サゲンが優しく唇を重ねて来るのを甘んじて受け入れ、その腕の中にすっぽり収まると、背中に腕を回してきつく抱き付いた。自分よりも温かいサゲンの体温が薄い寝衣越しに肌に伝わり、安堵が爪先まで広がっていく。
サゲンは柔らかい髪を弄び、背中を撫でてやった。
「しばらく一緒にいてやれなくて悪かった。陸路は人数も少ないし馬での移動だから、話したい時は…」
と、やけに反応の薄いアルテミシアの顔を覗き込むと、サゲンは静かに大きな溜め息をついた。アルテミシアはサゲンにがっちりしがみついたまま、安心しきった顔で心地好さそうに寝息を立てている。柔らかい胸がゆっくりと上下し、薄布の寝衣越しにその官能的な感触を思い出させた。
「くそ…。帰ったら覚えていろよ」
脚の間が硬くなったのを感じながら、既に夢の中にいるアルテミシアをそっと抱きしめた。
「おやすみ、アルテミシア」
長い夜になりそうだ。
ルメオのミルコ・フラヴァリ提督から手紙が届いたのは、獅子と鷲の宴から二週間経った頃のことだった。パタロア領主のチェステ公からはこの前の週にルメオ・イノイル両軍の領内での行動を容認すると返事が届いていたから、軍と警察隊の協議には多少時間が掛かったらしい。それでも、ミルコ・フラヴァリは軍と警察関係者にイノイル軍との合同作戦を認めさせた。それから三日のうちにサゲンはゴランを自分の代理に立ててレイ、リコ、ロエルの三名を含む必要最低限の兵を集めて支度をさせ、自らの持つ膨大な量の机仕事を寝る間も惜しんで済ませた上、軍船にアルテミシアを伴って乗船した。
アルテミシアは見張り台の上から薄暗い空と大きくうねり続ける水平線をぼんやりと眺めている。イサ・アンナがデザインした軍服のスカートの裾がバサバサと靡き、舞い上がる髪が?を舐めては視界にまとわりつく。先程から周囲を航行する大型の貿易船やルメオの軍船が増えているから、港は近いはずだ。
思った通り、しばらくすると大小の波の向こう側にうっすらと陸地が見えた。――バイロヌス港だ。
イノイル東岸のティグラ港を出発してから既に五日が経っている。海が荒れた為に、到着には通常よりも時間が掛かっていた。
(もっと荒れればいい)
そうなればパタロアへの到着も延びる。――
アルテミシアは両手でぴしゃっと自分の頬を叩いた。無意識のうちに良くない考えを持ってしまう自分に、ほとほと嫌気が差していた。船に乗り込んだ時には不安など感じなかったのに、イノイルを離れルメオへと近付くにつれ、胸がざわざわとして落ち着かない気持ちが大きくなっていた。灰色の壁に覆われた拒絶の象徴のようなベルージの屋敷、母を不幸にしたその夫、傲慢で横柄な主人にビクビクする使用人たち。本邸で暮らしていた頃のすべての幼い記憶が、子供心に抱えていた孤独感や得体の知れない恐怖心を呼び覚まそうとしているようだった。
(わたしはもう子供じゃない)
アルテミシアは頬を思い切り強く抓り、自分を叱咤した。じんじんと頬が痛んだ。
結局、バイロヌス港に着くまでアルテミシアは見張り台で胡座をかいていた。晴れていれば海面に西陽が無数の光をキラキラと反射してまるで魔法のように美しい時間のはずだが、相変わらず頭上には分厚い雲が迫り、アルテミシアの気分をそのまま投影しているようだった。
ロープと帆柱を伝ってのろのろ甲板へ降りていくと、下にサゲンの姿が見えた。出航した時と同じ、丈の長い濃紺の軍装に身を包んでアルテミシアを待っている。
アルテミシアに手を差し出したサゲンは、思わず眉をひそめた。
「顔色が悪い」
「長く上にいたから、冷えちゃった」
サゲンに腰を支えられると、分厚い軍服越しに熱が身体中を巡ったように錯覚した。乗船前の数日間は互いに忙しくしていたし、船に乗ってからも必要以上の接触を意識的に避けていたから、サゲンに触れられるのは久しぶりだ。よく見ると無精髭が生えている。今日も髭を剃る間も無いほど忙しかったのだろう。
「本当にそれだけか」
