王城のマリナイア

若島まつ

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三十六、母と娘 - Madre e Figlia -

 リコと二人のルメオ兵が書斎でここ数年の「船舶」の取り引きの証拠を見つけ、広間にいるサゲンの元へ報告にやって来た時には、既に大方の自供が済んでいた。
 エンリコ・ベルージはマルグレーテと結婚して二年後に一度事業に失敗し、莫大な負債を抱えた時期があった。その時、エマンシュナの銀行家を通じて知り合ったのがアミラ王国の貴族で資産家でもあるラウル・ヒディンゲルだった。細身で背が高く上品な初老の紳士で、エンリコ・ベルージに美しいストロベリーブロンドの幼い娘がいると聞くや、出資を申し出たのだ。エンリコ・ベルージは、その意味するところを暗に理解した。
 ところが、肝心のアルテミシアは長じてユルクスへ出奔し、何故か家長であるエンリコ・ベルージには娘の居所は全く耳に入ってこない。その折、ヒディンゲルから使いが来て婚儀を早めたいと言われたのだ。無論、拒否できるはずがない。ヒディンゲルには返せないほど大きな借りがある。娘がユルクスにいることだけを告げると、使者は長居せずにさっさと帰って行った。
 エンリコ・ベルージは愚かにもアルテミシアが既にアミラへ嫁いだものだと思っていた。しかし、それも同じ使者が怒りの形相で再びこの屋敷の門をくぐるまでの話だ。迎え・・にやった使いの者が重傷を負った上、ラデッサの監獄に収監されたというのだ。これが世間に露見すればどんな噂が立つか分からない。エンリコ・ベルージはなんとか自分がこの先の一切の責任を負うからと交渉して婚儀を一年引き延ばすことに成功し、アルテミシアが大人しくパタロアへ戻ってくるのを待つことにした。
(馬鹿なやつだ)
 自白した内容を重苦しい手付きでエンリコ・ベルージが書面に記す間、殺意にも似た気持ちでその四角い顔を見下ろした。
 サゲンはアルテミシアと出会ったその瞬間に彼女が並外れた行動力に溢れ、大人しく他人の命令を聞くタチではないということを理解したというのに、エンリコ・ベルージは仮にも娘として妻や使用人に育てさせた少女のことを、頭から理解していなかったのだ。多分、感情を持たない商品と同列に考えていたのだろう。
 アルテミシアを失い、妻の姪を身代わりに立てることに失敗した後、ベルージの立場は益々悪くなっていった。
 その結果が、リコたちの持ってきた書類に示されている。即ち、南エマンシュナの造船業者への多額の出資だ。
「お前のような奴が同郷だと思うと吐き気がするよ。チェステ公は決してお許しにならないだろうな」
 パタロア出身のルメオ兵が吐き捨てた。
 エンリコ・ベルージは傲慢な態度を取ることも諦め、三人のルメオ兵に連れられて監獄行きの馬車に大人しく乗り込んだ。
 証拠隠滅を図った使用人の男も別室で尋問を受けたが、やはり主人に書類の持ち出しを命じられたのみで何も知らなかったため、この場で赦免された。しかし、家長であるエンリコ・ベルージがこの屋敷に帰って来ることはないだろう。それにも関わらず、見送る者は誰もいなかった。
 主を失った使用人たちは皆一様に茫然自失の体でいたが、ロベルタが気丈にもいつものニコニコ顔でアルテミシアやサゲン達の世話を焼き始めたので、他の使用人たちも徐々にそれに倣い始めた。広間の中央の円卓に少しずつ茶や茶菓子が置かれ、使用人たちは主がたった今罪人として捕縛されたことを全く無視するように客人をもてなしたが、ソファに腰を下ろしたサゲンはベルージの台帳を厳しい顔つきで調べている。
「さあ、寝室にいらっしゃる奥様にも何か元気の出るものをお出ししなくちゃいけませんね」
 ロベルタが盆に乗せたティーポットとカップを上階へ運ぼうとした時、広間の入り口にマルグレーテが現れた。
「こちらでいただくわ、ロベルタ」
 リコとレイは貴婦人を迎えるために椅子から立ち上がったが、サゲンは腰を下ろしたまま台帳からちらりと視線を上げただけだった。
 マルグレーテは氷のような視線で円卓のそばに腰掛けるサゲンを見、その影に隠れるように身を小さくしたアルテミシアへと視線を移した。
