王城のマリナイア

若島まつ

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三十五、ベルージの罪 - i crimini -

 バルカ将軍指揮下のイノイル軍がバイロヌス港に到着した翌日、ミルコ・フラヴァリ提督から派遣されたルメオ軍の兵士三名が予定通り領主フラヴァリ邸を訪れ、案内役としてバルカ隊に合流した。彼らもまた軍装ではなく、短いベストにシャツ、細身のズボンとブーツという、ルメオの上流から中産階級の平服で現れた。案内役と言ってもその実は外国の軍が国内で勝手な真似をしないように監視する目付け役だが、サゲンは無論それを暗黙の裡に承知している。自分がミルコ・フラヴァリの立場でも同じ対応をするだろう。目立たぬようにという前提のためでもあるが、目付け役が三名しかいないというのは、むしろ少々監視が緩いとも言える。
 ふくよかで優美な領主夫人はイノイルのドレスでは道中目立つからと、ルメオのドレスを二着アルテミシアに用意してくれた。どちらも襟の付いたベージュや茶色のドレスで、スカートは特殊な縫製と内側の何層かの布で後ろに膨らみがある。動きやすさで言えば女王考案の女性用の軍服には遠く及ばないが、確かにこれなら供を連れて物見遊山の旅行をする上流階級の女性に見えなくもない。
 土地勘のあるルメオ軍の合流はバルカ隊にとって有益な情報をもたらした。パタロア出身の兵がパタロア手前の山脈を越えるのに適した馬が購える宿場町を通るルートを薦め、イノイルから連れて来た馬を宿場に預けられるよう手配してくれたのだ。これもまた、ミルコ・フラヴァリ提督の計らいだった。アルテミシアと同郷の兵がいることもあり、両国の兵たちの関係も良好だった。
 二日後、バルカ隊とフラヴァリ隊は山を越えてパタロアの土を踏んだ。アルテミシアはといえば、あれ以来不調も疲れた顔も見せずに、いつもの溌剌とした様子で兵達と共に馬を駆っていた。
 サゲンはしばしばルメオの兵たちがアルテミシアに向かって意味ありげな視線を投げたり意味もなく接触しようとしたりするのに目を光らせなければならなかったが、一方で彼女が普段の英気を取り戻したことに安堵していた。精神を削って少年のように悶々と眠れぬ夜を過ごした甲斐があったというものだ。
 小高い丘の下、所々に錆の付いた鉄柵とアーチ型の鉄の門の向こうに、その屋敷はあった。四角い三階建ての建物で、重苦しい灰色の外壁には蔦が這い、屋敷の後ろには三本の樫の木が生えている。周囲の広大な農地には夏草が青々と茂り、小作人たちが畑仕事に精を出していた。
 ここからは軍としての権力を行使することになる。サゲンはイノイルでの高い地位を意味する黒の外套とイノイル海軍の鷲と帆船の徽章を身に着け、アルテミシアとリコとレイも群青の外套を着た。全てにイノイルの鷲の紋章が金糸で大きく刺繍されている。フラヴァリ提督から派遣されたルメオ軍の兵達も、古代のガレー船を模ったルメオ軍の徽章を胸と腕につけ、作戦に備えた。
 この時先頭にいたアルテミシアは、しばらく言葉を発せずに丘の上に立ち竦んでいたが、いつの間にか隣に並んでいたサゲンに気付くと遠く丘の下を眺めたまま呟いた。
「覚えてるより小さい」
「俺にもそういう感覚には覚えがあるな。子供の頃、遠く離れた祖父の牧場に化け物みたいな暴れ馬がいたんだ。俺はそいつが怖くて牧場に近付けなかった。何しろ鯨くらいの大きさで、近付いたら蹴り殺されるか喰われると思っていた。それが、数年後にもう一度訪ねてみたら、なんのことはない。普通よりちょっと大きくて気性が荒いだけの、ただの馬だったんだ」
 アルテミシアは大きく口を引き伸ばして笑った。
「あなたが馬を怖がっていたとはね」
 アルテミシアの脳裏に、濃い栗色の巻き毛の男の子が涙を目にいっぱい溜めて怯えながら大きな馬を遠巻きに見ている光景が思い浮かんだ。想像したサゲン少年は今の姿と似ても似つかず、小さく頼りなげで可愛らしい。
「記憶ほど当てにならないものはないということだ」
 サゲンの涼やかな目が優しく細まってアルテミシアの顔を見た。
「言えてる」