「うん」
と作り笑いをしながら、無意識のうちに視線を逸らしてしまった。いつだって青灰色の瞳は真実を見透かそうとしてくる。このままこの腕に掴まっていたいと思っていることも、きっとばれてしまうだろう。任務に勤しむ他の兵士たちの手前、それはよろしくない。
「ありがと、バルカ将軍」
アルテミシアは音もなく甲板へ降り立ち、さっさとサゲンから離れて荷運びや馬の移動を始めた兵達に混ざって行った。
サゲンは眉間に皺を寄せたまま、その後ろ姿を注意深く見送った。
バイロヌスから内陸部のパタロアへの距離は長くはない。しかしながら、パタロアの周囲に峻険な山道が続くために陸路で二日を要する。折悪しく先程から細い雨が降り始めたから、快適な陸旅とはならないだろう。
サゲンは二十余名の兵を彼らの指揮を命じたロエルと共に港に残し、アルテミシアとリコとレイのみを従えて騎乗した。既に全員軍装を解いている。これはルメオ軍からの条件だった。ルメオ国内で任務に就くイノイル軍関係者は五名未満、パタロアへの道中は領民の無駄な不安を煽らないよう、行軍と分からないように平服の旅装でいること、バイロヌスでフラヴァリの派遣するルメオ軍と合流すること、という内容だ。無論、武器も大っぴらに持ち歩けないから、サゲンとリコとレイはそれぞれ上着の内側やズボンやベルトの僅かな隙間にあれこれと小さな装備を隠している。日頃から厳しい訓練を積んでいる彼らには、得物の大きさはあまり問題にならない。イノイルの簡素なドレスを着ているアルテミシアには彼らのように武器を隠す場所がないので、護身用の短剣をブーツの内側にしまい込んだ。
港から続く石畳の大通りを全員騎馬で進み、商店や市場の立ち並ぶバイロヌスの中心地へ差し掛かった時、道脇から馬に乗り、雨よけのフードを被った二人の男が近付いて来た。やや後方に従っていたレイとリコが無言で警戒態勢に入り、それぞれの上着の内側に手を差し入れながら前へ出ようとしたが、サゲンは後ろ手に合図を送って彼らを下がらせた。
二人の男たちが身に纏う上着の裾には、月桂樹を模ったフラヴァリ家の紋章がある。一人の男が進み出、丁重に言った。
「イノイルのサゲン・バルカ子爵殿とお見受けしました。わたくしどもの主が屋敷にてお待ち申し上げております」
サゲンは首を傾げた。ミルコ・フラヴァリからの手紙にそんなことは書いていなかった。
「ミルコ・フラヴァリ提督か」
「いいえ。バイロヌス領主ブルーノ・フラヴァリです、閣下。提督とは従弟に当たります。提督からバルカ子爵様ご一行ご到着の折にはフラヴァリ家の屋敷へご案内申し上げ、船旅の疲れを癒していただくようにと、内々に我が主へ報せが入った次第です」
「それは、痛み入る」
サゲンはミルコ・フラヴァリと領主ブルーノ・フラヴァリの厚意に感謝した。調子の悪そうなアルテミシアにこの天候の中、馬上で移動させるのに抵抗があったからだ。部下たちも領主邸に留まれると聞き、司令官の手前で態度にこそ出さないが安堵したことだろう。如何に普段から厳しい訓練を積んでいても、短くはない船旅の後、あまつさえ雨天の野営は誰だって避けたい。ちらりと後方に視線を移すと、相変わらず青白い顔のアルテミシアがいつもより生気の無い笑みを返して来た。熱い風呂を所望する必要がありそうだ。
フラヴァリ邸は赤レンガ造りの壮麗な大邸宅だった。屋敷の周りは広大な庭で囲まれ、雨に濡れた草花の香りが辺りに満ちている。門をくぐると、リコとレイにもそれぞれ立派な客間が用意されるという手厚いもてなしを受け、恰幅と愛想のいい領主ブルーノ・フラヴァリと夫人から晩餐の席に招かれた頃には全員がこの領主を好きになっていた。食事の間に必要以上の世間話をしたり、客人へのもてなしと言って食後の酒の席などを設けたりせずにあっさりと晩餐を終わらせたことにも好感が持てた。十分すぎるほどの肉や魚の料理を堪能した後は、全員が身体を休める必要があると理解を示してのことだ。