「済んだようですわね」
「つつがなく」
 サゲンも表情を消したまま、抑揚の無い声で言った。
 その時、マルグレーテが初めて感情を露わにした。茶色い目には、怒りが滲んでいる。
 アルテミシアの心に失望が広がった。母が夫を連行されたために怒ったのだと思ったからだ。
「一体――」
 マルグレーテはツカツカとサゲンに歩み寄った。ロベルタや他の使用人たちは目を丸くし、或いは口を手で覆って、身動きを忘れた。このような奥方は、初めて見る。アルテミシアも同じだった。
「わたしの娘に何をさせているの!?」
 物凄い剣幕だった。
 アルテミシアはサゲンの頭越しに母を見た。あの儚げな母が眉尻をこれほど高く上げられることを初めて知った。
「わたしが、これまで何のために…!」
 小柄なマルグレーテ・ベルージは拳を握りしめ、あまつさえ大人と子供ほどに体格差のある偉丈夫に今にも掴みかかりそうな勢いだ。使用人たちだけでなく、リコとレイもその場に突っ立ったまま固唾を飲んだ。サゲンは冷淡とも取れる静かな態度でマルグレーテを見ている。
 が、口を開いたのはサゲンではなかった。
「わたしの案なの」
 マルグレーテは怒りの表情のまま、娘の顔を見た。
「命令されて来たんじゃない。サゲンはわたしの提案を汲んでくれただけ。それも、色んな人を説得して」
 リコとレイは密かに顔を見合わせた。我らが上官の呼び名がいつの間にか「バルカ将軍」から「サゲン」になっている。
「ではお前はどうしようもない愚か者です!」
 これにはカチンときた。アルテミシアも母親と同じくらい瞳に怒りを滲ませ、食って掛かった。
「夫の違法行為に目を瞑り続けるのは愚か者じゃないっていうの?」
「目を瞑っていたわけではないわ」
「へえ。じゃあ何のために何をしたのか教えてくれる?小さい子供が母親から引き離された時、何をしたの?初潮もまだの娘がどこかの変態じじいに嫁がされそうになった時は?ユルクスにアミラから男が来てわたしを拉致しようとした時は?」
 サゲンの背中にピリッと緊張が走ったことに、リコは気付いた。こういう話題は他の男に聞かせたくなかっただろう。が、聞いてしまったものは仕方がない。リコはアルテミシアがこれ以上迂闊な発言をしないよう祈ったが、どうやら無理そうだ。母子二人して頭に血が上っている。
「‘初潮’だなんて、人前で話すことではありません!」
「関係ないよ!全部諦めたような顔で、自分の幸せも娘も全部放棄して、あんな人でなしの言うなりになって生きて来たくせに、今更偉そうに母親みたいなことを言うのはやめて!わたしはもう、あなたの娘じゃないんだから!」
 この時母親の目に何が浮かんだのか、アルテミシアには考えるいとまもなかった。これ以上母親の顔を見ていることに耐えられず、広間を駆けて出て行った。
「あ!ミーシャ…」
 リコが呼び止めるよりも、サゲンが席を立つ方が早かった。サゲンはアルテミシアの後を追って扉の向こうに消え、広間には間抜けに突っ立ったままのレイとリコが怒れるアルテミシアそっくりの表情をしたその母親と取り残された。使用人たちは気を利かせてか潮が引いたように別の場所へ移動し、何も聞いていなかったように少々わざとらしく忙しそうに働き始めた。――既にショックから立ち直り、朗らかに微笑むロベルタを除いて。
「ここ最近のお嬢様のこと、聞かせていただけます?」
 ロベルタがいつ用意したのか、四人分の紅茶を配りながら伸びやかに言った。
 
 サゲンは屋敷の裏でアルテミシアに追い着いた。彼女は三本生えているうち一番小さな樫の木の、大人の腰の高さでY字型に分岐した幹の間に腰掛けていた。周囲ではチリチリとコマドリが鳴き、木の枝や草むらを啄ばんでいる。サゲンが草を踏んで樫の木に近付くと、草を食んでいたコマドリたちはパタパタと小さな羽音を立てて枝の上に飛んだ。
 アルテミシアはコマドリが啄ばんでいた草から視線を上げた。
「お説教は結構」
「そんな気はない」
 サゲンは片側の幹に肩を預けて寄り掛かると、アルテミシアの頭をくしゃっと撫でた。
「君たち親子はよく似ている」
「似てない方だと思うけど」
「顔のことじゃない。相手を威嚇する目つき、激しい気性、それに揃って怖いもの知らずだ」