 兵たちはアルテミシアが地面に枝で描いた見取り図に従って二手に分かれ、馬を駆って屋敷へ近付いた。

 サゲン、アルテミシア、リコと二人のルメオ兵は正面の鉄の門をくぐった。リコが下馬してベルージ家の鍵の紋章のついたノッカーを叩くと、程なく白いドレスに茶色のエプロンを身に付けた若い女中が姿を現した。アルテミシアは彼女に見覚えがないから、少なくともアルテミシアがこの屋敷を出た後に雇われたのだろう。
 若い女中は前触れもなく現れた軍装の五人に腫れぼったい目蓋を大きく開いて何事かと聞きたそうな顔をしたが、礼儀正しく会釈をして「御用向きは」と聞いた。
「エンリコ・ベルージ殿はおられますか」
「少々お待ちを…」
 こういう時は相手の名を確かめてから主人に取り継ぐものだが、若い女中は突然のことに動転したのか、それすらもせずに奥へ入って行った。次に現れたのは、ふわふわした白髪頭の小柄で丸っこい体つきをした女中だった。
「うちの若い子に不手際がありまして、すみませんね。失礼ですが、どちらの――」
 と、老年の女中は馬上のアルテミシアの姿を見るなり仰天し、小柄な体格からは意外なほどよく通る大きな声で叫んだ。
「ミーシャお嬢様!」
 アルテミシアは馬上からにっこりと笑いかけた。
「久しぶり、ロベルタ」
 ロベルタはドナが雇われるよりも前からこの屋敷に仕えている女中で、アルテミシアの記憶にある限りこの屋敷でいちばん温厚な人物だ。最後に会ったのはユルクス大学の合格通知と奨学金の契約書を持ってエンリコ・ベルージの鼻を明かしてやった時だったが、その時もロベルタは激怒する主人にたじろぎもせず、修羅場と化した書斎へにこにこと紅茶を運んできた。当時はまだ金色の残っていたロベルタの髪が、今はすっかり真っ白になっている。
「まあまあ、こんなにおきれいになられて…!」
 ロベルタが喜び半分、戸惑い半分で叫んだ。その声を聞いた使用人たちが奥から次々に顔を出し、アルテミシアも見覚えのある中年の使用人や母の侍女がざわつきながらエントランスへと集まってきた。本物かと疑う者もいれば、ロベルタのように喜色を浮かべて中へ招こうとする者もいた。が、皆同じ疑問を持っているようだ。――何故何年も前にいなくなった令嬢が突然帰って来たのか。それも、イノイルの紋章のついた外套を着て。
 依然、アルテミシアは馬から降りようとしない。
「お茶をしにきたんじゃないの」
 アルテミシアの後ろから黒い外套を着た厳しい顔つきの大男が馬に乗ったまま進み出たので、ロベルタは後ずさりした。四肢のがっしりとした馬に跨り、軍人らしい均整の取れた大きく逞しい身体がいっそう威圧的に見える。アルテミシアはロベルタをちょっとだけ不憫に思った。任務に集中している時のサゲンは、アルテミシアが初めて会った時と同じ、無感情で優しさの欠片もないような顔をしている。顔立ちが端整な分、尚更それが引き立つのだ。
「エンリコ・ベルージを呼んでもらう。見ての通り、これは社交的な訪問ではない」
 大男の厳しい表情と有無を言わせぬきっぱりとした物言いに、エントランスへ集まった使用人たちは事が尋常ではないと感じ始めたらしい。何人かの使用人が慌てて奥へ入って行った。
 しばらくして屋敷の奥から複数の足音が聞こえてくると、アルテミシアは胸がざわざわと落ち着かなくなった。今になって、母親がどんな顔で自分を見るのかが怖くなった。思わずサゲンの顔を見ると、サゲンは目だけで微笑み、小さく頷いて見せた。アルテミシアはほっと息をつき、肩の力を抜いた。
 足音が止まり、エントランスにベルージ夫妻が姿を現した。エンリコ・ベルージの顔は相変わらず四角く、フサフサとした自慢の茶色い口髭には白い毛が混じっている。不愉快なものを見るように小さな目をすがめ、五人を交互に見た。この無礼な態度に、ルメオ兵たちも気分を害したらしい。アルテミシアには彼らが後方で「共和国の恥晒し」と囁いたのが聞こえた。
 落ち着いた様子で夫の後ろについていたマルグレーテ・ベルージは、アルテミシアの記憶よりも少し痩せたようだった。鳶色の髪は昔と変わらず艶やかで、非の打ち所がないほどきちんと結われている。