アルテミシアに用意された客間は、パステルピンクの小さな花が無数に描かれた壁とフリル付きのカーテンが可愛らしい立派な部屋だった。どうやら、かつては子供部屋だったらしい。その証拠に、部屋の隅に大きな赤い三角屋根のドールハウスが置かれている。フラヴァリ家の紋章が彫られているから、買ったものではなく、職人に特別に作らせたものだろう。壁には犬と遊ぶ幼い子供達や、家族が揃った肖像画が金やブロンズの額に飾られ、鳥や動物の形をした花瓶に色とりどりの花が生けられている。続き部屋のバスルームには、既に使用人たちが風呂を用意してくれていた。壁の中を通るパイプが屋外のボイラーから蒸気と熱を運び、浴室全体を温かくしてアルテミシアを歓迎している。これほどの設備は、かつてこの部屋を使っていた愛する子供たちのために用意されたものだ。
アルテミシアは愛に満ち溢れた子供時代を象徴するような内装をなるべく視界に入れないように、バサバサとドレスと下着を床に脱ぎ捨て、ブーツから短剣を抜き取って鏡台に置いてから足をぶらぶらさせてブーツを脱ぐと、湯気の濛々と立ち上るバスタブに一気に肩まで身を沈めた。熱湯が肌を刺すように身体を包み込む。
(折が悪い)
こんな気分の時にいかにも幸せな雰囲気の漂う子供部屋で過ごす羽目になろうとは、皮肉なものだ。一流の料理人が用意してくれた蕩けるように美味しい肉料理も最高級の葡萄酒も、アルテミシアの身体を温め体力を回復してはくれたものの、気持ちまでは癒してくれなかった。アルテミシアはバスタブの縁に首を乗せ、次第に身体に馴染む温度に身を委ねて目を閉じた。
アルテミシアは扉の開く音で目を開けた。目を閉じていた時間はほんの二、三分だと思ったが、知らぬ間にうとうとしていたらしい。肌がひりつくほど熱かった湯が肌に馴染む温度になっている。
聞き慣れた足音が止み、蒸気が視界を曇らせる中、サゲンがバスルームの戸口から顔を覗かせた。
「また風呂で寝ていたのか」
そう言っておかしそうに笑っている。
ぼんやりした頭からフと我に返ったアルテミシアは、バシャバシャとしぶきをあげながら両手で胸を隠し、背を向けた。
「勝手に入るなんて!」
「女中が呼んだが返事がないと言って扉の前で困っていたから、俺が来た」
と、サゲンは悪びれる様子もない。アルテミシアは頬を膨らませ、首だけでサゲンを振り返った。既に入浴を終えたらしく、髭はきちんと剃られ、白いシャツと黒のズボンだけの簡素な室内着を着て、手には大きな綿布を持っている。部屋に入る前に女中から受け取ったのだろう。乾ききっていない髪が無造作に額に落ちている様がいつになく放埒な雰囲気を漂わせている。否応なしにアルテミシアの心臓が速くなった。
「任務中でしょ。女の部屋に入って行くのを部下に見られたら、まずいんじゃないの」
サゲンの形の良い唇がゆっくり淫靡な弧を描いた。
「見られたらまずいことがしたいのか?」
「なっ…!」
じくりと身体が熱くなってしまった。不本意だ。アルテミシアは顔を隠すように俯いた。背後でサゲンが近付いてくる足音が聞こえる。ぴりぴりと背中の皮膚が騒ぐような感覚は、サゲンの視線を感じているからだ。サゲンの足音はバスタブの後ろからゆっくりと弧を描くように近付き、すぐ横で止まった。アルテミシアがそろそろと視線を上げると、屈んで濡れた髪越しにこちらを覗き込むサゲンの視線とぶつかった。サゲンの手が伸びて来て、視界に壁を作っていた髪を掬って耳に掛けた。
「顔色は戻ったな」
既にサゲンの顔から笑みは消え、神妙な顔つきでアルテミシアの様子を注意深く観察している。
「それは…」
あなたがそばにいるからだ、と言おうとしたが、やめた。口に出せば、任務中にもかかわらずその胸に縋って甘えたくなってしまうだろう。それを避けるためには、早いところサゲンにここから出て行ってもらう他ない。