「わたしはそうは思わない」
 アルテミシアはぴしゃりと言った。実の娘の身が脅かされているというのに大人しく傍観していた母親が今日に限って感情的になったからと言って、似ているなどと言われるのは不本意だった。
「少なくとも俺には、気が弱いようには見えなかったな。自慢ではないが、俺が睨めば大の男でさえ怯む。いかに強気な態度で取り繕っても目の奥に浮かび上がる恐怖は隠せるものではない。にも関わらず、恐怖を微塵も見せずに敵意を剥き出しにして俺に食って掛かってきた女性は、君と君の母上だけだ」
 言いながら、おかしくなった。マルグレーテが勝ち目など念頭に置かずに浴びせてきた挑戦的な視線は、アルテミシアが出会った日に見せたものとまったく同じだったからだ。母親とは六歳から生活を共にしていないというのに、その事実が嘘のようにアルテミシアはしっかりとその精神を受け継いでいる。
「皆が君と同じように戦えるわけではない」
 アルテミシアはいつもより少し近い位置に見えるサゲンの瞳をじっと見つめた。
「…あの人も戦っていたと思う?」
「それは本人に聞かなければ分からないさ。ただ、兵法というものは変幻自在でなければならない。君も軍学を学んだのなら分かるだろう。正面から勇猛果敢に立ち向かうだけでは勝機を掴めない」
「言いたいことはわかった。大局を見ろってことね」
 サゲンの薄く形の良い唇が弧を描いた。アルテミシアはその顔を胡乱げに一瞥し、頬を赤らめて視線を外した。
「わかってるよ。感情的になるなって言いたいんでしょ」
「時と場合によるが、今回は、まあそうだな」
「結局お説教じゃない」
「違うさ」
 アルテミシアは口を尖らせて俯き、脚をぶらぶらさせた。さっきは確かに感情的になりすぎたし、あれは子供っぽい振る舞いだった。ただ、とてもコントロールできるものではなかった。子供の頃に行き場を失くし、心の奥に埋もれるだけ埋もれて鬱屈した想いが、母の言動によって掘り起こされ、空気に触れて爆発したのだ。
 視界にサゲンの黒いブーツが見えた。顔を上げると、片側の幹に手をつき、上から覆い被さるようにこちらを見つめるサゲンと目が合った。青灰色の瞳が陽光を受けて優しげに輝き、さやさやと風に揺れる木々の影がしっかりした頬骨から顎に映って踊っている。
 アルテミシアは胸に妙な閉塞感を覚えた。
「傷付けられた痛みは完全には消せないが、痛みの正体を見極めることで心が楽になることもある。それには俯瞰が必要だ」
「別に、傷付いてるわけじゃ…」
「惚れた女が傷付いているかそうでないかくらいは、俺にも分かる」
 サゲンの目が優しく細まる。大きな手が頬に触れた途端、アルテミシアの心臓がどきりと跳ねた。再び温かい血が身体を巡り始めたのを確かに感じた。
「傷を隠そうとしなくていい。君に言わせれば、傷は生き残った証拠らしいからな」
 この瞬間、大きな甕が突然ひっくり返ったかのように、アルテミシアの情緒が溢れ出した。
 自分が何をするつもりか考える前に、腰掛けていた幹から跳び上がってサゲンの首に腕を巻き付け、その唇に自分の唇を押し付けた。
「あなたが好き」
 サゲンはほとんど反射的に腰へ手を伸ばしてその身体を受け止め、一瞬目を丸くした後、輝くような笑顔を見せてアルテミシアの唇を塞いだ。今度は、もっと深く。
 太い樫の幹に身体を押し付けられ、サゲンの硬い身体が更にその先を促すように密着してきても、アルテミシアは唇を離さなかった。髪にしがみつき、不慣れな様子で自分から舌を挿し入れ、夢中で絡めてくる彼女が、サゲンにはたまらなく愛おしかった。アルテミシアがこれほど情熱的にキスを仕掛けてきたのは初めてのことだ。いつも凜と背筋を伸ばしている彼女の中に、どれほどの熱情が隠されているのだろう。全て暴き、残さず自分のものにしてしまいたい。
 互いに息が上がって唇が血色を増した頃、名残惜しそうにサゲンが身体を離した。アルテミシアはオパールのように様々な色彩の散ったヘーゼルの瞳を情交の時のように熱っぽく潤ませ、サゲンを見上げた。
(くそ)
 このまま服を剥いで獣のように交わってしまいたい。
 が、この場で到底できる話ではない。
「俺の忍耐が保つうちに、屋敷へ戻った方がいいな」