 母親の丸くくっきりとした茶色い目がこちらを見た瞬間、アルテミシアは胸が締め付けられるように痛くなった。
 マルグレーテ・ベルージは娘の顔をはっきり見ると、夫を押しのけるように前へ進み、一言も発せずアルテミシアの乗る馬の前脚のところまでやって来た。
 母が夫よりも前に出る場面など、アルテミシアはこれまで見た事がなかった。その顔に浮かんだ感情が何なのか、上手く読み取る事ができない。
 マルグレーテがアルテミシアに向かって何か呟いたように見えたが、それと同時にエンリコ・ベルージが横柄な態度でフンッと鼻を鳴らしたので結局何も聞き取ることができなかった。
「何年も前に縁を切った娘と軍人なんぞが俺の屋敷に一体何の用だ」
 ‘軍人なんぞ’という言葉に、エンリコ・ベルージが持つ国家権力への嫌悪感がはっきりと表れている。
「心当たりがあるはずだ。屋敷を改めさせてもらう」
 サゲンの低い声が敵意と氷のような冷たさを含むと、それだけで大体の人間が震え上がる。エンリコ・ベルージも例に漏れず、たじろいで押し黙ったが、次に矛先を向ける相手に焦点を合わせると再び四角い顔を真っ赤にして怒鳴った。
「お前の差し金だな!育ててやった恩も忘れて、この恥知らずが!」
 アルテミシアは視界の端でリコがこちらをチラリと見たのを捉えた。アルテミシアが下士官たちの前でサゲンを怒らせた時、皆一様にこんな目をして上官の顔を見る。今度はアルテミシアが爆発しないか心配しているらしい。
(雷を落とす直前のサゲンと同じってこと?)
 不思議な気分だった。エンリコ・ベルージの怒りを感じれば感じるだけ頭が冴えていく。この老人に何を言われても、何も感じない。その無機質さに反比例して、まだ一度も言葉を発していない母親の反応にはひどく神経質になっていた。
 アルテミシアは母親の顔を見ることなく、エンリコ・ベルージを馬上から見下ろした。
「身から出た錆ってやつだよ、エンリコ・ベルージ。それに、あんたには育ててもらっていないから恩はないし、恥知らずはあんたのほう」
 エンリコ・ベルージのこめかみに、血管が浮いた。
「俺の金で飯を食ってきたというのに、何という言い様だ。だいたい、当主を呼びつけた挙げ句、馬から降りもせず見下ろすとは――」
「あなたのお金じゃありませんわ」
 最初は誰が言ったのか分からなかった。が、アルテミシアはあの儚げな母親の口から言葉が出ているのをはっきりと聞いた。静かな声の中に、鋭く冷たい怒りが感じられる。エンリコ・ベルージも怒りで顔を赤くしたまま、目を大きく開き、口を半開きにして妻を見ている。滑稽な顔だ。
「この子の生活費は生まれてからユルクスへ行くまで、すべてわたしの持参金から出しました。この子に関わる費用であなた個人の資産を使ったことはありませんわ」
 エンリコ・ベルージの表情は、まるで飼い犬が人間の言葉を話し始めたのを聞いたかのようだった。それほど平素無口で従順な妻の反論に衝撃を受けたらしい。アルテミシアも同じくらい驚いていた。人生の全てを諦めたような顔で夫に従っていた母が、きっぱりと夫の言葉を否定したのだ。
「ここでは目立ちますわ。中にお招きしたほうがよろしいのではなくて?」
 エンリコ・ベルージは動物が敵を威嚇するように鼻と腹を膨らませ、肩を怒らせたが、マルグレーテは淡々とロベルタや戸惑う使用人たちに指示を出して客人・・たちを中へ招き入れる準備をさせ始めた。
「何を勝手に…!俺はまだ何も言っておらんぞ!」
 我に返って再び喚き始めたエンリコ・ベルージに向かって、マルグレーテは静かに微笑んだ。
 馬を降りながらその様子を見ていたサゲンは、思わず口の端をひくひくさせそうになった。マルグレーテ・ベルージは今、アルテミシアが相手に激しい敵意を見せる時と同じ目をしている。
「でも、こうするしかありませんでしょう?共和国とイノイル政府が寄越したのなら、追い返したところで今度はもっと大勢がやって来ることになりますもの」
 妻に無感情な声で淡々と説得され、エンリコ・ベルージも他に道がないと悟ったらしい。敵意を最大限に眼に込め、大きく鼻を鳴らして、ドスドスと足音を響かせながら屋敷の奥へ入って行った。