しかしアルテミシアの考えとは裏腹に、サゲンは肩まで伸びた髪を優しく梳いて額にキスをした。この慎ましやかな接触が、張り詰めていたアルテミシアの心をすっかり解いてしまった。
アルテミシアは何も考えずに髪を梳くサゲンの手を取って頬へ誘い、目を閉じて手のひらの温度を感じた。
「一緒にベッドに来て」
サゲンの眉がぴくりと動いた。
「任務中だと釘を刺したのは君だと思ったが」
「あ!そ、そうじゃなくて」
アルテミシアは慌てて否定した。これは言い方が悪かった。言葉が自然と口から零れ落ちてしまったのだ。顔が熱くなったのを隠したくて、頬にすり寄せたサゲンの手を離した。
「ただ、一緒にいて欲しいだけ…」
サゲンは一瞬言葉を失って湯から覗くアルテミシアの肩を見た。白い肌が湯に温められて桃色に染まり、閨で触れた時の甘やかな変化を思い出させた。果たして一緒にベッドに入るだけで済ませてやれるだろうか。指揮官の正しい倫理観でもって考えるなら、今アルテミシアの元を立ち去ったほうが賢明だ。そもそも、彼女の様子が気になって見に来ただけなのだ。夜這いを仕掛ける気など更々なかった。が、このまま彼女の言う通りにすれば、同じ結果を招くだろう。せめてパタロアの件が片付くまではまずい。隊を統率すべき者が任務中に同行者に手を出せば、全体の士気に関わる。任務中であることがこれほどまでに口惜しいと思ったことは今までにないが、仕方ない。自制心の未熟さを彼女に告げて自室へ戻ろうとした。
ところが、考えが変わった。いつになく無防備なヘーゼルの瞳と目が合ったからだ。
「…だめ?」
所在無げに睫毛の影が揺れ、ヘーゼルの瞳の色を濃く見せた。ダメなどと、言えるはずがない。
「まったく」
サゲンは苛立ち紛れにアルテミシアの腕を引いて立たせると、大きな布の中にアルテミシアを包み込み、髪をわしわしと拭ってやった。アルテミシアは少々驚いた様子だったが、大人しくその挙動に身を任せている。
「君は俺の資質を試すつもりか」
「え、なんでそうなるの?だめってこと?」
これがあまりに不安そうな声色だったので、サゲンは思わず大きく溜め息を漏らしてしまった。
「いや…。せいぜい大人しくしていてくれ」
珍しく弱っているアルテミシアを前にしては、辛抱するしかない。
衝立の中からアルテミシアが服を着る衣擦れの音が聞こえる。サゲンはアルテミシアが脱ぎ散らかした服や下着を拾い集めて椅子に掛け、ベッドの縁に腰を下ろした。己の忍耐強さをこれほど心許なく思ったことがあっただろうか。初体験の時ですら、これほど落ち着かない気持ちにはならなかったというのに、三十路を超えてこのような気持ちを抱えることになろうとは、思いもしなかった。が、それも仕方のないことだ。何しろ、アルテミシアの身体を知ってからと言うもの、彼女への気持ちが日に日に深くなっているのだ。例え互いに顔を合わせない日があっても、任務中の体裁を整えるためによそよそしい態度を取っていても、関係ない。一日の終わりに眠りに就く時は、無意識のうちにアルテミシアの柔らかい身体とその温度を思い出す。
マットレスを小さく軋ませて中央に身体を横たえたアルテミシアは、生成の簡素な室内用ドレスに着替えていた。サゲンは丸く広い襟ぐりから覗いた鎖骨の窪みから視線を逸らし、昼間よりは随分と血色が良くなった顔を見た。眉間には皺が寄っている。
「…この部屋、きらい」
アルテミシアが出し抜けに子供のような口調で不満を口にした。サゲンはぐるりと部屋を見回し、輝かしい子供時代の思い出が残された品々を見つけた。
(ああ)
何となくアルテミシアの不調の正体が分かった。
「ただの部屋だ」
アルテミシアが奥歯を噛んでサゲンの目をひたと見た。
「ベルージの屋敷でわたしの寝室だった部屋は、壁は古くて茶色くて、誰かよくわからない老人の肖像画が掛かってて、子供の部屋っぽいものはほとんどなかった。ドールハウスも、フリルのカーテンも、家族の絵も」
「ドールハウスが欲しかった?」