 アルテミシアはサゲンの胸に頭をすり寄せ、うん、と頷いた。その時。――
「是非、そうしていただけるかしら」
 二人は悪事が見つかった子供のように、ギクッと背筋を伸ばした。屋敷の方からマルグレーテ・ベルージがこちらへ近付いてくる。
 長い外套を着ていて正解だった。そうでなければ、もっと気まずい思いをしただろう。サゲンはさりげなく外套の前を合わせた。
「ベルージ夫人、これは…」
「説明は結構ですわ。この子はもう大人です。わたしが口を挟むべきことは何もありません」
 マルグレーテの視線がサゲンの向こうにいるアルテミシアへと移った。
「アルテミシア」
 母親の声が自分の名前を呼ぶのが、ひどく懐かしく感じられた。
(そうだった)
 母親はいつも娘を愛称で呼ばず、アルテミシアと呼んでいた。ちょうどサゲンがそうするように。
「お前がベルージの籍から抜けたのは知っています。以前取り寄せた書類に名前がありませんでしたから。それでもお前がわたしの血を分けた娘であることは生涯変わらないわ」
 アルテミシアは自分と同じ形をした母親の目をじっと見つめ、返す言葉を探した。謝るべきだろうか。でもそれは違う気がするし、はなから謝る気などない。
「…どうしてここがわかったの?」
 と口に出して、この質問の意味のなさにうんざりした。いくらなんでも、脈絡がない。
 しかし、マルグレーテは静かに微笑み、樫の木へ近付くと、ゴツゴツした木の幹を小さな手で愛おしそうに撫でた。
「お前のお気に入りの場所だったからよ。お前は嫌なことがあると、必ずここにいました。覚えていない?」
 アルテミシアはかぶりを振った。
「小さかったもの。無理もないわね」
 マルグレーテは寂しそうに一笑し、今度はサゲンの顔を見上げた。氷のような視線は、既にない。
「先程の無礼は謝罪しますわ、バルカ将軍。あなたの部下から話は一通り伺いました」
「気にしていません、ベルージ夫人」
 サゲンはそう言って紳士的な微笑を浮かべ、貴婦人に対する礼を尽くした。ひとつには、娘とのこの場に相応しくない行為を見られたためという理由もある。
 そこへ、ロベルタが湯気の立つ二人分のカップを盆に乗せてトテトテとやって来た。歩くたびにふわふわの白い髪が上下している。
「ああ、やっぱりこちらにいらっしゃいましたね。奥様のおっしゃった通り!」
「…小さい頃のお気に入りの場所は覚えているのに、どうしてわたしのことを思い出してくれなかったの?」
 つい、口から恨み言が出た。このままではまた喧嘩になるかもしれない。サゲンに止められるかと思ったが、サゲンは静かにアルテミシアを見たまま、口を噤んでいる。これが、少なくともアルテミシアの血が熱くなるのを抑えた。
 しかし、アルテミシアの問いに真っ先に反応したのはロベルタだった。
「あらぁ、ミーシャお嬢様!もちろん奥様はお嬢様のことを想っていらっしゃいましたとも!それも、毎日毎日」
 喫驚したような口調の中に、非難が混じっている。
「ロベルタ」
 マルグレーテは制止するような声色で呼んだが、ロベルタは女主人に向かって小さく首を振った。
「いいえ、奥様。ミーシャお嬢様には知る権利があります。もう旦那様はいなくなったんですもの。とんでもない悪事も露見して、…もちろん恐ろしいことでしたけれど、ロベルタは清々しましたわ。もう秘密を守る必要もありません。奥様が仰らないなら、ロベルタが言わせてもらいますとも」
 そうまくし立てながら、ロベルタは紅茶の入ったカップをアルテミシアとサゲンに押し付け、持っていた盆を脇に挟んで胸を膨らませた。
 マルグレーテはふうっと溜め息をついて肩を竦めた。この仕草がアルテミシアにそっくりだったから、サゲンは危うくニヤつくところだった。
「ミーシャお嬢様、お嬢様が山の別邸へ移った後、ドナは毎日お嬢様のことを日記に書いていたんですよ。それを月に一度、奥様ではなくわたくしに送っていたんです。どうしてだと思います?奥様がお嬢様のことを気にかければ気にかけるほど、旦那様が奥様とお嬢様と引き離そうとしたからです。毎日のように手紙を送ったりすれば、お嬢様をもっと遠くて危険なところへ送られてしまったかもしれません。ですから奥様からは一切連絡をしないと決めたんです。奥様のことを精神的に苦しめていたんですわ。本当に、最低のブタ野郎です」