「賢明な判断だ、ベルージ夫人」
 そう言って屋敷の中へ入るサゲンを一瞥したマルグレーテの顔は、無表情なサゲンよりももっと冷ややかだった。
(よく似ている)
 とサゲンが思ったのは、顔立ちのことではない。むしろ外見で言えばあまり似ていないほうだ。例えばアルテミシアの顎は緩やかなカーブを描いているが、母親のマルグレーテは細く尖った顎をしているし、頬骨も母親の方が高い位置にある。それに、体格が全く違っていた。アルテミシアは女性にしては背が高く肩幅もどちらかと言うと広い方で均整の取れた体つきをしているが、母親の方は小柄で肩も狭く、腰のあたりで組んでいる手指は小さく頼りない。一つだけ外見で完全に一致するのは、目の形だ。丸みを帯びたアーモンド形の目は、母親に生き写しだった。
 前を行くサゲンに続いてアルテミシアは凡そ十年ぶりに生家の敷居を跨いだ。マルグレーテは目の前を娘が通り過ぎる時も、一言も言葉を掛けなかった。アルテミシアも母親の方を見なかった。どんな顔をしてよいのか、見当もつかない。
 使用人たちはサゲン以下五人をエントランスの奥の客間へ案内しようとしたが、サゲンは立ったままそれを拒み、相変わらず顔を真っ赤にしながら客間の扉の前で仁王立ちするエンリコ・ベルージを一瞥した。
「一体どんな権限で俺の屋敷を調べようって言うんだ?」
「お前には人身売買の疑いがかけられている。ラウル・ヒディンゲルを知っているな」
 ロベルタが悲鳴にも似た驚愕の声をあげ、両手で口を押さえた。他の使用人たちも、恐ろしいものを見たような目で互いの顔を見合わせている。
 サゲンの声音は静かだったが、内心では目の前の横柄な男に掴みかかって床に叩きつけたい衝動と戦っていた。アルテミシアを人間のクズに売ろうとした、この男もまた人間のクズだ。
「人身売買?冗談じゃない!あれは正当な婚約だった!それも、そこの娘が逃げてさえいなければだがな」
 エンリコ・ベルージはアルテミシアを顎でしゃくった。またしてもリコが例の顔でアルテミシアをチラリと見た。
(怒らないってば)
 と、リコに向かって目を見開いて見せた。確かにムカつくが、ブチ切れるほどではない。少なくとも、今はまだ。それよりも、アルテミシアにはサゲンの方が怒っているように見える。
「では部下とルメオ兵たちが関係する書類を探している間、お前にはアミラ王国のラウル・ヒディンゲルとどのような経緯で縁談を取りまとめたのか、説明してもらう」
 青灰色の目がはっきり語っていた。吐くまでは拷問も辞さないだろう。エンリコ・ベルージが初めてその目に恐怖を見せた。

 リコと二人のルメオ兵はアルテミシアの案内で、二階の書斎の調査から取り掛かった。
 壁際の大きな本棚には立派な装丁の書物がズラリと並んでいて、本の大きさごとに分けられ、タイトルの頭文字順に並べられている。黒い漆塗りの机の上には、きちんと等間隔に置かれたペンとインクの瓶の他は何もない。
「僕なら本は分類ごとに分けるね」
 リコが言った。
「ぜんぶ飾り物だろ。あの陰険なジジイに本を読む風情があるようには見えない」
 パタロア出身のルメオ兵が吐き捨てるように言った。エンリコ・ベルージは第一印象だけで相手に不快感を与える才能に恵まれている。アルテミシアはぷっと噴き出した。
「しかしまあ…」
 と、リコは部屋中にぐるりと視線を巡らせた。あまりに整然としている。椅子も等間隔に置かれ、暖炉の上に置かれた壺やランプなども大きさごとに一直線に並べられて、床や棚の上には当然のように塵ひとつない。
「ちょっと病的でしょ。わたしが子供のころから、この部屋の掃除は誰もやりたがらなかった。例えばペンを置く角度がほんの少しずれるだけで、あいつが唾を飛ばして怒鳴るから」
 事実、アルテミシアはそういう場面を何度も目撃してきた。今思い出しても胸が悪くなる。
 アルテミシアがエンリコ・ベルージの尋問に合流するため書斎を出て行くと、彼らは手分けして捜索を始めた。広い部屋の割に物が多くないことと不自然なほどに整頓されているため、探す場所に目星をつけるのは容易だった。キャビネットや本棚から関係のなさそうなメモや日記、税金対策のための隠し口座の書類を見つけた後、机の横の背の丈ほどの書類棚からは膨大な商売の記録が出てきた。黒い表紙の付けられた分厚い束が一年ごとに分けられていくつも重なり、上から日付順に収まっている。