ギッ、とマットレスを軋ませて、サゲンがアルテミシアの横に手を突き、その顔を覗き込んだ。アルテミシアは意外な言葉を聞いたような顔でサゲンを見上げている。
「どうだろ…。でも、大事にされてるって実感がないと、子供は自分を肯定できないものでしょ。あんまり覚えていないけど、わたしもそうだったんだと思う」
「パタロアへ戻るのは不安か」
アルテミシアはサゲンの目を見たままかぶりを振った。
「不安なわけじゃない。ただ…」
「ただ?」
「ただ、あの家を思い出すとすごく…嫌な気分になるの。クリームたっぷりのケーキを食べたら幸せな気持ちになるとか、香草で焼いた鶏の匂いを嗅いだらよだれが出るとか、そういう類の生理現象と同じ」
「そうか」
例えをおかしく思ってサゲンは口元を微かにひくつかせたが、それだけでは納得しなかった。
「だが今回は君にしては立ち直りが遅いようだ。いつもほど上手く気分を切り替えられていない理由は、本当は故郷へ帰るのが嫌なのに無理をして精神に負担が掛かっているからじゃないのか」
サゲンが身を乗り出し、覆いかぶさるような姿勢で言うと、アルテミシアの目が僅かに泳いだ。やはりそうだ。彼女を辛い思い出の残る土地へ連れて行くべきではないと思った時、柔らかな手が遠慮がちにサゲンの手を握ってきた。
「だって…」
アルテミシアの睫毛が小さく震えた。サゲンが先を促すように手を握り返すと、アルテミシアは別のことを口にした。
「…アムからスビート元帥が来た日にわたしが言ったこと、覚えてる?」
「ああ。覚えている」
アルテミシアはあの日、あなたがいれば大丈夫だと言ってサゲンの手を握り、唇に羽が触れるようなキスをした。その時のアルテミシアの表情を思い出すと同時に、今アルテミシアの言わんとしていることが明瞭になり、衝撃を受けた。
「…俺が原因か?しばらく一緒にいられなかったから?」
アルテミシアはごろりとうつ伏せになって顔を隠したが、小さく頷くのがサゲンにははっきり見えた。
「こら」
眉根を寄せてアルテミシアの身体を仰向けに返し、顔をこちらへ向けさせようとすると、アルテミシアは咄嗟に枕に手を伸ばして顔を覆い隠してしまった。
「顔を見せろ」
「いや」
枕の下からくぐもった声で拒否したが、サゲンにはこの下でアルテミシアがどんな顔をしているのかだいたい想像がついている。サゲンはベッドの上に片肘をついてアルテミシアの隣に横たわり、枕の下からこぼれた明るい髪をちょいちょいと指で弄んだ。
「真っ赤な耳が見えているぞ」
と、サゲンが耳の近くで低く囁くと、目にも留まらぬ速さでアルテミシアの手が枕の下に隠れたままの耳を覆った。
アルテミシアがサゲンの嘘に気付いた時には、耳を覆った両手はベッドに押し付けられ、枕の代わりに勝ち誇って破顔する秀麗な顔が目の前にあった。
「可愛いやつ」
顔からも真っ白な蒸気が見えそうなほどに真っ赤に染まり、ハシバミ色の瞳が潤んで決壊しそうになっている。本当なら息もつかせないほどキスをして意識が飛ぶほどめちゃくちゃに抱いてしまいたいところだが、精一杯の理性で感情を押し留めた。それに、彼女が今求めているものは快楽ではなく安らぎだ。
アルテミシアは破裂しそうなほど跳ねる心臓を持て余したが、サゲンがこの部屋に現れてから自分の幼少期のことなど気にならなくなっていた。こうなっては認めざるを得ない。
「あなたと話していると、心が柔らかくなる。…良くも悪くも」
「今は良い方だろう」
アルテミシアは答えなかった。反抗的に唇を引き結んでも、サゲンには感情を隠せない。だから、サゲンが優しく唇を重ねて来るのを甘んじて受け入れ、その腕の中にすっぽり収まると、背中に腕を回してきつく抱き付いた。自分よりも温かいサゲンの体温が薄い寝衣越しに肌に伝わり、安堵が爪先まで広がっていく。
サゲンは柔らかい髪を弄び、背中を撫でてやった。
「しばらく一緒にいてやれなくて悪かった。陸路は人数も少ないし馬での移動だから、話したい時は…」