 アルテミシアは平素穏やかなロベルタが口汚く主人を罵ったことに目を丸くした。一方のマルグレーテは唇を歪に吊り上げた。
「奥様はドナとこっそり連絡を取り合っていたんですよ。表向きは、わたくしとドナの私信でしたけれど、そのうちのほとんどがお嬢様のことだったんです。それに、山の自警団長のお嬢さんをミーシャお嬢様の侍女に選んだのも、奥様ですわ。きっと力になってくれると思ったのでしょうね」
 そしてそれは成功した。アルテミシアはガラテアから自衛する術を学び、窮地に陥った自分自身を守ることができたのだ。アルテミシアは驚いて母親の顔を見た。
「母様がガラテアを?」
「…ガラテアのお父様に手紙を書いたのよ。お嬢さんに娘の遊び相手になって欲しいと。わたしがしたのは、それだけ。あとはドナがやりました」
 マルグレーテは観念したように言ったが、ロベルタは尚も食い下がった。
「もちろんそれだけではありませんとも!旦那様がお嬢様の婚約を勝手に決めてしまったとき、奥様は真っ先にドナに手紙を書いたんですよ。ご自分で早馬の使者を雇って、怪しまれないように最善を尽くしたんです。あの頃お嬢様はもうユルクスにいらっしゃいましたけど、旦那様は屋敷の者が勝手なことをしないよういつも目を光らせていましたから」
「じゃ、ドナがわたしに知らせてくれていたのは…」
「そうですとも、お嬢様。すべて奥様のご指示ですわ」
(それじゃあ――)
 アルテミシアの頭の中で、何かが打ち砕かれた。自分で手に入れたと思っていた手札は、そのうちのいくつかが母親によって用意されたものだったのだ。
「わたしの母としての役目は――」
 マルグレーテがゆっくりとアルテミシアに歩み寄った。アルテミシアはこの時、母の茶色い瞳にいくつもの悲しみが映っていることを初めて知った。
「お前をベルージから遠ざけておくことでした。それは同時に母親であるわたしもお前と一緒にいられないということだとわかっていたけれど、ベルージに嫁いですぐにお前を身籠っていると知った時から、全て覚悟の上のことです」
「ベルージはお腹の子が自分の子ではないと知っていたの?」
 アルテミシアの問いに、マルグレーテは冷酷とも思える暗い笑みを見せた。
「あの男は不能です、アルテミシア。もともと結婚したところで、後継ぎを設けることなどできなかったのよ。結婚してから一度も寝室を共にしたことはありません。だからわたしの妊娠はベルージにとって好都合でもあった。表向きに自分の子供がいるとなれば、男としてのバカげたプライドも世間体も保てる。生まれた子が男なら嫡男として育てればいい、娘ならもっといろいろな方法で利用できる。当時はそれくらいの考えだったでしょうね。でも、あの男は無垢な子供と同じ屋敷で暮らせるほど心の綺麗な人間ではなかった」
 マルグレーテは皮肉げに鼻で笑うと、アルテミシアに向かって目を細めて見せた。
「お前は幼い頃から聡明でした。型にはまらず、自由な心を持ち、納得いかないことがあれば果敢に立ち向かったわ。この子なら母の元を離れても生きていける、外の世界がこの子に強さと幸せをもたらしてくれると確信したのよ。そしてそれは正しかった。お前がこの屋敷を離れてから、お前がいつかベルージと何の関係もない別のどこかへ旅立つことを願っていました。例え母の元に二度と戻らなくても。そして、その願いも叶った。…今日までは」
 茶色い瞳がキラリと光った。アルテミシアはまだ責められているのかと思ったが、違った。マルグレーテがアルテミシアの肩を引き寄せ、その頼りない胸へと抱き締めたからだ。アルテミシアはまだカップを持ったままだったが、サゲンが背後からひょいとそれを取り上げてアルテミシアの手を自由にした。自由になった手で、アルテミシアは母の背中にぎこちなく手を伸ばした。
「どれほどお前に会いたかったことか…」
「わたし…」
 鼻がツンと痛くなった。いつの間にか外の景色が水面を覗き込んだ時のように歪んでいる。
「ずっと怒ってると思ってた。わたしがいなくなったせいで従妹が死んでしまったから。わたしが帰って来たせいでみんなが行き場をなくすかもしれないから」