 リコは違和感を抱いた。書類棚には鍵穴があるのに、開けるときは施錠されていなかった。束ごとに日付を確認すると、抜けている箇所がある。つかつかと窓へ近寄り、外を見下ろした。

 広間のソファに足を組んで座るサゲン・バルカ将軍とたった一人で対峙したエンリコ・ベルージは、黙したまま自分もソファに腰かけていたが、相手が何も言わずに氷のような視線を無遠慮に浴びせて来るのにとうとう痺れを切らせた。
「いつまでそうしている気だ?」
「お前が質問に答えるのを待っている。ラウル・ヒディンゲルと知り合ったのはいつだ」
 エンリコ・ベルージは答えず、憎々しげにサゲンの顔を睨めつけた。
「自分の立場が分かっていないようだ」
 サゲンがソファから立ち上がった。黒い外套が翻り、金色の鷲の紋章が厳めしく舞う。高い位置から大きな身体に見下ろされ、その威圧感にエンリコ・ベルージは怯んだ。
「ラウル・ヒディンゲルは海賊と結託して人身売買の利益を得ている。過去に取引をしたお前も同罪だ。ルメオ共和国政府を始め、我がイノイル王国、エマンシュナ王国、アム共和国もこの海賊掃討作戦に加わり、海賊と取引した者や関係者を一人残らず、徹底的に処罰する。ヒディンゲルと取り引きした時点でお前の命運は尽きている。自分の身が可愛ければ真実を話すことだな」
 エンリコ・ベルージの小さな目が恐怖を映した。ようやく事の重大さを認識したらしい。それでもまだ逃げ道を探すように、茶色い口髭を震わせながら言葉を探している。
「あれは…、あれは人身売買じゃない。正当な婚約だった!それとも、違法な売買だったという証拠があるのか?」
「時間の問題だ。それに、今この時点でお前の立場が不利だという事実は変わらない。イノイルでのアルテミシア・ジュディット嬢の立場を聞いたか、エンリコ・ベルージ」
「あんたの愛人か?フン、アバズレめ」
 そう吐き捨てたエンリコ・ベルージは、この愚かな発言を瞬時に後悔することになった。
 鬼の形相とは、正にこのことだ。
 目の前の男は殺人者のように残忍で冷酷な目をして、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。巨大で凶暴な猛獣が今にも獲物を嬲り殺しにしようとしているかのようだった。
「口に気をつけろ、エンリコ・ベルージ」
 獰猛な表情とは正反対の、静かで冷ややかな声色だった。それがかえってエンリコ・ベルージを震え上がらせた。
「アルテミシア・ジュディット嬢はイノイル王国イサ・アンナ女王陛下が最も信を置く通詞だ。彼女が望みさえすればお前の裁判をイノイルで行うこともできる。陽の差さない狭い牢獄に死ぬまで閉じ込めることも、特別な尋問施設へ送って爪を一枚一枚剥ぎ、肋を折り、歯を一本ずつ抜いて殺してくれと懇願するまで苦痛を与えることも可能だ。これは脅しではない」
 先程まで真っ赤だったエンリコ・ベルージの顔は、今や蒼白になっている。

 この時、アルテミシアは広間の前でひどく困惑したロベルタに呼び止められていた。
「どういうことなんです?ミーシャお嬢様…。ロベルタはもう何が何だか…」
 アルテミシアは、いつも伸びやかなニコニコ顔で母と自分の世話をしてくれたロベルタを不憫に思った。これから彼女たちがすることは、結果としてロベルタや罪のない他の使用人たちの仕事を奪うことになる。
「…ロベルタ、頼れる人はいる?」
「ああ!やっぱり!」
 ロベルタは両手で顔を覆って天を仰いだ。
「いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていたんですよ!旦那様にはいつか天罰が下るって!」
「どうしてそう思ったの?」
「お嬢様は正しい選択をなさいました。ほんとうに、ほんとうに生きていてよかった」
 ロベルタは皺の多い頬にぽろぽろと涙を流しながらアルテミシアの手を握った。