と、やけに反応の薄いアルテミシアの顔を覗き込むと、サゲンは静かに大きな溜め息をついた。アルテミシアはサゲンにがっちりしがみついたまま、安心しきった顔で心地好さそうに寝息を立てている。柔らかい胸がゆっくりと上下し、薄布の寝衣越しにその官能的な感触を思い出させた。
「くそ…。帰ったら覚えていろよ」
脚の間が硬くなったのを感じながら、既に夢の中にいるアルテミシアをそっと抱きしめた。
「おやすみ、アルテミシア」
長い夜になりそうだ。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
『床下に札束を隠す金髪悪女は、毎朝赤いマットの上で黒の下着姿で股を開く』〜ストレッチが、私の金脈〜
まさき
恋愛
毎朝六時。
黒の下着姿で、赤いヨガマットの上に脚を開く。
それが橘麗奈、二十八歳の朝の儀式。
ストレッチが終わったら、絨毯をめくる。
床下収納を開けて、封筒の束を確認する。
まだある。今日も、負けていない。
儚く見える目と、計算された貧しさで男の「守りたい」を引き出し、感情を売らずに金だけを回収してきた。
愛は演技。体は商売道具。金は成果。
ブリーチで傷んだ金髪も、柔らかく整えた体も、全部武器だ。
完璧だったはずの計算が、同じマンションに住む地味な男——青木奏の登場で、狂い始める。
奢らない。
触れない。
欲しがらない。
それでも、去らない。
武器が全部外れる相手に、麗奈は初めて「演じない自分」を見られてしまう。
赤いマットの上で、もう脚を開けなくなる朝が来るまでの話。
【完結】【ママ友百合】ラテアートにハートをのせて
千鶴田ルト
恋愛
専業主婦の優菜は、夫・拓馬と娘の結と共に平穏な暮らしを送っていた。
そんな彼女の前に現れた、カフェ店員の千春。
夫婦仲は良好。別れる理由なんてどこにもない。
それでも――千春との時間は、日常の中でそっと息を潜め、やがて大きな存在へと変わっていく。
ちょっと変わったママ友不倫百合ほのぼのガールズラブ物語です。
ハッピーエンドになるのでご安心ください。
イケメンエリートは愛妻の下僕になりたがる(イケメンエリートシリーズ第四弾)
便葉
恋愛
国内有数の豪華複合オフィスビルの27階にある
IT関連会社“EARTHonCIRCLE”略して“EOC”
謎多き噂の飛び交う外資系一流企業
日本内外のイケメンエリートが
集まる男のみの会社
そのイケメンエリート軍団のキャップ的存在
唯一の既婚者、中山トオルの意外なお話
中山加恋(20歳)
二十歳でトオルの妻になる
何不自由ない新婚生活だが若さゆえ好奇心旺盛
中山トオル(32歳)
17歳の加恋に一目ぼれ
加恋の二十歳の誕生日に強引に結婚する
加恋を愛し過ぎるあまりたまに壊れる
会社では群を抜くほどの超エリートが、
愛してやまない加恋ちゃんに
振り回されたり落ち込まされたり…
そんなイケメンエリートの
ちょっと切なくて笑えるお話
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった
くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。
血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。
夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。
「……涼介くん」
薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。
逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。
夜、来て。
その一言が——涼介の、全部を壊した。
甘くて、苦しくて、止まれない。
これは、ある夏の、秘密の話。