 マルグレーテは娘を抱き締める手に力を込めた。
「お前が気に病むことは何もありません。あの子のことは、わたしの責任です。ベルージがわたしの兄の子を養子に迎えようとしていることに、気付くことができなかった。あの男のしようとしていることを知った時には既に全ての手配が済んでいたのよ。‘一人娘を事故で亡くして妻が塞ぎ込んでいるから、年頃の近い血縁の娘を養子に迎えたい’だなんて嘘までついていたことも、後で知ったわ。でも――」
 母親の声が震えている。アルテミシアは胃を掴まれたような気分になった。
「これでお前がベルージから解放されたと、ベルージに道具として扱われる運命からも、おぞましい婚姻からも、お前が自由になったと、…安堵してしまった――」
 最後は嗚咽に混じって言葉になっていなかった。アルテミシアも、もはや流れ出る涙を止めることができなかった。
(わたしは何も分かっていなかった)
 この人の孤独な戦いを、大きな苦しみを、知ろうともしなかった。
 アルテミシアは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、母親の視線を捉えると、袖でぐいっと涙を拭った。
「報いを受けさせる。ベルージにも、ヒディンゲルにも、裏で繋がっている海賊にも」
「では、わたしがベルージを殺す必要はもうないということね」
 この言葉はアルテミシアにいちばんの衝撃を与えた。涙も引っ込んでしまったほどだ。ロベルタのくれた紅茶に口を付けていたサゲンも、思わずカップを落としそうになって紅茶をこぼしていた。ただ一人、ロベルタだけがサゲンの濡れた胸元をナプキンで拭いてやりながらコロコロと笑い声をあげている。
「奥様ったら。お嬢様と会えたのがそれほど嬉しいんですね。冗談を仰るなんて、珍しいこと」
「冗談ではないわよ」
 マルグレーテの顔は大真面目だった。既に涙はない。
「ドナからの手紙でラデッサのことを知った時、決めたのよ。この男を絶望させた後、命を奪ってやろうと」
 ロベルタの顔から笑みが消え、手からナプキンがポロリと落ちた。
 サゲンはナプキンが土の上に落ちる前にひょいと掴み、静かに耳を傾けた。
「そんな、奥様…!」
「どうやって?」
 そう尋ねたアルテミシアの声は冷静そのものだった。それどころか、興が乗ったように目を輝かせている。自分の母親がなかなかの策士であるということを発見したからだ。
「わたしの手元に残った持参金のうちの一部を投資に充て、資産を増やしたのよ。今は…そうね。ベルージ個人の資産と同じくらいはあるかしら」
 マルグレーテは事もなげに言ってのけた。ロベルタの驚きようは凄まじいもので、今にも卒倒してしまうのではないかとヒヤヒヤする程だ。
「もう少し増やしたら非正規の方法で土地や財産の権利を買収してベルージの全財産を奪い、何よりも大切な資産がゼロになった事実を突き付けた後で、仕上げに毒を飲ませてやるつもりでした」
(表情も変えずに、恐ろしげなことを言う)
 サゲンは感心した。これほどの深い憎しみと怒りを抱えながら怪しまれずに生活を共にするのは、並大抵のことではなかっただろう。
「だから使用人やわたしが路頭に迷う心配はないわ。幸いにも」
 マルグレーテは安堵して口元を緩めたアルテミシアに目で笑いかけ、すぐに真顔に戻ってくるりとサゲンの方を向いた。
「これは罪に問われるかしら?バルカ将軍」
 勿論、答えは否だ。マルグレーテもそれを承知の上でわざわざ聞いている。指揮官であるサゲンの言質を取ることで、後々の保証にしておきたいのだろう。
「フッ、はは!」
 サゲンは堪えきれず、大きく口を開けて笑い出した。
 アルテミシアは顔をしかめて見せたが、唇は面白そうにひくひく動いている。
「失礼した。しかし…」
 サゲンは涙目になりながら、アルテミシアとマルグレーテを交互に見た。
「なんと、抜け目のないことだ。君たちはそっくりだな」
 母と娘は互いにオレンジ色に染まった顔を見合わせた。
 陽が、既に沈み始めていた。
感想 4

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