「ミーシャお嬢様がいなくなった後、みんなが大騒ぎしているところへヒディンゲル家からの使者という方が来たんです。それからですよ。旦那様は毎日何通も何通も手紙をどこかに書き続けて、とうとう奥様の姪御さんを養女にすることになったんです。奥様は必死で止めようとなさっていましたけれど、もう全部遅かったんですよ。あの旦那様を止められる人はこの屋敷にはおりませんもの。それはそれは黄色い髪の可愛らしいお嬢様で…」
 アルテミシアの背筋を冷たいものが掠めて行った。全身の血が氷河に浸かったように冷えていく。手が震えないよう、きつく握りしめた。
「でも、まさか十三歳の女の子を嫁がせるなんて…その上…ああ、ミーシャお嬢様。旦那様があんな惨いことのできる人間だとは思いもしませんでした」
 心臓が締め付けられるほど痛い。胸が悪くなり、今にも吐きそうだ。それでも、最後まで聞かなければならない。アルテミシアは奥歯を噛んでこみ上げてくる涙を堪えた。
「遠くへ嫁がされると知って泣き叫ぶお嬢様に、鎮静薬を飲ませて馬車に乗せてしまったんです。それから何か月かして、嫁いだはずのお嬢様が馬車で帰って来たんですよ…。身体中にひどい傷を負わされて、骨が浮くほど痩せ細って…もう、生きてもいませんでした」
 ロベルタは嗚咽を漏らして崩れ落ちた。
「あんなこと、誰ができると言うんです?あんな…悪魔みたいな真似を」
 アルテミシアが気付いた時には、足は既に広間へ向かっていた。

「この――」
 サゲンは雷光のようにアルテミシアが広間の扉から躍り上がり、エンリコ・ベルージをソファごと後方へ倒して殴りかかったのを止めようとはしなかった。
「人殺し!」
 アルテミシアは激昂した。
「あんたのせいで罪の無いわたしの従妹が惨殺された!」
 エンリコ・ベルージは顔面蒼白のまま、アルテミシアを憎々しげに睨め付けた。
「お前が大人しく嫁いでいればこんなことにはならなかった!」
「違う!あんたがヒディンゲルなんかと繋がりを持ったのが間違いだった!金なんかのために…!」
 アルテミシアが拳を振り上げた時、サゲンがその腕を取って止めた。
「こんなやつのために君が手を痛める必要はない」
 アルテミシアはハシバミ色の目を潤ませてサゲンを振り返った。曇天の海のような瞳が、アルテミシアに自制を取り戻させる。アルテミシアは拳を下ろし、代わりにその手で目元を拭った。
「…従妹の死体がこの屋敷にわざわざ帰ってきたのは、見せしめでしょう。ヒディンゲルは貴族の血統の娘が欲しかった。でも従妹がそうではないと知られ、あんたはヒディンゲルを怒らせた」
「仕方がなかった!」
 エンリコ・ベルージは床に倒れたまま、ほとんど叫ぶように言った。
「そうでもしなければ、財産だけでなく俺の命まで奪われていた!俺は自分と家を守りたかっただけだ!」
「そうなるべきだった。どちらにせよ、わたしもベルージの血なんか引いていないんだから」
 アルテミシアは立ち上がり、エンリコ・ベルージに見向きもせず広間の扉へ向かった。
 そこへ、屋敷に入る前に分かれたレイとルメオ兵が、中年のひょろりとした使用人を連れて現れた。レイは手に黒い表紙のついた書類の束を持ち、使用人はルメオ兵に腕をがっちりと掴まれている。
「ミーシャの言った通り、裏口ではなく庭を抜けて庭師が使う通用口から出てきました。燃やそうとしていたようです」
 サゲンはレイから書類を受け取りパラパラと中を改めた。目には暗い怒りが見える。
「申し訳ありません、旦那様…」
 使用人がか細い声で許しを請うたが、呆然と虚空を見つめるエンリコ・ベルージにはもはや聞こえていなかった。
「終いだな、ベルージ。ヒディンゲルとの人身売買に関する証拠が出た。正当な婚約なら、商品の目録には載せないはずだ」
 アルテミシアは戸口から戻って来てサゲンから書類を受け取り、サッと目を通した。六年前の日付を見ると、骨董品や反物などの商品に混ざって、自分の名前が載っている。不思議なことに、それを見てももう何とも思わなかった。
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